リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

第三章(全十章) 顔出し

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 溝さらいのことを、仁が最初に「面倒だな」と思ったのは、回覧板を読んだときではなかった。

 その前の晩、夕食のあとで回覧板をもう一度見返していたとき、下の方に小さく書かれた集合時間と持ち物の欄が目に入った。長靴、軍手、必要ならスコップ。雨天決行、小雨程度なら実施。用水路脇集合、午前七時半。そこまでは、まあそういうものかと思った。自治会の清掃くらい、都会のマンションでもなかったわけではない。規模が違うだけで、地域の共同作業という言葉自体に、そこまで異質なものを感じるわけではなかった。

 問題は、そのあとだった。

 回覧板を閉じようとしたところで、スマートフォンが鳴った。地区の連絡ではない。まだその段階では、紙の連絡だけだ。画面に出たのは、昼間に顔を合わせた水谷利雅からの短いメッセージだった。  明日、最初だし顔出しといた方がいいよ。作業はすぐ終わるから。

 文章そのものは軽かった。押しつけがましくもなかった。むしろ気を利かせてくれているように見える。だが、そこに入っていた「最初だし」と「顔出しといた方がいい」という言葉だけが、妙に引っかかった。

 仁は、スマートフォンを片手にしたまま、居間の向こうにいる百合子を見た。彼女はレナの明日の着替えを揃えながら、翼の学校の持ち物も一緒に確認している。子どもが寝る前の家の時間は細かく忙しい。そこへ、明日の朝は地域の作業に出る、という予定をどう言うべきか一瞬迷ってから、仁はなるべく軽く口にした。

「明日、溝さらいあるって」  百合子は手を止めずに、「うん」と返した。 「最初だから、出ておいた方がいいみたい」 「作業だけ?」

 問い方が、少しだけ間を含んでいた。仁はその含みが何なのか、考えないふりをした。 「たぶん。掃除だろ?」 「ならいいけど」

 百合子はそれ以上は言わなかった。だが「ならいいけど」の中には、作業そのものではない何かを気にしている響きがあった。

 翼がソファの端から言った。

「また?」 「またって、まだ一回も出てないだろ」 「引っ越してきてから、なんかずっと『最初だから』って言われてるじゃん」

 子どもの言い方は、ときどき大人がうまく丸めているものの輪郭を、そのまま机の上へ置く。仁は笑ってごまかした。

「最初は大事なんだよ」

「なんで」 「なんでって……」

 そこで言葉が切れる。理由はいくらでも言える。顔を覚えてもらうため。感じよくしておくため。あとあとやりやすくするため。だが、そのどれもが「出なくてもいいなら出たくない」という本音の裏返しに聞こえてしまう気がした。

 百合子が、着替えをたたんだままこちらを見ずに言った。

「作業だけなら、ね」

 その言い方が、気になるならはっきり言えばいいのに、という苛立ちよりも先に、仁には会社の付き合いに似た面倒さを思い出させた。業務そのものより、業務後の雑談や、出たという事実の方が評価される場。欠席の理由より、姿を見せたかどうかが重い場。そういうものに、まったく覚えがないわけではない。

 軍手と長靴を玄関に出しながら、仁はまだ始まってもいないのに、「欠席しなかったこと」の方をすでに気にしていた。    朝は、思ったより寒かった。

 空は晴れていたが、日がまだ低く、谷の底に冷えた空気が残っているようだった。用水路脇の集合場所へ向かう途中、仁の吐く息がうっすら白く見えた。長靴の底が、湿った土を踏むたびに少し沈む。

 集合場所は、公民館と農機具小屋のあいだの開けた場所だった。すでに十人以上が集まっている。男ばかりではなく、年配の女も二人ほどいたが、中心になって動いているのはやはり男たちだった。軍手、長靴、鎌、スコップ、竹箒。軽トラックの荷台には土のう袋が積まれ、誰かが缶コーヒーの箱を奥へ押し込んでいる。

 仁が近づくと、二、三人がこちらを見た。その視線には露骨な拒絶はない。だが、もう出来上がっている輪の中へ、あとから入る者を確認する目ではあった。 「お、若草さん」

 先に声をかけてきたのは水谷だった。すでに軍手をはめ、首にタオルを巻いている。

「ちゃんと来たな。えらいえらい」  冗談めかした口調だったので、仁も笑って頭を下げた。 「最初なんで」 「そうそう、最初が肝心だからな」

 別の男が笑いながら言う。その笑いに悪意はない。ないのだが、「最初が肝心」という言葉が、ここへ来るまでにすでに何度も使われているせいで、励ましというより、入口で繰り返される合言葉のように聞こえ始めていた。

 その中心に立っていたのが、清水隆夫だった。

 清水家の義父、区長。仁はまだ挨拶程度しかしていないが、一目で「ああ、この人が中心なのだ」と分かる立ち方をしていた。大声を出しているわけではない。体がひときわ大きいわけでもない。けれど、誰がどこに立ち、誰が何を持ち、誰がいつ話し始めるか、その流れが自然とこの人の周りで決まっているのが見える。

「若草さん」

 隆夫が穏やかに言った。

「こういうのは最初に慣れとくと楽だからな。分からんことあったら、そのへんの誰にでも聞いてくれりゃいい」 「よろしくお願いします」

 仁が頭を下げると、隆夫はうなずき、「今日は向こうの側から泥上げるから」とすぐ段取りの話に移った。その切り替え方が手慣れている。新入りにだけ長く構うことはしない。かといって放ってもおかない。そういう距離の取り方は、管理職のそれに少し似ていた。  用水路の脇へ移動すると、水は見た目より流れが遅く、落ち葉や泥が溜まっていた。草もところどころ根を張り、放っておけば確かに詰まりそうだった。仁はその光景を見て、「必要な作業なのだ」という実感を持った。理屈として必要なものを共同でやる。それ自体には何の不自然さもない。

 むしろ、その必要性がはっきり見えるぶん、ここまでは納得しやすかった。

「このへん、泥けっこう重いからな」と水谷が言う。「都会じゃやらんだろ、こういうの」 「やりませんね」 「だよなあ。まあ、体力仕事は若いのに任せるのが一番だ」  そう言って笑う。周りも軽く笑う。仁も曖昧に笑うしかない。軽口で場を回す役目を、水谷は最初からよく心得ていた。

 手を動かしていれば終わる、その時の仁はまだ本気でそう思っていた。  作業そのものは、思っていたよりきつかったが、思っていたより分かりやすかった。

 スコップで泥をすくい、土のう袋へ入れる。草の根を引き抜き、詰まっている枝を取り除く。水の流れを見て、どこに溜まりがあるかを確かめる。長靴の底がぬかるみに取られ、腕にはすぐ重さが来たが、何をすればいいかが明確なのは気楽だった。会社の曖昧な会議や、顔色を読むだけのやりとりより、よほどやることがはっきりしている。

 隆夫はこの段階では、ただの段取り役に見えた。あそこをもう少し掘れ、そっちは袋を回せ、そこの流れを開けろ。指示は具体的で、怒鳴るわけでもない。必要な場所へ必要な声を出しているだけだ。  仁は泥をすくい上げながら、「こういう作業が必要なのは分かる」と思った。山に囲まれ、用水路が生活に近い場所では、人手を出さなければ回らない。行政が全部やるには細かすぎる場所もあるだろう。人が住むというのは、こういうメンテナンスを含むことなのだ、と納得できる部分がたしかにあった。

 その納得は、本物だった。

 だから、ここだけ切り取れば、谷野の共同体は合理的に見えた。必要なことを必要な人数でやる。年配者だけでは難しい作業を、若い者も含めて分担する。終わればきれいになる。誰か一人が得をするわけでもない。

 水谷が、泥で汚れた軍手を見ながら言った。

「どうだ、やってみりゃ普通だろ」 「まあ、思ったよりは」 「だろ? みんな『田舎の付き合いが大変で』とか言うけど、こういうのは必要だからな。水は待ってくれんし」 「それはそうですね」  仁は素直に答えた。体を動かしている間は、本当にそう思えた。

 泥は重かったが、仁にはまだ人付き合いの方が軽く思えた。

 一時間半ほどで、見える範囲の作業はひととおり終わった。

 泥のたまっていた場所は流れが見えるようになり、草も刈られ、土のう袋は軽トラックの脇に積まれている。汗ばんだ背中に冷たい風が当たり、仁はやっと肩の力を抜いた。これで終わりなら、たしかに「面倒ではあるが、必要なこと」で片づく話だった。

 誰かが「じゃあ終わりで」と言った。仁は、その言葉にほっとした。

 その直後、別の誰かが軽トラックの荷台から箱を下ろした。缶コーヒーとペットボトルのお茶だった。

「はい、お疲れさん」

 自然な流れだった。作業後に飲み物が配られる。それもまた、よくあることだ。仁も受け取って、「ありがとうございます」と言った。

 そこで帰ればよかったのだ、とあとからなら思える。だがその時点では、缶コーヒーを一本受け取って、二、三分立ち話をしてから帰るくらいの想定しかなかった。実際、そういう場面はいくらでもある。

 問題は、誰も帰ろうとしないことだった。

 みんながその場に残る。用水路脇の少し開けた場所に、軍手を外し、コーヒーを開け、立ったまま雑談が始まる。天気の話、田んぼの水の話、今年の草の伸び方、猪が出た場所、祭りの日程。話題は途切れそうで途切れない。誰かが黙ると別の誰かが拾う。

 仁は最初、数分だけ付き合えば自然に解散するものと思っていた。ところが五分経っても、十分経っても、輪の密度が変わらない。誰も「じゃあ」と言わない。誰か一人が先に帰る空気でもない。

 しかも、会話はいつのまにか若草家の方へ寄ってきた。

「若草さんとこ、子どもは慣れそうか」 「奥さん、こっちの生活どうだって?」 「朝早いんだろ、通勤」 「車は二台とも家の横に置けるのか」 「祭りのときは、若い人手があると助かるんだよな」 「学童って何時までだっけ、あそこ」 「奥さんもそのうち地区の方、顔出してもらわんと」

 どれも露骨ではない。詮索だと言い切れるほど踏み込みすぎてもいない。だが、ひとつひとつの質問が、家族の生活の輪郭をなぞっていく。朝何時に家を出るか。子どもはどこまで地区へ出てくるか。百合子はどれくらい行事へ参加できるか。祭りにどの程度人手として使えるか。

 仁は、コーヒーの缶を持ったまま、帰る理由を探し始めた。家で百合子が待っている。子どもたちと昼の予定もある。シャワーも浴びたい。だが、そのどれもが、自分だけ先に抜ける理由として口に出すには少し弱かった。弱いというより、この場では「都合」として扱われそうで、言い出しづらかった。  腕時計を見る。自然な動作のつもりなのに、自分でやるとやけにわざとらしく感じる。しかも、その仕草自体が見られている気がして、すぐに視線を戻した。  帰る理由はいくらでもあったのに、帰るきっかけだけがどこにもなかった。

 話は、雑談の形をしているのに、少しずつ査定の手つきになっていった。  隆夫が、穏やかな顔で言う。 「困ったことがあったら言ってくれりゃいい。地区は助け合いだから」  その言い方自体は正しい。むしろ、よそから来た家族に向ける言葉として理想的に近い。だから仁も「ありがとうございます」と返した。返すしかない。

 すると水谷が横から笑って言う。 「若草さん、若いんだから祭りは戦力だぞ。溝さらい来れるなら十分だ」  周りが軽く笑う。仁も「仕事次第ですけど」と笑って返す。

「仕事仕事って言っても、こういうのはみんな調整して出るからな」 「奥さんもそのうち慣れるよ。女の人らの集まりもあるし」 「都会の人は最初だけ顔出して、そのうち見なくなるのもいるからなあ」

 その最後の一言で、仁ははじめて、これは歓迎の雑談ではなく、忠誠の確認に近いのかもしれないと思った。  もちろん、誰も「お前はちゃんと従うのか」とは言わない。そんなことを言えば露骨すぎる。だが、「最初だけで終わる人もいる」「みんな調整して出ている」「顔を出してもらわないと困る」といった言い方を重ねるだけで、その意味は十分伝わる。ここで曖昧に笑っている自分の返事ひとつが、今後の出方を判断される材料になるような気がした。

 隆夫は、あくまで穏やかだった。 「無理なことまでせえとは言わんよ」  そう前置きしてから続ける。

「ただ、地区のことは地区で回していかなきゃならんからな。そこはみんなでやるしかない」

 正論だった。間違ったことは言っていない。だからこそ、仁の中に生じた息苦しさは、まだ言葉にならなかった。何がおかしいのかを、その場でうまく切り出せるほど、相手は乱暴ではなかった。  水谷がまた笑う。

「まあ、若草さんなら大丈夫だろ。ちゃんと来たしな。顔出してくれる人は、それだけで違うから」

 その「顔出してくれる人」という言い方が、作業をしたかどうかより、その場に居続けるかどうかを指しているように聞こえた。出席とは、身体を連れてくることだけではない。この輪の中で、自分の時間の主導権をいったん引っ込めることなのかもしれない、と仁はぼんやり思った。  ようやく一人、また一人と動き始めたときには、最初に作業が終わってからかなり時間が経っていた。仁も「では」と頭を下げてその場を離れたが、解放されたというより、ようやく見定める手がいったん離れただけの気がした。

 家へ戻ると、思っていたよりずっと遅い時間になっていた。

 玄関を開けた瞬間、居間から子どもの声が聞こえたが、その明るさの下に待ちくたびれた空気が混じっているのが分かった。百合子は台所にいて、振り向いて「おかえり」と言った。その声は怒ってはいない。けれど、かなり疲れていた。

「遅かったね」 「作業は、もうだいぶ前に終わったんだけど」  そう言いながら、仁は自分でも、その言い訳の続きが妙だと分かった。 「そのあと、ちょっと……」 「ちょっと?」 「立ち話っていうか」

 百合子の手が一瞬止まった。振り向いた顔には、驚きというより、「やっぱり」という静かな色があった。 「そんなに長かったの?」 「いや、なんていうか……」

 仁はうまく説明できなかった。誰も引き止めていない。命令されたわけでもない。帰るなと言われたわけでもない。なのに帰れなかった。自分でもその構造が言葉にしづらい。

 翼が横から言った。

「作業終わったんなら帰ればよかったじゃん」  そのまっすぐな一言に、仁は苦く笑うしかなかった。 「そうなんだけどな」

 百合子は「じゃあ帰ればよかったじゃない」と言いかけて、仁の顔を見てやめた。代わりに、鍋の火を弱めながら低く聞いた。

「何してたの」 「コーヒー配られて、そのまま話してて……」 「ずっと?」 「ずっとっていうか、みんな残ってて」 「みんな残ってるから、帰れなかった?」

 仁はそこで、初めて自分の感じた異様さを口にした。 「変なんだよ。誰も帰らなくて」

 言ってしまうと、ひどく幼い不満みたいにも聞こえる。だが、それがいちばん正確だった。話の内容より、誰も解散を言い出さず、自分だけ抜けるきっかけがないまま時間が流れることの方が、よほど重かったのだ。

 百合子は、怒るより先にその言葉を受け止めたようだった。何かを言い返すかわりに、黙って皿を並べる。その沈黙が、仁には少し救いでもあり、少し痛くもあった。彼女はたぶん、そういうことを気にしていたのだ。  子どもたちは、遅くなった昼の予定がずれてしまったことに、それぞれ違う形で不機嫌だった。翼は露骨に口数が減り、レナは先にお菓子を食べたせいか食欲が不安定だった。たかが一時間、二時間のずれかもしれない。だが家族の休日というのは、そのずれの中で簡単に崩れる。共同体の作業が必要なことだとしても、そのあとまで含めて家の時間を持っていかれるのだと、仁は遅ればせながら身にしみて感じた。

 泥より重かったのは、終わってからの時間のほうだった。       夜、風呂から上がって居間に一人で座ると、仁の頭に残っているのは作業そのものの疲れではなかった。

 スコップの重さや泥の感触より、缶コーヒーの冷たさの方が思い出された。用水路の流れより、輪の中で笑いながら立っていた時間の方が長く残っていた。誰かに止められたわけでもない。脅されたわけでもない。なのに、自分の都合でその場を切り上げることが、妙に難しかった。

 それは会社の会食とも少し違う。上司がいて、上下関係が明確なら、まだ分かりやすい。ここでは誰も命令していないし、みんな善意の顔で、自然にそこにいる。自然にいることが、いちばん強い拘束になる。

 仁は、昼間に何度も言われた「顔出し」という言葉を思い返した。

 最初は、参加することだと思っていた。姿を見せること。欠席しないこと。だが、実際に求められていたのは、それだけではなかった。そこに残り、相手の時間の流れに自分を合わせ、自分の都合をいったん下げること。自分だけ先に帰らないこと。つまり「顔を出す」とは、出席そのものではなく、帰る時間まで差し出すことなのかもしれなかった。  居間の窓の外はもう暗い。遠くで車の音が一度だけして、また静かになる。家の中には家族の寝息があるはずなのに、昼間に外で立っていた輪の感触が、まだどこか体に残っていた。

 顔を出すというのは、姿を見せることではなく、帰る時間まで差し出すことらしかった。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.