リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

本当に日本人は「読まなくなった」のか

「最近の人は長い文章を読まない」

「若者は本を読まなくなった」

「SNSの短文ばかり読んでいるから読解力が落ちた」

こうした言葉を耳にすることがある。

確かに、書籍を読む習慣について見ると、変化は大きい。

文化庁が2024年に公表した令和5年度「国語に関する世論調査」では、1か月に本を何冊読むかという質問に対し、

「読まない」62.6%

という結果になった。

1冊以上読む人は合計36.9%だった。

さらに、

「以前と比べて読書量は減っている」

と答えた人は69.1%に達している。

この数字だけを見れば、

「日本人は本を読まなくなった」

という説明は間違っていないように見える。

しかし、同じ調査には興味深い結果がある。

本を1冊も読まないと答えた人のうち、

SNS、

インターネット上の記事、

その他の文字情報、

を「ほぼ毎日読む」と答えた人は75.3%だった。

つまり、

本を読まない人の多くも、文字そのものを読んでいないわけではない。

むしろ私たちは毎日、

ニュース。

SNS。

メール。

メッセージ。

検索結果。

商品説明。

口コミ。

仕事上の資料。

など大量の文字を読んでいる。

ここから問題を少し変えてみる必要がある。

「日本人はなぜ文章を読まなくなったのか」

ではない。

「なぜ一つの文章を長時間読み続けることが少なくなったのか」

と問うのである。

この違いは大きい。

本稿では、

総合誌。

新聞。

テレビ。

インターネット。

検索エンジン。

スマートフォン。

SNS。

というメディア環境の変化から、

日本人の「読む能力」ではなく、

読むために使う時間の構造

がどう変化したのかを考えてみたい。


1 かつて「読むこと」にはまとまった時間が必要だった

昭和の情報環境を考えてみよう。

政治について知りたい。

国際問題について知りたい。

文学について考えたい。

社会問題について詳しく知りたい。

そう思った場合、

新聞を読む。

本を読む。

新書を読む。

総合誌を読む。

という方法が大きな位置を占めていた。

もちろんラジオやテレビもあった。

しかし詳しい議論になると、

文章

が重要だった。

総合誌には、

数千字。

時には数万字。

という論考が掲載される。

一冊の新書なら200ページ前後ある。

小説ならさらに長い。

つまり情報を得ることと、

ある程度まとまった時間を一つの文章へ投入すること

が結び付いていた。


2 総合誌は読者に「長く読むこと」を要求した

『世界』

『中央公論』

『文藝春秋』

などの総合誌には、

政治。

経済。

外交。

歴史。

思想。

文学。

科学。

社会問題。

などが同じ一冊に掲載されてきた。

現在でも総合誌は存在するが、かつては知識人や専門家の長い論考に触れる重要な入口だった。

総合誌の文章には、

前提。

歴史的背景。

論点。

反論。

結論。

がある。

そのため、

途中だけ読んでも理解しにくい。

つまり総合誌という媒体そのものが、

読者に一定時間の集中を要求する構造

を持っていた。


3 「長文を読む能力」が高かったというより、他の選択肢が少なかった

ここで昭和を美化してはいけない。

昔の人が現代人より忍耐強かった、

とは限らない。

当時にも、

長い本を読まない人。

雑誌を読まない人。

娯楽だけを楽しむ人。

は当然いた。

重要なのは、

情報を得たい場合の選択肢が現在より少なかったことである。

ある事件について詳しく知りたい。

すると、

新聞を読む。

雑誌を読む。

本を読む。

という方法が中心になる。

だから長文読解は、

特別な精神力というより、

情報を得るために必要だった行動

でもあった。


4 新聞には「途中を飛ばせない情報」があった

紙の新聞にも特徴がある。

新聞を開く。

すると、

自分が関心を持つ記事だけではなく、

政治。

経済。

国際。

社会。

文化。

書評。

が同じ紙面に並ぶ。

目的の記事へ行く途中で、

別の記事の見出しが目に入る。

これは現在の検索とはかなり違う。

検索では、

知りたいものへ直接行く。

新聞では、

知りたいもの以外も視界に入る。

この構造は、

一つ一つの記事を長く読むことだけでなく、

社会の複数の問題を同じ時間の中で読む習慣にもつながっていた。


5 テレビは「読む時間」の最初の大きな競争相手だった

戦後、テレビが普及すると、

情報を得るために文章を読む必要は少しずつ低下する。

ニュースを見る。

討論番組を見る。

ドキュメンタリーを見る。

歴史番組を見る。

文章を読まなくても、

政治や社会について一定の情報を得られる。

これは教養の衰退とは限らない。

むしろ映像によって、

本を読まない人にも知識へ接触する機会が広がった。

しかし、

読書時間とテレビ視聴時間は同じ一日の中で競争する。

一日は24時間しかない。

新しいメディアが増えれば、

既存のメディアへ使える時間は減る。

この単純な原理は、後のインターネット時代にさらに強くなる。


6 読書量が減った最大理由は「読めなくなったから」ではない

文化庁の調査は、この点について興味深い。

読書量が以前より減った人へ理由を尋ねたところ、

最も多かったのは、

「情報機器で時間が取られる」43.6%

だった。

次が、

「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」38.9%。

さらに、

「視力など健康上の理由」31.2%、

「テレビの方が魅力的」19.8%

と続く。

つまり少なくともこの調査からは、

「長文を理解できないから読まない」

が中心原因だとは言えない。

むしろ、

時間の奪い合い

が中心にある。


7 若い世代ほど「情報機器に時間を取られる」

この傾向は年齢別に見るとさらに明確になる。

文化庁調査では、

読書量が減った理由として「情報機器で時間が取られる」を挙げた割合は、

16~19歳で70.9%、

20~30代でも6割台だった。

ここで重要なのは、

若者は文章が嫌いだ、

と考えることではない。

若い世代ほど、

スマートフォン。

動画。

ゲーム。

SNS。

メッセージ。

検索。

など、

読書以外の情報活動の選択肢が圧倒的に多い

ということである。


8 スマートフォンは「一つの媒体」ではない

テレビはテレビを見るための機械だった。

新聞は新聞を読むものだった。

本は本を読むものだった。

しかしスマートフォンは違う。

一台の中に、

新聞。

雑誌。

本。

テレビ。

ラジオ。

音楽。

ゲーム。

SNS。

電話。

カメラ。

地図。

買い物。

銀行。

仕事。

が入っている。

つまりスマートフォンは、

新しい一つのメディアではない。

過去のほぼすべてのメディアを一台に集めた競争空間

である。

そこで長文は、

動画。

メッセージ。

ゲーム。

ニュース速報。

通知。

音楽。

と同じ画面上で時間を奪い合う。


9 本を読む時、ライバルは本だけだった

書店で本を買う。

自宅で開く。

すると、その瞬間の選択肢は比較的少ない。

読む。

読むのをやめる。

テレビを見る。

くらいだった時代もある。

スマートフォンで長文を読む場合は違う。

文章を読んでいる途中に、

通知が来る。

メッセージが来る。

別の記事へのリンクがある。

動画のおすすめが出る。

検索できる。

つまり、

一つの文章に留まり続けること自体に競争が発生する。

文章の質とは別の問題である。


10 「長文を読む時間」は細切れ時間へ変わった

現代人は文字を読んでいないわけではない。

むしろ非常に多く読んでいる可能性がある。

朝、

ニュース通知を見る。

電車でSNSを見る。

仕事でメールを読む。

昼休みに検索する。

帰宅途中にニュースを見る。

夜にメッセージを読む。

しかし一つ一つは短い。

つまり、

文字を読む総時間と、長文を連続して読む時間は別

なのである。

ここを区別しなければならない。

一日に一時間文字を読んでいても、

それが、

2分+3分+30秒+5分……

と分割されていれば、

一冊の本を一時間読むのとは違う認知活動になる。


11 検索は「全文を読む必要」を減らした

インターネット以前、

ある問題を知るには本の一章を読む必要があった。

現在は検索できる。

「○○とは」

と入力する。

必要な答えがすぐ出る。

これは巨大な進歩である。

しかし同時に、

答えへ到達するまでの文章を読まなくてもよくなった。

本では、

問題設定。

歴史。

議論。

例。

を読んでから結論へ進む。

検索では、

結論だけ取り出せる。

この違いが読む習慣を変える。


12 検索は「問い」に強く、本は「問いの背景」に強い

検索には大きな利点がある。

質問が明確なら非常に効率がよい。

「日本国憲法施行日はいつか」

と知りたいなら、

一冊の本を読む必要はない。

しかし、

「なぜ戦後日本でこの憲法が成立したのか」

を理解するには、

歴史的背景が必要になる。

つまり、

検索は、

すでに持っている問いへの答え

に強い。

長文は、

自分がまだ知らなかった問いを作ること

に強い。

この違いは、長文を読む意味を考える上で重要である。


13 SNSは文章を短くしたというより「単位」を小さくした

SNSでは、

一つの投稿。

一つのコメント。

一つの画像。

一つの動画。

が情報単位になる。

長い論考も投稿できる場合はある。

しかし基本的な利用体験は、

次へ、

次へ、

次へ、

と進む構造になりやすい。

つまりSNSが変えたのは、

文章の文字数だけではない。

情報を一つずつ完結した小さな単位として受け取る習慣

である。


14 総合誌は「一人の論者に付き合う」メディアだった

総合誌の長文論考を読む場合、

読者は一人の筆者へ付き合う。

この人は、

なぜこう考えるのか。

どんな前提を置いているのか。

どこで論理が変わるのか。

を追う。

時には、

「この部分は納得できない」

と思いながら先を読む。

つまり長文には、

相手の思考を一定時間、自分の頭の中に置いておく

という作業がある。

SNSでは、

合わなければ次へ行くことが容易である。

ここに大きな違いがある。


15 長文とは「情報量の多い文章」ではない

ここで長文の価値を誤解しないようにしたい。

長ければ良いわけではない。

冗長な文章もある。

同じことを繰り返す文章もある。

短い文章で十分な問題もある。

長文が必要になるのは、

問題そのものが複雑な場合

である。

複数の原因がある。

歴史がある。

例外がある。

反対意見がある。

こうした問題は、

短い結論へすると何かを削らなければならない。


16 短文は悪いメディアではない

SNSの短文を否定する必要もない。

速報。

連絡。

要点。

簡潔な意見。

には短文が適している。

短い文章で正確に説明する能力も重要である。

問題は、

すべての問題を短文だけで理解できると思うこと

である。

人口減少。

戦争。

社会保障。

経済政策。

文学。

歴史。

こうした問題には、

一つの原因だけでは説明できないものが多い。

短文は入口にはなれる。

しかし入口だけで建物全体を理解したことにはならない。


17 「結論を先に」が当たり前になった

現代の文章では、

「最初に結論を書いてください」

と言われることが多い。

ビジネスでは合理的である。

時間を節約できる。

しかし文学や思想、社会分析では、

結論までの過程そのものに意味がある。

なぜその結論になるのか。

反対の可能性はないのか。

途中で何が検討されたのか。

これを読むことで、

結論ではなく考え方を学ぶ。

長文読解の価値の一つはここにある。


18 動画は長くても見ることができるのに、文章は長いと嫌われるのか

興味深い現象がある。

30分の動画を見る人が、

10分で読める文章を「長い」と感じることがある。

これは必ずしも矛盾ではない。

動画は基本的に、

流れてくる。

文章は、

自分で進めなければならない。

理解できなければ戻る。

集中する。

つまり文章の方が、

読者側へ能動的な処理を要求する。

時間の長さだけでは、負担を比較できない。


19 長文読解には「何もしない時間」が必要になる

本を読む場合、

数十分間、

画面を切り替えない。

通知を見ない。

別の記事へ行かない。

一人の文章を追う。

この状態は、

現在では意外に特殊である。

つまり長文読解は、

読む技術だけではなく、

他の情報を一時的に遮断する技術

を必要とするようになった。

昭和には、この遮断が環境によってある程度自動的に成立した。

令和では、自分で作らなければならない。


20 「読む能力」が落ちたのか、「集中の環境」が変わったのか

ここで重要な区別がある。

人間の読解能力そのもの。

長文へ集中する環境。

この二つは別である。

スマートフォンを置いて、

静かな場所で、

関心のある本を読む。

すると普通に長時間読める人も多い。

つまり、

長文を読まなくなったことから、直ちに長文を読めなくなったとは言えない。

行動と能力を混同してはいけない。


21 読書時間は「余った時間」では作りにくい

現代では、

時間があったら本を読もう、

と思う人も多い。

しかし時間が余ると、

スマートフォンを開ける。

数分の空き時間でも使えるからである。

本の場合、

ある程度まとまった時間が欲しい。

すると、

スマートフォンは、

5分。

10分。

15分。

という細かな空き時間を吸収する。

結果として、

まとまった読書時間へ成長するはずだった小さな時間が先に使われる。

これは読書にとって非常に大きな変化である。


22 「暇」が消えたことは大きい

昔の電車の中では、

外を見る。

新聞を読む。

本を読む。

眠る。

という選択肢だった。

現在は、

何もすることがない、

という時間がほとんどなくなった。

スマートフォンを開けば必ず何かある。

つまり現代社会では、

退屈そのものが減った。

しかし読書は、しばしば退屈から始まる。

何となく本を開く。

そのまま読み続ける。

この入口が失われやすくなった。


23 書店で「偶然本に出会う」機会も変わった

文化庁調査では、本を読む人の選書方法として、

「書店で実際に手に取って選ぶ」が57.9%で最も多い一方、

「インターネットの情報を利用して選ぶ」が33.4%だった。

また、過去の参考値では、書店で選ぶ割合は減少傾向、インターネット利用は増加傾向にあった。

インターネットで本を選ぶと、

検索した本。

似た本。

売れている本。

が表示される。

非常に便利である。

しかし書店では、

目的外の本が目に入る。

この違いも、

読む内容の広がりに影響する可能性がある。


24 電子書籍が長文を破壊したわけではない

紙か電子かという問題も単純ではない。

文化庁調査では、

電子書籍を「よく利用する」「たまに利用する」を合わせると40.3%だった。

電子書籍でも小説や専門書は読める。

つまり、

電子化=短文化

ではない。

問題は、

同じ端末の中に別の誘惑が存在するかどうか

である。

専用の電子書籍端末と、

通知が次々届くスマートフォンでは、

同じ電子文章でも読書環境が異なる。


25 長文を読む人が「少数派」になると何が起こるのか

社会全体で長文を読む人が減った場合、

個人の趣味だけでは済まない可能性がある。

政治家の説明。

企業の説明。

政策議論。

研究結果。

社会問題。

これらについて、

「長いから読まない」

となれば、

短いキャッチコピーの力が強くなる。

賛成。

反対。

成功。

失敗。

善。

悪。

という単純な分類が有利になる。

つまり長文を読む文化は、

複雑な問題を複雑なまま議論できる社会の基盤

でもある。


26 総合誌が衰退すると「長い議論の共通場所」も弱くなる

かつて総合誌は、

意見が異なる論者の長文を、

同じ読者が読む場所だった。

全員が同じ結論へ行く必要はない。

しかし、

同じ問題について数千字の議論を読む。

それによって、

「なぜ相手はそう考えるのか」

がある程度分かる。

現在は、

自分に近い意見だけを選ぶことが容易である。

すると問題は、

文章の長さだけではなく、

異なる論理へ付き合う時間が減ること

になる。


27 SNSの問題は「短いこと」より「次があること」

SNSには短文だけでなく長文もある。

それでも長く読み続けにくい場合がある。

理由の一つは、

必ず次の情報が待っているからである。

この文章を最後まで読むより、

次にもっと面白いものがあるかもしれない。

この状態では、

一つの文章へ留まることに機会費用が生まれる。

つまり、

「長文が長すぎる」のではなく、「次へ行く誘惑が強すぎる」

のである。


28 現代人は情報を「読む」より「選別」している

毎日、大量の情報が届く。

すべて読むことは不可能である。

そこで現代人は、

見出しを見る。

冒頭を見る。

必要か判断する。

不要なら閉じる。

という行動を繰り返す。

これは合理的である。

つまり現代の読者には、

読解能力だけでなく、

高速な情報選別能力

が求められている。

これは昭和型読者とは別の能力である。


29 だから現代人を「読書能力が低い」と決めつけるべきではない

昭和と令和では、

必要とされる情報処理が違う。

昭和~

少ない情報を比較的長く読む。

令和~

大量の情報から必要なものを素早く選ぶ。

という違いがある。

どちらかが上位とは限らない。

問題は、

後者だけになった場合、

複雑な問題へ長時間集中する能力を使う機会が減る

ことである。

使わない能力は、使いにくくなる可能性がある。

だから両方必要になる。


30 長文を読む意味は「情報収集」から変わりつつある

インターネット以前、

本には情報を得るという大きな役割があった。

現在、単純な情報なら検索の方が速い。

すると長文の役割は変わる。

長文を読む目的は、

事実を一つ知ること

だけではない。

一人の思考を追う。

因果関係を見る。

矛盾を見る。

歴史を知る。

複数の論点を同時に持つ。

つまり、

情報を得るためではなく、思考の構造を学ぶために読む

という価値が相対的に大きくなる。


31 AI時代にはさらに「読む必要がない」と感じやすくなる

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が普及すると、

長い文章を要約できる。

論文を要約する。

本の内容を説明する。

議事録をまとめる。

これによって時間は大幅に節約できる。

しかし、

要約を読むこと

と、

原文を読むこと

は同じではない。

要約では、

何が削られたかが見えない。

論理の微妙な変化。

筆者の迷い。

反論。

具体例。

文体。

は消えやすい。

AI時代には、

何を要約で済ませ、何を原文まで読むか

を判断する能力が重要になる。


32 すべての長文を読む必要はない

ここで昔の読書習慣へ戻ろうとする必要はない。

すべての記事を最後まで読む必要はない。

すべての本を読破する必要もない。

現代の情報量では不可能である。

重要なのは、

何に長い時間を使う価値があるかを選ぶこと

である。

速報は短文。

事実確認は検索。

概要は要約。

しかし、

自分にとって重要な問題。

専門分野。

価値観に関わる問題。

については長文まで読む。

媒体ごとに役割を分ければよい。


33 長文を読む習慣を取り戻すには精神論より環境設計が必要

「もっと集中しよう」

「スマホに負けるな」

だけでは続きにくい。

問題が環境にあるなら、

環境を変える方が合理的である。

例えば、

通知を切る。

スマートフォンを別の場所へ置く。

電子書籍専用端末を使う。

一日20分だけ読む。

通勤時間の一部を本へ固定する。

読む時間を予定表へ入れる。

つまり、

読書を余暇ではなく予定として確保する。

これが現代的な方法になる。


34 「一冊読む」より「30分同じ文章に留まる」

読書目標として、

月10冊読む。

年間100冊読む。

という方法もある。

しかし冊数を競うと、

短い本を急いで読む

方向にもなり得る。

長文読解を維持するという目的なら、

冊数より、

一つの文章へ連続して滞在した時間

を見る方がよい。

30分間、

別の情報へ移らず読む。

これは現代ではかなり高度な情報行動になっている。


35 長文を読むことは「遅く考えること」でもある

短文は判断を速くする。

賛成か。

反対か。

面白いか。

面白くないか。

長文では、判断を保留する時間が長くなる。

最初は反対だった。

しかし途中で納得する。

最後まで読んでも反対だが、理由は理解できる。

こうした変化が起こる。

つまり長文には、

結論を急がずに考える訓練

という側面がある。


36 民主社会では「最後まで読む人」が一定数必要になる

政治や社会問題では、

短い言葉ほど広がりやすい。

しかし制度は複雑である。

税。

年金。

医療。

外交。

安全保障。

教育。

人口問題。

どれも数十文字では説明できない。

社会全体が長文を嫌うようになれば、

政策を詳しく説明する側にも、

「どうせ読まれない」

という誘因が生まれる。

だから長文読解は、

個人的教養だけではなく、

民主社会の情報基盤

でもある。


37 それでも昔へ戻る必要はない

総合誌の時代へ戻ることはできない。

戻る必要もない。

現在には大きな利点がある。

専門家の文章を直接読める。

公的資料を検索できる。

海外の情報へ届く。

電子書籍を持ち歩ける。

多様な人が発信できる。

問題は、

昔と今のどちらが優れているか

ではない。

速く読む環境の中に、遅く読む時間をどう残すか

なのである。


38 日本人は「読まなくなった」のではなく「読み方を変えた」

文化庁の数字をもう一度見る。

本を1か月に一冊も読まない人は62.6%。

しかしその人の75.3%は、本以外の文字・活字情報をほぼ毎日読んでいる。

これは非常に象徴的である。

日本人が文字文化から離れた、

というより、

文章との接触単位が、本から記事や投稿へ移った

と考えることができる。

そして、

長時間・連続・一方向だった読書が、

短時間・断続・多方向の読書へ変わった。

これが現在の大きな変化なのではないだろうか。


結論~失われたのは「読む能力」より「一つの文章に使う時間」なのかもしれない

なぜ日本人は長文を読まなくなったのか。

一つの原因だけで説明することはできない。

忙しくなった。

テレビが登場した。

インターネットが登場した。

検索が便利になった。

スマートフォンが普及した。

SNSが登場した。

動画が増えた。

こうした変化が積み重なっている。

しかし、それらを一つの観点から整理することはできる。

それは、

一日の中で「読む時間」を奪い合う相手が劇的に増えた

ということである。

昭和の読者が一冊の総合誌を開いた時、

最大の競争相手は、

別の本、

新聞、

テレビ、

くらいだった。

現代の読者がスマートフォンで長文を開くと、

その同じ画面の中に、

SNS。

動画。

ゲーム。

メッセージ。

ニュース。

買い物。

音楽。

仕事。

が存在する。

だから長文は、

昔より魅力がなくなった、

というより、

昔とは比較にならない数の情報と競争するようになった。

文化庁調査で、読書量が減った理由の第一位が「情報機器で時間が取られる」だったことは、この構造と整合する。

そして重要なのは、

本を読まない人の多くも、

毎日文字を読んでいる

という事実である。

だから、

「現代人は文字を読めなくなった」

という結論は単純すぎる。

むしろ、

読む行為そのものが変わった。

一冊を読む。

一つの論考を読む。

一人の思想へ付き合う。

という読書から、

大量の情報を高速で選別する読書へ変わった。

これは能力の低下だけではない。

新しい情報社会に適応した結果でもある。

しかし適応には代償がある。

短い文章だけでは、

複雑な問題を複雑なまま理解しにくい。

歴史的背景。

例外。

反対意見。

因果関係。

こうしたものを保持するには、

ある程度長い文章が必要になる。

だから現代社会で必要なのは、

昭和のように長文だけを読む生活へ戻ることではない。

速報は短く読む。

検索で答えを得る。

要約を利用する。

動画で理解する。

その便利さを使いながら、

重要な問題だけは、意識的に長い文章まで読む。

これが現代的な読み方になる。

長文読解とは、

懐古的な文化ではない。

情報が多すぎる現代だからこそ、

一つの問題へ長く留まり、

簡単に次へ移らず、

結論を急がず、

相手の論理を最後まで追う能力には価値がある。

つまり、

失われつつあるのは、

「日本人の読む能力」

ではないのかもしれない。

失われつつあるのは、

一つの文章へ時間を渡す習慣

なのである。

もしそうなら、

長文文化を守るために必要なのは、

「最近の人は本を読まない」と嘆くことではない。

一日の中に、

通知も検索も次の記事もない、

30分間を作ること。

現代における長文読解とは、

本を読む技術以上に、

自分の時間を一つの思考へ預ける技術

になっているのではないだろうか。

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私たちは旅先で、本当にその場所を見ているのか

旅行へ行く。

有名な寺を見る。

景勝地を見る。

写真を撮る。

名物を食べる。

SNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)へ投稿する。

現代の旅では、ごく自然な行動である。

交通機関が発達した現在では、一日で何百キロメートルも移動できる。

地図を開けば目的地へ迷わず行ける。

インターネットで検索すれば、

歴史、

営業時間、

名物、

おすすめの撮影場所、

口コミ、

まで事前に知ることができる。

私たちは、おそらく松尾芭蕉の時代よりはるかに多くの情報を持って旅をしている。

それでも一つ疑問が残る。

情報をたくさん知っていることと、その場所を経験したことは同じなのだろうか。

名所を見た。

写真を撮った。

説明板を読んだ。

それだけで、その土地を知ったと言えるのか。

この問題を考える時、松尾芭蕉の『おくのほそ道』は興味深い。

芭蕉の旅は、現在の意味での観光旅行ではない。

もちろん名所を見る。

美しい風景にも感動する。

しかし、それだけではない。

ある場所へ立つと、

そこにかつて生きた人を思い出す。

古い和歌を思い出す。

歴史上の戦いを思い出す。

すでに消えた建物を想像する。

そして、

現在目の前にある風景と、そこにはもう存在しない過去を重ねる。

『奥の細道』の旅とは、場所を移動するだけではない。

場所の中に蓄積された時間へ入っていく旅でもある。

だから現代から読み直すなら、

「芭蕉はどこへ行ったのか」

以上に、

芭蕉は、旅先で何を見ようとしたのか

という問いが重要になる。

1 『奥の細道』は単なる旅行日記ではない

『おくのほそ道』は、松尾芭蕉が1689年に行った旅を基礎にした紀行文学である。

江戸を出発し、

日光、

白河の関、

松島、

平泉、

山寺、

最上川、

出羽三山、

象潟、

北陸、

そして大垣へと至る。

全行程は約2,400キロメートルに及ぶとされる。

旅には門人の河合曾良が同行した。

しかし『奥の細道』は、

何月何日に何キロ歩いた。

どこに泊まった。

何を食べた。

という事実をそのまま記録しただけの旅行日記ではない。

実際の旅については曾良の旅日記も残っており、『奥の細道』とは表現や構成が異なる部分がある。

つまり芭蕉は、実際の旅を材料にしながら、

一つの文学作品として旅を再構成した。

ここが重要である。

旅をしたことと、

旅を書くことは違う。

『奥の細道』は、

旅の記録

であると同時に、

旅の意味を作り直した作品

なのである。

2 旅は出発する前から始まっている

『奥の細道』は、有名な書き出しから始まる。

「月日は百代の過客にして」

という言葉である。

月日そのものを旅人として捉える。

過ぎ去る年月も旅をしている。

船頭も旅をする。

馬を引く人も旅の中で年老いていく。

そして芭蕉自身もまた、

旅に生きる人間として自分を置く。

ここでは旅は、

休日に日常生活から離れて行う特別な活動

ではない。

むしろ、

生きていることそのものが移動である

という感覚に近い。

人は同じ家に住んでいても変化する。

年齢が変わる。

人間関係が変わる。

社会が変わる。

昨日と今日で完全に同じ場所にいる人はいない。

芭蕉は旅を、人生の比喩として作品の最初に置いたのである。

3 なぜ芭蕉は旅に出たのか

現代の旅行には明確な目的が設定されることが多い。

休養。

観光。

食事。

温泉。

写真。

イベント。

しかし芭蕉の旅は、単一の目的では説明しにくい。

俳諧修行。

名所訪問。

歌枕。

古人への敬意。

宗教的な場所。

未知の土地。

こうしたものが重なっている。

特に重要なのが、

古人の足跡を訪ねること

である。

芭蕉にとって旅先は、誰も意味を与えていない空白の場所ではない。

すでに、

西行、

能因、

源義経、

奥州藤原氏、

古い和歌の作者たち、

などが存在している。

旅とは、

そうした過去の人々が見た世界へ、

自分も実際に立ってみることだった。

4 「歌枕」を訪ねるという旅

『奥の細道』を理解する上で重要なのが、歌枕である。

歌枕とは、古くから和歌に詠まれてきた名所である。

松島。

白河の関。

象潟。

須賀川。

武隈。

こうした土地には、芭蕉が訪れる以前から文学的な意味が蓄積されていた。

つまり芭蕉は、

初めて見る風景

を見ている一方で、

昔から文章の中で知っている風景

にも会いに行っている。

これは現代にも似た経験がある。

小説に登場した街へ行く。

映画の舞台へ行く。

歴史上の人物が暮らした場所へ行く。

すると私たちは、

目の前の風景だけを見ているのではない。

「ここをあの人物も歩いた」

という想像を重ねる。

場所が単なる座標ではなくなる。

5 知識を持って行くからこそ見える風景がある

観光では、

先入観を持たずに見る方がよい、

と言われることもある。

しかし『奥の細道』は逆の可能性を示す。

芭蕉は大量の文学的・歴史的記憶を持って旅をする。

だから同じ風景でも、

何も知らずに見る人とは違うものが見える。

例えば、

ただの野原。

ただの古い寺。

ただの川。

が、

古典や歴史を知ることによって、

過去の人物の人生と結び付く。

つまり知識には、

風景を邪魔する先入観になる場合と、

風景の奥行きを増やす場合

の両方がある。

重要なのは、知識を現実へ押し付けることではない。

実際の場所に立った時、

知識と現実がどこで重なり、

どこで違うのかを見ることである。

6 白河の関~境界を越えるという経験

白河の関は、古くから多くの歌人が意識してきた場所だった。

芭蕉にとっても、単なる県境のような場所ではない。

ここから本格的な「みちのく」へ入るという意識がある。

現代では国道を走り、

県境標識を通過すれば、

数秒で地域を越える。

しかし徒歩の旅では違う。

何日もかけて進み、

ある地点を越える。

すると、

境界を越えたという身体的感覚

が生まれる。

現代の旅では交通機関が境界を消している。

東京から仙台へ新幹線で移動すれば、

途中の風景は高速で後ろへ流れる。

便利である。

しかし、

どこから土地が変わったのか

という感覚は弱くなる。

芭蕉の旅は、移動そのものが場所の理解に関係している。

7 松島~期待していた場所へ実際に立つ

松島は、『奥の細道』でも特に重要な目的地の一つである。

当時すでに名高い景勝地だった。

ここには現代の観光と共通する構造がある。

写真で見た場所。

本で読んだ場所。

昔から有名な場所。

そこへ実際に行く。

すると、

事前のイメージ

と、

現実の風景

がぶつかる。

有名な観光地に行った時、

「思っていたより小さい」

「写真より広い」

「音が意外に大きい」

「風が強い」

と感じることがある。

これは現地へ行かなければ分からない。

旅の価値の一つは、

頭の中に作られていた場所と、実在する場所の差を経験すること

にある。

8 観光写真では伝わりにくいもの

写真は旅の重要な記録になる。

しかし写真には写らないものがある。

風。

温度。

湿度。

匂い。

音。

疲労。

移動してきた時間。

その場所へ到達するまでの身体感覚。

山寺のような場所は特にそうである。

現在の山形市も、芭蕉が1689年に立石寺を訪れたことを紹介しており、芭蕉は本来の進路から南へ寄り道する形で山寺を訪れたと説明している。

ただ句碑を撮影するだけなら短時間で済む。

しかし階段を上り、

山の中へ入り、

音の環境を経験すると、

句との関係も変わる可能性がある。

9 山寺~「閑さ」は無音ではない

山寺で芭蕉が詠んだ句として知られるのが、

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

である。

山形市によると、芭蕉は1689年旧暦5月27日に山寺を訪れており、『曾良旅日記』の俳諧書留では、この句に至る前の別案も確認できる。

ここで面白いのは、

蝉が鳴いているのに、

静かだ

と感じていることである。

静寂とは、

完全な無音ではない。

むしろ一つの音が鮮明になることで、

周囲の静けさを強く感じる。

この感覚は、写真ではほとんど残らない。

録音でも完全には再現できない。

その場所に自分の身体を置くことで成立する経験

だからである。

10 旅とは「五感を使うこと」だけでもない

では場所を経験するとは、

見る。

聞く。

匂いを嗅ぐ。

触れる。

という五感の問題だけなのだろうか。

『奥の細道』を見ると、それだけでもない。

芭蕉は、

感じる

だけではなく、

思い出す。

歴史を思い出す。

古い和歌を思い出す。

死者を思い出す。

つまり場所の経験には、

身体感覚

と、

記憶・知識

の両方がある。

ここが芭蕉の旅の特徴である。

11 平泉~目の前にないものを見る

この特徴が最も明確に表れる場所の一つが平泉である。

平泉に立った芭蕉は、

現在そこにある野原だけを見ているわけではない。

そこにかつて存在した、

奥州藤原氏の繁栄。

源義経。

戦い。

人々の夢。

を重ねる。

そして、

「夏草や兵どもが夢の跡」

という句へ至る。

ここで重要なのは、

目の前に武者はいない

ということである。

あるのは夏草である。

しかし芭蕉は、

現在の夏草から、消えた人々を見る。

これは場所を経験するということの非常に深い形である。

12 歴史を知ると、同じ草原が違って見える

何も知らずに平泉の野原へ立てば、

美しい緑の風景

に見えるかもしれない。

しかし歴史を知っていれば、

ここで誰が生きたか。

何が争われたか。

何が失われたか。

が見えてくる。

土地そのものは同じである。

変わるのは見る人の内部である。

つまり、

場所の意味は土地だけに存在するのではなく、見る人の知識との関係で生まれる。

この点では、旅と教養は深く関係する。

歴史を知る。

文学を読む。

それによって、実際の場所へ行った時に見えるものが増える。

13 「夏草や」は滅びの句だけなのか

「夏草や兵どもが夢の跡」は、

栄枯盛衰。

無常。

戦いのむなしさ。

を表す句として読まれることが多い。

それは自然な理解である。

しかし場所という視点から見ると、

もう一つ重要なことがある。

人間は消えた。

建物も失われた。

しかし土地は残っている。

そして草が生えている。

つまり、

人間の歴史より土地の時間の方が長い。

私たちは自分の社会や人生を非常に大きなものだと感じる。

しかし場所から見れば、

一つの時代にすぎない。

旅には、こうした時間感覚を変える作用もある。

14 芭蕉は「過去そのもの」を見ているわけではない

ただし注意したい。

芭蕉が平泉へ行ったからといって、

義経の時代そのものを見られるわけではない。

当然である。

芭蕉が見ているのは、

過去が失われた後の風景

である。

だから旅によって歴史が完全に再現されるわけではない。

むしろ逆である。

失われてしまったことを確認する。

ここに旅の重要な働きがある。

歴史書では、

「奥州藤原氏が滅亡した」

と文章で読む。

現地へ行くと、

「本当にもうない」

という事実を身体で感じる。

これは情報とは違う。

15 最上川~場所は静止していない

旅先を写真で見ると、

場所は静止した景色に見える。

しかし実際の場所は動いている。

雲が動く。

川が流れる。

天気が変わる。

季節が変わる。

最上川は、その象徴的な場所の一つである。

芭蕉は旅の途中で最上川を下る。

そこで詠まれた、

「五月雨をあつめて早し最上川」

という句は、

川を固定した景観ではなく、

動いている自然として捉えている。

旅とは名所を見ることだけではなく、

その場所が変化している時間へ自分も入ることなのである。

16 「絶景」という言葉では消えてしまうもの

現代の観光では、

絶景。

映える。

おすすめスポット。

という言葉が多く使われる。

非常に便利な言葉である。

しかし「絶景」という一語でまとめると、

場所ごとの違いが消える場合もある。

松島も絶景。

山寺も絶景。

日本海も絶景。

すると全部、

「きれいな場所」

になってしまう。

芭蕉の旅は逆である。

場所ごとに、

歴史。

人物。

古典。

宗教。

音。

季節。

を重ねる。

その結果、

同じ「美しい風景」でも意味が違う。

教養とは、場所を一般名詞から固有名詞へ戻す能力でもある。

17 象潟~風景も永遠ではない

芭蕉が訪れた象潟は、『奥の細道』の重要な目的地の一つだった。

現在の観光案内でも、象潟は『奥の細道』の最北の目的地として紹介されている。

芭蕉が見た象潟の景観は、その後の地震などによって大きく変化した。

ここには非常に重要な問題がある。

私たちは、

場所は残る

と思いがちである。

しかし場所そのものも変わる。

海岸線。

川。

森。

町。

建物。

すべて変化する。

つまり旅とは、

その時にしか存在しない場所を見ること

でもある。

同じ場所へ十年後に行っても、同じではない。

18 芭蕉自身も同じ旅を二度はできない

場所だけではない。

旅をする本人も変わる。

二十歳で京都を見る。

六十歳で京都を見る。

同じ寺でも感じ方は違う。

知識も違う。

人生経験も違う。

一緒にいる人も違う。

つまり、

同じ場所へ行くことはできても、

同じ旅を繰り返すことはできない。

これは『奥の細道』冒頭の、

月日そのものが旅をする

という考えにもつながる。

旅先だけが変わるのではない。

旅人も変化し続けている。

19 旅には「遠回り」がある

現代の移動は効率を追求する。

最短ルート。

最速列車。

乗換案内。

渋滞回避。

これは非常に合理的である。

しかし旅の価値と移動効率は同じではない。

山寺について、山形市は、芭蕉が本来の経路からわざわざ南へ向かい、人に勧められて立石寺を訪れたことを紹介している。

もし芭蕉が、

最短距離だけ

を目的にしていれば、

有名な句の一つは生まれなかったかもしれない。

旅には、

予定外の寄り道が新しい経験を作る

という性質がある。

20 現代旅行は効率化しすぎているのか

ここから現代への比較になる。

旅行計画を立てると、

一日にできるだけ多くの場所を回りたい

と考えることがある。

午前に寺。

昼に市場。

午後に博物館。

夕方に展望台。

これは悪いことではない。

限られた時間を有効に使える。

しかし問題は、

訪問地点の数

と、

旅の深さ

が一致しないことである。

十か所見たから、

一か所だけ見た人より旅を理解した、

とは言えない。

場合によっては、

一つの寺で二時間過ごした方が、

十の寺を十分ずつ見るより強く記憶に残る。

芭蕉の旅から考えられるのは、

場所を消費する速度を少し落とすこと

である。

21 「行ったことがある」とは何を意味するのか

私たちは、

京都へ行ったことがある。

松島へ行ったことがある。

山寺へ行ったことがある。

と言う。

しかし「行った」の内容には大きな差がある。

バスから見た。

写真を撮った。

一泊した。

何度も訪れた。

歴史を調べて歩いた。

地元の人と話した。

季節を変えて訪れた。

どれも「行った」である。

だから、

訪問経験は0か1ではない。

場所との関係には深さがある。

『奥の細道』は、その深さを考える作品でもある。

22 SNSは旅を浅くするのか

現代の旅を考えると、

SNSが旅を浅くした

という批判もある。

しかしこれは単純すぎる。

SNSによって、

知らなかった場所を知る。

歴史を調べる。

旅行記を読む。

現地の人の情報を得る。

こともできる。

写真を共有すること自体も悪くない。

問題なのはSNSではない。

旅の目的が「他人から見える記録」だけになること

である。

写真を撮った後、

その場所を見るのをやめてしまう。

それでは場所そのものより、

場所にいる自分の証明

が中心になる。

芭蕉の旅と比較すると、この違いが見えやすい。

23 芭蕉もまた「旅を発信した人」ではないのか

ただし、ここで芭蕉を現代人より高尚な旅人として美化してはいけない。

芭蕉も旅を文学作品にした。

つまり、

自分が見たものを他人へ伝えた。

ある意味では、

旅を発信した人

でもある。

違うのは、

発信するために何を選び、どう言葉へ変えたか

である。

すべてを記録していない。

一つの場所から、

歴史。

感情。

自然。

言葉。

を抽出する。

そして短い句と文章へ凝縮する。

問題は発信することではない。

経験をそのまま消費するのか、

一度自分の中で考えて言葉にするのか、

という違いである。

24 写真を撮ることと俳句を詠むこと

写真は、一瞬で風景を記録できる。

俳句は違う。

何を見るかを決める。

言葉を選ぶ。

不要なものを削る。

五七五という非常に小さな形へ落とし込む。

そこでは、

見たものをそのまま保存すること

より、

その場所で何を感じ取ったかを選ぶこと

が必要になる。

だから現代の旅行でも、

俳句を書く必要はないが、

自分なりの言葉を残すことには意味がある。

写真百枚より、

一行の日記の方が、

十年後にその旅を思い出させることもある。

25 場所を経験するためには「事前学習」と「余白」の両方が必要

『奥の細道』から現代の旅へ応用できることを考えると、

一見矛盾する二つの要素が必要になる。

一つは、

事前に知ること。

歴史。

文学。

地理。

人物。

を少し調べる。

もう一つは、

予定を決めすぎないこと。

現地で立ち止まる。

予定外の場所へ行く。

人に勧められた場所を見る。

この二つがあると、

知識だけの旅行にも、

行き当たりばったりの旅行にもならない。

知識を持って行き、

現地で知識を修正する。

これが場所を経験する一つの方法になる。

26 「聖地巡礼」と『奥の細道』

現代には、

映画。

アニメ。

小説。

ドラマ。

の舞台を訪ねる「聖地巡礼」がある。

これは一見すると現代特有の文化に見える。

しかし構造としては、芭蕉の旅と意外に近い部分がある。

作品で知った場所へ実際に行く。

登場人物や作者を思い出す。

現実の風景と物語を重ねる。

つまり、

文学的記憶を持って場所へ行く

という行為である。

もちろん芭蕉の歌枕への旅と現代の聖地巡礼を同一視することはできない。

歴史的背景も文化的位置も違う。

しかし、

人は物語を持つことで場所を深く経験する

という点では共通性がある。

27 旅には「死者と会う」という側面がある

芭蕉の旅には、すでに亡くなった人々が何度も登場する。

西行。

義経。

藤原三代。

昔の歌人。

芭蕉は彼らに実際に会うことはできない。

しかし彼らに関係する場所へ行く。

すると、

文章でしか知らなかった人物が、

土地と結び付く。

ここに、

旅によって死者との距離が変わる

という経験がある。

墓。

古戦場。

生家跡。

文学館。

こうした場所を訪れる意味も同じである。

死者が生き返るわけではない。

しかし、

その人が実際にこの世界に存在した

という感覚が強くなる。

28 場所は「時間の地層」である

この視点から考えると、

場所とは単なる空間ではない。

東京。

京都。

平泉。

松島。

どの場所にも、

現在だけがあるわけではない。

江戸時代。

中世。

古代。

戦争。

災害。

産業。

人々の生活。

複数の時間が重なっている。

つまり場所とは、

時間の地層

のようなものだと考えられる。

旅人がどの地層を見るかによって、

同じ土地でも違う旅になる。

芭蕉は古典と歴史の地層を強く見た旅人だった。

29 観光と旅は対立するものではない

ここで注意したい。

観光は浅く、

旅は深い、

と区別する必要はない。

観光地を見ることにも価値はある。

温泉を楽しんでもよい。

名物を食べてもよい。

写真を撮ってもよい。

重要なのは、

観光の中に、場所を経験する時間を少し加えること

だろう。

有名な寺へ行く。

その寺の歴史を一つだけ知る。

景色を見る。

十分間何もせず座る。

地元の道を少し歩く。

それだけでも旅は変わる。

30 令和の旅で実践できる五つのこと

『奥の細道』から、現代の旅へ直接的な規則を作る必要はない。

しかしヒントとして五つに整理することはできる。

第一に、

旅先について一つだけ事前に読む。

長いガイドブック全部でなくてもよい。

歴史上の人物。

小説。

古い写真。

何か一つ持って行く。

第二に、

移動の一部を歩く。

駅から目的地まででもよい。

土地の距離感が分かる。

第三に、

写真を撮った後に、もう一度見る。

撮影したことで観察を終わらせない。

第四に、

一つの場所に少し長くいる。

予定を一つ減らしてもよい。

第五に、

帰宅後に言葉を残す。

数行の日記でもよい。

「何を見たか」ではなく、

「何が自分に残ったか」

を書く。

31 旅は消費ではなく「関係を作ること」

観光産業では、

旅行商品。

観光資源。

消費額。

宿泊数。

といった言葉が使われる。

これは経済分析として必要である。

しかし個人にとっての旅は、

消費だけでは説明できない。

場所を訪れる。

知る。

記憶する。

また訪れる。

すると、

その場所と自分との間に関係が生まれる。

初めて訪れた街が、

十年後には「昔行った街」になる。

二度目には、

「変わった場所」

が見える。

旅とは、

場所との関係を作る行為

でもある。

32 『奥の細道』は日本全国観光案内ではない

現代から『奥の細道』を読むと、

芭蕉ゆかりの場所を訪ねる旅行ガイド

として使うこともできる。

実際、現在も芭蕉の足跡をたどる旅行は多数行われている。

しかし作品の本質を、

「おすすめ観光スポット集」

にしてしまうと重要なものを失う。

芭蕉が残したのは、

場所の情報

というより、

場所を見る方法

だからである。

歴史を見る。

古典を見る。

自然を見る。

現在と過去を重ねる。

自分自身の感情も見る。

この方法こそ現代に残る価値がある。

33 便利になったからこそ、旅は難しくなったのかもしれない

現代の旅は非常に便利である。

迷わない。

予約できる。

評価が分かる。

写真も事前に見られる。

失敗する可能性が小さい。

しかし逆説的に、

未知の場所へ行く感覚は弱くなった。

到着する前に、

外観。

メニュー。

料金。

評価。

撮影場所。

まで分かっている。

だから現代の旅では、

情報を増やすだけでなく、

時には情報を止める必要もあるのかもしれない。

現地へ着いたら画面を閉じる。

少し歩く。

音を聞く。

その場所が事前情報と違う部分を見る。

これは芭蕉の時代へ戻るという意味ではない。

便利さを利用しながら、

便利さによって失われる経験を意識する

ということである。

結論~旅とは、場所の中にある時間へ入ること

『奥の細道』を読むと、

芭蕉は多くの場所を訪れている。

しかし、その旅の価値は、

訪問地点の数だけにはない。

松島へ行く。

平泉へ行く。

山寺へ行く。

最上川を見る。

象潟へ行く。

その一つ一つで芭蕉は、

現在の風景だけを見ていない。

古い文学を重ねる。

歴史を重ねる。

死者を重ねる。

自然の音を聞く。

そして自分自身がそこに立っている時間を重ねる。

だから芭蕉にとって場所は、

観光対象ではない。

現在と過去が交差する場所

である。

平泉では、

目の前には夏草しかない。

しかしそこに武者たちの「夢」を見る。

山寺では、

蝉が鳴いている。

しかし、その声によってかえって静けさを感じる。

最上川では、

川という物体を見るのではない。

雨を集めながら流れる動きそのものを見る。

こうして考えると、

「場所を経験する」とは、

有名なものを見ることだけではない。

その土地について知り、

自分の身体をそこへ置き、

少し時間を使い、

そこに積み重なっている過去と現在を重ねることである。

現代の旅行は、芭蕉の時代より圧倒的に便利になった。

一日で移動できる距離も増えた。

情報量も増えた。

写真も自由に撮れる。

だから昔のように歩かなければ本当の旅ではない、

という必要はない。

新幹線に乗ってもよい。

飛行機でもよい。

写真も撮ればよい。

SNSへ投稿してもよい。

問題は方法ではない。

その場所を「見終わった」と判断する速度

なのではないだろうか。

写真を一枚撮ったら次へ行く。

有名な景色を確認したら終わる。

それでは場所は、

消費した項目の一つになってしまう。

芭蕉の旅が現代へ教えるものがあるとすれば、

もっとゆっくり歩け、

ということだけではない。

目の前にあるものだけを見ないこと。

その場所で、

昔何があったのか。

誰が生きていたのか。

誰がその風景を文章にしたのか。

何がすでに失われたのか。

そして自分は今、何を感じているのか。

そこまで含めて見る。

すると旅は、

「どこへ行ったか」

の記録から、

「そこで何を考えるようになったか」

という経験へ変わる。

『奥の細道』が三百年以上を経ても旅の文学として読み継がれる理由は、名所の情報が今でも役に立つからではない。

情報だけなら、現代のガイドブックやインターネットの方がはるかに詳しい。

それでも芭蕉が残したものには価値がある。

それは、

場所には、目に見える景色以上のものがある

という感覚である。

旅とは距離を移動することではない。

場所の中に積み重なった時間へ入り、

その時間と自分自身の人生を一瞬だけ重ねること。

『奥の細道』から現代の旅について考えるなら、

「どこへ行くべきか」

よりも、

「行った場所で、どこまで立ち止まることができるか」

という問いの方が、重要なのかもしれない。

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地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

三島は右、大江は左。それだけで二人を理解できるのか

三島由紀夫と大江健三郎。

戦後日本文学を代表する作家として、この二人ほど対照的に語られやすい人物も少ない。

三島由紀夫。

天皇。

日本文化。

自衛隊。

楯の会。

1970年11月25日の市ヶ谷での行動と自決。

一方、大江健三郎。

戦後民主主義。

広島。

核兵器。

平和。

憲法。

1994年のノーベル文学賞。

このように並べれば、

三島=保守・右翼 大江=リベラル・左派

という構図が成立するように見える。

政治的位置を大きく整理するなら、この違いを無視することはできない。

しかし、それだけで二人を比較すると、非常に重要な部分が見えなくなる。

なぜなら二人とも、

「敗戦後の日本とは何なのか」

という同じ巨大な問題から出発しているからである。

三島は、戦後日本によって失われたものを見ようとした。

大江は、敗戦後に獲得されたものを守り、さらに徹底しようとした。

三島は、

日本文化、

天皇、

歴史、

身体、

死、

国家、

へ向かった。

大江は、

民主主義、

個人、

核、

広島、

沖縄、

少数者、

へ向かった。

方向は大きく異なる。

しかし二人とも、

経済的に豊かになれば、それで戦後日本は完成する、

とは考えなかった。

だからこの二人を比較する意味は、

どちらが正しかったかを決めることではない。

同じ戦後日本を見ながら、なぜこれほど異なる答えへ到達したのか。

そこを考えることにある。

1 二人は同じ「戦後作家」でも世代が少し違う

三島由紀夫は1925年生まれである。

大江健三郎は1935年生まれである。大江は1994年にノーベル文学賞を受賞し、2023年に87歳で亡くなった。ノーベル財団も1935年1月31日生まれ、2023年3月3日没としている。

二人の年齢差は10歳である。

この10年は大きい。

三島は敗戦時に20歳だった。

大江は10歳だった。

つまり三島には、

戦前から戦後へ、自分自身の青年期の途中で世界が断絶した

という経験がある。

一方、大江の場合には、

敗戦後の新しい日本で青年期を形成した

という側面が強い。

大江自身も1994年のノーベル賞講演で、第二次世界大戦中、四国の山村で少年時代を送っていたことから語り始めている。

この世代差は、二人の戦後観を考える重要な前提になる。

2 三島にとっての戦後~「何かが失われた」という感覚

三島の文学や評論を読むと、

戦後日本に対する強い違和感が繰り返し現れる。

もちろん三島を、

「昔の日本へ戻りたかっただけの作家」

と整理することはできない。

三島自身は西欧文学を深く読み、非常に近代的な小説技法を使った作家でもある。

しかし政治・文化論では、

日本の歴史と文化が、

戦後の社会の中でどのように連続するのか、

という問題を強く意識した。

その代表的な文章の一つが『文化防衛論』である。

同書は1969年に刊行され、戦後文化が成熟し学生運動も激しかった時期に、「最後に護られねばならぬ日本」をめぐって展開された評論・対談などを収録している。

三島にとって重要だったのは、

日本が経済成長することだけではない。

日本が日本であり続けるとはどういうことなのか

という問題だった。

3 大江にとっての戦後~「新しく始めることのできる日本」

一方、大江にとって戦後は違う意味を持った。

大江は戦後日本の民主主義を、自分自身の思想形成に深く関係するものとして受け止めた。

その背景には、

敗戦、

戦争体験、

広島・長崎、

日本国憲法、

といった問題がある。

大江は1994年のノーベル賞講演を「Japan, the Ambiguous, and Myself」、日本語では一般に『あいまいな日本の私』として知られる題で行った。そこでは、日本が近代化の中で西洋との関係に引き裂かれ、戦後には民主主義と非軍事化を新しい方向として選んだことについて論じている。

つまり大江にとって戦後は、

失われた伝統を回復する時代

というより、

戦前とは異なる原理によって日本を作り直す可能性

を持った時代だった。

ここに三島との大きな分岐がある。

4 しかし二人とも「戦後日本はこれでよい」とは考えなかった

この違いだけを見ると、

三島は戦後を否定し、

大江は戦後を肯定した、

と整理したくなる。

しかし、それも単純すぎる。

大江は戦後日本の現実を無条件に肯定したわけではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

国家。

少数者。

こうした問題について、戦後日本が掲げた民主主義や平和主義を本当に実現しているのかを繰り返し問うた。

東京大学の大江健三郎文庫には、原稿・関連資料・書誌情報が保存されており、大江の文学と公共的活動を研究する基盤になっている。 つまり大江も、

現実の戦後日本

と、

戦後日本が掲げた理念

の間に大きな距離を見ていた。

その点では三島と共通している。

二人とも、

現実の日本に満足していなかった。

違ったのは、

何を基準に現実を批判したのか

なのである。

5 三島は「失われた連続性」から戦後を批判した

三島の戦後批判を大きく整理すれば、

戦後によって、

歴史、

文化、

天皇、

国家、

身体、

死、

といったものの意味が切断されたのではないか、

という問題になる。

三島の天皇論は、単純に戦前の政治制度をそのまま復活させようという議論と同一ではない。

『文化防衛論』を中心とする三島の天皇論については、天皇を文化概念として捉える側面が研究されている。

三島にとって天皇は、

単なる行政権力者というより、

日本文化の歴史的連続性を象徴する存在

として重要だった。

ここを理解しないと、

三島=天皇制支持

という政治ラベルだけになってしまう。

6 大江は「戦後民主主義の未完成」から日本を批判した

大江の場合は逆方向である。

大江が基準にしたのは、

民主主義、

個人の尊厳、

平和、

核への抵抗、

などだった。

戦後日本がそうした理念を掲げた以上、

現実の日本もその原理へ近づくべきだ、

と考える。

だから大江にとって問題なのは、

戦後によって伝統が失われたこと

というより、

戦後が掲げた理念が十分に実現されていないこと

だった。

つまり二人の批判は、

三島~

「戦後によって何を失ったのか」

大江~

「戦後が約束したものを本当に実現したのか」

という違いとして考えることができる。

7 三島にとって「天皇」は何だったのか

三島を語る場合、天皇の問題を避けることはできない。

しかし、

三島は天皇を政治的独裁者にしようとした、

と単純化するのも適切ではない。

三島の政治・文化論における天皇は、

日本の歴史、

祭祀、

文化、

共同体、

と結び付いた存在として考えられている。

彼が問題視したのは、

戦後日本が、

経済、

消費、

生活水準、

という方向では豊かになる一方、

自分たちが何を共有する国家なのかを説明できなくなること

だった。

ここで天皇が、

文化的な統合原理として現れる。

もちろん、この考え方には多くの批判があり得る。

日本文化を一つの原理へまとめることが可能なのか。

文化的多様性をどう扱うのか。

天皇を共有しない人々はどう位置付けられるのか。

こうした問題は残る。

8 大江にとって「民主主義」は何だったのか

大江にとって民主主義は、

単なる政治制度ではなかった。

戦後を生きる人間の基本的な価値に近い。

大江はノーベル賞講演でも、日本が戦後に民主主義と非軍事化を自らの新しい道として選んだことを重視している。

ここには三島との鮮明な違いがある。

三島は、

戦後制度だけでは日本の文化的根拠を支えられない、

と考える。

大江は、

戦後民主主義こそ、過去の破局を繰り返さないための重要な原理だ、

と考える。

二人は同じ「戦後」を、

ほぼ逆方向から評価したのである。

9 文化勲章辞退に表れた大江の立場

1994年、大江はノーベル文学賞を受賞した。

同じ年、日本国内では文化勲章の授与を辞退したことでも大きく注目された。

当時報じられた理由は、自分は戦後民主主義の人間であり、民主主義に勝る権威や価値観を認めないという趣旨のものだった。

この行動は、

大江が単に政治について発言する作家だったのではなく、

自分自身の公的な立場についても、戦後民主主義との整合性を意識していた

ことを象徴する出来事として読むことができる。

三島が天皇を文化的な中心として考えたのに対し、

大江は国家的・天皇的権威より民主主義の価値を優先した。

ここでは両者の違いが極めて鮮明になる。

10 しかし三島も単純な「国家権力礼賛」ではない

ここで三島についても注意が必要である。

三島を、

国家権力を無条件に支持した作家

とするのは正確ではない。

三島は戦後日本の国家そのものに強い不満を持っていた。

その不満の対象には、

日本国憲法、

安全保障、

自衛隊の位置付け、

対米関係、

などがあった。

つまり三島は、

当時の日本国家を守ろうとしたというより、

当時の日本国家を不完全なものとして批判していた

のである。

だから三島の国家観は、

現状維持型の保守主義

とも少し違う。

11 三島事件~文学と政治が最終的に重なった瞬間

1970年11月25日、三島は楯の会の会員4人とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ入り、東部方面総監を拘束し、自衛隊員に向けて演説した後、自決した。毎日新聞の写真資料にも同日の事件が記録されている。

三島の最後の声明文「檄」は全集にも収録されている。国立国会図書館のレファレンス事例でも、その所在が確認されている。

ここでは三島の文学、

身体、

死、

国家、

政治、

が一つの行為へ重なった。

だから三島を読む場合、

文学作品と政治行動を完全に切り離すことも難しい。

しかし逆に、

すべての小説を1970年の自決から逆算して読むことも危険

である。

三島文学は政治思想だけでは説明できないからである。

12 大江は「行動する文学者」だったが、方法は三島と正反対だった

大江も文学だけに閉じこもった作家ではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

憲法。

社会問題。

などについて長期間公的発言を続けた。

しかし方法は三島と大きく異なる。

大江が選んだのは、

文章。

講演。

市民運動。

社会的発言。

といった方法だった。

三島の場合には、

最終的に身体そのものを政治的表現へ変えた。

大江の場合には、

言葉と市民社会の中で主張し続けること

を選んだ。

この対照は非常に大きい。

13 「身体」の三島と「言葉」の大江

三島文学を考える上で身体は重要である。

三島自身、肉体鍛錬を行い、

身体、

美、

死、

行為、

を結び付けていった。

彼には、

言葉だけでは現実へ到達できない、

という感覚が強くなっていったと読むことができる。

一方、大江は極めて言語的な作家である。

複雑な文章。

自己検証。

引用。

歴史。

政治。

文学。

を通して問題を考える。

大きく整理すれば、

三島は、

言葉を身体と行動へ近づけようとした作家

であり、

大江は、

言葉によって世界の複雑さを引き受け続けようとした作家

と見ることもできる。

ただしこれは比較のための整理であり、二人の全作品をこの一点へ還元することはできない。

14 三島の「明晰さ」と大江の「あいまいさ」

文章の方向にも興味深い違いがある。

三島は、

美。

死。

天皇。

文化。

国家。

といった概念を、

非常に強い輪郭を持たせて提示する傾向がある。

大江は逆に、

矛盾。

曖昧さ。

複数の声。

弱さ。

周縁。

を残そうとする。

1994年のノーベル賞講演で、大江が自ら選んだ言葉が、

「ambiguous」~あいまいな

だったことは象徴的である。

大江は、日本を一つの明確な本質によって定義することそのものへ慎重だった。

ここにも三島との差が見える。

15 三島は「日本とは何か」を一つの中心から考えようとした

三島にとって、

日本文化には何らかの中心が存在する。

歴史。

伝統。

天皇。

古典芸能。

武士的倫理。

そうしたものを通して日本を考える。

だから三島の思考は、

中心を探す思考

だと言える。

日本とは何か。

何を守れば日本なのか。

何が失われれば日本ではなくなるのか。

という問いである。

『文化防衛論』という題名そのものが、

守るべき文化が存在する

という前提に立っている。

16 大江は「中心から外された人」から日本を考えた

大江の文学には、

周縁に置かれた存在が繰り返し現れる。

社会から外れた人。

弱い人。

障害を持つ人。

地方。

広島の被爆者。

国家の中心的物語から外れる人々。

大江は、

日本の中心とは何か

という問いより、

中心から見えなくなっている人間は誰か

という方向へ向かう。

ここに三島との根本的な違いがある。

三島は中心を回復しようとする。

大江は中心によって消されるものを見ようとする。

17 広島~大江が戦後日本を見る重要な場所

大江の思想と文学を考える上で、広島は極めて重要である。

『ヒロシマ・ノート』などを通じて、大江は被爆者や核兵器の問題を長期間考え続けた。

大江にとって広島は、

過去の一事件

ではない。

近代国家。

戦争。

科学。

核。

人間の尊厳。

を問い続ける場所である。

ここから大江の平和・核に関する社会的発言もつながっていく。

三島が、

日本文化の断絶

を戦後の核心問題として見るとすれば、

大江は、

戦争と核の経験を経た国家が、どうすれば再び人間を犠牲にしない社会になれるのか

を重要な問題とした。

18 二人の「日本」はどちらも単純な現状肯定ではない

ここまでを見ると、

三島は日本を愛した。

大江は日本を批判した。

という対立に見えるかもしれない。

しかしこれも違う。

三島は現実の日本を激しく批判した。

大江も日本社会を批判しながら、日本語で日本社会について書き続けた。

つまり二人とも、

現実の日本と、自分が望む日本との距離

に苦しんだ作家である。

違うのは理想像だった。

三島~

文化的連続性を回復した日本。

大江~

戦後民主主義をより徹底した日本。

という方向である。

19 二人とも「経済成長だけでは人間は満たされない」と考えた

戦後日本は高度経済成長によって急速に豊かになった。

生活水準が向上する。

消費社会が拡大する。

都市化が進む。

しかし三島も大江も、

経済成長だけで日本社会の問題が解決した

とは考えなかった。

三島には、

豊かさの中で文化的中心が失われる、

という危機感があった。

大江には、

経済的繁栄の背後に、

広島、

沖縄、

核、

社会的弱者、

などの問題が残されるという意識があった。

したがって二人は、

政治思想は反対でも、

高度成長社会への違和感

という点では意外に近い。

20 三島は「強さ」を、大江は「弱さ」をどう見たか

二人の文学を比較すると、

人間の強さと弱さに対する視線にも違いがある。

三島の作品では、

美しい身体。

意志。

決断。

死。

英雄性。

といったものが強い魅力を持つ。

もちろん三島文学には弱い人間も多く登場するが、その弱さと理想的な美との緊張が作品を生む。

一方、大江文学では、

弱さ。

傷。

障害。

失敗。

周縁。

を抱えた人間が重要になる。

大江は、

弱さを克服して完全な人間になる、

という方向だけではなく、

弱さを抱えたまま他者と生きる可能性

を探る。

ここにも二人の戦後的人間像の違いがある。

21 「個人」を重視する点では意外に共通している

それでも二人には重要な共通点がある。

どちらも、

国家や社会の中へ完全に溶け込んだ人間

を描いた作家ではない。

三島の登場人物も、

社会から孤立する。

欲望を抱える。

美への執着を持つ。

自分だけの世界を作る。

大江の登場人物も、

社会の中で葛藤し、

個人として選択を迫られる。

二人とも、

近代的な「個人」の孤独を描いた作家

なのである。

ここを見ると、

三島=集団主義、

大江=個人主義、

と単純には分けられない。

22 なぜ作家が政治について語ったのか

現在では、

小説家は文学だけを書けばよい。

政治は政治学者へ任せればよい。

という考え方もある。

しかし三島と大江の時代には、

文学者が社会問題について公に語ることは現在ほど珍しくなかった。

それは、

戦後日本において作家が、

人間、

社会、

国家、

歴史、

について考える公共的知識人でもあったからである。

三島と大江は、その意味で二人とも、

戦後型知識人としての作家

だった。

思想は反対でも、

「作家は社会について語る資格と責任を持つ」

という点では共通していたと見ることができる。

23 三島の行動は文学によって正当化されるのか

三島について語る場合、一つ慎重に区別しなければならない。

優れた文学を書いたこと

と、

政治行動が正しかったこと

は別である。

文学的価値によって、

1970年の行動を政治的に正当化することはできない。

逆に、

政治的立場に反対だから文学作品にも価値がない、

ということにもならない。

ここは重要である。

作品の評価と政治行動の評価は、関連させながらも区別する必要がある。

それをしなければ、

三島支持=文学評価、

三島批判=文学否定、

という不毛な二択になってしまう。

24 大江の政治的発言も文学的権威だけで正しいとは言えない

これは大江についても同じである。

ノーベル文学賞を受賞したからといって、

大江の政治的主張が自動的に正しいわけではない。

文学的才能。

社会分析。

政治判断。

は別の能力である。

したがって大江の、

核。

憲法。

沖縄。

国家。

についての主張も、

内容それ自体によって検討されるべき

である。

この区別をしなければ、

ノーベル賞作家だから正しい、

という権威主義になってしまう。

二人を公平に比較するためには、

三島についても大江についても、

作家としての評価と政治的評価を分ける必要がある。

25 二人は本当に「正反対」だったのか

ここで記事の題名へ戻ろう。

三島と大江は、

戦後日本を正反対の方向から考えた二人

なのか。

大きな政治的方向としては、

確かに非常に遠い。

天皇。

憲法。

軍事。

戦後民主主義。

国家。

について、二人の立場には大きな隔たりがある。

しかし、

問題意識の深い部分では共通点もある。

二人とも、

戦後日本とは何か

を問い続けた。

二人とも、

経済成長だけでは社会を評価しなかった。

二人とも、

文学を社会から隔離しなかった。

二人とも、

国家と個人の関係を考えた。

二人とも、

戦後日本に何らかの「欠落」を感じていた。

ただし、その欠落の名前が違った。

26 三島が見た欠落、大江が見た欠落

整理すると分かりやすい。

三島が見た欠落は、

歴史的連続性。

文化的中心。

天皇。

国家としての自立。

身体と行為。

だった。

大江が見た欠落は、

民主主義の徹底。

戦争責任。

被爆者への視線。

核への抵抗。

少数者や周縁への視線。

だった。

つまり、

二人は違う日本を見ていた、

というより、

同じ日本の中で、違う欠落を見ていた

と考える方がよい。

27 三島は過去から未来を作ろうとした

三島の方向を簡潔に表すなら、

過去との連続性を取り戻すことで未来を作ろうとした

と言える。

古典。

伝統。

天皇。

武士。

身体。

そうした歴史的・文化的資源を現代へ取り戻す。

もちろん単純な復古ではない。

三島自身は極めて近代的な作家だったからである。

むしろ、

近代化した日本が、

それでも日本として何を保持できるのか

を問う。

これは、

過去を使って未来を考える方法だった。

28 大江は戦後の理念を徹底することで未来を作ろうとした

大江の場合は違う。

敗戦後に日本が掲げた、

民主主義。

平和。

個人の尊厳。

を、

不十分だから捨てるのではなく、

不十分だからこそ徹底する

方向へ向かう。

過去の日本へ戻るのではない。

戦後日本が始めたものを完成に近づける。

だから大江の未来像は、

戦後の否定

ではなく、

戦後民主主義の自己修正

に近い。

ここが二人の決定的な分岐である。

29 現代から見ると、どちらの問いもまだ終わっていない

三島が問いかけた、

日本文化とは何か。

国家として自立するとは何か。

歴史と現代をどう接続するのか。

という問題は、現在も消えていない。

一方、大江が問い続けた、

核兵器。

戦争。

民主主義。

個人の尊厳。

少数者。

という問題も消えていない。

つまり二人の「答え」は違っても、

二人が設定した問いそのものは現在にも残っている。

これが、二人が今も読まれる大きな理由の一つだろう。

30 二人の対立を「右対左」に閉じ込めない

三島と大江を比較するとき、最も簡単なのは、

右翼対左翼。

保守対リベラル。

天皇対民主主義。

という図式である。

しかし、それだけでは文学評論として浅い。

なぜなら、

三島の文学には個人の孤独や欲望がある。

大江の文学にも国家や共同体への強い関心がある。

二人とも西欧文学の強い影響を受けながら日本について考えた。

二人とも戦後日本を国際社会の中から見ている。

つまり、

単純な日本主義対西洋主義

でもない。

二人の思想はもっと複雑である。

31 「どちらが正しかったか」ではなく、「何が見えたか」を比較する

思想家や作家を比較すると、

最終的に、

どちらが正しいか

を決めたくなる。

しかし文学を読む場合、それだけが目的ではない。

三島の視点から見ると、

戦後日本の、

文化的断絶。

歴史。

国家。

身体。

という問題が見える。

大江の視点から見ると、

戦後日本の、

民主主義。

被爆。

弱者。

核。

周縁。

という問題が見える。

つまり、

違う思想を読むことによって、同じ社会の違う部分が見える。

ここに二人を並べる意味がある。

32 三島だけを読む危険、大江だけを読む危険

三島だけから戦後日本を見ると、

伝統や国家の問題はよく見える。

しかし、

国家によって傷つけられる人、

少数者、

戦争被害、

という問題が弱くなる危険がある。

一方、大江だけから見ると、

民主主義、

平和、

弱者、

という問題はよく見える。

しかし、

共同体の歴史、

伝統、

国家的帰属、

文化的連続性、

といった問題を十分に説明できない場合がある。

だから、

二人を並べる。

賛成するためではない。

一人の視点によって見えなくなるものを、もう一人によって補うためである。

33 現代の分断社会に二人を読む意味

現在の社会では、

自分と同じ意見だけを読むことが容易になっている。

SNSでは、

自分が賛成する人をフォローする。

反対する人を遮断する。

似た思想の情報が集まる。

その結果、

相手の考えがなぜ成立するのか

を理解する機会が減る。

三島と大江を同時に読むことには、

この問題への一つの意味がある。

二人は簡単には統合できない。

どちらか一方を選べば済むわけでもない。

だからこそ、

両方を読んで、自分の中に矛盾した問いを残す。

それ自体が教養の一つの形になる。

結論~二人は「違う日本」を望んだのではなく、「日本の違う欠落」を見ていた

三島由紀夫と大江健三郎。

政治的位置から見れば、

二人は確かに遠い。

三島は、

日本文化、

天皇、

国家、

歴史、

身体、

を通して戦後日本を問い直した。

大江は、

民主主義、

広島、

核、

個人、

弱者、

を通して戦後日本を問い直した。

三島は戦後によって失われたものを見た。

大江は戦後が約束しながら実現できていないものを見た。

この違いを一言で整理すれば、

三島は「戦後以前との断絶」を問題にし、 大江は「戦後理念と戦後現実との断絶」を問題にした

と言えるかもしれない。

三島は、

過去との連続性を取り戻そうとした。

大江は、

戦後民主主義をさらに前へ進めようとした。

一人は過去を見た。

もう一人は未来を見た。

と表現したくなる。

しかし、それも完全には正しくない。

三島も未来の日本を考えていた。

大江も過去の戦争を繰り返し振り返った。

つまり二人とも、

過去・現在・未来の関係をどう結び直すか

を考えた作家だった。

そして二人とも、

現実の戦後日本へ強い違和感を持っていた。

高度経済成長。

豊かな生活。

消費社会。

それだけでは、

人間はどう生きるのか。

国家とは何か。

日本とは何か。

という問いには答えられない。

この点では、二人はむしろ同じ場所に立っていた。

そこから、

三島は、

文化、

天皇、

身体、

死、

へ進んだ。

大江は、

民主主義、

核、

個人、

弱者、

へ進んだ。

だから二人を読む時に重要なのは、

「三島と大江のどちらを支持するか」

だけではない。

より重要なのは、

なぜ同じ戦後日本を見て、二人はこれほど違う答えへ進んだのか

を考えることである。

そしてさらに、

現代の私たちは、

三島が見た問題と、

大江が見た問題の、

どちらをすでに解決したのだろうか。

文化と歴史。

民主主義と個人。

国家の自立。

核と戦争。

共同体。

少数者。

これらの問いを見る限り、

二人が考え続けた「戦後」は、

完全に過去になったとは言いにくい。

三島由紀夫と大江健三郎を同時に読む意味は、

正反対の思想のどちらかを選ぶことではない。

互いに相手が見なかった日本を、二人の視線を重ねることで見ること。

そこにあるのではないだろうか。

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「昔の人には教養があった」は本当なのか

昭和という時代について語るとき、

「昔の人は本を読んでいた」

「学生は難しい哲学書を読んでいた」

「大学生なら岩波文庫を読むのが当たり前だった」

「総合誌を読んで政治や社会について考えていた」

といった話を聞くことがある。

そこから、

昭和の日本人には教養があり、現代人は教養を失った

という結論へ進むこともある。

しかし、本当にそうなのだろうか。

昭和の人々全員が哲学書を読んでいたわけではない。

難解な本を買っても最後まで読まなかった人もいただろう。

娯楽小説、漫画、映画、ラジオ、テレビを楽しむ人も当然多かった。

したがって、

「昭和の日本人は現代人より知的だった」

と単純に比較することはできない。

それでも昭和には、現在とは少し違う「教養」という文化が存在したことは確かである。

その違いは、人間の能力よりも、

知識へ到達する道筋

にあったのではないだろうか。

本屋へ行く。

岩波文庫を手に取る。

新書を読む。

新聞を読む。

『世界』や『中央公論』などの総合誌を読む。

そこで、

文学、

哲学、

歴史、

政治、

経済、

科学、

社会問題、

へ触れる。

つまり昭和の教養とは、

単に「たくさん知っていること」ではない。

異なる分野の知識を、一人の人間の中である程度つなげて考えようとする文化

だったと考えることができる。

本稿では、

岩波文庫、

岩波新書、

総合誌、

大学、

新聞、

テレビ、

というメディア環境を通して、

「昭和の教養」とは何だったのかを考えてみたい。

そして最後に、

令和の時代には教養が失われたのか、それとも別の形へ変わっただけなのか

を検討する。

1 「教養」は単なる知識量ではない

まず、教養という言葉を整理しておきたい。

教養は、

知識量、

学歴、

資格、

専門能力、

とは必ずしも同じではない。

医学について非常に詳しい医師がいる。

法律について非常に詳しい弁護士がいる。

数学について非常に詳しい研究者がいる。

もちろん、その専門知識は極めて高度である。

しかし昔から「教養」という言葉には、

専門分野だけではなく、

文学、

歴史、

哲学、

芸術、

社会、

政治、

科学、

などについて幅広く触れ、

それらを使って人間や社会を考える、

という意味が含まれていた。

したがって教養とは、

多くの答えを知っていること

よりも、

一つの問題を複数の角度から考えるための背景知識を持っていること

に近い。

例えば戦争を考える場合、

軍事だけでは足りない。

歴史。

外交。

経済。

政治。

倫理。

文学。

人間心理。

こうしたものが関係する。

この「分野をまたぐ思考」を支えたのが、昭和の出版文化だった。

2 岩波文庫~古典を個人の本棚へ持ち込む仕組み

昭和の教養を象徴するものの一つが岩波文庫である。

岩波文庫は1927年、昭和2年に創刊された。

岩波書店によれば、現在の岩波文庫は、

日本古典文学、

日本近現代文学、

外国文学、

哲学・歴史学など、

社会科学など、

という広い領域を持っている。

つまり岩波文庫は、

「文学作品を安く読むシリーズ」

だけではない。

プラトン。

カント。

マルクス。

歴史書。

政治思想。

経済。

宗教。

自然科学。

日本古典。

近代文学。

さまざまな分野へアクセスする入口になっていた。

1927年7月10日の創刊時には22点が刊行されている。

ここで重要なのは、

古典的著作を、専門研究者だけではなく一般読者が所有できる形にした

ことである。

大学図書館でしか読めない。

専門家しか手にできない。

という本ではなく、

書店で買い、

電車で読み、

自宅の本棚へ置く。

そうした文化が生まれた。

3 「文庫本を持つ」ということ自体に意味があった

現在では、一冊の本を所有することの意味は相対的に小さくなっている。

検索すれば概要が分かる。

電子書籍もある。

動画解説もある。

しかし昭和期には、

本を持っていること自体が、

知識へアクセスする重要な手段だった。

一冊買う。

読み終わる。

本棚へ置く。

別の本を買う。

すると本棚そのものが、

その人の知的履歴になる。

文学。

哲学。

歴史。

社会科学。

それらが一つの部屋に並ぶ。

この環境には一つの特徴がある。

知識が物理的に隣り合う。

夏目漱石の隣にプラトンがある。

その隣に歴史書がある。

さらに経済学の本がある。

本棚は検索結果と違い、

一つの関心だけに最適化されていない。

この「偶然の隣接」が教養形成に一定の役割を持っていたと考えられる。

4 岩波文庫の分類そのものが一つの世界観だった

岩波文庫には帯色による分類がある。

現在の分類では、

黄帯が日本古典文学、

緑帯が日本近現代文学、

赤帯が外国文学、

青帯が哲学・歴史・宗教・自然科学など、

白帯が法律・政治・経済・社会、

という大きな構造を持つ。

これは単なる整理番号ではない。

一つの出版社が、

「人間が学ぶべき世界には、こうした領域がある」

と示していることになる。

文学だけではない。

哲学だけでもない。

政治だけでもない。

複数の知識領域を一つの体系の中へ置く。

ここに「教養」の特徴がある。

現代のインターネットでは、

知識は検索単位で出てくる。

岩波文庫では、

知識がシリーズ全体として提示される。

両者はかなり違う。

5 岩波新書~専門知を一般読者へ翻訳する装置

岩波文庫が古典への入口だったとすれば、

岩波新書は、

現代社会や専門知識への入口

として大きな役割を持った。

岩波新書は1938年11月に創刊された。

創刊時は赤い装丁だった。

岩波茂雄は、新書が普及し、電車の中で多くの人が赤い本を持っているようになることを望んだと伝えられている。

この発想は興味深い。

学問を大学の中だけに置かない。

専門家の研究を、

一般の読者でも読める大きさ、

価格、

文章量、

へ変換する。

つまり新書とは、

専門知と一般社会の中間に作られたメディア

だった。

6 新書は「大学の授業」と「新聞記事」の中間だった

新聞記事は短い。

専門書は長い。

大学の授業を受けるには大学へ行かなければならない。

新書は、その中間を埋める。

一冊で、

歴史。

政治。

経済。

科学。

哲学。

宗教。

社会問題。

などについて一定の知識を得る。

専門研究の完全な代替ではない。

しかし、

「この問題について初めて体系的に学びたい」

という読者には非常に適している。

ここに昭和型教養の重要な特徴がある。

専門家になる前に、まず全体像を知る。

この段階を支えたのが新書だった。

7 教養人とは「専門家ではない読者」でもあった

昭和の教養文化を考えると、

一つ面白いことがある。

教養の中心となる読者は、

必ずしも専門家ではない。

経済学者ではない人が経済学の新書を読む。

歴史家ではない人が歴史の本を読む。

哲学者ではない人が哲学書を読む。

文学研究者ではない人が古典文学を読む。

つまり、

自分の専門外の本を読むこと自体が教養だった。

現代社会では、

「それはあなたの専門ですか」

と問われることが多い。

もちろん専門性を尊重することは重要である。

しかし、

専門外だから読まない、

専門外だから考えない、

となれば、

社会全体を考える能力は弱くなる。

昭和の教養文化には、

専門家ではないからこそ読む、

という発想が一定程度存在していた。

8 総合誌~異なる知識が同じ一冊に入っていた

そして昭和の教養文化を支えたもう一つの媒体が、

総合誌である。

『中央公論』

『世界』

『文藝春秋』

などである。

『中央公論』は現在も、創刊130年を超える日本最長寿の月刊総合誌として、政治、経済、国際、教育、医療、科学、歴史、文化など幅広い領域を扱っている。

岩波書店も、1946年創刊の『世界』が戦後日本社会へ大きな影響を及ぼしてきた雑誌だと位置付けている。

総合誌には、

一つの問題だけを専門的に扱う雑誌とは違う特徴があった。

政治の論文の次に、

文学論がある。

その次に、

国際問題。

さらに、

科学。

社会問題。

文化。

が並ぶ。

つまり読者は一冊買うことで、

自分が最初から探していなかった問題にも出会う。

この偶然性は重要だった。

9 総合誌は「共通して考える問題」を作っていた

総合誌にはもう一つの役割がある。

読者へ情報を渡すだけではない。

「今、社会ではこの問題を考えるべきだ」

という議題を設定する。

憲法。

安全保障。

教育。

公害。

経済成長。

文学。

国際情勢。

編集部が特集を組むことで、

それまで詳しく知らなかった読者も、その問題へ接触する。

この意味で総合誌は、

知識を売る媒体であると同時に、

公共的な問題を編集する媒体

だった。

昭和の教養人とは、

一定の本を読んだ人というだけではない。

同じ時代の社会問題について、

異なる分野の文章を読みながら考える人でもあった。

10 昭和の教養には「編集された世界」があった

ここまでの共通点を見ると、

昭和の教養には一つの特徴が見える。

岩波文庫。

岩波新書。

総合誌。

いずれにも、

編集者がいる。

何を文庫へ入れるか。

誰に新書を書いてもらうか。

総合誌で何を特集するか。

出版社が選ぶ。

つまり読者は、

無限の情報から自分で全部選ぶのではなく、

ある程度編集された世界を読む。

この仕組みには欠点もある。

出版社の思想。

編集者の判断。

人的ネットワーク。

によって、読者が触れる情報が偏る可能性もある。

しかし利点もある。

何を読めばよいのか分からない人でも、知識への入口を持つことができる。

これは現在との大きな違いである。

11 大学進学と教養文化

昭和期、とくに戦後には大学教育も拡大していく。

大学には専門教育だけではなく、

一般教育、

教養課程、

という考え方があった。

専門学部へ進んでも、

哲学。

文学。

歴史。

外国語。

社会科学。

自然科学。

などへ触れる。

つまり、

専門家になる前に、

社会や人間について幅広く学ぶ段階

を置く。

これは文庫、新書、総合誌の文化とも相性がよかった。

大学で名前を聞いた思想家を文庫で読む。

新聞で知った社会問題を新書で調べる。

総合誌で専門家の議論を読む。

学問と出版文化がつながる。

ここに昭和型教養の一つの循環があったと考えられる。

12 「学生なら難しい本を読むべきだ」という文化

昭和の学生文化には、

難しい本へ挑戦すること自体に価値を置く傾向もあった。

完全に理解できなくても読む。

哲学書を買う。

思想書を持ち歩く。

議論する。

この文化には良い面と悪い面がある。

良い面は、

理解できないものへ時間を使う習慣

ができることだった。

すぐ役に立つか。

試験に出るか。

仕事に使えるか。

という基準だけで本を選ばない。

一方で悪い面もある。

難しい本を持っていることが、

知的な自己演出になる。

読んでいなくても本棚へ置く。

難解であること自体を価値と考える。

したがって、

昭和の教養文化を無条件に理想化するべきではない。

13 教養には「役に立たないものを読む余裕」が必要だった

現代では学習に対して、

資格になるか。

転職に使えるか。

収入が増えるか。

仕事に役立つか。

という実用性が重視されやすい。

もちろん合理的である。

しかし教養には、

すぐ役に立たない読書

も含まれる。

古代ギリシャ哲学。

古典文学。

宗教史。

美術史。

思想史。

これらは明日の仕事に直接使えないかもしれない。

しかし、

国家とは何か。

正義とは何か。

人間とは何か。

幸福とは何か。

死とは何か。

という問いを考える材料になる。

昭和型教養には、

実用性から一度離れて考える時間

が比較的強く価値付けられていた。

14 新聞も教養メディアだった

昭和の教養文化では新聞も重要だった。

新聞には、

政治。

経済。

国際。

社会。

文化。

書評。

論壇。

が同じ紙面にある。

現在の検索では、

自分が興味を持ったものを探す。

新聞では、

興味がなくても同じ紙面に置かれている。

国際政治の記事の隣に文化記事がある。

経済面をめくれば書評がある。

この構造は総合誌と似ている。

つまり昭和の情報環境には、

一つの媒体を読むだけで複数の領域へ触れる仕組み

が多かった。

15 テレビの登場は教養を壊したのか

テレビが普及すると、

「人々が本を読まなくなった」

という批判が起こりやすくなる。

しかしテレビを単純に反教養的な媒体と考えるのも適切ではない。

テレビには、

ドキュメンタリー。

歴史番組。

科学番組。

討論番組。

文学紹介。

教育番組。

があった。

つまり、

出版物を読まなかった人にも、

歴史や科学へ接触する機会を与えた。

テレビは一面では、

教養の大衆化

を進めた。

ただし、

文章で読む教養

と、

映像で知る教養

では、思考の方法が違う。

16 読む教養と見る教養

本では、自分の速度で読む。

戻る。

止まる。

考える。

線を引く。

別の本と比較する。

テレビでは基本的に、

番組の速度で情報が流れる。

その代わり、

映像。

音声。

図表。

現場映像。

を使える。

どちらが優れているという話ではない。

しかし、

教養の獲得方法が変わった

ことは重要である。

昭和後半には、

文庫・新書・総合誌・新聞

という活字文化に、

テレビ

が加わった。

これによって「教養人」の姿も変わった。

17 昭和の教養は「少ない情報」を深く読む文化だった

現在と昭和を比べた時、最も大きな違いの一つは、

情報量である。

昭和にはインターネットがない。

検索エンジンもない。

動画共有サービスもない。

SNSもない。

したがって、個人が一日に接触できる情報量は現在より少なかった。

これは不便である。

しかし、

一冊の本。

一つの記事。

一人の著者。

と長く付き合いやすい環境でもある。

現在は逆である。

情報へ到達する速度は劇的に速くなった。

しかし、

一つの情報へ滞在する時間は短くなりやすい。

昭和型教養を考える時、

知識量より、情報との接触時間

を見る必要がある。

18 「全部読む」から「検索して必要な部分だけ読む」へ

本を読む時には、

著者が設定した順番で進むことが多い。

第一章。

第二章。

第三章。

前提から結論へ進む。

検索の場合は違う。

知りたい部分へ直接飛ぶ。

これは極めて効率的である。

しかし一方で、

自分が質問しなかったことには出会いにくい。

例えば「ケインズとは誰か」と検索すれば、

ケインズについての答えは得られる。

しかし経済思想史全体を一冊読むと、

ケインズだけでなく、

古典派。

マルクス。

新古典派。

制度派。

などとの関係が見えてくる。

つまり、

検索は答えに強い。

読書は、

問いの背景を広げることに強い。

昭和の教養文化は後者を重視する環境だった。

19 昭和の教養には「共通の本」があった

もう一つ重要なのは、

多くの人が同じ本の名前を知っていたことである。

実際に読破していたかどうかは別として、

夏目漱石。

森鴎外。

ドストエフスキー。

カント。

マルクス。

など、

「教養として知っておくべき名前」

が比較的共有されていた。

新書や文庫のシリーズも同じである。

同じ出版レーベルを通して、

多くの読者が似た知識へ触れる。

その結果、

議論するための共通背景

が作られる。

現在は読むものが多様化している。

これは自由という点では大きな進歩である。

しかし、

共通して知っている本、

共通して読んだ文章、

は少なくなりやすい。

20 共通知識は本当に必要なのか

では、全員が同じ本を読む社会の方がよいのだろうか。

そうとも言えない。

共通の教養には、

排除

も伴う。

「この本を読んでいない人は教養がない」

「この思想を知らない人は話にならない」

という階層意識が生まれることがある。

出版社や大学が選んだ古典だけが、

価値ある知識

とされる危険もある。

世界には、

地域文化。

女性の経験。

労働者の文化。

少数者の歴史。

大衆文化。

など、従来の「教養」から十分に扱われなかった領域もある。

したがって昭和の教養を評価するとき、

共通基盤という長所と、選択された知識による排除という短所の両方

を見る必要がある。

21 岩波文化は「昭和の教養」そのものだったのか

昭和の教養を語ると、

岩波文化

という言葉を連想する人もいる。

岩波書店は、

岩波文庫。

岩波新書。

『世界』。

『思想』。

『科学』。

『図書』。

など、文学・思想・学術・社会問題を横断する出版活動を行ってきた。『世界』は1946年創刊、『思想』は1921年、『科学』は1931年、『図書』は1938年創刊である。

この体系を見ると、

古典を読む。

現代社会を知る。

思想を読む。

科学を読む。

総合誌で社会問題を考える。

という教養形成の経路を、一つの出版社がかなり広く提供していたことが分かる。

しかし、

昭和の教養=岩波

とするのも狭すぎる。

22 中央公論、文藝春秋、新潮なども別の教養を作った

昭和の読者は岩波書店だけを読んだわけではない。

『中央公論』

『文藝春秋』

『新潮』

など、それぞれ異なる編集文化を持つ出版社・雑誌が存在した。

現在の『中央公論』も、政治・経済から科学・文化までを横断している。

重要なのは、

一つの正しい教養があったのではない、

ということである。

岩波的教養。

中央公論的教養。

文藝春秋的教養。

文学中心の教養。

社会科学中心の教養。

それぞれが存在した。

だから昭和の教養文化を、

一つの出版社の思想へ還元するべきではない。

23 教養は社会的地位を示す記号にもなった

ここで昭和の教養文化の負の側面にも触れる必要がある。

難しい本を読む。

有名な思想家を知っている。

外国文学を読む。

こうしたことが、

社会的な自己評価につながる場合がある。

つまり教養は、

知識であると同時に、文化的な地位を示す記号

にもなる。

「その本を読んでいないのか」

「そんなことも知らないのか」

という形で他人を評価する。

こうなると、

教養は人間の視野を広げるものではなく、

他者と自分を区別する道具になる。

これは教養文化の矛盾である。

24 「教養人」が男性・都市・大学中心になりやすかった問題

昭和の典型的な教養人像を考えると、

大学へ行き、

都市で働き、

本を購入し、

総合誌を読む、

というモデルが想定されやすい。

しかし日本社会全体がその生活を送っていたわけではない。

家事や育児に多くの時間を使う人。

長時間労働をする人。

農業や漁業に従事する人。

高等教育へ進まなかった人。

こうした人々にも当然、生活の中で蓄積された知識や文化がある。

したがって、

出版物中心の教養だけを「本当の教養」と考えること自体が、一つの歴史的価値観

だったと見る必要がある。

25 専門化は教養を弱くしたのか

戦後の日本社会が発展すると、学問も仕事も専門化する。

医学。

工学。

経済。

法律。

情報科学。

それぞれが高度になる。

一人の人間がすべてを深く知ることは不可能になる。

すると、

「広く浅く知る教養」

より、

「一つを深く知る専門性」

の価値が高まる。

これは社会の進歩でもある。

高度な医療を、

一般教養だけで行うことはできない。

しかし専門化には、

別の問題がある。

自分の専門以外の問題が見えにくくなる。

ここに教養の必要性が再び出てくる。

26 現代社会ほど教養が必要なのではないか

現在の問題を考えてみる。

人工知能。

人口減少。

気候変動。

社会保障。

安全保障。

地域衰退。

どれも一つの専門分野だけでは理解できない。

例えば人工知能なら、

情報科学。

数学。

法律。

倫理。

教育。

労働。

経済。

著作権。

が関わる。

人口減少なら、

人口統計。

経済。

医療。

住宅。

交通。

教育。

家族。

地域文化。

が関わる。

つまり現代社会は、

昭和以上に総合的思考を必要としている。

それにもかかわらず、情報環境は専門別に細分化している。

ここに現代の教養問題がある。

27 インターネットは教養を破壊したのか

インターネットには大きな利点がある。

古典文学を無料で読める。

大学の講義を見られる。

論文を検索できる。

公的統計へ直接アクセスできる。

海外の資料も読める。

昭和の読者から見れば、

夢のような知識環境である。

だから、

インターネットによって教養が破壊された

と考えるのは正確ではない。

むしろ、

知識へのアクセスは歴史上かつてないほど広がった。

問題は別のところにある。

28 情報が多すぎて「何を読めばよいか」が分からない

昭和には情報が少なかった。

だから文庫や新書のシリーズが、

「まずこれを読んでみる」

という入口を提供できた。

現在は情報が多すぎる。

検索結果。

動画。

SNS。

ブログ。

ニュース。

電子書籍。

論文。

すべてが並ぶ。

すると、

どれを読むかを決める能力そのものが必要になる。

昭和では出版社が編集した。

令和では読者自身が編集しなければならない。

ここが決定的な違いである。

29 アルゴリズムは現代の「編集者」なのか

現在では、多くの情報が推薦機能によって届けられる。

過去に見たもの。

検索したもの。

反応したもの。

に近い情報が表示される。

これは非常に便利である。

しかし、

自分が好きなものを見れば見るほど、

同じ分野の情報が増える。

文学好きには文学。

投資好きには投資。

政治好きには政治。

すると、

一つの分野を深く知ることはできても、

異なる分野との偶然の出会いが減る可能性がある。

昭和の総合誌とは逆方向の構造である。

総合誌は、

自分が選ばなかった記事も同じ冊子に入っている。

推薦システムは、

自分が好みそうなものを集める。

ここには教養形成の大きな違いがある。

30 令和には「共通の本棚」がない

昭和には、

文庫シリーズ。

新書シリーズ。

新聞。

総合誌。

が一種の共通本棚として機能した。

令和には、

一人ひとり違う画面がある。

検索履歴が違う。

推薦される動画も違う。

読むニュースも違う。

SNSのフォロー相手も違う。

つまり、

社会全体で共有する「知識への入口」が弱くなった。

これは多様化という意味では利点である。

しかし、

違う意見を持つ以前に、

違う事実、

違う問題、

違う世界

を見ている状態にもなり得る。

31 昭和の教養を復活させればよいのか

では、岩波文庫を読めば昔の教養が復活するのだろうか。

そう単純ではない。

昭和の出版文化をそのまま復活させる必要はない。

当時の教養には、

限られた編集者が知識を選ぶ。

特定の文化を正統とする。

学歴や読書歴による階層意識を生む。

という問題もあった。

現代には現代の利点がある。

多様な人が発信できる。

地方からでも参加できる。

専門家の一次情報へ直接届く。

少数者の経験も知ることができる。

したがって必要なのは、

昔へ戻ることではない。

32 昭和から引き継ぐべきなのは「本の名前」ではない

昭和の教養文化から学べるものがあるとすれば、

必ずしも、

カントを読め。

岩波文庫を読め。

総合誌を読め。

という具体的な読書リストではない。

重要なのは、

異なる分野をつなげる習慣

である。

文学を読んだら、

その時代の歴史を調べる。

経済を学んだら、

政治との関係を見る。

科学技術を学んだら、

倫理や法律も考える。

現代社会のニュースを見たら、

歴史的背景を調べる。

こうした横断的思考が教養の中心になる。

33 令和型教養に必要な五つの能力

昭和型教養を現代へ置き換えるなら、少なくとも五つの能力が考えられる。

第一に、

一つの専門分野を持つこと。

広く浅い知識だけでは、情報の正確性を判断しにくい。

第二に、

専門外の分野にも触れること。

自分の専門だけで社会全体を説明しない。

第三に、

長い文章を読む能力を維持すること。

短い情報だけでは複雑な問題を理解しにくい。

第四に、

一次資料へ戻ること。

要約だけでなく、統計、原文、公的資料を確認する。

第五に、

異なる考えを読むこと。

自分が最初から賛成できる文章だけを読まない。

これが現代型教養の基本になるのではないだろうか。

34 AI時代の教養とは何か

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が普及すると、

事実を覚えていることの価値はさらに変わる。

人名。

年代。

用語。

概要。

は短時間で検索・整理できる。

すると、

教養は不要になるようにも見える。

しかし、むしろ逆かもしれない。

AIが答えを出した時、

その答えが妥当か判断するには、

背景知識が必要になる。

どの論点が抜けているか。

歴史的背景は正しいか。

価値判断と事実が混ざっていないか。

複数の見方があるのではないか。

こうした判断には、

一分野の知識だけでは足りない。

つまりAI時代には、

知識を記憶する教養から、知識を位置付ける教養へ

変わっていく可能性がある。

35 教養とは「すぐ答えを出さない能力」でもある

教養の重要な役割は、

正解をたくさん知ること

だけではない。

問題を単純化しないことでもある。

地方は良い。

都会は悪い。

若者は進歩的。

高齢者は保守的。

科学技術は善。

伝統は善。

こうした単純な二項対立を疑う。

歴史を知れば、

現在の制度が突然できたものではないことが分かる。

文学を読めば、

人間が合理性だけで動かないことが分かる。

経済を学べば、

理想だけでは資源配分できないことが分かる。

科学を学べば、

直感が間違うことがあると分かる。

つまり教養とは、

簡単な答えに飛び付かないための知識

でもある。

36 昭和の教養を美化してはいけない

ここで最初の問いへ戻ろう。

昭和には、本当に現代より教養があったのだろうか。

これは簡単には証明できない。

読書文化が強かった時期はあった。

岩波文庫や新書、総合誌が知的文化の重要な媒体だったことも事実である。

しかし、

国民全員が高度な本を読んでいたわけではない。

教養文化から距離のある人もいた。

読書を社会的地位の記号として使う人もいた。

したがって、

昭和=教養、令和=無教養

という比較は成立しない。

重要なのは、人間の質ではなく環境の違いである。

結論~昭和の教養とは「知識の共通本棚」だった

昭和の教養とは何だったのか。

一言で表すなら、

社会にある程度共有された「知識の本棚」を持つこと

だったのではないだろうか。

岩波文庫が古典を並べる。

岩波新書が専門知を一般読者へ運ぶ。

総合誌が政治、経済、文学、科学、文化を同じ一冊へ置く。

新聞が国際問題と書評を同じ紙面へ載せる。

大学が専門教育の前後に教養教育を置く。

こうした複数の仕組みが、

文学。

哲学。

歴史。

社会。

科学。

を完全に別々の世界へしなかった。

もちろん、その本棚には偏りがあった。

誰が「読むべき本」を選ぶのか。

誰の思想が正統とされるのか。

誰が教養人と認められるのか。

昭和型教養には、そうした問題もあった。

だから私たちは、

昔の本棚をそのまま復元する必要はない。

しかし現在、

私たちは別の問題を抱えている。

情報は無限にある。

専門家も多い。

動画も論文も統計もすぐに見られる。

それでも、

異なる知識を一つの世界として見ることが難しくなっている。

検索すれば答えは出る。

しかし、

何を検索すべきかは教えてくれない。

SNSを開けば情報は流れる。

しかし、

自分の関心の外に何があるかは見えにくい。

専門家は正確な知識を持つ。

しかし、

専門と専門をどう結ぶかは別の問題である。

その意味で、

昭和の教養から現代が学ぶべきものは、

難しい本を読んでいたという外形ではない。

一つの専門だけで世界を理解したと思わない姿勢

なのではないだろうか。

古典文学を読む。

歴史を知る。

科学を学ぶ。

経済を見る。

社会制度を調べる。

異なる思想も読む。

それらを一人の人間の中でつなげていく。

これが教養であるなら、

教養は昭和とともに消えたわけではない。

ただ、

出版社や総合誌が用意してくれた「共通の本棚」が弱くなり、

自分自身で本棚を作らなければならない時代になった

のである。

昭和の教養人は、

何を読むかを出版社や大学からある程度教えてもらえた。

令和の私たちは、

無限の情報の中から、

何を読み、

何を疑い、

何と何を結び付けるかまで、

自分で決めなければならない。

その意味では、

現代の教養形成は昭和より簡単になったのではない。

情報へのアクセスは容易になった。

しかし、

知識を自分の中で一つの世界へ組み立てる仕事は、むしろ個人へ委ねられるようになった。

昭和の教養を懐かしむより、

その仕組みが果たしていた役割を理解し、

現代の環境でどう再構築するかを考える。

それが、令和の時代に「教養とは何か」を問う意味なのではないだろうか。

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『平家物語』は「美しく滅びる物語」なのか

『平家物語』と聞いて、多くの人が最初に思い浮かべるのは、冒頭の有名な一節だろう。

祇園精舎の鐘の声。 諸行無常の響き。 沙羅双樹の花の色。 盛者必衰のことわり。

『平家物語』は、十三世紀に成立したとされる軍記物語であり、平清盛を中心に繁栄した平家一門と、その没落を描いた作品である。京都国立博物館も、同作品を十二世紀末の源平合戦を軸に、清盛ら平家一門の栄華と滅亡を描いた軍記物語として紹介している。

そのため、『平家物語』はしばしば、

「滅びの美学を描いた作品」

として理解される。

確かに、この読み方には根拠がある。

栄えていた者が衰える。

若い武者が死ぬ。

都を追われる。

海へ沈む。

勝者ではなく敗者に哀惜の視線が向けられる。

そうした場面が『平家物語』の大きな魅力である。

しかし、

平家は「美しく滅びるため」に存在したわけではない。

作品をもう一歩違う方向から読むと、別の問題が見えてくる。

なぜ、あれほど強大になった平家は短期間で崩れたのか。

清盛の成功には、どのような条件があったのか。

成功したことで、どのような弱点が生まれたのか。

なぜ権力を持つほど敵が増えたのか。

なぜ清盛という中心人物がいなくなると組織が不安定になったのか。

そして、

成功している最中に、自分たちの失敗の原因が作られていたのではないか。

この視点から読むと、『平家物語』は「滅びの美学」だけではなく、

成功者が失敗するときの構造

を描いた物語としても読める。

ただし注意しなければならない。

『平家物語』は現代の経営学書ではない。

また、作品に描かれた清盛像や平家像を、そのまま歴史上の事実とすることもできない。

作者は特定されておらず、成立も出来事から後の十三世紀と考えられている。(crd.ndl.go.jp)

したがって本稿では、

文学作品として描かれた「平家の滅び」と、歴史上の平氏政権の変化を区別したうえで、現代的な組織論として読み直す。

それが目的である。

1 冒頭から結論を知らされている特殊な物語

『平家物語』の特徴は、物語が始まった瞬間に、ほぼ結論を告げられていることである。

冒頭では、

「盛者必衰」

という原理が示される。

さらに、

「おごれる人も久しからず」

「たけき者もつひにはほろびぬ」

という方向へ続いていく。国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、この冒頭部分が『平家物語』巻第一「祇園精舎」の本文として確認されている。 普通の物語なら、

主人公は成功するのか。

戦争には勝つのか。

家は存続するのか。

という結果が読者の関心になる。

しかし『平家物語』では違う。

読者は最初から知っている。

平家は滅びる。

すると読書の関心は、

「滅びるかどうか」

ではなく、

「なぜ滅びるのか」

へ移る。

この構造が、『平家物語』を組織の成功と失敗という観点から読むことを可能にしている。

2 そもそも平家はなぜ成功したのか

失敗を考える前に、成功の理由を見る必要がある。

歴史上の平清盛は、突然権力を手にした人物ではない。

父・忠盛の代から平氏は朝廷との関係を強め、瀬戸内海交通や日宋貿易とも関係を深めていった。

清盛は1156年の保元の乱、1159年の平治の乱などを経て政治的・軍事的地位を上げ、1167年には太政大臣にまで進んでいる。神戸市の歴史資料でも、清盛が保元・平治の乱を経て軍事的主導権を強め、1167年に太政大臣となったことが整理されている。

つまり平家の成功は、

単なる幸運ではない。

長期間にわたる、

政治力、

軍事力、

家族関係、

経済力、

交通網、

朝廷との関係、

などの積み重ねによって成立した。

ここは重要である。

大きな失敗をする組織は、それ以前に大きく成功していることが多い。

失敗したから無能だった、

とは限らない。

むしろ、

成功する能力を持っていたからこそ、

大きな権力を持つところまで成長したのである。

3 清盛の革新性~旧来の貴族だけではなかった

平清盛を、

単なる傲慢な権力者

として描くだけでは歴史像として十分ではない。

清盛は、武力だけで権力を築いたわけではない。

日宋貿易を重視し、大輪田泊を整備して瀬戸内海と海外交易を政治・経済の基盤として活用しようとした。神戸市の資料でも、平氏政権には外戚関係や高位高官への進出という従来型の側面と、日宋貿易や大輪田泊を利用する中世的・新しい側面が併存していたと整理されている。 つまり清盛には、

既存制度を利用する能力と、新しい経済基盤を開拓する能力の両方があった。

これは現代の成功者にも通じる。

成功者は、多くの場合、

既存の制度に適応するだけではない。

新しい市場。

新しい技術。

新しい人脈。

新しい流通。

を利用して競争優位を作る。

平家の繁栄を、

「権力を独占したから栄えた」

だけで説明すると、

なぜそもそも権力を独占できるほど強くなったのかが見えなくなる。

4 成功モデルそのものが、やがて弱点になる

しかし成功には一つの危険がある。

成功した方法を、成功した後も使い続けることである。

平家は朝廷との結び付きを強めた。

一門を高い官職につけた。

婚姻関係によって皇室との結び付きを強めた。

清盛の娘・徳子は高倉天皇の中宮となり、その子である安徳天皇が即位した。清盛は天皇の外祖父という極めて強い政治的位置に立つ。(city.kobe.lg.jp)

これは成功戦略である。

しかし同時に、

政治権力、

家族、

官職、

経済的利益、

を一門へ集中させていく。

すると、

平家が強くなること

と、

平家以外の人々が利益を得にくくなること

が表裏一体になる。

成功が大きくなるほど、

成功から排除された側も増える。

ここに最初の構造的問題がある。

5 成功者は「敵が増えていること」に気付きにくい

組織が弱い時代には、

協力者を必要とする。

周囲の理解を得る。

妥協する。

他者の力を借りる。

しかし成功が続くと、

自分たちだけで決定できる範囲が増える。

ここで危険なのは、

権力が増えることと、支持が増えることを混同すること

である。

命令に従う人が増えた。

だから支持されている。

反対意見が出なくなった。

だから反対者はいない。

とは限らない。

権力が強いから沈黙しているだけかもしれない。

『平家物語』に描かれる平家は、しばしばこの問題を抱えている。

一門の力が大きくなるほど、

反感、

嫉妬、

不満、

抵抗、

も蓄積する。

これは、

外からは最も強く見える時期に、内部では失敗の条件が作られている

という成功者特有の危険である。

6 「驕り」は性格ではなく構造として考えられる

『平家物語』は「おごれる人も久しからず」と語る。

ここから、

平家は傲慢だったから滅びた、

と読むこともできる。

しかし現代的に考えるなら、

「驕り」を個人の性格だけで説明しない方がよい。

なぜなら権力を持つと、

周囲が反対しなくなる。

不都合な情報が届きにくくなる。

成功例ばかりが報告される。

失敗しても修正されない。

という環境が生まれることがあるからである。

つまり、

驕りは人格だけでなく、情報構造から生まれる。

どれほど慎重な人物でも、

周囲に反対する人がいない。

失敗しても責任を問われない。

成功だけが評価される。

という環境に長くいれば、判断を誤りやすくなる。

『平家物語』の「驕り」を現代的に読むなら、単なる道徳的欠点ではなく、

権力集中による判断環境の劣化

として考えることもできる。

7 一門経営は強いが、同時に脆い

平家政権の特徴の一つは、一門の結び付きである。

家族や親族を官職につける。

婚姻を通じて政治的関係を作る。

これは信頼関係の構築という意味では合理性がある。

現代でも、

創業家企業、

同族企業、

家族経営、

には似た強みがある。

意思決定が速い。

信頼関係がある。

長期的目標を共有しやすい。

しかし弱点もある。

人材選択の範囲が狭くなる。

能力より血縁が優先される可能性がある。

外部人材が力を持ちにくい。

内部批判が難しくなる。

そして、

一族の失敗が組織全体の失敗になる。

これは平家を現代企業と同一視するという意味ではない。

あくまで構造比較である。

8 清盛という巨大な中心人物

平家の繁栄を考えると、平清盛という人物の存在は極めて大きい。

政治交渉。

軍事。

朝廷との関係。

経済。

一門内部の統率。

こうした複数の領域が清盛を中心に結び付いていた。

つまり平家という組織には、

非常に強い中心人物

がいた。

これは成長段階では大きな強みになる。

優れた創業者。

強力な政治指導者。

カリスマ経営者。

こうした人物は、

異なる利害をまとめ、

素早い意思決定をし、

組織を急速に成長させることができる。

しかしここにも問題がある。

中心人物が強すぎるほど、

その人物がいなくなった時の穴も大きくなる。

9 平重盛の死~内部調整役を失う

清盛だけでなく、長男の平重盛の存在も重要である。

神戸市の資料では、重盛は鹿ヶ谷事件をめぐって後白河法皇との対立を激化させようとする清盛をいさめた人物として紹介され、清盛より早い1179年に病没している。

『平家物語』でも重盛は、

父・清盛と朝廷との間を調整し、

過激な方向へ進もうとする一門を抑える人物として描かれる。

ここから組織論的に見えるのは、

トップだけでなく、

トップと外部をつなぐ調整役の重要性

である。

強い指導者に対して、

反対意見を言える。

外部の反応を伝える。

組織内の過激化を抑える。

こうした人物は、一見すると組織の速度を落としているように見える。

しかし実際には、

組織が暴走しないための安全装置

になっている場合がある。

その人物を失うと、組織は一気に不安定になる。

10 1179年~権力集中は頂点に達する

1179年、清盛は後白河法皇を幽閉するなどして政治的主導権をさらに強めた。神戸市の歴史資料でも、この時期に清盛が権力を集中させたことが確認できる。

ここだけを見ると、

平家の勝利である。

反対勢力を抑えた。

政治的主導権を握った。

自分たちに有利な体制を作った。

しかし、成功と安定は同じではない。

反対勢力を政治的に排除すれば、

反対がなくなるのではなく、

制度の中で反対できなくなる

場合がある。

制度内で反対できなければ、

制度外の抵抗へ移る可能性がある。

組織でも同じである。

会議で異論を封じる。

批判者を外す。

反対意見を人事で抑える。

すると短期的には経営が安定して見える。

しかし不満そのものは消えていない。

むしろ表面から見えなくなる。

11 1180年~反対勢力が同時多発的に立ち上がる

1180年には以仁王が平氏追討の令旨を発し、それを契機として源頼朝や源義仲らの挙兵へつながっていく。神戸市の資料でも、以仁王の挙兵が敗北した後も頼朝・義仲らの挙兵が続き、平家滅亡へ向かう重要な契機になったと整理されている。 ここで重要なのは、

一人の敵が現れた

ということではない。

複数地域で敵が生まれる。

これは組織にとって非常に危険である。

一つの問題なら集中して対応できる。

しかし、

東国。

北陸。

畿内。

西国。

と複数の地域で軍事・政治問題が起きれば、

資源を分散しなければならない。

成功者が失敗するとき、

しばしば一つの巨大な失敗より、

小さな問題が同時に発生する

ことの方が危険である。

12 福原遷都~大胆な改革はなぜ定着しなかったのか

1180年、清盛は福原への遷都を進めた。

神戸市の資料では、清盛が日宋貿易の拠点でもある福原を重視し、遷都を試みたものの、十分に定着しないまま約半年で京都へ戻ったとされている。 福原への移転そのものを、

単なる清盛の気まぐれ

と見るのは適切ではない。

清盛にとって瀬戸内海交通や日宋貿易は重要だった。

福原を政治・経済の中心にする構想には一定の合理性があった。

しかし、

合理的な改革であること

と、

社会に受け入れられること

は別である。

既存の政治制度。

貴族。

寺社。

京都という文化・宗教的中心。

こうした巨大な既存構造がある。

ここから見えるのは、

改革の正しさだけでは改革は成功しない

という問題である。

13 成功者ほど「自分なら変えられる」と考えやすい

大きな成功経験を持った指導者には、

一つの心理的危険がある。

過去に困難なことを実現しているため、

次の改革も実現できる

と考えやすい。

清盛は、

武士として権力を高め、

太政大臣になり、

一門を高位高官へ進め、

天皇の外祖父にまでなった。

これだけ成功すれば、

「自分ならできる」

という自己認識を持っても不思議ではない。

しかし成功経験には罠がある。

過去に成功したことは、

未来の成功を保証しない。

条件が変わる。

協力者が変わる。

敵が増える。

年齢も変わる。

組織規模も変わる。

つまり、

成功体験は資産であると同時に、判断を固定する負債にもなり得る。

14 1181年~清盛の死と「後継者問題」

1181年、平清盛は死去する。

ここから平家は、

清盛なしで戦争と政治を行わなければならない。

後継の中心人物となるのが宗盛である。

しかし重要なのは、

宗盛個人の能力を単純に清盛と比較することではない。

問題は、

清盛という人物へ多くの機能が集中していた組織を、別の人物がそのまま引き継ぐことの難しさ

にある。

創業者企業でも、

強力なトップが突然退任すると、

後継者が無能だから失敗する

と言われることがある。

しかし実際には、

前任者に権限、

人脈、

信用、

判断、

が集中しすぎていたため、

誰が後を継いでも難しい場合がある。

つまり後継者問題とは、

後継者の問題であると同時に、

前任者が作った組織構造の問題

でもある。

15 平家は軍事的に弱かったのか

結果だけを見ると、

平家は源氏に敗れた。

だから、

平家は戦争に弱かった

と思いやすい。

しかし単純ではない。

平家も軍事力を持っていた。

一時期は源氏側の挙兵を抑えている。

治承・寿永の内乱は数年間に及び、最初から源氏側が一方的に優勢だったわけではない。

したがって、

「源氏が優秀で平家が無能だった」

という物語にするべきではない。

問題は、

戦争が長期化する中で、

どちらがより広い地域から兵力・物資・支持を集められたか

という構造にもあった。

16 中央の権力と地方のネットワーク

平家の強さは、朝廷を中心とする中央政治と深く結び付いていた。

これに対し、源頼朝は東国武士との主従関係を築いていく。

ここには、

中央集権型の権力と、地域ネットワーク型の権力

という違いを見ることもできる。

もちろん歴史はそれほど単純ではない。

しかし組織論として考えるなら、

一つの中心が非常に強い組織と、

複数の地域拠点を持つ組織では、

危機への耐性が違う。

中心を失った時、

前者は急速に弱くなる可能性がある。

後者は、一部を失っても別の拠点が残る。

つまり、

分散は平時には非効率でも、危機時には強さになる場合がある。

17 都落ち~失ったのは場所だけではない

平家が京都を離れる「都落ち」は、『平家物語』の大きな転換点である。

ここから作品は一層、

栄華の記憶と現在の落差

を強調する。

しかし組織論として見ると、

都落ちは単なる地理的移動ではない。

政治的中心。

経済的基盤。

情報網。

人脈。

象徴的権威。

こうしたものを同時に失う。

組織にとって、

本社を移転する

こととは違う。

自分たちを権力者として成立させていた環境そのものを失う

のである。

成功は本人の能力だけで作られるわけではない。

成功を支える環境がある。

その環境を失ったとき、

同じ人間でも同じ力を発揮できなくなる。

18 一ノ谷、屋島、壇ノ浦~敗北が連鎖する

1184年の一ノ谷、1185年の屋島、そして壇ノ浦へと、平家は次第に西へ追われていく。

京都国立博物館は、『平家物語』が源平合戦を軸として平家の栄華と滅亡を描いた作品であると説明している。

ここでは敗北が一回で終わらない。

一度負ける。

拠点を失う。

兵力が減る。

協力者が減る。

次の戦いが不利になる。

さらに負ける。

という連鎖が起きる。

これは、

失敗が次の失敗の確率を上げる状態

である。

逆に成功期には、

成功が次の成功を呼ぶ。

権力がある。

人が集まる。

資金が集まる。

さらに強くなる。

成功にも失敗にも、

自己増幅する性質がある。

『平家物語』は、その反転を劇的に描いている。

19 平家の敗北を「慢心」だけで説明してはいけない

ここで重要な注意がある。

平家が滅びた理由を、

驕ったから。

贅沢したから。

悪いことをしたから。

と道徳的に整理するだけでは、歴史として不十分である。

現実には、

後白河院との政治関係。

東国武士の動向。

源氏勢力の形成。

地域ごとの軍事・経済条件。

清盛や重盛の死。

長期内乱。

など複数の要因が絡んでいる。

また『平家物語』そのものも、実際の出来事の後に成立した文学作品であり、歴史上の平家をそのまま再現しているわけではない。作者未詳で、十三世紀前半の成立とされている。

したがって、

「傲慢な成功者には天罰が下る」

という教訓へ単純化してはいけない。

20 それでも「驕り」が物語の中心に置かれた意味

歴史的原因が複雑であるにもかかわらず、『平家物語』は冒頭で「驕り」を強調する。

これはなぜだろうか。

一つには、

複雑な歴史を、

人間が理解できる物語へ変えるため

と考えることができる。

政治制度。

経済。

軍事。

地域社会。

外交。

これらをすべて説明するのは難しい。

そこで、

栄える。

驕る。

衰える。

という人間的な構造へ変換する。

文学は歴史学とは違う。

歴史的な因果関係を完全に再現するのではなく、

人間が歴史をどう感じ、どう記憶するのか

を描く。

その意味で「驕り」は、歴史の完全な説明ではなく、

歴史を理解するための文学的な枠組みなのである。

21 「滅びの美学」は勝者の歴史とは違う

『平家物語』の大きな特徴は、

敗者を単純に忘れないことにある。

普通、政治史は勝者を中心に残りやすい。

誰が政権を取ったか。

どんな制度を作ったか。

誰が次の時代を始めたか。

しかし文学は違う。

敗れた人。

死んだ人。

都を追われた人。

残された家族。

そうした人々を物語の中に残す。

ここに、

「滅びの美学」

と呼ばれる部分が生まれる。

しかし、これは、

滅びれば美しい

という意味ではない。

むしろ、

成功と失敗だけで人間の価値を決めない

という視線だと考えた方がよい。

22 失敗した人間にも物語がある

現代社会では成功者が注目される。

企業を成長させた人。

選挙に勝った人。

スポーツで優勝した人。

投資で成功した人。

一方、失敗者は短い評価で終わりやすい。

経営に失敗した。

選挙に負けた。

事業が破綻した。

しかし『平家物語』は、

敗北した側を非常に長く描く。

そこには、

若さ。

家族。

愛情。

恐怖。

誇り。

後悔。

がある。

つまり、

敗北は、その人物の人生全体を否定するものではない。

この視点こそ、「滅びの美学」の本質の一つかもしれない。

23 成功者が失敗するときの七つの構造

ここまでを現代的な分析として整理すると、『平家物語』から七つの失敗構造を考えることができる。

第一に、

成功が権力集中を生む。

成功者へ人、金、情報が集まる。

第二に、

権力集中が反対意見を減らす。

批判が届きにくくなる。

第三に、

成功から排除された人々が増える。

表面的には強くても、潜在的な敵が増える。

第四に、

中心人物への依存が高まる。

トップがいなくなった時に組織が弱くなる。

第五に、

過去の成功体験が次の判断を支配する。

以前成功したから、今回も成功すると考える。

第六に、

一度の失敗が次の失敗を起こす。

資源、信用、人材を失い、連鎖が始まる。

第七に、

変化に対応する余力を失う。

成功期に最適化された組織ほど、環境が変わると動きにくい。

これは『平家物語』そのものが七項目の経営理論を提示しているという意味ではない。

作品と歴史を現代から比較して得られる分析モデルである。

24 「成功したから失敗した」という逆説

平家の歴史を考えると、

興味深い逆説が見える。

弱かったから滅びた、

だけではない。

むしろ、

強くなりすぎたから生まれた問題

がある。

高い地位を得た。

だから反感が増えた。

一門を重用した。

だから権力が集中した。

強い指導者がいた。

だからその人物への依存が大きくなった。

大胆な改革を行った。

だから既存勢力との摩擦が大きくなった。

つまり、

成功と失敗は別々の出来事ではない。

成功の中に、次の失敗の条件が含まれていることがある。

これは現代の企業や組織でも非常に重要な視点である。

25 企業が成長するときにも同じ問題が起きる

例えば小さな会社が急成長したとする。

創業者の判断が優れていた。

そのため会社が大きくなった。

そこで、

創業者がすべて決める。

という仕組みを維持する。

社員10人なら機能するかもしれない。

100人でも可能かもしれない。

しかし1000人になれば、

同じ方法では限界が来る。

つまり、

過去の成功を作った組織構造が、現在の成長を妨げる。

平家を企業と同一視することはできない。

しかし、

規模が変われば必要な組織構造も変わる

という一般的な問題を考える材料にはなる。

26 成功者ほど「退く時」が難しい

『平家物語』を読むと、

もう一つ重要な問題が見える。

権力を得る方法と、権力を手放す方法は別である。

上へ行くには、

競争する。

勝つ。

拡大する。

人を集める。

しかし頂点に立った後には、

譲る。

分散する。

後継者を育てる。

反対意見を残す。

という別の能力が必要になる。

ところが成功者は、

前半の能力によって成功している。

そのため後半でも、

同じ能力を使いやすい。

さらに拡大する。

さらに集中する。

さらに競争する。

ここに、

成功者が引き際を誤る構造

がある。

27 清盛を単純な悪役にすると見えなくなるもの

『平家物語』の清盛には強烈な人物像が与えられている。

しかし歴史的に見るなら、

清盛を単なる暴君として終わらせるべきではない。

新しい経済経路を重視した。

武士の政治的地位を高めた。

朝廷社会へ進出した。

大輪田泊を整備した。

福原を新しい拠点にしようとした。

こうした行動には革新的な側面もある。

だからこそ面白い。

無能な人が失敗した物語ではない。

大きな能力を持ち、大きな成功を収めた人物の作った体制が、なぜ持続しなかったのか。

という問題だからである。

28 「成功」と「持続可能性」は違う

組織を成功させることと、

成功を長く維持することは違う。

短期間で市場を支配する。

選挙で圧勝する。

急成長する。

大きな利益を出す。

これらは成功である。

しかし、

十年後も続くか。

次の世代も続くか。

トップが変わっても続くか。

環境が変化しても続くか。

という問題は別である。

ここから考えると、

平家の最大の問題は、

成功できなかったことではなく、

成功を持続可能な制度へ変えることができなかったこと

だったと考えることもできる。

29 壇ノ浦は突然やって来たのではない

『平家物語』の終盤にある壇ノ浦の滅亡は、非常に劇的である。

そのため、

突然一族が滅んだ

ような印象を持ちやすい。

しかし実際には、

政治的対立。

反平氏勢力。

挙兵。

清盛の死。

都落ち。

一ノ谷。

屋島。

という長い過程がある。

つまり壇ノ浦は、

一日の失敗

ではない。

長期間にわたる失敗の最終局面

である。

現代の企業破綻でも似たことがある。

倒産した日。

辞任した日。

不祥事が報道された日。

が失敗の日のように見える。

しかし原因は数年前から作られていることが多い。

最後に見えるのは結果であって、

失敗の始まりではない。

30 「諸行無常」を諦めの思想にしない

『平家物語』の「諸行無常」を、

どうせすべて滅びる。

成功しても意味がない。

という虚無主義として読むのも適切ではない。

すべてが変化する。

ということは、

成功も固定されないが、

失敗も固定されない、

ということでもある。

重要なのは、

現在の状態を永続すると考えないこと

である。

成功している時には、

成功が終わる条件を考える。

失敗している時には、

環境が変わる可能性を考える。

この意味では、

無常は悲観論ではなく、

固定観念への警告

として読むこともできる。

31 『方丈記』との違い

『平家物語』も『方丈記』も「無常」という言葉と強く結び付けて読まれる作品である。

しかし、両者の焦点は違う。

『方丈記』では、

災害。

住居。

社会の混乱。

個人の生活。

隠遁。

が大きなテーマになる。

それに対して『平家物語』では、

権力。

家。

戦争。

忠誠。

勝敗。

栄華。

没落。

が前面に出る。

したがって現代的に読む場合、

『方丈記』が、

変化する社会で生活をどう再構成するか

を考える作品だとすれば、

『平家物語』は、

成功と権力をどう維持し、どう手放すか

を考える材料になる。

同じ「無常」でも、問題は異なる。

32 現代社会へ応用できる五つの問い

『平家物語』を現代の経営指南書として読む必要はない。

しかし、現代の組織を見るための問いを五つ作ることはできる。

第一に、

成功によって見えなくなったものはないか。

成功している時ほど批判情報が届かなくなることがある。

第二に、

自分たちの成功から排除されている人は誰か。

利益を独占すれば反対勢力が生まれる。

第三に、

特定人物へ依存しすぎていないか。

その人物がいなくなった時も組織は動くのか。

第四に、

過去の成功方法を現在も使っていないか。

環境が変われば最適解も変わる。

第五に、

失敗が連鎖する前に止める仕組みがあるか。

一度の失敗を認め、早く修正できるか。

これらは『平家物語』本文が直接述べている教訓ではない。

作品と歴史から現代的に導くことのできる問いである。

33 では、『平家物語』は「滅びの美学」なのか

ここで最初の問いへ戻ろう。

『平家物語』は「滅びの美学」の作品なのか。

答えは、

そうである。しかし、それだけではない。

と言うのが適切だろう。

平家の没落には文学的な哀惜がある。

敗者にも人間としての尊厳が与えられる。

失われるものの美しさが描かれる。

その意味では確かに「滅びの美学」がある。

しかし、

平家がなぜ滅びていったのかを追うと、

別の物語が現れる。

成功。

集中。

拡大。

反発。

後継。

環境変化。

敗北の連鎖。

それは、

成功した組織が、成功を持続できなくなる物語

でもある。

結論~最も危険なのは、成功している時なのかもしれない

『平家物語』の冒頭は、

物語の最後を先に教える。

盛んな者は必ず衰える。

強い者も最後には滅びる。

しかし、この言葉を、

成功するな。

偉くなるな。

豊かになるな。

という教訓にしてしまう必要はない。

平清盛と平家一門は、

実際に大きな成功を収めた。

政治的に上昇した。

経済的基盤を広げた。

朝廷社会へ進出した。

新しい交易や港湾を重視した。

だからこそ、日本史の中で大きな存在になった。(city.kobe.lg.jp)

問題は成功そのものではない。

問題は、

成功した後に、成功を作った仕組みを変えられるか

である。

小さい組織を成長させる方法と、

大きな組織を維持する方法は違う。

権力を手に入れる能力と、

権力を分散する能力も違う。

競争に勝つ能力と、

反対者と共存する能力も違う。

創業者として優秀であることと、

後継者を育てられることも違う。

つまり、

成功の次には、

成功とは別の能力

が必要になる。

『平家物語』に描かれる平家の没落を、現代から見ると、この問題が非常に鮮明に見える。

強くなった。

だから権力が集まった。

権力が集まった。

だから反対意見が届きにくくなった。

一門が繁栄した。

だから利益から外れた人々の反発が増えた。

清盛が強かった。

だから清盛への依存も強くなった。

そして環境が変わった時、

それまでの成功モデルがうまく機能しなくなった。

こう考えると、

『平家物語』の「盛者必衰」は、

単なる運命論ではなくなる。

成功には、

成功を壊す可能性が最初から含まれている。

だから成功している時こそ、

自分たちの仕組みを疑う必要がある。

反対意見を残す。

後継者を育てる。

権限を分散する。

過去の成功体験を捨てる。

環境変化を認める。

そうしたことができなければ、

最も成功している瞬間が、

実は衰退の始まりになっているかもしれない。

その意味で『平家物語』が現代へ残している問いは、

「どうすれば美しく滅びられるか」

ではない。

もっと現実的で厳しい問いである。

自分たちが成功している時、その成功によって何が見えなくなっているのか。

そして、

今の成功を守るために、過去の成功方法そのものを捨てることができるのか。

八百年近く読み継がれてきた『平家物語』の「盛者必衰」は、成功を否定する言葉ではなく、

成功を永続すると錯覚する人間への警告

として読むことができるのではないだろうか。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

「嫌い」と言うことは悪いことなのか

現代社会では、多様性を尊重することが強く求められている。

性別。

年齢。

文化。

宗教。

家族の形。

働き方。

趣味。

価値観。

生き方。

人はそれぞれ違っていて、その違いを理由に排除したり、不当に扱ったりしてはいけない。

これは重要な原則である。

しかし、ここで一つ難しい問題が生まれる。

他者を尊重することと、「嫌い」と思わないことは同じなのか。

ある音楽が嫌い。

ある服装が苦手。

ある話し方が好きではない。

ある考え方には共感できない。

ある人とはどうしても相性が合わない。

こうした感情まで、多様性の名のもとに否定すべきなのだろうか。

もし、

「すべての違いを尊重するためには、好き嫌いを持ってはいけない」

となれば、それは現実の人間感情からかなり離れてしまう。

人間には好みがある。

快・不快がある。

美しいと思うものがある。

見苦しいと思うものもある。

千年以上前に書かれた『枕草子』は、まさにそうした人間の好き嫌いを驚くほど率直に書いた作品である。

清少納言は、

美しいもの。

心ときめくもの。

ありがたいもの。

うれしいもの。

に心を動かす。

その一方で、

にくいもの。

すさまじいもの。

興ざめするもの。

見苦しいもの。

にも敏感である。

現代から読むと、

「そんなことまで嫌うのか」

と思う箇所もある。

しかし、この率直さこそ『枕草子』の特徴でもある。

本稿では、

『枕草子』の好き嫌いを、多様性社会における「寛容」と「個人的評価」の違いから考えてみたい。

結論を先に言えば、

多様性を尊重することは、

すべてを好きになることではない。

しかし同時に、

嫌いだから排除してよい、

という意味でもない。

『枕草子』を読むと、この二つの間にある難しい境界が見えてくる。

1 『枕草子』は「好き嫌い」を隠さない文学である

『枕草子』は平安時代中期、清少納言によって書かれた随筆である。

作品には、

季節の風景。

宮廷生活。

人間関係。

衣服。

恋愛。

手紙。

儀礼。

宗教行事。

動植物。

日常の失敗。

など、非常に多くの話題が登場する。

そして特徴的なのが、

「私はこれが好き」「これは嫌い」

という評価がはっきりしていることである。

例えば「春はあけぼの」に代表される季節の美しさ。

「うつくしきもの」

「心ときめきするもの」

などには、清少納言が何に魅力を感じていたのかが表れる。

一方、

「にくきもの」

「すさまじきもの」

などでは、日常の小さな不快や、人の振る舞いへの厳しい評価が並ぶ。

つまり『枕草子』には、

客観的な百科事典のような視点ではなく、

強い主観

がある。

清少納言は世界を、

「これは良い」

「これは嫌だ」

と選びながら見ている。

そこが『枕草子』の魅力でもある。

2 「をかし」は単なる「おもしろい」ではない

『枕草子』を理解するうえで重要なのが、

「をかし」

という美意識である。

現代語の「おかしい」と同じではない。

場面によって、

趣がある。

美しい。

興味深い。

心ひかれる。

印象的である。

など複数の意味を持つ。

清少納言は、

季節。

色。

光。

衣服。

言葉。

人の振る舞い。

の中から「をかし」と感じる瞬間を拾い上げる。

ここで重要なのは、

世界を均等に見るのではなく、差を付けて見る

ということである。

すべての景色が同じではない。

すべての言葉が同じではない。

すべての行動が同じでもない。

「これは特に良い」

と選び取る。

美意識とは本来、差を付ける行為でもある。

だから、

好き嫌いを完全になくしてしまえば、

美意識そのものも成立しにくくなる。

3 清少納言は「嫌い」をかなり細かく言語化する

『枕草子』のおもしろさは、美しいものだけではない。

不快なものについても非常に具体的である。

「にくきもの」のような章段では、

日常の中で腹立たしいこと、

気に障る人の行動、

タイミングの悪さ、

気配りの不足、

などが次々に挙げられる。

現代的に言えば、

「あるある」

に近い感覚もある。

たとえば、

忙しい時に邪魔される。

期待していたのに外される。

相手が状況を読まない。

気の利かない行動をされる。

こうした不快感は、千年後の人間にも理解できる。

つまり『枕草子』は、

嫌いという感情を否定せず、むしろ細かく観察して言葉へ変換する。

ここには一つの文学的価値がある。

感情をただぶつけるのではなく、

「なぜ嫌なのか」

を言葉にするからである。

4 「嫌い」と「相手を傷つける」は同じではない

ここから現代社会へ考えを進めてみよう。

あるものを嫌いだと思うことと、

嫌いな相手を攻撃することは別である。

例えば、

ある音楽が嫌い。

ある食べ物が苦手。

ある服装が好みではない。

これは個人的な感覚である。

しかし、

その音楽を好む人を見下す。

その文化を禁止しようとする。

その人を排除する。

となれば話が変わる。

つまり、

内面の評価と、他者への行為を分ける必要がある。

多様性社会で重要なのは、

「嫌いという感情を持ってはいけない」

ことではない。

むしろ、

嫌いという感情を理由に、不当に相手の権利を奪わないこと

である。

この区別が重要になる。

5 多様性とは「何でも好きになること」ではない

多様性という言葉は、ときどき誤解される。

異なる価値観を尊重する。

異なる生活様式を認める。

異なる文化と共存する。

こうした考え方が、

「すべてを肯定しなければならない」

という意味に変わることがある。

しかし、それでは現実的ではない。

人は、

共感できない考え方を持つことがある。

苦手な文化もある。

理解できない生活習慣もある。

それでも、

相手が存在する権利まで否定しない。

これが寛容の基本的な形である。

寛容とは、

賛成すること

ではない。

好きになること

でもない。

違うと思いながら共存すること

である。

6 『枕草子』には「差別的」に見える部分もある

ただし、『枕草子』の好き嫌いをそのまま現代の多様性論へ利用することはできない。

なぜなら作品には、

身分。

年齢。

職業。

容姿。

男女関係。

などについて、現代から見れば厳しい評価や固定観念に見える部分もあるからである。

清少納言は平安宮廷社会の人物である。

身分秩序が存在する。

性別による社会的役割も現代とは大きく異なる。

宮廷文化には、

服装。

言葉遣い。

振る舞い。

教養。

に関する細かな規範があった。

だから、

『枕草子』に書かれた好き嫌い

現代にも通用する正しい価値判断

ではない。

重要なのは、

好き嫌いを持つこと自体と、その好き嫌いを社会的評価へ変換することを分けて読む

ことである。

7 清少納言の評価には「宮廷文化の基準」がある

清少納言の好き嫌いは、完全に個人的なものでもない。

その背後には、

宮廷社会の美意識。

身分秩序。

教養。

儀礼。

言葉遣い。

があります。

つまり、

「これは美しい」

「これは見苦しい」

という判断には、

社会的なルール

も含まれている。

例えば服装。

当時の宮廷社会では、

色の組み合わせ。

季節。

場面。

身分。

によって「ふさわしさ」が存在した。

そのため、

「好き嫌い」

と、

「社会規範」

が混ざっている。

ここが現代との違いである。

8 現代にも「好き嫌い」と社会規範は混ざっている

しかし、この問題は平安時代だけではない。

現代でも、

「私は嫌い」

と思っているだけなのか、

「社会的に間違っている」

と判断しているのか、

自分自身でも区別できていないことがある。

例えば、

若者の言葉遣いが嫌い。

新しい服装が嫌い。

特定の音楽が嫌い。

SNSの使い方が嫌い。

ここまでは個人的好みかもしれない。

しかし、

「こんな文化はなくなるべきだ」

「こういう人は社会的に劣っている」

となれば、

個人的な好みが社会的な序列へ変わっている。

つまり人間はしばしば、

自分の好みを普遍的な正しさだと錯覚する。

ここに注意が必要である。

9 「私は嫌い」と「これは悪い」は違う

多様性社会では、この区別が非常に重要になる。

「私は嫌いです」

と、

「これは悪いものです」

は同じではない。

前者は主観である。

後者は、より一般的な判断を含む。

例えば、

私は納豆が嫌いだ。

これは個人の好みである。

しかし、

納豆を食べる人は間違っている。

となれば論理が飛躍している。

価値観についても同じである。

私はある生き方を選ばない。

これは自由である。

しかし、

その生き方を選ぶ人は劣っている。

となれば、他者への評価に変わる。

自分の好みを自分の範囲にとどめられるか。

これは現代の寛容において重要な能力である。

10 清少納言は「好みを言語化する力」が非常に強い

『枕草子』のおもしろさは、

好き嫌いが強いことだけではない。

その感覚を細かく言葉にできるところにある。

単に、

「嫌い」

で終わらない。

どの瞬間が嫌なのか。

どの振る舞いが興ざめなのか。

何と何の組み合わせが美しいのか。

どんなタイミングが心地よいのか。

これを具体的に書く。

ここには現代にも参考になるものがある。

感情を言葉にすることができれば、

他人を直接攻撃せずに、自分の好みを表現できる。

「あなたが嫌い」

ではなく、

「私はこういう場面が苦手だ」

と言える。

この差は大きい。

11 好き嫌いを分析すると「自分」が見えてくる

人が何を好きかを見ると、

その人の価値観が見える。

何を嫌うかを見ても同じである。

清少納言が何を美しいと感じ、

何を興ざめだと感じたかを見ることで、

彼女がどのような世界を理想としていたのかが見えてくる。

例えば、

季節感。

細やかな配慮。

機転。

言葉の美しさ。

場面に合った振る舞い。

こうしたものに高い価値を置いている。

逆に、

鈍感さ。

場違いな振る舞い。

気の利かなさ。

期待外れ。

などに厳しい。

つまり、

嫌いなものの一覧は、裏返せば理想の一覧でもある。

これは現代人にも当てはまる。

自分が何を嫌うのかを分析すると、

自分が何を大切にしているのかが見えてくる。

12 しかし「嫌い」は自己理解だけでは終わらない

問題は、

自分の嫌悪感をどのように他人へ向けるかである。

例えば、

私は時間にルーズな人が嫌い。

という場合、

その背景には、

時間を守ることを大切にしている

という価値観がある。

ここまでは自己理解になる。

しかし、

時間にルーズな人は人間として劣っている。

となると、

評価が人格全体へ拡大している。

つまり、

一つの行動への嫌悪と、人間全体への否定を分ける必要がある。

これはSNS時代には特に重要である。

13 SNSでは「嫌い」が増幅されやすい

SNSでは、

短い言葉。

強い表現。

明確な賛否。

が広がりやすい。

「私は苦手です」

より、

「最悪だ」

「あり得ない」

「こんな人間は駄目だ」

という表現の方が注目を集めることもある。

すると、

個人的な好き嫌いが、

社会的な善悪判定へ変化しやすい。

さらに他の人が賛同すると、

「自分の嫌いは正しい」

と確信しやすくなる。

ここで、

好みの集団化

が起きる。

個人の不快感が、

集団的な攻撃へ変わる場合もある。

14 清少納言の「嫌い」は炎上とは違う

ここで『枕草子』と現代SNSを単純に同じものとしてはいけない。

清少納言が「にくきもの」を書くことと、

現代で特定の個人を名指しして集団攻撃することは違う。

作品の多くは、

日常の類型。

一般的な場面。

人間の振る舞い。

への観察である。

もちろん実在の宮廷社会や人物を背景に持つ箇所もあるが、

現代のSNSのように、

不特定多数が即座に一人の人間へ反応を集中させる構造とは違う。

したがって現代に応用するなら、

『枕草子』から学ぶべきなのは、

「嫌いな人を言葉で攻撃してよい」

ということではない。

むしろ、

嫌悪感を観察し、一般化し、文学へ変える能力

である。

15 「にくい」と感じること自体を否定しない

現代のコミュニケーションでは、

「そんなことを嫌いと言ってはいけない」

という圧力が生じる場合がある。

しかし、感情そのものを禁止することは難しい。

嫌いなものは嫌い。

苦手なものは苦手。

問題は、

その感情をどう扱うかである。

感情を否定すると、

表面では寛容でも、

内側では不満が蓄積することがある。

だから、

嫌いと感じること自体を認める

ことは重要である。

ただし、

嫌いだから攻撃する。

嫌いだから排除する。

嫌いだから権利を認めない。

とはしない。

ここが境界である。

16 寛容とは「我慢」だけでもない

寛容という言葉には、

嫌だけれど我慢する

という印象もある。

しかし、それだけでは長続きしない。

より現実的なのは、

自分には自分の好みがある。

相手には相手の好みがある。

その違いが、

重大な権利侵害や危険を生まない限り、

互いに違ったまま存在する。

という考え方である。

つまり、

多様性社会で必要なのは、

「好きになる努力」

より、

「嫌いでも共存できる技術」

なのかもしれない。

17 嫌いなら距離を取ってもよい

多様性を尊重することは、

すべての人と親しく付き合うことでもない。

人間には相性がある。

ある人とはよく合う。

ある人とは合わない。

だから、

無理に友達になる必要はない。

距離を取ることもできる。

重要なのは、

その人を排除することと、

自分が距離を取ることを分けることだ。

例えば、

ある人とは価値観が合わない。

だから個人的には深く付き合わない。

しかしその人が社会で生活する権利は尊重する。

これは十分に両立する。

共存と親密さは別である。

18 職場では「好き嫌い」と公平性を分ける必要がある

この区別は、職場や学校ではさらに重要になる。

上司が、

この部下は好き。

この部下は嫌い。

という感情を持つこと自体は完全には防げない。

しかし、

評価。

昇進。

仕事の配分。

給与。

にその感情を直接反映すれば問題になる。

つまり、

個人的評価と制度的判断を分ける必要がある。

多様性社会では、

「嫌いにならないこと」より、「嫌いでも公平に扱えること」

の方が重要である。

これは非常に実務的な考え方でもある。

19 民主主義も「嫌いな相手と共存する制度」である

この問題を社会全体へ広げると、民主主義にもつながる。

民主主義とは、

全員が同じ価値観になる制度ではない。

むしろ、

自分とは違う考えの人がいる。

嫌いな政治思想がある。

納得できない政策がある。

それでも、

選挙。

法律。

議会。

言論。

によって共存する制度である。

つまり民主主義は、

好きな人同士だけで社会を作る仕組みではない。

嫌いな人、

反対意見を持つ人、

理解しにくい人、

とも同じ社会を構成する。

ここに寛容の本当の難しさがある。

20 「嫌い」と言えない社会も危険である

一方で、

「嫌いと言ってはいけない」

という社会にも問題がある。

何でも肯定する。

批判しない。

不快感を表明しない。

それが「多様性」だとすれば、

議論そのものができなくなる。

ある考え方には反対する。

ある作品はつまらないと思う。

ある政策は嫌いだ。

ある文化は自分には合わない。

こうした発言まで禁止されれば、

表面的には穏やかでも、

思想や文化を評価する自由が失われる。

多様性とは、

評価しないことではない。

評価が複数存在することでもある。

21 文学批評は「好き嫌い」から始まってもよい

文学を読むときも同じである。

すべての名作を好きになる必要はない。

夏目漱石が苦手。

芥川龍之介が好き。

古典文学が好き。

現代小説は苦手。

それでよい。

重要なのは、

なぜそう感じるのか

を考えることだ。

「嫌い」で終わると感想である。

しかし、

文章のリズムが合わない。

人物描写が苦手。

世界観に共感できない。

語り方が好きではない。

と分析すれば、批評になる。

清少納言の強さは、

感覚を言葉へ変えるところ

にある。

22 「好き嫌いを持つ自由」と「他者の自由」は両立する

ここまでを整理すると、

多様性社会には二つの自由がある。

一つは、

自分が好き嫌いを持つ自由。

もう一つは、

相手が自分と違う生き方をする自由。

この二つが衝突する場合がある。

例えば、

自分はある文化が嫌い。

しかしその文化を楽しむ人には自由がある。

自分はある服装が好きではない。

しかし他人には着る自由がある。

つまり、

自分の感情と、

相手の権利、

を切り分ける。

これが重要になる。

23 ただし「何でも許される」わけではない

ここで、多様性をもう一方向からも整理しておく必要がある。

嫌いでも認める。

違っていても共存する。

だからといって、

すべての行為を認めなければならないわけではない。

暴力。

詐欺。

差別。

脅迫。

権利侵害。

こうした行為は、

単なる「多様な価値観」として扱うことはできない。

つまり多様性には、

共通のルール

が必要である。

価値観は違ってよい。

しかし他人の基本的な権利を侵害してはいけない。

ここが共存の土台になる。

24 清少納言の「主観」は、現代ではむしろ重要かもしれない

現代社会では、

客観的であること。

公平であること。

中立であること。

が重視される。

もちろん公共政策や報道では重要である。

しかし文学は必ずしも中立である必要はない。

むしろ、

一人の人間がどう世界を感じたか

を書く。

だから面白い。

『枕草子』から千年以上たった今でも、

清少納言の声が聞こえるように感じるのは、

彼女が無理に中立を装っていないからだろう。

好きなものは好き。

嫌いなものは嫌い。

その代わり、

なぜそう感じるのかを具体的に描く。

この態度は、

現代の文章にも重要な示唆を持つ。

25 主観を持つことと、独善的であることは違う

「私はこう思う」

という主観と、

「私がそう思うのだから正しい」

という独善は違う。

清少納言的な主観を現代へ応用するなら、

自分の感覚を隠さない。

しかし、

それを普遍的真理だとは思わない。

という姿勢が必要になる。

つまり、

強い主観と、弱い断定

を組み合わせる。

「私は嫌いだ」

とは言う。

しかし、

「だから全員が嫌うべきだ」

とは言わない。

この区別は、多様性社会にかなり重要である。

26 「あなたが嫌い」と「あなたのこの行動が嫌い」を分ける

人間関係では、もう一つ有効な区別がある。

人物全体への評価と、

特定の行動への評価を分けることである。

「あなたが嫌い」

ではなく、

「その言い方は苦手だ」

「その行動は困る」

と言う。

人間全体を否定するのではなく、

問題となっている行動を限定する。

これはコミュニケーション上、大きな違いになる。

嫌悪を具体化することで、

修正可能な問題へ変えられる場合がある。

ここでも、

『枕草子』の具体的な観察力は参考になる。

27 嫌いな理由を説明できないこともある

ただし、すべての好き嫌いを論理的に説明できるわけではない。

なぜか好き。

なぜか苦手。

ということもある。

美意識には、

合理的説明だけでは捉えられない部分がある。

清少納言の「をかし」も、

完全な論理体系ではない。

瞬間的な感覚。

色。

音。

季節。

人の気配。

によって心が動く。

現代社会ではデータや論理が重要である。

しかし、

人間のすべての価値判断が論理だけで作られているわけではない。

文学は、その部分を残している。

28 多様性社会に必要なのは「感情の統一」ではない

ここまで考えると、

多様性社会とは、

全員が同じ感情を持つ社会

ではないことが分かる。

むしろ、

好き。

嫌い。

興味がある。

興味がない。

理解できる。

理解できない。

さまざまな感情が存在する。

そのうえで、

基本的な権利。

公共ルール。

公平性。

を守る。

つまり、

感情の多様性まで認めること

が、本当の意味での多様性なのかもしれない。

29 令和の私たちが『枕草子』から考えられる五つのこと

『枕草子』を現代の多様性論へそのまま教科書として使うことはできない。

しかし、考える材料として整理するなら、五つの視点がある。

第一に、

好き嫌いを持つこと自体は悪ではない。

人間には好みがある。

第二に、

好き嫌いと他者の権利を分ける。

嫌いだから排除してよいわけではない。

第三に、

自分の好みを普遍的な正しさにしない。

「私は嫌い」と「これは悪い」は違う。

第四に、

感情を具体的な言葉へ変える。

単なる攻撃ではなく、なぜ嫌なのかを考える。

第五に、

嫌いな相手とも必要な範囲で公平に共存する。

親しくなる必要はない。

しかし不当に扱わない。

30 『枕草子』を現代の多様性思想にしてはいけない

最後に、最も重要な注意を確認しておきたい。

清少納言は、

現代の人権思想。

多様性政策。

社会的包摂。

を考えて『枕草子』を書いたわけではない。

平安時代の宮廷女性である。

その価値観には、

当時の身分社会。

男女関係。

教養観。

美意識。

社会規範。

が反映されている。

したがって、

「清少納言は現代的な多様性を理解していた」

と書くのは正確ではない。

現代へ応用できるのは、

作品に描かれた具体的な価値判断そのものではなく、

人間が好き嫌いを持ちながら世界を見るという事実

である。

結論~多様性とは「嫌いにならないこと」ではない

『枕草子』は、

非常に好き嫌いの多い文学である。

春の曙は美しい。

夏の夜はよい。

あるものは心ときめく。

あるものはかわいらしい。

そして、

あるものはにくい。

あるものは興ざめである。

清少納言は、そうした感情を隠さない。

この率直さを現代から読むと、

一つの問いが生まれる。

多様性を尊重する社会では、

「嫌い」

と言ってはいけないのだろうか。

答えは、おそらくそうではない。

人間は、

すべての文化を好きになる必要はない。

すべての人と親しくなる必要もない。

すべての価値観へ共感する必要もない。

好き嫌いは残る。

むしろ人間から好き嫌いを完全に取り除けば、

美意識も、

趣味も、

批評も、

個性も、

かなり失われてしまう。

問題は、

嫌いという感情を、そのまま他者の価値の否定へ変換すること

である。

私は嫌い。

だからあなたは間違っている。

私は不快だ。

だから存在してはいけない。

この飛躍をしないことが重要になる。

多様性社会とは、

全員が互いを好きになる社会ではない。

むしろ、

好きになれない人や、理解しにくい価値観が存在することを前提に、それでも共存できる社会

である。

そして寛容とは、

何でも賛成することではない。

我慢して黙ることでもない。

自分の好き嫌いを持ちながら、

相手にも相手の自由があることを認めることである。

清少納言の『枕草子』から現代へ引き出せるものがあるとすれば、

「嫌いと言ってよい」

という単純な許可ではない。

もっと重要なのは、

嫌いという感情を、自分の感情として引き受けること

なのだろう。

「私はこれが嫌いだ」

と言う。

しかし、

「だからあなたも嫌うべきだ」

とは言わない。

「私はこの人とは合わない」

と言う。

しかし、

「だからこの人には価値がない」

とは言わない。

「私はこの文化が苦手だ」

と言う。

しかし、

「だから存在してはいけない」

とは言わない。

その距離を保つ。

これは簡単ではない。

しかし、おそらく多様性社会に必要なのは、

好き嫌いをなくすことではなく、

好き嫌いを持ったまま、他者を不当に傷つけずに生きる技術

なのではないだろうか。

『枕草子』は千年前の宮廷社会を描いた作品である。

それでも私たちがそこに親近感を覚えるのは、

清少納言が、

美しいと思い、

腹を立て、

心をときめかせ、

興ざめし、

人を観察する、

極めて人間的な存在だからである。

多様性の時代だからこそ、

人間に好き嫌いがあるという現実から出発した方がよい。

そのうえで問うべきなのは、

「嫌いと思ってはいけないのか」ではなく、「嫌いと思ったあと、私はその感情をどう扱うのか」

なのである。

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