リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

本を選ぶとき、私たちは本だけを見ているわけではない

 読むつもりのなかった本を、なぜか買って帰ったことがある。書店を歩いていて、それまで表紙さえ知らなかった1冊の前で足が止まり、その横に置かれた小さな手書きの紙を読んだ瞬間に「少し読んでみようか」と思ってしまうことがある一方、インターネットで本を探しているときには、レビューの内容や件数を確認しながら、「自分に合う本だろうか」と慎重に判断していることも多い。

 どちらも知らない本を選ぶための手掛かりであることに違いはないが、書店員の手書きPOP(Point of Purchase Advertising・店頭で購買を促すための広告表示)とネットのレビューでは、購入へ向かう心理の働き方が同じとは限らない。手書きPOPでは、ひとりの書店員が選んだ言葉を通じて本への関心が生まれることがあるのに対し、ネットでは、多数の読者が残した評価や感想をまとめて確認することで、「自分が読んでも大きく期待を外さないだろうか」と判断する材料を増やすことができる。

 そもそも、本は購入前に品質を完全には確かめられない商品である。食品のように味見することは難しく、家電のように性能表だけを比較して価値を判断することもできず、実際に読み進めてみなければ、自分にとって面白いのか、役に立つのか、心に残るのかは分からない。そのため私たちは、本そのものだけではなく、書店員の推薦、帯の言葉、レビューの内容、読者の評価といった周辺情報を利用して、読むために時間とお金を使う価値がありそうかを判断しているのである。

手書きPOPには「誰かが選んだ」という痕跡が残る

 書店員の手書きPOPには、出版社が制作した広告とは異なる魅力がある。文章は数行しかなく、文字も必ずしも整っているわけではなく、情報量だけを比べれば出版社の帯や紹介文のほうが多いことさえあるのに、それでも手書きの言葉に目を止める人がいるのは、そこに「この本を読んだ誰かが、自分の言葉で薦めようとしている」という痕跡を感じ取るからなのかもしれない。

 たとえば、「今年読んだ中で、最後の30ページがいちばん忘れられなかった」と書かれていたとしても、そこには作品の詳しい内容も、客観的な評価基準も示されていない。それでも、その30ページに何が書かれているのかを確かめたくなるのは、POPが作品をすべて説明するのではなく、むしろ説明しきらないことによって読者の想像の中に小さな空白を残し、その先を知りたいという気持ちを呼び起こす場合があるからだろう。

 店頭広告に関する研究では、POPの設置が商品棚への注目や商品を手に取る行動などに影響することが示されており、手作りPOPについても、購買行動に一定の効果が生じる可能性が報告されている。ただし、「手書きだから書店員への信頼が必ず高まり、その結果として本が売れる」という一連の因果関係が、あらゆる書店で科学的に証明されているわけではないため、ここでは手書きPOPを万能な販売手段と考えるよりも、本への注意や関心を生み出すひとつの装置として捉えるほうが現実に近い。

 さらに書店では、POPの文章だけでなく、その本がどこに置かれているかという空間そのものが推薦として働くことがある。大量の本の中から1冊を選び、表紙が見えるように置き、その横に言葉を添えるという行為には、「この本を少し見てほしい」という店側の選択が現れるため、客は本そのものだけでなく、その本が選ばれているという状況まで含めて受け取ることになる。

ネットレビューは、多数の読者の経験を一度に見せる

 ネットのレビューには、手書きPOPとは異なる強みがある。ひとりの書店員の感想ではなく、何十人、何百人、ときにはそれ以上の読者が残した評価や感想をまとめて確認できるため、自分より先に読んだ人たちが、どこを評価し、どこに不満を感じたのかを短時間で知ることができる。

 オンラインレビューと購買行動については、多数の研究をまとめたメタ分析でも一定の関係が確認されており、レビューの肯定的・否定的な内容、レビュー件数、情報の詳しさ、投稿者への信頼などが、購入意向や商品の評価に影響することが示されている。さらに書籍そのものを対象にした研究でも、レビューの数や長さ、肯定的な評価と否定的な評価、表示される順序などが、購入意向に影響し得ることが報告されているため、「ネットレビューが本を買う判断材料になる」という記事の前提には、かなり強い実証的な裏付けがある。

 ただし、評価が高ければ必ず購入につながるわけではなく、レビュー同士の意見が大きく食い違っていたり、低い評価の中に自分にとって重要な欠点が書かれていたりすれば、むしろ購入を思いとどまることもある。この点でネットレビューは、単純に本を売るための装置ではなく、「買ってもよい理由」と「買わないほうがよい理由」を同じ画面上に並べる仕組みでもあり、レビューを読み始める前には買うつもりだった人が、読み終えたころには購入をやめているということも十分に起こり得る。

「大勢の評価」だからといって、そのまま真実とは限らない

 ネットレビューには多数の意見が集まるという利点がある一方で、その数字や文章を無条件に「世の中の本当の評価」と考えることにも注意が必要である。レビューを書く人は、すべての購入者から無作為に選ばれているわけではなく、非常に満足した人や強い不満を抱いた人ほど投稿する可能性もあり、投稿者の構成そのものに偏りが生まれることがある。

 さらに、すべてのレビューが完全に独立した自然な感想とは限らず、事業者が関与する広告や、利益関係を十分に明らかにしない投稿が問題になることもある。日本では2023年10月1日から、広告であることを隠して消費者に表示するステルスマーケティングが景品表示法の規制対象となっており、レビューだから自動的に中立な第三者の意見だと考えてよいわけではない。

 したがって、ネットレビューを見るときには、平均点だけを信じるよりも、評価件数がどの程度あるのか、極端に似た文章が並んでいないか、具体的な長所と短所が書かれているか、自分と似た目的を持つ読者がどのように評価しているかを見るほうが、判断材料としては有効である。

書店は「偶然の発見」に強いが、ネットにも発見はある

 手書きPOPとネットレビューの違いを考えるとき、「書店では発見し、ネットでは確認する」と単純に二分するのは分かりやすいが、現実はもう少し複雑である。実際の書店では、棚を歩きながら眺めるブラウジングによって、当初は探していなかった本に出会うことがあり、書店の空間構成や本の配置が、立ち止まる、触れる、手に取る、読むといった行動に影響することも研究されているため、実店舗に「偶然の発見」を生みやすい性質があることは確かである。

 しかし、ネットでも未知の本と出会うことはできる。検索結果だけではなく、「この本を見た人はこちらも見ています」「この本を買った人はこちらも読んでいます」といった推薦機能、ランキング、特集、SNS(Social Networking Service・インターネット上で人と人が交流するサービス)上での紹介などによって、存在を知らなかった本へたどり着くことがあるため、ネットを単なる「確認の場所」と考えるのも正確ではない。

 それでも両者には傾向の違いがあり、書店では棚を歩いている途中に予想外の本が視界へ飛び込んでくるという物理的な偶然が起こりやすいのに対し、ネットでは自分の検索履歴や過去の閲覧、他の利用者の行動などを基にした推薦を通じて新しい本に出会うことが多い。つまり、どちらにも発見はあるが、その発見が生まれる仕組みが異なっているのである。

手書きPOPは「関心を生む」、レビューは「判断を揺らす」

 両者の違いを、あえて単純なたとえで表すなら、手書きPOPには、それまで存在しなかった関心を生み出す働きがあり、ネットレビューには、すでに生まれている関心を強めたり弱めたりする働きがあると考えると分かりやすい。ただし、これは実際に0、1、2という尺度で測定された数理モデルではなく、購買心理の違いを説明するための比喩である。

 書店で偶然見つけた本について、「こんな本があったのか」と初めて関心を持つ場面では、POPが最初のきっかけになる可能性がある一方、すでに題名を知っている本についてネットで複数の感想を読み、「これは自分にも合いそうだ」と感じれば購入意向が強まり、逆に「期待していた内容とは違いそうだ」と分かれば購入意向が弱まる。この違いは、POPとレビューのどちらが優れているかという問題ではなく、購入までの異なる段階で、それぞれ別の役割を果たしていると理解するほうが適切だろう。

情報量が多いほど、人を動かすとは限らない

 情報量だけを比較すれば、ネットレビューは手書きPOPを圧倒している。何百人もの評価を読み、肯定的な意見と否定的な意見を比べ、自分と似た立場の読者を探すことさえできるが、それにもかかわらず、店頭で目にした数行の手書きPOPが、その場で本を手に取らせることもある。

 その理由のひとつとして考えられるのは、平均値のような集約された数字と、具体的なひとりの言葉では、人が受け取る情報の質が異なることである。100人の平均評価が4.2だと聞けば、多くの人から支持されているという情報は得られるものの、その100人がどのような場面で、どのような気持ちで本を読んだのかまでは見えてこない一方、「この本を読んで電車を乗り過ごした」と書かれた言葉からは、たった1人の経験であっても、読書に夢中になった具体的な情景を思い浮かべることができる。

 だからといって、1人の書店員の言葉が100人の評価より信頼できるという意味ではなく、両者は異なる種類の情報を与えている。多数のレビューは判断のばらつきを見渡すのに向いており、個人の推薦文は、その本を読む経験を具体的に想像させるのに向いている可能性があるため、人は状況に応じて両方を使い分けているのである。

失敗したくない本と、偶然出会いたい本

 本を選ぶ目的によっても、参考にしたい情報は変わってくる。仕事で必要な専門書や資格試験の参考書のように、「目的に合わない本を買いたくない」という気持ちが強い場合には、複数のレビューを確認し、内容の難易度や対象読者、長所と短所を比較することが合理的であり、1人の熱い推薦だけで決めるよりも、複数の情報から判断したほうが失敗を減らせる可能性が高い。

 一方、小説やエッセイのように、読む前から正解が決まっているわけではない本では、予想していなかった1冊との出会いそのものに価値がある場合があり、そこで「この本を読んでほしい」という書店員の短い言葉が、検索では起こりにくかった選択を生み出すことがある。

 つまり、手書きPOPとネットレビューの違いは、片方が感情的で片方が合理的だという単純な区別ではなく、未知の本に近づくときに、どの程度の不確実性を受け入れようとしているかという違いでもある。失敗を減らしたいときには情報を集め、思いがけない本と出会いたいときには、ある程度の偶然を受け入れるという、本を選ぶ側の目的によっても判断の仕方は変わってくる。

日本では「ネットで本の価格を比較する」とは限らない

 ネット書店について考えるときには、日本独自の制度にも注意が必要である。日本では、一定の書籍や雑誌について著作物再販制度(著作物再販売価格維持制度・出版社などが定めた価格で販売できる制度)が認められているため、一般的な新品書籍については、家電のように店ごとの本体価格を比較して最安値を探すという買い方にはなりにくい。

 そのためネットで本を選ぶ際には、価格そのものよりも、在庫の有無、配送条件、電子版の存在、中古本の価格、レビュー、関連書籍などが比較の対象になりやすい。もちろん中古本や一部の電子書籍、洋書などでは価格差が生じることもあるが、日本の新刊書籍全般について「ネットでは価格を比較して買う」と説明するのは正確ではない。

知らない本を買う瞬間には、少しだけ「賭け」が残る

 本を買う楽しさには、読んでみなければ本当には分からないという不確実性が含まれている。あらゆるレビューを読み、内容を細かく調べ、自分に合わない可能性をできる限り減らしてから購入することもできるが、情報を集めれば集めるほど、本との出会いから偶然性が少しずつ薄れていくという側面もある。

 手書きPOPが今も書店に残っている理由のひとつは、この偶然を完全には消さないところにあるのかもしれない。そこには何千件ものデータはなく、平均評価も示されていないことが多いが、ひとりの書店員が限られたスペースの中で言葉を選び、「この本には何かがある」と客に伝えようとしているため、その言葉を見た人は、情報を比較するというよりも、「そこまで薦めるなら少し読んでみよう」と判断することがある。

 それに対してネットレビューは、読んだ人の経験を数多く集めることで、不確実性を小さくする手助けをしてくれる。読む時間にも使えるお金にも限りがある以上、この仕組みには大きな価値があり、現代の本選びにとって欠かせない存在になっているが、それでもレビューを何件読んだとしても、自分がその本をどう感じるかを完全に予測することまではできない。

本を選ぶということは、最後には自分で不確実性を引き受けること

 ネット書店では大量の本を検索でき、レビューを読み、在庫や配送条件を確認し、短時間で注文することができる。それでも実際の書店へ行き、棚の前を歩き、本を手に取る人がいなくならないのは、本を選ぶという行為が、必要な情報を検索して最適解を求めることだけでは完結しないからだろう。

 検索は、知っている本を探すことには非常に強く、推薦機能は未知の本との出会いまで広げてくれる一方、実際の書店には、自分が探していなかった本が突然視界へ入り、その横に置かれた短い言葉によって立ち止まるという、物理的な空間ならではの偶然がある。そして、その偶然の出会いを家へ持ち帰るべきか迷ったときには、今度はネットレビューを調べ、多くの読者の経験を参考にすることもできる。

 書店員の手書きPOPとネットレビューは、どちらか一方が優れているのではなく、異なる種類の不確実性を埋めている。手書きPOPは「こんな本がある」という気づきを与え、レビューは「この本は自分に合うだろうか」という判断を助けることがあり、ときにはその順序が逆になることもあるため、両者を完全に分けることはできない。

 結局、知らない本を前にしたとき、私たちは本そのものだけを選んでいるのではなく、書店員の言葉、他の読者の経験、自分自身の興味を重ねながら、「この1冊に時間を使ってみる価値があるだろうか」と判断しているのである。研究や統計はその判断を助けてくれるが、最後のページまで自分がどう感じるかを保証することはできず、だからこそ本を買うという行為には、どれほど情報が増えた時代になっても、誰かの言葉を参考にしながら最後には自分でページを開いてみるという、小さな賭けが残り続けるのである。

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 五木寛之の『青春の門』を、私は第3部「放浪篇」まで読んだ。第1部「筑豊篇」で伊吹信介の少年時代に引き込まれ、第2部「自立篇」で筑豊から東京へ出た信介を追い、そのまま北海道へ向かう「放浪篇」まで進んだのだが、そこでいつの間にか本を閉じてしまった。作品が急につまらなくなったという記憶があるわけではなく、「続きを読まない」と決めたわけでもないのに、何か別の本を読み、別のことに関心を持ち、気がつけば『青春の門』そのものから遠ざかっていたのである。

 ところが、あらためて調べてみると、私が本を閉じた「放浪篇」は、この長大な物語から見ればまだ前半だった。その後には第4部「堕落篇」、第5部「望郷篇」、第6部「再起篇」、第7部「挑戦篇」、第8部「風雲篇」が続き、2019年には第9部「漂流篇」の単行本まで刊行されている。私の記憶の中では北海道をさまよっていた青年・伊吹信介が、その後も何十年という現実の時間を超えて歩き続けていたことになるのであり、そう考えると、累計2200万部という巨大な数字を持つこの大河小説を、実際の読者たちはいったい何篇まで読んでいるのかが急に気になってくる。

 果たして第1部「筑豊篇」だけを読んだ人が圧倒的に多いのか、それとも一度物語に入り込んだ人は、第5部、第6部と意外なほど遠くまで信介についていったのか。そして私のように第3部あたりで、特別な理由もなく離れてしまった人は、この巨大な読者の流れの中で、どのあたりに位置しているのだろうか。

2200万部売れたからといって、2200万人が読んだわけではない

 『青春の門』は累計2200万部に達した大ベストセラーである。しかし、2200万部という数字から「何人が読んだのか」や「何人が最後まで読んだのか」を知ることはできない。第1部から第6部まで1人が購入すれば、それだけで6冊として数えられるうえ、単行本、文庫本、改訂版などを買い直した読者もいるため、シリーズ累計部数と実際の読者数は、似ているようでまったく違う数字なのである。

 もっと知りたいのは、「第1部を読んだ人のうち何%が第2部へ進み、そのうち何%が第3部まで読んだのか」という数字だが、出版社が個々の読者を追跡した調査を公表しているわけではない。そのため、『青春の門』の本当の読了率や途中離脱率を正確に計算することは、現在公開されている資料だけではできない。

 それでも、まったく手掛かりがないわけではなく、読書記録サービス「読書メーター」には各巻を登録した人数が残っているため、同じ講談社文庫の系列を比較すれば、読者がどのあたりまで作品に関心を持っているのか、その痕跡を見ることはできる。ただし、この数字は「その巻を最後まで読み終えた人数」ではなく、第1部を登録した同じ人が第2部、第3部へ進んだことを追跡した数字でもないため、これから示す数字は読了率ではなく、あくまで「同じ作品の各篇にどの程度の登録が残っているか」を比較した参考値として扱う必要がある。

 数字は便利だが、意味を取り違えると、いかにも科学的に見える誤解を生んでしまう。だからこそ、どこまでが観察された事実で、どこからが推測なのかを分けながら見ていくことが重要になる。

第1部855、第2部503、第3部445という数字が示すもの

 同じ系統の講談社文庫について読書メーターの登録数を調べると、第1部「筑豊篇」は855、第2部「自立篇」は503、第3部「放浪篇」は445、第4部「堕落篇」は405、第5部「望郷篇」は382、第6部「再起篇」は364、第7部「挑戦篇」は322となっている。

 第1部を100とする単純な指数に直せば、第2部は約59、第3部は約52、第4部は約47、第5部は約45、第6部は約43、第7部は約38となる。これをそのまま「第1部を読んだ100人のうち38人が第7部まで読んだ」と解釈することはできないが、少なくとも各篇の登録数がどのような形で減少しているかは分かる。

 そして、この並びには1つ際立った特徴があり、最も大きく数字が落ちるのは、第1部「筑豊篇」から第2部「自立篇」へ移るところである。第1部855から第2部503への減少率は約41%に達する一方、第2部503から第3部445への減少は約12%、第3部445から第4部405へは約9%、第4部405から第5部382へは約6%、第5部382から第6部364へは約5%にすぎない。

 形だけを眺めれば、なだらかな坂道が続いているというより、最初に大きな段差を1度下り、その後は比較的緩い坂が続いているように見える。つまり『青春の門』には、第1部から第2部へ進むところに、作品名そのままの「もう1つの門」が存在しているようにも見えるのである。

なぜ「筑豊篇」だけで本を閉じる人が多く見えるのか

 第1部「筑豊篇」に特別な力があることを考えれば、この大きな差はそれほど不思議ではない。筑豊の炭鉱町に生まれた伊吹信介が、父・重蔵の伝説を背負い、母や周囲の大人たちに育てられ、牧織江への思いを抱きながら成長し、やがて故郷を離れて東京へ向かうという物語には、少年の誕生から旅立ちまでという明瞭な円環があり、第1部だけでも1つの長編小説としてかなり強く完結している。

 しかも「筑豊篇」は1975年と1981年に映画化されているため、作品全体を読んでいなくても、「青春の門といえば筑豊」というイメージを持つ人は少なくないだろう。シリーズの入口でありながら、それだけで大きな満足を得られる作品であることが、第2部以降との登録数の差を生んでいる可能性は十分に考えられる。

 ただし、ここで「第1部読者の41%が脱落した」と結論づけるのは早い。読書メーターが普及した時代は、『青春の門』が最も盛んに読まれた1970年代よりはるかに後であり、当時第1部から第6部まで読んだ人でも、現在その記録を読書メーターに登録していなければ数字には現れない。一方で、後年になって有名作品だからという理由で「筑豊篇」だけを読んだ新しい読者は登録されるため、その結果、第1部だけが相対的に大きくなる可能性もある。

 統計の世界では、こうした現象を選択バイアスと考えることができる。観察できる集団そのものが、日本中の『青春の門』読者を無作為に抽出した集団ではない以上、そこから全読者の行動をそのまま推定することはできないのである。

 したがって正確に言えるのは、「第1部から第2部へ進むところで登録数が大きく減っている」という事実までであり、「なぜ減ったのか」については、作品の完結感、映画化、後世の新規読者など、いくつもの理由を重ね合わせて考える必要がある。

私が離れた「放浪篇」は、実はまだ読者が大勢歩いている場所だった

 私は第3部「放浪篇」で『青春の門』から離れたので、長い間、何となく「かなり先まで読んだ」という感覚を持っていた。しかし数字を見てみると少し印象が変わり、第3部「放浪篇」の登録数445を100とすると、第4部「堕落篇」の405は約91、第5部「望郷篇」の382は約86、第6部「再起篇」の364でさえ約82に相当する。

 もちろん、これも同じ445人を追跡した数字ではないため、「放浪篇を読んだ人の82%が再起篇まで読んだ」とは言えない。しかし各篇の登録規模を見る限り、第3部から第6部にかけて急激な崩れは起きておらず、私は「放浪篇」という場所で1人、道を外れたような気分でいたけれど、実際にはそこはまだ長い読者の列が続いている場所だったらしい。

 第1部から第2部へ進むところでは登録数が大きく落ちたのに、その門を越えた人々の痕跡は、第3部、第4部、第5部、第6部と意外なほどしぶとく残っている。言い換えれば、『青春の門』は誰も彼も最後まで引っ張っていく小説というより、最初の段階で読者を大きく選別し、そこを越えた人には長く付き合われる小説だった可能性がある。

 多くの長編シリーズでは、巻を重ねるごとに少しずつ読者が減っていく姿を想像するが、『青春の門』の登録数を見る限り、最初に大きな落差があり、その後は比較的緩やかに減少している。厳密な統計調査ではないものの、「どこで読者が離れるのか」を考える材料としては、十分に興味深い形である。

本当なら「生存分析」をしたくなるデータである

 この問題を数理的に考えると、本来は生存分析に近い方法で調べたくなる。生存分析とは、ある状態がどれくらいの期間続き、どの時点で終わるのかを調べる統計的方法で、医学なら治療後の生存期間、工学なら機械が故障するまでの時間などを分析するが、これを読書に置き換えれば、「第1部から読み始めた人が何篇まで読み続けたのか」という問題になる。

 理想的には、第1部を読んだ人を100人集め、その同じ100人について、第2部へ進んだか、第3部へ進んだか、どの篇で読むのをやめたかを追跡すればよい。そうすれば、本当の意味で「読者がどこで離れたのか」を計算できるが、今回使える登録数は個人を追跡したデータではないため、生存分析そのものを行うことはできず、「第1部から第2部への登録数の減少が大きい」「第3部から第6部までは比較的安定している」という探索的な観察にとどめるべきである。

 数字を使う記事では、計算すること以上に、どこまで計算してよいのかを見極めることのほうが難しく、その境界を守ることが、記事全体の信頼性を支えることになる。

第7部から先では、作品の面白さだけでは説明できない壁が現れる

 さらに『青春の門』を複雑にしているのが、刊行された時間である。第7部「挑戦篇」は1993年6月に単行本化され、第8部「風雲篇」は1993年7月から1994年4月にかけて『週刊現代』に連載されているため、第7部のあと物語そのものが23年間完全に止まっていた、と書くのは正確ではない。

 しかし、第8部がまとまった書籍として刊行されたのは2016年12月であり、雑誌連載を追わず、単行本や文庫本だけで『青春の門』を読んできた人にとっては、第7部の書籍刊行から第8部の書籍化まで約23年という時間が流れたことになる。この23年は単なる「長い刊行間隔」と書いて済ませるにはあまりにも長く、43歳の人が66歳になるほどの時間である。

 その間には、小学生だった子供が社会人になっていても不思議ではなく、仕事の立場も、家族構成も、住んでいる場所も変わるだろうし、健康状態が変わる人もいれば、小説を読む習慣そのものを失う人もいる。読者は本棚の前で23年間静止して待っているわけではないのだから、ここまで時間が空けば、続きを買わなかった理由を「作品に飽きたから」とだけ説明するのは無理がある。

 作品から読者が離れたというより、現実の時間そのものが、作品と読者の間をゆっくり引き離していった人も少なくなかったのではないだろうか。

第8部の登録数が減るのは、本当に「読者離れ」なのか

 第7部「挑戦篇」の読書メーター登録数は322、第8部「風雲篇」の講談社文庫は205となっており、単純に割れば第8部は第7部の約64%の規模である。しかし、この差をそのまま「第7部を読んだ人の36%が第8部へ進まなかった」と解釈することはできない。

 第7部と第8部では刊行された年代が大きく違い、単行本と文庫本の刊行事情も異なるうえ、第8部は1993~1994年に雑誌で読んだ人もいる。さらに後年になれば、同じ作品でも単行本、文庫本、電子書籍などに読者が分散するため、特定の1冊だけの登録数は小さくなりやすい。

 第9部「漂流篇」になると問題はさらに複雑で、2017~2018年に雑誌連載され、2019年に『新 青春の門 第九部 漂流篇』として単行本が刊行され、2021年には文庫化されているため、同じ第9部の読者であっても、どの版で読んだかによって読書記録が別々に残る。したがって、第1部から第6部までと同じように登録数を一直線に並べ、減少率だけで読者離れを説明するのは危険である。

 だから第7部以降については、数字だけで読者離れを語るよりも、「長い刊行時間そのものが読者行動を変えてしまった」と考えるほうが、現実に近いのではないかと思う。

伊吹信介は青年のままなのに、読者だけが年を取っていった

 『青春の門』について考えていると、統計以上に奇妙な事実に気づく。第1部「筑豊篇」の単行本が刊行されたのは1970年11月であり、仮に当時20歳だった読者が、その年に伊吹信介と出会ったとすれば、その人は第8部が書籍化された2016年には66歳になり、第9部が単行本になった2019年には69歳、2026年の現在なら76歳である。

 小説の中では、信介は青年として悩み、恋をし、世界を見ようともがいている。しかし、その青年を追い続けた読者の側では、就職があり、結婚があり、子育てがあり、定年があり、親との別れがあり、場合によっては自分自身の老いと向き合う時間まで流れている。

 1970年に20歳で「青春の門」をくぐった読者が、第9部を手に取るころには70歳を目前にしているというのは、普通のシリーズ小説とはかなり違う読書体験だろう。青年の物語を青年として読み始め、その続きを老年になって読むという現象は、作者が作り出した時間とは別に、読者自身の人生というもう1本の時間が作品の横を流れ続けているからこそ生まれる。

 そう考えると、『青春の門』を途中で読むのをやめた人を、単純に「脱落した読者」と呼ぶこと自体が、少し違って見えてくる。

「途中でやめた」のではなく、人生のどこかで別れたのかもしれない

 長い小説を最後まで読めなかったと言うと、どうしても「挫折した」という感じがつきまとうが、『青春の門』ほど長い時間をかけて書かれた作品の場合、その言葉は必ずしもふさわしくない。

 第1部「筑豊篇」だけを読んだ人には、筑豊から東京へ旅立つ信介で終わる『青春の門』があり、第3部「放浪篇」で離れた私には、北海道の冷たい風の中で自分の生き方を探す信介が残っている。第6部「再起篇」まで読んだ人には、挫折から立ち上がろうとする信介がいて、第8部まで行った人には、ついに日本を離れシベリアへ向かう信介がいる。

 どこまで読んだかによって、それぞれの読者の中に存在する伊吹信介は少しずつ違う。それは不完全な読書というより、長大な作品だからこそ生まれる現象なのかもしれない。

 人間は1冊の本を読む間にも年を取るが、『青春の門』の場合は、その続きを待つ間に人生そのものが変わってしまうほどの時間が流れた。読む側が作品を捨てたのではなく、仕事、家族、別の本、別の興味、そして時間そのものに連れられて、いつの間にか信介とは違う道を歩き始めていた人も多かったのではないだろうか。

それでも「筑豊篇」を越えた読者は意外に遠くまで歩いている

 結局、『青春の門』の読者が平均して何篇まで読んだのかという問いに、正確な数字で答えることはできない。累計2200万部という販売部数からも分からず、読書メーターの登録数から厳密な読了率を計算することもできないが、そこから何も分からないわけではない。

 第1部「筑豊篇」の登録数855に対して、第2部「自立篇」は503まで大きく減っている一方、第3部445、第4部405、第5部382、第6部364と、その後の減少はかなり緩やかである。この数字が示しているのは、「第1部を読んだ人の何%が脱落した」という確定的な答えではなく、最初の門を越えた人々が、意外なほど長く伊吹信介について歩いた痕跡である。

 そして私が離れた第3部「放浪篇」は、その長い行列がまだかなり続いている地点だった。あのとき私は、自分ではかなり深いところまで『青春の門』を読んだつもりでいたが、実際には信介の旅はまだずっと先まで続いており、多くの読者の痕跡もその先に残っていたのである。

 何十年も前に本を閉じた読者が、ある日突然、「そういえば伊吹信介は、あのあとどうなったのだろう」と思い出すことがある。物語から離れたつもりだったのに、登場人物だけは心のどこかで年を取らずに待っているというのは、長編小説ならではの不思議さなのだろう。

読者が『青春の門』を離れたのか、それとも時間が2人を引き離したのか

 『青春の門』という題名をあらためて眺めると、少し不思議な気持ちになる。作品を読み始めたころ、「青春の門」をくぐるのは伊吹信介だと思っていたはずなのに、50年以上という時間の中で、門を通り過ぎてしまったのは読者のほうでもあった。

 信介は小説の中で青年であり続ける。しかし、1970年代に彼と出会った読者は青年から中年となり、やがて老年へ向かった。その途中で本を閉じた人もいれば、何十年ぶりに続きを手に取った人もいるだろう。

 だから、『青春の門』の読者は何篇まで読んでいるのだろうか、という問いに対する最も正確な答えは「分からない」である。しかし、その「分からない」の中身を調べていくと、第1部で本を閉じた人が多くいるように見え、その最初の門を越えた人々は意外なほど遠くまで信介についていき、第7部以降になると、物語の魅力だけでは説明できないほど長い現実の時間が、作品と読者の間に流れ込んでくるという、かなり面白い景色が見えてくる。

 私自身は第3部「放浪篇」で『青春の門』から遠ざかったが、この記事を書くために第4部「堕落篇」、第5部「望郷篇」、第6部「再起篇」と、その先に続く題名をあらためて眺めているうちに、「あのあと信介はどうなったのだろう」という気持ちが少し戻ってきた。何十年も続きを読まなかった小説なのに、主人公の名前を見れば記憶がよみがえるのだから、それだけでも大した小説なのだろう。

 読者のほうはとっくに青春の門を通り過ぎてしまったのに、本の中では今も伊吹信介が、その門の向こうを歩き続けている。

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坊っちゃんを「正義の人」と呼んでよいのだろうか

 夏目漱石の『坊っちゃん』を読み終えたとき、この小説の結末に痛快さを感じる人は少なくないだろう。陰で人間関係を動かしているように見える赤シャツと、その周囲で調子よく振る舞う野だいこ、作中で「野だ」と呼ばれる人物に対して、坊っちゃんと山嵐が最後に直接行動へ出るため、それまで物語の中に積み重ねられてきた鬱屈が一気に解消されるような構造になっており、その意味では『坊っちゃん』を、不正を嫌う青年が卑怯な大人たちに立ち向かう「正義の物語」として読むことは十分に可能である。

 しかし、物語を冒頭から丁寧に読み返してみると、坊っちゃんは決して冷静沈着な正義の味方ではなく、彼自身が「親譲りの無鉄砲」と語るように、子どものころから後先を十分に考えず行動し、教師になってからも生徒の悪戯に本気で腹を立て、同僚についても事情がすべて分かる前に判断を下すことがあるため、彼の行動をすべて「正義」という一語で説明してしまうと、坊っちゃんという人物が持つ危うさや未熟さが見えなくなってしまう。

 では、『坊っちゃん』は正義を貫く青年の物語なのか、それとも短気な青年が周囲と衝突し続ける物語なのかと考えると、実はこの2つを完全に切り離そうとすること自体が適切ではなく、むしろ坊っちゃんという人物の面白さは、正義感と短気さが別々に存在しているのではなく、目の前の出来事に対して理屈より先に「これはおかしい」と反応してしまう同じ気質から生まれているところにある。

考える前に反応してしまう青年

 坊っちゃんの大きな特徴は、何かがおかしいと感じたときの反応が非常に速いことであり、事情を整理し、証拠を集め、相手の立場まで理解したうえで判断するよりも、まず自分の中に生じた不快感や不信感に従って動くため、生徒にからかわれれば腹を立て、宿屋で不愉快な思いをすれば反発し、同僚の言動に裏があると感じれば、十分な確認をする前から警戒心を強めてしまう。

 そのため坊っちゃんの判断は常に正しいわけではなく、後になって考えを改めることもあり、とりわけ山嵐については、他人の言葉から一度疑いを持ちながら、その後の経験によって判断を修正していることからも分かるように、坊っちゃんは真実を最初から正確に見抜く英雄ではなく、思い違いもすれば、誤った相手を疑うこともある普通の青年として描かれている。

 もっとも、だからといって坊っちゃんを「社会に適応できない人物」とまで考えるのも正確ではなく、彼は学生時代に下宿生活を送り、東京へ戻った後には仕事にも就いているので、社会生活そのものができないわけではない。むしろ彼が苦手なのは、組織の中で曖昧な言葉を使い分け、相手によって本音と建前を切り替え、多少納得できないことがあっても人間関係を優先して受け流すような処世術であり、坊っちゃんは社会不適応者というより、損得のために自分の態度を器用に変える生き方になじめない人物と考えた方が、原作の姿に近い。

 そして、その不器用さこそが『坊っちゃん』という小説を動かす力になっており、もし坊っちゃんが何事にも慎重で、周囲の意向を読みながら円満な着地点を探す人物だったなら、赤シャツたちとの対立もここまで鮮明にはならなかっただろう。坊っちゃんは精密な測定器のように社会を正確に分析する人物ではないものの、少し感度が高すぎる警報装置のように、周囲が受け流してしまう違和感にすぐ反応し、その反応が間違うこともある一方で、本当に存在する不誠実さまで表面へ引きずり出してしまうのである。

赤シャツはなぜ坊っちゃんより「大人」に見えるのか

 坊っちゃんと最も鮮やかな対照をなしているのが赤シャツであり、赤シャツは感情をむき出しにせず、言葉遣いも柔らかく、立ち居振る舞いも坊っちゃんより洗練されているため、外から見れば、怒りをすぐ態度に出す坊っちゃんよりもはるかに社会的に成熟した人物に見える。

 ただし、この作品は坊っちゃんの一人称によって語られているため、赤シャツの内面を客観的にすべて知ることはできず、その人物像については坊っちゃんの視点を通した評価であることに注意しなければならない。それでも作中では、少なくとも坊っちゃんの目に、赤シャツは直接敵意を表すのではなく、言葉や立場を使いながら人間関係を動かす人物として映っており、実際に赤シャツの発言を受けた坊っちゃんが山嵐を疑うようになる場面を見ると、その言葉が周囲の関係に影響を与えていることは確かである。

 ここに描かれているのは、単純な善人と悪人の対立というより、率直すぎる人間と、社会的な言葉を巧みに使う人間との対立であり、坊っちゃんが世渡りを苦手とする一方で、赤シャツは世渡りがうまく見えるものの、作品はその「うまさ」が必ずしも人間的な誠実さと一致するわけではないことを、両者の対比を通して次第に浮かび上がらせていく。

 だから坊っちゃんの魅力は、彼がいつも正しいところにあるのではなく、思い違いをすることがあっても、自分が不自然だと感じたことを簡単には飲み込まず、利益のために昨日までの態度を都合よく変えることも少ないという、その不器用な一貫性にある。

坊っちゃんの正義は思想より感覚に近い

 坊っちゃんが持っている正義感は、高度な倫理思想や社会哲学から生まれたものではなく、彼は正義とは何かを体系的に論じる人物でもなければ、社会制度の中で正しさを実現する方法を慎重に考える人物でもない。それよりも、正直であること、単純であること、真率であることを重んじ、それに反するものを直感的に嫌う人物として描かれており、彼の倫理観は頭で組み立てられた思想というより、腹の中で感じる好き嫌いに近いところから始まっている。

 その感覚は未熟に見える一方で、かなり強固でもあり、自分に利益があるから態度を変える、上の立場の人間だから黙って従う、周囲も同じことをしているから受け入れるといった発想が彼には乏しいため、社会の中では損をすることも多いが、逆にいえば、その損得への鈍感さこそが彼の倫理感を支えている。

 普通の人間は、不正や不誠実さを感じたからといって、そのたびに正面から衝突するわけではなく、職場であれば人間関係を考え、将来への影響を考え、ときには黙ることもあるが、それは必ずしも卑怯なのではなく、社会生活を続けるために必要な判断でもある。ところが坊っちゃんには、そのような調整能力が十分ではないため、自分の感覚をほとんど加工しないまま行動へ移してしまい、その結果、相手を十分理解する前に疑ったり、言葉で解決できたかもしれない問題を感情によって大きくしたりする一方で、同じ性格が、周囲が見て見ぬふりをしていることに対して「おかしい」と反応する力にもなっている。

山嵐との関係が示す判断の修正

 坊っちゃんと山嵐の関係を見ると、主人公が最初から正しい人物判断をしているわけではないことがよく分かり、坊っちゃんは周囲の言葉に影響されて一度は山嵐を疑ってしまうものの、その後、実際の言動を見ながら自分の判断を変えていくため、この変化を大きな人格的成長と呼ぶのは少し言い過ぎであるにしても、少なくとも坊っちゃんが、一度下した判断を経験によって修正できる人物であることは確かである。

 物語の後半になると、坊っちゃんは山嵐の考えを認め、その判断に従う場面も見せるようになるが、それでも最後まで世間巧者になるわけではなく、人間関係を器用に調整する術を身につけるわけでもない。しかし、自分の最初の印象だけで人間を決めつけ続けるのでもなく、経験を通して相手を見直すことはできるという点で、山嵐との関係は、坊っちゃんの正義が完全な独善だけでできているわけではないことを示している。

赤シャツたちは本当に「現場」を押さえられたのか

 物語の終盤では、坊っちゃんと山嵐が赤シャツと野だいこの行動を確かめるために張り込みを行い、そこで実際に確認したのは、芸者が角屋へ入った後に赤シャツと野だいこもそこへ入り、翌朝になって2人が外へ出てくるところまでである。

 ここは物語を考えるうえで非常に重要であり、坊っちゃんたちは赤シャツが芸者と同席している現場そのものを直接見たわけではないため、現代的な意味で不正行為を完全に立証したとはいえず、赤シャツ自身も、自分がそこへ入ったことと芸者がいたことは別の問題だという趣旨の反論をしている。それにもかかわらず、坊っちゃんと山嵐はその反論を受け入れず、最後には赤シャツと野だいこへ直接的な制裁を加えるのであり、この点を正確に見れば、『坊っちゃん』の結末は単純な「悪事を確認して悪人を懲らしめた」という話ではなく、かなり強い状況証拠を前にした2人が、自分たちの確信によって正義を実行してしまう場面だと分かる。

 だからこそ、この結末には独特の面白さがあり、坊っちゃんたちの行為には痛快さを感じやすい物語的構造がある一方で、その正義の手続きは決して厳密ではなく、しかも暴力による私的制裁であるため、「正しいから爽快なのだ」と単純に理解することはできない。むしろ坊っちゃんの正義とは、正しいと思った瞬間に身体まで動いてしまう危うさを含んだ正義であり、その危うさが最も鮮明に表れるのが、この終盤の場面なのである。

坊っちゃんは制度をまったく使わなかったわけではない

 坊っちゃんという人物を、制度を嫌って何でも腕力で解決する青年と考えるのも正確ではなく、山嵐だけが辞職することになった際には、それを不公平だと考えて校長室へ行き、自分も辞職すると申し出ているので、少なくとも学校という組織の中で正式に意思を伝えようとする行動は取っている。

 ところが赤シャツの件になると、学校内部で正式に告発し、組織的な手続きを通じて責任を問う方法を選ぶのではなく、最終的には山嵐とともに私的な制裁へ向かうため、ここには坊っちゃんという人物の限界がはっきりと見えてくる。彼は制度というものを全面的に拒んでいるわけではないものの、制度が自分の期待どおりに正義を実現してくれると信じているわけでもなく、最後には自分自身の確信を優先するため、『坊っちゃん』の正義は現代的な法や手続きに基づく正義とは異なり、きわめて個人的で感情的な性質を持っているのである。

清は坊っちゃんの何を信じていたのか

 坊っちゃんを理解するうえで、赤シャツや山嵐と同じくらい重要なのが清であり、清は坊っちゃんを子どものころから特別にかわいがり、将来は立身出世して立派な人物になると信じているため、彼の社会的な成功に期待していなかったわけではないが、その期待の根底には、坊っちゃんの才能や能力だけではなく、彼の性格そのものへの強い信頼がある。

 家族から問題児のように扱われる坊っちゃんに対して、清はその真っすぐさを認め、欲の少なささえ好意的に受け止めており、この価値観は赤シャツたちが生きている世界とは鮮やかな対照をなしている。赤シャツの周囲では、言葉を使い分け、相手との関係を読み、立場を計算する能力が力を持つのに対して、清が価値を認めるのは、そのような器用さとはほとんど反対の性質だからである。

 もちろん坊っちゃんは、清が期待するほど完成された人物ではなく、短気で、乱暴で、思い込みによって人を疑うこともあるが、それでも清は、その欠点の奥にある真っすぐさを信じ続けるため、清という存在は、坊っちゃんの性格を単なる無鉄砲として終わらせず、その無鉄砲の中にある誠実さを照らし出す役割を果たしている。

「正義の物語」と「短気な青年の物語」は矛盾しない

 『坊っちゃん』を「正義の物語」とだけ読めば、主人公の思い込みや乱暴さを説明しにくくなる一方で、「短気な青年の物語」とだけ読めば、なぜ作品の中心に正直、真率、卑怯への反発といった倫理的な問題が繰り返し現れるのかを十分に説明できないため、実際にはこの2つを対立させるより、同じ人物の異なる側面として考えた方が自然である。

 坊っちゃんは完成された倫理観を持っているから正義を行うのではなく、考えるより先に「これはおかしい」と感じてしまう性格を持っているため、その感覚が不正への反発となることもあれば、単なる早合点や感情的な衝突へ転ぶこともあり、その意味で彼は英雄というより、正義感と未熟さがまだ分離していない青年といえる。正しいことだけをするわけではなく、間違えることもあるが、間違う可能性があるからといって目の前の違和感を黙って受け入れることもできないという、その不安定さこそが、坊っちゃんという人物を単純な勧善懲悪の主人公とは違う存在にしている。

坊っちゃんが今も面白い理由

 もし坊っちゃんが何事にも正しい完全無欠の人物であったなら、『坊っちゃん』はこれほど面白い小説にはならなかっただろうし、反対に、単に怒りっぽく乱暴なだけの青年だったなら、これほど長く読み継がれる人物にもならなかっただろう。坊っちゃんの中には、社会の中で生きていくための知恵が十分に備わっていない一方で、その知恵を身につける過程で失われがちな感覚が残っており、世間では事情を理解し、相手の立場を考え、簡単に人を裁かないことが成熟とされるものの、その成熟が進みすぎれば、筋の通らないことまで「仕方がない」と受け入れてしまう危険もある。

 『坊っちゃん』という作品が浮かび上がらせているのは、まさにその境界であり、世間とうまく付き合うことと誠実であることは同じではなく、反対に、誠実であることと常に正しいことも同じではないという、単純には割り切れない問題である。坊っちゃんはそのどちらにも完全には収まらない人物だからこそ面白く、世渡りのうまさを持たないから不誠実さに敏感である一方、その敏感さゆえに早合点し、自分の正義を他人に押しつけてしまう危うさまで抱えている。

 『坊っちゃん』は正義の物語なのか、それとも短気な青年の物語なのかという問いに対しては、単純に「どちらでもある」と答えるよりも、短気だからこそ正義がむき出しの形で表れてしまう青年の物語、と考えた方が作品の姿に近いだろう。

 坊っちゃんの正義は洗練されておらず、手続き的でもなく、ときには判断を誤り、最後には暴力にまで向かう危うさを持っているが、その奥には、世間に合わせることだけを覚えてしまえば失われかねない真っすぐさが残っている。『坊っちゃん』は、その真っすぐさを無条件に称賛するのでも、その未熟さを単純に笑うのでもなく、魅力と危険性を同じ人物の中に置くことによって、正義とは何か、成熟とは何か、そして社会とうまく付き合いながら自分の誠実さを失わずに生きるとはどういうことなのかを、今なお読者に問いかけているのである。

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 谷崎潤一郎と川端康成の作品を続けて読んでいると、どちらも女性を描き、身体を描き、季節や光や風景を描いているにもかかわらず、読み終えたあとに残る感触が驚くほど違うことに気づく。谷崎の小説では、着物の布地や髪の艶、肌に落ちる影、室内に漂う気配までが身体的な記憶として残り、読者は物語を「見た」というより、その世界の湿度や匂いまで感じたような気持ちになることがあるのに対し、川端の小説では、雪山、窓ガラス、夕暮れ、水面、遠くの灯といった一瞬の映像が、手を伸ばせば消えてしまいそうな記憶として残り、人物そのものよりも、人物と風景が重なった一場面のほうが長く心にとどまることさえある。

 この違いを、谷崎は官能的で川端は叙情的だという言葉だけで片づけてしまうと、2人の文学のもっと深いところにある差を見落としてしまう。少なくとも『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』と、『雪国』をはじめとする川端の代表的な作品群を比較してみると、谷崎の美は人間を引き寄せ、近づくほどその力から逃れにくくなる方向へ向かうことが多いのに対し、川端の美は目の前に現れながら、同時に距離や別れや消失を感じさせる方向へ向かう傾向が見えてくるのであり、もちろん谷崎にも喪失や死はあり、川端にも身体や官能や欲望はあるため、これは2人の全作品を単純に分割する法則ではないが、それでも女性、身体、風景という3つの視点から比べると、それぞれの美意識の違いを読み解くための有力な軸になる。

谷崎の女性は「見られる人」でありながら、見る者を支配していく

 谷崎潤一郎の作品には、男性の視線を強く引きつけ、その視線そのものを次第に拘束していく女性が繰り返し登場し、『痴人の愛』のナオミは、その代表的な存在だろう。主人公の譲治は、自分の理想に近い女性を育てようとし、最初はナオミを自分の側から眺め、評価し、教育しているつもりでいるが、物語が進むにつれてその関係は少しずつ反転し、彼がナオミを自分の理想へ近づけようとしていたはずなのに、いつの間にか彼自身のほうがナオミの美と欲望に振り回され、そこから離れられなくなっていく。

 この関係を興味深くしているのは、ナオミの美が人格全体だけによって成立しているのではなく、髪、肌、脚、声、歩き方、衣服といった身体の細部を通して具体的に感じられることであり、谷崎は女性を抽象的な「美人」として置くのではなく、その身体の一部一部を執拗に見つめることで、美を感覚的な力へ変え、見る者の感覚を刺激し、判断を狂わせ、ときには生き方まで変えてしまう作用として描いている。

 その意味では、谷崎文学における女性は単純に「男性から見られる存在」だけではなく、見られることによってむしろ力を持ち、見る側の男性のほうを拘束していく存在でもあり、『痴人の愛』を男性が女性を所有しようとする物語としてだけ読むのではなく、見る者が見られる対象の美に逆に支配されていく物語として読むことができるのは、そのためである。

『春琴抄』では、美を見ることそのものが問題になる

 『春琴抄』では、この関係がさらに特異な形へ進み、佐助は春琴を愛するだけでなく、彼女に仕え、その美を崇拝し、自分の人生そのものをそこへ差し出していくが、ここで重要になるのは、単に美しい女性を所有したいという欲望ではなく、美の前で自己を失うことにさえ意味を見いだす感情である。

 佐助が自ら視覚を閉ざすという極端な行為は、谷崎における「見る」という行為を考えるうえで象徴的であり、美しいものをもっと見たいという欲望が、最後には美を現実の視覚から切り離し、記憶や幻想の中に守ろうとする方向へ反転していくため、『春琴抄』は美に服従する人間の物語として読むことができる一方、美というものが現実の視覚によってそのまま保持できるのかという問題を描いた作品としても読むことができる。

 この点から考えると、谷崎の美は単純な官能性だけでは説明できず、身体に強く執着しながら、その身体を現実以上に美しくしようとする想像力が働いており、実在する女性と、見る者の心の中で作られた女性像との境界はしだいに曖昧になっていくため、谷崎の美はきわめて身体的でありながら、同時に幻想的でもある。

川端の女性は、近くにいるのに最後まで遠い

 川端康成の女性もまた美しく描かれるが、そこには谷崎の女性に見られるような、相手を身体的に圧倒し、欲望の中へ引き込む強さとは少し違った魅力があり、彼女たちはすぐ近くにいるにもかかわらず、どこか最後まで届かない存在として描かれることが多く、その埋まらない距離そのものが美しさを生み出している。

 『雪国』の駒子を考えると、そのことがよく分かり、駒子は島村の近くにいて、酒を飲み、話し、笑い、怒り、感情を率直に表すほど現実的で生身の存在として描かれているにもかかわらず、島村は彼女の人生そのものへ完全に入ることができず、身体の距離は縮まっても精神の距離が完全には埋まらないという不均衡が、物語に独特の緊張を与えている。

 しかも川端の作品では、女性がしばしば直接そのまま見られるのではなく、窓ガラス、鏡、雪、水面、夕暮れの光といったものを介して現れ、『雪国』で汽車の窓ガラスに映る女性の顔と外の夕景色が重なって見える描写が強く印象に残るのは、女性が単なる登場人物としてではなく、現実と風景の境界に一瞬だけ現れる像として描かれているからである。

 顔はそこに存在しているのに、窓ガラスを通した瞬間、風景と重なり、現実の身体であると同時に幻のような像へ変わってしまうため、川端の美を考えるうえでは、この「そこにいるのに完全にはつかめない」という感覚が非常に重要になり、谷崎が対象へ近づくことで美を濃くしていく作家だとすれば、川端は対象との間にわずかな距離を残すことで、美を持続させる作家として読むことができる。

谷崎の身体は、細部に近づくほど濃くなる

 この違いは、身体の描き方にもはっきり表れており、谷崎にとって身体は美がもっとも強く現れる場所の一つで、人間全体よりも身体の一部分が異様なほど大きな意味を持つことさえあり、足、髪、指、肌、声といった細部が人物の性格以上に読者の記憶へ残るのは、谷崎が人間の美しさを抽象的な人格ではなく、感覚を刺激する具体的な細部の中に見いだす傾向が強かったからである。

 ただし、谷崎の身体は決して裸の身体だけではなく、着物、化粧、室内の暗さ、障子越しの光、漆器の艶、古い家屋の奥行きといった周囲の環境と結びつくことで、身体はさらに美しく見えるようになり、『陰翳礼讃』に示される美意識を考えれば、すべてを均一な明るさの下にさらしてしまうのではなく、暗がりの中で一部だけが浮かび上がるほうが、対象はかえって強い印象を与えるという感覚を理解しやすい。

 したがって谷崎の美は、身体それ自体に閉じ込められたものではなく、身体と布、光と影、木や紙や漆といった素材、そして人間が暮らす空間との関係の中で成立しており、その世界は非常に物質的で、読者はそれを頭の中だけで理解するのではなく、視覚や触覚、時には匂いまで想像しながら読むことになる。

川端では、身体が風景へ溶ける瞬間に美が生まれる

 川端も女性の顔や手や肌を描くが、その身体は谷崎ほど重く物質的にとどまらないことが多く、むしろ光や風景の中へ溶け、輪郭が不確かになった瞬間にかえって強い美しさを帯び、人の顔が窓に映るとき、その顔は実在する身体であると同時に光の反射が作り出した像でもあるため、「実在しているもの」と「消えてしまいそうなもの」が同時に存在することになる。

 川端はそうした境界の瞬間に強く惹かれていたと考えることができ、そのため川端作品では、美しいものの中にしばしば不安定さが入り込み、若さはいつか失われ、恋愛は形を変え、季節は移り、光は消えるが、それを単純に「川端は喪失だけを描いた」と言い切るのは適切ではなく、川端にも身体への強い関心や官能的な描写があり、美と欲望が切り離されているわけではない。

 それでも、谷崎が存在する身体へ近づき、その細部を濃密に見つめる方向へ進むことが多いのに対し、川端は身体が風景や光の中へ溶けていく瞬間をとらえることが多く、その違いは2人の作品を比較するうえで、かなり有効な手がかりになる。

『細雪』では、風景は単なる背景ではない

 谷崎の作品には、庭、古い家屋、京都や大阪の街、季節の移り変わりといった風景が数多く登場するが、少なくとも『細雪』では、風景や季節は人物から切り離された背景として置かれているわけではなく、花見、着物、食事、家族の習慣、土地の空気が互いに結びつき、その中で人物の姿や生活が描かれていくため、春の桜の中で見る人物と冬の室内で見る人物では、同じ女性でも印象が変わる。

 周囲の光や気温、衣服、行事が人物の見え方を変え、それらが積み重なることで『細雪』独特の美的世界が作られているのであり、その意味では、風景や季節が人物の美を際立たせる働きをしていると読むことができるが、それと同時に、『細雪』を「失われゆく古き日本の美を描いた作品」とだけ理解すると、この作品の複雑さを見失うことにもなる。

 そこには昭和という時代の現実があり、結婚、家制度、都市生活、社会の変化、戦争へ向かう時代の影も存在しているため、優雅に見える生活の中にも不安やずれがあり、その複雑さが作品を単なる伝統美の展示にはしていないのであって、谷崎の風景を「人間を美しく見せる額縁」と考えることは一つの有効な読み方ではあるものの、それだけで作品全体を説明することはできず、風景は人物を美しく見せると同時に、その人物が生きている時代や社会の変化を静かに映すものでもある。

川端では、人間が風景の中へ吸収されていく

 一方、川端では、風景が人物以上の大きさを持つように感じられる場面が少なくなく、『雪国』を読み終えたあと、島村や駒子の顔だけではなく、雪、山、夜、汽車、火事、そして空に広がる天の川が強く記憶に残るのは、人間が風景を眺めているだけではなく、人間そのものが風景の一部へ吸収されていくように描かれているからだろう。

 ただし、川端の自然を単純な感情の象徴として理解するのも十分ではなく、人物が悲しいから雪が降るのではなく、雪は人物の感情とは無関係に降り続け、恋愛が終わっても山はあり、誰かの人生が変わっても季節は巡るという、人間とは無関係に存在する自然の大きさが、かえって人間の感情や時間の短さを際立たせている。

 ここでは、風景は人間を慰めるものでも、人間の感情を単純に代弁するものでもなく、人間の生とは別の時間を持つものとして存在し、その中に一瞬だけ人物の姿が浮かび上がるため、その構図が川端の作品に独特の静けさと冷たさを与えている。

「谷崎=欲望、川端=喪失」は法則ではなく、比較のための軸である

 ここまで女性、身体、風景という3つの方向から見てくると、谷崎潤一郎と川端康成の美意識には明らかな違いが見えてくるが、その違いを単純に「谷崎は欲望、川端は喪失」と言い切ると、それぞれの作品が持つ幅を狭めてしまい、谷崎にも老い、記憶、死、失われるものへの意識があり、川端にも性愛や身体的欲望が存在することを見落としてしまう。

 それでも主要な作品を比較してみると、谷崎では美しいものを見たい、近づきたい、触れたい、あるいは美に支配されたいという方向へ感情が進むことが多いのに対し、川端では美しいものを見つめる行為の中に、距離や時間や消失の感覚が入り込むことが多いため、「谷崎は美しいから離れられないと描き、川端は失われるから美しいと描いた」という言葉は、2人の文学を完全に説明する結論ではなく、両者の違いを際立たせるための要約として受け取るのが適切だろう。

 この程度の距離を置いて考えれば、2人の作品の多様さを保ちながら、それぞれの特徴を見失わずに比較することができ、単純な二分法に陥ることなく、なぜ同じ「美」を扱いながら読後感がこれほど異なるのかという問いにも答えやすくなる。

同じ日本の風景を見ても、2人の視線は同じではなかった

 谷崎潤一郎と川端康成は、ともに日本の美を論じる際に名前を挙げられることの多い作家だが、その「日本の美」という言葉だけで2人を一つにまとめてしまうと、むしろ重要な違いが見えなくなり、谷崎が見つめたのは、暗い室内の中で着物や髪や肌がどのように光を受け、素材や影との関係の中で美がどのように生まれるかという世界であり、その視線は対象へ近づき、細部へ入り込み、美を触覚的な経験へ近づけていく。

 一方、川端の視線は、窓越しの顔、雪山、夕暮れ、遠くの灯のように、人間と風景の境界が曖昧になる瞬間へ向かい、対象へ近づこうとしながらも完全には触れない距離を残すため、そこに現れる美には、見ることの喜びと同時に、いつか消えてしまうものを見つめているような感覚が入り込む。

 谷崎の世界を象徴するものを一つ選ぶなら、暗がりの中でわずかな光を受ける女性の肌を思い浮かべることができるだろうし、川端の世界を象徴するものを一つ選ぶなら、汽車の窓ガラスに映り、外の風景と重なりながら一瞬だけ現れる女性の顔が浮かぶだろうが、どちらも美しいにもかかわらず、その美しさが成立する場所と、その美しさを見つめる視線の方向は大きく異なっている。

 谷崎の美には近づきたいという欲望が強く働き、川端の美には近づいてもなお残る距離があり、谷崎では身体の熱が美を支え、川端では風景や時間が身体の輪郭を揺らしていくが、こうした違いは絶対的な法則ではなくても、2人の代表作を読み比べると確かに繰り返し現れてくる。

 同じ女性を見ても、同じ身体を見ても、同じ日本の風景を見ても、谷崎潤一郎と川端康成が見ていたものは完全には同じではなく、谷崎は美をこの世界の中に濃く定着させ、その力が人間をどこまで引きつけるかを描こうとしたのに対し、川端は美が世界の中に現れては揺らぎ、やがて遠ざかっていく瞬間を見つめ、その視線の違いが、日本近代文学の中に、互いに似ているようで決して重ならない2つの「美」を残したのである。

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物語が終わったあと、本の中にはまだ時間が残っている

 古い文庫本を読み終えたとき、私はときどき、物語そのものよりも、そのあとに置かれた数ページの文章に長く引き止められることがある。主人公の人生はすでに終わり、物語の最後の1行には作者が用意した静かな終止符が打たれているのに、ページをめくると、そこから突然、別の人間の声が聞こえてくる。それが巻末解説であり、その声は作者自身のものではなく、作品が世に出てから10年、20年、場合によってはそれ以上の年月を経たあとに、その作品を読み直した別の読者の声であることも少なくない。

 その瞬間、1冊の文庫本の中に2つの時間が存在していることに気づく。本文の中には作者が作品を書いた時代が残り、巻末解説には、その作品が後の時代にどのように読まれ、どの部分に価値が見いだされ、何が問題として意識されたのかという別の時間が刻まれているため、小説が過去から届いた手紙だとするなら、解説は、それを受け取った後世の読者が余白に書き残した返事のようにも見えてくる。

 新しい文庫本では、この時間差をそれほど意識しないかもしれないが、古本屋で少し黄ばんだ文庫本を手に取り、奥付を見ると何十年も前の日付が印刷されているような場合には、巻末解説の文章そのものまでが、その時代の空気をまとって見えてくる。紙の色や定価、著者紹介の肩書だけでなく、何を当然の前提として語り、何をわざわざ説明し、何に驚いているのかという文章の癖までが、その本が生きてきた時間を静かに伝えてくるのである。

解説とは、作品について書かれた文章であると同時に、読者について書かれた文章でもある

 巻末解説という言葉からは、作品の意味を整理し、作者の経歴や成立事情を説明し、文学史上の位置を読者に教える文章を想像しやすい。しかし実際には、それほど整然としたものばかりではなく、ある作家は自分が学生だったころにその作品を読んだ記憶から語り始め、別の解説者は作者本人と会った日のことを書き、さらに別の人は、作品そのものから離れて、自分が若かったころの街や学校や家族の空気へと話を広げていくことがある。

 そうした文章を読んでいると、作品を説明しているのか、解説者自身の人生を語っているのか、その境界は次第に曖昧になっていくが、むしろその曖昧さこそが巻末解説の魅力なのではないかと思う。人は作品を読むとき、自分の年齢や経験や社会の空気を完全に置き去りにすることはできず、どの人物に共感し、どの場面に違和感を覚え、どの言葉を重要だと感じるかは、その人がどのような時代を生きてきたのかと深く結びついているからである。

 文学研究には、作品の意味は本文だけで完結するのではなく、読者の受け取り方によっても形成されると考える立場があり、また、序文や後書き、解説、帯など、本文の周囲に置かれた文章や情報を、作品の受け取られ方に関わるものとして考える理論もある。こうした考え方に照らしてみても、巻末解説は単なる付録ではなく、作品と読者との関係を記録したもう1つの文章として読むことができる。

同じ本文を前提にしても、作品の見え方は時代とともに変わる

 文学作品は不思議なもので、同じ本文を前提にしても、時代が変わるとまったく違う物語のように見えることがある。かつて恋愛小説として読まれていた作品が、後の時代には女性の生き方や家族制度を描いた作品として読み直されることがあり、家庭の物語と思われていた小説が、階級や労働、地域社会を描いた作品として評価されるようになることもあるが、そこで変わっているのは文字そのものというより、その文字を見る読者の側なのである。

 例えば、ある登場人物が会社を辞める場面を考えてみると、安定した雇用と経済成長が社会の前提だった時代には、その行為は組織から離れて自分の人生を選ぶ決断として読まれたかもしれないが、雇用の不安定さが広く意識される時代の読者には、生活基盤を失う危険を抱えた行為として映るかもしれない。同じ場面を読んでいても、読者が立っている社会的な場所が変われば、登場人物の行動に与えられる意味も変化し、その変化は巻末解説の文章にかなり率直に現れる。

 解説者は作品を客観的に論じようとしていても、その時代に何が重要と考えられ、どのような人生が望ましいとされ、どのような問題が社会的に意識されていたのかという感覚から完全に自由になることはできない。そのため、数十年前の解説を現在読むと、作品について書かれた文章であるはずなのに、その作品以上に、解説が書かれた時代の社会や価値観の方が鮮明に浮かび上がってくることがある。

長く読み継がれる作品ほど、読まれ方の歴史も積み重なっていく

 作品が長く読み継がれれば、それだけ異なる時代の読者が同じ文章と向き合うことになる。ある時代には恋愛が中心に見えた作品が、別の時代には家族制度の問題として読まれ、さらに後の時代には個人と社会の関係を描いた作品として読み直されることがあるが、それは過去の読み方が間違っていたということではなく、作品の中に複数の読み方を許す余地があり、社会の側が変わることで新しい面が見えてきたと考えた方が自然だろう。

 そう考えると、文学史は作品がいつ書かれたかという「書かれた歴史」だけでは成り立たない。作品がその後どのように評価され、何を読み取られ、どのような意味を与えられてきたのかという「読まれた歴史」もまた存在し、巻末解説は、その歴史の一部を思いがけず保存している。

 ある作品が1950年代にどのように読まれ、1970年代にはどこが注目され、1990年代には何が問題として語られ、2020年代の読者がどこに違和感を持つのかを並べてみれば、作品の周囲を流れる時代の変化が見えてくる。同じ作品の複数の版を並べ、それぞれの解説を読み比べるだけでも、作品そのものとは別の「受容の歴史」が立ち上がってくるのである。

古い解説には、その時代の「普通」が残っている

 古い文庫本の解説を読んでいると、現在ならもう少し慎重に書かれるだろうと思われる表現に出会うことがある。男女の役割について何の疑問もなく語られていたり、家族についてある特定の形だけが当然の前提になっていたり、学歴や職業について現在よりも明確な序列意識がにじんでいる場合もあるが、そうした文章を単純に「昔の価値観」として切り捨ててしまえば、その文章が持つ歴史資料としての面白さも同時に失われてしまう。

 むしろ注目したいのは、解説者が強く主張している部分よりも、説明する必要さえないと思っている部分である。人は、自分にとって当然だと思っていることほど詳しく説明しないため、その時代の価値観は、意見として前面に出された箇所よりも、何気なく前提として置かれている表現の中に残りやすい。

 昔の街を写した写真を見るとき、写真の中央に立っている人物よりも、背景の看板や自動車、商店の名前、通行人の服装などに目を奪われることがあるが、巻末解説にもそれと似たところがある。解説者が本当に書こうとしたのは作品論であったとしても、何十年も後の読者にとっては、その文章の隅に偶然残された言葉遣いや価値観の方が、当時の社会を知る手がかりになることがあるのである。

作家が別の作家について語るとき、文学の人間関係が見えてくる

 文庫本の巻末解説には、研究者だけでなく、小説家や随筆家が登場することも多く、作家による解説には学術的な作品研究とは少し違った温度がある。作品がいつ書かれ、文学史の中でどの位置に置かれるのかという説明よりも、自分がその作品を初めて読んだときの驚きや、自分自身の創作との関係、作者本人との記憶が語られることがあり、そこでは文学が教科書の中の静かな歴史ではなく、生きた人間同士の関係として現れてくる。

 後世から文学史を眺めていると、有名な作家たちは最初から「大作家」として存在していたように感じてしまう。しかし実際には、誰にでも若手だった時代があり、まだ評価の定まらなかった時期があり、その中で互いの作品を読み、影響を受け、反発し、尊敬しながら創作を続けていたのであり、その途中で書かれた巻末解説には、後から整理された文学史には残りにくい人間的な距離感が保存されている。

 古い文庫本を開いたとき、現在では大作家として知られている人物が巻末解説者として小さく名前を載せていることがあるが、そうした瞬間には、本の中に偶然保存された文学史の断片を見つけたような感覚がある。本文だけを考えれば新しい版でも同じ作品を読むことはできる場合が多いが、解説まで含めて考えれば、古い版は必ずしも新しい版と同じ本とは言えず、その時代に誰がその作品を読み、どのような言葉で語ったのかという記録は、その版にしか残っていないことがある。

「作品より解説の方が時代を映す」という逆転は本当に起こるのか

 ここで最初の問いに戻ってみたい。作品そのものよりも、巻末解説の方がその時代を鮮明に映すことはあるのだろうか。

 これは十分に起こりうることだと思う。長く読み継がれる文学作品には、人間の孤独、愛情、嫉妬、欲望、老い、死といった、時代が変わっても読者が自分自身の問題として受け取りうる要素が含まれていることがあり、そのため作品は成立した時代を越えて読み続けられることがある。一方で、巻末解説は特定の時点から作品を眺め、「この作品をいまどう読むのか」を語る文章である以上、その時代の問題意識や価値観を避けることは難しい。

 例えば、ある時代には家庭や結婚が中心的な問題として語られ、別の時代には労働や階級が注目され、さらに別の時代には個人の自由や社会的な立場が強く意識されるというように、作品を見る角度そのものが時代とともに変化していく。作品は成立した時代を越えて読まれうる一方、解説は特定の時代の視点から作品を見つめた文章であるため、数十年後に読み返すと、作品よりも解説の方から、その時代独特の空気が強く伝わってくることがあるのである。

文庫本は、作品だけでなく「読まれた時間」まで保存している

 このように考えると、文庫本というものが少し違って見えてくる。小型で安価で持ち運びやすい本というだけではなく、作品と、その作品が読まれた時代とを一緒に閉じ込めた小さな記録装置のようなものなのである。本文という中心が長く読み継がれる一方で、その周囲に置かれる解説は版によって変わり、そのたびに作品は新しい時代の光を当てられてきた。

 もちろん、実際の書籍では校訂や誤植修正、表記の変更、作者による改稿、新訳などによって本文そのものが変化する場合もあるため、「作品の文章は永久に変わらない」と考えるのは正確ではない。それでも、同じ本文を前提に複数の時代の解説を読み比べれば、作品の受け取られ方が時代とともに変わる様子を見ることはできる。

 もし同じ作品について、1950年代、1970年代、1990年代、2020年代の巻末解説を集めることができたなら、そこには単なる文学評論の違いだけではなく、使われる言葉、問題にされる価値観、注目される登場人物、社会に対する前提の違いまで現れるはずである。数多くの作品について年代別の解説を集め、語彙やテーマの違いを調べれば、「巻末解説には時代性が現れる」という感覚は、文学的な印象にとどまらず、ある程度は実証的に検討できる研究課題にもなりうるだろう。

巻末解説は、未来の読者に届いたつもりのない手紙なのかもしれない

 解説を書いた人が、自分の文章が何十年も後にどのように読まれるかまで意識していたかどうかは、個々の書き手によって異なるため、一概には言えない。それでも、後世の読者がその文章を作品論としてだけではなく、「その時代の人間がどのように文学を読んでいたのか」を知る資料として読むことまで想定していなかった場合は少なくないだろう。

 しかし本が残れば、文章も残る。そうして当時の読者に向けて書かれたはずの巻末解説は、書き手の意図を離れ、数十年後の読者にまで届いていくことになり、そのとき文章は、作品の説明であると同時に、その時代の言葉や価値観を伝える証言へと姿を変える。

 古本屋で少し日に焼けた文庫本を手に取り、本文を読み終えたあとで巻末解説へ進むとき、私たちは知らないうちに、2人の人間から手紙を受け取っているのかもしれない。1通目は作品を書いた作者から届き、2通目は、その作品を何年か後に読んだ解説者から届き、さらに現在の読者である私たちは、その2通をもっと後の時代から読むことになる。

 そこには、作者が生きた時代、解説者が生きた時代、そして自分が生きている現在という、3つの時間が静かに重なっている。だから巻末解説は、作品を理解するための付録というだけではなく、その作品がどのような時代を通り抜け、どのような読者に受け取られてきたのかを記録する、小さな伴走者のようなものなのだろう。

 物語の最後の1行を読み終えたあと、本の中にはまだ少しだけ時間が残っている。その数ページをめくった先で出会うのは、作品について説明するためだけの文章ではなく、かつて同じ作品を読んだ誰かの声であり、何十年も後になってその声に耳を澄ませるとき、私たちは文学作品そのものだけではなく、その作品が生き延びてきた時間と、それを読んできた人々の時間まで読んでいるのである。

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小説は同じなのに、読んでいる物語が違ってくる

 20歳のころに読んだ小説を、60歳になってもう一度開く。ページに並んでいる文章は40年前と変わらず、登場人物の年齢も性格も、彼らが選んだ仕事も恋愛も失敗も変わっていない。それなのに読み進めていると、ときどき「こんな話だっただろうか」と思う瞬間が訪れ、以前は魅力的に見えた主人公がひどく身勝手に思えたり、ほとんど記憶に残っていなかった脇役の一言が妙に心に残ったりする。

 変わったのは小説ではなく読者である。しかし、ここで「人は年を取るほど人間を見る目が深くなる」と簡単に片づけてしまうと、おそらく本当の面白さを取り逃がす。心理学の研究を見ても、加齢によって他人の気持ちを読み取る能力が一方向に向上していくわけではなく、むしろ年齢とともに低下しやすい認知能力がある一方で、対人関係の葛藤について複数の立場を考えたり、簡単には答えが出ないことを受け入れたりする傾向が強くなる場合もあることが報告されている。

 したがって、20歳の読者より60歳の読者のほうが優れているという話ではない。同じ文章を前にしても、どこに視線を向けるか、どの人物の事情を想像するか、何を重大な問題だと感じるかが変わっていくのである。

20歳の読者は、主人公のすぐ近くにいる

 20歳前後で小説を読むとき、物語の中心にいる人物と自分との距離は近い。主人公が家を出れば、その先にある自由を感じ、会社や学校に反発すれば、その息苦しさに共感し、恋のために仕事を捨てようとする人物が登場すれば、その選択の危険よりも、そこにある情熱のほうが鮮やかに見える場合もある。

 これは若い人が単純だからではない。20歳前後という年代では、自分自身の人生もまだ大きく開かれており、「これから何になるのか」「どこで生きるのか」「誰を選ぶのか」という問いが現実の問題として目の前にあるため、物語の中でも未来へ向かって走る人物が自然に中心になるのである。

 ところが60歳で同じ場面を読むと、主人公の後ろに別の人々が見えてくることがある。主人公が仕事を辞めれば、その収入を前提として暮らしている家族はいないのかと思い、恋のために家庭を離れれば、残された配偶者や子どもの翌朝まで想像してしまうので、若いころには主人公と一緒に走っていた読者が、いつの間にか少し離れた場所から物語全体を見るようになる。

 ただし、これは年齢だけで起こる変化とは限らない。仕事を続けた経験、結婚、子育て、親の老い、介護、病気、死別、金銭的な責任など、その人が40年間に経験した出来事が読書の中へ入り込んでいる可能性が大きく、60歳という数字そのものより、そこへ至るまでに積み重なった生活のほうが重要なのかもしれない。

昔は邪魔に見えた人物が、急に理解できることがある

 再読で最も不思議なのは、以前は物語の邪魔をしているようにしか思えなかった人物が、突然、存在感を持ちはじめることである。主人公を止めようとする父親、現実的なことばかり言う母親、夢より生活を選ぶ友人、家族を守るために慎重になる配偶者などは、若い読者から見ると臆病で保守的な人間に見えることがある。

 ところが長い時間を生きたあとで読むと、「そんな無茶はやめなさい」という言葉にも別の響きが生まれ、その人物は単に変化を嫌っているのではなく、失敗したあとの生活まで想像していたのではないか、自分自身も若いころには似た夢を持っていたのではないかと考えはじめることで、物語には書かれていない時間まで見えてくる。

 社会心理学の研究では、対人関係の葛藤について考える場合、高齢者のほうが複数の視点、不確実性、妥協といった要素を考慮することがあると報告されているが、これはすべての人に当てはまるわけではなく、文化によっても違いがある。日本の若者と米国の若者を比較した研究では、日本側では若い段階から複数の立場を考慮する傾向が比較的強く、年齢による変化が米国ほど明瞭ではないという結果もある。

 つまり、20歳では単純で60歳では複雑になるという一本道ではない。それでも、長い人生経験が小説の中にある空白を埋める材料になることはあり得るし、読者は書かれている言葉だけではなく、その言葉を言わせた人生まで想像するようになるのである。

悪人が悪人だけではなくなり、善人も善人だけではなくなる

 若いころの読書では、人物の輪郭をはっきりさせることで物語を理解することがある。勇敢な人と臆病な人、誠実な人と卑怯な人、自由な人と古い価値観に縛られた人というように分ければ、物語は分かりやすい。

 しかし現実の人間関係を何十年も経験すると、その分類が少しずつ不安定になる。誠実な人が誰かを傷つけることもあれば、身勝手に見えた選択が長い時間のあとでは別の意味を持つこともあり、愛情から相手を束縛する人もいれば、責任感が強すぎるために冷酷になる人もいるので、現実の人間がそんなに整然とは分類できないことを知ると、小説の登場人物もまた単純な善人や悪人ではなくなる。

 だからといって、年を取れば何でも許せるようになるわけではない。むしろ逆に、若いころには大胆で格好よく見えた行動を、60歳になってから読むと無責任だと感じる場合もあるが、それでも「この人物は間違っている」で思考を止めず、「なぜ、この人物はこういう選択をしたのだろう」と考える余地が生まれる。

 年齢とともに他者の感情や意図を正確に読み取る能力が必ず高くなるわけではないことも、心理学研究では示されている。それでも、正解を当てる能力と、複数の可能性を考える姿勢とは同じものではなく、60歳の読者が20歳の読者より人間を正確に理解できるとは限らないものの、人間を簡単には決めつけなくなる場合はあるのである。

恋愛小説では、物語の「その後」が見えてくる

 恋愛を扱った小説は、再読による変化が特に分かりやすい。20歳で読むとき、「2人は結ばれるのか」という問いが物語の中心に見えることがあり、告白するのか、別れるのか、再会するのかという出来事が大きく見え、恋愛の成否が人生そのものを決めるように感じられる。

 ところが60歳になって同じ物語を読むと、物語が終わった場所の先に、30年、40年の時間を想像してしまうことがある。激しく愛し合った2人が結婚したとして、同じ気持ちのまま何十年も暮らせるのか、病気になったらどうするのか、収入が減ったらどうするのか、親の介護が始まったらどうするのか、どちらかが先に老いたらどうするのかと考えているうちに、20歳では「結ばれた」という場所に結末を感じていたのに、60歳ではそこが人生の入口に見えてくる。

 もちろん、60歳の読者が必ずこう考えるという科学的証拠があるわけではなく、これは人生経験と時間感覚の変化から考えられる、十分あり得る読み方の1つである。しかし、人は年齢とともに将来の時間を無限に感じにくくなり、現在の感情的な意味や重要な人間関係を重視するようになるという心理学の理論は、この変化を考えるうえで示唆的である。

 若い読者が「この恋は始まるのか」を読み、年齢を重ねた読者が「この関係は続くのか」を読むことがあるとすれば、同じ恋愛小説の中で見ている時間の長さそのものが変わったということなのだろう。

親を描いた人物は、自分の立っている場所によって変わる

 親子関係を描いた場面では、読者自身の立場が人物評価に強く影響する。20歳で小説を読んでいるとき、多くの読者は子どもの側から親を見るため、親が進学や就職、結婚に口を出せば、それは干渉に見え、主人公が家を出れば解放に感じられる。

 しかし、その後に自分が親になったり、親の老いを見たり、介護を経験したり、親を失ったりすると、同じ小説の父親や母親に別の表情が見えることがある。かつてはただ口うるさいと思っていた言葉の中に、不器用な心配を感じるようになり、子どもを束縛しているように見えた親にも、自分の手から子どもが離れていく寂しさがあったのではないかと想像する。

 ここでも重要なのは、60歳だから理解できるのではないということである。20代で親の介護を経験する人もいれば、60代でも子どもを持たない人もいるため、登場人物の評価を変えるのは年齢だけではなく、その読者が何を経験したかである。

 年齢は時計で測れるが、人生経験は時計だけでは測れない。同じ60歳でも40年間に経験した出来事はまったく違い、その違いがあるからこそ、同じ小説を60歳の10人が読んでも、10通りの再読になる。

60歳だから変わったのか、それとも2回目だから変わったのか

 再読について考えると、さらに厄介な問題が出てくる。20歳のときが初読で、60歳のときが2回目なら、評価が変わった原因は年齢だけではないからである。

 初めて読む小説では、「次に何が起こるのか」が大きな関心になり、誰が裏切るのか、恋は成就するのか、事件はどう解決するのかを知らないため、物語の展開そのものに注意が向く。しかし2回目には結末をある程度知っているため、細かな会話や脇役の反応、最初の読書では気づかなかった伏線に目を向ける余裕ができる。

 文学作品の再読についての研究でも、2回目の読書では理解の仕方や注意の向け方が変化することが示されているため、60歳になって脇役が気になるようになったとしても、それがすべて40年間の人生経験によるものとは限らず、単純に2回目だから見えるようになった部分もある。

 20歳から60歳までの変化を本当に確かめるなら、同じ人物に同じ小説を何十年も隔てて読んでもらい、そのたびに登場人物への好感度、共感、責任の評価などを記録しなければならないだろう。それほど長い研究は容易ではないため、「20歳と60歳では必ずこう変わる」と科学的に断定できるほど直接的な証拠はまだ十分ではないが、それでも再読という行為に年齢、経験、記憶が同時に入り込むからこそ、昔の本を読むことは興味深いのである。

その典型例の一つが森鷗外『舞姫』かもしれません。豊太郎を若い時に読む場合と、人生経験を重ねてから読む場合では評価が変わる可能性があります。「舞姫の豊太郎は本当にひどい男なのか」でも、この問題を別の角度から考えました。

同じ作品を読むことは、昔の自分を測ることでもある

 40年前に読んだ小説を読み直したとき、昔嫌いだった人物を好きになっていたなら、それは作品が変化したからではないし、かつて憧れていた主人公に違和感を覚えたなら、それもまた、現在の自分と過去の自分との間に何かが起きたということである。

 ただし、その変化を「成長」という一語で片づける必要はない。若いころには見えていたものを、年齢を重ねることで失う場合もあり、20歳だからこそ主人公の衝動を理解でき、60歳になると現実を知りすぎたために、その無謀さの中にあった美しさを感じにくくなることもあるだろう。

 反対に、若いころには退屈だと思った慎重な人物の苦しみが、後になって理解できることもある。つまり読書の変化は、若い自分から成熟した自分へ一直線に進む物語ではなく、何かが見えるようになる一方で別の何かが見えにくくなるという交換を繰り返していくものであり、その交換こそが、年齢を重ねることなのかもしれない。

20歳の読みと60歳の読みは、どちらが正しいのか

 ここまで考えると、最後に奇妙な問題が残る。20歳で「この主人公は正しい」と思い、60歳で「いや、この主人公は身勝手だ」と思った場合、本当に正しいのはどちらなのだろうかという問題であるが、おそらくこの問いには簡単な答えがない。

 20歳の読者には、60歳の読者には戻れない感覚がある。人生がまだ大きく開かれていて、失敗しても先があると思える時期だからこそ、無謀な人物の決断に込められた希望を強く感じることができる一方で、60歳の読者は、選択には代償があり、その代償を本人以外の誰かが引き受けることもあると知っているため、どちらかが物語を誤読しているのではなく、人生の異なる場所から同じ人物を見ているのである。

 だから名作と呼ばれる小説は、一度読んで理解して終わる作品ではないのかもしれない。20歳には20歳の読書があり、40歳には40歳の読書があり、60歳には60歳の読書があって、さらに70歳や80歳になれば、また別の人物が気になり始める可能性さえある。

再読とは、昔の自分に会いに行くことである

 昔読んだ本を本棚から取り出すとき、そこに待っているのは登場人物だけではなく、その本を読んでいた過去の自分もページのどこかに残っている。20歳の自分は、この主人公に憧れ、あの人物を嫌い、ある場面で胸を熱くし、別の場面をほとんど覚えていなかったかもしれないが、60歳になった自分は、その若い読者の隣にもう一度座り、同じ文章を読みながら、少し違う場所で立ち止まる。

 20歳の自分が「この主人公は勇敢だ」と言えば、60歳の自分は「その勇気の代償を誰が払ったのだろう」と考えるかもしれず、60歳の自分が「この父親の気持ちは分かる」と言えば、20歳の自分は「それでも主人公には自分の人生を選ぶ権利がある」と反論するかもしれないが、その2人のうち、どちらか一方だけが正しいわけではない。

 心理学の研究からも、人間の考え方は年齢とともに単純に向上するのではなく変化していくと考えたほうが現実に近く、情報処理の速さや他者の意図を素早く読み取る力が変化する一方で、人生経験や時間に対する感覚が判断に別の奥行きを与えることもあり、読書の場合にはさらに再読そのものの効果が加わる。

 そう考えると、20歳で読んだ小説を60歳でもう一度読むという行為は、「同じ本をもう一度読む」ことではないのだろう。同じ文章を使って、異なる人生を生きた2人の自分が、それぞれの物語を読んでいるのであり、小説は40年間ほとんど同じ場所にいたとしても、読者はその間ずっと生きていた。

 だからページをめくったときに物語が違って見えるのは当然なのかもしれない。本が変わったのでも、登場人物が変わったのでもなく、40年という時間を歩いてきた自分が、かつてとは違う場所から同じ人々を見ているのである。

 再読とは、懐かしい物語を訪ねることではなく、昔の自分と現在の自分を同じページの上で出会わせる、静かな実験なのかもしれない。

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