「この町の人ですか」と聞かれたら
週末になると東京を離れ、海辺の町へ向かう。そこに小さな家を持ち、近所のスーパーで食料を買い、顔なじみになった食堂で昼を食べ、ときには伸びた草を刈る。春になれば祭りを見に行き、台風が来れば自分の家だけではなく、近所の様子まで少し気になる。それでも住民票は東京にある。
この人を、その町の「住民」と呼んでよいのだろうか。行政制度から見れば簡単ではない。住民基本台帳では、住民票を置いている自治体の人口として扱われ、国勢調査でも一人の人間を二つの自治体に同時に人口として数える仕組みにはなっていない。二つの住居を行き来していても、原則として普段より多く暮らしている場所がその人の生活の拠点として把握される。
ところが、町の日常を眺めると、その区分だけではどうにも説明しきれない人がいる。その人は年に一度訪れる観光客よりはるかに頻繁に町へ来て、同じ店で買い物をし、ときには地域の人間関係にも入り込んでいるが、完全な移住者でもない。住民でもなく、観光客でもない。その中間に、これまでの人口統計や地域政策では捉えにくかった人たちが増え始めている。
ここでは、そうした人たちを少し大胆に「第三の住民」と呼んでみたい。もちろん正式な制度用語ではない。しかし人口が減っていくこれからの日本で、この曖昧な存在こそが、地域を見る尺度そのものを変える可能性を持っている。
すべての自治体が人口を増やすことはできない
地方創生について語ると、長いあいだ「人口をどう増やすか」という問いが中心に置かれてきた。移住相談会を開き、住宅取得に補助金を出し、子育て支援を充実させ、都市から若い世帯を呼び込もうとする。しかし、日本全体の人口が減少している以上、すべての自治体が同時に人口を増やし続けることは数学的に成り立たない。
日本国内の自治体人口の増減をすべて合計すれば、それは日本全体の人口増減になる。したがって国全体の人口が減っているのに、すべての自治体の人口だけが増えるということはあり得ない。もちろん海外からの転入や出生による増加もあるため、自治体の人口移動を単純なゼロサムゲームと呼ぶのは正確ではないが、国内の自治体同士が移住者を奪い合えば、ある地域の転入増のかなりの部分は別の地域の転出と表裏一体になる。
この構造を考えると、地方創生を「住民票を何人獲得したか」だけで競うことには限界がある。そこで発想を変え、一人の人間を一つの自治体だけに所属させるのではなく、一人が複数の地域と継続的な関係を持つという考え方が重要になる。
東京で働きながら長野でも暮らす。大阪に住みながら和歌山の小さな町へ毎月通う。都市に住民票を置いたまま、房総や伊豆や瀬戸内で生活の一部を過ごす。これは人口そのものを一方から他方へ完全に移すのではなく、一人が持つ時間、消費、関心、労働、社会関係の一部を複数の地域に配分する暮らし方である。
二地域居住の本当の新しさは、別荘を持つことそのものではない。人間は一つの自治体だけに属するという、これまで当たり前だった地域との関係を少しずつ曖昧にしているところにある。
観光客とは違うお金の使い方
観光客は地域にとって重要な存在である。宿泊し、食事をし、土産を買い、観光施設を利用する。ただし、その関係は一時的であることが多い。気に入った町でも、次の旅行では別の場所へ行くかもしれない。
二地域居住者の消費は少し違う。毎月のように訪れるようになると、土産物店よりスーパーマーケットを使うようになり、観光客向けの店だけでなく町の定食屋へ入り、住宅があれば修繕を頼み、庭があれば草刈りが必要になり、水道が壊れれば業者を呼ぶ。家具や日用品を買い、場合によっては車を整備し、日常生活を維持するための支出が増えていく。
つまり消費の性格が、「非日常を楽しむための支出」から「その場所で暮らし続けるための支出」へ少しずつ移っていくのである。
ただし、ここで注意しなければならないのは、二地域居住者が増えれば、その分だけ地域経済が必ず豊かになるわけではないということである。通販でほとんどの商品を購入し、地域内では都市資本のチェーン店だけを利用するなら、町に滞在していても地元事業者へ落ちるお金は限定される。
したがって見るべきなのは二地域居住者の人数ではなく、その人が一年に何回来るのか、一回の滞在でいくら使うのか、そのうち何割が地域内の事業者に支払われるのかという組み合わせである。地域経済への効果は「人が来た」という事実だけでは決まらず、訪問回数と消費額と地域内に残る割合によって大きく変わる。
「救世主」と呼んだ瞬間に話がおかしくなる
二地域居住者が地域で消費するのだから、人口減少地域にとって歓迎すべき存在だという結論は魅力的である。しかし、ここで話を終えると地方創生の記事としては都合がよすぎる。
地域に人が来れば、便益と同時に費用も生まれる。人気の高い地域では住宅需要が高まり、空き家の活用が進む一方で、住宅価格や家賃を押し上げる可能性がある。これは海外のセカンドホーム地域でも問題になってきたが、日本のすべての二地域居住地域で同じ現象が起きると断定できるほど実証研究が揃っているわけではない。それでも住宅市場への影響を無視してよいということにはならない。
行政サービスについても同じである。二地域居住者が道路、水道、ごみ処理、公共施設などを利用すれば一定の行政コストが生じる。一方で、住宅を所有していれば固定資産税を負担している場合もあり、地域での消費や各種負担を通じて地域側へ経済的な貢献をしている場合もあるため、「住民票がない人は行政サービスにただ乗りしている」と考えるのも乱暴である。
必要なのは、二地域居住を歓迎するか拒むかという感情論ではなく、地域にもたらす利益と負担の両方を見ることである。
地域側が救世主を求めすぎる危険
もう一つ厄介なのは、地域側が二地域居住者に「せっかく来たのだから地域のために働いてほしい」と期待しすぎる場合である。草刈りを手伝ってほしい、祭りにも出てほしい、自治会にも関わってほしい、空き家再生にも協力してほしい、地域産品も買ってほしいという期待が積み重なれば、第二の生活拠点を持ったはずの人が、別の場所でも義務に追われることになる。
もちろん地域活動への参加を望む二地域居住者もいる。しかし、すべての人がより深い関係を求めているわけではない。地域との距離を自分で選べることそのものに価値を感じている人もいる。
したがって「地域に来た人は、いずれ地域活動の担い手になる」という前提を置くべきではない。むしろ、地域への関わり方に濃淡を認めることが、長期的な関係を維持する条件になる可能性がある。
地域側が救世主を欲しがれば欲しがるほど、その人に期待を集中させ、結果として離れていくかもしれない。この逆説は、二地域居住を考えるうえでかなり重要である。
「住んでいるか」ではなく「どれだけ関わっているか」
従来の行政人口では、地域との関係はどうしても「住民か、住民でないか」という二分法になりやすい。しかし実際の地域との関係は連続している。
一年に一度訪れる人もいれば、毎月来る人もいる。年間数十日を過ごす人もいれば、半年近く滞在する人もいる。地元の店で消費するだけの人、農作業を手伝う人、地域の事業者に専門知識を提供する人、地域行事に参加する人、静かに自分の生活だけを送る人もいる。
同じ「住民票がない人」でも、地域との関係の深さはまったく違うのである。
国が制度設計を進めている「ふるさと住民登録制度」も、こうした従来の枠組みでは見えにくかった関係人口を可視化しようとする動きの一つである。これは住民票を二つ持つ制度ではなく、住所地以外の地域と継続的に関わる人を把握し、地域との結びつきを新しい形で捉えようとする考え方である。
考えてみれば不思議なことである。私たちは買い物履歴や移動履歴を細かく分析できる時代に生きているのに、人と地域との関係については、長いあいだ「住民票があるか、ないか」という極めて粗い尺度を中心に見てきた。二地域居住は、その尺度では十分に測れない人間を増やしている。
本当に重要なのは「関係の反復」である
地域にとって、一万人が一度だけ訪れることと、千人が毎月訪れることは同じではない。前者は年間一万回の来訪だが、後者は年間一万二千回になる。しかし違いは単純な延べ人数だけではない。
毎月来る人なら、店員が顔を覚える。客も店の事情を知る。季節ごとの変化に気づき、閉店すれば惜しいと思い、知っている人が困っていれば少し気になる。地域側も、その人が来月また戻ってくることを前提に商売を考えやすくなる。
経済学や社会科学でも、同じ相手と接触を繰り返せる環境では、一回限りの関係より協力や信頼が成立しやすいことが知られている。ただし、繰り返し会えば必ず信頼が生まれるわけではない。人間関係の相性もあれば、地域との摩擦もある。
それでも「また来る」という事実は地域にとって大きい。
商売も同じである。一度二万円使う観光客より、毎月八千円ずつ使う人の方が年間では九万六千円になる。もちろん毎回来ても地域内ではほとんど消費しない人もいるため、訪問回数だけを見ればよいわけではないが、地域ビジネスにとっては一回当たり消費額だけでなく「一人が一年を通して地域にいくら落とすのか」という視点が重要になる。
人口減少地域では、一度に大量の人を呼ぶことより、少人数でも繰り返し戻ってくる人を増やす方が、商売を安定させる場合がある。
「第三の住民」が生むのは人口ではなく市場かもしれない
二地域居住を地域ビジネスの側から見ると、さらに面白いことが見えてくる。二つの家を行き来する生活には、一つの家だけで暮らす生活には存在しなかった不便が生まれるからである。
都市の家を出るときには、地方の家が無事か気になる。地方へ着けば、しばらく使っていなかった家の換気や掃除が必要になる。庭は伸び、郵便物はたまり、台風が来れば屋根が心配になる。車を置いていなければ駅から家までの移動手段が必要になり、高齢になれば二つの地域を行き来することそのものが負担になる。
こうした問題の一つ一つは、それだけでは大きな産業には見えない。しかし人口の少ない地域で新しい商いを考える場合、むしろこうした「小さくて、何度も繰り返す不便」に市場の種が隠れている。
空き家管理と清掃と庭仕事をまとめて引き受けるサービス、駅から住宅までの小さな移動需要を束ねる仕組み、到着前に家を換気しておくサービス、最低限の食料を補充する仕組み、地域の店や医療、交通、行事、行政手続をまとめて案内する生活支援サービスなど、二地域居住を前提とすれば従来とは違う需要が見えてくる。
ただし、不便があることとビジネスが成立することは同じではない。
「困っている」は「お金を払う」とは限らない
新規ビジネスを考えるとき、最も危険なのは「困っている人がいるから売れる」と考えてしまうことである。
利用者が困っていても、自分で解決できるならお金は払わないかもしれない。月千円なら払えても、一万円なら使わないかもしれない。利用者が地域に数十人しかいなければ、一人当たりの利用頻度が高くても事業者の移動時間や人件費を賄えない場合がある。
したがって二地域居住者向けビジネスを見る場合には、利用者の人数、利用頻度、支払ってもよいと考える金額、顧客がどれだけ狭い地域に集まっているか、サービス提供に必要な人件費や移動費を同時に見なければならない。
たとえば空き家管理に困っている人が百人いても、月千円しか払う意思がなければ月十万円の市場にしかならない。そこから人件費、交通費、保険、車両費、管理費を差し引けば事業として成立しない可能性が高い。一方、同じ百人でも月一万円を払い、住宅が近い地域に集中していれば状況は変わる。
つまり、二地域居住は自動的に新しい市場を作るわけではない。しかし、従来存在しなかった反復的な生活需要を発生させるため、条件が整えば新しい市場が成立する余地を生み出す。
この違いは重要である。
観光ビジネスとは発想そのものが違う
観光ビジネスが「この町に何を見に来てもらうか」を考える産業だとすれば、二地域居住を支えるビジネスは「どうすればこの町で無理なく暮らし続けられるか」を考える産業になる。
観光なら絶景、温泉、食事、イベントが商品になる。しかし二地域居住では、家の管理、移動、買い物、医療、日常生活の手間といった、これまで観光の魅力とは考えられなかったものが商品になる可能性がある。
その意味では、二地域居住は観光客の滞在期間を少し長くしただけの現象ではない。地域との関係そのものが「消費する場所」から「生活を維持する場所」へ変わっていくことに本質がある。
「たくさん来る町」より「何度も戻る町」
これまで多くの地域政策は、とにかく人を呼ぶことに力を注いできた。観光客を呼び、移住者を呼び、企業を呼び、若者を呼ぶ。しかし二地域居住という現象を考えると、最初の一回来てもらうこと以上に、その人が二回目、三回目と戻ってくる理由を作ることが重要だと分かる。
美しい海があるから一度訪れる。しかし顔を覚えてくれる店があるからまた来る。安い空き家があったから家を買う。しかし留守中に面倒を見てくれる人がいるから暮らし続けられる。自然にひかれて地域を知るが、そこで自分に合った役割や居場所ができれば、その町は単なる旅行先ではなくなっていく。
地域の将来を考えるとき、「何人移住してきたか」だけを追う時代から、「何人が繰り返し戻ってくるか」「年間何日地域にいるのか」「地域内でどれだけ消費するのか」「どの程度地域活動に関わるのか」「地域側にどれだけ費用が発生するのか」を合わせて見る時代へ移っていく可能性がある。
人数だけでは、地域との本当の関係は見えない。
二地域居住の価値を測るなら
二地域居住者が地域にとって価値を持つかどうかを冷静に考えるなら、地域に入ってくるものと、地域が負担するものの差を見る必要がある。
地域内での消費が増え、地元の事業者に仕事が生まれ、地域活動に参加する人が増え、税や利用料などの収入が増えれば、その効果はプラスになる。一方で、住宅価格が上昇し、行政サービスの追加費用が膨らみ、インフラ負担が増え、既存住民との摩擦が強くなれば、その効果は小さくなる。
したがって「二地域居住者が何人いるか」という数字だけでは意味がない。重要なのは、一人当たりの滞在日数、年間の地域内消費額、地域内事業者に残る割合、活動参加の程度、行政やインフラに生じる追加費用を組み合わせて考えることである。
これは観光客数だけで地域の観光政策を評価できないのと同じである。
救世主ではなく「少しずつ町を支える人」
二地域居住者は地域の救世主なのか。
おそらく、この問いへの答えは「救世主と考えない方がうまくいく」である。
一人の移住者に人口減少を止めてもらう必要はない。一人の二地域居住者に地域活動をすべて手伝ってもらう必要もない。ただ、その人が毎月数日滞在し、地域の店で買い物をし、必要なサービスに対価を払い、ときには誰かと会話をし、翌月もまた戻ってくる。それだけでも、同じような人が百人、千人と増えれば町の経済や人間関係は少しずつ変わっていく可能性がある。
人口減少社会では、「完全な住民」を何人増やしたかだけで地域の力を測る発想そのものを変えなければならないのかもしれない。
住民票はない。しかし、この町がなくなったら困る。選挙には参加できない。しかし、行きつけの店が閉まれば寂しい。生まれ育った場所ではない。それでも台風が来れば心配になる。
そういう人が町の外に何人いるのか。そして、その人が一年に何日町へ来て、何を買い、誰と関わり、どのような不便を感じ、その不便にいくらなら払うのか。
これからの地域経済を左右するのは、人口統計の中にはそのまま表れない、こうした数字なのではないだろうか。
観光客でもなく、完全な移住者でもない「第三の住民」を考えることは、結局のところ、これからの地域にとって「住む」とは何なのかを考え直すことである。人口が減り続ける日本では、人を一つの場所に完全に囲い込む地域より、一人の人生の一部分を継続的に預かり、その人が無理なく何度も戻ってこられる仕組みを持つ地域の方が、静かではあっても強くなっていくのかもしれない。

