リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化

1980年代の若者文化を振り返ろうとすると、音楽なら松田聖子やサザンオールスターズ、YMO(Yellow Magic Orchestra・日本のテクノポップを代表する音楽グループ)、自動車ならソアラやプレリュード、ファッションならDCブランド(Designer and Character Brands・デザイナーやブランドの個性を前面に出したファッションブランド群)といった名前が次々に出てくる。

しかし、その時代を実際に生きた若者が、何を格好いいと思い、どんな服を着て、どんな店へ行き、どんな音楽を聴き、異性とどう付き合えばいいと考えていたのかを知ろうとすると、個々の商品や流行だけを並べても十分ではない。

そこには、若者に向かって「いまはこれが格好いい」「こういうものを知っている男になったほうがいい」と教える媒体が存在していた。

その一つが、講談社の『Hot-Dog PRESS』だった。

『Hot-Dog PRESS』は1979年に創刊された若年男性向けの情報誌である。ファッション、音楽、商品、遊び、恋愛など、若い男性の生活に関わるさまざまなテーマを扱い、1980年代から1990年代にかけて大きな存在感を持った。とりわけ後年まで語られるのが、「デート・マニュアル」としての側面である。

だが、『Hot-Dog PRESS』を単なる恋愛指南雑誌として片づけてしまうと、この雑誌が1980年代の若者文化に果たした役割のかなりの部分を見失う。

この雑誌が若者に教えていたのは、女の子との付き合い方だけではなかった。

むしろ重要だったのは、若い男性に対して「青年としての生活様式」そのものを提示したことである。

若者が自分で情報を探さなければならなかった時代

現在なら、服を買おうと思えばインターネットで検索できる。レストランを探すことも、映画の評判を調べることも、知らないブランドについて調べることも難しくない。

SNS(Social Networking Service・インターネット上で情報を発信し交流するサービス)を開けば、他人が何を着て、何を食べ、どこへ出かけているのかまで大量に流れてくる。

1980年代には、そのような情報環境は存在しなかった。

もちろんテレビも新聞もラジオもあった。しかし、それらは若者一人ひとりに向かって、「今度のデートではどこへ行けばいいのか」「どんな服を着ればいいのか」「どんな時計を持つと格好いいのか」まで教えてくれる媒体ではない。

そこで大きな役割を果たしたのが雑誌だった。

『POPEYE』『MEN'S CLUB』『平凡パンチ』『週刊プレイボーイ』など、それぞれ性格の異なる雑誌が若者に情報を届けていた。そのなかで『Hot-Dog PRESS』は、商品情報とファッションと恋愛と遊びを比較的近い場所に置いた。

ここが重要だったと思う。

服は服、音楽は音楽、自動車は自動車、恋愛は恋愛というように、それぞれを独立した趣味として扱うのではない。それらを一つに組み合わせて、「こういう生活をする若者が格好いい」というモデルを作ったのである。

つまり雑誌を一冊読むことによって、自分がまだ知らない世界の輪郭を見ることができた。

その意味で雑誌は情報源であると同時に、若者にとって一種の教科書でもあった。

『Hot-Dog PRESS』は「青年になる方法」を教えていた

少年から青年へ移るとき、人は急に大人になるわけではない。

高校生や大学生になったからといって、どんな服を選べばいいのかが突然分かるわけでもなければ、女性との付き合い方が分かるわけでもない。レストランの選び方も、自動車の知識も、時計やオーディオや酒についての知識も、最初から持っているわけではない。

家庭や学校が教えてくれる範囲にも限界がある。

学校は数学や国語を教えてくれるが、デートでどこへ行けばよいのかまでは教えてくれない。

親から受け継ぐ生活文化もあるが、1980年代の若者が求めた新しいファッションや音楽や都市文化について、親世代が必ずしも詳しかったわけではない。

その空白を雑誌が埋めた。

『Hot-Dog PRESS』を読むという行為には、単に新商品を知ること以上の意味があったのではないか。

そこには「大人になる前の予習」という側面があった。

何を着るのか。

何を持つのか。

どこへ行くのか。

何を聴くのか。

そして女性とどう付き合うのか。

現在から見ると奇妙に思えるほど、1980年代にはこうした事柄を雑誌から学ぶ文化が成立していた。

「モノを知っていること」が青年の教養だった

1980年代の青年文化を考えるうえで、もう一つ見逃せないものがある。

それは商品について知っていることそのものが、一種の教養になっていたことである。

時計、スニーカー、ジーンズ、ジャケット、オーディオ、自動車、バイク、カメラ。

ブランドや型番を知り、違いを説明できることには、それなりの意味があった。

現在から見ると単なる消費文化のようにも見える。

実際、批判的に考えれば、『Hot-Dog PRESS』を含む若者雑誌が消費を刺激する役割を果たしていたことは否定できない。格好いい若者になるためには、この服、この時計、この店、この自動車が必要だというメッセージは、企業の商品販売とも極めて相性がよかった。

しかし、そこだけで評価すると1980年代の青年文化を単純化しすぎる。

雑誌を読んだからといって、紹介された商品をすべて買えるわけではなかった。

むしろ、多くの若者にとって雑誌に載っている商品は「見るもの」でもあった。

高校生ならなおさらである。

高価な時計や自動車を購入できるわけではない。それでも写真を眺め、メーカー名を覚え、いつか欲しいと思う。その過程で、自分なりの好みが形成されていく。

消費とは、必ずしも購入だけではない。

何を欲しいと思うかもまた文化なのである。

『Hot-Dog PRESS』は、その「欲しいと思うもの」の体系を作る雑誌でもあった。

ファッションは服ではなく、自己紹介だった

1980年代の若者向け雑誌にとって、ファッションは重要なテーマだった。

しかし、そこで扱われていたファッションは単に防寒のための衣服ではない。

どんな服を選ぶかによって、その人がどんな人物なのかを表現する。

現在ならごく普通の考え方に見えるが、若者が自分自身のアイデンティティーを商品やブランドによって表現する文化が急速に広がった時代として1980年代を見ると、その意味はかなり大きい。

雑誌は商品を紹介しながら、同時に人物像を提示する。

この服を着る男。

この靴を履く男。

この音楽を聴く男。

この自動車に乗る男。

そこから、一つの青年像が作られていく。

そして読者は、それをそのまま真似する場合もあれば、自分には合わないと思う場合もあっただろう。

重要なのは、比較する対象が与えられたことである。

人は何もないところから自分のスタイルを作ることは難しい。

誰かが示した型を見て、それを真似したり、少し変えたり、ときには拒否したりしながら、自分の好みを作っていく。

雑誌は、そのための巨大な見本帳だった。

デートまで「方法」が必要になった

『Hot-Dog PRESS』について現在まで最も強く記憶されているのは、やはり恋愛やデートを扱った記事だろう。同誌が若者の「デート・マニュアル」として一時代を築いたことは、後年の紹介でも繰り返し言及されている。

なぜ恋愛にマニュアルが必要だったのだろう。

考えてみれば不思議である。

好きな人がいれば話しかければよい。二人で行きたい場所へ行けばよい。それだけなら、雑誌が教える必要はない。

しかし1980年代になると、デートは単に男女が会う行為ではなくなっていた。

どこで待ち合わせるのか。

どんな店へ行くのか。

何を着ていくのか。

どのように誘うのか。

どんな話題を選ぶのか。

都市化と消費社会の発達によって選択肢が増えた結果、逆に「正解が分からない」という状況が生まれた。

選択肢が少なければ、人はそれほど迷わない。

選択肢が増えると、選ぶための情報が必要になる。

『Hot-Dog PRESS』が支持された背景には、この構造があったのではないかと思う。

携帯電話のなかったデート

ここには現在との決定的な違いもある。

携帯電話もスマートフォンも普及していない時代のデートでは、待ち合わせそのものが現在より重い意味を持った。

約束した場所へ決められた時間に行かなければならない。

相手が遅れても、外出してしまえば簡単には連絡できない。

現在のように「10分遅れます」とメッセージを送ることもできない。

後年、『Hot-Dog PRESS』のデート文化を振り返る記事でも、こうした携帯電話以前の待ち合わせ事情が紹介されている。

この違いは単なる技術の差ではない。

人間関係の作り方そのものが違っていた。

相手の行動がリアルタイムで見えない。

既読もない。

位置情報もない。

だから雑誌が提供する「どう振る舞えばいいのか」という情報には、現在とは違う切実さがあった。

都市を知らない若者に、都市を教えた

もう一つ、『Hot-Dog PRESS』のような雑誌の重要な役割として考えたいのが、東京を中心とする都市文化を全国へ運んだことである。

これは1980年代の雑誌文化全体にいえることでもある。

地方に住んでいても雑誌は買える。

東京の店へすぐ行くことはできなくても、その店が存在することは知ることができる。

原宿、渋谷、青山、六本木といった地名が、単なる地理上の名称ではなく、ファッションや音楽や遊びと結びついた文化的記号になっていく。

これは、片岡義男の小説を通して昭和の若者が「アメリカ」を想像したことと、どこか似ている。

実際のアメリカへ行かなくても、小説、映画、音楽、雑誌を通してアメリカを想像できる。

同じように地方の若者は、東京に住んでいなくても雑誌を通して東京を想像することができた。

その東京が現実の東京と完全に一致していたかどうかは、それほど重要ではない。

重要なのは、雑誌のなかに「行ってみたい世界」が存在していたことである。

北方謙三という、もう一つの顔

『Hot-Dog PRESS』の文化を考えるとき、商品やデートだけでは語れない人物がいる。

作家の北方謙三である。

北方は1980年代から長期間にわたり『Hot-Dog PRESS』で若者の人生相談を担当した。後年、新潮社も北方の若者へのメッセージを語る際、この連載を代表的な仕事の一つとして振り返っている。

ここにも、この雑誌の性格がよく表れている。

若者が知りたかったのは服や自動車だけではなかった。

恋愛、仕事、将来、自信のなさ、人間関係。

青年期には、いくらでも悩みが生まれる。

その相談に対して作家が答える。

雑誌は商品カタログであると同時に、人生について考える場所でもあった。

もちろん、そこで示される男性像には明らかに時代性がある。

強い男、決断する男、女性をリードする男。

現在の価値観から見れば違和感を持つ部分もあるだろう。

しかし、それも含めて1980年代なのである。

文化を振り返るということは、現在の価値観に合う部分だけを選んで懐かしむことではない。

当時どのような男性像が支持されていたのかを見ることも、時代を理解するためには必要だ。

『Hot-Dog PRESS』は本当に若者文化を「作った」のか

ここまで書いてくると、一つ疑問が生じる。

本当に『Hot-Dog PRESS』が若者文化を作ったのだろうか。

雑誌が若者に命令し、その通りに若者が行動していたという説明なら単純すぎる。

若者文化は雑誌だけから生まれたものではない。

テレビ、ラジオ、映画、レコード、ファッションブランド、自動車メーカー、百貨店、広告、大学、繁華街、ディスコなど、無数の要素が相互に影響していた。

雑誌はその一部である。

しかし、雑誌にはそれらを一つの誌面に集める力があった。

音楽を聴き、自動車に乗り、服を選び、女性とデートする。

本来別々だった行為を一つのライフスタイルとして編集する。

ここに雑誌の大きな力があった。

だから「作った」という言葉を、何もないところから文化を発明したという意味で使うのは適切ではない。

むしろ社会のなかに生まれていたさまざまな欲望や流行を集め、それを「これが現在の若者だ」という形に編集し、再び若者へ返した。

その循環によって文化を強めた。

それが『Hot-Dog PRESS』の役割だったのではないかと思う。

情報が少なかったから、雑誌の影響力が大きかった

現在は情報が多すぎる時代である。

検索すれば何万件もの情報が出てくる。

動画を見れば誰かが商品を紹介している。

SNSを開けば無数のファッションを見ることができる。

その代わり、一つの媒体が若者全体の価値観に強い影響を与えることは難しくなった。

1980年代は逆だった。

情報源が現在より限られていたため、一冊の雑誌が持つ影響力は大きかった。

本屋へ行き、雑誌を買い、最初のページから最後のページまでめくる。

興味のない記事まで目に入る。

これはインターネット検索との大きな違いである。

検索では、自分が知りたい情報を探す。

雑誌では、自分が知ろうとも思っていなかった情報に出会う。

ファッションの記事を読むつもりだったのに自動車の記事を読み、音楽の記事を読み、作家の文章を読む。

その偶然性が、一人の若者の興味を広げていく。

雑誌文化には、そのような力があった。

1980年代を美化する必要はない

だからといって、雑誌の時代が現在より優れていたと結論づける必要はない。

情報を得る方法についていえば、現在のほうが圧倒的に便利である。

地方に住んでいても海外の情報を直接調べることができる。商品価格を比較し、利用者の評価を読み、自分に合ったものを選択できる。

1980年代の雑誌が示した価値観には、商業主義もあった。

高価な商品を持つことが格好よさと結びつきやすく、男性と女性の役割にも固定的な考え方が残っていた。

誰もが雑誌の提示する青年像に当てはまったわけでもない。

そこを忘れて1980年代を「良い時代だった」とだけ語れば、単なる懐古趣味になってしまう。

それでも『Hot-Dog PRESS』を振り返る意味があるとすれば、そこには現在とは違う「青年になる仕組み」が見えるからである。

一冊の雑誌のなかに、青年の世界があった

1979年に創刊された『Hot-Dog PRESS』は、2004年にいったん休刊した。その後2014年にデジタル媒体として復活したとき、想定された読者の中心は、かつて若者として雑誌を読んでいた世代だった。

この事実は象徴的である。

若者のための雑誌だったものが、年月を経て、その若者たち自身の過去を呼び戻す媒体になった。

雑誌のページに載っていた服の多くはもう流行ではない。

紹介された店も、自動車も、オーディオも変わった。

デートの方法も変わった。

待ち合わせ場所で相手を30分待つような経験さえ、スマートフォンの時代には少なくなった。

それでも雑誌を開いた経験が消えるわけではない。

なぜなら、そこに載っていたのは商品だけではなかったからだ。

「大人になったらこんな生活をしてみたい」

「こんな服を着てみたい」

「こんな場所へ行ってみたい」

という、まだ経験していない未来が載っていた。

若者向け雑誌とは、未来の生活を先に見るための媒体でもあったのである。

『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化とは、特定のファッションやデート方法だけではない。

情報を集め、モノを選び、都市に憧れ、異性との関係に悩みながら、自分がどんな大人になりたいのかを考える文化だった。

一冊の雑誌のなかに、青年になるための世界がほとんど丸ごと入っていた。

いま同じ役割を一冊の雑誌に求めることは、おそらく難しい。

だからこそ『Hot-Dog PRESS』を振り返ることは、一つの雑誌を懐かしむだけではなく、若者が雑誌によって自分の未来を想像することのできた時代そのものを振り返ることになるのだと思う。

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太宰や三島とは違う場所から、高校生だった私の前に現れた世界~

高校生になって本格的に文学を読むようになったころ、私の本棚には、性格のかなり違う作家たちが並んでいた。

太宰治がいた。

三島由紀夫がいた。

芥川龍之介や川端康成もいた。

その一方に、片岡義男もいた。

現在から振り返ると、この組み合わせはいささか不思議にも見える。

太宰治や三島由紀夫を日本文学の流れの中で読みながら、同じ時期に片岡義男の小説も読んでいた。

しかし、高校生だった当時の私にとって、それはそれほど不自然なことではなかった。

書店に行けば、新潮文庫や角川文庫などの文庫本が並んでいた。

そこでは、文学史上の評価が定まった作家と、その時代を生きている作家とが、同じ「本」として目の前にあった。

私は文学史を体系的に勉強してから読書を始めたわけではない。

まず本があり、それを読んだ。

その中の一人が片岡義男だった。

そして片岡義男の小説には、太宰や三島とはまったく違う方向から、当時の私たちの前に届いてくるものがあった。

それを一言で表すなら、「アメリカ」だったのだと思う。

ただし、それはアメリカという国について説明する本ではなかった。

地理でも、政治でも、歴史でもない。

オートバイ。

自動車。

音楽。

道路。

海。

男女の関係。

服装。

会話。

そうした断片を通して伝わってくる、生活の感触としてのアメリカだった。

「外国」ではなく、生活のスタイルとしてのアメリカ

片岡義男は1939年東京生まれの作家で、早稲田大学法学部を卒業した。1974年に『白い波の荒野へ』で本格的に小説家として活動を始め、1975年には『スローなブギにしてくれ』で第2回野性時代新人文学賞を受賞している。サーフィン、オートバイ、ジャズなどを作品に取り込み、若い読者から支持された作家だった。

片岡義男の作品に触れたとき、そこにあったアメリカは、学校で習うアメリカとは違っていた。

学校で外国について学ぶときには、国土、人口、産業、歴史、政治制度などが中心になる。

それは必要な知識である。

しかし、小説が運んでくる外国は違う。

どんな車に乗るのか。

どんな音楽を聴くのか。

どんな服を着るのか。

どんな場所で人と出会うのか。

男と女はどのような距離を取るのか。

道路は単なる移動のための施設なのか、それともそこを走ること自体に意味があるのか。

片岡義男の小説に接することで、「外国」というものを、制度や統計ではなく生活の形式として感じることができた。

高校生だった私にとって、それはかなり新しい感覚だったように思う。

オートバイという道具

片岡義男という作家を語るとき、オートバイは避けて通れない。

公式サイトでも、1970年代半ばから1980年代後半にかけて、片岡がオートバイの登場する小説やエッセイを数多く書き、それらの多くが角川書店から文庫化されたことが紹介されている。作品に影響を受けて実際に二輪免許を取った読者も少なくなかったとされる。

しかし、片岡作品のオートバイは、単なる機械としてだけ読んでも十分ではないだろう。

速いか遅いか。

何馬力あるか。

何ccなのか。

そうした性能だけの問題ではない。

オートバイに乗ることで、街から街へ移動する。

一人で走る。

誰かと出会う。

風景が流れる。

目的地そのものより、そこへ向かう途中の時間が重要になる。

オートバイという機械が、人間の行動範囲と感覚を変える。

そのような描かれ方に、片岡義男らしさがあったのだと思う。

今の私は自動二輪車について、性能、安全性、維持費、積載性といった現実的な面から考えることも多い。

しかし高校生のころに文学の中で出会ったオートバイは、それとは別の存在だった。

それは実用品である前に、どこかへ行くことができる機械だった。

そして「どこかへ行ける」という感覚自体が、若さと強く結びついていた。

道路の向こうにあるもの

片岡義男の作品世界について考えると、「移動」という言葉が浮かんでくる。

道路を走る。

島へ行く。

海へ向かう。

街から別の街へ移る。

そこには、家や学校や会社といった固定された場所とは違う時間が流れている。

若いころには、この「移動すること」そのものに特別な意味がある。

まだ自分の生活圏が狭い。

経済的にも自由ではない。

社会的な立場も定まっていない。

だからこそ、道路の向こう側に別の世界があるという感覚は強い。

これは、当時のアメリカ文化に対する距離感とも重なっていたように思う。

昭和の日本にとって、アメリカは近いようで遠かった。

映画がある。

音楽がある。

自動車がある。

ファッションがある。

雑誌にもアメリカ文化が入ってくる。

しかし、現在のようにインターネットで現地の日常をほぼ同時に見ることはできなかった。

だからアメリカは、情報として知っていても、まだ想像する余地の大きい国だった。

片岡義男の小説は、その想像の中に道路を一本通したようなところがあった。

太宰治とはまったく違う世界

高校生だった私が読んでいた作家を、現在の目で比較すると興味深い。

太宰治の場合、人間の内側へ向かう。

弱さ。

自己嫌悪。

孤独。

他人との距離。

自分をどう見せるか。

そうした内面的な問題が読者を引き込む。

片岡義男の場合には、むしろ外側へ向かう感じがある。

道路がある。

オートバイがある。

音楽がある。

海がある。

街がある。

そこへ出ていく。

もちろん、これは単純な二分法ではない。

太宰にも外の世界はあり、片岡義男にも人物の内面はある。

しかし、高校生だった私に届いた印象としては、かなり違った。

太宰を読むと、自分の内側を見る。

片岡義男を読むと、自分のいる場所の外を見たくなる。

同じ文学でも、読者を動かす方向が違う。

その両方が同じ時期に読めたことは、今考えると面白い。

三島由紀夫とも違う

三島由紀夫については、文章そのものの美しさや緊張感が印象に残る。

美。

身体。

死。

思想。

高校生の私には理解しきれないものが多かった。

それでも、文章には力があることを感じた。

片岡義男の文章から感じたものは、それとはまた違った。

もっと軽い。

ここで言う「軽い」は、価値が低いという意味ではない。

むしろ、重々しく意味を説明しすぎないということである。

人物がいる。

物がある。

会話がある。

移動がある。

場面が進む。

そこから読者が空気を感じ取る。

若いころには、この軽さそのものが新鮮だった。

文学というと、難しいもの、深刻なもの、高尚なものを想像しやすい。

しかし、片岡義男を読むと、日常の道具や若者文化も小説になる。

オートバイが出てきてもいい。

自動車が出てきてもいい。

ポピュラー音楽があってもいい。

男女の日常的な関係を書いてもいい。

文学と生活の間に、それほど高い壁を置かなくてもいいことを示す作家だったのではないかと思う。

「軽さ」を「浅さ」と取り違えない

片岡義男について考える際、注意したいことがある。

それは、作品にオートバイや海や音楽や男女の関係が出てくるからといって、それを単純な「若者向けのおしゃれな小説」とだけ見ることだ。

時代の流行を取り入れた作品は、後から見ると軽く評価されやすい。

しかし、流行していたものを書くことと、浅いことは同じではない。

むしろ、その時代に人々が何を欲し、どのような生活に憧れ、何を格好いいと思っていたかを記録することになる。

昭和の若者文化を考えるとき、文学史の代表作だけ読んでいても見えない部分がある。

その時代の人が実際に書店で買っていた本。

電車の中で読んでいた本。

友人同士で話題にした作家。

映画になった作品。

音楽と一緒に記憶されている物語。

そうしたものもまた文化である。

片岡義男は、まさにその場所にいた作家の一人だった。

『スローなブギにしてくれ』という時代

片岡義男を代表する作品の一つが『スローなブギにしてくれ』である。

片岡は同作で1975年に第2回野性時代新人文学賞を受賞した。後に1981年には映画化もされ、片岡作品が文学だけでなく当時の映画文化とも結びついていった。

ここで重要なのは、作品の細かな内容を紹介することではない。

私自身の読書体験として確定していない場面を、読んだ記憶として作るべきではないからだ。

むしろ考えたいのは、「スローなブギ」という言葉が成立した時代の空気である。

ブギという音楽用語。

英語を含んだ題名。

軽さ。

速度感。

それでいて「スロー」という逆方向の言葉。

タイトル自体に、当時の若い文化の感触がある。

昭和の日本文学の題名として考えると、太宰や三島の作品名とは明らかに違った空気をまとっている。

そこには、日本文学でありながら、すでにアメリカ文化が自然に混ざっていた。

『彼のオートバイ、彼女の島』

もう一つ象徴的なのが『彼のオートバイ、彼女の島』である。

同作は1977年に単行本として刊行され、1980年に角川文庫に収録された初期のオートバイ小説で、1986年には大林宣彦監督によって映画化された。

このタイトルも実に片岡義男らしい。

「彼」。

「彼女」。

「オートバイ」。

「島」。

大きな思想を示す言葉は一つもない。

しかし、この四つを並べるだけで、何かが始まりそうな気配がある。

若い男女。

移動する機械。

日常から離れた場所。

タイトルだけでも、閉じた部屋より外へ向かう感覚がある。

高校生のころというのは、不思議なものである。

実際には自由に使えるお金も少ない。

車もない。

場合によってはオートバイもない。

遠くへ自由に旅行できるわけでもない。

だからこそ、本の中にある移動は大きな意味を持つ。

自分は動けなくても、物語の人物は走っていく。

小説とは、その意味でも移動するための道具だった。

昭和のアメリカは、少し遠かった

いまアメリカ文化に触れることは難しくない。

動画を見る。

音楽を聴く。

地図を見る。

街を歩く映像を見る。

現地のニュースを見る。

一般の人の日常生活まで知ることができる。

翻訳も簡単になった。

しかし、昭和の時代は違った。

外国について知るためには、本や雑誌、新聞、映画、音楽、ラジオなどが大きな役割を持っていた。

私自身、中学生のころにはBCL(Broadcast Listening・海外放送や遠距離放送の受信を楽しむ趣味)で短波放送を聞いていた。

短波ラジオから入ってくる外国の声は、インターネット以前の世界への窓だった。

片岡義男の小説も、別の方法で世界への窓になった。

ラジオが外国から実際に飛んでくる電波を受信するものだったとすれば、小説は外国文化を一度作家の感覚の中に通し、物語として読者へ渡すものだった。

同じ「アメリカ」でも、そこには違う距離感があった。

アメリカそのものではなく、「片岡義男のアメリカ」

ここは重要な点だと思う。

片岡義男の小説を読んで感じるアメリカを、現実のアメリカそのものだと考える必要はない。

作品の中のアメリカ文化は、作家が選び取ったアメリカである。

音楽。

自動車。

オートバイ。

道路。

ハワイ。

服装。

言葉。

生活の形式。

つまり、片岡義男という作家の感覚を通過したアメリカだった。

これは文学として当然のことである。

小説は旅行案内でも社会調査でもない。

作家が世界のどこを見るかによって、同じ国でもまったく違った姿になる。

だから片岡義男を読んで「アメリカを知った」というより、

「アメリカ文化を素材として、日本語の小説がこんな世界を作ることができるのか」

と知った、と考えた方が正確なのかもしれない。

男女の関係にも違う空気があった

片岡義男の小説を語る際、車やオートバイだけに注目すると、もう一つ重要な要素を落としてしまう。

男女の関係である。

もちろん、作品ごとに設定は違う。

一括して語ることはできない。

ただ、私が高校生のころに触れていた従来の文学作品と比べると、片岡作品には男女の距離にも別の空気があったように思う。

過剰に運命的ではない。

大げさな悲恋だけでもない。

男と女が出会い、話し、離れ、また動いていく。

そこに車やオートバイや音楽や場所が入り込む。

人間関係だけを世界の中心にせず、生活のさまざまなものと並列に置く。

その描き方もまた、当時「アメリカ的」と感じられた理由の一つだったのかもしれない。

ただ、いま読み返せば、男女観については昭和という時代の価値観が見える部分もあるだろう。

文学作品は、その時代から完全に自由ではない。

だから昔の作品を現在読む意味は、懐かしさだけではない。

どこまでが普遍的で、どこからが時代特有なのかを見ることにもある。

文庫本の棚にあったアメリカ

片岡義男と角川文庫との関係も、私のような世代の読書体験を考えるうえでは重要である。

公式サイトによれば、1970年代半ばから1980年代後半に書かれたオートバイを扱う多くの作品が、角川書店から文庫として刊行された。

高校生にとって、文庫本という形は大きかった。

単行本より小さい。

持ち歩ける。

比較的手に取りやすい。

そして書店の棚に何冊も並んでいる。

文学作品との出会いは、必ずしも学校の推薦図書から始まるわけではない。

隣に並んでいたから手に取る。

表紙や題名が気になる。

一冊読んだので次の一冊へ行く。

そうした偶然がある。

検索してから本を買う現代とは、少し違う。

先に答えがあるのではなく、棚の前で出会う。

片岡義男の小説が運んできたアメリカも、私にとっては、その文庫本の棚から始まったのだと思う。

「憧れ」という言葉だけでは足りない

昭和のアメリカ文化を語るとき、「アメリカへの憧れ」という言葉でまとめられることが多い。

確かに、その側面はあっただろう。

しかし、それだけでは少し単純すぎる。

憧れには、現実を知らないことによる想像も含まれる。

また、アメリカ文化を取り入れながら、日本人の側で独自に変形していくこともある。

音楽もそうだった。

ファッションもそうだった。

自動車文化もそうだった。

文学も同じである。

片岡義男の小説は、アメリカ文学をそのまま日本語に移したものではない。

日本人の人物が日本語の小説の中で動き、その背景にアメリカ文化の断片がある。

つまり、昭和の日本がアメリカをどのように受け止めたのか、その一つの形を見ることができる。

そこが面白い。

現在から読むと、何が変わるのか

高校生だったころ、私はそこまで分析して片岡義男を読んでいたわけではない。

ただ読んでいた。

そして、そこに他の作家とは違う雰囲気を感じていた。

現在なら、もう少し距離を取って考えることができる。

なぜオートバイだったのか。

なぜ道路だったのか。

なぜアメリカ文化が魅力を持ったのか。

なぜその作品を高校生が読んだのか。

そして、その「格好よさ」は時代が変わっても残るのか。

おそらく、残る部分と残らない部分の両方がある。

車種や服装や音楽は変わる。

社会における男女の関係も変化する。

アメリカへの距離感も変わった。

しかし、

「ここではない場所へ行きたい」

という気持ちは、それほど変わっていないのではないか。

若いときほど、その感覚は強い。

片岡義男の小説には、それを道路やオートバイという具体的な形にする力があった。

「昭和のアメリカ」を読んでいた

いま振り返ると、私は高校生のころ、片岡義男の小説を通してアメリカそのものを読んでいたわけではなかったのだと思う。

読んでいたのは、

昭和の日本人が想像したアメリカ

だった。

そして、さらに言えば、

片岡義男という作家が日本語で作り出したアメリカ

だった。

そこには道路があり、オートバイがあり、海があり、音楽があり、若い男女がいた。

それは現実そのものではない。

しかし、文学が作る世界として確かに存在した。

太宰治が人間の弱さを通して私を内側へ向かわせたとすれば、片岡義男は外の世界へ視線を向けさせた。

三島由紀夫が文章というものの強さを感じさせたとすれば、片岡義男は生活そのものも文学の材料になることを見せた。

文学は一種類ではない。

人間の深い苦悩を書くこともできる。

美や死について書くこともできる。

そして、オートバイで道路を走る若者を書くこともできる。

高校時代の本棚の中では、それらが同時に存在していた。

それが私の実際の読書だった。

本の中から聞こえていたエンジンの音

現在では、昭和のアメリカ文化を知ろうと思えば、資料はいくらでも探すことができる。

当時の映像も見られる。

音楽もすぐに聴ける。

古い自動車やオートバイの情報も検索できる。

片岡義男の著作についても、公式サイト「片岡義男.com」で全著作の電子化が進められている。紙の本が書店から姿を消しても、作品そのものは新しい媒体へ移されている。

媒体は変わった。

しかし、読書の記憶は検索結果とは少し違う場所に残っている。

高校生だった私が文庫本を手に取ったころ、ページの向こうには、自分の日常とは違う世界があった。

道路が伸びている。

その先に海がある。

エンジンがかかる。

音楽が聞こえる。

そして誰かが、ここではない場所へ走っていく。

もちろん、それは現実のアメリカではなかった。

けれども、昭和という時代の日本に暮らしていた若い読者にとって、それは確かに「外の世界」の一つだった。

本は、ときに場所を運んでくる。

そして片岡義男の小説が私たちの前に運んできたものの一つが、あの時代の「アメリカ」だったのだと思う。


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九条レオンの地域分析ブログ

「昔の人には教養があった」は本当なのか

昭和という時代について語るとき、

「昔の人は本を読んでいた」

「学生は難しい哲学書を読んでいた」

「大学生なら岩波文庫を読むのが当たり前だった」

「総合誌を読んで政治や社会について考えていた」

といった話を聞くことがある。

そこから、

昭和の日本人には教養があり、現代人は教養を失った

という結論へ進むこともある。

しかし、本当にそうなのだろうか。

昭和の人々全員が哲学書を読んでいたわけではない。

難解な本を買っても最後まで読まなかった人もいただろう。

娯楽小説、漫画、映画、ラジオ、テレビを楽しむ人も当然多かった。

したがって、

「昭和の日本人は現代人より知的だった」

と単純に比較することはできない。

それでも昭和には、現在とは少し違う「教養」という文化が存在したことは確かである。

その違いは、人間の能力よりも、

知識へ到達する道筋

にあったのではないだろうか。

本屋へ行く。

岩波文庫を手に取る。

新書を読む。

新聞を読む。

『世界』や『中央公論』などの総合誌を読む。

そこで、

文学、

哲学、

歴史、

政治、

経済、

科学、

社会問題、

へ触れる。

つまり昭和の教養とは、

単に「たくさん知っていること」ではない。

異なる分野の知識を、一人の人間の中である程度つなげて考えようとする文化

だったと考えることができる。

本稿では、

岩波文庫、

岩波新書、

総合誌、

大学、

新聞、

テレビ、

というメディア環境を通して、

「昭和の教養」とは何だったのかを考えてみたい。

そして最後に、

令和の時代には教養が失われたのか、それとも別の形へ変わっただけなのか

を検討する。

1 「教養」は単なる知識量ではない

まず、教養という言葉を整理しておきたい。

教養は、

知識量、

学歴、

資格、

専門能力、

とは必ずしも同じではない。

医学について非常に詳しい医師がいる。

法律について非常に詳しい弁護士がいる。

数学について非常に詳しい研究者がいる。

もちろん、その専門知識は極めて高度である。

しかし昔から「教養」という言葉には、

専門分野だけではなく、

文学、

歴史、

哲学、

芸術、

社会、

政治、

科学、

などについて幅広く触れ、

それらを使って人間や社会を考える、

という意味が含まれていた。

したがって教養とは、

多くの答えを知っていること

よりも、

一つの問題を複数の角度から考えるための背景知識を持っていること

に近い。

例えば戦争を考える場合、

軍事だけでは足りない。

歴史。

外交。

経済。

政治。

倫理。

文学。

人間心理。

こうしたものが関係する。

この「分野をまたぐ思考」を支えたのが、昭和の出版文化だった。

2 岩波文庫~古典を個人の本棚へ持ち込む仕組み

昭和の教養を象徴するものの一つが岩波文庫である。

岩波文庫は1927年、昭和2年に創刊された。

岩波書店によれば、現在の岩波文庫は、

日本古典文学、

日本近現代文学、

外国文学、

哲学・歴史学など、

社会科学など、

という広い領域を持っている。

つまり岩波文庫は、

「文学作品を安く読むシリーズ」

だけではない。

プラトン。

カント。

マルクス。

歴史書。

政治思想。

経済。

宗教。

自然科学。

日本古典。

近代文学。

さまざまな分野へアクセスする入口になっていた。

1927年7月10日の創刊時には22点が刊行されている。

ここで重要なのは、

古典的著作を、専門研究者だけではなく一般読者が所有できる形にした

ことである。

大学図書館でしか読めない。

専門家しか手にできない。

という本ではなく、

書店で買い、

電車で読み、

自宅の本棚へ置く。

そうした文化が生まれた。

3 「文庫本を持つ」ということ自体に意味があった

現在では、一冊の本を所有することの意味は相対的に小さくなっている。

検索すれば概要が分かる。

電子書籍もある。

動画解説もある。

しかし昭和期には、

本を持っていること自体が、

知識へアクセスする重要な手段だった。

一冊買う。

読み終わる。

本棚へ置く。

別の本を買う。

すると本棚そのものが、

その人の知的履歴になる。

文学。

哲学。

歴史。

社会科学。

それらが一つの部屋に並ぶ。

この環境には一つの特徴がある。

知識が物理的に隣り合う。

夏目漱石の隣にプラトンがある。

その隣に歴史書がある。

さらに経済学の本がある。

本棚は検索結果と違い、

一つの関心だけに最適化されていない。

この「偶然の隣接」が教養形成に一定の役割を持っていたと考えられる。

4 岩波文庫の分類そのものが一つの世界観だった

岩波文庫には帯色による分類がある。

現在の分類では、

黄帯が日本古典文学、

緑帯が日本近現代文学、

赤帯が外国文学、

青帯が哲学・歴史・宗教・自然科学など、

白帯が法律・政治・経済・社会、

という大きな構造を持つ。

これは単なる整理番号ではない。

一つの出版社が、

「人間が学ぶべき世界には、こうした領域がある」

と示していることになる。

文学だけではない。

哲学だけでもない。

政治だけでもない。

複数の知識領域を一つの体系の中へ置く。

ここに「教養」の特徴がある。

現代のインターネットでは、

知識は検索単位で出てくる。

岩波文庫では、

知識がシリーズ全体として提示される。

両者はかなり違う。

5 岩波新書~専門知を一般読者へ翻訳する装置

岩波文庫が古典への入口だったとすれば、

岩波新書は、

現代社会や専門知識への入口

として大きな役割を持った。

岩波新書は1938年11月に創刊された。

創刊時は赤い装丁だった。

岩波茂雄は、新書が普及し、電車の中で多くの人が赤い本を持っているようになることを望んだと伝えられている。

この発想は興味深い。

学問を大学の中だけに置かない。

専門家の研究を、

一般の読者でも読める大きさ、

価格、

文章量、

へ変換する。

つまり新書とは、

専門知と一般社会の中間に作られたメディア

だった。

6 新書は「大学の授業」と「新聞記事」の中間だった

新聞記事は短い。

専門書は長い。

大学の授業を受けるには大学へ行かなければならない。

新書は、その中間を埋める。

一冊で、

歴史。

政治。

経済。

科学。

哲学。

宗教。

社会問題。

などについて一定の知識を得る。

専門研究の完全な代替ではない。

しかし、

「この問題について初めて体系的に学びたい」

という読者には非常に適している。

ここに昭和型教養の重要な特徴がある。

専門家になる前に、まず全体像を知る。

この段階を支えたのが新書だった。

7 教養人とは「専門家ではない読者」でもあった

昭和の教養文化を考えると、

一つ面白いことがある。

教養の中心となる読者は、

必ずしも専門家ではない。

経済学者ではない人が経済学の新書を読む。

歴史家ではない人が歴史の本を読む。

哲学者ではない人が哲学書を読む。

文学研究者ではない人が古典文学を読む。

つまり、

自分の専門外の本を読むこと自体が教養だった。

現代社会では、

「それはあなたの専門ですか」

と問われることが多い。

もちろん専門性を尊重することは重要である。

しかし、

専門外だから読まない、

専門外だから考えない、

となれば、

社会全体を考える能力は弱くなる。

昭和の教養文化には、

専門家ではないからこそ読む、

という発想が一定程度存在していた。

8 総合誌~異なる知識が同じ一冊に入っていた

そして昭和の教養文化を支えたもう一つの媒体が、

総合誌である。

『中央公論』

『世界』

『文藝春秋』

などである。

『中央公論』は現在も、創刊130年を超える日本最長寿の月刊総合誌として、政治、経済、国際、教育、医療、科学、歴史、文化など幅広い領域を扱っている。

岩波書店も、1946年創刊の『世界』が戦後日本社会へ大きな影響を及ぼしてきた雑誌だと位置付けている。

総合誌には、

一つの問題だけを専門的に扱う雑誌とは違う特徴があった。

政治の論文の次に、

文学論がある。

その次に、

国際問題。

さらに、

科学。

社会問題。

文化。

が並ぶ。

つまり読者は一冊買うことで、

自分が最初から探していなかった問題にも出会う。

この偶然性は重要だった。

9 総合誌は「共通して考える問題」を作っていた

総合誌にはもう一つの役割がある。

読者へ情報を渡すだけではない。

「今、社会ではこの問題を考えるべきだ」

という議題を設定する。

憲法。

安全保障。

教育。

公害。

経済成長。

文学。

国際情勢。

編集部が特集を組むことで、

それまで詳しく知らなかった読者も、その問題へ接触する。

この意味で総合誌は、

知識を売る媒体であると同時に、

公共的な問題を編集する媒体

だった。

昭和の教養人とは、

一定の本を読んだ人というだけではない。

同じ時代の社会問題について、

異なる分野の文章を読みながら考える人でもあった。

10 昭和の教養には「編集された世界」があった

ここまでの共通点を見ると、

昭和の教養には一つの特徴が見える。

岩波文庫。

岩波新書。

総合誌。

いずれにも、

編集者がいる。

何を文庫へ入れるか。

誰に新書を書いてもらうか。

総合誌で何を特集するか。

出版社が選ぶ。

つまり読者は、

無限の情報から自分で全部選ぶのではなく、

ある程度編集された世界を読む。

この仕組みには欠点もある。

出版社の思想。

編集者の判断。

人的ネットワーク。

によって、読者が触れる情報が偏る可能性もある。

しかし利点もある。

何を読めばよいのか分からない人でも、知識への入口を持つことができる。

これは現在との大きな違いである。

11 大学進学と教養文化

昭和期、とくに戦後には大学教育も拡大していく。

大学には専門教育だけではなく、

一般教育、

教養課程、

という考え方があった。

専門学部へ進んでも、

哲学。

文学。

歴史。

外国語。

社会科学。

自然科学。

などへ触れる。

つまり、

専門家になる前に、

社会や人間について幅広く学ぶ段階

を置く。

これは文庫、新書、総合誌の文化とも相性がよかった。

大学で名前を聞いた思想家を文庫で読む。

新聞で知った社会問題を新書で調べる。

総合誌で専門家の議論を読む。

学問と出版文化がつながる。

ここに昭和型教養の一つの循環があったと考えられる。

12 「学生なら難しい本を読むべきだ」という文化

昭和の学生文化には、

難しい本へ挑戦すること自体に価値を置く傾向もあった。

完全に理解できなくても読む。

哲学書を買う。

思想書を持ち歩く。

議論する。

この文化には良い面と悪い面がある。

良い面は、

理解できないものへ時間を使う習慣

ができることだった。

すぐ役に立つか。

試験に出るか。

仕事に使えるか。

という基準だけで本を選ばない。

一方で悪い面もある。

難しい本を持っていることが、

知的な自己演出になる。

読んでいなくても本棚へ置く。

難解であること自体を価値と考える。

したがって、

昭和の教養文化を無条件に理想化するべきではない。

13 教養には「役に立たないものを読む余裕」が必要だった

現代では学習に対して、

資格になるか。

転職に使えるか。

収入が増えるか。

仕事に役立つか。

という実用性が重視されやすい。

もちろん合理的である。

しかし教養には、

すぐ役に立たない読書

も含まれる。

古代ギリシャ哲学。

古典文学。

宗教史。

美術史。

思想史。

これらは明日の仕事に直接使えないかもしれない。

しかし、

国家とは何か。

正義とは何か。

人間とは何か。

幸福とは何か。

死とは何か。

という問いを考える材料になる。

昭和型教養には、

実用性から一度離れて考える時間

が比較的強く価値付けられていた。

14 新聞も教養メディアだった

昭和の教養文化では新聞も重要だった。

新聞には、

政治。

経済。

国際。

社会。

文化。

書評。

論壇。

が同じ紙面にある。

現在の検索では、

自分が興味を持ったものを探す。

新聞では、

興味がなくても同じ紙面に置かれている。

国際政治の記事の隣に文化記事がある。

経済面をめくれば書評がある。

この構造は総合誌と似ている。

つまり昭和の情報環境には、

一つの媒体を読むだけで複数の領域へ触れる仕組み

が多かった。

15 テレビの登場は教養を壊したのか

テレビが普及すると、

「人々が本を読まなくなった」

という批判が起こりやすくなる。

しかしテレビを単純に反教養的な媒体と考えるのも適切ではない。

テレビには、

ドキュメンタリー。

歴史番組。

科学番組。

討論番組。

文学紹介。

教育番組。

があった。

つまり、

出版物を読まなかった人にも、

歴史や科学へ接触する機会を与えた。

テレビは一面では、

教養の大衆化

を進めた。

ただし、

文章で読む教養

と、

映像で知る教養

では、思考の方法が違う。

16 読む教養と見る教養

本では、自分の速度で読む。

戻る。

止まる。

考える。

線を引く。

別の本と比較する。

テレビでは基本的に、

番組の速度で情報が流れる。

その代わり、

映像。

音声。

図表。

現場映像。

を使える。

どちらが優れているという話ではない。

しかし、

教養の獲得方法が変わった

ことは重要である。

昭和後半には、

文庫・新書・総合誌・新聞

という活字文化に、

テレビ

が加わった。

これによって「教養人」の姿も変わった。

17 昭和の教養は「少ない情報」を深く読む文化だった

現在と昭和を比べた時、最も大きな違いの一つは、

情報量である。

昭和にはインターネットがない。

検索エンジンもない。

動画共有サービスもない。

SNSもない。

したがって、個人が一日に接触できる情報量は現在より少なかった。

これは不便である。

しかし、

一冊の本。

一つの記事。

一人の著者。

と長く付き合いやすい環境でもある。

現在は逆である。

情報へ到達する速度は劇的に速くなった。

しかし、

一つの情報へ滞在する時間は短くなりやすい。

昭和型教養を考える時、

知識量より、情報との接触時間

を見る必要がある。

18 「全部読む」から「検索して必要な部分だけ読む」へ

本を読む時には、

著者が設定した順番で進むことが多い。

第一章。

第二章。

第三章。

前提から結論へ進む。

検索の場合は違う。

知りたい部分へ直接飛ぶ。

これは極めて効率的である。

しかし一方で、

自分が質問しなかったことには出会いにくい。

例えば「ケインズとは誰か」と検索すれば、

ケインズについての答えは得られる。

しかし経済思想史全体を一冊読むと、

ケインズだけでなく、

古典派。

マルクス。

新古典派。

制度派。

などとの関係が見えてくる。

つまり、

検索は答えに強い。

読書は、

問いの背景を広げることに強い。

昭和の教養文化は後者を重視する環境だった。

19 昭和の教養には「共通の本」があった

もう一つ重要なのは、

多くの人が同じ本の名前を知っていたことである。

実際に読破していたかどうかは別として、

夏目漱石。

森鴎外。

ドストエフスキー。

カント。

マルクス。

など、

「教養として知っておくべき名前」

が比較的共有されていた。

新書や文庫のシリーズも同じである。

同じ出版レーベルを通して、

多くの読者が似た知識へ触れる。

その結果、

議論するための共通背景

が作られる。

現在は読むものが多様化している。

これは自由という点では大きな進歩である。

しかし、

共通して知っている本、

共通して読んだ文章、

は少なくなりやすい。

20 共通知識は本当に必要なのか

では、全員が同じ本を読む社会の方がよいのだろうか。

そうとも言えない。

共通の教養には、

排除

も伴う。

「この本を読んでいない人は教養がない」

「この思想を知らない人は話にならない」

という階層意識が生まれることがある。

出版社や大学が選んだ古典だけが、

価値ある知識

とされる危険もある。

世界には、

地域文化。

女性の経験。

労働者の文化。

少数者の歴史。

大衆文化。

など、従来の「教養」から十分に扱われなかった領域もある。

したがって昭和の教養を評価するとき、

共通基盤という長所と、選択された知識による排除という短所の両方

を見る必要がある。

21 岩波文化は「昭和の教養」そのものだったのか

昭和の教養を語ると、

岩波文化

という言葉を連想する人もいる。

岩波書店は、

岩波文庫。

岩波新書。

『世界』。

『思想』。

『科学』。

『図書』。

など、文学・思想・学術・社会問題を横断する出版活動を行ってきた。『世界』は1946年創刊、『思想』は1921年、『科学』は1931年、『図書』は1938年創刊である。

この体系を見ると、

古典を読む。

現代社会を知る。

思想を読む。

科学を読む。

総合誌で社会問題を考える。

という教養形成の経路を、一つの出版社がかなり広く提供していたことが分かる。

しかし、

昭和の教養=岩波

とするのも狭すぎる。

22 中央公論、文藝春秋、新潮なども別の教養を作った

昭和の読者は岩波書店だけを読んだわけではない。

『中央公論』

『文藝春秋』

『新潮』

など、それぞれ異なる編集文化を持つ出版社・雑誌が存在した。

現在の『中央公論』も、政治・経済から科学・文化までを横断している。

重要なのは、

一つの正しい教養があったのではない、

ということである。

岩波的教養。

中央公論的教養。

文藝春秋的教養。

文学中心の教養。

社会科学中心の教養。

それぞれが存在した。

だから昭和の教養文化を、

一つの出版社の思想へ還元するべきではない。

23 教養は社会的地位を示す記号にもなった

ここで昭和の教養文化の負の側面にも触れる必要がある。

難しい本を読む。

有名な思想家を知っている。

外国文学を読む。

こうしたことが、

社会的な自己評価につながる場合がある。

つまり教養は、

知識であると同時に、文化的な地位を示す記号

にもなる。

「その本を読んでいないのか」

「そんなことも知らないのか」

という形で他人を評価する。

こうなると、

教養は人間の視野を広げるものではなく、

他者と自分を区別する道具になる。

これは教養文化の矛盾である。

24 「教養人」が男性・都市・大学中心になりやすかった問題

昭和の典型的な教養人像を考えると、

大学へ行き、

都市で働き、

本を購入し、

総合誌を読む、

というモデルが想定されやすい。

しかし日本社会全体がその生活を送っていたわけではない。

家事や育児に多くの時間を使う人。

長時間労働をする人。

農業や漁業に従事する人。

高等教育へ進まなかった人。

こうした人々にも当然、生活の中で蓄積された知識や文化がある。

したがって、

出版物中心の教養だけを「本当の教養」と考えること自体が、一つの歴史的価値観

だったと見る必要がある。

25 専門化は教養を弱くしたのか

戦後の日本社会が発展すると、学問も仕事も専門化する。

医学。

工学。

経済。

法律。

情報科学。

それぞれが高度になる。

一人の人間がすべてを深く知ることは不可能になる。

すると、

「広く浅く知る教養」

より、

「一つを深く知る専門性」

の価値が高まる。

これは社会の進歩でもある。

高度な医療を、

一般教養だけで行うことはできない。

しかし専門化には、

別の問題がある。

自分の専門以外の問題が見えにくくなる。

ここに教養の必要性が再び出てくる。

26 現代社会ほど教養が必要なのではないか

現在の問題を考えてみる。

人工知能。

人口減少。

気候変動。

社会保障。

安全保障。

地域衰退。

どれも一つの専門分野だけでは理解できない。

例えば人工知能なら、

情報科学。

数学。

法律。

倫理。

教育。

労働。

経済。

著作権。

が関わる。

人口減少なら、

人口統計。

経済。

医療。

住宅。

交通。

教育。

家族。

地域文化。

が関わる。

つまり現代社会は、

昭和以上に総合的思考を必要としている。

それにもかかわらず、情報環境は専門別に細分化している。

ここに現代の教養問題がある。

27 インターネットは教養を破壊したのか

インターネットには大きな利点がある。

古典文学を無料で読める。

大学の講義を見られる。

論文を検索できる。

公的統計へ直接アクセスできる。

海外の資料も読める。

昭和の読者から見れば、

夢のような知識環境である。

だから、

インターネットによって教養が破壊された

と考えるのは正確ではない。

むしろ、

知識へのアクセスは歴史上かつてないほど広がった。

問題は別のところにある。

28 情報が多すぎて「何を読めばよいか」が分からない

昭和には情報が少なかった。

だから文庫や新書のシリーズが、

「まずこれを読んでみる」

という入口を提供できた。

現在は情報が多すぎる。

検索結果。

動画。

SNS。

ブログ。

ニュース。

電子書籍。

論文。

すべてが並ぶ。

すると、

どれを読むかを決める能力そのものが必要になる。

昭和では出版社が編集した。

令和では読者自身が編集しなければならない。

ここが決定的な違いである。

29 アルゴリズムは現代の「編集者」なのか

現在では、多くの情報が推薦機能によって届けられる。

過去に見たもの。

検索したもの。

反応したもの。

に近い情報が表示される。

これは非常に便利である。

しかし、

自分が好きなものを見れば見るほど、

同じ分野の情報が増える。

文学好きには文学。

投資好きには投資。

政治好きには政治。

すると、

一つの分野を深く知ることはできても、

異なる分野との偶然の出会いが減る可能性がある。

昭和の総合誌とは逆方向の構造である。

総合誌は、

自分が選ばなかった記事も同じ冊子に入っている。

推薦システムは、

自分が好みそうなものを集める。

ここには教養形成の大きな違いがある。

30 令和には「共通の本棚」がない

昭和には、

文庫シリーズ。

新書シリーズ。

新聞。

総合誌。

が一種の共通本棚として機能した。

令和には、

一人ひとり違う画面がある。

検索履歴が違う。

推薦される動画も違う。

読むニュースも違う。

SNSのフォロー相手も違う。

つまり、

社会全体で共有する「知識への入口」が弱くなった。

これは多様化という意味では利点である。

しかし、

違う意見を持つ以前に、

違う事実、

違う問題、

違う世界

を見ている状態にもなり得る。

31 昭和の教養を復活させればよいのか

では、岩波文庫を読めば昔の教養が復活するのだろうか。

そう単純ではない。

昭和の出版文化をそのまま復活させる必要はない。

当時の教養には、

限られた編集者が知識を選ぶ。

特定の文化を正統とする。

学歴や読書歴による階層意識を生む。

という問題もあった。

現代には現代の利点がある。

多様な人が発信できる。

地方からでも参加できる。

専門家の一次情報へ直接届く。

少数者の経験も知ることができる。

したがって必要なのは、

昔へ戻ることではない。

32 昭和から引き継ぐべきなのは「本の名前」ではない

昭和の教養文化から学べるものがあるとすれば、

必ずしも、

カントを読め。

岩波文庫を読め。

総合誌を読め。

という具体的な読書リストではない。

重要なのは、

異なる分野をつなげる習慣

である。

文学を読んだら、

その時代の歴史を調べる。

経済を学んだら、

政治との関係を見る。

科学技術を学んだら、

倫理や法律も考える。

現代社会のニュースを見たら、

歴史的背景を調べる。

こうした横断的思考が教養の中心になる。

33 令和型教養に必要な五つの能力

昭和型教養を現代へ置き換えるなら、少なくとも五つの能力が考えられる。

第一に、

一つの専門分野を持つこと。

広く浅い知識だけでは、情報の正確性を判断しにくい。

第二に、

専門外の分野にも触れること。

自分の専門だけで社会全体を説明しない。

第三に、

長い文章を読む能力を維持すること。

短い情報だけでは複雑な問題を理解しにくい。

第四に、

一次資料へ戻ること。

要約だけでなく、統計、原文、公的資料を確認する。

第五に、

異なる考えを読むこと。

自分が最初から賛成できる文章だけを読まない。

これが現代型教養の基本になるのではないだろうか。

34 AI時代の教養とは何か

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が普及すると、

事実を覚えていることの価値はさらに変わる。

人名。

年代。

用語。

概要。

は短時間で検索・整理できる。

すると、

教養は不要になるようにも見える。

しかし、むしろ逆かもしれない。

AIが答えを出した時、

その答えが妥当か判断するには、

背景知識が必要になる。

どの論点が抜けているか。

歴史的背景は正しいか。

価値判断と事実が混ざっていないか。

複数の見方があるのではないか。

こうした判断には、

一分野の知識だけでは足りない。

つまりAI時代には、

知識を記憶する教養から、知識を位置付ける教養へ

変わっていく可能性がある。

35 教養とは「すぐ答えを出さない能力」でもある

教養の重要な役割は、

正解をたくさん知ること

だけではない。

問題を単純化しないことでもある。

地方は良い。

都会は悪い。

若者は進歩的。

高齢者は保守的。

科学技術は善。

伝統は善。

こうした単純な二項対立を疑う。

歴史を知れば、

現在の制度が突然できたものではないことが分かる。

文学を読めば、

人間が合理性だけで動かないことが分かる。

経済を学べば、

理想だけでは資源配分できないことが分かる。

科学を学べば、

直感が間違うことがあると分かる。

つまり教養とは、

簡単な答えに飛び付かないための知識

でもある。

36 昭和の教養を美化してはいけない

ここで最初の問いへ戻ろう。

昭和には、本当に現代より教養があったのだろうか。

これは簡単には証明できない。

読書文化が強かった時期はあった。

岩波文庫や新書、総合誌が知的文化の重要な媒体だったことも事実である。

しかし、

国民全員が高度な本を読んでいたわけではない。

教養文化から距離のある人もいた。

読書を社会的地位の記号として使う人もいた。

したがって、

昭和=教養、令和=無教養

という比較は成立しない。

重要なのは、人間の質ではなく環境の違いである。

結論~昭和の教養とは「知識の共通本棚」だった

昭和の教養とは何だったのか。

一言で表すなら、

社会にある程度共有された「知識の本棚」を持つこと

だったのではないだろうか。

岩波文庫が古典を並べる。

岩波新書が専門知を一般読者へ運ぶ。

総合誌が政治、経済、文学、科学、文化を同じ一冊へ置く。

新聞が国際問題と書評を同じ紙面へ載せる。

大学が専門教育の前後に教養教育を置く。

こうした複数の仕組みが、

文学。

哲学。

歴史。

社会。

科学。

を完全に別々の世界へしなかった。

もちろん、その本棚には偏りがあった。

誰が「読むべき本」を選ぶのか。

誰の思想が正統とされるのか。

誰が教養人と認められるのか。

昭和型教養には、そうした問題もあった。

だから私たちは、

昔の本棚をそのまま復元する必要はない。

しかし現在、

私たちは別の問題を抱えている。

情報は無限にある。

専門家も多い。

動画も論文も統計もすぐに見られる。

それでも、

異なる知識を一つの世界として見ることが難しくなっている。

検索すれば答えは出る。

しかし、

何を検索すべきかは教えてくれない。

SNSを開けば情報は流れる。

しかし、

自分の関心の外に何があるかは見えにくい。

専門家は正確な知識を持つ。

しかし、

専門と専門をどう結ぶかは別の問題である。

その意味で、

昭和の教養から現代が学ぶべきものは、

難しい本を読んでいたという外形ではない。

一つの専門だけで世界を理解したと思わない姿勢

なのではないだろうか。

古典文学を読む。

歴史を知る。

科学を学ぶ。

経済を見る。

社会制度を調べる。

異なる思想も読む。

それらを一人の人間の中でつなげていく。

これが教養であるなら、

教養は昭和とともに消えたわけではない。

ただ、

出版社や総合誌が用意してくれた「共通の本棚」が弱くなり、

自分自身で本棚を作らなければならない時代になった

のである。

昭和の教養人は、

何を読むかを出版社や大学からある程度教えてもらえた。

令和の私たちは、

無限の情報の中から、

何を読み、

何を疑い、

何と何を結び付けるかまで、

自分で決めなければならない。

その意味では、

現代の教養形成は昭和より簡単になったのではない。

情報へのアクセスは容易になった。

しかし、

知識を自分の中で一つの世界へ組み立てる仕事は、むしろ個人へ委ねられるようになった。

昭和の教養を懐かしむより、

その仕組みが果たしていた役割を理解し、

現代の環境でどう再構築するかを考える。

それが、令和の時代に「教養とは何か」を問う意味なのではないだろうか。

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本を読む人間として始まったわけではなかった

振り返ってみると、私は幼い頃から本ばかり読んでいた子どもではない。

小学生の頃に読んだ本といえば、学校から指定された課題図書が中心だった。夏休みになると、感想文を書くために本を読む。自分から書店へ行き、棚の中から一冊を探し出して読むというより、まず読むべき本が先に決められていた。

課題図書には、子どもが自分では選ばない本に触れられるという意味がある。しかし、当時の私にとって、読書はまだ自発的な楽しみというより、学校生活の一部だった。

本を読めば、読書感想文を書かなければならない。

何を感じたのか、どこが印象に残ったのかを、原稿用紙の升目に合わせて書く。実際に深い感動があったかどうかより、感想として成立する文章を作ることの方が先にあったようにも思う。

私は、最初から読書家だったわけではない。

後年の自分から過去を振り返り、幼い頃から文学に親しんでいたように話を整えることもできる。しかし、それは正確ではない。

私の読書は、課題として与えられた本を読むところから始まった。

文学は、まだ遠くにあった。

中学生の私が読んだ『天声人語』

中学生になると、新聞の『天声人語』を読むようになった。

『天声人語』は、朝日新聞の朝刊に掲載されてきたコラムで、その起源は1904年にさかのぼる。掲載が中断された時期や名称の変遷はあるものの、長く日本の新聞コラムを代表する存在の一つとして読まれてきた。

中学生の私は、その長い歴史を意識して読んでいたわけではない。

一回の文章は長すぎず、時事問題、社会、歴史、文化、季節の話題などが、限られた文字数の中でまとめられていた。学校の教科書とは違い、その時に社会で起きていることが文章の題材になっていた。

一つの出来事から別の話題へ移り、最後には最初の話へ戻ってくる。短い文章の中に引用や比喩が置かれ、時事的な事実と書き手の見方が組み合わされる。

その論調にいつも賛成していたわけではない。

当時は、賛成や反対を明確に判断できるほど、政治や社会を理解してもいなかった。それでも、出来事をただ知らせる新聞記事とは異なり、出来事をどう読み、どのような言葉で捉えるかという文章の働きを知った。

小学生の頃、文章は課題図書の感想を書くためのものだった。

中学生になると、文章は社会について考えるためのものになった。

文学を読む前に、私は新聞の短いコラムを通じて、文章の形に触れていたのである。

後になってブログで政治、経済、地域社会、文化について書くようになったことを考えると、この時期の経験は小さくなかったのかもしれない。

一つの出来事だけを孤立させず、その背景や別の問題とのつながりを考える。短い話題から、より大きな社会を見ようとする。

その方法を、十分に自覚しないまま『天声人語』から学んでいたように思う。

高校生になって、ようやく文学へ入った

私が本格的に文学を読むようになったのは、高校生になってからである。

太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成。

日本文学の名著と呼ばれる作品を、少しずつ読むようになった。

学校の授業や文学史の中では、彼らはすでに評価の定まった作家だった。しかし、高校生の私は文学史上の位置づけを確認するためだけに読んでいたのではない。

むしろ、なぜこれほど多くの人が読み続けているのかを知りたかった。

太宰治の作品には、人間の弱さや自己嫌悪、他人からどう見られるかという不安が、隠されずに書かれていた。

三島由紀夫の文章には、美しさと緊張感があり、その思想や人生を十分に理解できなくても、言葉そのものに強い力を感じた。

芥川龍之介の作品は比較的短いものが多かったが、その短さの中に、人間の利己心、矛盾、不安、残酷さが凝縮されていた。

川端康成の作品では、説明し尽くされない感情や、情景の背後に残る沈黙が印象に残った。

もちろん、高校生の私が、これらの作品を深く理解していたとは思わない。

年齢を重ねてから読み返せば、当時は見えていなかったものが多くあるはずだ。

しかし、文学はすべてを理解してから読むものではない。

よく分からない部分があっても、言葉や場面だけが記憶に残ることがある。作品全体の意味はつかめなくても、そこに自分の日常とは違う世界が存在することは感じられる。

高校生の私にとって文学は、知識として理解する対象というより、まだ自分では言葉にできない感情に触れる場所だった。

新潮文庫と角川文庫の棚

当時の読書を思い出すと、個々の作家だけでなく、新潮文庫や角川文庫の存在を抜きにすることはできない。

新潮文庫の歴史は古く、最初の創刊は1914年で、ドイツのレクラム文庫にならい、海外の名著を一般読者へ普及させる意図を持って始められた。戦後には昭和文学を中心とする文庫として再出発している。

角川文庫は1949年に創刊され、第1回配本にはドストエフスキーの『罪と罰』が含まれていた。1950年には現在につながる小型の判型へ改められ、戦後の文庫本普及に大きな役割を果たした。

しかし、高校生だった私が、そのような出版史を考えて文庫本を選んでいたわけではない。

書店の棚に並んでいる本を見て、題名、作家名、表紙、裏表紙の紹介文などを手掛かりに選んだ。

文庫本は単行本よりも小さく、比較的購入しやすかった。

一冊を鞄に入れて持ち歩くことができる。読んだ本を本棚に並べれば、自分がどのような本を読んできたのかが背表紙によって見える。

現在では、検索すれば作品のあらすじも評価もすぐに分かる。読者の感想を読み、内容を比較してから購入できる。

当時は、店頭で偶然目に入った本を手に取ることが多かった。

よく知らない作品を買い、読み始めてから、自分に合うかどうかを知る。

外れることもあった。

最後まで読めない本もあった。

それでも、書店の棚には、自分がまだ知らない考え方や人生が無数に並んでいるように見えた。

名著と同時代の文学を一緒に読む

高校生の頃に読んだのは、近代日本文学の名著だけではなかった。

当時読まれていた片岡義男や三田誠広の作品も手に取った。

文学の読書歴を語るとき、後世に評価された名作だけを並べると、実際の読書生活とは違うものになる。

現実の読書は、文学史の順番には進まない。

太宰治を読んだ次に、片岡義男を読む。

芥川龍之介の短編を読んだ後で、当時書店に並んでいた現代小説を読む。

古典的な作品と流行している作品が、同じ読者の中で混ざり合う。

片岡義男の小説には、車やオートバイ、音楽、男女の関係、都市的な生活など、当時の若者にとって新しく見える世界があった。

日本を舞台にしながら、どこかアメリカ文化の影響を感じさせる軽さや映像的な感覚があった。

太宰や三島とは違う。

しかし、違うからこそ読んだ。

文学には重い人生論や苦悩だけでなく、時代の空気、生活様式、会話、服装、乗り物、音楽なども含まれる。

三田誠広は、1977年に『僕って何』で第77回芥川賞を受賞している。自己とは何かという問いを題名そのものに掲げた作品が、当時の若い世代の感覚と重なる時代だった。

私は、後世に残る作品だけを選別して読んでいたのではない。

その時代に生きながら、その時代に売られ、その時代に話題になっている本を読んでいた。

それは、昭和という時代を、文学を通じて同時進行で読むことでもあった。

フランス文学とロシア文学で立ち止まる

日本文学を読むようになると、次第に海外文学にも関心が向いた。

フランス文学やロシア文学にも挑戦した。

しかし、ここで私の読書が順調に広がったわけではない。

途中で挫折した作品も少なくなかった。

海外の名作は、題名も作家名もよく知られている。文学を読むのであれば、一度は通らなければならないようにも感じられた。

ところが、実際にページを開いてみると、簡単には入っていけない。

国の歴史、社会階級、宗教、政治、家族制度、恋愛観など、日本の高校生にはなじみの薄い背景がある。

登場人物の名前を覚えるだけでも苦労することがある。特にロシア文学では、一人の人物が複数の呼び名で呼ばれることがあり、物語の関係を追うだけでも集中力を要した。

長編作品では、物語がすぐに動くとは限らない。

人物の思想や社会状況について長い記述が続く。読んでいる間は理解したつもりでも、少し間を置くと誰が誰だったのか分からなくなる。

文学史上の名作であることと、当時の自分が読み通せることは別問題だった。

フランス文学にも同じ難しさがあった。

洗練された恋愛や心理を描いた作品であっても、その背後には階級社会や当時の道徳、宗教、結婚制度がある。

言葉だけを追っても、人物がなぜそのように行動するのかを十分に理解できない。

私は、名作だから読めるのではなく、読む側にも経験や背景知識が必要なのだと知った。

最後まで読めなかった本は、読書歴の失敗として忘れられがちである。

しかし、挫折したこともまた読書の一部である。

本には、読むのに適した時期がある。

高校生の自分には難しかった本が、成人してから読むと理解できることもある。反対に、若い時に強く響いた作品が、後年にはそれほど響かないこともある。

読書は、作品だけで決まるものではない。

読む人間の年齢、経験、知識、生活状況によって変わる。

高校生には難しかったスタンダール『恋愛論』

フランス文学の中でも、特に記憶に残っているのが、スタンダールの『恋愛論』である。

スタンダールは『赤と黒』『パルムの僧院』などで知られるフランスの作家である。『恋愛論』は1822年に刊行され、恋愛を心理、社会、文化、階級など複数の面から考察した作品である。恋愛によって相手を理想化していく精神の働きを「結晶作用」と表現したことでも知られている。

私は、この本を高校生の頃に読もうとした。

題名だけを見れば、恋愛について説明した本である。

高校生にも身近な題材のように思える。

しかし、実際には簡単な恋愛指南書ではなかった。

人はなぜ恋をするのか、恋する相手をどのように理想化するのか、恋愛と虚栄、社会、身分、習慣がどのように結びついているのか。

その分析は抽象的で、歴史的・社会的背景も含んでいた。

当時の私には難しかった。

文章を追っても、スタンダールが何を分類し、何を証明しようとしているのか、十分には理解できなかった。

恋愛という題材を扱っているのだから、感情的に分かりやすい本だろうと思っていた。しかし、そこで論じられていたのは、単純な恋の喜びや悲しみではない。

恋愛を観察し、分類し、心理の働きとして分析する文章だった。

高校生の私は、恋愛についての経験も、当時のヨーロッパ社会についての知識も乏しかった。

恋愛における理想化や虚栄といわれても、それを自分の経験と結びつけることができない。

名著とされる本を手に取ったものの、読み進めるほど、自分の理解が追いついていないことを感じた。

私は途中で挫折した。

しかし、『恋愛論』を読み通せなかったことは、不思議に記憶に残っている。

容易に読めた本よりも、歯が立たなかった本の方が、後になって思い出されることがある。

それは、自分の外側に、まだ理解できない広い世界があることを知らせるからだろう。

高校生の私には、『恋愛論』は早すぎた。

けれども、早すぎる本に出会ったこと自体には意味があった。

本は、いつでも読者に合わせて分かりやすく書かれているわけではない。

理解できない文章に出会い、自分の知識や経験の不足を知ることも読書なのである。

雑誌によって社会へ出ていく

小説や文庫本とともに、『朝日ジャーナル』『文藝春秋』『サンデー毎日』などの雑誌も読んだ。

これらは性格の異なる媒体だった。

『朝日ジャーナル』は1959年に創刊され、1992年まで発行された週刊誌で、報道、解説、評論を掲げ、戦後日本の政治、社会、思想を論じる媒体の一つだった。

『文藝春秋』は菊池寛が1923年に創刊した月刊総合誌で、文学だけでなく政治、社会、人物論、座談会などを広く扱ってきた。創刊号には芥川龍之介や川端康成らも寄稿している。

『サンデー毎日』は1922年4月2日に創刊され、『週刊朝日』と並ぶ日本の初期の週刊誌の一つである。

私は、それぞれの雑誌を体系的に比較研究していたわけではない。

小説とは異なる文章を読みたかった。

政治、社会、文化、事件、教育、人間について、新聞記事よりも長く、書籍よりも早く論じる文章が雑誌にはあった。

雑誌には、その時代の熱があった。

後から歴史書を読めば、出来事の原因と結果が整理されている。しかし、その時代に発行された雑誌では、まだ結論が出ていない問題が扱われている。

何が正しいのか分からない。

社会がどこへ向かうのかも分からない。

書き手の主張には偏りもある。

しかし、未確定な時代の中で、人々が何を問題だと考えていたのかが見える。

文学が人間の内面を読むものだとすれば、雑誌は、その人間が生きている社会を読むものだった。

私は、小説から社会へ、社会からまた小説へと行き来するようになった。

学生時代には理系雑誌へ

学生時代になると、読むものは理系雑誌へ広がった。

文学から理系へ転向したというより、関心の対象が増えたといった方が正確だろう。

文学は、人間の感情や行動を言葉によって描く。

理系雑誌は、自然、技術、医学、数学、機械などの仕組みを説明する。

一見すると、この二つは遠く離れている。

しかし、私にとっては、どちらも知らない世界を文章によって理解しようとする行為だった。

文学作品を読むときには、登場人物がなぜそのように考え、行動したのかを追う。

科学や技術の記事を読むときには、現象がなぜ起こり、どのような仕組みで成り立っているのかを追う。

対象は違っても、「なぜ」を考えることは共通している。

学生時代の読書では、楽しみだけでなく、学習や専門知識の獲得という性格が強くなった。

分からない用語を調べる。

図や数式を読み直す。

一度では理解できない説明を、前のページへ戻って確認する。

フランス文学やロシア文学で感じた「分からなさ」と、理系雑誌で感じる「分からなさ」は性質が違う。

しかし、理解できない文章の前で立ち止まるという経験は同じだった。

文学での挫折も、無駄ではなかったのかもしれない。

成人してから、ジャンルの境界がなくなった

成人してからは、特定のジャンルに限らず、あらゆる分野の本を広く読むようになった。

文学、政治、経済、歴史、科学、医学、宗教、社会問題、資格、技術、実用書。

仕事や生活の中で必要になった本もあれば、純粋な関心から読んだ本もある。

高校生の頃には、文学を読むことに、一種の背伸びがあった。

名著を読まなければならない。

有名作家を理解しなければならない。

難しい本を最後まで読まなければならない。

成人後は、そのような義務感が少し薄れた。

必要な本を読む。

関心を持った本を読む。

難しければ、関連する入門書を先に読む。

途中で読むのをやめることもある。

一冊の本をすべて理解しなくても、必要な部分から何かを得ることができる。

読書に対する考え方が柔軟になった。

一方で、広いジャンルを読むことには問題もある。

一つの作家を長く追い続けることが難しくなる。

次々に別の分野へ関心が移り、知識が断片化する。

文学作品をゆっくり味わうより、必要な情報を探す読み方が増える。

多くの本を読んでも、それぞれの内容が深く残るとは限らない。

広く読むことと深く読むことは、必ずしも両立しない。

それでも、さまざまな分野を横断して読むことで、一つの問題を一つの視点だけで見ない習慣が生まれた。

医療の問題には、医学だけでなく、経済、倫理、家族、制度が関係する。

地域社会の問題には、人口、交通、産業、行政、教育、文化が関係する。

人間の生活は、学問の分類どおりには分かれていない。

文学、科学、社会、実用の本を分けずに読んできたことは、複数の視点を結びつける基礎になったと思う。

昭和の読書は、書店と紙の中にあった

昭和の読書を思い返すと、本に出会う場所は限られていた。

書店、図書館、学校、新聞広告、雑誌の書評、友人や教師の紹介。

自分が知らない本は、存在しないのと同じだった。

現在のように、作家名を検索すれば著作一覧が出てくるわけではない。読者の感想や評価をすぐに読めるわけでもない。

地方では、書店に置かれる本の種類にも限界があった。

取り寄せには時間がかかる。

外国文学の背景を知りたいと思っても、関連資料を簡単に集めることはできない。

その不便さを美化する必要はない。

情報が少ないために、理解できないまま終わった本もあったはずである。

スタンダールの『恋愛論』も、現在なら作品解説、時代背景、「結晶作用」の意味などを調べながら読むことができる。

高校生だった当時は、難しいと感じても、その難しさを解くための手掛かりを簡単には得られなかった。

しかし、情報が少なかったからこそ、一冊の本を長く手元に置くこともあった。

分からなくてもページをめくる。

途中でやめても、本棚に残しておく。

何年か後に、もう一度開く。

本は、すぐに答えを出す道具ではなく、理解できないまま自分のそばに存在するものでもあった。

平成、本を探す方法が変わった

平成になると、読書を取り巻く環境は大きく変化した。

大型書店が増え、書店の品ぞろえは広がった。

やがてインターネットが普及し、書名や作家名を検索して本を探せるようになった。オンライン書店を使えば、近くの書店にない本も購入できる。

昭和には「本が見つからない」ことが問題だった。

平成以降は、「本が多すぎて選べない」ことが問題になった。

書評や読者の感想を読んでから購入できるようになったことは便利だった。

一方で、他人の評価を先に知ることによって、自分だけの印象で作品と出会う機会は減ったかもしれない。

作品のあらすじを詳しく知りすぎれば、読む前から理解したような気持ちになることもある。

情報が増えれば、読書が必ず深くなるわけではない。

選択肢の増加は、一冊の本へ集中する時間を奪うこともある。

平成の読書は、入手の自由を広げると同時に、注意を分散させる時代でもあった。

令和、読む側から書く側へ

令和の現在、文章を読む環境はさらに変わった。

紙の本だけでなく、電子書籍、ウェブ記事、電子資料、個人ブログなど、さまざまな形で文章を読める。

スマートフォン一台で、多くの文章へ接続できる。

そして、読むだけでなく、個人が文章を公開することも容易になった。

私はいま、自分が読んできた本、使ってきた機械、聴いてきたラジオ、暮らしてきた時代について文章を書いている。

小学生の頃、課題図書を読んで感想文を書くことから始まった。

中学生では『天声人語』を読んだ。

高校生では太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成を読み、片岡義男や三田誠広を読んだ。

新潮文庫と角川文庫の棚を眺めた。

フランス文学やロシア文学に挑み、途中で挫折した。

スタンダールの『恋愛論』は難しく、最後まで十分には理解できなかった。

『朝日ジャーナル』『文藝春秋』『サンデー毎日』から社会を読んだ。

学生時代には理系雑誌を読み、成人してからは、ジャンルを限定せず幅広い本を読んだ。

そして今度は、自分が文章を書く側にいる。

もちろん、読むことと書くことは同じではない。

多くの本を読んだからといって、優れた文章を書けるとは限らない。

しかし、これまで読んだ文章は、自分の中に残っている。

文章のリズム。

場面の始め方。

一つの事実から考えを広げる方法。

人間を簡単に善悪で決めつけない視点。

理解できないものを、理解できないまま抱えておく姿勢。

それらは、一冊の本から直接教えられたものではない。

長い読書の中で、少しずつ形づくられたものだと思う。

読み通せなかった本も、読書遍歴に含まれる

読書歴を語るとき、人は読み終えた本を並べたくなる。

何を読破したか。

どの作家を理解したか。

どれほど難しい本を読んだか。

しかし、本当の読書遍歴は、もっと不完全なものである。

読み始めたまま、途中でやめた本がある。

内容をほとんど覚えていない本がある。

当時は感動したのに、なぜ感動したのか説明できない本がある。

難しくて理解できなかった本がある。

読み終えたつもりでも、実際にはほとんど分かっていなかった本もある。

フランス文学やロシア文学での挫折も、スタンダールの『恋愛論』を読み通せなかったことも、私の読書遍歴から除く必要はない。

むしろ、そこで初めて、本には自分の理解を超えるものがあると知った。

すべてを理解できると思うことの方が危うい。

文学は、簡単に答えを与えるものではない。

人間の感情や社会は複雑で、一度読んだだけでは理解できない。

年齢を重ねても、完全に理解できるとは限らない。

だからこそ、もう一度読む意味がある。

三つの時代を通じて残ったもの

昭和、平成、令和を通じて、読書の環境は大きく変わった。

昭和には書店の棚から本を選び、紙の文庫本を持ち歩いた。

平成にはインターネットで本を探し、遠くの書店やオンライン書店から購入できるようになった。

令和には電子書籍やウェブ上の文章を読み、自分自身もブログや電子書籍を通じて文章を発表できる。

本の形は変わった。

本を探す方法も変わった。

読む速度や、文章へ向き合う時間も変わった。

それでも、人が文章を読む理由の根本は、それほど変わっていないのかもしれない。

自分とは違う人生を知りたい。

自分の中にある感情を言葉にしたい。

世界がどのようにできているのかを知りたい。

過去の人が何を考えていたのかを知りたい。

自分が一人ではないことを確かめたい。

文学は、人生の問題を解決してくれるわけではない。

病気、仕事、家族、孤独、老いといった現実は、本を読んだだけで消えるものではない。

しかし文学は、自分だけが抱えていると思っていた感情が、別の時代、別の国、別の人間にも存在していたことを教えてくれる。

答えを与えるというより、問いに言葉を与えてくれる。

それが文学の役割なのだと思う。

課題として始まった読書が、人生の一部になるまで

小学生の頃、私は課題図書を読む程度だった。

その時点では、読書がその後の人生にこれほど長く関わるとは思っていなかった。

中学生で新聞のコラムを読み、高校生で文学に出会った。

名著を読み、流行作家を読み、文庫本を買った。

外国文学に挑み、挫折した。

雑誌を読み、社会へ関心を広げた。

理系雑誌を読み、自然や技術の仕組みを知ろうとした。

成人してからは、ジャンルを越えて本を読んだ。

振り返れば、読書の対象は変わり続けている。

しかし、知らないものを文章によって知ろうとする姿勢は変わっていない。

読み終えた本だけが、自分を作ったのではない。

理解できなかった本も、途中で閉じた本も、書店で手に取っただけの本も、自分の中に何らかの痕跡を残している。

高校生には難しかったスタンダールの『恋愛論』も、その一冊である。

内容を十分に理解できなかった。

それでも、理解できない本が世界には存在することを教えてくれた。

そして、いつかもう一度開けば、当時とは違うものが見えるかもしれないと思わせた。

課題として始まった読書は、やがて自分から本を選ぶ読書になり、社会を知る読書になり、専門を学ぶ読書になった。

そして令和の今、それは、自分が生きてきた時代を文章として残すための読書へつながっている。

昭和に開いた一冊の文庫本も、平成に探した専門書も、令和に読む電子書籍も、すべてが同じ形で記憶に残るわけではない。

けれども、読み終えて本を閉じた後、自分の人生や社会について少し考える時間が残るなら、その読書は無駄ではなかった。

本を読む人間として始まったわけではない私が、長い時間をかけて本を読む人間になった。

それが、昭和、平成、令和を通じた、私の読書遍歴である。

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