リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

昭和青春文化・作家再発見シリーズ

昭和青春文化・作家再発見シリーズ

いま映画を見ようと思えば、スマートフォンを取り出して検索すればいい。上映中の作品も、映画館の場所も、開始時刻も、空席も、その場で分かる。コンサートに行きたければアーティスト名を検索し、演劇を見たければ劇団の公式サイトを開けばいい。便利になったというより、私たちは「情報を探している」という感覚さえ持たなくなった。

けれども、かつて東京で映画を見ようと思った若者は、そう簡単には目的の映画へたどり着けなかった。ロードショーが終わった作品が、どこの二番館に移ったのか。小さな劇場で面白そうな芝居をやっていないか。名前だけ聞いたバンドは、今月どこでライブをするのか。情報は確かに存在していたが、それぞれ別の場所に散らばっていた。

その散らばった文化情報を、一冊の雑誌の中に集めてしまったのが『ぴあ』だった。

1972年7月、当時大学生だった矢内廣らによって創刊された『ぴあ』は、映画、演劇、コンサートなどの情報をまとめた月刊誌として出発した。当時は「情報誌」という言葉そのものが一般的ではなかったという。ぴあ株式会社自身が後に『ぴあ』を「文化・街歩きの道しるべ」と表現しているのは、この雑誌が果たした役割をよく表している。

しかし、『ぴあ』が若者の必需品になった理由は、単に情報量が多かったからではない。

そこには、インターネットが存在しなかった時代ならではの、「自分で文化を探す」という行動の形があった。

見たいものがあっても、どこで見られるか分からなかった

『ぴあ』誕生の原点には、ひどく実用的な不便があった。

創刊者の矢内廣は映画好きの学生だったが、ロードショー料金は学生には高かった。そのため、ロードショーが終わった映画を二番館、三番館で安く見る。しかし問題は、その映画が次に「いつ、どこの映画館にかかるのか」を簡単に知る方法がなかったことだったという。そこで映画情報を一冊にまとめ、さらに演劇や音楽、美術展なども加えれば便利なのではないかという発想が生まれた。

この話は、現代から見ると意外なほど重要である。

現在なら、私たちは作品名から場所を探す。しかし当時は、作品を知っていても場所が分からないことがあり、逆に町を歩いて初めて面白そうな映画や芝居に出会うこともあった。

つまり文化と人との間に、いまよりはるかに大きな「情報の距離」が存在していた。

『ぴあ』は、その距離を縮めた。

しかし、距離を完全になくしたわけではない。むしろ、この中途半端さこそが面白かった。

ページをめくっていると、目的だった映画の隣に知らない映画が載っている。その下には小劇場の公演があり、さらにページを進めれば聞いたことのないミュージシャンのライブがある。

検索ではない。

一覧するのである。

ここに、現在のインターネットとの決定的な違いがある。

『ぴあ』を読むことは、予定を立てることだった

『ぴあ』は、一般的な雑誌のように文章を順番に読むものではなかった。

買ったらページをめくりながら、映画のタイトルを見る。上映館を確かめ、上映時間を見る。コンサートの日程を調べ、劇場の場所を確認する。そして、「土曜日はここへ行こう」と考える。

つまり『ぴあ』は、読む雑誌であると同時に、行動を組み立てる道具だった。

これは旅行における時刻表に少し似ている。

鉄道時刻表を読む人が、列車の発車時刻だけを見ているわけではないように、『ぴあ』を開く若者も、単に上映時間だけを調べていたのではない。その情報を組み合わせながら、自分の一日を設計していた。

午後から映画を一本見る。そのあと新宿を歩き、夕方からライブを見る。途中で喫茶店に入るかもしれない。本屋にも寄るかもしれない。

『ぴあ』に載っていたのはイベント情報だったが、その向こう側にあったのは「自分は今度の休日をどう過ごすか」という生活そのものだった。

だから、一冊の雑誌が若者のバッグの中に入った。

読み終えれば捨ててしまう雑誌ではなく、何度も開く必要があったからである。

若者は『ぴあ』によって東京を覚えていった

情報を調べることと、街を知ることもまた、当時は切り離せなかった。

1979年、『ぴあ』誌上に「ぴあMAP」が登場する。最初に扱われたのは新宿東口だった。映画館、劇場、ライブハウス、美術館などを載せる一方、一般的な地図に必要な行政界などは省き、実際に歩いて道路を確認して作られたという。その後、この地図は若者から支持され、1982年にはムックとして刊行された。

ここには、『ぴあ』という雑誌の性格がよく表れている。

普通の地図が「街そのもの」を描くのだとすれば、『ぴあ』の地図は「遊ぶための街」を描いていた。

新宿、渋谷、池袋、銀座、下北沢。

街の名前は単なる地名ではなく、「映画を見る街」「ライブへ行く街」「芝居を見る街」という文化的な意味を持つようになる。

地方から東京へ出てきた学生にとってはなおさらだっただろう。東京という巨大な都市は、最初から理解できる場所ではない。しかし『ぴあ』を開き、映画館へ行き、劇場へ行き、その間を歩くうちに、街の位置関係が身体の中に入ってくる。

そう考えると、『ぴあ』は情報誌であると同時に、一種の都市案内書でもあった。

東京という街の使い方を教える雑誌だったのである。

有名なものと無名なものが、同じページに並んでいた

『ぴあ』にはもう一つ、当時としては特徴的な思想があった。

ぴあ株式会社が振り返っている創刊当時の編集方針には、客観情報を中心として批評性をできるだけ排し、情報を選ぶのは読者自身であるという考え方があった。さらに、メジャーなものとマイナーなものを平等に扱うことも掲げられていた。

この思想は、『ぴあ』が若者に支持された理由を考えるうえで非常に重要である。

評論家が「この映画を見るべきだ」と決めるのではない。編集者が「今年はこれが流行する」と教えるのでもない。

情報を並べる。

そして、自分で選ぶ。

いまでは当たり前に見える考え方だが、これは1970年代という時代の空気ともつながっていた。学園紛争の熱が冷め、従来の権威への距離感が生まれる一方で、フォークソングやミニコミ誌など、それまでの大手メディアとは異なる若者文化が広がっていた。矢内自身も、そうした時代背景の中で『ぴあ』が生まれたことを語っている。

だから『ぴあ』には、どこか民主的なところがあった。

大スターの公演も、小さな劇団の芝居も、名画座の古い映画も、ページの中では「今日見ることのできるもの」として並ぶ。

若者はその中から自分で選ぶ。

その選択の積み重ねによって、「自分の趣味」が出来上がっていったのである。

表紙を見るだけで『ぴあ』だと分かった

そして忘れてはならないのが、及川正通による表紙である。

1975年から始まった独特の似顔絵風イラストは、長く『ぴあ』の顔になった。書店や駅の売店で並んでいても、タイトルを確認する前に「あ、ぴあだ」と分かるほど強い個性を持っていた。ぴあの資料によれば、情報誌『ぴあ』は最盛期に発行部数約80万部に達し、最終的には通巻1341号まで続いた。

中身は徹底して実用的なのに、表紙は遊んでいる。

この組み合わせも『ぴあ』らしかった。

時刻や場所や料金という無機質なデータだけを詰め込めば、単なる情報一覧になってしまう。しかし、あの表紙が付くことで、『ぴあ』そのものが若者文化の一部になった。

バッグから取り出したとき、それが何の雑誌であるかを説明する必要はなかった。

『ぴあ』を持っていることそのものが、「映画や音楽や芝居に関心のある人」という小さな自己表現にもなっていたのである。

そして「情報」と「チケット」がつながった

『ぴあ』の発展を考えると、1984年の「チケットぴあ」開始は自然な出来事だったようにも見える。

映画やコンサートの情報を知れば、次に必要になるのはチケットである。それまで情報を提供していた会社が、コンピュータのオンラインネットワークを使ったチケット販売へ進む。ぴあはこの時期、自らを単なる出版社ではなく「情報流通業」と捉えるようになっていった。

これはかなり先進的な発想だった。

雑誌を売ることが目的なのではない。

人が「何かを見たい」と思い、その情報を知り、実際に会場へ行く。その一連の流れを支えることが事業だった。

だから『ぴあ』という雑誌は、最初から普通の雑誌とは少し違っていたのかもしれない。

記事そのものを読むために買うというより、その先にある現実の体験へ行くために買う。

紙面は目的地ではなく、入口だったのである。

『ぴあ』の最大の魅力は、知らないものが目に入ることだった

ところが、この仕組みを現在のインターネットと比較すると、意外な逆転が見えてくる。

情報量では、もちろんインターネットの方が圧倒的に多い。

映画一本を調べるだけでも、上映時間だけでなく、予告編、出演者、レビュー、座席状況まで分かる。『ぴあ』の時代には想像できなかったほど便利である。

しかし便利になった結果、私たちは「自分が探していない情報」に出会いにくくなった。

検索窓に映画名を入れれば、その映画の情報が出る。

音楽配信サービスを使えば、これまでの視聴履歴から自分が好きそうな曲が推薦される。

つまり現代の情報環境は、自分の好みを知れば知るほど、自分の好みに合ったものを見せてくれる。

『ぴあ』は逆だった。

必要な映画の上映時間を探しているだけなのに、隣に知らない映画が載っている。

その下を見ると、聞いたこともない劇団の名前がある。

さらにページをめくれば、美術展がある。

情報が整理されているのに、そこには偶然が残っていた。

この「予定していなかった出会い」が、『ぴあ』を読む楽しさのかなり大きな部分だったのではないだろうか。

お金のない若者ほど『ぴあ』を必要とした

もう一つ、当時の若者文化を考えるときに重要なのは、若者には今も昔も、それほどお金がないという単純な事実である。

だからこそ、安く映画を見る方法を探す。

どこかで自主映画を上映していないか調べる。

小劇場へ行く。

まだ有名になる前のミュージシャンを見る。

限られたお金で、できるだけ面白いものに出会いたい。

『ぴあ』は、そのための道具として非常に合理的だった。

これは高級な文化を紹介する雑誌ではない。

むしろ、財布の中身が乏しい若者が、それでも映画を見たい、音楽を聴きたい、芝居を見たいと思ったときに役に立つ雑誌だった。

創刊そのものが「ロードショーは高いから、安くなった映画を見たい」という学生の感覚から始まっているのだから、当然なのかもしれない。

『ぴあ』には、文化を楽しむためには大金が必要だという発想がなかった。

必要なのは、少しの金と時間と情報だった。

その情報を提供したのである。

インターネットが『ぴあ』の役割を引き継いだ

『ぴあ』は2011年7月、39年の歴史を経て休刊した。

しかし、それを単純に「雑誌がインターネットに負けた」と考えると、本質を見失う。

なぜなら、『ぴあ』が目指していたものとインターネットには、よく似たところがあるからだ。

情報を集める。

できるだけ広く提供する。

権威が選んだものだけではなく、多様な選択肢を並べる。

そして、最終的に何を見るかは利用者自身が決める。

ぴあ株式会社自身も、創刊時の「送り手と受け手がフラットである」という思想を、後のインターネットの考え方と重なるものとして振り返っている。

そう考えると、『ぴあ』はインターネットによって否定された雑誌というより、インターネット以前にインターネット的なことを紙でやっていた雑誌だった、と考えた方が正確なのかもしれない。

紙という限界の中で、都市に存在する文化情報をできるだけ集め、一冊の中から利用者自身が選ぶ。

その仕組みそのものが新しかったのである。

若者が失ったのは『ぴあ』ではなく、「探す時間」なのかもしれない

それでも、『ぴあ』がなくなったことに、どこか寂しさを感じる人は少なくないだろう。

それは紙の雑誌が一冊なくなったからだけではない。

文化との出会い方が変わったからである。

かつては『ぴあ』を買い、ページをめくり、丸を付ける。友人と相談する。地図を見る。電車に乗る。駅を出て、少し迷いながら映画館やライブハウスを探す。

その一連の行動全部が、映画を見ることや音楽を聴くことの一部だった。

現在なら数分で終わる情報収集に、昔はずいぶん時間がかかった。

けれども、その不便な時間の途中で、知らない映画を知り、知らない街を歩き、知らない店に入り、予定していなかったものに出会った。

便利になるとは、目的地へ早く到着できることである。

しかし目的地へ早く到着できるようになればなるほど、途中で何かに出会う機会は減っていく。

『ぴあ』が若者の必需品だった理由は、そこに必要な情報が載っていたからである。

けれども、長い時間を経て振り返ってみれば、それだけではなかったことに気づく。

あの小さな文字が並んだページを眺めながら、

「今度の日曜日、どこへ行こうか」

と考える。

その瞬間、まだ行ったことのない映画館も、知らないバンドも、歩いたことのない街も、自分の未来の選択肢になった。

『ぴあ』が売っていたのは、映画情報でも、コンサート情報でもなかったのかもしれない。

若者が自分自身で休日を選び、自分自身で街へ出て、自分自身の好きなものを見つけていくための、無数の入口だったのである。

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伊丹十三について語ろうとすると、いつも一つの困難にぶつかる。俳優、映画監督、エッセイスト、商業デザイナー、テレビ制作者、雑誌編集者、イラストレーター。肩書を並べれば並べるほど、かえって彼が何者だったのか分からなくなるのである。多才だった、という言葉でまとめることもできる。しかし、それでは伊丹十三という人物の輪郭を十分に捉えたことにはならない。

むしろ彼の仕事を長い時間軸で眺めてみると、そこには一つの共通した姿勢が見えてくる。伊丹十三は、生涯にわたって「人間が日常をどのように生きているか」を見続けた人だったのではないか。

食べること、着ること、買うこと、車を運転すること、人と話すこと、子どもを育てること、病院へ行くこと、葬式を出すこと。私たちの生活は、そのような無数の行為によってできている。しかし普通、それらについて深く考えることはない。毎朝コーヒーを飲むとき、なぜこの器を使うのかとは考えない。店で物を買うとき、売る側と買う側との間にどのような心理が働いているかを分析したりもしない。葬式に参列すれば周囲に合わせて頭を下げ、決められた順序に従って動く。それで日常生活は問題なく進んでいく。

伊丹十三は、そこで立ち止まることのできる人だった。

なぜ人間は、この場面でこのように振る舞うのだろう。なぜこちらの国では自然に見える仕草が、別の国では不自然に見えるのだろう。なぜ便利なはずの道具が、使い方ひとつでみっともなく見えるのだろう。なぜ誰もが当然だと思っている習慣に、これほど妙なところがあるのだろう。

この「なぜ」が、伊丹十三の文章と映画を貫いている。

彼の初期のエッセイを読むと、そのことがよく分かる。外国へ出かけても、彼の関心は名所旧跡だけに向かわない。むしろレストランで人がどのように注文するのか、料理をどう食べるのか、車をどう扱うのか、服をどう着るのかといった、ごく普通の生活の細部へ向かっていく。そこで彼は、日本と外国の違いを大上段から論じるのではなく、目の前で起きている小さな出来事から考え始める。

一見すると、それは趣味や生活作法の話に見える。けれども、読み進めていくと、その向こう側から社会が姿を現す。食べ方には階級意識や家庭教育が現れ、服装には身体に対する感覚が現れ、サービスの仕方には人間関係についての社会的な考え方が現れる。車の扱い方一つをとっても、その国の道具観や公共意識が透けて見える。

伊丹十三が優れていたのは、こうした細部を単なる雑学として終わらせなかったことである。小さな生活習慣から、その背後にある大きな構造を感じ取っていた。

おそらく彼にとって、文化とは美術館や劇場の中だけにあるものではなかった。文化は食卓にもあり、商店にもあり、台所にもあり、道路にもあり、家族の会話にもある。人間が長い時間をかけて身につけてきた振る舞いそのものが文化なのである。

だから伊丹十三の文章には、独特の「見る速度」がある。

多くの人が何も考えず通り過ぎるところで、彼だけが速度を落とす。そして眺める。少し角度を変えて見る。外国と比べてみる。過去と比べてみる。自分の感覚を疑いながら、それでももう一度見る。そのうち、それまで平凡だった風景の中から妙なものが浮かび上がってくる。

この力は、後年の映画にそのまま受け継がれていった。

『お葬式』という題名を改めて考えてみれば、それだけでも伊丹十三の映画が普通ではなかったことが分かる。葬式は誰にでも関係する。しかし、映画の題材として考えれば華やかではない。主人公が世界を救うわけでもなければ、壮大な歴史が展開するわけでもない。親族が集まり、僧侶を迎え、慣れない儀礼を行い、周囲に気を遣いながら故人を送り出す。

ところが、そこには驚くほど多くの人間の姿がある。悲しみながらも段取りを気にする人がいる。作法を知らず戸惑う人がいる。世間体を考える人がいる。専門家に任せるしかないこともある。厳粛であるはずの場に、どこか滑稽さも入り込んでくる。

伊丹十三は、その矛盾を見逃さなかった。

人間は、悲しいときでさえ完全に悲しみだけの中にはいられない。お腹も減るし、電話も鳴るし、金のことも考えなければならない。人生の重大事のすぐ隣に、どうでもよい日常が存在している。そこに人間のおかしさがある。

伊丹映画のユーモアは、人を上から笑うものではない。むしろ、人間という存在そのものが持っている不格好さを見つめるところから生まれている。

『タンポポ』も同じである。ラーメン一杯という極めて日常的な対象から、伊丹十三は一つの世界を作り出した。食べることは誰もが毎日繰り返している。それにもかかわらず、いざ真正面から眺めてみると、そこには欲望も技術も美意識も競争もある。料理する者と食べる者がいて、上手な者と下手な者がいて、知識を誇る者もいれば、ただ純粋においしいものを食べたい者もいる。

ラーメンを描きながら、結局は人間を描いているのである。

『マルサの女』では税金という、普通なら映画から最も遠そうな世界を題材にした。『スーパーの女』では食品スーパーの売り場が物語の舞台になる。伊丹十三にかかると、税務署もスーパーも、一つの社会として見えてくる。そこには独自の言葉があり、慣習があり、専門知識があり、権力関係があり、善意も悪意も欲望もある。

彼が特別だったのは、非日常的な出来事を見つける能力ではなく、日常そのものの中に劇を見つける能力だったのだろう。

では、なぜ伊丹十三にはそれができたのか。

一つには、彼が「編集する人」だったことが大きいように思う。

編集という仕事は、何もないところからすべてを生み出す仕事ではない。すでに存在しているものを見つけ、選び、順序を与え、並べ直すことによって、新しい意味を生み出す仕事である。写真を一枚選ぶ。文章の位置を変える。余計なものを捨てる。二つの出来事を隣に置く。ただそれだけで、世界の見え方が変わる。

伊丹十三は商業デザインや編集の仕事を経験していた。その感覚は、後の文章にも映画にも深く残っている。

彼は、生活の中から素材を拾ってくる。食事を拾う。服装を拾う。車を拾う。葬式を拾う。税金を拾う。スーパーを拾う。そして、それらをいつもとは少し違う場所に置いてみせる。

すると読者や観客は、「こんなものが面白いのか」と驚く。

けれども伊丹十三が面白いものを発明したわけではない。もともとそこにあったものを、私たちが面白いと気づく位置まで動かしたのである。

ここに、彼が日常生活を「文化」に変えることができた理由がある。

文化という言葉には、ときとして大げさな響きがある。文学、絵画、音楽、思想。長い歴史を持つ作品だけが文化であるかのようにも感じられる。しかし、文化をもう少し広く捉えるならば、人間が繰り返してきた生活の型もまた文化である。

家族がどこに座って食事をするか。人前で何を恥ずかしいと思うか。祝い事のときに何を食べるか。客にどう接するか。死者をどのように送るか。

そうしたものは、誰か一人が決めたわけではない。無数の人間が長い時間をかけて作り、次の世代へ渡してきたものである。

伊丹十三は、それを見ていた。

だから彼が洋服について書けば、それは単なるファッションの話ではなくなる。料理について書けば、単なるグルメ談義ではなくなる。外国について書いても、単なる旅行記にはならない。

伊丹十三の文章には、美意識と同時に倫理があるからである。

どの服が格好いいかということだけではなく、人間は物をどう扱えばよいのか。どの料理がおいしいかということだけではなく、食べるという行為をどのように楽しむべきなのか。どこの国が優れているかということではなく、自分たちはなぜこのような振る舞いをしているのか。

その問いは、最後には自分自身へ戻ってくる。

彼は外国を使って日本を見た。そして日本を語りながら、人間そのものを見ていたのである。

そこには、伊丹十三特有の距離感がある。

完全に外側へ出るのではない。しかし、中に埋没もしない。

日本人として日本の生活を知りながら、ほんの少しだけ外側へ立ってみる。その半歩ほどの距離から眺めると、日常の奇妙さがよく見える。

考えてみれば、優れたエッセイストにはこの距離感が必要なのだろう。

生活に近すぎれば、すべてが当たり前になってしまう。遠すぎれば、生活の温度が失われる。

伊丹十三は、その中間に立っていた。

だから彼の文章を読んでいると、「自分も見たことがある」と思うのに、「そんなふうに考えたことはなかった」と感じる。

これは、非常に不思議な読書体験である。

未知の世界を教えられたのではない。むしろ、自分が毎日暮らしてきた世界を改めて見せられている。

本当の意味での観察とは、そこにあるものを発見することだけではないのかもしれない。見慣れすぎて見えなくなったものを、もう一度見えるようにすることである。

伊丹十三は、それができた。

そして、その能力は単なる知識の豊富さから生まれたのではない。彼には、自分自身の感覚を信用する強さがあったのだと思う。

世間では普通とされている。しかし、自分には何となくおかしく見える。

多くの人が気にしていない。しかし、自分には気になる。

普通なら、そこで自分の感覚を引っ込めてしまう。みんなが何も言わないのだから、たぶん自分の方がおかしいのだろう、と考える。

伊丹十三は、そこで考えることをやめなかった。

この違和感はどこから来るのだろう、と掘り下げていった。

その姿勢が、彼の文章に独自の切れ味を与えた。

文化を見るということは、結局、違いを見ることでもある。

美しいものと美しくないもの。自然な振る舞いと不自然な振る舞い。合理的な仕組みと不合理な仕組み。品のある態度と品のない態度。

伊丹十三は、その境界線に敏感だった。

もちろん、その判断には彼自身の好みもあった。すべてが普遍的な基準だったわけではない。それでも彼の文章が今なお魅力を失わないのは、結論そのものよりも、物事を見る過程が面白いからである。

何となく感じる。

よく見る。

比較する。

考える。

言葉にする。

この繰り返しによって、日常の風景に意味が生まれていく。

伊丹十三が教えてくれるのは、文化とは最初から立派な姿で存在しているものではないということなのかもしれない。

文化は、生活の中に沈んでいる。

食卓にも、道路にも、衣服にも、店にも、家族の会話にも、人間の癖にも沈んでいる。

しかし、それはあまりにも近くにあるため、普通は見えない。

伊丹十三は、その沈んでいるものを一つずつ拾い上げた。

そして文章にし、映像にした。

すると、それまで何でもなかった行為が、急に興味深いものに見えてくる。

自分が箸を持つ手まで気になってくる。店員との会話まで気になってくる。スーパーの商品棚の並び方まで気になってくる。葬式の席で人々がどのように振る舞うのかまで見えてくる。

世界が少しだけ濃くなるのである。

だから伊丹十三の仕事を「生活文化」と呼ぶだけでも、まだ十分ではないように思う。

彼は、生活を文化へ格上げしたわけではなかった。

もともと生活の中に文化があることを発見し、それを私たちにも見えるようにした。

おそらく、そこに伊丹十三という人のもっとも大きな才能があった。

特別な場所へ出かけなくても、人間について考える材料は目の前にある。大事件が起こらなくても、社会は毎日の暮らしの中に現れている。難しい思想書を開かなくても、人間が何を大切にしているかは、その人の食べ方や話し方や物の扱い方に現れる。

伊丹十三は、そうした小さな事実を軽く扱わなかった。

それどころか、小さな事実の方が人間について多くを語ることを知っていた。

伊丹十三が見ていたのは、遠いところにある「文化」ではない。

毎朝起きてから夜眠るまで、私たちが無意識のうちに繰り返している、その生活そのものだった。

そして彼の文章や映画に触れたあと、私たちは少しだけ以前とは違う目で、自分の暮らしを見るようになる。

それこそが、伊丹十三が日常生活を「文化」に変えたように見える、本当の理由なのだろう。

彼は日常を別のものに変えたのではない。

日常の中に、最初から文化があったことを見つけたのである。

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向田邦子の文章を読んでいると、ときどき不思議な気持ちになる。

そこに書かれているものは、決して特別なものではない。食卓があり、父親がいて、母親がいて、姉妹がいる。台所から匂いがして、誰かが機嫌を損ね、誰かが黙り込み、また何事もなかったように夕飯が始まる。

世界を揺るがすような事件が起きるわけではない。

それなのに、何十年も前に書かれた文章の一節が、妙に鮮やかにこちらへ届いてくる。

古い写真を見ているのとは少し違う。写真なら、そこに写っている髪型や服装や家具を見て、「昔だな」と思う。しかし向田邦子の文章を読んでいると、昔を見ているはずなのに、いつの間にか自分の家のことを考えている。

父親の咳払い。

母親の台所仕事。

食卓で交わされる、どうでもいいような会話。

子供のころには気づかなかった、大人たちの小さな嘘。

そういうものが、文章の向こう側から静かに立ち上がってくる。

向田邦子の文章が今も美しい理由は、昭和を書いたからではない。

昭和という時代を借りながら、その奥にある、人間が家族と暮らすときの「どうにも説明できない感情」を書いたからなのだと思う。

美しい文章なのに、美しく見せようとしない

文章の美しさというと、私たちはつい華麗な比喩や、難しい言葉や、長く流れるような文体を想像する。

しかし向田邦子の文章は、そういう美しさとは少し違う。

むしろ、言葉は驚くほど普通である。

普通の言葉を普通に並べているように見える。

ところが読み終えると、一枚の絵が残っている。

それも、輪郭のはっきりした絵ではない。

夕方の台所の明かりであったり、食卓の上に置かれた皿であったり、黙って新聞を読んでいる父親の横顔であったりする。

向田邦子は、読者に「ここで感動してください」と言わない。

悲しい場面でも、悲しいと大声で言わない。

寂しい人間が出てきても、「この人は寂しい人なのです」と説明しない。

その代わり、ちょっとした仕草を書く。

返事の間を書く。

食べものを書く。

着ているものを書く。

人間というものは、本当に悲しいときほど「私は悲しい」とは言わない。

むしろ味噌汁をすすったり、窓を閉めたり、テレビをつけたりする。

向田邦子は、そのことをよく知っていた。

だから文章が芝居がからない。

読者が感動するための場所を、作者が先回りして埋めてしまわないのである。

文章の中に、少しだけ空白が残されている。

その空白に、読者自身の記憶が入り込む。

そこに、向田邦子の文章の強さがある。

食べものを書けば、人間が見えてくる

向田邦子の文章には、食べものがよく似合う。

豪華な料理である必要はない。

むしろ、家庭の中にあるごく普通の食べもののほうがいい。

汁物、煮物、漬物、御飯。

そうしたものを書いているだけなのに、家族の姿が見えてくる。

考えてみれば、家族ほど不思議な集団はない。

会社なら嫌いな人とは距離を置ける。友人なら付き合わなくなることもできる。しかし家族は、腹を立てながら同じ鍋をつつき、口をきかなくても翌朝には同じ味噌汁を飲んでいたりする。

そこには愛情もある。

しかし愛情だけではない。

鬱陶しさもある。

嫉妬もある。

諦めもある。

それでも同じ卓袱台を囲んでいる。

向田邦子の描く食卓が美しいのは、家庭を理想化していないからだ。

仲のよい家族という、きれいな額縁には入れない。

父親には父親の勝手があり、母親には母親の我慢があり、子供には子供の反抗がある。

誰も完全には善人ではない。

それでも夕飯になると、みんなが集まってくる。

人間は理屈で家族をしているわけではない。

この当たり前だが説明しにくい事実を、向田邦子は料理の湯気の向こうから見せてくる。

昭和の父親を、単純な悪役にしなかった

向田邦子の世界には、昭和の父親がいる。

今の感覚で見れば、かなり横暴な父親もいる。

家では威張り、妻や子供に厳しく、自分の都合を押し通す。今日なら到底そのまま肯定されないような人物も少なくない。

しかし向田邦子は、そういう父親を単純な悪役にしなかった。

そこが重要である。

人間は、悪いところだけを切り取れば悪人になる。

よいところだけを集めれば聖人になる。

しかし現実の人間はそんなふうにはできていない。

腹を立てるほど嫌なところがあるのに、死んでしまえば思い出す。

怖かった父親の背中に、ある日突然、小ささを感じる。

子供のころには絶対者に見えた人が、こちらが大人になって振り返ると、実は一人の不器用な男にすぎなかったことに気づく。

向田邦子は、その距離を書く。

子供から見た父。

大人になって思い出す父。

生きている父。

記憶の中の父。

同じ人物なのに、見る場所によって姿が変わる。

人を理解するということは、相手の性格を分析することではなく、その人を見る自分自身もまた変わっていくことなのだと、彼女の文章は教えてくれる。

だから向田邦子の家族像は古びない。

父権的な家族制度そのものは変わっても、「親を完全には理解できない子供」と「子供には理解されない親」という関係は、今もほとんど変わっていないからである。

記憶には、いつも少し嘘がある

子供のころの家を思い出してみる。

不思議なことに、間取りの全部は思い出せないのに、どうでもよいものだけが残っている。

柱についた傷。

食器棚の取っ手。

雨の日の玄関の匂い。

誰かが着ていたセーター。

夕食前に流れていたテレビの音。

人間の記憶とは、歴史年表のようにはできていない。

重要な出来事から順番に残っているわけではない。

むしろ、何の意味があるのか分からない断片ばかりが残る。

向田邦子の文章は、この記憶の仕組みによく似ている。

だから読んでいると、読者の中に眠っていた記憶まで引き出される。

「ああ、こういうことがあった」

と思う。

しかし実際には、向田邦子と同じ経験をしたわけではない。

時代も家も家族も違う。

それでも懐かしい。

文学の不思議はここにある。

優れた文章は、作者の記憶を書いているはずなのに、いつの間にか読者自身の記憶へ変わってしまう。

向田邦子は、その変換が驚くほどうまい。

人間のおかしさを知っている文章

向田邦子の文章には、悲しさと一緒に、どこかおかしさがある。

ここも大きな魅力だと思う。

人間は、悲劇の中でも妙なことをする。

深刻な場面なのに腹が減る。

喧嘩をしている最中に、鍋が吹きこぼれる。

泣いていた人が、突然くしゃみをする。

葬式の日にも誰かが靴を間違える。

現実の人生とは、本来そういうものなのだろう。

悲しい日だから一日中悲しい音楽が流れるわけではない。

深刻な出来事の横に、くだらない出来事が普通に置いてある。

向田邦子は、この人生の「調子の外れ方」をよく知っている。

そのため文章が湿っぽくならない。

哀しい話を書いていても、どこか乾いている。

乾いているからこそ、かえって哀しさが残る。

読者を泣かせようとする文章より、泣かせようとしない文章のほうが、人を泣かせることがある。

向田邦子の文章には、その逆説がある。

説明しすぎないから、時代を越える

現代の文章は、説明が多い。

何が問題なのか。

誰が悪いのか。

なぜそうなったのか。

どう考えるべきなのか。

情報を伝える文章なら、それは必要である。

しかし文学では、説明するほど消えてしまうものもある。

たとえば、ある夫婦の間に流れている微妙な空気を、「二人の関係は冷え切っていた」と書けば、一行で説明できる。

けれども向田邦子なら、おそらく別のものを書く。

茶碗の置き方かもしれない。

呼び方かもしれない。

夫が帰ってきたときの妻の返事かもしれない。

人間関係というものは、説明ではなく、そうした細部に現れるからだ。

文章が美しいというのは、飾られていることではない。

必要以上に言わないことで、見えないものまで見えるようにすることなのだろう。

向田邦子の文章には、その節度がある。

読者を信用している文章、と言ってもいい。

全部説明しなくても、読者は分かる。

全部言わなくても、読者には届く。

その信頼が文章を軽くし、同時に深くしている。

昭和を書いたのではなく、「失われていくもの」を書いた

向田邦子を読むと、昭和という時代への郷愁を感じる人は多いだろう。

しかし彼女の文章を単なる昭和懐古として読むと、大切なものを取り逃がす気がする。

向田邦子が書いたのは、昭和そのものではない。

失われていくものではなかったか。

家族の形。

食卓。

父親。

母親。

若かった自分。

子供だった自分。

誰かと過ごした時間。

そのときには何とも思わなかったものが、失ってから初めて意味を持つ。

これは昭和だけの話ではない。

令和を生きる私たちも、今この瞬間、何かを失いつつある。

家族と食べている夕飯も、毎日見ている部屋も、電話をかければ声を聞ける人も、永遠には続かない。

だが私たちは、続いている間はその価値に気づかない。

向田邦子の文章を読んでいると、その当たり前のことを、不意に思い知らされる。

だから懐かしいのだ。

昔が懐かしいのではない。

失ってしまったものを持っていた自分が懐かしいのである。

美しい文章とは、記憶に残る文章なのかもしれない

向田邦子の文章を読み終えたあと、難しい言葉はほとんど残らない。

思想を一文で説明しろと言われても、案外困る。

しかし、景色が残る。

人が残る。

匂いが残る。

食卓の音が残る。

そして数日後、スーパーで昔ながらの惣菜を見かけたり、古い食器を手に取ったりしたとき、突然その文章を思い出す。

これこそ文章の強さなのだと思う。

読んでいる間だけ感心させる文章はたくさんある。

しかし本当に美しい文章は、本を閉じたあとから始まる。

日常のどこかに潜み込み、何でもない瞬間にふっと戻ってくる。

向田邦子の文章は、そういう文章である。

彼女が書いた昭和の家は、もうほとんど残っていない。

卓袱台を囲む家族も減った。

父親の権威も変わった。

食生活も変わった。

電話もテレビも、家族の会話の仕方さえ変わった。

それでも、人は家族に腹を立てる。

言わなくていいことを言い、言うべきことを言わない。

愛している人に素直になれず、いなくなってから思い出す。

その部分だけは、あまり変わらない。

だから向田邦子は古くならない。

彼女が書いていたのは、昭和の茶の間ではなく、その茶の間に座っていた人間だったからである。

そして人間というものは、時代が変わっても、驚くほど同じところで笑い、同じところで腹を立て、同じように後悔する。

向田邦子の文章の美しさとは、結局そこにあるのではないだろうか。

大げさな人生を書かずに、人生そのものを書いてしまう。

特別な言葉を使わずに、忘れられない文章を残してしまう。

そうして私たちは、何十年も前の昭和の食卓を読みながら、いつの間にか自分自身の家族を思い出しているのである。

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筒井康隆の小説を読んでいると、ときどき自分が何を読んでいるのか分からなくなる。

笑っていたはずなのに、いつの間にか怖くなっている。現実の話だと思っていたら、その現実自体がどこか怪しくなってくる。真面目な社会の話が突然ばかばかしい方向へ暴走し、逆に、ばかばかしい話を読んでいたはずなのに、最後には社会そのものの異様さを見せつけられる。

普通の小説なら、作者は読者を物語の中へ連れていこうとする。しかし筒井康隆は、ときどき物語そのものを揺さぶり、読者が安心して寄りかかっていた前提まで壊してしまう。

それは偶然ではない。

どうやら筒井康隆という作家は、私たちが「小説とはこういうものだ」「社会ではこう振る舞うものだ」「これは普通で、これは普通ではない」と無意識に決めている、その境界線を見つけると、そこを押してみたくなる人なのである。

では、なぜ彼はこれほど長いあいだ「常識」を壊し続けてきたのだろうか。

SFは、常識を疑うための装置だった

筒井康隆は1934年に大阪市で生まれた。1960年には弟たちとSF(Science Fiction・科学や未来、架空の設定などを用いて現実を問い直す文学)の同人誌『NULL』を創刊し、創刊号に発表した「お助け」が江戸川乱歩に認められて『宝石』に転載された。そこから本格的な作家活動へと進んでいく。

筒井康隆の出発点はSFだった。

しかし、彼の作品を読んでいると、科学技術の未来を予測することそのものが目的ではなかったことが分かる。むしろSFという形式は、現実社会から少し離れた場所に立ち、今の社会を別の角度から眺め直すための装置として使われている。

たとえば私たちは、満員電車に乗る。会社へ行く。学校へ行く。テレビを見る。人の噂を気にする。肩書によって相手への態度を変える。

毎日繰り返しているうちに、それらは「普通のこと」になる。

ところが、その普通の行動を少しだけ極端にしてみる。

全員が同じことを始めたらどうなるのか。ある制度を徹底したら何が起こるのか。人間の欲望を遠慮なく拡大したら社会はどうなるのか。

そこまでやると、それまで普通に見えていた社会が突然奇妙なものに見えてくる。

筒井康隆の風刺には、この方法が何度も現れる。

彼が壊しているのは、現実そのものではない。現実を見るときに私たちが無意識に使っている「これは普通だ」という物差しなのである。

笑わせることで、読者の警戒心を解いてしまう

筒井作品には笑いが多い。

しかも、上品なユーモアだけではない。誇張、悪ふざけ、ナンセンス、ブラックユーモア、ときには下品ささえもためらわずに使う。

ここが重要なのだと思う。

人は正面から「あなたが信じている社会常識は間違っています」と言われれば反発する。けれども、笑っているときには少し無防備になる。

「そんな馬鹿な話があるか」と笑いながら読み進めているうちに、ふと気づく。

これは本当に馬鹿な話なのだろうか。

極端に描かれているだけで、似たようなことは現実社会でも起きているのではないか。

筒井康隆の笑いには、ときとして鏡のような役割がある。

鏡に映っている人物を笑っていたはずなのに、その人物が自分自身に似ていることに気づいてしまう。

だから、笑ったあとに妙な後味が残る。

筒井康隆の風刺が、単なる悪ふざけで終わらない理由はそこにある。

やがて「小説という常識」まで疑い始めた

しかし筒井康隆は、社会の常識を壊すだけでは満足しなかった。

やがて疑い始めたのは、小説そのものだった。

小説には文章があり、登場人物がいて、時間が進み、読者は作者が用意した物語を読む。

考えてみれば、これも一つの約束事である。

では、その約束を壊したらどうなるのか。

筒井康隆は1970年代以降、前衛的、実験的な小説へ本格的に踏み込んでいく。本人も後年の対談で、前衛的なものへの憧れがあったことを語っている。

一方で、単に難しい文学を書きたかったわけではない。本人は、読者をもっと広げたいという意識も持っていた。

ここが筒井康隆の面白いところである。

実験文学というと、一般の読者から遠ざかっていくように思える。

ところが筒井康隆は逆だった。

難しいことをやりながら、面白さを捨てない。文学の仕組みを壊しながら、その壊れていく様子そのものを娯楽にしてしまう。

読者にとっては、文学理論を学ばなくても「何かがおかしい」「普通の小説とは違う」と感じられる。

その違和感そのものが、筒井文学の入口になっている。

『残像に口紅を』では、日本語そのものが実験の対象になった

その到達点の一つが『残像に口紅を』だろう。

この小説では、世界から一つずつ文字が消えていく。

文字が消えれば、その文字を使った言葉が使えなくなる。そして言葉が消えるにつれて、その言葉によって表現されていたものまで世界から失われていく。

つまり筒井康隆は、小説を書くために絶対に必要なはずの「言葉」を、自分から少しずつ減らしていった。

普通なら作家は、使える言葉が多いほど有利である。

筒井康隆は逆に、自分の道具を一つずつ捨てながら小説を書いた。

これほど奇妙な文学的ゲームもない。

しかし読み進めていると、単なる言葉遊びでは済まなくなってくる。

ある文字が消え、その文字を含む言葉が使えなくなる。それによって、それまで当たり前に語ることのできた世界が少しずつ狭くなっていく。

そうなると読者は、言葉が世界をどのように切り取り、認識するためにどれほど大きな役割を果たしているのかまで考えさせられる。

これは、作者が一つの答えを提示しているというより、実験的な仕掛けを通じて読者の側に問いが生まれてくる作品だと言った方がよいだろう。

1989年に発表された作品でありながら、その後も長く読まれ、近年には漫画化もされている。

数十年前の言語実験小説が、今なお新しい読者を獲得しているのは興味深い。

常識を壊す文学は、案外古くなりにくいのかもしれない。

なぜなら、常識そのものが時代によって作り替えられていくからである。

『文学部唯野教授』では、文学を語る側まで小説の中に入れた

筒井康隆が壊してきた対象は、日常生活だけではない。

文学そのものを権威化する世界も例外ではなかった。

『文学部唯野教授』では、大学という制度、教授たちの人間関係、文学研究や文学理論の世界が、小説の材料になっていく。

文学を分析する側にいた人間が、今度は小説の登場人物として描かれ、その権威や欲望や人間臭さまで笑いの対象になる。

ここには筒井康隆らしい逆転がある。

普通なら文学理論は、小説を外側から分析するための道具である。

ところが筒井康隆は、その文学理論を扱う人々まで小説の内側へ引きずり込んでしまう。

分析する側だった人間が、分析される側になる。

権威とは、外側から眺めると立派に見える。しかし、その内部にいる人々の欲望や嫉妬や打算まで描いてしまえば、急に滑稽になる。

筒井康隆は、こうして何度も「偉そうに見えるもの」を地上へ引き下ろしてきた。

『パプリカ』では、現実そのものが信用できなくなる

そして『パプリカ』まで来ると、揺さぶられるのは現実と夢の境界である。

他人の夢に入り込む技術をめぐって物語が進み、夢と現実が次第に混ざり合っていく。

私たちは普通、「これは現実で、これは夢だ」と区別できることを前提に生活している。

その境界が壊れたらどうなるのか。

筒井康隆は、ここでも人間が当然だと思っている認識の土台を揺らす。

考えてみれば、彼が長年やってきたことは一貫している。

社会の常識を疑う。文学の常識を疑う。言葉の常識を疑う。そして最後には、現実とは何かという常識まで疑う。

壊す対象が次々に変わっているだけで、「本当にそれは当然なのか」という問いそのものは変わっていない。

「何を書いてもいい作家」になろうとした

筒井康隆自身の言葉をたどると、さらに興味深い。

近年の対談で筒井は、自分が目指してきた作家像について語っている。

一つのジャンルに固定されるのではなく、「筒井康隆なら何を書いてもよい」と読者から思ってもらえるような作家になりたかった、という趣旨である。

これはかなり重要な発言だと思う。

普通、作家は「この人はミステリー作家」「この人はSF作家」「この人は純文学作家」と分類される。

分類された方が、読者にも出版社にも分かりやすい。

しかし分類とは、別の言い方をすれば、「この人はここから出てはいけない」という境界線でもある。

筒井康隆は、その境界まで壊そうとした。

SFを書く。

風刺を書く。

実験小説を書く。

娯楽小説を書く。

文学理論まで小説にしてしまう。

夢と現実の境界まで揺さぶる。

一つの作家像に収まること自体を拒む。

だから筒井康隆について説明しようとすると、説明する側が困るのである。

「結局、この人は何の作家なのか」

その質問に簡単に答えられないこと自体が、筒井康隆という作家の成功なのかもしれない。

常識を壊すことは、自由になることでもある

では、筒井康隆はなぜ常識を壊し続けたのか。

単に人を驚かせることが好きだったから、と説明することもできる。

実際、本人は人を驚かせることが好きだという趣旨の発言もしている。

権威を嫌ったから、と考えることもできる。笑わせたかったから、文学の可能性を試したかったから、新しい表現を求め続けたからという説明も、それぞれ間違いではないだろう。

しかし、その根底にはもっと単純なものがあるように思える。

「そうしなければならない」と言われると、本当にそうなのか確かめたくなる。

社会が正しいと言えば、本当に正しいのか疑う。

文学はこう書くものだと言われれば、別の書き方を試す。

使ってはいけない方法があれば、使ったら何が起きるのか見てみる。

そこには非常に強い知的好奇心がある。

常識を壊すとは、何でも否定することではない。

いったん常識の外側に出てみることである。

外側から眺めたとき、それでも必要だと思えるものなら残せばよい。

しかし、ただ誰も疑わなかったから残っているだけなら、笑い飛ばしてしまってもよい。

筒井康隆は、その作業を文学の中で長く繰り返してきた。

だから彼の作品を読むと、ときどき居心地が悪くなる。

笑ってよいのか迷う。

これは本当に小説なのかと戸惑う。

作者にからかわれているような気さえする。

しかし、その戸惑いこそが筒井文学なのだろう。

読者が「これはこういうものだ」と安心した瞬間、その足元にある床板を一枚抜いてみる。

落ちた読者を見て、作者は少し笑っている。

そして読者も、仕方なく笑う。

床が最初からそこにあると思い込んでいた自分自身を。

筒井康隆が壊し続けてきた「常識」とは、結局のところ、社会の常識でも文学の常識でもないのかもしれない。

それは、私たち一人ひとりの頭の中にある、

「世界とは、こういうものだ」

という思い込みなのである。

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梶井基次郎の『檸檬』を読んで、少し困った経験のある人は多いのではないだろうか。

大きな事件が起きるわけではない。恋愛があるわけでもなく、殺人もなければ、人生を変えるような決断が語られるわけでもない。

主人公らしき「私」は京都の街を歩き、果物屋で一個の檸檬を買う。そして最後には、その檸檬を丸善の本の上に置いて店を出ていく。

それだけである。

しかも彼は、その檸檬を「爆弾」に見立てる。

丸善が爆発したところを想像して、妙に愉快な気分になる。

初めて読んだときには、「それで、結局何の話だったのだろう」と感じても不思議ではない。

しかし、『檸檬』のおもしろさは、まさにそこにある。

この小説は、檸檬について書かれた小説ではない。

丸善を爆破したい男の小説でもない。

もっと言えば、京都の街を歩く青年の日常を描いた作品ですらない。

『檸檬』が描いているのは、自分を押しつぶしていた世界が、ほんの一瞬だけ別のものに見える瞬間なのである。

主人公は、最初から世界に疲れている

『檸檬』の冒頭には、作品全体を決めてしまう重要な言葉が出てくる。

「えたいの知れない不吉な塊」。

これが「私」の心を押さえつけている。

ここで梶井基次郎は、不安の原因をはっきり説明しない。

仕事に失敗したとも、恋人と別れたとも、誰かに裏切られたとも書かない。ただ何か分からないものが胸に居座り、以前は好きだったものまで楽しめなくなっている。

この感覚は、現代の私たちにも意外なほど分かりやすい。

何か重大な事件があったわけではない。それなのに気分が重い。本を読んでも楽しくない。買い物に行っても心が動かない。以前なら魅力的だったものが、なぜか色褪せて見える。

原因を一つに特定できないからこそ、厄介なのである。

「私」は病んでいるとも読めるし、貧困や将来への不安を抱えているとも読める。しかし梶井は、それを診断名のように整理しない。

ただ、世界との間に薄い膜が張られてしまったような青年を置く。

そして重要なのは、彼自身が暗いだけではなく、彼の目には世界そのものまで重く見えているということである。

なぜ、立派なものではなく「みすぼらしいもの」に惹かれるのか

そんな「私」は、以前なら好んでいた立派な店や美しい品物を避けるようになる。

代わりに惹かれるのが、裏通りや安っぽいもの、壊れかけたもの、少し怪しげな場所である。

これは単なる変わった趣味ではない。

自分が弱っているとき、人は「完成された世界」に居心地の悪さを覚えることがある。

立派な建物、整然と並んだ商品、文化的な書物、高価な品々。そうしたものは本来美しいはずなのに、自分の内側が崩れていると、その完全さがかえって圧力になる。

『檸檬』の「私」にとって丸善がまさにそうだった。

丸善は本や美術品や舶来品が並ぶ、知的で洗練された場所である。

かつてなら心を躍らせた場所だった。

ところが今の「私」には、その豊かさが苦しい。

欲しいものがたくさん並んでいるのに買えないから、というだけではないだろう。

むしろそこには、「文化」「知性」「美」「豊かさ」といった、完成された価値の世界がある。

その世界に対して、自分だけがうまく参加できない。

だから丸善に入ると、ますます気持ちが沈んでしまう。

ここに『檸檬』の一つの重要な構造がある。

世界が醜いから苦しいのではない。美しい世界に自分が入れないこともまた、人を苦しませるのである。

そこで一個の檸檬が現れる

そんな青年が、寺町の果物屋で檸檬を見つける。

ここから、小説の空気が変わる。

檸檬は高価なものではない。

芸術作品でもなければ、知識を与えてくれるものでもない。社会的な地位を示す商品でもない。

ただの果物である。

ところが「私」は、その色、形、重さ、冷たさに強く惹きつけられる。

ここが非常におもしろい。

それまで彼を苦しめていたものは、頭の中にある正体の分からない不安だった。

それに対して檸檬は、徹底的に具体的である。

黄色い。

丸みがある。

手のひらに収まる。

重さがある。

冷たい。

つまり檸檬は、「考えなければ分からないもの」ではなく、「触れば分かるもの」なのである。

将来の不安には形がない。

貧困にも、憂鬱にも、人生の行き詰まりにも、手でつかめる形はない。

しかし檸檬には形がある。

その一点だけでも、この小さな果実は「えたいの知れない不吉な塊」と正反対の存在になっている。

正体不明の重苦しさに対して、鮮やかで、単純で、触れることのできる黄色い物体。

だから檸檬を手にした瞬間、「私」の世界は少しだけ変わり始める。

檸檬が美しいのではなく、世界を見る目が変わった

ここで『檸檬』を「美しい果物に癒やされた物語」と読んでしまうと、少し物足りない。

重要なのは檸檬そのものの美しさだけではない。

檸檬を持ったことで、主人公の世界を見る方法が変わったことなのである。

それまで街は重苦しかった。

丸善も苦しかった。

本も画集も彼を疲れさせるものだった。

ところが檸檬という一個の異物を手にした途端、同じ世界が遊び場のように変わっていく。

そして彼は丸善へ入る。

そこで画集を積み上げ、その頂上に檸檬を置く。

考えてみれば、実にくだらない行為である。

しかし、このくだらなさこそが重要なのだ。

丸善の商品には、本来それぞれ意味がある。

本は読むものだし、画集は鑑賞するものである。店の商品は丁寧に扱わなければならない。

ところが「私」は、その意味を勝手に壊してしまう。

画集を積み木のように積み上げ、その上に果物を載せる。

つまり彼は一瞬だけ、社会が決めた物の意味から自由になる。

本は「読むべきもの」ではなくなる。

檸檬は「食べるもの」ではなくなる。

丸善は「買い物をする場所」ではなくなる。

全部が彼の想像力によって別のものに変換される。

その瞬間、これまで自分を圧迫していた世界に対して、「私」の側が主導権を握るのである。

なぜ檸檬は「爆弾」になったのか

そして檸檬は、ついに爆弾になる。

もちろん本物の爆弾ではない。

「私」は、積み上げた画集の上に檸檬を置き、そのまま丸善を出る。

そして想像する。

あの檸檬が爆発して、丸善が大変なことになっているのではないか。

ここだけ取り出せば、少し危ない青年にも見える。

しかし彼が本当に破壊したいのは建物ではない。

彼が壊したいのは、自分を押しつぶしてきた世界の秩序なのではないだろうか。

丸善に並ぶ本や画集は、美しく文化的で価値のあるものだ。

しかし今の彼には、その価値の体系そのものが重い。

そこで一個の安い檸檬を持ち込み、それを爆弾にしてしまう。

文化の殿堂ともいえる空間の真ん中に、果物一個を置く。

そして頭の中で全部吹き飛ばす。

これは現実の破壊ではない。

想像力による小さな反乱である。

会社を辞めるわけでもない。

社会を変えるわけでもない。

貧困から抜け出すわけでもない。

病気が治るわけでもない。

それでも人間は、自分の頭の中で世界との関係を少し変えることができる。

『檸檬』は、そのごく小さな自由を描いている。

だから、この小説では何も解決していない

ここは大切なところである。

物語の最後で、「私」の問題は何一つ解決していない。

お金が増えたわけでもない。

健康になったわけでもない。

将来が開けたわけでもない。

胸を押さえていた「不吉な塊」の根本原因が消えたとも書かれていない。

つまり『檸檬』は、問題解決の物語ではないのである。

普通の物語なら、主人公は何かを乗り越え、成長し、状況を変えて終わる。

しかし現実の人生では、そんな劇的な解決などめったに起こらない。

憂鬱な日に一冊の本を読んだからといって人生は変わらないし、美しい夕焼けを見ても借金はなくならない。

それでも、ほんの数分だけ気持ちが軽くなることはある。

帰り道で急に風が気持ちよく感じられることがある。

どうにもならない現実を、少しだけ違った角度から眺められる瞬間がある。

梶井基次郎が書いたのは、おそらくその種類の救いである。

大きな救済ではない。

人生を立て直すほどの力もない。

しかし、その一瞬があるから人間は歩いていける。

『檸檬』の最後にある妙な爽快感は、そこから生まれている。

「黄色」がこれほど鮮烈に残る理由

『檸檬』を読み終えたあと、多くの人の頭には黄色い果実が残る。

なぜだろう。

作品の冒頭にある世界は、どこか灰色である。

不安、倦怠、貧しさ、病、憂鬱。

そこへ突然、鮮烈な黄色が入ってくる。

色彩というものは理屈より速い。

「希望とは何か」と説明されれば、人は考えなければならない。

しかし真っ黄色な檸檬を目の前に置かれれば、考えるより先に目に飛び込んでくる。

だからこの作品では、「私は少し元気になった」と説明する必要がない。

檸檬がある。

その黄色だけで、主人公の内部に起きた変化が読者にも伝わる。

梶井基次郎の巧さは、心理状態を長々と説明するのではなく、色や重さや手触りによって見せてしまうところにある。

読者は「私」の憂鬱について完全には理解できなくても、檸檬の鮮やかさなら理解できる。

そこに文学としての強さがある。

『檸檬』は青春小説でもある

そして、もう一つ忘れてはいけない。

この奇妙な行為には、どこか若さがある。

大人になってから丸善のような書店へ入り、画集を積み上げ、その上に檸檬を置いて「爆弾だ」と想像する人はあまりいない。

くだらない。

役に立たない。

現実を何も変えない。

しかし、その無意味な行為によって世界が一瞬おもしろく見える。

そこには若者特有の感覚がある。

若い時代、人は世界に強く傷つく一方で、世界を勝手に作り替える力も持っている。

路地一本が特別な場所になる。

安い果物一個が宝物になる。

本屋が爆破される空想だけで、街を歩く足取りが軽くなる。

年齢を重ねるほど私たちは、「そんなことをして何になるのか」と考えるようになる。

だが『檸檬』の主人公は、そんな計算をしない。

だからこそ、この作品には百年近くたっても消えない若さがある。

結局、『檸檬』は何を描いているのか

では改めて問いたい。

『檸檬』は結局、何を描いているのだろう。

一言でいえば、

どうにもならない現実の中で、人間が想像力によって一瞬だけ自由になる物語

なのだと思う。

「私」を苦しめているものは最後まで消えない。

しかし檸檬を一個手にしたことで、彼は世界を見る方法を変える。

重苦しかった街が遊びの空間になる。

自分を圧迫していた丸善が、想像上の爆破対象になる。

ただの果物が爆弾になる。

現実そのものは変わらない。

変わったのは、現実との距離である。

そこに『檸檬』の不思議な明るさがある。

人生には、ときどき何も解決できない日がある。

努力しても答えが出ず、原因すら分からないまま気分だけが沈んでいる日もある。

そんな日に必要なのは、必ずしも壮大な人生論ではないのかもしれない。

一杯のコーヒーかもしれない。

一本の音楽かもしれない。

偶然入った路地かもしれない。

そして梶井基次郎にとって、それは一個の檸檬だった。

だから『檸檬』は、一個の果物についての小説ではない。

世界に押しつぶされそうになった人間が、想像力を使ってほんの一瞬だけ世界の上に立つ。

その小さな逆転を描いた小説なのである。

そして丸善を出た「私」が楽しそうに京都の街を歩いていく姿を思うと、私たちは少しだけ分かる気がする。

人生を救うものは、必ずしも人生を変えるほど大きなものでなくてもよい。

ときには、一個の檸檬くらいの大きさで十分なのだ。

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昭和40年代から50年代に青春時代を過ごした人にとって、「深夜ラジオ」という言葉は、単なる放送番組のジャンルを意味するものではないだろう。

家族が眠ったあとの部屋で、音量を絞ったラジオに耳を傾ける。勉強机の上には教科書や参考書が開かれているけれど、本当に待っているのは午前零時、あるいは午前一時から始まる番組だった。少し雑音の混じった声の向こうに、自分と同じ時間を起きている誰かがいる。

テレビが家族で共有することの多いメディアだった時代、小型化したラジオは、若者が自分の部屋で一人で聴くことのできる、より個人的なメディアになっていった。なかでも深夜放送は、親や学校とは少し違った世界を若者に見せてくれた。

だから昭和の深夜ラジオを振り返ることは、懐かしい番組を思い出すだけではない。それは、インターネットもスマートフォンもなかった時代に、若者たちがどのように自分だけの時間を持ち、自分たちの文化をつくっていったのかを考えることでもある。

深夜に「若者の時間」が生まれた

日本の深夜放送が若者文化として大きく広がっていったのは、1960年代後半だった。

TBSラジオの『パック・イン・ミュージック』は1967年に始まり、1982年まで15年間放送された。放送番組センターの放送ライブラリーも、この番組を当時の若者を強く引きつけた代表的な深夜番組として位置づけている。

同じ1967年10月2日深夜25時、すなわち10月3日午前1時には、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』が放送を開始した。半世紀以上にわたり続くことになる、若者向け深夜放送を代表する番組の誕生だった。

さらに文化放送では、1969年6月2日深夜に『セイ!ヤング』が始まった。当時、深夜放送を聴く人々は「みみずく族」と呼ばれることもあったという。『セイ!ヤング』は、そうした夜更かしをする若い聴取者と結びつきながら人気を広げていった。

こうして1960年代末には、主要なラジオ局で若者を強く意識した深夜番組が相次いで登場した。

重要なのは、単に放送時間が夜遅くなったということではない。

深夜という、それまで社会的には目立たなかった時間帯に、「若者のための時間」が生まれたことである。

テレビは家族のもの、深夜ラジオは自分のものだった

昭和の家庭では、テレビは茶の間や居間に置かれ、一台を家族で見ることが多かった。

何を見るかは必ずしも自分一人では決められない。チャンネルを誰が選ぶかという小さな争いさえ、当時の家庭の日常の一つだった。

それに対して、小型のラジオなら自分の部屋へ持っていくことができた。イヤホンを使えば、家族が眠ったあとでも一人で聴くことができる。

この違いは大きい。

昼間の若者は、学校では生徒であり、家庭では子どもだった。しかし深夜になり、周囲が眠りにつくと、その役割から一時的に離れることができる。

そこへラジオから聞こえてくるのは、昼間のテレビ番組とは少し違う言葉だった。

くだらない冗談を延々と話すこともあれば、恋愛について語ることもある。音楽の話、学校への不満、若者自身の悩みが取り上げられることもあった。

当時の深夜放送が若者にどのように受け止められていたかを示す興味深い記録も残っている。文化放送のアーカイブには、1969年に高校生が制作した「深夜放送をさぐる」という番組があり、同世代の若者がなぜ深夜放送を聴くのかを調べている。つまり、深夜ラジオが若者の生活文化として意識される現象は、すでに1960年代末には起きていたのである。

また当時の文化放送には、『セイ!ヤング』とは別に、若者を取り巻く社会問題などを本音で語る深夜番組も存在した。

深夜という時間帯そのものが、昼間とは違う言葉を許す場所になっていたと考えることができる。

パーソナリティは「遠い芸能人」ではなかった

深夜放送を特徴づけたもう一つの存在が、パーソナリティだった。

テレビのスターは、画面の向こう側にいる華やかな存在だった。しかしラジオから聞こえてくる人間は、それとは少し違った距離に感じられる。

姿が見えないからこそ、聞き手は声や話し方から人物像を想像する。

しかも深夜である。

周囲が静まり返った部屋で一人で聴いていると、スタジオから発せられた言葉が、自分一人に向けて語られているように感じられることがある。

もちろん実際には、多くのリスナーが同じ番組を聴いている。

それでも、聴取体験そのものは一人である。

この「大勢が聴いているのに、一対一のように感じる」という距離感が、深夜ラジオ独特の親密さを生んだのではないだろうか。

『セイ!ヤング』の初期には、みのもんた、なかにし礼、土居まさるらが曜日ごとのパーソナリティを務めていたことが文化放送の記録から確認できる。

その後も各局の深夜番組には、アナウンサー、音楽家、タレント、文化人などさまざまな人物が登場した。

ラジオのパーソナリティは、テレビのスターとは別の意味で、「自分のことを分かってくれる少し年上の人」のような位置にいたのかもしれない。

ハガキを出せば、自分が番組の一部になれた

昭和の深夜ラジオを考えるうえで欠かせないのが、ハガキによる投稿文化である。

電子メールもSNS(Social Networking Service・インターネット上で利用者同士が交流するサービス)もない。

リスナーが番組へ言葉を届ける代表的な方法の一つが、ハガキだった。

番組を聴きながら思いついたことを書く。宛名を書き、切手を貼り、ポストへ入れる。そして次の放送を待つ。

採用される保証はない。

それでも、自分の書いたハガキが読まれるかもしれないと思ってラジオを聴く。

そして自分の名前やペンネームが突然ラジオから聞こえてくる。

それは当時の若者にとって、かなり特別な経験だっただろう。

放送史の研究でも、1960年代から1970年代にかけて、リスナーから届いたハガキをパーソナリティが読み、それに応じる番組が数多く生まれたことが指摘されている。電話リクエストなども含め、番組をつくる側と聴く側との距離が近づいていった時代だった。

つまりリスナーは、番組を受動的に聴いていただけではない。

ハガキを送り、それが読まれ、その言葉にパーソナリティが反応し、さらに別のリスナーがそれを聴く。

現在のインターネット上のコミュニティーとは技術的にまったく異なるが、聞き手自身が番組を構成する一員になる仕組みが、すでに存在していたのである。

それは、一方向に情報を受け取るだけのメディアとは少し違っていた。

深夜ラジオは音楽への入口でもあった

もう一つ忘れてはならないのが音楽である。

現在なら、気になる曲があれば検索して、その場で聴くことができる。

しかし昭和の若者に、そのような環境はなかった。

レコードを買わなければ聴けない曲も多い。しかも若者にとって、何枚ものレコードを自由に購入できるほど安価な商品ではなかった。

だからこそ、ラジオから流れてくる音楽そのものに大きな価値があった。

知らない外国の曲が流れる。

まだ買っていない歌手の新曲がかかる。

好きな曲を偶然耳にする。

そして、その数分間が終われば、次にいつ聴けるか分からない。

『オールナイトニッポン』も、長い歴史の中で新しい才能や文化を発信してきた番組として位置づけられている。

1970年代以降になると、ラジオから好きな曲をカセットテープへ録音することも、若者の音楽生活の一部になっていった。

深夜ラジオ、レコード、カセットテープ、雑誌、文庫本。

昭和の若者文化は、それぞれが完全に独立していたわけではない。

ラジオから曲を知り、その歌手について雑誌で読み、レコード店へ行く。番組で紹介された本を読んだり、映画を見たりする。

一つのメディアとの出会いが、別のメディアへつながっていく。

現在のように一瞬で検索結果が表示されるわけではない。しかし時間をかけながら、一人の若者の世界は少しずつ広がっていった。

「全国で自分だけが起きている」ような感覚

深夜ラジオには、昼間の放送にはない奇妙な感覚があった。

午前一時。

外を走る車も少なくなり、家族は眠っている。

その静けさの中でラジオをつける。

すると東京のスタジオから声が聞こえてくる。

そして、その声を日本のどこかで、同じように布団の中や勉強机の前で聴いている若者がいる。

実際には一人ではない。

けれども、一人で聴いている。

この「孤独なのに孤独ではない」という感覚こそ、深夜ラジオの魅力の一つだったのではないだろうか。

学校で友達とうまく話せない若者もいただろう。

受験勉強をしている若者もいた。

恋愛で悩んでいる人も、将来を考えて眠れない人もいたはずだ。

深夜ラジオは彼らの問題を解決してくれたわけではない。

ただ、同じ時間に誰かが起きていて、話していた。

それだけでも夜は少し違った。

放送史研究の中で、当時の深夜ラジオが「若者たちの解放区」と表現されていることは、この独特の位置づけをよく示している。昼間の社会とは少し違う価値観や言葉が許される場所が、夜のラジオの中に形成されていたのである。

スマートフォンの時代には再現しにくいもの

現在の若者には、昭和の若者とは比較にならないほど多くの情報がある。

好きな音楽は好きな時間に聴ける。動画も映画も見ることができる。誰かと話したければ、インターネットを通じてすぐにつながることもできる。

便利さだけを比較すれば、昭和の深夜ラジオより現在のメディア環境の方が圧倒的に優れている。

それでも、失われたものがあるとすれば、それは「待つ時間」なのかもしれない。

好きな番組が始まる時刻まで待つ。

好きな曲が流れるのを待つ。

送ったハガキが読まれるかどうか、次の放送まで待つ。

そして聞き逃せば、その言葉にもう一度出会えるとは限らない。

現在では、情報は保存され、検索され、繰り返し再生されることを前提としている。

しかし、かつてのラジオ放送は基本的に、その時間に流れていくものだった。

だからこそ、その瞬間に耳を澄ませた。

不便だったからこそ、一つの番組との関係が濃くなったという側面もあったのではないだろうか。

深夜ラジオがつくった「自分だけの青春」

昭和という時代を振り返るとき、ついヒット曲やテレビ番組、流行した商品などを並べてしまう。

しかし青春の記憶は、そうした大きな歴史だけでできているわけではない。

夜中の一時にラジオのスイッチを入れたこと。

雑音の向こうから聞こえてきた声。

眠くなりながら聴いた知らない曲。

読まれるかどうかも分からない一枚のハガキを書いたこと。

翌朝、学校で友達と昨夜の放送について話したこと。

そうした小さな記憶の積み重ねも、昭和という時代をつくっている。

深夜ラジオは若者に何かを教えるための学校ではなかった。

けれども学校や家庭だけでは知ることのできない音楽、言葉、大人の世界、そして価値観に触れる場所の一つだった。

何よりそこには、自分で選んで聴いているという感覚があった。

昼間は親や教師によって予定を決められていた少年や少女が、家族が眠ったあと、自分の意思でラジオのスイッチを入れ、ダイヤルを合わせる。

その瞬間だけは、誰にも選ばされていない。

おそらく昭和の深夜ラジオが若者をあれほど惹きつけた理由は、番組そのものの面白さだけではなかった。

深夜ラジオとは、若者が自分の意思で選ぶことのできた「自分だけの時間」だったのである。

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