リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

開院まで八か月:調達ゼロからの逆転 下巻

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 夜十一時が当たり前になった。警備員とは親密になり、缶コーヒーを置かれるようになった。  職員は六時、遅くても七時には帰る。廊下の足音が自分だけになる時間が増える。

 その頃から、室井は「予算」という単語を口にするとき、少しだけ笑う癖がついた。 笑わないと、泣きそうになるからだ。  しかし、『削る』には、もう一つの戦場があった。 メーカー、代理店、問屋との価格交渉である。  部長医師と交渉して「これでいく」と決めても、見積が予算を超えれば意味がない。

 室井の机の上には、同じような見積書が何枚も重なった。紙の厚みが、胃の重みになる。  最初に来たのは、医療機器メーカーの営業だった。スーツが妙に光っている。 「室井さん、これが『ベストプライス』です」 営業は笑顔で言う。 室井はその笑顔の下に、値引き余地が隠れているのを知っている。 「ベストって、誰にとってのベストですか?」  営業の口角が一瞬だけ引きつる。 「もちろん、病院様にとっての…」 「じゃあ、うちの『予算』に合わせるのがベストですね。 この価格だと、病院は開院できません。開院できないと、機器も売れません」  営業は「いや、それは…」と言いかけて、手元のタブレットを叩いた。 「…特別値引き、検討します」 室井は心の中で言う。 ――検討じゃない。今、出せ。

 次に来たのは代理店。代理店はもっと上手い。 「本体は下げます、その代わり保守を…」 「保守は手厚くします、その代わり消耗品を…」  値引きの代わりに、別の場所で回収する。病院の財布の穴を、場所を変えて開けようとする。 室井は笑って言う。 「代理店さん、病院は『総額』で倒れます。 本体を下げて消耗品で取るのは、患者さんに請求書を出すようなものです。 うちは病院なので、それはやりません」  代理店は笑顔を崩さず、しかし目だけが真剣になった。 「室井さん、厳しいですね」 「厳しいのは、うちの予算です」

 問屋はさらに違う。 問屋は「全部まとめて買ってくれたら下げます」を言う。 「室井さん、まとめ買いで単価が…」 室井は即答する。 「まとめると、余計な物も混ざります。 余計な物は、倉庫の奥で『化石』になります。 化石は病院の資産じゃなく、病院の墓標です」  問屋は一瞬黙り、「墓標は重いですね」と苦笑した。

 交渉のコツは、相手の『逃げ道』を作ることだった。 値引きだけを迫ると、相手も意地になる。  だから室井は、代わりに『勝ち筋』を渡す。 「この機器、他院にも紹介します。 成功事例にしましょう。 ただし、価格は成功事例にふさわしくしてください」  営業は目を輝かせる。成功事例は、次の契約を連れてくる。 室井はその期待を、値引きに換金する。 「導入後、操作説明会を2回。  それを『無償』で付けてください。 値引きが無理なら、サービスで落としてください」 メーカーは悩む。 だがサービスは原価が見えにくい。上司の許可が取りやすい。 室井はそこを突く。

 ある日、代理店の営業が言った。 「室井さん、これ以上は無理です。上に怒られます」 室井は真顔で頷いた。 「分かりました。じゃあ、私が上に怒られます。 どっちが怒られるか、勝負ですね」  営業は吹き出した。 「いや、勝負って…」 「勝負です。病院は八か月で開ける。 あなたは今月の売上を守る。 どっちが勝つか、見たいじゃないですか」 営業は笑いながら、スマホを取り出した。 「…上と、電話してみます」 室井は心の中でガッツポーズをした。 ――笑いが出たら、交渉は動く。  別の日、メーカーの担当者が「競合には負けられません」と言った。 室井は首を傾げる。 「負けたくないなら、勝ってください。 価格で勝つか、納期で勝つか、サポートで勝つか。 うちは『総合点』で決めます」 担当者は一瞬固まり、「総合点…」と呟いた。 病院は試験会場ではないのに、室井はいつも相手を試験に引きずり込む。  すると相手は、勝ちたくなる。 そうやって、値引きが出る。 納期が前倒しになる。 保守のレスポンスが改善される。 消耗品の初期セットが『おまけ』になる。 説明会が増える。 搬入の人員が増える。

 小さな勝利が積み上がり、予算の線の上に、なんとか全体が乗っていく。 それでも、最後に来るのは「図面地獄」だった。  ようやく、納入にこぎつけた。 医療機器の搬入はメーカーや代理店がその部署まで運び設置するので問題は少なかった。

 しかし、その他の物品は違う。業者が部署まで運び納品はしてくれるものの、病院側で「どこに」「何を」「何個」置くかを間違いなく整えねばならない。  ここで室井に降ってきたのが、とてつもなく大変な仕事だった。 新病院の図面に納品物品の番号を付け、図面にも同じ番号を入れる。 棚、カート、椅子、清掃用品、事務備品、名もないようで名があるもの全部。 番号はただの数字ではない。開院後に「どこにあるか分からない」を防ぐ命綱だ。

 室井は夜、図面を広げた。 大きな紙の上に病院が迷路のように描かれている。そこへ物品番号の小さな文字が雨のように降っていく。消しゴムかすが雪のように積もり、指先はペンの跡で黒くなる。  その夜、川鍋係長が珍しく残っていた。 室井の横に座り、図面を見つめて言う。 「病院って、建物じゃないんですね」  室井はペンを止めた。 「え?」 「建物は工事会社が作る。工程で進む。数字で動く。 でも病院は……人と物が動いて初めて病院になる。 それを、室井さんが、今ひとりでやってる」  室井は何か言おうとして、言葉が出なかった。 疲れのせいで感情が鈍っている。鈍っているのに胸の奥だけが熱くなる。 「ひとりじゃないです。川鍋さんが建物を守ってくれてる」  川鍋係長は黙って頷き、目に涙をためた。 室井はそれを見て、初めて「終わりが近い」と実感した。

 奇跡的に、オープニングセレモニーには間に合った。 招待した知事が壇上で言う。 「地域医療の新たな拠点として――」

 室井は少し離れた場所で拍手をしながら、自分の指先の黒い跡を見た。八か月の月曜三時と土曜深夜、空港の蛍光灯、図面の雨、交渉の笑いと胃痛――その全部が、ここに繋がっている。  知事が壇上から降りてきて準備室のメンバーにねぎらいの言葉をかけた。 「皆さん、お疲れさまでした」  その「皆さん」に自分が含まれていることが、不思議だった。 よそ者で、出向者で、外部の人間で、それでも今は確かに、この病院の一部だった。

 最後の仕事が終わり、室井が病院を去るとき、川鍋係長は目に涙をため、玄関まで送り出してくれた。 「室井さん……本当に、ありがとうございました」 室井は言葉を探し、結局、頷いた。 「……無事に開いた。それで十分です」

 その週の土曜も、室井は最終便に乗った。 座席に沈み、離陸前に襲ってくる睡魔に抗う力は残っていない。次に意識が浮上したのは、着陸の衝撃音だった。機体が滑走路を掴んだ瞬間の「ドン」が、心臓の奥まで響く。

 空港から車で自宅へ。 午前一時。玄関の鍵を開けたとき、家の匂いがして、ようやく「終わった」と思えた。  メンタルはギリギリ、体力は限界に近いのに、胸のどこかが妙に満ちている。ぎりぎりで走り切った充実感が、最後に残った。

 そして杉村院長への報告は、翌週の月曜日の朝だった。 MGH総合病院。 杉村院長室のドアをノックすると、返事はいつも通り軽い。 「おー、室井くん。戻った? どうだった?」  室井はほんの一拍置いて言った。 怒鳴ることもできる。笑うこともできる。泣くこともできる。 でも出てきたのは、乾ききった本音だった。 「院長。もう、こんな仕事は請けないで下さい」  杉村院長は眉を上げる。驚いたようで驚いていないようで、相変わらず気楽だ。 「そんなに大変だった? 室井くんなら大丈夫だと思ってさ」  室井は数秒黙った。 八か月分の月曜三時、土曜深夜の暗転、着陸の「ドン」、部署長たちの『どうせなら』、医事課の算数、看護部の実務、システム管理室の『全部落ちる』、メーカーの『ベストプライス』、代理店の『これ以上無理』、問屋の『まとめ買い』、川鍋係長の涙――それらが胸の中で渦を巻く。

 そして、室井は言った。 「……大丈夫でしたよ。だから困るんです」 杉村院長は声を出して笑った。 「それが室井くんの強みだよ」  室井は、今度は少しだけ笑えた。 笑えるのが悔しくて、笑えるのが救いだった。 「強みは、ほどほどでいいです。次は……せめて二人にしてください」 杉村院長は軽く頷く。 「うん。検討する」  その「検討する」がどれほど軽いかを知りながら、室井は院長室を出た。 廊下の窓から朝の光が差し込む。月曜の朝だ。普通なら始まりの時間。 だが室井にとっては、ようやく終わりの時間だった。

 自宅の玄関を静かに閉めた、あの三時。 あれから八か月。  室井はもう一度だけ深く息を吐き、次の「なんとかなる」に備えるように、背筋を伸ばした。

 オープニングセレモニーが終わり、知事の拍手が遠ざかった翌週。 SMS病院の準備室は、あっけないほど静かに解散した。  壁一面を埋めていた工程表も、付箋も、物品番号の地図も、最後は段ボールに吸い込まれていく。 「図面地獄」だの「念のため死」だの、室井が冗談めかして書いたメモまで、誰にも惜しまれずに片づいた。 床に落ちた消しゴムかすだけが、冬の名残みたいに白く残っていた。

 川鍋係長は医事課へ戻った。 戻った瞬間、周囲の反応が変わった。 「川鍋さん、お疲れさまでした」 「よく開けましたね」 「準備室、相当大変だったと聞きましたよ」  川鍋は、いつも通り淡々と答える。 「ええ、まあ。皆で動けたところが大きかったと思います」  その「皆」の中に、室井の名前は出てこない。 ……が、室井も別に気にしない。自分は『外』の人間だ。評価は組織の中で回る。そういうものだ。  それに、室井は、あの病院で拍手をもらうより、週末に自宅の玄関の鍵が回る音のほうがありがたかった。

 そして、開院から数か月後。 川鍋係長は今回の実績を評価され、医事課課長に昇進した。  MGHで噂を聞いた室井は、思わず笑った。 「そりゃそうですよ。川鍋さんは建物側の調整を最後まで守り切った人ですから」  杉村院長は軽い調子で返す。 「うん、良かったじゃない。室井くんも功績者だよ」 「院長、功績者というより『都合が良かっただけ』です」 「似たようなもんだよ」 「ぜんぜん違います」

 そんなやり取りをして、季節が一つ回った。 ちょうど一年後の、ある平日の夕方。 MGH総合病院の廊下は、外来の波が引いたあとで、少しだけ広く感じた。  ワックスの匂いが残る床を、清掃カートが静かに通り過ぎる。自動ドアの向こうからは、冬の空気が入り込んで、受付の近くの観葉植物が少しだけ揺れていた。  室井は資料を抱えて歩きながら、ひと息ついた。 ――あの八か月に比べれば、いまの忙しさは『普通』だ。 『普通』という言葉が、いつの間にか贅沢になっていることに気づいて、苦笑する。

 そのとき、ポケットでスマホが震えた。 バイブの音が、妙に心臓に近い。 画面には見慣れた名前が出ている。 川鍋。 室井は窓際に寄り、ガラス越しに駐車場を見下ろしながら電話に出た。  夕暮れの光が、車の屋根にうっすら反射していた。 「もしもし、川鍋さん。久しぶりですね」 『室井さん、久しぶりです。元気ですか』  受話器の向こうの声は、いつもより明るい。 明るすぎる。  室井は嫌な予感がした。川鍋の『明るさ』は、たいてい何かを隠す前触れだ。 「何とかやってますよ。川鍋さんは?」 『こっちも何とか。……で、ちょっと報告があって』  室井は、資料を抱え直して、背中を壁につけた。 廊下の先で看護師が二人、何か話しながら歩いてくる。室井は会釈して、声を落とす。 「報告、ですか」 『私、事務長になりました』 「……事務長?」  一瞬、言葉が遅れて出た。 室井の頭の中で、「医事課課長」の次にそんな階段があったかどうか、急いで検索が走る。 「いや、早くないですか。課長になって一年ですよね?」 『そうです。自分でもちょっと笑いました』 「笑ってる場合じゃないですよ。何が起きたんですか」  川鍋の笑い声が、受話器越しに少し弾んだ。 その笑いに、室井は「理由」を確信した。 ――これは、普通に昇進した笑いじゃない。仕掛けた側の笑いだ。 『東京の法人本部に、病院建替えの実績をアピールしたんですよ』 「それは、まあ、普通ですよね。実績は実績ですし」 『普通じゃないのは、その『言い方』でして』

 室井は小さく息を吸った。 「……まさか」 『ちょっとだけ、私の手柄っぽく見せるのに成功しました』 「『ちょっとだけ』って言う人ほど、大きくやってますよ」 『室井さん、よくご存じで』 「いや、知りたくて知ってるわけじゃないです」

 川鍋は楽しそうに続けた。 『室井さんの実績を、私の実績にさせてもらったよ、ってくらいです』 「それ、ちょっとじゃないですよ。限度がありますよ」 『限度はありますね。だから、限度の『手前』で止めました』 「止まってませんよ。たぶん、もう越えてます」 『越えてないです。『気持ち』は越えてますけど』 「そこを越えたら終わりなんですよ」

 室井は言いながら、なぜか笑ってしまった。 腹は立つのに、川鍋の『言い逃げの上手さ』が、あの準備室の夜を思い出させて可笑しい。 「で、具体的に、誰に何を言ったんですか」 『そこ、聞きます?』 「聞きます。今後の反省材料にします」 『反省するのは私じゃないですか』 「私は『学習』します。次に巻き込まれないために」

 川鍋は咳払いをして、妙にきちんとした声になった。 『まず、法人本部の施設担当の部長、いますよね。建物と予算の人。 そこに最初に当てました。「竣工八か月前、購買計画が実質ゼロだった案件を、開院までに整えました」って』 「最初から強いワードですね。煽ってますね」 『煽ってません。『事実』です』 「事実の選び方が、煽りなんですよ」 『で、次に総務系の役員。そこには『数字』を出しました。 「見積の取り直しを何十件、仕様の統一で比較可能にして、総額を予算内に収めました」って』 「その『何十件』って言い方、便利ですよね。どれだけでも入れられる」 『言い方って大事なんですよ』 「それは分かりますけど、便利にしすぎです」 『さらに、医療部門の理事にも話しました。医師に強い人。 「部長医師の『どうせなら』を、使用頻度と稼働率で整理して、重点投資に振り分けました」って』

 室井は額に手を当てた。 「それ、私が各科で言って回ったやつじゃないですか」 『そうです。あのフレーズ、法人本部の人に刺さりますよ。 『重点投資』って言うと、皆さん好きなんです』 「刺さるのは分かります。刺さるのは分かるんですけど、刺しどころが私です」  川鍋は笑いながら、さらに具体を重ねてくる。 『で、最後に決めたのが、事務方のトップ。人事も握ってる人。 そこには『仕組み』で話しました。 「購買のルールを作って、稟議の迷いを潰して、部署間の揉め事を最小化しました」って』 「うわ、全部『自分がやった風』に聞こえる」 『『風』です。風。あくまで風』 「風で人を飛ばすのやめてください」 『でもね、最後に言った一言が効きました』

 室井は嫌な予感しかしなかった。 「何です」 『「病院は建物じゃない。中身を動かすのが事務だ」って』  室井は天井を見上げた。 あの夜、図面を前に川鍋がぽつりと言った言葉に、勝手に芯が通っている。 「それ、私が言ったっていうより、川鍋さんが言った『感想』ですよね。 それを決め台詞に昇格させるの、ずるいですよ」 『ずるいのは認めます。でも、効果は抜群でした。

 その役員、メモ取りながら頷くんですよ。「いいね」って』 「いいね、じゃないんですよ。軽いな……本部も」 『軽いのは、乗せやすいってことです』 「いや、そこを営業目線で言わないでください」

 川鍋は、嬉しそうに息を吐く。 『で、「誰がやったの?」って聞かれたんです』 室井は、嫌な予感を現実として受け止める準備をした。 「……何て答えたんです」 『「私が中心になって、準備室を回しました」って』 「中心って」 『『中心』って便利な言葉です』 「便利にしすぎです。限度がありますよ」 『ええ、だから続けて言いましたよ。 「外部から実務に強い人に入ってもらって、現場を回せた」って。 室井さんの名前は出してませんけど、『外部の実務者』は出しました』 「……いや、それ、薄くないですか。薄すぎません? 私の存在」 『薄いほうが、話が通るんです』 「通しやすさ優先で、人の実績を薄めるのやめてください」

 川鍋は笑いながらも、少しだけ声のトーンを落とした。 『でもね、室井さん。冗談抜きで、感謝してるんです。 室井さんが来なかったら、開院は間に合ってない。 だから、その実績を少し借りました。ごめん』

 室井は少し黙った。 廊下の空気が、ほんの少しだけ静かになった気がした。 遠くでストレッチャーの車輪が鳴る音がして、消えていく。 「……川鍋さん、謝るなら、せめて『少し』の量を調整してください」 『調整しました。室井さんの分、三割くらい』 「三割って言う人は、七割持っていきますよ」 『さすが。読みが鋭い』 「褒めないでください。腹が立つだけです」

 川鍋が、また少し明るい声に戻る。 『でも、その七割を持っていったおかげで、五十歳で事務長です。 定年まで十年もあるのにですよ?』 「それ、武勇伝にする話じゃないです」 『武勇伝にしないと、やってられないです』 「……それは分かります」  室井は小さく笑った。 本部に向けて、あの地獄を『物語』にして売り込んだ川鍋の図太さ。 それを腹立たしく思いながら、どこかで「適材適所だな」とも思ってしまう。  病院の組織は、正しいだけでは上がれない。 川鍋はそれを、骨の髄まで知っている。 「で、事務長になって、何が変わりました?」 『まず、電話の出方が変わりました。 「川鍋です」じゃなくて、「事務長の川鍋です」って言うと、相手が一拍置くんですよ。あれ、気持ちいいです』 「やめてください、そういう話。小学生みたいで腹立ちます」 『小学生の頃に戻った気分ですよ。五十歳で』 「言い方が上手いのが余計に腹立つ」

 川鍋はケラケラ笑って、少しだけ真面目に言った。 『室井さん、今度東京に来ることがあったら連絡ください。 事務長室、見せますよ。ちゃんとお礼もしたいし』 「お礼って、何するんです。私の実績、返すんですか」 『それは難しいです』 「難しいって言うな」 『でも、奢ります。お茶でも、ちゃんとしたの』

 室井は即答した。 「缶コーヒーだけは勘弁してください。もう一生分飲みましたから」 『分かりました。ちゃんとしたの用意します。今度は『ベストプライス』で』 「その言葉、やめてください。耳に残るんですよ」 『じゃあ、『適正価格』で』 「それなら、まあ」

 二人の笑いが重なった。 廊下の先で看護師が振り返って、少し不思議そうな顔をした。 室井は「すみません」と目で合図して、声をさらに落とす。 「川鍋さん、最後に一つだけいいですか」 『はい』 「……次の建替え案件、取りに行く気ですか」  川鍋は、間を置かずに答えた。 『もちろんです』 「もちろん、じゃないですよ。 それでまた『外部の実務者』を呼ぶんですか」 『いえいえ。今度は――』  室井は身構えた。 『『室井さんじゃなくても大丈夫』って言っておきますから』 「それ、一番怖いタイプの安心ですよ」 『安心ですよ。たぶん』 「たぶん、って言いましたよね」 『言いました』 「正直だなあ」 『室井さん、また何とかしてくれるかなって』 「しません。しない方向で検討します」 『検討、って軽いですね』 「院長の口癖が感染しました」

 川鍋が笑う。 『じゃあ、また連絡します』 「しないでください。……いや、連絡はしてもいいですけど、案件は持ってこないでください」 『努力します』 「努力で済ませる話じゃないです」 『そこも含めて、努力します』 「含めなくていいです」  二人が笑ったところで、通話が終わった。 室井はスマホをポケットに戻し、廊下を歩き出した。 胸の中に、少しだけ熱が残っている。理不尽で腹立たしいのに、どこか可笑しい。

 そして室井は小さく呟いた。 「……次の電話は、出ないようにしよう」 出ない。 出ないはずだ。  だが室井は、自分がまた『なんとかしてしまう』人間だということを、誰よりよく知っていた。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.