リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

事業は、動き出してからのほうが忙しかった。

 採択までの時間は、まだ紙の上で考える余地があった。企画の名前を整え、写真の順番を決め、言葉を置き換えれば、前へ進んでいるように見えた。だが実施に入ると、前へ進むとは、誰かが何かを実際にやることなのだと嫌でも思い知らされる。

 地域戦略課の机の上には、ここ数日で急に紙が増えた。 参加申込の一覧。日程調整表。撮影カットの希望メモ。観光協会から回ってきた確認事項。商店街の店主から出た要望の書きつけ。  真鍋はそれらを一つずつ束ねながら、最初に想定していたより、事業というものは細かい雑務の集合なのだと思った。雑務という言い方は正しくないかもしれない。どれも誰かにとっては本題で、どれも落とせばその場が回らなくなる。

 協議会の実施打合せでも、その現実ははっきりと見えていた。 「撮って終わりじゃないんですよね」  観光協会の安積恵子が、資料に赤で書き込みを入れながら言った。 「素材の整理もあるし、公開後の更新もあるし、参加者対応もある。現地の案内も、終わったあとの記録も、全部こちらに戻ってくる」 「イベント当日の動線整理と、報告書用の写真選定も必要ですね」 真鍋が補う。 「あと商店街と港側の連絡。撮影の許可確認も細かく出てきます」 野添課長が手元の進行表を見て、露骨に顔をしかめた。 「市で全部持つのは無理だな……」 「観光協会も、今の人数では抱えきれません」 安積は隠さなかった。 会議室の空気が少しだけ重くなる。

 そこへ北倉が、いかにもその重さを前提にしていたような口調で入ってきた。 「この業務、まとめて考えるから重く見えるんです」 言いながら、机の中央に置かれた一覧表へ手を伸ばす。 「切り出せば、そこまで大きくないものもあります」 「切り出す?」 真鍋が訊くと、北倉はうなずいた。 「撮影は撮影、編集は編集、現地調整は現地調整、参加者管理は事務局補助。業務を分けた方が責任も見えやすいし、内部で抱えなくていいものは外へ出した方がむしろ透明です」 透明。  その言葉が、真鍋の耳に引っかかった。 だが反論はしにくかった。  たしかに、まとまりとして持つから何もかも重く見えるのだ。業務が細かく分かれれば、外へ出せる部分もあるし、内部で持つべきものも見える。実務の理屈としては、北倉の説明は正しかった。 「たとえば、どこまで切り出せますか」 野添が訊く。 「追加撮影、編集差し替え、告知画像、SNS更新、参加者管理の補助、当日の現地調整、報告書素材の整理。この辺は分けられます。内部で持つべきなのは、市の判断を含むところと、契約・支出の管理ですね」 真鍋はメモを取りながら、いつのまにか北倉が『何を仕事として数えるか』まで決めていることに気づいた。  最初からそこにあった仕事ではない。北倉が切り分けることで、仕事の形を持ち始めるものもある。 それはたぶん必要なことだ。  必要であることと、誰がその線を引くかが別の問題であることを、真鍋はまだうまく言い分けられなかった。  真鍋には、業務が整理されているというより、仕事の流れそのものが北倉の手で小さく切り分けられていくように見えた。

 外へ出す仕事が見えてくると、次は「誰に頼むか」という話になる。 その段階になると、会議はたいてい人数が少なくなる。 大きな方向性を決める場には人が集まり、具体的に人と金の名前が乗り始めると、関わる人間だけが残る。

 その日の打合せもそうだった。市役所の一角で始まった話は、なぜか夕方には北倉の古民家へ場所を移していた。理由は簡単で、観光協会も市役所も来客や通常業務が重なり、静かに話せる場所がそこしかないからだった。たしかにそのとおりだった。たしかにそのとおりなのに、真鍋にはそれすら北倉の都合のいい流れに見えることがあった。  座卓の上に、切り出された業務の一覧が並ぶ。 追加編集。 告知物制作。 参加者対応。 SNS更新。 現地調整。 事務局補助。

「で、外に出すとして、誰に頼むかですよね」 真鍋が言うと、野添が腕を組んだ。 「そこなんだよな。すぐ動ける人がいればいいけど」 北倉はそこで、自分の手柄にするでもなく、あくまで選択肢を出す人の顔で口を開いた。 「三崎さんなら、参加者対応と事務局補助はかなり向いてると思います」 三崎聡子は、少し驚いたように顔を上げたが、すぐに落ち着いてうなずいた。 「私でよければやります」 「水城くんはSNS更新と現地調整が合ってる。若い層との接点もあるし、動きも軽い」 「やれます」 水城は前のめりに言った。 「むしろそこは任せてほしいです」 安積はほっとしたような表情になった。 「その二つだけでも引き取ってくれるなら、かなり助かる」 「告知物はどうします?」 真鍋が訊くと、北倉はすぐ答えた。 「以前、沿岸部の案件で使ったデザイナーがいます。速いし、地方案件の温度感も分かってる」 「見積はすぐ取れますか」 「ええ、すぐ動けると思います」 編集の話になると、北倉はまた別の名前を出した。 「映像差し替えなら、前に使った編集者の方が早いです。一から説明しなくて済むので」

 真鍋はそのやりとりを聞きながら、北倉の『すぐ動ける人脈』の広さに感心していた。  同時に、それが感心だけで済まない理由も感じていた。 外へ出す仕事も北倉が切り分け、頼む先も北倉が知っている。 では、誰がこの流れを比較し、誰が選び直すのか。 「他に候補は当たれますか」 真鍋はあえて訊いてみた。  北倉は否定もせず、軽く笑った。 「当たれます。ただ、時間はかかるでしょうね」 「時間、ですか」 「ええ。小さい案件ほど、動ける人に直接振った方が回るんです。比較のために比較している間に、現場の熱が冷めることもありますから」 正論だった。  少なくとも、その場ではそう聞こえた。 不自然な人選ではなかった。だからこそ真鍋は、その自然さの中心にいつも北倉がいることを、かえって気味悪く感じた。

 見積書や伺い書を前にすると、違和感はもっと静かな形になる。 真鍋はもともと、数字や書類を雑に扱う方ではなかった。  どちらかといえば、文章の癖や書き方の揃い方の中に、その案件の危うさがにじむことの方を信じていた。だから委託関係の書類を整理し始めてから、気になるのは金額そのものより、理由の書き方だった。 告知物制作一式。 追加編集一式。 参加者対応補助若干名。 SNS更新支援一式。

 一件ごとは小さい。 少額案件として処理できる範囲で、急ぎの理由もつく。専門性が必要だと言えば、それも通る。 形式上は、何も大きく間違っていない。

「このデザイン案件、他に候補は当たってますか」 真鍋が野添の机に書類を持っていって訊くと、野添はペンを回しながら少し目をそらした。 「いや、急ぎだからまずは北倉さん経由で話を聞いた形だな」 「この編集分も、比較は取ってないですよね」 「金額的には少額だし、前に使った人の方が早いって話で……」 そこへ、ちょうど資料を抱えた桐生道子が通りかかった。真鍋の手元の書類を見て、彼女は立ち止まる。 「見せて」 真鍋が差し出すと、桐生は数秒で目を通した。 「小さい案件ほど、決め方が顔で流れるのよ」 「顔、ですか」 「ええ。額が小さいから、みんな『まあいいか』で済ませる。でも積み上がると形になる」 「形式上は問題ないように見えるんですけど」 「形式上、ね」 桐生は書類を返した。 「形式が整ってることと、健全であることは別だから」 その言葉を聞いて、真鍋は胸の内側で小さく息をついた。 同じところを見ている人間がもう一人いる。  それだけで少し救われる気もしたし、逆に逃げ場がなくなる気もした。  後で北倉にも、なるべく軽い調子で確認してみた。 「この委託先、かなり事情をご存じなんですね」 北倉は特に構える様子もなかった。 「以前一緒にやったことがあるので」 「比較の余地は?」 真鍋が訊くと、北倉は苦笑した。 「比較のための比較をしている時間、今の汐崎にはないと思いますよ」 「でも、選んだ理由は必要です」 「もちろん。だから、動けること、地方案件に慣れてること、継続案件として引き継ぎやすいこと、その辺で十分説明できるはずです」 説明はできる。 たしかに、できる。  問題は、その説明がいつも北倉の側から出てくることだった。 書類の上ではどこにも大きな傷はなかった。だが真鍋には、その滑らかさそのものが、決め方の曖昧さを覆っているように思えた。  困るのは、成果物がちゃんとしていることだった。 動画は見栄えがした。  告知物も、これまで汐崎で見てきたどのチラシより洗練されていた。港の光と商店街の店先の色味が抑えられ、余白の取り方まで都会的だった。SNSの投稿も、文句なく上手かった。言葉は軽すぎず、写真は映えすぎず、町の温度感だけを少し持ち上げる。  小さな体験イベントも、一見するとにぎわっていた。参加人数は爆発的ではないが、写真に切り取られれば十分に前向きに見える。むしろ、その「十分さ」が現実的で厄介だった。

「正直、ここまで形になると思ってなかったです」 観光協会の安積が、出来上がったチラシ束を机に置きながら言った。 「ちゃんと『やってる感』じゃなくて、やってるものになってる」 水城はスマートフォンの画面を見せた。 「反応も悪くないですよ。フォロワーも増えてるし、保存数も結構いってます」 「参加者対応も前よりだいぶ回しやすくなりました」 三崎も淡々と報告した。 「問い合わせの流れが整理されてるので、現場で詰まりにくいです」  真鍋は、その報告を聞きながら否定の言葉を持てなかった。 実際、悪くないのだ。 いや、悪くないどころか、今までの汐崎の事業に比べればかなり良く見える。

 市長への途中報告でも、黒瀬は満足そうだった。 「いいじゃないか。ちゃんと動いてる感じが出てる」 その言い方に、真鍋は少しだけ顔をしかめた。 動いてる感じ。 だが、この市長にとっては、それが本質なのだろうとも思った。 北倉は控えめな声で言った。 「町の素材がいいんです。見せ方を整えただけですよ」 整えただけ。 たしかに整っている。  そして、整っているほど、真鍋には自分の引っかかりを説明しにくくなった。 成果物がまともであるほど、真鍋は逆に、自分が何に引っかかっているのかを言葉にしにくくなっていった。

 堂本忍が支出先の名前に目を止めたのは、事業の途中経過を取材に来たときだった。 庁舎前の植え込みの脇で、堂本はいつものように無愛想に立っていた。記事のための取材だと言いながら、その手元の手帳は、成果物の見た目よりも、協議会の名簿や委託先の欄に長く止まっていた。

「今回、動きは早いですね」 堂本が言う。 「ええ。体制が柔らかい分、回しやすいところはあります」 真鍋が答えると、堂本は少しだけ目を細めた。 「柔らかい、ですか」 「……悪く言えば、曖昧でもありますけど」 真鍋は、自分でも意外なほど素直にそう言っていた。 堂本の前では、少しだけ本音が出やすいのかもしれなかった。 堂本は手帳を開いた。 「委託先、ずいぶんきれいに並んでますね」 「きれいに?」 「知ってる名前が、ちゃんと知ってる並びで出てくる」 その言い方に、真鍋は一瞬、何も返せなかった。 「成果物は悪くないですよ」 ようやくそう言うと、堂本はすぐにうなずいた。 「でしょうね。成果物が立派なときほど、決め方は見えにくいんですよ」 真鍋は黙ったままだった。 「委託って便利な言葉です」 堂本は淡々と続けた。 「責任を残したまま、手だけ外へ出せる」 それは、いかにも記者らしい言い方だった。 だが、うまく言えないまま真鍋が感じていたものを、一言で輪郭にしてしまう言い方でもあった。  堂本はさらに委託先の名前を二、三、手帳に書き留めた。 それだけの動作なのに、真鍋には、それまで気配だけだった違和感に薄い輪郭が与えられたように思えた。  その夜、真鍋は一人で協議会の体制図を見ていた。 市役所。 観光協会。 協議会。 事務局補佐。 運営補助。 撮影。 編集。 告知物制作。 SNS更新。 現地調整。

 矢印でつながれたそれぞれの項目は、図の上では整然としていた。支出一覧もそうだ。どこへ、何の名目で、いくら動いたか。少額の線が何本も走っているだけで、一見すれば普通の事業運営に見える。

 成果物も整っていた。 SNSの反応も悪くない。 参加者数も、極端ではないぶん自然だ。 誰かがあからさまに損をしているようにも見えない。

 だから余計に、真鍋には分からなくなった。 これは町のために動いているのか。 それとも、北倉という回路を通すことでしか成立しない形へ変わってしまったのか。

 北倉一人が悪い、とまではまだ言えない。 観光協会も助かっている。 野添も、現場が回るならそれでいいと思っている。 水城や三崎も、本気で町のために動いているのだろう。 だからこそ厄介だった。

 問題は、一件ごとの支出ではない。 仕事がどこへ集まり、誰の手の中で『当然』になっていくのか、その流れそのものに、真鍋は気味悪さを覚えていた。 町のために動いているはずの事業が、いつのまにか北倉という回路を太くすることでしか前に進まなくなっているように、真鍋には見え始めていた。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.