リベラル文庫(九条レオン)

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百科事典のある家は、なぜほとんど見なくなったのか

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本棚に並んだ百科事典は、家庭の風景の一部だった

 昭和の家庭を写した古い写真を眺めていると、居間や応接間の本棚に、同じ装丁の分厚い本が何十冊も並んでいる光景に出会うことがあるが、それは特別な研究者や読書家の家に限ったものではなく、会社員や商店を営む家庭などにも見られた百科事典であり、現在ではほとんど目にすることがなくなったこの大きな本の集合体が、かつては家庭で知識を得るための重要な道具だった。

 もちろん、昭和のすべての家庭に百科事典が置かれていたわけではないが、百科事典が決して一部の富裕層だけの商品ではなかったことは販売実績からも分かり、平凡社が1961年に刊行した『国民百科事典』は「一家庭一百科」を掲げて販売され、当初の予想を大きく超えて4年間で約100万セットが売れたとされているため、少なくとも高度経済成長期の日本で、家庭向け百科事典という商品が大きな市場を持っていたことは確かである。

 それほど多くの家庭が百科事典を購入した背景には、単なる読書需要だけではなく、「子どもが何かを知りたくなったとき、自宅で調べられる環境を用意しておきたい」という教育への期待があり、本棚いっぱいに並んだ百科事典は、その家がどれほど頻繁に利用していたかとは別に、知識や教育を大切にしたいという家族の意識を目に見える形にした存在でもあったと考えることができる。

分からないことがあれば、本棚へ向かう時代だった

 インターネットが存在しなかった時代、テレビを見ていて知らない外国の名前が出てきたり、新聞に聞いたことのない歴史上の人物が登場したりしても、その場ですぐ詳しい説明を得る方法は限られており、図書館へ出かけるか、学校の先生や詳しい人に尋ねるか、あるいは家庭にある辞書や百科事典を開くしかなかったため、百科事典を家に置くことには、膨大な知識を所有するという以上に、「疑問を持った瞬間に、自宅の中で答えを探し始めることができる」という実用的な意味があった。

 子どもが「月はなぜ光っているのか」と尋ね、親も正確な答えを知らなかったとしても、一緒に百科事典を開いて「月」や「太陽」の項目を探すことができ、その途中で宇宙飛行や惑星、重力といった別の記事が目に入れば、本来調べようとしていた疑問から別の興味へ進んでいくこともあったため、百科事典は単に正解を取り出すための道具ではなく、ページをめくる途中で知らなかった世界へ入り込む装置でもあった。

 現在の検索では、自分が知りたい言葉を入力すれば、その言葉に関係する情報が瞬時に表示されるため、目的の答えへ到達するという点では圧倒的に効率がよいが、百科事典をめくる行為には、目的の記事へ向かう途中で別の項目が視界に入り、その寄り道から新しい関心が生まれるという独特の性質があり、効率という尺度だけでは測りにくい知識との付き合い方がそこには存在していた。

高価な本を買うことが「教育への投資」と考えられた

 百科事典は決して安価な商品ではなく、1961年に刊行された『国民百科事典』全7巻は1万円で販売されていたが、当時の平均的な給与水準と比較すると家計にとって決して軽い支出ではなかったため、それでも大量に売れたという事実は、百科事典が単なる本としてではなく、長期間使える教育用品として受け止められていたことを示している。

 その後に刊行された大型百科事典にはさらに高価なものもあり、何十巻にも及ぶ百科事典一式は、現在の感覚でいえば気軽に購入する本というより、家庭が一度決断して買う耐久消費財に近い存在であり、学習机やピアノなどと全く同じものだったとは言えないものの、「子どもの将来のために家に置いておく」という意味では、教育環境を整えるための支出という性格を持っていた。

 こうした高額商品を家庭に販売するため、訪問販売や分割払いも広く用いられ、百科事典の販売方法をめぐるトラブルが社会問題になったことから、1970年代には行政による対応も進められ、訪問販売や割賦販売に対する消費者保護制度が整備されていったため、百科事典は出版文化だけではなく、戦後日本の消費社会や消費者保護制度の歴史とも意外なところで結び付いている。

百科事典は、インターネットの登場と同時に消えたわけではない

 百科事典が家庭から姿を消した理由として最も分かりやすいのはインターネットの普及だが、実際の変化はもう少し段階的であり、紙の百科事典が突然インターネットに置き換えられたのではなく、その途中にはCD-ROM(読み出し専用光ディスク)などを使った電子百科事典の時代が存在していた。

 1990年代には、それまで何十冊もの本に収められていた百科事典が電子媒体に収録されるようになり、平凡社『世界大百科事典』などでもCD-ROM版が登場したことで、紙の百科事典を棚から取り出して索引を引く代わりに、パソコンから言葉を入力して検索するという新しい利用方法が生まれたが、この段階ではまだ百科事典そのものを購入し、自分の手元に置いて利用するという基本構造は残っていた。

 その後、日本では1990年代後半からインターネットが急速に家庭へ広がり、世帯のインターネット利用率は1997年にはまだ1割未満だったものが、2000年代初めには大幅に上昇していったため、家庭で何かを調べる行為そのものが、本棚や電子百科事典の中から情報を探す方式から、外部の巨大な情報空間へ接続して必要な情報を取り出す方式へ急速に変わっていった。

大きく変わったのは「知識を持つ」ことの意味だった

 紙の百科事典の時代には、家庭で必要になるかもしれない知識をあらかじめ本として購入し、家の中に保管しておくことに合理性があり、百科事典だけではなく、国語辞典、漢和辞典、英和辞典、地図帳、家庭医学事典、料理全集など、さまざまな情報を本という形で所有することが、ごく自然な生活習慣として成立していた。

 ところがインターネットが普及すると、知りたいことが生じた瞬間に外部の情報へ接続できるようになったため、「いつ使うか分からない情報をあらかじめ自宅に置いておく」という必要性が急速に低下し、これは音楽を聴くためにレコードやCDを何枚も所有していた時代から、配信サービスを通じて必要な曲へその都度アクセスする時代へ移った変化と似ている。

 この違いは単なる媒体の変化ではなく、知識の価値の置き場所そのものを変えたものであり、以前は「どれだけ多くの情報を自宅に持っているか」に意味があったのに対し、現在は「必要になった情報へどれだけ早く到達できるか」が重要になったため、何十冊もの百科事典を所有する価値は相対的に小さくなった。

紙に固定された知識は、更新速度の競争で不利になった

 百科事典には、もう一つ避けることのできない弱点があり、それは一度印刷されると内容を書き換えることができないことで、歴史上の出来事や数学、古典文学のように短期間では大きく変化しない分野では問題になりにくいものの、政治、企業、科学技術、医療、スポーツ記録、社会制度など、数年で状況が変わる分野では、刊行された瞬間から少しずつ情報が古くなり始める。

 紙の百科事典でも改訂版を刊行することはできたが、何十巻もの内容を編集し直して印刷し、再び販売するには長い時間と大きな費用が必要だったのに対し、デジタル化された百科事典では内容を継続的に修正することが可能になり、現在のオンライン百科事典には定期的に項目が更新されるものもあるため、百科事典そのものが完全に消滅したというより、「一度完成した本を長期間使うもの」から「継続的に更新される情報サービス」へ姿を変えたと考えたほうが実態に近い。

 さらに一般のウェブ検索では、その日に起きた出来事についても短時間で情報を得られるようになったため、最新情報を必要とする場面では紙の百科事典が対抗することは難しくなり、この更新速度の差が、家庭に大型百科事典を置く必要性を大きく低下させたことは、百科事典衰退の中でも比較的はっきりした要因だと考えられる。

「家が狭くなったから百科事典が消えた」とは言えない

 大型百科事典が場所を取ることも、現在の家庭で敬遠される理由としてよく挙げられるが、ここには注意が必要であり、日本の住宅全体を統計的に見ると、1住宅当たりの延べ面積は1970年代以降、長期的にはむしろ増えているため、「昔より住宅が狭くなったので百科事典を置けなくなった」と単純に説明することはできない。

 ただし、一戸建てと都市部の共同住宅では事情が大きく異なり、限られた収納空間の中で何十冊もの百科事典を置くには相当な場所が必要になるうえ、デジタル情報ならほとんど物理的な空間を使わずに膨大な情報を利用できるため、問題は住宅が全国的に狭くなったかどうかではなく、「同じ収納空間を使うなら、年に数回しか開かない可能性のある百科事典に大きな場所を割く必要があるのか」という相対的な価値の変化にあったと考えたほうが合理的である。

 さらに、大型百科事典は重量もあり、引っ越しの際には運搬の負担になり、情報が古くなってから古書として売ろうとしても購入時のような価値が残っているとは限らないため、購入した当時には「長く使える知識の財産」と考えられたものが、何十年か後には処分しにくい大量の本になってしまう場合もあり、このような物理的な負担とデジタル情報の利便性との差も、百科事典を新たに購入する動機を弱くしたと考えられる。

教育も、情報を「探す」だけでは足りない時代になった

 学校教育の変化も、百科事典をめぐる環境の変化と深く関係しており、以前の調べ学習では図書館や百科事典から必要な項目を見つけ、その内容を整理することが中心だったのに対し、現在では検索によって膨大な情報を得られるようになったため、複数の資料を比較し、誰が発信した情報なのか、いつ作成されたものなのか、根拠が示されているのかを確認しながら、情報の信頼性そのものを評価する能力が重要になっている。

 これは百科事典が衰退した直接の原因というより、情報環境が変化したことによって教育も変化したと考えるほうが自然であり、出版社や編集者が内容を整理した百科事典を読む時代には、読者はある程度整理された情報を受け取ることができたが、インターネットでは政府機関や大学、専門家による資料と、個人の意見、広告、誤った情報などが同じ画面に現れることもあるため、情報を見つける能力以上に、その情報を選別する能力が求められるようになった。

 したがって、検索が便利になったから学ぶことが簡単になったとは必ずしも言えず、答えに到達する速度は速くなった一方で、その答えを信用してよいのかを自分で判断する責任は以前より大きくなったと見ることもできる。

百科事典のページをめくる「寄り道」は、本当に失われたのか

 紙の百科事典を懐かしむとき、よく語られるのが、目的の項目を探している途中で全く別の知識に出会う楽しさであり、たとえば恐竜について調べようとした子どもが、近くに載っていた古代文明の写真に興味を持ち、そこからエジプトやメソポタミアの歴史を読み始めるというような経験は、百科事典を順番にめくる構造だからこそ起こりやすいものであった。

 情報科学では、このように探していなかった有益な情報へ偶然出会うことは、セレンディピティ、つまり偶然から生まれる有益な発見の一つとして研究されているが、この現象は紙の本だけに存在するわけではなく、インターネットでも検索結果の関連項目、リンク、動画の推薦、オンライン図書館などから予想外の情報に出会うことがあるため、「紙の百科事典では偶然の発見があり、インターネットでは失われた」と単純に結論付けることはできない。

 それでも両者には性質の違いがあり、百科事典では隣り合うページという物理的な配置によって、自分の過去の関心とは無関係な情報が突然視界に入ることがあるのに対し、現在のデジタルサービスでは利用者の検索履歴や閲覧傾向に近い情報が提示される場合も多いため、偶然の発見そのものが消えたのではなく、その仕組みが変化したと考えるほうが適切なのだろう。

百科事典が消えたのではなく、百科事典という形が消えた

 ここまで考えてくると、家庭から百科事典が消えたという現象を、「人々が知識を求めなくなった」と解釈するのは明らかに間違っており、実際には私たちが日常的に接している情報量は百科事典全盛期とは比較にならないほど増え、かつてなら図書館まで行かなければ確認できなかったことを、現在では自宅や外出先から数秒で調べられるようになっている。

 つまり、失われたのは百科事典が担っていた機能そのものではなく、その機能を何十冊もの本として家庭の中に置いておくという形式であり、1960年代には「一家庭一百科」という言葉が成立したほど価値のあった知識の所有が、電子百科事典を経て、インターネット上の検索やオンライン情報サービスへ移動した結果として、本棚に並ぶ百科事典は役割を終えていった。

 その変化は技術の進歩として見れば合理的であり、検索速度、情報量、更新性、収納効率のどれを比べてもデジタル情報は非常に優れているが、その一方で、かつては子どもが疑問を持つと本棚へ歩いて行き、重い1冊を引き抜き、家族の目の前でページをめくりながら答えを探すという、知識を得る行為そのものが家庭の中で目に見える光景として存在していた。

消えたのは、知識が置かれていた「風景」なのかもしれない

 現在では、誰かがスマートフォンを見ていても、その人が歴史について調べているのか、地図を確認しているのか、買い物をしているのか、あるいは動画を見ているのかは外からほとんど分からないが、百科事典が本棚に並んでいた時代には、「この棚の中には、自分たちがまだ知らないことが入っている」という事実が家族の目に見える形で存在していた。

 情報量だけを比較すれば、現在のほうが圧倒的に豊かであり、数十巻の百科事典では到底収録できなかった膨大な知識にいつでも接続できるため、百科事典がなくなったことを単純に文化の衰退として語ることはできないが、それでも昔の百科事典を懐かしく感じる人がいるのは、紙の手触りや豪華な装丁だけではなく、「分からないことがあれば調べてみる」という家庭の姿勢が、本棚いっぱいの背表紙となって目に見えていたからなのかもしれない。

 百科事典の歴史を振り返ると、そこには高度経済成長期の教育熱、訪問販売を中心とした消費社会、電子化の始まり、インターネットの急速な普及、そして情報を所有する社会から必要なときにアクセスする社会への移行が重なっており、そう考えると、百科事典のある家をほとんど見なくなったという身近な変化は、単に1種類の本が売れなくなったという話ではなく、日本の家庭が「知る」という行為をどのように変えてきたのかを映し出す、小さな社会史として見ることができる。

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