リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

第五章(全十章) 借り

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 最初の差し入れを、百合子はまだ「ありがたいもの」として受け取ることができていた。

 引っ越しの日にみゆきが持ってきた味噌汁と煮物は、実際に助かった。台所は半分しか整っておらず、鍋を出すのも箸を探すのも一仕事だったあの日、温かいものがすぐ食べられるのは救いに近かった。だから、その時点では、百合子もその紙袋に宿る人の気配を気味悪く思いながらも、同時に助けられてもいた。

 怖いのは、親切そのものが間違っているわけではないことだった。

 それがもし、最初から露骨な押しつけだったなら、まだ身構えやすかった。断る理由を探すこともできたかもしれない。だが谷野の人たちが差し出してくるものは、いつも断りにくい程度にちょうどよかった。多すぎず、少なすぎず、こちらの不便を一つだけ先回りして埋める量だった。だから受け取る。受け取ると、受け取ったことだけが家の中に残る。

 その日も、昼前にインターホンが鳴った。

 百合子はちょうど台所で、昼食用にうどんを茹でようとしていたところだった。翼は学校、レナは居間で折り紙を広げている。仁は仕事でまだ帰らない時間帯で、家の中にいる大人は百合子一人だった。

 モニターを見ると、みゆきが立っていた。片手に小さめの紙袋、もう片方に浅いタッパーを持っている。玄関を開けると、みゆきはいつものように、遠慮と親しみのちょうど中間の笑顔を見せた。 「お昼前にごめんね」 「いえ」 「味噌、ちょっと多く作りすぎちゃって。あと、畑のほうれん草も。よかったら使って」

 そう言って差し出された袋からは、土の匂いが少しした。洗ってはあるのだろうが、根元にまだ畑の気配が残っている。タッパーの方には、自家製らしい味噌が入っていた。表面の色は市販品より少し濃く、ふたの内側にまで匂いがついている。 「そんな、すみません」  百合子は反射でそう言いながら、すでに断れないことを分かっていた。 「全然。こっちじゃ味噌なんて余るくらいあるし。最初は買い物の感覚も違うだろうしね」

 言い方は自然だった。親切に、というより、当たり前のやりとりとして差し出してくる。その当たり前さの前では、「いえ、けっこうです」と返す方が不自然になる。

 レナが居間から顔を出し、「なに?」と聞いた。 「お味噌だって」と百合子が言うと、みゆきがすぐにしゃがみ込んだ。 「お味噌汁、飲む?」  レナは少し考えてから、こくんと頷いた。 「飲む」 「かわいい」

 みゆきは笑った。その笑顔は嘘ではなさそうだった。 少なくともレナに向ける表情の柔らかさだけ見れば、この人のしていることを全部悪く受け取る方が、こちらの心が曲がっているようにさえ思えてしまう。

 百合子は紙袋とタッパーを受け取った。温かいものではないのに、手に重みが残る。物としては軽いはずなのに、なぜかそのまま玄関先で受け止めきれない感じがあった。

「ありがとうございます」 「いえいえ。使ってね。あと、もし学童のこととか学校のことで分からないことあったら、また聞いて」

 みゆきはそう言って帰っていった。玄関を閉めたあとも、外にいるあいだの明るい声だけがしばらく耳に残った。

 百合子は台所へ戻り、受け取った味噌を流し台の脇へ置いた。ほうれん草はシンクの上のボウルに仮置きした。 どちらもありがたい。 ありがたいはずなのに、置いた瞬間、台所に人が一人増えたような気がした。食べ物である前に、それは「関係」として場所を取る。  食べ物を受け取っただけなのに、台所へひとつ関係が増えた気がした。        問題は、食べたあとも終わらないことだった。 味噌を使い、タッパーを空にしても、そこで親切は消えない。容器が残る。ふたの内側に薄く匂いを残したまま、洗われるのを待っている。

 その日の午後、レナが昼寝をしているあいだに、百合子は流し台でそのタッパーを洗った。スポンジに洗剤をつけ、縁のところまで指でこする。透明なプラスチックはすぐにきれいになる。きれいになるのに、それが「片づいた」という感覚にはならなかった。

 洗い終わった容器を伏せて置いて、百合子はしばらくそれを見た。 返さなくてはならない。  そこまでは誰でも分かる。だが、どう返すのかが分からない。 空で返していいのか。何か入れて返すべきなのか。 すぐ返すのか。数日置くのか。直接持っていくのか、たまたま会ったときでいいのか。もし何か入れて返すなら、その中身は何が妥当なのか。この土地では、それが礼儀としてどこまで求められているのか。

 都市部にいたころだって、容器のやりとりくらいはあった。だがあれはもっと単発で、もう少し軽かった。ここでは、容器そのものが「まだ終わっていないこと」を示しているように見える。  仁が帰宅したあと、その容器を見つけて言った。 「洗って返せばいいだろ」  百合子は、つい少し強い口調になった。 「そういうことじゃないの」 「何が?」 「洗って返すだけで終わるなら、こんなに気にならない」

 仁はネクタイをゆるめながら、容器を手に取った。透明な、どこにでもある保存容器だ。確かに、物だけ見れば大したものではない。 「何か入れて返すとか?」 「分からない。だから嫌なの」  百合子は自分でも、説明の仕方が面倒くさくなっているのを感じた。手順が面倒なのではない。正解が分からないことが面倒なのだ。しかもその正解は、誰かがはっきり教えてくれるものではなく、こちらが察して整えることを前提にしている。

 仁は容器を元の場所へ戻し、「まあ、空でもいいんじゃないか」と言った。 「その『いいんじゃないか』が、ここでは違う気がする」  その言葉のあと、仁は何も返さなかった。否定しきれないのだろう。谷野ではたいてい、明文化されていない部分の方が重いことを、彼も少しずつ分かり始めている。

 百合子には、その伏せたまま乾いていく容器が、食器ではなく未処理の案件に見えていた。 きれいに洗っても、借りの形だけは消えなかった。

 差し入れは、単発では終わらなかった。 それから数日のあいだに、別の家から米が届いた。 袋の口はきちんと閉じられていたが、どこかの家庭用に少し分けたらしい半端な量で、「うちで食べきれないから」という言葉が添えられていた。  さらに次の日には、畑で採れたという大根と里芋が玄関先に置かれていた。直接顔を合わせて渡されるときもあれば、たまたま通りかかったように見せて手渡されるときもあり、ときには「清水さんから預かった」と別の人が持ってくることもあった。

 乾麺の束、祭りの準備で余ったというらしい菓子の袋、小さな漬物のパック。内容はどれも、善意として十分成立するものばかりだった。受け取ってすぐ困るようなものではない。むしろ役立つ。だからこそ断りにくい。

 だが、百合子の台所には、自分たちで選んで買ったものではないものが少しずつ増えていった。 冷蔵庫を開けると、棚の奥に誰かにもらった漬物があり、野菜室には土のついた大根が入り、流しの上には返す予定の容器が伏せてある。 乾物の棚には、知らない家の人の手から渡ってきたそうめんが並び、食卓には「この前いただいたから」と使うことを意識して選んだ味噌が上がる。

 量だけ見れば、大したことはない。むしろ助かると言う人の方が多いだろう。だが、家の中にある物の由来が、自分たちだけではなくなっていく感覚が、百合子には息苦しかった。

 冷蔵庫の前で立ち尽くしていると、仁が後ろから覗き込んだ。 「何?」 「……何作ろうかと思って」 「あるものでいいじゃないか」  あるもの。その一言に、百合子は少しだけ苛立ちを覚えた。あるもの、の中身が、もう自分たちだけで組んだ暮らしではないからだ。 「これ、うちの冷蔵庫っていうより、地区の持ち寄りみたい」 言うと、仁は苦笑した。 「そんな言い方」 「ほんとにそう思うの」 棚の中身が増えるほど、この家だけの暮らしが薄くなっていった。       親切が借りへ変わる瞬間は、たいてい、とても軽い口調で訪れた。

 その日、みゆきはまた玄関先へ来て、今度は小さなビニール袋に入った乾麺を差し出した。

「この前のお礼とかじゃないんだけど」と前置きしてから、「うち、親戚からいっぱい来ちゃって」と笑う。その「この前のお礼とかじゃない」が、逆に関係の帳面を思わせる言い方だった。  百合子が受け取ると、みゆきは何でもない調子で続けた。 「そういえば、今度の集まり、顔出してね」  その一言は、ほとんど差し入れの延長のように置かれた。 「この前も来てくれてたし、若草さんとこ来てくれると助かるから」 「こういう時はみんなでやるしね」 「助け合いっていうか、お互いさまだから」  柔らかい。断りにくいように言っている、という感じすら表に出てこない。 むしろ、親切の延長にある当然のやりとりとして言っているように見える。

 だが百合子には、その「今度は」がはっきり聞こえた。受け取ったものは、次の参加理由になる。味噌も、野菜も、乾麺も、その場では「気にしないで」で渡される。だが、あとで別の形になって戻ってくる。 「できる範囲で、ですね」  百合子は曖昧にそう返した。するとみゆきは、にこやかなままうなずいた。 「うんうん、それで。最初はできる範囲でいいから」  その言葉が、百合子には「できる範囲」の線引きを向こうが持っているように聞こえた。

 その夜、百合子は乾麺の束を食器棚の上に置きながら、小さく言った。 「やっぱり借りなんだよ」 仁が「何が」と聞く。 「全部」 「そんな大げさな」 「大げさじゃない」  百合子は振り向かずに言った。「『気にしないで』のあとに、『今度は顔出してね』がついてくるんだよ」

 仁はそこで黙った。彼ももう、完全には否定できないのだろう。

 気にしないで、のあとに続く言葉だけは、いつもきちんと勘定の形をしていた。

 その構造をいちばん残酷にしたのは、レナの無邪気さだった。

 ある日の夕食で、みゆきからもらった味噌を使った汁物を出すと、レナが嬉しそうに言った。 「これおいしい」 百合子は「そう」と笑って返した。 「また飲みたい」  その一言に、百合子の手が一瞬止まる。子どもに罪はない。むしろ、子どもが気に入るようなものをくれたことは善意としか言いようがない。だから否定もできない。 「またもらえる?」とレナは続けた。  仁が笑って、「もらうっていうか、今度は自分でも買えるだろ」と言う。翼は黙って味噌汁を飲んでいたが、視線だけが百合子の方へ寄った。母親の顔色を見ているのが分かった。

 百合子は「そうだね」と言った。その言い方が少し固かったのか、レナはそれ以上は何も聞かなかった。

 子どもが喜ぶ。それ自体はいいことのはずだ。差し入れを悪意として受け取るより、ありがたく使う方が健全にも見える。だからこそ百合子は、自分がどんどん「感じの悪い人」の役へ追い込まれていくような気がした。子どもが喜んでいるのに、なぜ自分だけがしんどいのか。なぜそれを素直に「助かる」で済ませられないのか。  その問いは、周囲から向けられなくても、自分で自分へ向けてしまう。そこがいちばん苦しかった。  レナが笑うたび、断れない理由だけが家の中で育っていく。子どもにとってはただおいしい味噌汁でしかないものが、大人にとっては関係の紐になる。その紐を「重い」と感じる自分を、百合子は責めたくなかったが、責めずにもいられなかった。

 翼がぽつりと言った。 「また何かもらったら、今度は何やることになるんだろうね」  言い方は軽かった。冗談のようにも聞こえる。だが百合子は、その一言に笑えなかった。翼ももう、この家に入ってくる親切の先を読んでいる。 子どもが喜ぶたび、断れない理由だけが家の中で育っていった。

 仁がその重さをほんとうに感じ始めたのは、容器を返しに行ったときだった。  百合子が洗って乾かしたタッパーを、しばらく棚の上へ置いたままにしていたのは、返すタイミングを決められなかったからだ。 長く持ちすぎるのも変かもしれないし、すぐ返すのも何か中身を入れるつもりがないようで気が引ける。 結局、その週の土曜に仁が「俺が返してくるよ」と言い出した。

「空でいいのかな」と言うと、百合子は少し間を置いてから、「もういいよ、空で」と答えた。その声には、考え続けることへの疲れがあった。

 仁はタッパーを紙袋に入れ、清水家の方へ歩いた。玄関先でみゆきに会うと、彼女はいつも通り感じよく受け取った。 「わざわざすみません」 「いえ、この前ありがとうございました」 「全然。そんな気遣わなくていいのに」  そのやりとり自体は数十秒で済んだ。これで終わるはずだった。

 ところが、みゆきが容器を受け取った直後、奥から隆夫が顔を出した。 「お、若草さん」 仁は思わず姿勢を正した。 「この前は溝さらい、ご苦労さん」 「いえ」 「今度の日曜、公民館のほうも少し人手いるから、また頼むな」  頼むな、という言い方は、お願いでありながら予定の確認でもあるようだった。仁は「予定を見て」と言いかけたが、その前に隆夫が続けた。 「こういう時はお互いさまだ。助けてもらったら、また次で返せばいいんだから」

 その「助けてもらったら」が、仁の胸に小さく引っかかった。助けてもらった。たしかにそうだ。味噌も野菜も、地区の情報も、最初のあれこれも、形式上は助けてもらっている。だから返す。返すこと自体は間違っていない。だが、その返し方と量を誰が決めるのかは、こちらではなく向こうの空気の側にある。 「できる範囲で」と仁は言った。  すると隆夫は穏やかに笑った。 「みんな、できる範囲でやっとるよ」 その言い方で、できる範囲の定義がもう共有されているのだと分かった。 こちらが思う範囲ではなく、この共同体が「それくらいは当然」と見なす幅の中での範囲だ。

 帰宅してから、仁は台所の棚の上にまだ残っている他の容器を見た。味噌のタッパー、漬物の小さなパック、紙袋、乾麺の束、畑の野菜。百合子がこれを見るたびに何を感じていたのか、ようやく少し触れた気がした。もらった物の数ではない。そのたびに更新される「返す空気」の数なのだ。 「分かった気がする」  夕方、百合子が皿を拭いている横で、仁はそう言った。 「何が」 「借りって言ってたやつ」  百合子は手を止めた。 「返す物があるんじゃなくて、返さなきゃいけない空気が増えてるんだな」  百合子は、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。理解されたから楽になった、というほどではない。けれど、少なくとも自分一人が過敏なのではないという確認にはなったのだろう。  仁はそのとき、自分がこれまで「ありがたい」で済ませようとしていたものの裏に、帳面のような感覚があることをはじめてはっきり認めた。谷野では、贈り物は物だけでは終わらない。次の参加理由になり、次の顔出しの根拠になり、次の「みんなやってる」の中へつながっていく。

 もらった物の数ではなく、返さなければならない空気の数が増えていた。

 夜、台所を片づける百合子の背中は、その日いっそう疲れて見えた。

 流しの脇には、まだ返していない小さな容器が一つある。食器棚の上には、誰かにもらった乾麺が束のまま置かれている。冷蔵庫には食べきれない野菜が残り、野菜室の奥には「早めに使わなきゃ」と思いながらまだ手をつけられていない里芋がある。

 どれも、物としてはささやかだった。だが、それらを並べて見ると、台所全体が「返事待ち」のように見えた。 片づけきれていない物ではなく、まだ終わっていない関係が置かれているように見える。

 百合子は皿を拭き、棚へしまい、また別の容器に目をやる。その手つきには怒りよりも疲労があった。拒絶したいのではなく、ただ、自分たちの家の中に自分たちの選んだものだけを置いておきたい、その単純な望みがずっと遠ざかっていくことへの疲れだった。

 仁は少し離れたところから、その光景を見ていた。差し入れのときには素直にありがたいと思っていた。ありがたいと思うこと自体はいまでも間違っていない気がする。だが、そのありがたさのあとに必ず続く帳尻合わせの空気まで含めて見れば、それはもう単純な善意のままではなかった。

 何も頼んでいないのに、もう返さなければならないものばかりが家の中に増えていた。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.