リベラル文庫(九条レオン)

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紙の時刻表をめくる楽しみは、乗換検索では何に置き換わったのか

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時刻表は、目的地へ行くためだけの本ではなかった

 かつて遠くへ出かけようとすると、まず机の上に分厚い時刻表を広げ、巻頭の路線図から目的地へ向かう線を探し、該当するページをめくりながら列車の時刻を指で追っていったが、その作業は、単に何時の列車に乗ればよいかを確認するためだけのものではなかった。東京から大阪へ行こうと思って東海道本線のページを開いたはずなのに、途中で名古屋から分岐する路線が目に入り、その先の聞き慣れない駅名が気になって別のページを開き、気がつけば本来の目的地とはまったく関係のない地方の列車を眺めているということが、紙の時刻表ではごく自然に起きていたのである。

 現在なら、スマートフォンに出発駅と到着駅を入力し、希望する時刻を指定すれば、数秒後には所要時間、運賃、乗換回数などが整理された経路が表示され、サービスによっては遅延や運休の情報まで反映されるため、実用性という点で紙の時刻表が現在の乗換検索に勝る場面はかなり限られている。それでも紙の時刻表を使った経験のある人が、ときどきあの頃の感覚を懐かしく思うのは、現在の検索が不便だからではなく、むしろ答えをあまりにも速く、そして目的に沿った形で提示するため、答えへたどり着く途中に存在していた寄り道や偶然や空想の時間が小さくなったからではないだろうか。

紙とデジタルの違いではなく、「一覧」と「検索」の違い

 ここで注意したいのは、紙の時刻表と乗換検索の違いを、そのまま「紙とデジタルの違い」と考えてしまうことである。現在では紙の時刻表そのものが電子化されており、逆にデジタルの画面でも路線図や時刻表を一覧表示することはできるため、本質的な違いは媒体ではなく、情報をどのように見せるかという構造にあると考えた方が正確である。

 乗換検索は、利用者が出発地、目的地、時間などの条件を入力し、その条件に合う情報を膨大な候補の中から絞り込む仕組みであり、必要な情報だけを短時間で取り出すことに優れている。一方、紙の時刻表は、多くの列車や駅や路線を一覧の中に並べて見せるため、目的とは直接関係のない情報まで同時に視界へ入りやすく、利用者は最初から必要な答えだけを見るのではなく、情報の中を自分で歩き回るように探索することになる。

 したがって、より正確に言えば、時刻表と乗換検索の違いは「紙と画面」の違いではなく、「一覧しながら探索する情報環境」と「条件を入力して答えを得る情報環境」の違いであり、この視点に立つと、なぜ紙の時刻表をめくることに独特の楽しさがあったのかが見えやすくなる。

不要な情報が、旅の入口になっていた

 乗換検索の優秀さは、利用者にとって不要な情報を取り除くところにあり、東京から名古屋へ行きたい人に北海道の列車を表示する必要はなく、仙台へ向かう路線も九州の特急も、その移動とは関係がない以上、画面から消えている方が分かりやすい。情報科学の立場から見れば、これは大量の候補から条件に合わないものを除外し、必要な情報だけを残すという極めて合理的な処理であり、日常の移動や仕事の出張では、この仕組みの方が明らかに便利である。

 ところが紙の時刻表では、この「不要な情報」を完全に消すことができず、目当ての列車の上下には別の列車が並び、同じページには降りる予定のない駅まで載り、少し視線をずらせば別の路線があり、その先のページにはまったく関係のない地方の時刻表が現れた。ところが、その本来なら不要であるはずの情報こそが、時刻表を読む楽しさのかなり大きな部分を占めており、知らない駅名を見つけて「ここには何があるのだろう」と思い、予定していなかった列車を見て「この列車に乗ったらどこまで行けるのだろう」と考え、本来の目的地とは異なる場所に心が動くことさえあったのである。

 情報探索の研究では、最初から答えが明確な検索だけでなく、情報を眺めながら関心そのものを変えていく探索的な行動が研究されており、予想していなかった有用な情報に偶然出会う現象は、セレンディピティと呼ばれている。紙の時刻表だけを対象にして、その効果が大規模に実証されているわけではないものの、一覧の中から目的外の情報まで目に入りやすい構造が、偶然の発見を起こしやすくしていたと考えることには、情報探索の理論から見ても一定の妥当性がある。

ページを追うことで、土地のつながりを意識していた

 紙の時刻表を眺めていると、列車の時刻とは別に、日本という国がどのようにつながっているのかが自然に見えてきた。東京から西へ向かう列車を追えば横浜、小田原、熱海、静岡、浜松、名古屋と駅名が続き、さらにその先には岐阜、米原、京都、大阪があり、その一つ一つの駅から別の線路が枝のように伸びているため、ページを追っているだけでも、都市と都市の間には多くの町があり、その町のそれぞれに人の生活があるという当たり前の事実を意識しやすかった。

 これに対して乗換検索では、東京から大阪までの移動が「2時間何分」という時間や、何回乗り換えるかという情報へ整理されるため、移動そのものは分かりやすくなる一方で、途中の土地がどのようにつながっているかを必ずしも意識する必要はない。もちろん、紙の時刻表を読むことで日本の距離感が正確になると直接証明されているわけではないが、紙地図とデジタル地図を比較した研究では、紙の方が周囲の位置関係や空間構造を把握しやすい場合があることが報告されており、時刻表についても、一覧の中で多くの駅や路線を同時に見ることが、土地の連続性を意識させる働きを持っていたと考えることは不自然ではない。

 したがって、「ページをめくることで日本の広さを身体で理解していた」という表現は、厳密な科学的事実というより、紙の一覧性が生み出していた感覚を説明する比喩として受け取るのが適切だろう。

最短経路と、面白い経路は同じではない

 乗換検索の仕組みを数理的に考えると、その特徴はさらに明確になる。検索システムは、膨大な経路の中から、所要時間、料金、乗換回数などの条件を使って候補を絞り込み、その条件に照らして優れた経路を提示していると考えることができるため、早く着きたい、安く行きたい、乗換を減らしたいという目的に対しては極めて合理的である。

 しかし旅行では、最も短時間で到着する経路が、必ずしも最も魅力的な経路とは限らない。1時間余計にかかっても海沿いを走る列車に乗りたいことがあり、乗換が増えても昔から気になっていた路線を通ってみたいことがあり、途中駅で時間が空くからこそ駅前を歩けることもあるため、旅行者が本当に評価しているものには、時間や料金だけではなく、景色、珍しさ、寄り道のしやすさ、思い出になりそうかどうかといった、数値化しにくい要素も含まれている。

 紙の時刻表では、速い列車の横に普通列車も載り、目的地へ直行しない列車も同じ紙面上に存在していたため、「こちらへ乗ったらどうなるだろう」と考える余地が自然に生まれ、その想像を続けながら乗換時刻を確かめていくと、いつの間にか自分だけの旅程が出来上がっていった。そこには少しパズルに似た楽しさがあり、ある列車から別の列車へ乗り継ぎ、途中で30分待てば次の列車に間に合い、さらにその先では夕方の列車へつながるという組み合わせを自分で見つけると、単に目的地へ行く方法が分かったという以上に、自分で旅を設計したという感覚が生まれたのである。

 もっとも、現在の乗換検索も1つの最短経路だけを示すわけではなく、時間、料金、乗換回数などで複数の候補を比較したり、経由地を指定したりすることができるため、「検索は最短経路しか示さない」と考えるのは正確ではない。ただし、検索システムが得意なのは、あくまであらかじめ設定された条件に対して候補を整理することであり、利用者自身がまだ意識していない「面白さ」まで完全に評価することは難しい。

時刻表でしていたことは、現在ではいくつものサービスに分かれている

 紙の時刻表が使われる機会が減ったからといって、旅を想像する楽しみそのものが消えたわけではなく、むしろ現在では、かつて1冊の時刻表の中にまとまっていた機能が、いくつものサービスへ分散したと考えた方が実態に近い。乗換検索は列車の組み合わせを探し、地図は土地の位置関係を見せ、航空写真や街路画像は駅前の景色を教え、動画は車窓を見せ、口コミは宿泊施設や飲食店について他人の経験を伝えてくれるため、出発前に得られる情報量だけを比べれば、現在の旅行者の方が圧倒的に多くの材料を持っている。

 かつて時刻表の小さな駅名を眺めながら「ここはどんな町だろう」と想像していた時間は、現在では地図の上を指でたどりながら「この道を歩いたら面白そうだ」と考える時間へ変わり、駅名しか分からなかった土地についても、海や山との位置関係、駅前の道路、周囲の店まで出発前に確認できるようになった。そう考えれば、旅の予習は以前より豊かになったとも言えるが、その一方で、分からないからこそ生まれていた想像の余地は小さくなり、現地へ行く前から駅前の景色も料理も宿の部屋も見ることができる便利さが、「行ってみるまで分からない」という旅独特の感覚を薄くしている面もある。

偶然は、ページから推薦アルゴリズムへ移った

 紙の時刻表に存在していた偶然の発見も、現在では別の形で残っている。SNS(Social Networking Service・インターネット上で人々が情報を共有し交流するサービス)や動画配信サービスを見ていると、自分では検索していなかった地方の駅やローカル線、温泉街や古い商店街が突然表示され、それをきっかけに、これまで名前さえ知らなかった土地へ興味を持つことがあるため、現代にも「思いがけず何かに出会う」という経験そのものは存在している。

 ただし、紙の時刻表と現在の推薦には重要な違いがあり、時刻表で目に入った情報は利用者の好みとは無関係にそこに並んでいたのに対し、現在の推薦システムは、過去の検索、閲覧、視聴、クリックなどを参考にして、その人が興味を持ちそうな情報を選ぶ場合が多い。鉄道に関心がある人には鉄道の情報が増え、温泉をよく見る人には温泉の情報が増えるため、自分の好きな分野については深く知ることができる一方で、まったく関心のなかった方向へ迷い込む機会が小さくなる可能性もある。

 もちろん、現在の推薦システムが必ず偶然性を減らすわけではなく、あえて少し意外な情報を混ぜることで新しい発見を生み出そうとする研究や設計も存在しているため、「推薦アルゴリズムは人間の世界を狭くする」と一方的に断定することはできない。それでも、紙の時刻表で起きていた偶然と現在の推薦による偶然では、その発生の仕方が異なっており、前者が利用者の好みとは無関係に並んだ情報から生じやすかったのに対し、後者は利用者の過去の行動を参考にして作られた「偶然らしい出会い」であることが多い。

「調べる楽しみ」は、「比較し、組み合わせる楽しみ」へ変わった

 その一方で、現在だからこそ強くなった旅の楽しみもあり、その代表が比較である。紙の時刻表では鉄道の中で経路を考えることが中心だったが、現在では鉄道だけでなく、飛行機、高速バス、自動車、フェリー、宿泊まで含めて旅全体を比較できるため、同じ目的地であっても、条件を少し変えるだけで旅行そのものの形を大きく変えることができる。

 東京から大阪へ行く場合でも、新幹線を使うのか、夜行バスで朝に到着するのか、途中の町で1泊するのか、飛行機を利用するのかによって旅の性格は異なり、現在では時間や費用を比較しながら、自分に合う組み合わせを簡単に考えられる。したがって、旅を計画する知的な面白さが失われたというより、昔は限られた情報の中から可能性を想像することが遊びだったのに対し、現在では大量の情報の中から、自分にとって面白い組み合わせを選び出すことが遊びになったと考える方が近い。

紙の時刻表は、消えたのではなく役割を変えた

 紙の時刻表が現在も刊行されていることを考えると、「時刻表の時代は終わった」と言い切るのも正確ではない。かつては日常の移動に必要な実用品として多くの人が使っていたが、現在では乗換検索がその役割の大部分を担うようになり、紙の時刻表は、業務用途に加えて、鉄道や旅行そのものを楽しむための資料という性格を強めている。

 つまり、紙の時刻表は消滅したというより、大衆的な実用品から、より趣味性や資料性の高い媒体へと役割を変えたのであり、その変化を考えると、時刻表をめくる楽しみが懐かしく感じられる理由も理解しやすい。かつては旅に必要だから時刻表を開き、その結果として偶然や寄り道が生まれていたのに対し、現在では効率よく移動するだけなら検索で十分であり、あえて時刻表を開く人は、その探索そのものを楽しもうとしていることが多いからである。

私たちが失ったのは、不便さではなく「余白」だった

 それでも紙の時刻表を懐かしく思う感覚が残るとすれば、その理由は情報量や検索速度だけではなく、旅を計画するときの時間の流れそのものにあるのだろう。時刻表を開き、ページを探し、列車を追い、乗換を確かめる作業には時間がかかったが、その時間は単なる不便ではなく、まだ見たことのない土地を想像し、どこで昼食を取ろうか、途中下車できないだろうか、この列車なら夕方の海が見えるだろうかと考える時間でもあった。

 現在の乗換検索では、出発地と目的地を入力すると短時間で候補が提示されるため、移動計画に必要な作業は大幅に減ったが、同時に、計画の途中で何となく別の路線を眺めたり、知らない駅名に引っかかったりする機会も減りやすい。旅行は駅へ向かう日から始まるのではなく、まだ見ぬ土地について考え始めた瞬間から始まっているとすれば、効率化によって失われたものの一部は、不便そのものではなく、答えにたどり着くまでの間に存在していた余白だったのかもしれない。

 だから紙の時刻表と乗換検索を比べるとき、昔の方が良かったという単純な懐古にする必要はない。現在の検索は圧倒的に便利であり、遅延や運休を含む現実の移動では、紙の時刻表だけに頼るより合理的である一方、情報を探す過程の楽しさという点では、一覧の中を自分で探索する時刻表が持っていた性質も確かに存在していた。

 そして現在では、かつて1冊の時刻表の中にまとまっていた「検索すること」「探索すること」「偶然に出会うこと」「まだ知らない土地を想像すること」が、乗換検索、地図、動画、口コミ、SNSなどへ分かれて存在している。したがって、紙の時刻表をめくる楽しみが何か1つのものへ完全に置き換わったというより、かつて1冊の中で連続していた旅の準備が、現在ではいくつものサービスへ分解されたと考える方が、実際の変化をよく表している。

 乗換検索によって、私たちは以前よりはるかに速く答えへたどり着けるようになったが、旅の面白さは、最適な答えの中だけに存在するわけではない。紙の時刻表をめくっていた人々が楽しんでいたのは、何時の列車に乗ればよいかという答えそのものだけではなく、その答えへ至る途中で知らない駅を見つけ、別の路線へ気持ちがそれ、まだ見たことのない土地へ想像が伸びていくという過程だったのであり、現在の私たちが同じ楽しみを求めるなら、便利になった検索を捨てる必要はないものの、ときには最適解から少し外れて、地図を眺め、知らない駅を調べ、目的のない寄り道を許すことが必要なのだろう。

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