観光協会で北倉の動画が流れてから、町の空気が少しだけ変わったように真鍋には思えた。 それは目に見える変化ではない。駅前のシャッターが急に開くわけでもなく、海沿いに新しい店ができるわけでもない。けれど、市役所の廊下で交わされる雑談や、観光協会から入る電話の声色に、どこか前のめりなものが混じり始めていた。
地域戦略課の会議机の上には、その日も観光パンフレットと補助金要綱と市長ヒアリング用のメモが雑然と積まれていた。 真鍋が前日に修正した移住定住関係の資料を綴じていると、野添課長が向かいの席に腰を下ろし、机の上に観光協会の簡易報告書を置いた。 「これ、見た?」 表紙には、北倉が撮った港の写真が使われていた。
朝の斜めの光を受ける防波堤、船の影、網を持つ男の背中。見慣れているはずの風景が、少しだけ別の町のように見える。 「見ました」 「安積さんのとこ、かなり手応えあるみたいだね」 野添は報告書をめくりながら言った。 「問い合わせも、想定より反応がいいらしい。観光だけじゃなくて、移住の窓口にも少し流れてるって」
真鍋は軽くうなずいた。 たしかに、動画の公開後、地域戦略課にも二件ほど、観光をきっかけにした長期滞在や二地域居住に関する問い合わせが入っていた。数字として誇れるほどではない。 だが、何も起きないよりずっといい。 「単発で終わらせるの、もったいないな」 野添がそう言ったところで、課の入口から安積恵子が顔を出した。 観光協会からわざわざ庁舎まで来るのは、たいてい何か話を前へ進めたい時だ。 「お忙しいところすみません」 「どうぞどうぞ」
安積は真鍋と野添の向かいに座ると、少し息を整えてから言った。 「北倉さんの件なんですけど、あのまま単発の発信協力で終わらせるの、やっぱり惜しいと思っていて」 「うちも今その話をしてたところ」 野添が答える。 「やるなら事業化かな、って」 「ですよね」 安積はすぐに身を乗り出した。 「動画も写真も、単体で出して終わりじゃ弱いんです。商店街とか、港とか、古民家とか、もっと回遊とか滞在とかにつなげたい。だけど、うちだけじゃそこまで組み立てられなくて」 真鍋は安積の言葉を聞きながら、机上のパンフレットを一枚引き寄せた。
観光をどう移住につなぐか。移住をどう町内の回遊へ戻すか。課の中でも何度も出ては散ってきた話だった。 観光は観光、移住は移住、空き家は空き家、と担当が分かれれば分かれるほど、どれも一枚の紙の上で切れてしまう。 「観光だけのPR事業だと弱いかもしれません」 真鍋は言った。 「移住とか、関係人口とか、もう少し接続できる形の方が——」
そこで、廊下側の扉が軽くノックされた。 「失礼します」 北倉恒一郎が、いつもの穏やかな調子で顔を見せた。 安積が呼んでいたのだろう。地域戦略課の職員でも外部委員でもないはずの男が、今ではもう、こういう場にいても誰も不自然には思わなくなっていた。 「ちょうどいいところに」 野添が手を上げる。 「今、事業化の話をしてたんですよ」 「そうですか」
北倉は一礼して、真鍋の斜め向かいに腰を下ろした。 前に出たがっている様子はない。だが、その座り方には、必要なときに口を開く準備だけは整っている感じがあった。 「観光だけだと一過性になりやすいので」 北倉は誰かを押しのけるでもなく話し始めた。 「もしやるなら、『人を呼ぶ』じゃなくて、『関わり続ける入口を作る』という組み方の方が自然かもしれません」 「関わり続ける入口」 真鍋が復唱すると、北倉はうなずいた。 「ええ。来て終わり、見て終わり、でなくて、次の接点が残るようにする。そういう設計なら、観光と移住をわざわざ分けなくても同じ線に乗せられる」
安積が「それです」と小さく言った。 「こっちが言いたかったの、たぶんそこなんです」 「関係人口、ってことですか」 真鍋が訊くと、北倉は穏やかに笑った。
「そうです。観光客でも移住者でもなく、何度も関わりたくなる人を増やす。その方が、今の制度にも乗せやすい」 野添が机の上の要綱集をめくりながら言った。 「実証枠で取れる可能性はあるかもしれないな」 北倉は少しだけ間を置き、いかにも補足のような声で言った。 「必要なら、叩き台くらいは整理しますよ」 その言い方は控えめだった。 だが真鍋には、その一言で場の議論がすっと前へ滑ったのが分かった。
今まで各自がばらばらに持っていた考えの輪郭が、北倉の置いた言葉の上で、急に一本の線になり始めていた。 北倉が何気なく置いた言葉の上に、その場の議論は驚くほど素直に形を取り始めていた。 その日の午後にはもう、事業の叩き台を作る打合せが始まっていた。 会議室のホワイトボードには、野添が書いた単語がいくつも並んでいた。 観光PR。商店街回遊。空き家活用。移住促進。動画発信。地域資源。滞在導線。体験プログラム。 どれも間違ってはいない。だが、どれもよくある。 それぞれが必要で、それぞれに意味はあるが、一枚の事業名と説明文に落とした瞬間に、急に力を失いそうな言葉たちだった。 「観光情報発信強化事業、だと弱いですね」 真鍋が言うと、野添も困ったように笑った。 「弱い。古い感じもする」 「移住促進を入れると、逆に散る気もします」 「商店街活性化まで入れると、なおさらね」 安積も腕を組んだまま首をひねっていた。 「やりたいことはあるんです。でも、並べると急に普通になる」 北倉はそのやり取りを聞きながら、手元のメモ用紙に何かを書いていた。しばらくしてから、彼はホワイトボードの前に立った。 「散ってるんじゃなくて、まだ束ねる言葉がないだけです」 「束ねる言葉?」 真鍋が訊く。 「はい。観光PRは手段ですよね。移住促進も結果の一部。だったら、何を起こしたいのかを先に置いた方がいい」 北倉はボードの中央に、はっきりした字で書いた。 関係人口創出 その下に、少し小さく書き足す。 港町魅力発信 そして最後に、右側へ線を引いて、 実証事業 と置いた。 「これだと、観光も移住も商店街も全部、同じ線の上に置けます」 安積がメモをのぞき込み、野添がうなずく。 「実証、か」 「はい。今は『PRをやります』より、『実証します』の方が通りやすい。試して、測って、次につなげる。行政も説明しやすいです」 真鍋は自分でも驚くほど素直に、その骨格の強さを理解していた。 これは、ただの語彙の置き換えではない。何を目的に見せるか、誰にどう説明するか、その順番まで含めて整理されている。 「港町魅力発信・関係人口創出実証事業……」 真鍋がゆっくりと読み上げると、北倉は笑った。 「長いですけど、こういう世界では長い方がむしろ親切だったりします」 「成果指標はどうします?」 真鍋が訊くと、北倉はためらいなく答えた。 「視聴数、問い合わせ件数、商店街・港エリアの回遊、体験参加者数。あと、『継続接点』の数字も置けるといいですね。再訪とか、二回目の問い合わせとか」
真鍋はノートに書き留めながら、内心で感心していた。 実務に関わる人間ほど分かる。こういう整理は、頭の回転だけではできない。どこに何を置けば書類が立つか、経験で知っていなければ出てこない。 「そこまで整理できるんですね」 思わず口にすると、北倉は少しだけ肩をすくめた。 「皆さんがやりたいことを、通る言葉に直してるだけですよ」 その時、資料を届けに来た桐生道子が会議室の扉を開けた。 机の上のラフ案とホワイトボードを一瞥し、彼女は中に入らないまま言った。 「通す前に、誰が実施主体で、誰が責任を持つかだけは、最初に曖昧にしないでください」 野添が「分かってる」と苦笑すると、桐生はそれ以上何も言わずに去っていった。 その一言だけが、会議室の熱をほんの少し冷ました。 けれど、流れは止まらなかった。 会議が終わるころには、事業名も目的も指標も、だいたいの骨ができていた。真鍋は打合せメモを整理しながら、気づいていた。企画書の骨格は、ほとんど北倉の言葉で組まれている。 そのことを分かりながら、真鍋はまず先に、助かったと思ってしまっていた。 翌週、北倉は観光協会の事務所にノートパソコンと外付けドライブを持ち込み、資料用の写真と映像を並べ始めた。 安積は朝から落ち着かない様子で、何度も机とプリンターの間を往復している。水城はすっかり助手のような顔で、ケーブルや機材の箱を運んでいた。真鍋も市役所から持ち出した資料を抱えて同席することになった。 北倉は机の上に写真をプリントアウトして広げた。 港の朝。防波堤。網を持つ手元。商店街の魚屋の軒先。乾物屋の木箱。坂のある路地。古民家の縁側。窓辺の花。古びた看板。海へ開ける石段。 どれも見覚えのある景色だ。 だが、こうして一枚ずつ切り取られると、町は急に『意味のある顔』を持ち始める。 「ここ、最初は港の引きでいいと思います」 北倉はそう言いながら、広がりのある一枚を先頭に置いた。 「その次に、人の手元です。風景だけだと距離があるから」 次に、網を直す老人の手、魚を並べる店主の指先、コーヒーカップを洗う女将の横顔を置く。 「それから路地と古民家。生活があるって感じさせた方が、観光で終わらない」 「順番まで、そんなに大事なんですか」 真鍋が訊くと、北倉は当然のように答えた。 「企画は中身で決まるんじゃない。中身が届く順番で決まるんです」 その言葉に、水城が目を輝かせる。 「なるほど……」 「最初に何を見せるかで、その後の数字の読み方まで変わります。港の広がりを先に見せるのか、人の表情を先に見せるのかで、読む側の温度が違う」 北倉は写真を少しずつ動かしながら続けた。 「町も同じです。どの顔から見せるかで、受け取られ方が決まる」 真鍋はその手元を見ていた。 北倉は写真を選んでいるのではなく、町に貼るべき表情を選んでいるように見えた。 採択される町の顔。関わりたくなる町の顔。来る価値のある町の顔。 そこに、映っていないものもある。 シャッターの下りたままの駅前の列。空き地になったままの角地。夜になる前に人影の消える通り。 だが、それをここで出せとは真鍋にも言えなかった。出せば通らないだろうとも思うからだ。 「すごいな……同じ町なのに、全然違って見える」 水城が素直に言った。 安積も同じようにうなずいた。 「説明資料なのに、パンフレットより伝わる感じがする」 北倉は軽く笑った。 「資料って、数字だけでは読まれないんです。先に『関わりたくなる顔』が見えないと」 そのあと北倉は、以前撮った海沿いの映像と新しく撮り足した商店街のカットをつなぎ、短いラフ動画も作ってみせた。 数十秒しかないその映像には、町の断片が、まるで最初から一つの物語だったかのようにつながっていた。 真鍋は、そこでふと分からなくなった。 自分たちが企画を作っているのか。 それとも北倉が、採択される町の顔を先に選んで、そのあとから企画をはめ込んでいるのか。 真鍋には、自分たちが企画を作っているというより、北倉が採択される町の顔を先に選んでいるように見え始めていた。 市長への説明は、三日後の午後に設定された。 市長室に近い小会議室には、秘書課の職員が先に湯呑みを並べていた。黒瀬市長は、こうした事前説明の場では「忙しいから手短に」と言いながら、面白そうな案件ほど思ったより長く座る癖がある。 真鍋は資料の束を揃えながら、口の中で要点を反芻していた。 観光と移住の接続。関係人口。実証枠。回遊。滞在後の接点。 説明すべきことは分かっている。だが、市長が何に反応するかまでは、こちらでは制御しきれない。 黒瀬は時間ぴったりではなく、少し遅れて入ってきた。 「ごめんごめん。で、今日は例の件だね」 席に着くなり、資料の表紙に使われた港の写真に目を止める。 「お、これはいいね」 その一言で、真鍋はもう半分分かった気がした。 野添が先に概要を説明する。 「港町魅力発信・関係人口創出実証事業として——」 黒瀬はうなずきながらも、視線は説明文より写真の方へ落ちている。 「単なる観光PRではなく、観光・商店街・移住導線を一体で扱う形で」 真鍋が続ける。 「実証の中で、映像発信だけでなく、現地回遊や継続接点の指標も取りたいと考えて——」 そこで黒瀬の反応が少しだけ鈍くなった。 数字の必要性は理解する。だが、それだけでは刺さらない。そういう表情だった。 横に座っていた北倉が、そのタイミングを測っていたように口を開いた。 「一言で言うと、汐崎に『また関わりたくなる入口』を作る事業です」 黒瀬が顔を上げた。 「なるほど。それは分かりやすい」 「来て終わり、見て終わり、ではなくて、次の接点が残る設計です。観光客でも移住者でもない、その間にいる人たちに、もう一度関わりたくなるきっかけを作る」 「うん、今っぽいね」 黒瀬はページをめくりながら言った。 「これなら、先進事例っぽく見せられるかもしれない」 真鍋はその言葉を聞きながら、北倉の横顔を見た。 この人は、市長が何に反応するかを最初から知っていたのだ、と思った。 先進事例。見せられる形。今っぽい。黒瀬が自分の言葉として使いたがる単語が、最初から資料の中に埋め込まれていた。 「映像も、かなりいいよね」 黒瀬がラフ動画の再生画面を見ながら言う。 「町の雰囲気が出てる」 「事実を誇張するのではなく、町の顔が見える順番を整えています」 北倉が落ち着いた声で答える。 「そうすると、来た人が『次に何へつながるか』まで想像しやすくなるので」 「いいね」 黒瀬は資料を閉じた。 「これ、前向きに進めよう。実証でやるならうちの色も出せるし」 短いが、それで十分だった。 説明を終えて会議室を出たあと、真鍋は廊下の窓から港の方を見た。 市長の前で事業が形を得た瞬間、真鍋には北倉が補足しているのではなく、この場そのものの勝ち筋を最初から握っていたように見えた。 採択通知が届いたのは、それから二週間後の午前だった。 地域戦略課の共有メールに先に入り、そのあと正式文書が庁内回覧に載った。 真鍋は最初、件名を二度見した。 港町魅力発信・関係人口創出実証事業 採択決定 「……通った」 自分でも驚くほど小さな声でつぶやくと、向かいの野添がすぐに反応した。 「ほんとに?」 真鍋が画面を回して見せると、野添は目を細め、それから大きく息をついた。 「通ったか」 その言い方には、喜びと安堵が半分ずつ混じっていた。 課の空気が少しだけ浮き立つ。近くの席の職員も、「よかったですね」と声をかけてくる。 すぐに観光協会へ電話を入れると、安積は露骨にほっとした声を出した。 『本当ですか?』 「ええ、今通知が入りました」 『よかった……これでやっと始められる』 しばらくして、北倉も課へ顔を出した。 水城がそのあとから転がり込むようについてきて、開口一番言った。 「やっぱり北倉さんだよ。あの企画、北倉さんがいなかったら、絶対ここまでまとまってないです」 北倉は少し困ったように笑った。 「皆さんが動いた結果ですよ」 「でも、通る形にしたのは北倉さんじゃないですか」 水城は本気でそう思っている顔だった。 たぶん、それは半分くらい本当なのだろうと真鍋も思った。 「北倉さんは驚かないんですね」 真鍋が何気ないふうに言うと、北倉は軽く首を振った。 「驚いてますよ。ただ、通ったなら次を考えないと」 「次、ですか」 「実証って、採択された時点で半分は見せ方の勝負が始まってますから」 その言葉に、真鍋は少しだけ寒気に似たものを覚えた。 課の中ではまだ採択の余韻が広がっている。通知を印刷し、関係部署へ回し、安積には正式文書を送って、市長ヒアリングの準備をしなければならない。そんな実務のざわめきの中で、北倉だけがすでに採択の『次』を見ているように見えた。 採択の知らせに庁内が少しだけ浮き立つなかで、北倉だけが最初からその先に立っているように見えた。 採択の二日後、地元紙・北浜新報に小さな記事が載った。 見出しは前向きだった。 「汐崎市 港町の魅力発信実証へ」 本文には、観光と関係人口創出をつなぐ新しい試みとして、事業の狙いが手短にまとめられている。写真は、北倉が撮った港の一枚ではなかったが、同じ方向を向いた紙面だった。 その記事が出ると、庁内でも商店街でも、北倉の名前がさらに自然に出るようになった。 「北倉さんが入ってから、流れが変わったね」 「やっぱり外の人がいると違うな」 「今度の件も、北倉さんに聞けば早いんでしょう?」 真鍋は、そういう言葉を聞くたびに、うまく説明しにくい重さを感じた。 間違ってはいない。北倉が流れを作ったのは事実だ。 けれど、それが事業の評価なのか、北倉という人物への依存の始まりなのか、境目が見えにくくなっている気がした。
夕方、真鍋が庁舎を出ると、植え込みの脇に堂本忍が立っていた。新聞社の白い車が、少し先の路肩に停まっている。 「お疲れさまです」 声をかけると、堂本は軽くうなずいた。 「採択、おめでとうございます」 「ありがとうございます。町としては、いい流れだと思います」 「そうでしょうね」
堂本はそれ以上うなずきもせず、港の上の空を見た。薄い雲が夕方の色を引き延ばしている。 「何か気になることでもあるんですか」 真鍋が訊くと、堂本は少しだけ口元を動かした。 「採択は始まりであって、証明ではありませんよ」 「証明?」 「通る企画と、残る仕事は別です」 それだけ言って、堂本は車の方へ歩き出した。 引き止めるほど長い言葉ではない。だが、その短さのせいで、かえって耳に残った。 その夜、真鍋は自席のパソコンで、採択通知と地元紙の記事、それに企画説明資料を順に開いた。 事業名。説明文。成果指標。ラフ動画の静止画。港の写真。商店街。古民家。 どれも整っている。読みやすい。筋も通っている。 この町が前へ進もうとしているのだと、紙の上ではちゃんと見える。 それは事実だった。 観光協会の現場も、安積の焦りも、野添の調整も、自分の書類仕事も、確かにここへつながっている。 北倉一人が全部を作ったわけではない。
だが同時に、それらを『通る形』へ整えたのが北倉であることも、否定しがたかった。 そして、その整え方がうますぎることが、真鍋には少しだけ怖かった。
採択の通知はたしかに町の前進だった。だが真鍋には、その紙一枚の向こうで、別の何かも静かに通ってしまった気がした。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.
