城山三郎の小説を読み終えたあとには、独特の静けさが残る。派手などんでん返しがあるわけではなく、悪人が倒され、主人公が喝采のなかを去っていくわけでもない。それでも本を閉じたあと、しばらくその人物のことを考えてしまう。会社や官庁や国家という、自分一人の力ではどうにもならないほど大きなものの中で、人はどこまで自分の考えを守れるのか。仕事に人生を注いだとして、その仕事が終わったとき自分には何が残っているのか。城山三郎の小説には、いつもそんな問いが沈んでいる。
だから、「現在、城山三郎に匹敵する作家は誰か」と考え始めると、意外なほど答えに困る。企業小説を書いている作家を探せば済む話ではないからだ。銀行や商社について詳しく書けるだけでも足りない。企業を描きながら経済へ視野を広げ、経済を追っていくうちに政治や国家へ行き着き、それでも最後には、その巨大な仕組みの中にいる一人の人間へ戻ってくる。城山三郎の大きさは、その視線の往復にあった。
ここでいう「匹敵する」とは、文学史上の評価や販売部数、受賞歴を比較することではない。取材によって現実の社会を捉え、その社会を動かしている組織や制度を描きながら、そこで生きる人間の倫理や幸福まで問いかける。その作家としての姿勢が、どこまで城山三郎に近いのかという意味で考えてみたい。
もっとも、作家の近さを客観的に測ることは簡単ではない。経済制度の描写を重視するのか、企業社会の実態を重視するのか、それとも国家と個人の関係を重視するのかによって、選ばれる作家は変わる。どの特徴を城山三郎の本質と考えるかという判断そのものに、読む側の解釈が入り込むからである。
それを承知したうえで、一人だけ選ぶなら、私には真山仁という名前が浮かんでくる。しかし、そこへ一直線に進むわけにはいかない。城山三郎の後には高杉良がいて、池井戸潤、黒木亮、楡周平、幸田真音、相場英雄といった作家たちがいる。彼らの作品を読み比べることで、城山三郎という作家が持っていた特徴と、現代の経済小説が到達している場所が少しずつ見えてくるように思う。
城山三郎は経済を書きながら、人間を書いていた
城山三郎は「経済小説の開拓者」と呼ばれてきた。1958年下半期の第40回直木賞を『総会屋錦城』で受賞し、『官僚たちの夏』『役員室午後三時』『毎日が日曜日』『男子の本懐』など、企業や官僚、経済政策を正面から扱う作品を残したのだから、その呼び方には十分な理由がある。ただし、城山作品を何冊か続けて読むと、「経済小説家」という言葉だけでは何かがこぼれ落ちるように感じられる。
『官僚たちの夏』で描かれるのは、通商産業省という官僚組織の内部で繰り広げられる政策と人事の闘いである。そこには高度経済成長へ向かう日本があり、産業界との緊張があり、官僚同士の考え方の違いがある。官僚機構も単純な一枚岩として描かれるわけではなく、同じ国家の発展を目指していても、何を優先し、どこまで行政が産業に介入するべきかという考え方は一致しない。しかし、読者が最後まで見つめることになるのは、政策や制度そのものだけではない。その制度の中で何を信じ、何を守ろうとするのかを迫られる人間たちである。
『男子の本懐』でも同じことが起きる。1930年の金解禁を重要な題材としながら、読み進めるほど、浜口雄幸や井上準之助という人物の信念と生き方が前へ出てくる。もちろん、金解禁という政策を歴史的に評価することと、政策を断行した人物の覚悟を文学的に評価することは別の問題である。金本位制への復帰がその後の日本経済にどのような影響を与えたかについては、当時の国際経済環境や政策選択を含めて検証しなければならず、小説の人物描写だけで政策の正しさを判断することはできない。それでも城山は、国家的な決断を引き受けた人間が何を考え、何を犠牲にし、どのような覚悟で行動したのかを読者に見せようとする。
『毎日が日曜日』になると、その視線はさらに私生活へ入っていく。1976年に刊行されたこの作品では、商社マンとして成功することと、一人の人間として幸福であることが同じなのかという問いが浮かび上がる。会社に尽くすことが、そのまま家族を幸せにすることになるのか。仕事のために海外を飛び回り、組織の期待に応えながら生きてきた人間が、あるとき自分の人生を振り返ったら何が見えるのか。高度経済成長を通じて広まった、会社の成長と個人の幸福を結びつける価値観に対して、城山はその陰にある犠牲や矛盾を描き出した。
むろん、高度経済成長期の日本で、経済成長や企業中心の社会に対する疑問が存在しなかったわけではない。公害問題や労働問題、都市への人口集中、家族生活の変化などを通じて、成長がもたらす負の側面はすでに問われていた。城山の特徴は、そうした社会の矛盾を抽象的な批判として語るのではなく、組織の中で懸命に働いてきた人間の人生に引き寄せて描いたところにある。
つまり城山三郎にとって、会社も官庁も経済政策も、最終的な関心のすべてではなかったのだろう。それらは人間の能力や信念を発揮させる舞台であると同時に、人間の生き方を試す巨大な仕組みでもあった。そのため城山作品では、出世や成功が必ずしも物語の結論にならない。たとえ社長になっても、次官になっても、大きな政策を実現しても、「それでその人の人生は幸福だったのか」という問いが残る。
ここが、後の経済小説家を考えるときの出発点になる。
高杉良を抜きにして、城山三郎の後継者は語れない
城山三郎の後に経済小説を大きく発展させた作家として、まず高杉良を置かなければならない。石油化学の専門紙記者や編集長を経験した高杉は、企業の内部へ徹底して入り込み、経営者や社員の行動を詳細な取材によって描いてきた。『虚構の城』『小説 日本興業銀行』『金融腐蝕列島』『不撓不屈』『小説ヤマト運輸』などを見れば、戦後日本の企業社会そのものを文学の題材にしてきた作家であることが分かる。
その意味では、城山三郎の経済小説を最も直接的に受け継いだ作家の一人は高杉良だった、と考えるほうが自然である。二人には共通するところが多い。会社を抽象的な舞台として扱うのではなく、実際の産業構造や経営の仕組みを調べ、そこで働く人間がなぜその判断をするのかを描く。経済知識は物語の背景に置かれた説明ではなく、登場人物の運命を決める条件になっている。
ただし、高杉良を企業社会の内部だけを描く作家と考えるのは正確ではない。例えば『小説 日本興業銀行』では、銀行の経営史を通じて政府や日本銀行との関係、産業政策、戦後日本の経済発展が描かれる。金融機関の内部に視点を置きながら、そこで行われる判断が国家の経済政策や産業構造と結びついていることを浮かび上がらせるのである。また『不撓不屈』では、税務当局との対立を通じて、専門家の信念と国家権力の関係が重要な主題となる。
したがって、高杉良と城山三郎の違いは、国家を描くか描かないかという単純な区別ではない。高杉は企業や金融機関の現場を起点として、そこから制度や政治へ視野を広げる傾向が強い。それに対して城山は、企業経営者だけでなく官僚や政治家そのものを物語の中心に置き、国家的な決断と個人の人生を直接結びつけて描くことが多かった。両者の違いは題材の有無ではなく、どこに視点を置き、何を物語の中心的な問いにするかという点にある。
それでも高杉良が城山三郎に近い作家であることは疑いにくい。現実の企業社会への徹底した取材、経営判断の背後にある制度の理解、組織と個人の対立を描く力という点では、両者の距離は相当に近い。むしろ、企業社会の実態を描くことを最も重要な基準にするなら、真山仁より高杉良を選ぶという判断にも十分な理由があるだろう。
しかし、城山三郎の特徴を、企業社会の描写だけでなく、国家的な意思決定と個人の倫理、さらに仕事が終わったあとの人生までを見つめる視線に求めるなら、比較はもう少し広げる必要がある。
池井戸潤は、会社で働く人間を再び国民的物語にした
そこで浮かぶのが池井戸潤である。「半沢直樹」シリーズ、『下町ロケット』『空飛ぶタイヤ』『七つの会議』『鉄の骨』など、銀行や企業という場所を多くの読者にとって身近な物語へ変えてきた作家である。とりわけテレビドラマ化された作品を通じて、企業組織の人事や権力関係、働く人間の誇りや怒りが、幅広い世代に共有される物語となった。
興味深いのは、池井戸自身が、銀行や会社という組織そのものではなく、そこで生きる人間を描くことの重要性を語っていることである。この考え方は城山三郎に近い。池井戸作品の銀行やメーカーは、単に事件を成立させるための背景ではない。そこで働く人間は人事評価に左右され、上司の判断に振り回され、ときには会社の論理と自分の倫理の間で判断を迫られる。組織は人を守る一方で、人を縛る。その二面性を物語として読ませる力は、城山三郎の系譜に重なる。
ただ、両者を読み比べると、物語の構成や読後感には違いがある。「半沢直樹」シリーズに代表される池井戸作品では、理不尽な状況に置かれた人物が、組織内部の権力や不正に立ち向かう姿が強い推進力になる。読者は主人公と一緒に怒り、ときには反撃の瞬間に快感を覚える。企業社会における不条理を描きながら、その不条理に抗う人間の行動を、読者が追いかけやすい物語へ変えているのである。
もっとも、池井戸作品をすべて勧善懲悪の物語として捉えることはできない。『七つの会議』では、企業内部の不正や隠蔽を通じて、組織に従うことと倫理を守ることの矛盾が描かれている。そこでは単純に正義が勝てば終わりという問題ではなく、組織の仕組みそのものが人間の判断をどのように変えてしまうのかという問いがある。池井戸にも、城山三郎が持っていた組織と人間への厳しい視線は存在する。
それでも、両者の作品に見られる傾向の違いは興味深い。池井戸潤が、組織の中で人間がどう行動し、困難に立ち向かうのかを力強く描く作家だとすれば、城山三郎は、その行動が終わったあとにも残る人生の問題を見つめ続ける作家だったように思う。正しい人物が勝つとは限らず、信念を守ったからといって幸福になるとも限らない。仕事で成功しても、失った時間や家族との距離が元へ戻るわけではないという感覚が、城山作品には色濃く漂っている。
会社で働く人間を多くの読者が感情移入できる物語へ変える力では、池井戸潤は現代の経済小説を代表する存在の一人である。しかし、国家政策から個人の人生までを一つの連続した問題として描くという基準では、城山三郎との間に一定の違いが残る。
黒木亮は、経済と制度そのものをドラマに変える
もう一人、城山三郎との距離を考えたくなるのが黒木亮である。都市銀行、証券会社、総合商社で実務を経験した黒木は、『トップ・レフト』をはじめ、『巨大投資銀行』『カラ売り屋』『排出権商人』『鉄のあけぼの』など、国際金融や企業活動の仕組みそのものを小説にしてきた。2026年8月に文庫化された『メイク・バンカブル! イギリス国際金融浪漫』は、自身の国際金融経験を描いた自伝ノンフィクションだが、その経歴を知ると、黒木作品がなぜ金融実務の細部まで描けるのかが理解できる。
黒木亮の小説では、数字や制度が単なる説明ではなく、物語を動かす条件になる。融資条件が変われば企業の運命が変わり、金利が動けば経営判断が変わる。市場の信用が失われれば、昨日まで成立していた取引が今日には成立しなくなる。金融市場や企業活動を理解していなければ人物の行動を十分に理解できないところに、黒木作品の特徴がある。
この感覚は城山三郎とよく似ている。城山作品でも、企業や政策の仕組みを理解しなければ登場人物の判断を本当には理解できない。経済の動きを抽象的な数字の変化としてではなく、その変化に人生を左右される人間の物語として描いているのである。
ただし、黒木亮を国際金融という専門領域だけの作家と考えることにも無理がある。例えば『法服の王国』では、裁判官や司法行政を題材とし、司法制度と国家権力の関係へ踏み込んでいる。金融市場の複雑さを描くことと、国家制度の内部構造を描くことは、一見すると別の仕事に見えるが、制度の仕組みが人間の判断や運命を左右するという点では共通している。
この作品まで視野に入れるなら、黒木亮もまた、経済から制度へ、制度から国家へと視野を広げる作家と評価できる。したがって、国家を描くという点だけで真山仁と明確に区別することは難しい。むしろ、黒木が制度の精密な構造と、その内部で働く専門家の行動を描くことに強みを持つのに対し、真山は制度をめぐる対立や国家的な意思決定を、より大きな政治的物語として組み立てる傾向があると考えたほうがよいだろう。
経済の仕組みを理解するための小説という意味では、黒木亮は城山三郎に匹敵する有力な存在である。しかし、仕事に人生を費やした人間の幸福や喪失をどこまで中心的な問いとしているかという点では、城山三郎とは異なる個性を持っている。
楡周平は、企業の向こうにある社会まで見ようとする
楡周平になると、視線は再び社会全体へ広がっていく。ハードボイルドやミステリーから出発した楡は、『再生巨流』『プラチナタウン』などを通じて、企業経営だけではなく、物流、地域社会、人口問題、自治体のあり方といったテーマを作品へ取り込んできた。
楡作品を読んでいると、企業が社会の中で孤立して存在しているわけではないことがよく分かる。物流の仕組みが変われば小売業の競争条件が変わり、小売業が変われば地域の商業構造にも影響が及ぶ。人口が減少すれば消費市場が縮小し、税収や公共サービスのあり方も変わる。企業の経営判断は取引先や従業員だけでなく、地域社会そのものへ波及するのである。
特に『プラチナタウン』には、城山三郎との比較で見逃せないところがある。人口減少や地域経済の問題を、自治体経営や政策判断の問題と結びつけ、地域がどのように生き残るべきかという問いを物語へ組み込んでいるからだ。企業を社会の一部分として描き、その変化が行政や住民の生活にどう影響するのかを考える視線は、城山三郎が経済から社会全体へ向けていた関心とも重なる。
ただし楡周平の場合、産業構造の変化や新しい事業の可能性を捉えながら、「これから社会はどう変わるのか」という方向へ物語が進むことが多い。人口減少や地域経済の衰退を単に悲観的に描くのではなく、経営や仕組みを変えることで新しい道を探ろうとする。その構想力が楡作品の魅力である。
城山三郎も未来への展望を描かなかったわけではないが、楡が社会の変化と対応の可能性へ視線を伸ばすのに対し、城山は歴史や組織の中で決断した人間の内側へ、より深く降りていく印象がある。どちらが優れているという問題ではなく、物語を通じて読者に最終的に何を考えさせたいのかという違いである。
幸田真音と相場英雄を加えると、後継者の輪郭はさらに複雑になる
城山三郎に近い現代作家を考えるなら、幸田真音も見落とすことはできない。金融の世界を題材にしてきた幸田は、国際経済や財政政策を扱うだけでなく、政策を動かす人間の決断にも関心を向けている。『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債』では、近代日本の財政と国際金融を背景に、高橋是清という人物を描いた。経済史上の重要人物を通じて国家の財政政策と個人の生き方を結びつけるという点では、城山三郎の『男子の本懐』に通じるものがある。
この共通性は小さくない。国家の経済政策は、制度だけを説明しても物語になりにくい。しかし、その政策を選択し、実行し、その結果を引き受けなければならない人物を中心に置くことで、経済史は一人の人間の生き方を描く物語へ変わる。そうした手法を考えるなら、幸田真音は城山三郎の後継者を論じる際に、十分比較の対象となる作家である。
一方、相場英雄は、経済や企業活動の背後にある社会的な問題を、社会派ミステリーの形式で描いてきた。『震える牛』『ガラパゴス』『不発弾』などには、企業の利益追求、雇用、産業構造、金融、社会制度といった問題が絡み合っている。相場は経済記者としての経験を持ち、個々の事件の背後にある社会の仕組みを物語として浮かび上がらせることに強みを持つ。
相場英雄と城山三郎では、物語の形式や読者を引き込む方法がかなり異なる。それでも、経済活動を個別企業の内部だけで完結させず、社会全体の問題として捉えようとする点では共通性がある。現代の企業や経済を描くことが、雇用、消費者、政治、地域社会を描くことにつながっているという意味では、相場作品もまた城山三郎の問題意識の一部に接近している。
こうして比較対象を広げると、城山三郎の後継者を一人だけ選ぶことが、ますます難しくなる。企業の内部構造、金融実務、国家政策、社会の変化、個人の倫理という評価基準のどこに重点を置くかによって、最も近い作家は変わるからである。
しかし、このことは後継者探しが無意味だということではない。むしろ、城山三郎という作家が、複数の視点から比較できるほど広い作品世界を持っていたことを示しているように思う。
真山仁に、城山三郎と同じ「国家を見る癖」がある
こうして見ていくと、真山仁の位置が少しずつ見えてくる。真山は企業買収を題材とした『ハゲタカ』で広く知られるようになったが、その後、作品の射程を企業の内部だけにとどめなかった。エネルギー、農業、原子力、政治、財政、安全保障へと題材を広げ、経済活動を国家の制度や政治的な意思決定と結びつけて描いてきた。
ここが重要なのである。企業買収だけを書いていたなら、有力な企業小説家の一人として評価されていたかもしれない。しかし真山仁は、企業の問題を追いかけていくうちに、その企業を動かしている制度へ進み、制度を追っているうちに政治へ行き、政治を追っているうちに国家のあり方へ到達する。企業経営の問題が、そのまま産業政策や国益の問題へ広がっていくのである。
2025年の『アラート』では、安全保障と防衛費、財源問題、政治判断が一つの物語の中で結びつけられている。安全保障というテーマだけなら政治小説になり、防衛費の財源だけを扱えば財政論になる。しかし真山は、それらを制度の説明として並べるのではなく、国家的な危機や政策上の選択に直面する人物の決断を通じて描こうとする。
この視線は城山三郎に近い。城山も産業政策を書くときには、その政策を進める官僚を描き、金融政策を書くときには、その政策を担う政治家や財政家を描いた。制度を理解し、組織を理解し、そのうえで最後には一人の人間へ戻る。社会がどれほど複雑になっても、決定的な場面では誰かが判断し、その責任を引き受けなければならないという現実を、二人の作品はそれぞれの時代の中で描いている。
もちろん、国家を描く作家という意味では、高杉良も黒木亮も幸田真音も比較対象になる。真山仁だけが政治や制度へ踏み込んでいるわけではないし、国家を題材にした作品が多いことだけで、城山三郎に最も近いと断定することはできない。
それでも真山仁を有力な候補と考えるのは、企業から国家へと視野を広げる動きそのものが、作品世界の重要な特徴になっているからである。企業買収という市場の問題から出発しながら、その市場を成立させている制度を問い、さらに政治や国家の意思決定を問い直す。その展開の仕方が、城山三郎の作品に見られる、経済と国家を一つの連続した問題として捉える姿勢に近いのである。
ただし、もう一つの違いも見逃せない。真山作品では国家的な危機や制度改革、政治的な対立が物語を強く動かすのに対し、城山作品では、それらを乗り越えたあとに残る人生の重さが、より前面に出てくることがある。政策を実現したか、危機を回避したかという結果だけではなく、その仕事に人生を費やしたこと自体の意味が問われるのである。
したがって、真山仁を城山三郎に最も近い作家と考えることには理由があるが、両者が同じ作風を持っているという意味ではない。近いのは、経済を通じて国家を見つめ、国家を描きながら個人の決断へ戻ろうとする視線であり、そこからどのような人生観を読者に残すのかという点には、それぞれの個性がある。
山崎豊子という、もう一つの大きな存在
ここで、城山三郎と同時代に活躍した山崎豊子にも触れておきたい。現在の作家という条件からは外れるが、日本の企業や国家を描いた小説の歴史を考えるうえで、山崎の存在を無視することはできない。
『不毛地帯』『華麗なる一族』『沈まぬ太陽』などに見られるように、山崎豊子もまた、企業活動と政治、官僚機構、国家、そして個人の信念を大きな物語として描いた作家だった。企業の利益と国家政策が結びつき、組織の内部にいる人間が大きな力に翻弄される。その中で、個人はどこまで自分の信念を守れるのかという問いは、城山作品とも深く重なっている。
ただし、両者の表現には違いがある。山崎豊子は、綿密な取材を背景として、企業や国家を取り巻く巨大な権力構造を長編小説として描き、その中に生きる人物の葛藤を強い物語性とともに浮かび上がらせた。一方、城山三郎は、企業や官庁の内部を描きながらも、しばしば人間の仕事観や人生観に静かに踏み込んでいく。山崎の作品が巨大な社会の構造を読者の前に広げるものだとすれば、城山の作品は、その構造を見渡したあと、そこで生きた一人の人間へ読者の視線を戻すものだったように感じられる。
この違いを考えると、城山三郎だけが企業、政治、国家、個人のすべてを描いていたわけではないことが分かる。同時代には山崎豊子という、異なる方法で同じように広い領域へ取り組んだ作家が存在した。だから、城山三郎の時代には一人の作家が社会全体を描くことができ、現代ではそれが不可能になったと単純に考えるべきではない。
むしろ重要なのは、それぞれの作家が社会のどこに立ち、何を中心的な問題として物語を組み立てていたかということである。企業から政治へ、政治から国家へ、さらに個人の倫理や人生へと向かう視線は、城山三郎だけのものではない。しかし、その視線をどのような文章と物語の構成で読者に届けたかというところに、城山三郎ならではの個性があった。
城山三郎の後継者は、一人でなくてもよいのかもしれない
ここまで来ると、最初の問いが少し変わって見えてくる。城山三郎の後継者を一人だけ探そうとするから、答えが見つからないのではないか。経済小説という一つの言葉の中には、企業経営、金融、政治、国家、社会制度、労働、家族、人生といった、性質の異なる主題が含まれている。それらの何を重視するかによって、城山三郎に近い作家の名前が変わるのは当然ともいえる。
高杉良には、企業社会を徹底して取材し、その内部から経済と国家の関係を描く力がある。池井戸潤には、会社で働く人間の怒りや誇りを、多くの読者が感情移入できる物語へ変える力がある。黒木亮には、金融や制度の複雑な仕組みそのものを小説の緊張感へ変える力があり、楡周平には、企業活動の先にある社会や地域の変化を見通す視線がある。幸田真音は金融と国家財政を人物の生き方に結びつけ、相場英雄は企業活動の背後にある社会の矛盾を描く。そして真山仁には、経済から政治へ、政治から国家へと視野を広げ、国家的な決断を物語の中心に置く力がある。
こうして並べてみると、彼らは同じ仕事をしているわけではないことが分かる。それぞれが異なる入口から、企業と社会、国家と人間の関係へ接近しているのである。だから、誰が最も優れているかという問いに置き換えることには意味がない。作品の主題や表現方法が異なる以上、一つの尺度で作家を順位づけしても、その数字が文学的な価値を正しく示すとは限らないからだ。
それでも、城山三郎が残した作品群を思い返すと、彼はそれらの領域のかなりの部分を、自分自身の作品世界の中で扱っていたことに気づく。経済制度を描き、経営者を描き、官僚を描き、政治家を描き、それらの人物が仕事を通じて何を得て、何を失ったのかを描いた。すべての領域を同じ深さで描いたというわけではないが、社会の制度と人間の人生を切り離さずに考え続けたことは確かだろう。
この点に、城山三郎という作家の大きさがある。
現代の経済小説は、なぜ多様になったのか
現代の経済小説を考えるとき、社会そのものが変化してきたことも無視できない。城山三郎が描いた高度経済成長期には、企業の成長、日本経済の成長、産業政策、官僚機構の働きが、比較的分かりやすい形で結びつく場面があった。国内の生産設備を増やし、輸出を拡大し、産業の競争力を高めることが、国家経済の成長と関連していた時代である。
ただし、その時代も決して単純ではなかった。国際収支の制約、資源の輸入依存、貿易摩擦、産業間の格差、公害、労働問題など、多くの課題が存在していた。高度成長期には社会の進む方向が一つに定まっていたと考えるなら、それもまた過去を単純化することになる。
現代では、企業と国家の関係がさらに多様な形で現れている。日本企業が海外で利益を得ても、その利益が国内の雇用や賃金の増加に直結するとは限らない。企業の経営判断には国際金融市場、海外の産業政策、地政学的なリスクが影響し、国内では人口減少、社会保障、労働力不足、地域経済の衰退などが同時に進行している。エネルギー政策は産業競争力や安全保障と結びつき、人工知能の普及は企業経営だけでなく、雇用や教育、行政のあり方にも影響を及ぼそうとしている。
こうした変化の中で、経済小説が扱う題材は一段と多様化している。企業経営を描くことが国際政治を描くことにつながり、地方自治体を描くことが人口構造や財政制度を描くことにつながる。金融の問題を理解するためには国際制度を知らなければならず、製造業の問題を理解するためには技術革新や資源調達の仕組みまで考えなければならない場合がある。
もっとも、現代の社会が城山三郎の時代より客観的にどれほど複雑になったかを、簡単に数量化することはできない。社会の複雑さを時代間で比較するには、その意味を定義し、測定方法を明らかにする必要がある。したがって、一人の作家が社会全体を同じ深さで描くことが昔より難しくなったと断定することもできない。
それでも、現代の経済小説が多様な専門領域へ広がっていることは、作家たちの作品を見渡せば感じられる。金融に深く入る作家もいれば、企業の倫理を描く作家もいる。地方自治体の将来を考える作家がいる一方で、エネルギーや安全保障を通じて国家の意思決定を描く作家もいる。現代の経済小説は、一つの型に収まらないほど幅広い作品群になっているのである。
その多様化を考えると、城山三郎の後継者が複数の作家に分かれて存在しているように見えることにも、不思議はない。
城山三郎が最後に見ていたのは「成功」ではなかった
それでも城山三郎には、他の経済小説家と比較したときに、ひときわ強く印象に残るところがある。城山は、成功したかどうかだけでは人間を評価しなかった。社長になった、次官になった、政策を実現した、会社を立て直したという出来事は、社会的には大きな成果であり、小説の中でも重要な場面になり得る。しかし城山は、そうした成果だけで人物の人生を完結させようとしなかった。
その仕事のために何を失ったのか。家族との時間はどうなったのか。信念を守るためにどれほど孤独になったのか。そして肩書も役職も消えたあと、その人には何が残っているのか。組織にとって価値のある人間であることと、一人の人間として幸福であることは同じなのか。城山作品では、そうした問いが物語の背後に残り続ける。
だから城山三郎の作品は、読む年齢や人生経験によって印象が変わるのかもしれない。若いころに『官僚たちの夏』を読めば、能力ある官僚たちが国の産業政策をめぐって競い合う仕事の小説として読める。そこには知識や能力を発揮することへの憧れがあり、自分も組織の中で何かを成し遂げたいという思いを重ねることができる。
しかし、仕事を続け、組織の中で責任を負い、ときには思いどおりにならない判断を引き受けてきた人間が読むと、別のものが見えてくる。どれほど優秀でも自分の望む仕事だけができるわけではなく、正しいと思う判断が組織に受け入れられるとも限らない。長年の努力が報われることもあれば、組織の事情によって簡単に失われることもある。そして、仕事に費やした時間は取り戻すことができない。
そう考えると、『官僚たちの夏』は単なる官僚小説ではなくなる。能力や信念を持って働いた人間が、組織の中で何を成し遂げ、何を失い、何を残したのかという人生の物語として読めるのである。『毎日が日曜日』や『男子の本懐』もまた、経済や政策を描きながら、その奥にある人間の生き方を考えさせる作品となる。
企業小説だと思って読んでいたものが、いつの間にか人生小説へ変わる。これこそ城山三郎が簡単には古びない理由の一つではないだろうか。
それでも一人だけ選ぶなら、真山仁ではないか
それでは、最初の問いへ戻ろう。城山三郎に匹敵する現在の作家は誰なのか。
経済小説の歴史を直接受け継いだ人物という意味なら、高杉良を抜きにすることはできない。企業社会の現実を徹底して描き、その内部から国家や制度との関係まで掘り下げるという点では、高杉良は城山三郎に最も近い作家の一人である。
会社で働く人間を現代の大衆小説として描く力では、池井戸潤が非常に強い。金融実務や制度の精密な描写なら黒木亮がいるし、産業構造の変化から社会や地域の将来を考えるなら楡周平がいる。国家財政と歴史上の人物を結びつける幸田真音、企業活動の背後にある社会問題を掘り下げる相場英雄も、比較すべき重要な存在である。
しかし、経済から政治へ、政治から国家へと視線を広げ、その巨大な仕組みの中で決断を迫られる人間へ戻ってくるという城山三郎の作家性を、特に重要な基準にするなら、現在もっとも近い位置にいる作家として真山仁を挙げたい。
もちろん、これは客観的な順位が証明されたという意味ではない。経済小説の優劣や作家の近さは、作品の内容、文学的な表現、取材の深さ、国家や個人への関心など、複数の要素から評価される。比較の基準が変われば、最も近いと感じられる作家も変わるだろう。真山仁という答えは、あくまでも経済と国家を結びつけ、そこで決断する人間を描くという特徴に重点を置いた場合の、一つの文学的判断なのである。
だから真山仁を「第二の城山三郎」と呼ぶ必要はない。二人が生きてきた時代も、作品で扱う社会問題も、物語の構成も異なるからである。共通点があるからといって、その作家が別の作家の代わりになるわけではない。むしろ、違いがあるからこそ、それぞれの時代に何が変わり、何が変わらなかったのかを考えることができる。
ここで、少し想像してみると面白い。もし城山三郎が2026年の日本に生きていたなら、何を書いただろう。高度経済成長を牽引する通産官僚ではなく、人口減少に直面する地方自治体を歩いたかもしれない。半導体工場を訪ね、電力会社を取材し、防衛産業の現場へ入り、財務官僚と話し、海外資本による日本企業の買収を調べ、人工知能によって仕事の形が変わろうとしている人々にも会ったかもしれない。
人口が減り続ける町で、学校や病院を維持するべきかどうかを判断する首長を描いたかもしれない。財政の制約を承知しながら住民の生活を守ろうとする自治体職員を主人公にしたかもしれない。あるいは、巨大な企業の経営者が、海外市場での競争力と国内雇用の維持という両立の難しい問題に直面する姿を描いたかもしれない。
しかし、どれほど大きなテーマを取材したとしても、最後に書こうとしたものは制度の仕組みだけではなかったように思う。その制度の中で、一つの決断をしなければならない人間を探したはずである。会社を守るとは何なのか。国益とは何なのか。仕事とは何なのか。そして、そのために人生のどこまでを差し出してよいのかという問いを、現代の社会に生きる人物の姿を通じて描こうとしたのではないだろうか。
城山三郎が問い続けたのは、おそらくそういうことだった。
その視線で現在の経済小説を見渡すと、真山仁は確かに近い。しかし、完全に同じ場所にいるわけではない。池井戸潤は企業で働く人間の側から近づき、黒木亮は金融や国家制度の内部から近づく。楡周平は産業と社会の未来から近づき、幸田真音は経済政策を担う人物の生き方から近づく。そして、その前には高杉良という大きな先達がいる。
彼らは城山三郎が残した問いの一部を、それぞれの方法で引き受けているように見える。ただし、それは一人の作家が別の作家より優れているとか、劣っているとかいう話ではない。現代の経済小説家たちは、城山三郎と共通する問題意識を持ちながら、それぞれに異なる作品世界を築いているのである。
だから、現在の経済小説には、城山三郎の後継者と呼び得る作家たちがいる。しかし、城山三郎そのものの後継者がいるのかと問われると、簡単には答えられない。優れた作家の個性は、そもそも誰かに完全に引き継がれるようなものではないからだ。
それでも一人だけ名前を挙げるなら、経済を通して国家を見つめ、国家を描きながら最後には人間の決断へ戻ってくる作家として、私は真山仁を選びたい。
ただ、城山三郎を読み返したときに最後まで心に残るのは、企業の成長でも、政策の成功でも、組織の勝敗でもないことが多い。そこで生きた人間が、自分の人生をどう引き受けたのかという問題である。仕事を通じて社会に関わりながら、その仕事のために何を失い、それでも何を守ろうとしたのか。そうした問いが、作品を読み終えたあとにも静かに残り続ける。
真山仁が最も近いという答えにたどり着いても、なお埋まらない何かがあるとすれば、それは城山三郎が経済や国家を描くことによって、最後には一人の人間の人生そのものを問い続けたからではないだろうか。
城山三郎に匹敵する現在の作家を探すことは、結局、経済小説とは何を書く文学なのかを考えることにつながっていく。そして、その問いを通じて見えてくるのは、経済とは決して数字や制度だけで動いているものではなく、そこで働き、判断し、迷い、ときには失敗する人間の営みなのだということである。
城山三郎が日本の経済小説に残した最も大きなものは、特定の題材や手法だけではなかったのかもしれない。経済を描くことは社会を描くことであり、社会を描くことは、その中に生きる人間の人生を描くことなのだという視線だったのではないだろうか。
その視線を現在の作家たちの作品にも見いだせるからこそ、私たちは今も城山三郎の後継者を探したくなる。そして、誰か一人を選んだあとでも、また城山三郎の作品を読み返したくなるのである。