リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 美術館へ行き、これまで画集やテレビ、インターネットで何度も見てきた絵の前に立ったとき、「こんな絵だったのか」と思うことがある。想像していたより小さいこともあれば、反対に、こちらの身体を包み込むほど大きく感じることもあり、色についても、画面で見ていたものより暗く見えたり、ある部分だけが不思議なほど明るく浮き上がったりする。何度も見たはずなのに、実物を前にした瞬間、初対面の作品のように感じられるのである。

 ここには少し奇妙な問題がある。私たちは美術館へ行く前から、その絵を知っていたはずだからだ。構図も知っている。描かれている人物も知っている。作者の名前も知っている。それどころか、デジタル画像なら拡大して細部まで見たことがあるかもしれない。それでも原画を見ると、画像とは違う経験をしたように感じる。このずれを考えていくと、「絵を見る」とは何をしていることなのか、という思いのほか難しい問いに行き着く。

私たちは絵を見ているのか、それとも絵の情報を見ているのか

 スマートフォンに表示された一枚の絵にも、人物、風景、構図、色彩、線、明暗は存在している。何が描かれているのかを知ることが目的なら、画像でもかなりのことが分かるし、むしろ画像には実物にはない利点すらある。作品を自由に拡大でき、複数の絵を並べて比較でき、世界中の美術館に散らばった作品を数秒で行き来できるからである。

 したがって、「画像は偽物であり、原画を見なければ本当の鑑賞ではない」と考えるのは、科学的にも文化的にも単純すぎる。実際、原物と複製を比較した心理学的研究では、美的評価に明確な差が現れなかった例がある。2015年に行われた研究では、110人の参加者を、美術館か実験室か、原物か複製かという条件に分け、作品への好み、興味、感情的な反応、理解度などを比較したが、場所にも原物性にも明確な効果は確認されなかった。

 ただし、この結果をそのまま「原画と画像は同じである」という証明に使うこともできない。この研究で扱われたのは主として現代のコンセプチュアル・アートであり、油絵の絵具の厚みや表面の質感そのものが重要になる作品とは条件が異なるからである。つまり、研究が示しているのは「原物なら必ず高く評価されるわけではない」ということまでであり、「あらゆる作品において原画と画像は同じである」とまでは言えない。

 さらに2023年に発表された複数研究のメタ分析でも、原物が複製より高く評価される傾向そのものは小さいながら認められたものの、その差の多くには、美術館で原物を見た場合と実験室で複製を見た場合を比較しているという問題が含まれていた。原物だから評価が高まったのか、美術館という環境だから高まったのか、それとも両方なのかを区別しにくかったのである。

 ここから分かるのは、本物と画像の問題が、意外なほど単純ではないということである。

絵は平面に見えて、実は平らではない

 油絵を近くで見ると、画像では分からなかったものが現れる。絵具は場所によって厚く盛られ、筆が通った跡が残り、表面には細かな凹凸があるため、見る位置や照明によって光の反射が変わる。画面では一枚の平らな長方形に見えていたものが、実際には表面を持つ物体として存在しているのである。

 この違いは、単純に画像の解像度を上げれば消えるとは限らない。どれほど精密に撮影しても、その画像を通常のディスプレイで見るとき、私たちは絵具の表面で反射した光そのものではなく、ディスプレイが発した光によって再構成された像を見ることになる。さらに、本来数十センチしかない作品も、数メートルの大作も、同じスマートフォンの画面に表示すれば似た大きさになってしまう。

 この「大きさ」は、単なる作品データではない。作品と鑑賞者の身体との関係そのものを変えるからである。小さな絵なら自然に近づき、大きな絵なら少し離れなければ全体を見ることができない。近づけば筆触や絵具の盛り上がりが現れ、離れればそれまで断片にしか見えなかった色や形が一つの構図に戻っていく。その往復が、原画を見る行為の一部になる。

 ところが画像では、作品へ身体を近づける代わりに、指で拡大することができる。これは非常に便利だが、作品との距離を身体によって調整する経験とは違っている。画像は私たちを作品の大きさから解放する一方で、作品の大きさに身体を従わせる経験も失わせるのである。

美術館で感動しているのは、本当に絵だけなのか

 ここで逆方向から疑ってみる必要もある。原画を見て感動したとして、その感動は本当に原画そのものだけから生まれているのだろうか。

 美術館には、静かな展示室があり、照明があり、壁があり、額縁があり、その横には作品名と作者名が記されている。そこへ行くまでに電車に乗り、入館料を払い、いくつもの展示室を歩き、ようやく有名な作品の前へたどり着くこともある。そのとき私たちは、ただ色と線だけを見ているのではなく、「いま本物を見ている」という知識も含めて作品を経験している。

 実際、美術館で作品を見る場合と、実験室で画像を見る場合を比較した研究では、美術館にいる参加者の方が一つの作品を長く眺め、作品をより好ましく、より興味深いものとして評価した例がある。また別の研究では、美術館で鑑賞した作品の方が後から思い出されやすく、作品が展示されていた場所などの空間情報も記憶の手掛かりとして利用されていた。

 ただし、ここで慎重でなければならないのは、その差をすべて「原画の力」と呼ぶことはできないという点である。美術館という場所そのもの、展示空間の雰囲気、周囲に他の作品が存在していること、鑑賞するために時間を取って訪れたという行動など、多くの条件が同時に変わっているからである。

 つまり、美術館での鑑賞体験が豊かになることを示す研究はあっても、それが作品の原物性だけによって生じたと断定できるわけではない。むしろ現在の研究からは、作品そのものと、それを取り囲む環境との組み合わせが鑑賞体験を作っている、と考える方が自然である。

 旅先で飲んだ一杯のコーヒーが、自宅で同じ豆を使って淹れた一杯とは完全には同じ経験にならないのと少し似ている。成分だけを分析すれば同じでも、経験は成分だけから作られているわけではない。

「これは本物だ」と知るだけでも、絵の見え方は変わる

 さらに興味深いのは、原物そのものだけでなく、「これは本物である」という知識が人間の評価に影響することである。

 目の前に見分けがつかないほど似た二枚の絵があり、一方には「作者本人が描いた作品」、もう一方には「後世につくられた複製」と説明されていたら、私たちは本当にまったく同じように見ることができるだろうか。

 心理学や神経科学の研究では、作品が本物だと思われているか、コピーだと思われているかという情報が、その作品に対する判断や脳活動に影響する可能性が示されている。レンブラントとレンブラント風作品を用いた研究では、参加者に「本物」「コピー」という情報を与えたところ、作品を見るときの脳活動に違いが現れた。

 もっとも、ここでも注意が必要である。この結果は、人間の目に入ってくる色や形そのものが別物に変化したことを示しているわけではない。むしろ、作品に対する期待、価値判断、作者についての知識などが、鑑賞体験を構成する認知過程に加わっていると考える方が適切である。

 考えてみれば、百年以上前に描かれた絵の前に立つとき、私たちは色と線だけを見ているわけではない。このキャンバスの前に実際に作者が立ち、ここへ筆を置いたのだという事実を想像する。その後、作品が所有者を変え、戦争や移動や保存の時間を通過し、それでも同じ物体として目の前にあると知れば、作品には視覚情報だけでは説明しきれない時間の感覚が重なってくる。

 ここから先は、科学というより哲学の領域に近づいていく。

ベンヤミンが考えた「アウラ」

 20世紀の思想家ヴァルター・ベンヤミンは、写真や映画のような複製技術が発達する時代に、芸術作品の「アウラ」という問題を考えた。単純化して言えば、それは作品が「いま、この場所にしか存在しない」という一回性や真正性と結びついた独特の存在感である。

 原画は同時に世界中へ存在することができない。東京にあればパリにはなく、美術館に展示されていれば自宅にはない。ところが画像なら、一つの作品をほぼ無限に複製し、世界中で同時に見ることができる。この差は単なる技術の違いではなく、作品と人間との関係そのものを変える。

 ただし、ベンヤミンの議論を「複製は悪く、本物だけが優れている」と読むのは適切ではない。彼が見ていたのは、複製によって作品が特定の場所や権威から解放され、多くの人が芸術へアクセスできるようになる変化でもあった。複製技術は、作品から何かを失わせる可能性を持つ一方、作品を社会へ開く力も持っていたのである。

 この問題は、スマートフォンの時代にはさらに大きくなっている。かつて王侯や富裕層、一部の旅行者しか見ることのできなかった作品を、現在では世界中の人が日常的に見ることができる。それは美術史の中でも、きわめて大きな変化である。

画像だからこそ見えるものもある

 ここまで読むと、原画の方が豊かで、画像はその不完全な代用品に思えるかもしれない。しかし、それも正確ではない。

 高精細なデジタル画像なら、作品の一部分を極端に拡大できる。人間の目では気づきにくい筆触や細部を比較し、同じ作者の複数作品を並べて見ることもできる。さらに美術保存や修復の現場では、通常の写真だけでなく、赤外線撮影、X線撮影、分光技術、三次元表面計測などが用いられ、肉眼では見えない下描きや修正跡、顔料の違い、表面の微細な形状まで調べることができる。

 つまり、画像技術は原画の代用品であるだけではない。人間の目では見えない作品の側面を発見するための道具にもなっているのである。

 ここで、本物と画像を「本物は100点、画像は60点」といった一本の尺度で比べることの不自然さが見えてくる。原画には原画にしか得られない情報や経験があり、画像には画像だからこそ可能になる観察や比較がある。それぞれが同じ目的を不完全に果たしているのではなく、そもそも得意とすることが少し違っている。

原画の方が本当に感動するのか

 では、もっと素朴な問いに戻ってみよう。本物の絵を見た方が、画像を見るより人は感動するのだろうか。

 これについても、科学的には単純な答えは出ていない。2018年に行われた研究では、抽象絵画の原物と高品質なデジタル複製を美術館内で比較し、心拍や心拍変動などの生理的反応を測定した。その結果、高品質な複製でも原物に近い自律神経系の覚醒が起こりうる一方、原物の方が「感情の強さ」や「作品に触れてみたい」という一部の主観的評価で高い値を示した。

 これは興味深い結果である。身体が示す生理的反応という意味では高品質な複製でもかなり原物に近づける一方、原物だという認識や物質的な存在感に関係する感情では差が出る可能性があるからである。

 しかし、そのことから「原画なら必ず画像より感動する」と結論することはできない。作品の種類、鑑賞者の知識、展示方法、画像の品質などによって結果は変わる可能性があり、現在の研究でも原物の絶対的な優位性が確立しているわけではない。

本物と画像は同じなのか

 最初の問いに戻る。

 本物の絵を見ることと、その画像を見ることは同じなのだろうか。

 何が描かれているかを確認し、構図を理解し、色の組み合わせを調べるという意味では、画像でも相当なところまで作品を知ることができる。場合によっては、拡大や比較によって原画の前では見落としていた特徴を発見することさえある。その意味で、画像を見ることも確実に「絵を見ること」の一つである。

 しかし、作品の大きさ、表面の凹凸、光の反射、鑑賞距離、自分の身体の動き、その物体が長い時間を経て現在ここに存在しているという認識まで含めれば、画像と原画を完全に同じ経験だと考えることも難しい。

 そしてここで重要なのは、「同じ経験ではない」ということと、「原画の方が優れた経験である」ということは別の問題だという点である。科学的研究は前者を考えるための材料を数多く与えてくれるが、後者については一つの答えを与えてはいない。作品によっても、見る人によっても、見る目的によっても違うからである。

 画像で見ることによって初めて好きになる作品もあるだろう。美術館へ行くことのできない人が画像によって作品と出会うこともある。一方、画像で何十回見ても特別な印象を持たなかった作品が、原画の前に立った瞬間、突然こちらへ迫ってくることもある。

 画像は作品を私たちのところまで運んでくるが、原画は私たちを作品のところまで運ばせる。その違いは、おそらく思っている以上に大きい。

 スマートフォンなら、寝転がったまま世界中の名画を見ることができる。しかし美術館では、自分の方が歩かなければならない。作品に近づき、立ち止まり、離れ、もう一度近づく。その途中で別の作品に目を奪われることもあれば、理由も分からないまま一枚の前から動けなくなることもある。

 そのとき私たちは、単に絵に含まれた視覚情報を受け取っているのではない。自分の身体と時間を使って、一つの物体と向き合っている。

 だから、本物の絵を見ることと画像を見ることは、同じ作品を見る二つの方法ではあっても、完全に同じ経験ではないのだろう。しかし、だからといってどちらか一方を本物の鑑賞と呼ぶ必要もない。

 むしろ画像の時代になったからこそ、私たちは以前より多くの作品を知ることができ、その中から「一度、本物を見てみたい」と思う作品を見つけられるようになった。そして実際にその絵の前に立ったとき、何度も画面で見たはずの作品がまるで違って見えたなら、画像は原画の敵だったのではなく、その出会いを準備していたことになる。

 絵を見るという行為は、目だけで行われているのではない。私たちは色や形だけでなく、大きさを見て、距離を感じ、物質を意識し、作品が通過してきた時間まで想像している。そして同時に、画像を通じて肉眼だけでは到達できない細部を見ることもできる。

 そう考えると、本物と画像のどちらが優れているかという問いよりも、「それぞれによって、私たちは作品の何を見ることができるのか」と問う方が面白い。

 画像がこれほど身近になった時代だからこそ、本物を見るとは何なのかという古い問いが、以前より鮮明に浮かび上がっているのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

 古本屋で昭和の中公文庫を眺めていると、ときどき時間の感覚がおかしくなる。少し黄ばんだ紙、小さな活字、いまより地味な装幀、その背表紙の中に三島由紀夫の名前を見つけると、三島という作家が昔からずっと「中公文庫の作家」であったように思えてくる。しかし年代を確認してみると、この印象には一つ大きな錯覚が含まれている。

 現在につながる中公文庫が創刊されたのは1973年6月10日、昭和48年のことである。三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したのは1970年11月25日だから、三島は現在の中公文庫を見ることなく亡くなっている。自分の本に中公文庫のカバーが掛かり、本屋の文庫棚に並び、電車の中で読まれる光景を、三島本人は一度も見ることがなかった。

 つまり三島由紀夫は中公文庫に何冊もの本を残しているのに、「中公文庫の時代」を一日も生きていないのである。

 この小さな時間のねじれから、中公文庫と三島由紀夫という組み合わせを眺めてみると、単なる出版社と作家の関係とは少し違ったものが見えてくる。中公文庫は三島という現役作家とともに歩いた文庫ではない。すでに死者となった三島の文章を選び直し、形を変え、昭和後期の読者へ渡していった文庫だったのである。

三島が死んだあと、中公文庫が始まった

 1973年の創刊時、中公文庫には谷崎潤一郎訳『源氏物語』、司馬遼太郎『豊臣家の人々』、安部公房『榎本武揚』、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』などが並んでいた。日本の古典から現代文学、外国思想までが同じ文庫の棚に収まっているところを見ると、特定のジャンルだけを集めるのではなく、文学や思想を広く読者へ届けようとする志向を読み取ることができる。

 その中公文庫に三島由紀夫が登場したのは早かった。創刊からわずか二か月後の1973年8月、『文章読本』が中公文庫になっている。

 ここで興味深いのは、最初に文庫になったものが三島の代表的小説ではなかったことである。『仮面の告白』でも『金閣寺』でも『潮騒』でもなく、文章とは何か、文体とは何か、文学作品をどう読むのかについて三島自身が論じた『文章読本』だった。

 現在、三島由紀夫という名前を聞けば、小説とともに1970年11月25日の出来事を思い浮かべる人は少なくない。しかし『文章読本』を開いたときに現れる三島は、そのような後世のイメージとはかなり違う。文章の構造を考え、散文と韻文について論じ、美しい文章とは何なのかを分類し、優れた文章をどのように読めばよいかを執拗なほど考えている。

 そこにいるのは、劇的な死を選んだ思想家というより、文章という精密機械の構造を一つずつ分解して確かめようとしている職業作家である。

 中公文庫から三島へ入ると、こんな三島が最初に現れてくる。そのこと自体が、三島由紀夫という作家を考えるうえで案外大きな意味を持っているのではないだろうか。

しかし、三島と「中公」の関係はもっと古い

 もっとも、三島と中央公論社との関係が1973年に突然始まったわけではない。ここには少しややこしい出版史がある。

 現在の中公文庫以前に、中央公論社には「中央公論文庫」という別のシリーズが存在していた。その中央公論文庫から1962年、三島由紀夫の『不道徳教育講座』が刊行されている。

 名前が似ているので古書を眺めていると同じシリーズのように見えることがあるが、書誌上は1973年創刊の中公文庫とは区別した方がよい。それでも三島と中央公論社との関係を考えるうえでは、この古い中央公論文庫の存在は無視できない。

 さらにさかのぼれば、『不道徳教育講座』は1959年に中央公論社から刊行され、翌1960年には続編が出ている。同じ1959年には『文章読本』も中央公論社から刊行されている。つまり三島がまだ三十代で、文壇の第一線を猛烈な速度で走っていたころから、中央公論社は三島の小説とは少し違った顔を本にしていたことになる。

 これはなかなか面白い。

 『不道徳教育講座』にいる三島は、後世に作られた重苦しい三島像とはかなり違う。世間一般の道徳をわざと裏返し、「本当にそれは正しいのか」と読者をからかいながら問い直す。もちろん単なる冗談を書いているわけではなく、常識というものを反対側から照らすことで、その不自然さや偽善性をあぶり出しているのだが、そこには軽妙さとサービス精神がある。

 『文章読本』へ行けば、また違った三島がいる。こちらでは文章というものを感覚だけで語るのではなく、文体や構造や表現の働きを分類しながら、自分が文学の何を美しいと思うのかを説明していく。

 今日の私たちは三島由紀夫を、その最期を知ったうえで読む。しかし1959年の読者は違った。彼らにとって三島は死者でも伝説でもなく、次々と新しい文章を書く同時代の人気作家だったのである。

 中央公論社が刊行していた本を年代順にたどると、後世の巨大な三島像の奥から、その時々の「現在を生きていた三島」が少しずつ見えてくる。

中公文庫に残ったのは「小説家だけではない三島」だった

 1973年の『文章読本』に続き、中公文庫では1974年に『作家論』、1975年には『荒野より』や戯曲『癩王のテラス』などが刊行されていく。

 ここから見えてくるのは、単純に「小説ではない三島」ではない。三島はもちろん小説家であり、戯曲も書いた。しかし中公文庫の書目を眺めていると、代表的な長編小説だけでは捉えることのできない三島の輪郭が次第に現れてくるのである。

 たとえば『作家論』で三島が見つめているのは自分自身ではなく、森鴎外や谷崎潤一郎、川端康成をはじめとする先行作家たちである。しかし他人について書いた文章ほど、意外に書き手自身をさらけ出すものはない。誰を高く評価するのか、作品のどこに執着するのか、何を美しいと考え、何を退屈だと考えるのか。その選択を追っていけば、批評されている作家と同時に、批評している三島自身の文学観まで浮かび上がってくる。

 『荒野より』になると境界はさらに曖昧になる。小説だけではなく評論や随筆などさまざまな文章が収められ、作家の日常、社会を見る目、文学についての思考が一冊の中で入り混じる。こうした本を続けて読んでいると、三島由紀夫という人物の輪郭が、代表作の中心からではなく、その周囲から浮かび上がってくる感覚がある。

 これは『金閣寺』一冊を読む経験とはかなり違う。

 小説を読んでいるとき、読者は基本的に作品世界の中にいる。しかし『文章読本』や『作家論』へ移ると、突然その舞台裏へ連れていかれる。さっきまで絢爛たる文章を生み出していた作家本人が机の向こう側へ座り、「文章というものはこうできている」「この作家のここが面白い」と語り始める。

 いわば魔術を見せていた人間が、その魔術の仕掛けまで説明し始めるのである。

 ところが不思議なことに、説明を読んでも魔術は消えない。それどころか、三島がどれほど意識的に言葉を扱っていたかを知ることで、小説へ戻ったとき以前には見えなかったものが見えてくる。

 中公文庫で三島を読む面白さは、この往復運動の中にある。

1970年11月25日から三島を読むという誘惑

 三島由紀夫について考えるとき、どうしても一つの日付が巨大な重力を持つ。1970年11月25日である。

 あの日の出来事があまりに劇的だったため、それ以前の三島の文章まで、すべてが最後の日へ向かって書かれていたように読まれてしまうことがある。『太陽と鉄』を読んでも死への予兆を探し、小説の中に肉体や美や滅びが現れれば、そこから市ヶ谷を逆算したくなる。

 しかしこれは、伝記を読む人間が陥りやすい一種の錯覚でもある。

 人生を最後まで知っている後世の読者と、その途中を生きている本人では時間の見え方が違う。1959年に『文章読本』を書いていた三十四歳の三島は、その文章を1970年11月25日の説明書として書いていたわけではない。そのときの三島には、そのときの仕事があり、締切があり、読んでいる本があり、会っている人があり、次に書こうとしている作品があった。

 だから三島を最後の日から逆向きに読むだけでは、その途中に存在していた多くの三島を取り落としてしまう。

 文庫という形式には、その時間を少しだけ取り戻す働きがあるのかもしれない。文庫本を開けば、歴史的大事件も作者の伝説も、とりあえず表紙の外側に置かれる。そこにあるのは数百ページの活字であり、読者は文章そのものと向き合わなければならない。

 ただし、中公文庫が意図的に「三島を事件から文学へ引き戻した」とまで言うことはできない。そのような編集方針があったことを裏付ける資料や、文庫化によって読者の三島像が実際に変化したことを示すデータがなければ、そこまでの因果関係は証明できないからである。

 それでも、中公文庫に残された書目を眺めれば、少なくとも一つのことは言える。そこには1970年11月25日だけでは説明できない三島由紀夫が、かなり豊富に残されている。

『太陽と鉄』を加えると、話はもっと複雑になる

 そして昭和の中公文庫と三島の関係を考えるとき、見逃せない一冊が1987年、昭和62年に中公文庫となった『太陽と鉄』である。この文庫には『私の遍歴時代』も収録された。

 この本まで視野に入れると、「中公文庫は三島を事件から切り離した」という単純な説明が成り立たないことがよく分かる。

 『太陽と鉄』で三島が考えているのは、言葉と身体、精神と肉体、文学と行動という問題である。それらは晩年の三島を理解するうえで避けて通ることのできない主題であり、1970年の行動とも無関係ではない。

 つまり中公文庫に残った三島は、政治や肉体や死を取り除いた「純粋な文学者三島」ではないのである。

 むしろ逆なのではないか。

 文章について考える三島がいて、他の文学者を批評する三島がいて、世間の道徳をからかう三島がいて、戯曲を書く三島がいて、肉体と言葉の関係を考える三島がいる。それらを読み重ねていくことで、1970年の出来事もまた、それだけが孤立した異常な事件なのではなく、一人の作家が長年考えてきた問題の延長線上から読み直すことができる。

 事件を消すのではない。

 事件だけで作家を説明しないのである。

 この違いは大きい。

昭和の終わりには「三島を覚えている人」の本まで並んだ

 さらに1986年、昭和61年には、澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』が中公文庫になっている。

 ここまで来ると、中公文庫の中の三島は新しい段階へ入る。三島本人が書いた文章を読むだけではなく、「三島を知っていた人が三島について書いた文章」まで文庫棚に加わるからである。

 三島が亡くなってから十六年が経過している。1970年には生々しい現在だった出来事が、少しずつ文学史や記憶の領域へ移り始めていた。

 しかし澁澤龍彦が書く三島は、教科書に載っている「昭和を代表する文学者」ではない。実際に会い、話し、同じ時代の空気を吸った人間が記憶している三島である。死後に巨大化した三島像とは違い、一人の知人としての手触りがそこには残っている。

 ここまで中公文庫の書棚を歩いてくると、文庫というものが単に名作を安価に再刊する仕組みではないことが見えてくる。

 一人の作家が書いた本が残る。その作家が他人について書いた文章が残る。その作家自身について考えた文章が残る。そしてその作家を知っていた人間の記憶まで残る。

 こうして一人の作家は、一冊の代表作ではなく、複数の本の関係として保存されていく。

 三島由紀夫ほど、その仕組みがよく見える作家も珍しいのではないだろうか。

文庫本になると、三島は少し小さくなる

 三島由紀夫という人物には、どうしても巨大な映像がつきまとう。

 鍛えられた肉体、写真、制服、演説、市ヶ谷、割腹、そして死の直前に完成した『豊饒の海』。一つ一つの像があまりに強いため、普通に机へ座り、原稿用紙に文章を書いていた職業作家としての三島が、その陰に隠れてしまうことがある。

 ところが昭和の古い中公文庫を一冊手に取ると、その巨大な三島が不思議なほど小さくなる。

 もちろん価値が小さくなるという意味ではない。手のひらに収まるのである。

 『文章読本』を電車で読み、『作家論』を寝る前に数ページ読み、『荒野より』を喫茶店で開き、『太陽と鉄』を鞄に入れて持ち歩くことができる。歴史映像の中にいた人物が文庫本になると、突然、読者のすぐ隣へやってくる。

 そこには演説の声も制服もない。ページを開けば、活字だけがある。

 文庫というものは、作家を小さくすることによって、かえって長く生かす装置なのかもしれない。

 全集は作家を大きく保存する。何巻も並んだ立派な全集は、その人物が文学史上の重要人物であることを物理的な重さによって示している。しかし文庫本は反対である。作家を小さくして鞄に入れ、電車へ乗せ、旅先へ連れていき、枕元へ置く。

 全集が作家を記念碑にするものだとすれば、文庫は作家を再び読者の生活へ戻すものなのだろう。

中公文庫の棚には「複数の三島」が残った

 考えてみれば、三島由紀夫本人は1973年に生まれた現在の中公文庫を知らない。鳥を図案化したマークを見ることも、自分の『文章読本』が小さな文庫本になって書店へ並ぶところを見ることもなかった。

 それでも昭和48年以降、中公文庫の棚には三島がいた。

 しかも、そこに残ったのは一人の三島ではない。

 文章について考えている三島がいる。他の作家を論じている三島がいる。道徳をひっくり返して読者を挑発する三島がいる。戯曲を書く三島がいる。自分の身体について考えている三島がいる。そして、その三島を覚えている澁澤龍彦のような同時代人までいる。

 こうして昭和後期の中公文庫を年代順に眺めていくと、三島由紀夫という作家が一枚の有名な写真や一日の歴史的事件へ収束するのではなく、反対にいくつもの方向へ広がっていく。

 おそらく、そこが中公文庫と三島由紀夫の関係を考えるとき最も面白いところなのだと思う。

 三島を「事件から文学へ戻した」とまで断言することはできない。しかし中公文庫に残された本を読み継いでいけば、1970年11月25日だけでは到底説明できない三島由紀夫が見えてくる。

 一人の人間について私たちは、どうしても最も劇的だった一場面で記憶してしまう。しかし文学者の場合、その人が死んだあとにも文章は残る。そして文章が読み続けられる限り、その人物についての理解は一つに固定されることがない。

 文庫は、そのための小さな装置なのだろう。

 事件によって作家を記憶することもできる。写真によって記憶することもできるし、伝説によって記憶することもできる。しかし文庫には、それらとはまったく違う方法がある。

 何十年たっても、もう一度その人の文章を読ませるのである。

 三島由紀夫が中公文庫を見ることなく亡くなってから半世紀以上が過ぎた。それでも古本屋の棚から一冊を抜き出してページを開けば、そこにいる三島はまだ過去の人物になりきっていない。

 読者が文章を読み始めた瞬間だけ、作家は再び現在形になる。

 昭和の中公文庫が残したものを考えていると、結局そこへ行き着く。文学者を長く生かすのは巨大な記念碑ではなく、誰かが何気なく手に取ることのできる、小さな一冊なのかもしれない。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

 誰かについて「あの人は仕事ができる」「文章はうまいが内容が浅い」「この作家は昔ほど面白くない」と語るとき、私たちはごく自然に他人を評価している。映画を見れば星を付け、本を読めば感想を書き、店に行けば口コミを残す。インターネットとSNS(Social Networking Service・社会的ネットワークを形成するサービス)の普及によって、私たちは以前よりもはるかに多く、商品や作品だけでなく、人間そのものまで数値や短い言葉で評価し、その評価を他人と共有するようになった。

 そのため「批評」という言葉にも、どこか採点に似た響きがまとわりついている。優れているか劣っているか、正しいか間違っているか、見る価値があるかないかを判定することが批評なのだと思われやすい。しかし、小林秀雄の文章を読んでいると、批評という仕事はそのような単純な採点とはかなり違うことに気づかされる。むしろ、他人を簡単に評価してしまう態度から離れ、目の前にある人物や作品が本当はどのようなものなのかを見続けるところに、批評の核心があるのではないかと思えてくる。

評価することは、案外簡単である

 人を評価するためには、何らかの物差しが必要になる。文章なら分かりやすさ、映画なら面白さ、政治家なら政策や実績、料理なら味や価格というように、私たちは意識するかどうかにかかわらず、何らかの基準を持ち出して対象を測っている。その基準そのものが悪いわけではない。試験に採点基準がなければ点数は付けられないし、商品を比較するときにも価格や性能という尺度は必要である。

 問題は、物差しを持った瞬間に、その物差しで測れる範囲だけを対象そのものだと思ってしまうことである。たとえば、ある小説を「展開が遅い」という理由で低く評価するとする。その判断自体は間違いとは言えない。しかし、なぜその小説は遅く書かれているのか、その遅さによって作者は何を感じさせようとしているのか、さらに考えれば、自分はいつから「展開が速い作品ほど面白い」という基準を持つようになったのかという問いまで現れてくる。

 ここまで来ると、対象を測っていたはずの物差しそのものが、今度は問いの対象になる。評価は対象を物差しの上に置くが、批評はときとして、その物差しを握っている自分の手まで見ようとするのである。

小林秀雄にとって、批評は欠点探しではなかった

 文春文庫版『考えるヒント』に収められた「批評」で、小林秀雄は、対象を正しく評価することを、その対象に固有の性質を明らかにすることとして考えている。ここでいう評価は、現在よく見かける「5点満点で3.8」といった意味とはかなり異なる。対象を外側から序列に並べるのではなく、「これはいったい何なのか」と、そのものにしかない性質へ近づいていこうとするのである。

 これは、今日の感覚からすれば少し不思議な批評観かもしれない。一般に批評家という言葉から想像するのは、作品の弱点を鋭く指摘し、作者も気づかなかった矛盾を暴き出す人物ではないだろうか。しかし小林の考えでは、単に貶すことそのものには、それほど大きな批評性はない。欠点なら比較的簡単に挙げることができるからである。文章が長い、説明が足りない、論理が弱い、古臭いといった言葉を並べれば、それらしい批評文は作れるが、その言葉だけでは対象の固有性についてほとんど何も発見していないこともある。

 他人の欠点を指摘しているとき、私たちはしばしば安全な場所に立っている。自分は観察する側であり、相手は観察される側である。その距離が保たれているかぎり、自分自身の価値観が揺さぶられることは少ない。ところが、本当に強い作品や人物に出会うと、その安全な距離が崩れることがある。理解できないのに無視できず、嫌いなのに気になり、間違っていると思うのに、そこには自分の知らない何かがあるように感じる。そのような抵抗のある対象に出会ったときこそ、批評は始まるのかもしれない。

「分からないもの」をすぐ裁かない

 人間には、曖昧な状態を長く抱えるよりも、何らかの結論を得て不確実性を小さくしたいという傾向がある。心理学でも、曖昧さに耐えながら判断を保留することには個人差があり、はっきりした答えを早く求めようとする傾向が研究されている。

 そのため、分からないものに出会ったとき、評価によってひとまず結論を与えてしまうことは、不確実さから逃れる一つの方法になる。「つまらない」「時代遅れだ」「難しいだけだ」と名前を付ければ、その対象について考え続けなくても済む。しかし、名前を付けたことと、理解したことは同じではない。

 小林秀雄の文章を読んでいると、一つの作品、一人の人物、一つの思想の前で長い時間立ち止まっているような感覚を覚えることがある。それは結論を出せないからではなく、簡単な結論によって対象を処理してしまうことを警戒しているからだろう。考えるとは、すぐに答えを出すことではなく、答えが出ない状態にも一定の時間とどまることなのかもしれない。

 ある人物について「私はこの人が嫌いだ」と感じる場合も同じである。嫌いという感情を否定する必要はない。しかし批評するのであれば、「嫌いだから価値がない」というところで止まることはできない。なぜ自分はその人を嫌うのか、その人物のどのような性質が自分に抵抗を感じさせるのか、その抵抗の中に自分自身の価値観がどのように現れているのかまで考え始めれば、批評の矢印はいつの間にか対象だけでなく自分にも向かっている。

 批評とは、他人を裁くために高い場所へ上ることではなく、対象と自分との間に何が起きているのかを注意深く見ることなのではないだろうか。

星の数では見えなくなるもの

 インターネット以後、私たちは対象そのものに触れる前から、その対象についての評価を目にすることが増えた。本を買えば星が並び、映画を選べば点数が表示され、飲食店を探せば口コミの平均値が先に目に入る。数字は便利である。知らない店が100軒並んでいれば、一軒ずつ確かめることなどできないから、評価は大量の情報を圧縮してくれる。

 しかし、その便利さには代償もある。心理学や行動研究では、事前に示された他者の評価が、その後の判断に影響することがあると知られている。つまり、星が高いと知らされてから作品を見る場合と、評判が悪いと知らされてから見る場合では、私たちは必ずしも完全に同じ条件で対象を見ているわけではない。

 「これは傑作なのだ」と思って見れば、傑作らしい理由を探しやすくなり、「評判が悪い」と聞いて見れば、欠点へ注意が向きやすくなる可能性がある。もちろん、人間が完全な白紙の状態で何かを見ることは難しい。だからこそ、自分が何を見ているのかだけでなく、どのような先入観を通して見ているのかまで意識する必要がある。

 SNSでは、この問題がさらに分かりやすい形で現れる。ある人物が発言したとき、その内容を十分に読む前に、「この人は信用できる側か」「信用できない側か」と分類してしまうことがある。一度そのような人物像を作ると、その後の発言も、その人物像に沿って解釈されやすくなることがある。批評しているように見えながら、実際には目の前の発言ではなく、自分の中ですでに完成している人物像を批判しているのである。

 評価があふれる時代だからこそ、小林秀雄的な意味での批評、すなわち評価より先に対象そのものを見ようとする態度は、むしろ以前より難しくなっているのかもしれない。

「褒める」とは、お世辞を言うことではない

 小林秀雄は批評について、「人をほめる特殊の技術」とまで表現している。これは一見すると奇妙に聞こえる。批評家が何でも褒めてしまったら、批評ではなくなるようにも思えるからである。しかし、ここでいう「褒める」は、お世辞を言うことではない。

 本当に誰かを褒めようとすると、それは意外に難しい。「すごいですね」「素晴らしいですね」と言うだけなら簡単だが、何がどのように優れているのかを正確に言葉にしようとすれば、その人物や作品をかなり注意深く見なければならない。他人にはない特徴を見つけ、それがどのように働いているのかを理解しなければならないからである。

 反対に、人を貶す言葉には、対象を取り替えてもそのまま使えるものが少なくない。「能力がない」「浅い」「古い」「分かっていない」といった言葉である。もちろん、褒めることが常に貶すことより難しいという科学的法則があるわけではない。しかし、小林秀雄のいう批評という観点から見れば、対象の固有性を発見するためには、単に欠点を並べるよりも、その対象がなぜそのような形をしているのかを丁寧に見なければならないということなのだろう。

 優れた批評とは対象を無条件に称賛することではなく、その対象が「それである理由」を探し当てることなのである。その過程で欠点が見えることもある。しかし欠点を見つけること自体が目的なのではなく、一つの人間、一つの作品、一つの思想がなぜそのような形になったのかを理解しようとした結果として、その限界も見えてくるのである。

批評されるのは、実は自分でもある

 ここまで考えると、批評という行為には奇妙な反転が起きる。他人を批評していたはずなのに、最後には批評している自分自身の姿が見えてくるのである。

 なぜ自分はこの小説を退屈だと感じたのか。なぜこの人物の言葉には腹が立つのか。なぜこの音楽には心を動かされ、この絵には何も感じなかったのか。対象について真剣に考えれば考えるほど、自分が当然だと思っていた感覚や価値観が姿を現してくる。

 これは、小林秀雄が「批評とは自分自身を批評することである」と単純に定義しているという意味ではない。ただ、小林の批評観を押し広げて考えるならば、対象を正確に見ようとする行為は、同時に、その対象を見ている自分の判断基準を浮かび上がらせる行為にもなる。

 だから本当の批評には、どこか危険なところがある。相手を評価して終わるつもりだったのに、自分の考えの狭さを発見してしまうかもしれない。間違っていると思っていた人物の中に、自分にはなかった視点を見つけることもあるだろう。嫌っていた作品を読み続けるうちに、自分の方が変わってしまうことさえある。

 採点なら、採点者は変わらなくてもよい。しかし批評は、ときに批評する側まで変えてしまう。

他人を評価する前に、もう少し見てみる

 私たちは評価から逃れて生きることはできない。仕事では判断が必要であり、選挙では候補者を選び、買い物では商品を比較しなければならない。何も評価しないことが知的に優れた態度なのではない。問題は、評価した瞬間に考えることまで終えてしまうことである。

 「あの人はこういう人だ」と言ったあとに、本当にそうだろうかともう一度見る。「この作品はつまらない」と感じたあとに、なぜ自分にはつまらなかったのかを考える。「間違っている」と判断した相手についても、なぜその人にはその考えが必要なのかを考えてみる。そのわずかな余白に、単なる評価から批評へ移る入口がある。

 批評とは、他人に点数を付ける技術ではないのだろう。むしろ、点数を付けたくなる自分を少し疑いながら、目の前の対象が本当は何であるのかを見続ける技術なのである。

 人を見ることと、人を評価することは同じではない。評価は一瞬でできることがあるが、見ることには時間がかかる。そして小林秀雄が私たちに残した「考えるヒント」の一つは、おそらくその時間を惜しまないことにある。誰かを理解したと思ったところから、もう一度その人を見る。作品について結論を出したところから、もう一度読み始める。そうして見直すたびに、対象についての理解だけでなく、自分が何を基準に世界を見ていたのかまで少しずつ変わっていく。

 批評の終わりに残るものは、他人について下した判決ではないのかもしれない。むしろ、「分かった」と思っていた相手が以前より複雑に見え、自分自身についても以前より簡単には説明できなくなったという感覚ではないだろうか。もしそうだとすれば、批評とは他人を評価するための技術である以上に、世界を簡単に決めつけないための技術なのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

 世の中には、知っていても人生がそれほど便利にはならない知識がある。鉄道の線路のわずかな違い、専門業者しか使わない道具の名称、街角に残された妙な設備、外国の歌が偶然日本語のように聞こえる一瞬。試験には出ないし、履歴書にも書けない。それを知ったからといって給料が上がるわけでもなければ、仕事が速くなるわけでもない。それなのに人間は、そういう知識に出会ったとき、なぜか少し嬉しくなる。

 『タモリ倶楽部』という番組は、40年以上にわたって、その不思議な喜びをテレビの中に残していた。

 1982年に始まり、2023年に終了したこの番組を振り返ると、普通のテレビ番組とは少し違った場所に立っていたことに気づく。世間で話題になっているものを急いで追いかけるわけでもなければ、社会的に重要な問題を真正面から論じるわけでもない。むしろ、普通なら企画会議で「それを誰が見るのだろう」と心配されそうな題材を、面白そうだからという理由で拾い上げ、そこに時間を費やしていた。

 鉄道、地図、地形、楽器、機械、工具、道路、建築物。ある分野では知られていても、世間一般にはほとんど名前の通っていない専門家が現れ、普通の人には見分けのつかない違いについて熱心に語る。するとタモリも、その細部へ面白がって入っていく。そこでは「この知識は何の役に立つのですか」という問いが、ほとんど必要とされていなかった。

 いま考えると、それこそがこの番組の珍しさであり、同時に知識というものの本来の面白さを映していたのかもしれない。

「何の役に立つのか」と聞かない世界

 私たちは子どものころから、知識には何か目的が必要だと教えられている。学校で勉強するのは試験のため、資格を取るのは仕事のため、外国語を学ぶのは海外で使うため、情報を集めるのは判断のためというように、知ることにはいつの間にか「その先」が要求される。

 もちろん、それ自体は間違っていない。知識が生活を便利にし、仕事を助け、社会の問題を解決してきたことは疑いようがない。しかし、知識の価値を役に立つかどうかだけで測り始めると、まだ用途の分からないもの、あるいはそもそも用途を必要としないものは、知らなくてもよいものとして扱われやすくなる。

 ところが人間の好奇心は、それほど実用一点張りにはできていないらしい。心理学では、直接的な報酬や意思決定に役立たなくても情報を知りたがる行動が研究されている。すぐに得になるわけでもないのに、人は結果を知りたがり、答えを確かめたがり、知らなかったことを知った瞬間に満足を感じる。こうした性質は、知識を単なる道具として考えるだけでは説明しきれない。

 『タモリ倶楽部』は、その人間の性質を番組の形式にしていたように思える。

 何かを知る理由は、それが面白いからでもよい。道路の片隅にあるものの名前を知りたくなったら調べればよく、普通の人には見分けのつかない機械の違いを見分けられる人がいるなら、その人の話を聞いてみればよい。その世界に入ったところで明日から人生が変わらなくても、昨日まで存在すら意識していなかったものが、今日から少し違って見えるなら、それだけでも知る価値はある。

 考えてみれば、子どもの学びにはそのような場面がいくつもある。将来何かに使えるからという理由ではなく、ただ気になるから質問し、石を拾い、雲を眺め、乗り物の名前を覚え、同じことを何度も確かめる。もちろん子どもの好奇心にも個人差はあるが、少なくとも人間には、外から目的を与えられなくても「知りたい」と感じる力がある。

 大人になるにつれて、私たちはその感覚を少しずつ忘れてしまうのかもしれない。

世界には、自分の知らない専門家がいる

 『タモリ倶楽部』を見ていると、もう一つ不思議なことに気づかされた。世の中には、こちらが存在さえ知らなかった世界について、驚くほど詳しい人がいるということである。

 普通のテレビでは、出演者の価値は知名度によって左右されやすい。有名な俳優、有名な歌手、有名な芸人が画面の中心になる。しかし『タモリ倶楽部』では、題材によって主役が簡単に入れ替わった。ある専門分野について話し始めれば、その瞬間だけは芸能人よりも、その世界を何十年も見続けてきた人の方が圧倒的に面白くなる。

 そこには、知識についての小さな民主主義のようなものがあった。

 世間的な地位や知名度とは別に、人は誰でも何かについて詳しくなることができる。一見すれば狭すぎる趣味であっても、長い時間をかけて観察し続ければ、そこには固有の知識と見方が生まれる。そして、その世界を本当に好きな人の話には独特の熱がある。

 面白いのは、知識そのものより、その熱が伝染することである。こちらにはまったく興味のなかった分野なのに、詳しい人が嬉しそうに話しているのを聞いているうちに、なぜかこちらまで面白くなってくる。それは単に新しい情報を受け取っているのではなく、「こんなふうに世界を見ることができるのか」という別の視点を教えられているからだろう。

 同じ道路を歩いていても、建築に詳しい人は建物の形を見るかもしれず、道路設備に詳しい人は標識やガードレールを見るかもしれない。鉄道好きなら線路の構造に目が向き、電気設備に関心があれば電柱や配線が気になる。人間の注意や識別能力は経験によって変化し、知識を持つことで、それまで一つにしか見えなかったものの違いが見えるようになることがある。心理学では、こうした経験による知覚や識別の変化は知覚学習という考え方から研究されてきた。

 知識とは、頭の中に情報を蓄えることだけではなく、世界の解像度を少し上げるものなのかもしれない。

「空耳アワー」が見せた、間違えることの豊かさ

 その意味では、長く親しまれた「空耳アワー」も、この番組を象徴する存在だった。

 外国語の歌詞が偶然日本語のように聞こえる。冷静に考えれば、それは聞き間違いである。外国語の学習なら訂正すべき対象になるし、正確な情報伝達なら誤りとして扱われる。

 ところが『タモリ倶楽部』は、その間違いを捨てなかった。むしろ「そう聞こえてしまう」という人間の耳の曖昧さを面白がり、そこへ映像まで付けて一つの作品にしてしまった。正しい歌詞を確認すれば数秒で終わる話を、わざわざ遠回りして遊び、その無駄の中から笑いを作ったのである。

 これは考えてみれば、少し不思議な態度である。

 現代では、情報へ到達する速度は以前よりはるかに速くなった。検索すれば短時間で大量の情報に触れることができ、機械は誤字を訂正し、人工知能は質問に即座に回答する。しかし、正解へ早く到着できることと、途中に現れた間違いや偶然を面白がることは同じではない。

 人間の文化を振り返れば、勘違い、聞き間違い、言葉遊び、偶然の連想から、新しい冗談や表現や物語が生まれることもある。だからといって間違いそのものが価値を持つわけではないが、間違いをただ捨てるのではなく、そこから何かを見つける能力は、正解へ到達する能力とは別の種類の知性なのだろう。

 「空耳アワー」は、そのことを難しい理屈ではなく、笑いとして見せていた。

検索できる時代ほど、偶然に出会うことが重要になる

 インターネットが普及してから、「知識を覚える必要は以前ほどない」という考えを耳にすることが増えた。分からなければ検索すればよいというわけで、実用という観点だけなら、その考えには十分な合理性がある。

 しかし、検索という行為には構造上の特徴がある。検索は、すでに言葉になっている疑問を調べることには非常に強いが、そもそも自分が存在を知らないものについては、検索語を思いつくことさえ難しい。

 街の片隅に奇妙な設備があったとして、その存在に気づかなければ調べようとは思わない。誰かが鉄道について楽しそうに話しているのを見なければ、自分が鉄道の構造を面白いと思う人間だったことに、一生気づかなかったかもしれない。

 もちろん現代のインターネットには、検索だけではなく、関連情報や推薦などを通じて偶然未知のものに出会う仕組みも存在する。そのため、デジタル化によって偶然の発見が消えたと考えるのは正確ではない。それでも、自分が探していなかった情報に偶然出会い、そこから新しい関心が生まれる現象が、知識を広げるうえで重要であることに変わりはない。

 情報研究の世界では、こうした偶然の情報との出会いそのものが研究対象になっている。人間は必ずしも、最初から明確な目的を持って情報を探しているわけではない。別のものを探している途中に気になるものを見つけたり、偶然目にした話題から新しい関心を持ったりする。その寄り道から、自分でも予想していなかった知識の領域が開くことがある。

 『タモリ倶楽部』が毎週のように差し出していたものも、答えというより、そのような入口だったのではないだろうか。

 知らなくても困らない。しかし、知ってしまえば少し気になる。その小さな気掛かりから別の知識へ進み、さらに別の世界へ横道をそれていく。そこには、最短距離で答えを得ることとは違う、知識との付き合い方があった。

好奇心は、記憶にも影響する

 役に立つ知識には、多くの場合、学ぶ理由が外側から与えられている。試験に合格するため、仕事をするため、収入を得るため、生活を便利にするためである。それに対して、すぐには何の役に立つか分からない知識の場合、そうした外側の目的が弱くても、人はただ知りたいという理由だけで調べることがある。

 心理学では、活動そのものを面白いと感じて行動することを内発的動機づけとして捉えてきた。好奇心もその一つとして考えることができ、興味を持って知ろうとしているときには、情報の記憶が促されることを示した研究もある。

 興味深いのは、好奇心を抱いている状態では、知りたかった情報だけでなく、その周辺で偶然触れた情報まで記憶されやすくなる場合が報告されていることである。つまり「面白いから知りたい」という状態は、単なる気分ではなく、学習そのものにも影響する可能性がある。

 そう考えると、「誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう」という経験にも、少し説明がつく。

 もちろん、役に立たない知識だから記憶に残るわけではない。重要なのは、その情報に対してどれだけ好奇心や関心を持ったかである。それでも、試験にも仕事にも関係のないことを何十年も覚えているという経験は、多くの人にあるのではないだろうか。

 そして、そのような知識こそ妙に自分らしい。

無駄だからこそ、自分で選んだものになる

 誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう。試験に出ないのに調べてしまう。人に話せば「それを知ってどうするの」と言われそうなのに、なぜか気になる。

 もちろん、趣味の知識であっても、仲間との交流や社会的評価など外側の目的と結びつくことはある。それでも、少なくとも始まりのところでは、「面白いから」という理由だけで十分な場合がある。

 趣味というものも、おそらくそのような場所から育っていく。

 効率だけを考えれば、模型を作る必要も、古いレコードを集める必要も、廃線を歩く必要も、珍しい道具を調べる必要もない。しかし人生からそうした「必要ではないこと」をすべて取り除けば、残るのは食事と睡眠と仕事と事務手続きばかりになってしまう。

 人間の生活を豊かにしているもののかなりの部分は、生存だけを基準にすれば不要である。音楽も、小説も、旅行も、趣味も、それがなければ生命を維持できないという意味では必要不可欠ではない。それでも私たちは、それらのために時間を使う。人間はただ生き延びるだけではなく、世界に意味や面白さを見つけながら生きているからだろう。

 「役に立たない」という言葉は、ときに「価値がない」という意味で使われる。しかし、役に立つことと価値があることは、本来同じではない。

「無駄」を許せる場所は残っているか

 そのように考えると、『タモリ倶楽部』が40年以上続いたこと自体が、少し不思議に思えてくる。

 テレビ番組にも視聴率があり、広告には効果が求められ、インターネットの記事には閲覧数があり、動画には再生回数が表示される。何かを作れば、その成果が数字になって返ってくる場面は増えている。

 数字が悪ければ改善し、成果の出ないものを見直す。それは組織を運営するうえで当然の判断であり、効率を求めること自体が悪いわけではない。

 ただ、その合理性をあまりに広い範囲へ押し広げていけば、「何の役に立つかは説明できないが、なぜか面白い」というものが存在できる場所は、少なくなっていくのではないだろうか。

 『タモリ倶楽部』には、その反対側にある空気があった。

 大げさな感動を作る必要もなく、社会的意義を宣言する必要もなく、人生の教訓へ結びつける必要もない。ある世界について異様に詳しい人がいて、タモリが興味を示し、周囲の人間も面白がる。それだけで番組になる。

 そこには、知的好奇心を急いで成果へ変換しない自由があった。

「役に立たない」という言葉を疑ってみる

 しかし、ここまで考えてくると、そもそも「役に立たない知識」という言い方自体が少し怪しくなってくる。

 知ったことで仕事の能率が上がるわけではない。収入も増えない。資格も取れない。しかし、それまで見えていなかったものが見えるようになるなら、その知識はまったく役に立っていないのだろうか。

 道路を歩いているとき、それまで単なる鉄の箱にしか見えなかったものの意味が分かる。電車に乗ったとき、線路の形が少し気になる。音楽を聞いていると、妙な聞こえ方に気づく。それだけで、昨日とまったく同じ街が少し違って見える。

 知識には、問題を解決するための道具としての役割だけではなく、世界の見え方そのものを変える役割もある。

 そう考えるなら、「役に立たない知識」とは本当に役に立たないのではなく、役立ち方を簡単には数字にできない知識なのかもしれない。

知識とは、世界を少し面白くするもの

 『タモリ倶楽部』が2023年に終了したとき、テレビ朝日は、1982年の放送開始以来40年という節目を迎え、番組としての役割を十分に果たしたと説明した。実際、どんな長寿番組にも終わりはある。

 しかし、番組が残した見方まで終わったわけではない。

 街を歩いているとき、誰も気にしていない看板が気になる。電車に乗っているとき、線路の分岐を眺めてしまう。知らない専門用語を見つけると意味を調べたくなる。外国の歌を聞いて、妙な日本語が聞こえたような気がして、一人で笑ってしまう。

 その瞬間、私たちは少しだけ『タモリ倶楽部』の視聴者に戻っている。

 役に立つかどうかを決める前に、まず面白がってみる。知らないものに出会ったとき、それをすぐ自分には関係のないものとして閉じるのではなく、もう少し眺めてみる。

 すると世界は、思っていたよりずっと細かくできていることに気づく。道路には道路の事情があり、鉄道には鉄道の事情があり、工具には工具の事情があり、歌には聞き間違える余地があり、それぞれについて驚くほど詳しい誰かがどこかにいる。

 人生に本当に必要なのは、すぐに役に立つ知識だけなのだろうか。

 「こんなことを知っていて何になるのだろう」と笑いながら覚えたことの方が、何十年も記憶に残っていることがある。その知識は仕事を助けなかったかもしれないし、お金にもならなかったかもしれない。しかし、それを知ったことで世界の一部分が昨日より面白く見えたのなら、それを完全に「役に立たなかった」と呼ぶことは難しい。

 『タモリ倶楽部』が長い時間をかけて見せてくれたのは、知識にはもう一つの使い道があるということだったのかもしれない。問題を解くためでも、誰かに勝つためでも、効率よく目的へ到達するためでもなく、知らなかった世界に一歩だけ入り込み、その世界を昨日より少し面白く見るために知るのである。

 役に立つかどうかは、そのあとで考えればいい。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

 歴史に詳しい人、と聞いて私たちはどのような人物を思い浮かべるだろう。戦国武将の生没年を知っている人、幕末の出来事を年代順に語れる人、歴代の首相を順番に言える人、あるいは世界大戦の戦場や条約について細かな知識を持っている人かもしれない。もちろん、それらは歴史を理解するための重要な材料である。しかし、知っている事柄が増えていけば、それに比例して歴史について深く考えられるようになるのかというと、話はそれほど単純ではない。

 たとえば、ある戦争が始まった年、その直前に締結された条約、参戦した国々、戦争を終結させた講和条約までを正確に覚えている人がいたとしても、それだけでは「なぜ戦争は避けられなかったのか」という問いには答えられない。逆に、細かな年代をすべて記憶していなくても、人々が何を恐れ、政治家がどのような選択肢を持ち、それぞれの国が相手の行動をどう理解し、どこで誤認したのかを考える人は、歴史についてかなり深いところまで近づいている可能性がある。

 ここには、歴史を「知ること」と「考えること」の間にある、小さいようでいて重要な違いがある。歴史を知るとは、過去についての事実や背景を身につけることであり、歴史を考えるとは、その事実同士を結びつけながら、なぜその出来事が起きたのか、ほかの可能性はなかったのか、当時の人々には世界がどのように見えていたのかを問い続けることである。

過去を知っている私たちは、当時の人より賢いのか

 歴史を読むとき、私たちは奇妙な特権を持っている。結末を知っているのである。関ヶ原の戦いなら徳川家康が勝つことを知っているし、江戸幕府がやがて倒れることも、日本が太平洋戦争に敗れることも、ソビエト連邦が20世紀末に崩壊することも知っている。歴史の教科書を開くと、出来事は1本の線の上に整然と並べられ、まるで最初からその結末へ向かって進んでいたかのように見える。

 しかし、実際にその時代を生きていた人々には、その1本の線は見えていなかった。明日何が起こるのか分からず、自分が手に入れられる限られた情報を頼りに判断し、その判断が正しいかどうかも分からないまま生活していた。その意味では、過去の人間も現在の私たちと変わらない。私たちは20年後の日本がどのような社会になっているのか知らないし、現在重大だと思われている出来事のうち、どれが100年後の歴史教科書に残るのかも知らない。

 ところが、人間には結果を知った後になると、その結果が以前から予測できたように感じやすくなる傾向がある。認知心理学では、こうした傾向を後知恵バイアスと呼ぶ。戦争が起きた後でその前史を振り返れば、戦争へ向かう兆候だけが目につきやすくなり、政権が倒れた後には、崩壊の原因となった弱点ばかりが大きく見える。しかし当時には、戦争を回避する可能性も、政権が存続する可能性も、人々の前に同時に存在していた。

 だから歴史を考えるためには、結果を知っている自分の立場をいったん横に置く必要がある。結末を知らなかった人々が、その時点でどのような情報を持ち、どのような選択肢の中から判断していたのかを考えるのである。それは過去の人間に無条件で共感することではない。むしろ、結果を知っている現在の自分が持つ優位を自覚することによって、過去の判断をより公平に見るための作業である。

年号の向こう側には、まだ歴史になっていない現在があった

 学校の歴史では、年号が重要な役割を持っている。出来事の順序を理解するためには欠かせないからである。しかし年号によって歴史を整理すると、その日に生きていた人間の時間が見えにくくなることがある。

 「1945年8月15日」と書けば、それは1つの日付である。しかし、その日に生きていた1人ひとりにとって、その日は同じものではなかった。家族を失った人もいれば、疎開先にいた子どももおり、兵士として遠い土地にいた人もいた。敗戦を絶望として受け止めた人もいれば、ようやく死なずに済むかもしれないという安堵を感じた人もいただろう。教科書の1行は、それら無数の経験を1つの日付へ圧縮する。

 歴史を学ぶためには、その圧縮が必要である。何千万もの人生をそのまま記述することなどできないからだ。しかし歴史を考えるときには、ときどきその圧縮を逆向きに開いてみる必要がある。「1945年」という数字の中には、実際には何千万もの異なる1945年が存在していたのである。

 小林秀雄が歴史について考えたときにも、過去を単なる知識として処理するだけでは捉えられないものへの関心があった。これは小林自身の言葉をそのまま言い換えたものではないが、歴史を生きた人間の実感や、過去と現在を結ぶ「歴史感情」を重視した彼の思考と重なる部分がある。

 過去は最初から「歴史」だったわけではない。それは、かつて誰かにとって現在だった。私たちが今日を「2026年の歴史」と思いながら朝食を食べないように、明治の人も「私はいま明治史を生きている」と考えていたわけではない。その人にとって重要だったのは、給料が足りるか、子どもが病気から回復するか、商売がうまくいくか、徴兵された息子が帰ってくるかという切実な現在だった。

 その現在が、後世から見ると歴史になる。この時間の反転を意識した瞬間、歴史は年表から少しずつ人間の世界へ戻ってくる。

「原因」を1つ見つけると、歴史は分かりやすくなる

 私たちは複雑な出来事に出会うと、原因を求める。「なぜ江戸幕府は倒れたのか」「なぜ日本は戦争へ向かったのか」「なぜある国家は衰退したのか」と問い、その答えが1つ見つかると、世界が急に整理されたように感じる。

 しかし、大きな歴史的出来事を1つの原因だけで十分に説明できるとは限らない。政治制度があり、経済状況があり、人口構造があり、技術の変化があり、国際関係があり、その中で個々の人間が判断する。さらに、偶然や予想外の出来事が結果を左右することもある。歴史の因果関係は、1つの原因が1つの結果を生む単純な鎖というよりも、いくつもの条件が重なり合って1つの方向へ動いていく複雑な網に近い。

 それでも後世の人間は、物語を作りたがる。「腐敗したから滅びた」「外国の圧力によって変革が起こった」「指導者の判断ミスによって戦争になった」と説明すれば、話は理解しやすくなる。しかし理解しやすい説明が、最も正確な説明とは限らない。

 ここで歴史を知ることと考えることが再び分かれる。知識を集めるだけなら、出来上がった説明を覚えることができる。しかし考えるためには、その説明そのものを疑わなければならない。「それだけで十分なのだろうか」「別の条件は作用していなかったのか」「当時の人自身は何を原因だと考えていたのか」と問い直す必要がある。

 歴史を考えるとは、答えを1つに決めることではなく、簡単すぎる答えに満足しなくなることなのかもしれない。

過去そのものは変わらない。しかし歴史像は変わる

 同じ明治維新でも、近代化の成功物語として読む人と、社会構造の大転換として読む人では見えるものが違う。戦後史を経済成長の物語として読むこともできれば、都市への人口集中、家族構造の変化、女性の社会的地位、地域間格差という観点から読むこともできる。視点を変えるだけで、同じ時代から別の景色が浮かび上がってくる。

 過去に起きた出来事そのものが後から変化するわけではない。しかし、新しい史料が発見されたり、既存の史料が再評価されたり、研究者が新しい問いを立てたりすれば、私たちが描く歴史像は変わる。つまり変わるのは単に現在の価値観だけではなく、利用できる証拠と、そこから何を問うかという研究上の視点でもある。

 現在の社会で地方の人口減少が問題になれば、過去の人口移動が気になるようになる。働き方が変化すれば、近代以降の労働制度を読み返したくなる。戦争が起これば、過去の外交危機の中に似た構造を探そうとする。私たちは過去を無色透明な目で眺めているのではなく、現在の問題意識を持ったまま過去へ問いを投げている。

 だから歴史とは、過去を保存しておく巨大な倉庫ではない。現在から過去へ問いを投げ、その返ってくる答えによって、再び現在を見直す営みでもある。

現在の常識で過去を裁ると、歴史は道徳劇になる

 もっとも、現在から過去へ問いかけることには危険もある。現在の価値観や知識だけで過去の人々を裁けば、その人たちが置かれていた条件を見失ってしまうからである。

 現在なら当然と思える考え方が、100年前には当然ではなかった場合もある。当時利用できる情報が限られていたこともあれば、社会制度そのものが現在とは大きく異なっていたこともある。その違いを無視し、「なぜ彼らはこんなことも分からなかったのか」と考え始めれば、歴史は善人と悪人だけが登場する簡単な道徳劇になってしまう。

 歴史を考えるために、現在の倫理観を捨てる必要はない。過去の差別や暴力を「当時は普通だった」という理由だけで正当化する必要もない。ただし、その行為を評価することと、その行為がなぜ可能になったのかを理解することは別の作業である。

 歴史的に理解するとは、現在の自分をその時代へそのまま送り込んで、「自分だったらこうした」と考えることではない。当時の人が持っていた情報、制度、社会的常識、恐怖、利益、選択肢をできるだけ再構成し、その条件の中でなぜその判断がなされたのかを考えることである。

 過去を理解することと、過去を肯定することは同じではない。その2つを区別できることも、歴史を考えるための重要な能力である。

知識がなければ考えられない。しかし知識だけでも考えられない

 では、年号や人物名を覚えることには意味がないのだろうか。もちろん、そんなことはない。事実についての知識がなければ、歴史について自由に考えているつもりでも、それは単なる想像になりかねない。誰がいつ何をしたのか、どの制度が存在していたのか、当時の経済や国際情勢がどうだったのかという基礎がなければ、歴史的な議論は成立しない。

 問題は、知識を終着点にしてしまうことである。

 地図をいくら詳しく眺めても、それ自体が旅になるわけではない。しかし地図がなければ、どこへ向かっているのかも分からない。歴史の知識もそれに似ている。知識は思考の代わりにはならないが、思考が迷子にならないための地図にはなる。

 むしろ面白いのは、歴史を深く知るほど、最初に抱いていた単純な説明が崩れていくことがある点である。

 最初は「幕府が弱体化したから明治維新が起こった」と理解していたものが、知識を増やしていけば、幕府内部にも改革を進めようとする人々がいたことを知り、諸藩の利害が互いに異なっていたことを知り、外国勢力との関係を知り、経済構造の変化や社会の流動化を知るようになる。すると、それまで1本に見えていた因果関係が枝分かれし始める。

 深く知るということは、ときに単純な説明を失うことである。しかし、それは理解が後退したのではない。むしろ現実の複雑さに近づいた証拠なのだろう。

歴史は実験室ではないが、因果関係を調べることはできる

 歴史から教訓を得るためには、「なぜそうなったのか」を考えなければならない。しかし歴史研究には自然科学とは異なる難しさがある。

 徳川幕府をもう1度成立させ、ある条件だけを変えて結果を比較することはできない。第1次世界大戦を再現して、ある国の外交判断だけを変更した場合に戦争が回避されたかどうかを実験することもできない。歴史上の出来事は基本的に1度しか起こらず、研究者が条件を自由に操作することもできない。

 だからといって、歴史的な因果関係について何も検討できないわけではない。

 現代の歴史研究や経済史では、地域ごとの差、制度変更の前後、偶然に生じた境界線や政策差などを比較し、ある条件が結果にどの程度影響したのかを推定する研究が行われている。研究者自身が実験を行うわけではないが、現実の中で生じた条件差を利用する自然実験や統計的な因果推論によって、歴史的な出来事の因果関係へ近づこうとするのである。

 ただし、それでも歴史上の出来事を完全に再現することはできない。この限界があるからこそ、「原因はこれ1つだった」と断定することには慎重さが必要になる。

過去から「教訓」を取り出すことはできるのか

 歴史を学ぶ理由として、「歴史から教訓を得るため」という言葉がよく使われる。たしかに過去には多くの成功と失敗が記録されており、そこから現在に役立つ示唆を得ることはできる。

 しかし、「過去にこうした結果、失敗した。だから現在も同じことをしてはいけない」という推論は、それほど単純ではない。2つの時代で条件が本当に同じなのかを確かめなければならないからである。技術も人口も制度も国際環境も異なるなら、外見の似ている出来事が同じ結果を生むとは限らない。

 歴史から学ぶとは、過去の答えをそのまま現在へコピーすることではない。

 むしろ重要なのは、過去の人々がどの情報を持ち、何を合理的だと考え、どの段階で判断を誤り、どこまでなら別の選択肢が残されていたのかを考えることである。その思考を通して、現在の私たち自身もまた、限られた情報の中で判断している存在なのだと気づく。

 歴史は未来の答えを教えてくれる予言書ではない。しかし、現在を単純化して見る癖から私たちを遠ざけることはできる。

「もし自分がそこにいたら」という問いの危うさ

 古い写真を見ると、不思議な感覚に襲われることがある。100年前の駅前で人々が歩いている。店先に立つ人がいて、こちらを向いている子どもがいる。その1人ひとりに名前があり、家族があり、心配事があり、その日の予定があった。しかし写真を見ている私たちは、その後に戦争が起こったことも、大地震があったことも、町の姿が変わったことも知っている。

 写真の中にいる人々は、それを知らない。

 ここで「もし自分がそこにいたら」と考えてみたくなる。しかし注意しなければならないのは、2026年の知識や価値観をそのまま持った自分を100年前へ送り込むことには、あまり歴史的な意味がないということである。

 本当に考えるべきなのは、「その人がその時代に持てた情報だけを持ち、その時代の制度や社会常識の中で生きていたなら、世界はどのように見えただろうか」という問いである。

 この違いは小さいように見えて、決定的である。

 現在の知識を持った自分なら、過去の人々の失敗を簡単に避けられるように思える。しかし、その知識の多くは、彼らが失敗した結果を私たちが後から知ったことによって得られたものでもある。

 だから歴史上の人々を簡単に笑うことはできない。彼らもまた、未来を知らない現在を生きていたからである。

私たちもまた、未来から見れば歴史の中にいる

 100年後の誰かから見れば、私たちも古い写真の中の人間になる。

 2026年に何を重要だと思い、何を恐れ、どの問題について議論し、どの問題をほとんど気にしていなかったのかを、未来の人々は「歴史」として読むだろう。そして彼らは、私たちがまだ知らない結末を知った上で、「なぜ当時の人は気づかなかったのだろう」と考えるかもしれない。

 その未来の視線を想像すると、歴史を見る目も少し変わる。

 歴史を知るとは、過去についての情報を持つことである。しかし歴史を考えるとは、その情報の向こう側に、未来を知らずに生きていた人間を見ることであり、同時に、自分自身もまた未来を知らない1人の人間として歴史の途中に立っていることに気づくことである。

 年号を覚えるだけなら、過去は遠い。しかし、過去の人々が私たちと同じように迷い、誤り、ときには十分に合理的だと思われた判断によって予想もしなかった未来を作ったのだと理解したとき、歴史は突然こちら側へ近づいてくる。

 そのとき歴史は、すでに終わった出来事の一覧ではなくなる。

 それは、過去の人間を裁くための帳簿ではなく、未来を知らない現在を生きる私たちが、自分たちは何を見落としているのかを考えるための巨大な鏡になるのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ