リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

なぜ旅館の部屋に入ると、まず窓の外を見たくなるのか

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 旅館の部屋に案内されると、まだ荷物もきちんと置いていないのに、なぜか窓の方が気になることがある。仲居さんが浴衣や風呂の場所を説明しているあいだにも視線は障子の向こうへ向かい、説明が終わるころには自然に窓際へ歩いていて、そこで障子やカーテンを開け、海が見えれば思わず立ち止まり、山や川ならその稜線や流れを眺め、向かいの建物しか見えなければ少し残念に思いながらも、とにかく一度は外を確かめてしまう。

 もちろん、誰もが旅館の部屋に入ると最初に窓を見るわけではないし、そのような行動が宿泊者の何%に見られるのかを示す一般的な統計があるわけでもない。それでも、旅先の部屋に入ったとき、窓の向こうに何があるのか妙に気になった経験を持つ人はいるだろうし、予約するときに部屋の写真を見て、海側なのか山側なのかまで知っていたとしても、実際にその部屋へ入れば自分の目でもう一度確かめたくなることがある。

 だとすれば、私たちは窓の向こうに何を見ようとしているのだろう。

窓を開けると、ようやく自分のいる場所が分かる

 自宅へ帰って自分の部屋に入るたびに、窓へ直行して外を確認する人はそれほど多くないだろう。窓の向こうに何があり、道路がどちらに延び、隣の家がどこにあるのかをすでに知っているため、外を見なくても自分がどこにいるのか分かっているからである。

 ところが旅館では事情が違い、玄関から廊下を歩き、階段やエレベーターで階を移動し、ときには何度か角を曲がって客室まで案内されるため、部屋に着いたころには自分が建物のどちら側にいるのか分からなくなっていることもある。海辺の宿へ来たことは知っていても海がどちら側なのか分からず、山の温泉宿なら谷や山との位置関係も曖昧なままだが、障子を開けた瞬間に海や山が現れると、それまで廊下と階段によって分断されていた自分と土地との関係が、一気につながったように感じられる。

 旅館へ着いたのは玄関を入ったときだったはずなのに、窓から海を見て初めて「海まで来た」と感じることがあるのは、このためなのかもしれない。

ここからは科学で考えてみる

 この感覚のすべてを科学によって説明することはできないが、その一部については環境心理学や観光研究から考えることができる。人が特定の場所を単なる物理的な空間としてではなく、自分にとって意味のある場所として認識する過程は研究対象となっており、周囲の環境を知覚し、そこで実際に経験を重ねることが、その場所に対する評価や感情、場所との心理的な結びつきに関係することが報告されている。

 ここで重要なのは、研究から「人間は現在地を確認するために旅館の窓を見る」と直接証明されているわけではないことである。旅館への入室直後の行動を大量に観察し、窓を見る人、荷物を置く人、座る人、スマートフォンを見る人などに分類した統計が十分に蓄積されているわけではない以上、「旅館に入れば人はまず窓を見る」という命題そのものを科学的事実として扱うことはできない。

 それでも、知らない環境の中で周囲を知覚することが場所の認識に関係するという研究知見から考えれば、窓から外を見ることによって建物内部の自分と外部の土地との関係が分かり、「自分はいまここにいる」という感覚が生まれるという説明には、少なくとも理論的な整合性がある。

写真で見る海と、窓から見る海は同じなのか

 もう一つ、研究から考えることのできる問題がある。現在では旅館を予約する前に客室の写真を見ることができ、海側の部屋なら窓からどのような海が見えるのかまで確認できることが多いのだから、情報を得ることだけが目的なら、到着してから改めて窓へ行く必要はないはずである。

 ところが、旅行前に画面で見た海と、数時間かけて移動した末に自分の泊まる部屋から見る海とは、同じ対象であっても経験としては同じではない。観光研究では、旅行前に得た情報だけでなく、旅行中に実際の環境から受ける刺激や知覚、そこで生じる感情や経験が、その場所に対する評価や心理的な結びつきと関係することが研究されており、この点から考えれば、写真によって場所を「知っている」ことと、実際にその場所へ行って「経験する」ことを区別することには合理性がある。

 旅行前に画面で見ていた海は、まだ自分から切り離された観光地の情報だったが、窓を開けた瞬間、その海は「今夜、自分が泊まる部屋から見えている海」に変わる。科学的に言えるのは実際の環境における経験が場所の認識や評価と関係するところまでだが、その先にある「写真だった海が自分の旅の海になる」という感覚は、研究結果というより、そこから私たち自身の経験について考えるための言葉である。

窓の景色には、実際に価値がある

 窓から何が見えるかという問題については、もう少し数字に近い研究もあり、ホテルを対象とした海外の価格研究では、眺望のある客室がそうでない客室より高い料金で販売される傾向や、海などの景観が客室価格に影響することが統計的に分析されている。地域や宿泊客の属性などによる違いがあるため、どの宿でも同じ割合だけ価格が上昇すると考えることはできないが、人が「窓から何が見えるか」に経済的価値を認めていること自体には実証的な裏付けがある。

 また、環境心理学では窓から見える自然、緑、空などの景観と心理的な回復感との関係が研究されており、自然環境については、強い意志で集中し続けなくても自然に注意を引きつけられることが、日常生活で消耗した注意を休ませる可能性を説明する注意回復理論も知られている。したがって、旅館の窓から海や山をぼんやり眺めている時間が心地よいという感覚については、少なくとも自然景観を見る場合、その一部を心理学の知見から説明することができる。

 ただし、眺望のある客室に高い料金がつくことと、部屋に入った人が真っ先に窓へ向かうことは別の問題であり、前者について統計的な証拠があるからといって、後者まで証明されたことにはならない。科学から言えるのは、外部環境の知覚が場所の認識と関係すること、実際に場所を経験することに意味があること、そして一定の景観には心理的、経済的な価値が認められることまでである。

科学が説明できるのは、ここまでである

 ここまで考えると、旅館の窓が気になる理由の一部は科学によって説明できそうである。しかし、「なぜ夜になると同じ窓をもう一度見たくなるのか」「なぜ翌朝の海は昨日と少し違って見えるのか」「なぜ知らない町の灯りを眺めていると遠くまで来たような気持ちになるのか」というところまで進むと、統計や心理学だけで答えを決める必要はないようにも思えてくる。

 科学が扱えるのは、多くの人から得られたデータの中に一定の傾向があるか、ある条件と別の条件との間にどのような関係があるかという問題であり、ある夜、ある旅館の窓辺に座った一人の人間が何を感じるかまで平均値にする必要はない。ここから先は、科学によって正しさを証明する話ではなく、旅をしているときの人間が窓の向こうに何を見つけるのかという話になる。

旅館の部屋で最もその土地らしいものは、部屋の外にある

 旅館の客室には、その宿らしさを感じさせるものがいくつも置かれているが、畳も座卓も浴衣も茶菓子も、形は違っても別の宿で見ることができる。それに対して、窓の向こうに広がる町や海や山はその場所にしかなく、同じ旅館でさえ隣の部屋へ移れば海岸線の角度が少し変わり、1階下へ行けば手前の屋根が視界に入り、反対側の部屋ならまったく別の町並みが見えるかもしれない。

 そう考えると、旅館の部屋で最もその土地らしいものが、実は部屋の中ではなく部屋の外にあるという少し不思議なことに気づく。案内された直後の客室は、座布団が揃い、浴衣が畳まれ、茶菓子にも手がつけられていないため、そこへ泊まるのが自分でなくても成立する空間だが、荷物を置き、窓を開けて「この部屋からはこう見えるのか」と知ったころから、番号でしかなかった客室に位置が生まれ、少なくとも今夜だけは自分がここから外を見るのだという感覚が生まれてくる。

なぜ旅館の窓辺の椅子に座りたくなるのだろう

 昔ながらの旅館には、畳の部屋の奥に広縁があり、窓際に小さなテーブルと2脚の椅子が置かれていることがあるが、座卓も座布団もあるのだから、宿泊するという機能だけを考えれば、あの空間がなくても大きく困ることはない。それなのに風呂から戻ると、なぜかあの椅子に座りたくなり、お茶や飲み物を置いて外を眺めていると、畳の中央に座っているときよりも旅行に来ていることを強く感じることがある。

 広縁は室内でありながら、気持ちだけを外へ連れ出す場所なのかもしれない。観光地を歩いているときのように外の世界へ参加しているわけではなく、布団に横になって完全に外から離れているわけでもなく、町や海や山は目の前で動いているのに、自分だけはそこから少し離れた場所にいる。その微妙な距離が心地よいからこそ、旅館の窓辺は単なる客室の端ではなく、旅を眺めるための席になる。

夜になると、知らない町が現れる

 到着したときに一度見たはずの窓を、夜になるともう一度見たくなることがある。昼には海岸や町並みが広がっていた窓の向こうから細かな形が消え、遠くの漁火や街灯だけが暗闇に浮かび、山の宿なら昼間にはすぐ近くに見えていた斜面まで闇の中へ溶けてしまうため、同じ場所を見ているはずなのに、昼とはまったく違う土地へ来たように感じる。

 知らない町の灯りを眺めていると、その一つ一つの下では、自分とは関係のない普通の夜が続いている。夕食を終えた家があり、風呂に入っている人がいて、明日の仕事を考えている人もいるだろうが、こちらはその町の日常には参加せず、数日だけやって来た旅行者として窓のこちら側から眺めている。

 すると不思議なことに、自分が普段暮らしている町もまた、どこかの旅行者から見れば同じような「知らない町」なのだと思えてくる。毎日歩いている道路も、いつものコンビニも、自宅の窓から見える灯りも、自分にとっては日常の一部にすぎないが、そこを初めて訪れた誰かにとっては旅先の風景になる。

 旅に出るということは、珍しい景色を見ることだけではなく、自分の日常を一度、知らない人の側から眺め直すことなのかもしれない。

翌朝、同じ窓をもう一度開ける

 朝になって目を覚ますと、昨日すでに何度も見た窓をもう一度開けたくなることがあり、そこに海があることも山があることも知っているのに、カーテンを開けて朝の光の中に同じ景色を見つけると、なぜか少し安心する。

 しかし、昨日とまったく同じ景色ではない。到着したときには「ここまで来た」と思いながら見ていた海を、帰る朝には「もうすぐここを離れる」と思いながら眺めることになり、海岸線も山の形も変わっていないのに、それを見る自分の時間だけが変わっているため、昨日は旅の始まりだった窓が、今度は旅の終わりを知らせる窓になる。

 旅館を出れば、やがてその景色も見えなくなる。駅へ向かい、車を走らせ、いつもの町へ戻れば、窓の向こうには再び見慣れた風景が現れ、旅館の部屋から見ていた海や山は、自分の生活から切り離された記憶になっていく。

私たちは窓の外に、日常との距離を見ているのかもしれない

 旅館の部屋へ入ったときに窓の向こうが気になる理由について、科学から考えれば、場所の認識、実際の環境を経験することの意味、景観が心理に及ぼす影響など、いくつかの説明を与えることができる。しかし、それらをすべて積み重ねても、ある旅館の窓から海を見たときに感じるものを完全に言葉にできるわけではない。

 海ならもちろんうれしいし、雪山なら長く眺めていたくなるが、古い商店街でも、駅のホームでも、駐車場でも、知らない家々の屋根でも、それがいつもの窓からは見えない景色であるというだけで、自宅や仕事場から離れた場所まで来たことを感じることがある。距離なら地図を見れば何km離れているのか正確に分かるが、人間が感じる「遠くまで来た」という感覚は、数字だけでは決まらない。

 だから旅館の部屋に入り、荷物もほどかないうちに窓へ歩いてしまうことがあるのは、単に美しい景色を探しているからではなく、窓の向こうにある見慣れない世界と自分との距離を確かめようとしているからなのかもしれない。旅行前には画面の中にあった海が窓の向こうに現れ、地図の上にあった町で実際に夜が始まり、翌朝には同じ場所に朝が来るのを見たとき、移動してきた距離は初めて数字ではなく自分の経験になる。

 旅館の窓から見えているのは海や山や町だけではなく、その景色の向こうには、今ここにはない自分の日常がある。いつもの生活からどれほど離れたところまで来たのかを目で確かめ、しばらくその距離の中に身を置き、翌朝になれば再び日常へ戻っていくからこそ、旅館の窓は単なる建物の開口部ではなく、日常と旅との境界になるのだろう。

 そして障子やカーテンを開けた向こうに、昨日までの生活にはなかった景色が現れたとき、地図の上ではすでに到着していたはずの旅先へ、私たちはようやく気持ちの上でも到着するのである。

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