地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

人がいなくなっても、土地に「持ち主なし」の札は立たない

 地方を歩いていると、草に覆われた庭の奥に古い家が残り、もう何年も人が出入りしていないような土地を見かけることがある。近所の人に聞けば、「住んでいた人が亡くなり、子どももいなかったらしい」という話が返ってくるかもしれないが、そこで素朴な疑問が生まれる。持ち主が亡くなり、家族も誰も残っていないように見える土地は、最後にはいったい誰のものになるのだろうか。

 感覚的には、所有者が亡くなった瞬間に土地が「誰のものでもない状態」になり、しばらくすると町や国が引き取るようにも思えるが、日本の相続制度はそのようにはできていない。人が亡くなることと、その人が持っていた土地から所有権そのものが消えることは別の問題であり、住む人の姿がなくなっても、土地の法律関係は静かに次の段階へ進んでいく。

持ち主が亡くなると、まず相続が始まる

 土地の所有者が亡くなると、その土地は原則として相続の対象になり、配偶者や子など法律上の相続人がいれば、その権利は相続によって引き継がれる。そのため、登記簿に亡くなった人の名前が残っているからといって、その人が死後も土地を所有しているわけではなく、登記簿の記録と実際の権利関係が一致していないことも珍しくない。

 たとえば祖父が亡くなり、その子が土地を相続したものの登記を変更せず、その子も亡くなり、さらに孫の世代へ相続が続けば、登記簿には祖父の名前が残っているのに、法律上の権利はその先の世代へ移っていることがある。兄弟姉妹が何人もいれば権利はさらに枝分かれし、世代が重なるほど関係者が増えるため、外から見ると「誰の土地なのか分からない」という状態が生まれやすくなる。

 こうした所有者不明土地の増加を抑えるため、2024年4月1日から相続登記が義務化され、自分のために相続が開始したことを知り、さらにその不動産の所有権を取得したことを知った人は、原則としてその日から3年以内に相続登記を申請しなければならなくなった。2024年4月1日以前に発生した相続についても一定の経過措置を経て義務の対象となるため、制度全体としては、亡くなった人の名前を何十年も登記簿に残したままにする状態を減らす方向へ動いている。

「家族が全員亡くなった」と「相続人がいない」は同じではない

 ある家族が全員亡くなったように見えても、それだけで法律上の相続人がいないとは限らない。亡くなった人に子がいなくても、直系尊属である父母などが存命であれば相続人となる場合があり、その人たちもいなければ兄弟姉妹が相続人となる場合があるうえ、一定の場合には、先に亡くなった子の子などが代わって相続する代襲相続も起こる。

 ただし、代襲相続には範囲があり、誰の子孫でも際限なくたどっていくわけではない。子の系統についてはさらに次の世代へ続く場合がある一方、兄弟姉妹については原則としてその子、つまり亡くなった人から見た甥や姪までが代襲相続の対象となるため、「親族がどこまでも相続人になる」と考えるのも正確ではない。

 近所から見れば親族が誰もいないように思える家でも、戸籍をたどっていくと遠方に相続人が見つかることがあり、逆に親戚がいることは分かっていても、その人たち全員が相続放棄をして最終的に相続する人がいなくなることもある。したがって、「登記名義人が死亡している状態」と「法律上、本当に相続人が存在しない状態」との間には大きな違いがある。

本当に相続人がいなければ、家庭裁判所による清算が始まる

 戸籍などを調べても相続人の存在が明らかにならない場合や、相続人となる人が全員相続放棄をした結果として相続する人がいなくなった場合でも、土地がその場で国有地へ変わるわけではない。利害関係人などから申立てが行われると、家庭裁判所が相続財産清算人を選任し、亡くなった人が残した財産と債務を整理する手続が進められる。

 相続財産清算人は、預金や土地などの財産を管理しながら、借金が残っていないか、代金を受け取る権利を持つ人はいないか、遺言によって財産を受け取る人はいないか、そして本当に相続人が存在しないのかを確認していく。家庭裁判所は相続人を探すための公告を行い、所定の期間を経ても相続人が現れなければ、そこでようやく相続人不存在という状態が法的に確定していく。

 この仕組みを考えると、法律が土地を簡単に「持ち主のいない物」として処理しない理由が見えてくる。亡くなった人には土地だけでなく借金が残されているかもしれず、代金を受け取っていない事業者や金銭を貸していた人がいる可能性もあるため、それらを無視して土地だけを国が受け取れば、亡くなった人と取引していた人の権利を損なうことになるので、まず財産関係全体を清算しなければならないのである。

相続人ではなくても財産を受け取れる人がいる

 相続人がいないからといって、ただちに国だけが次の受取人になるわけではなく、亡くなった人と長年生活を共にしていた人、療養看護に尽くした人など、特別な関係を持っていた人については、特別縁故者として家庭裁判所へ財産分与を申し立てる制度がある。

 たとえば婚姻届を提出していない内縁関係の相手は、原則として法律上の配偶者ではないため法定相続人にはならないが、長期間生活を共にし、亡くなった人の生活を支えてきたなどの事情があれば、相続人が存在しない場合に特別縁故者として財産の全部または一部を受け取ることが認められる可能性がある。ただし、長く世話をしたという理由だけで自動的に土地を取得できる制度ではなく、家庭裁判所への申立てと審理を経て、財産を分与することが相当であると判断されなければならない。

 また、生前に有効な遺言が残され、土地を特定の人や法人へ遺贈する意思が示されていれば、その内容によって財産の行き先が変わることもあるため、「法定相続人がいない」という事実と「財産を受け取る人が誰もいない」という事実は同じではない。

共有している土地には重要な例外がある

 ここで注意しなければならないのが、複数人で1つの土地を共有している場合である。共有者の1人が亡くなれば、通常はその人が持っていた共有持分について相続が起こるため、その人の相続人を調べる必要があるが、相続人が本当に存在しない場合には、一般の単独所有の土地とは異なる結論になることがある。

 民法では、共有者の1人が死亡し、その共有持分を承継する相続人がいない場合には、一定の手続を経たうえで、その持分が他の共有者へ帰属する仕組みが設けられている。特別縁故者への財産分与などが問題となる場合もあるため、死亡した瞬間に自動的に他の共有者のものになるという単純な話ではないが、「相続人のいない財産はすべて最終的に国のものになる」という理解も正確ではない。

 たとえば2人で土地を2分の1ずつ共有しており、そのうち1人が死亡して相続人がいない場合には、その人の持分について相続財産の清算手続などが行われ、それでも他に帰属先がなければ、残った共有持分がもう1人の共有者へ帰属する場合がある。土地の最終的な行き先を考えるときには、単独所有なのか共有なのかによって制度が変わるという点が重要になる。

最後まで残った財産が国庫へ帰属する

 相続人を探し、債権者などへの支払いを済ませ、必要に応じて特別縁故者への財産分与も終わり、それでも財産が残った場合、その残余財産は原則として国庫へ帰属する。ここで初めて、「持ち主がいなくなった土地は最後には国のものになる」という一般的なイメージに近い状態へ到達する。

 ただし、清算の過程で土地が売却され、売却代金から債務などが支払われることもあるため、相続人のいない土地が必ずその土地の形のまま国有地になるわけではない。土地そのものが残っていれば国へ引き継がれることがあり、売却され現金に換えられていれば、最終的に残った金銭などが国庫へ帰属することになるため、国は最初から土地を取りに来る存在というより、他に行き先がなくなった財産を最後に受け止める存在と考えた方が実態に近い。

 また、その土地が存在する市町村へ自動的に移るわけでもない。町の中にある土地だから最後は町有地になると思われがちだが、相続人不存在によって最終的に残余財産が帰属する先は原則として国であり、市町村や都道府県がそのまま所有者になる制度ではない。

「相続土地国庫帰属制度」とは別の話である

 ここで混同しやすい制度として、2023年4月27日に始まった相続土地国庫帰属制度があるが、これはこの記事で扱っている「相続人がいないため最後に国庫へ帰属する」という仕組みとは別の制度である。

 相続土地国庫帰属制度は、相続などによって土地を取得した生きている所有者が、一定の条件を満たす土地について国への帰属を申請し、審査を受けたうえで承認され、所定の負担金を納付することによって土地を国へ引き渡す制度である。つまり、一方は相続人が存在しない財産を清算した最後に国が受け取る仕組みであり、もう一方は相続した土地を所有している人が自ら申請して国へ引き渡す仕組みなので、同じ「土地が国のものになる」という結果であっても、そこへ至る法律上の経路はまったく異なる。

問題は「誰のものになるか」より「そこまで何年かかるか」にある

 法律上の結論だけを見れば、相続人がいなければ清算手続が行われ、債権者への支払いや特別縁故者への分与などを経て、それでも残った財産が国庫へ帰属するという流れは明確である。しかし地域社会にとって深刻なのは、最終的な行き先そのものより、そこへ到達するまでにどれだけ長い時間が必要になるかという問題である。

 裁判所が2026年に公表した資料では、2025年12月31日時点で管理が継続していた相続財産清算人選任事件は15,692件あり、そのうち2年を超えて継続している事件は約38%、5年を超える事件も約13%、さらに10年を超えているものも約4%存在していた。これらは管理継続中の事件についての数字であり、すべての相続人不存在事件に同じ期間がかかるという意味ではないが、「相続人がいなければすぐ国のものになる」というイメージとはかなり異なる現実を示している。

 登記簿上の所有者が30年前に亡くなり、その子も亡くなり、さらに次の世代へ相続が重なっていれば、現在の権利者を確定するためだけでも多くの戸籍を調べなければならない。相続人が全国各地へ散らばっていたり、本人自身が土地の存在を知らなかったりすれば、その間にも山林では樹木が伸び、空き地では雑草が繁り、空き家では屋根や外壁の傷みが進むため、現実の土地管理が法律上の整理を待ってはくれない。

国庫へ帰属する不動産も増えている

 こうした問題は単なる想像上の将来問題ではなく、すでに数字にも現れている。財務省の資料によれば、相続人不存在などによって国庫へ帰属した不動産は、2016年度には30件だったものが、2024年度には226件となっており、年度による増減はあるものの長期的には増加する方向が確認できる。

 2016年度の30件と2024年度の226件を単純に比較すれば約7.5倍であり、これだけを使って将来も同じ速度で増えると予測することはできないものの、人口減少、高齢化、単身世帯の増加、地方の土地需要低下が重なる社会では、相続しても利用されない土地や、最後まで承継する人が見つからない不動産が地域問題として存在感を増していく可能性は高い。

人はいなくなっても、土地の履歴は消えない

 かつて家が建ち、庭木が植えられ、畑が耕され、人の生活が続いていた場所から住民がいなくなると、土地まで社会から消えてしまったように見えることがある。しかし土地そのものは残り、所有権も人の死と同時に消えるわけではなく、1人が亡くなれば相続へ進み、その相続人も亡くなればさらに次の相続へ進み、それでも誰もいないことが確認されて初めて、清算という長い手続の先に国庫という最後の受け皿が現れる。

 したがって、「持ち主が全員亡くなった土地は最後に誰のものになるのか」という問いに対する最も正確な答えは、「原則として、相続人やその他の受取人が誰もいなければ最後には国へ帰属するが、すぐ国のものになるわけではない」というものになる。ただし共有地では他の共有者へ持分が帰属する場合があり、遺言や特別縁故者によって別の人へ財産が渡ることもあるため、個々の土地については所有関係を調べなければ結論を出すことはできない。

 誰も住まなくなった土地に草が伸びていく時間と、法律が相続人や債権者を探しながら所有関係を整理していく時間は、同じ速さでは流れない。その時間差こそが、人口減少社会の土地問題を考えるうえで見落としにくい部分であり、持ち主の姿が消えた土地の向こう側には、相続という制度と地域社会の現実との間に生まれた、長い時間のずれが残っているのである。

※この記事は、2026年9月時点の法令・公的資料をもとに、相続と土地に関する一般的な制度を解説したものです。実際の権利関係や手続は個別の事情によって異なるため、具体的な案件については司法書士、弁護士などの専門家や関係機関にご確認ください。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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主が亡くなった翌日、その家は空き家なのか

 1人暮らしをしていた人が亡くなると、それまで毎日使われていた家から、ある日を境に人の生活だけが消える。食器は食器棚にあり、冷蔵庫には食品が残り、押し入れには布団が入り、庭には昨日までと同じ木が立っているのに、そこへ帰ってくる人はいない。その光景を見れば、多くの人は「この家は空き家になった」と感じるだろう。

 しかし、法律の世界では話がそれほど単純ではない。人が亡くなった日と、その建物が空家等対策の推進に関する特別措置法上の「空家等」に該当するようになる時点は、必ずしも一致しないからである。死亡には死亡日という明確な日付があるが、空き家には死亡届のようなものがなく、ある日の午前0時を境に突然「住宅」から「空き家」へ切り替わるわけではない。

 しかも、「空き家」という言葉そのものにも注意が必要である。日常会話でいう空き家、住宅・土地統計調査など統計上の空き家、空家法上の「空家等」は、似ているようで同じ概念ではない。住宅統計では、賃貸用、売却用、別荘などの二次的住宅も含めて空き家を分類する一方、空家法では、その建物が「居住その他の使用がなされていないことが常態」であるかどうかが問題になるため、目的によって「空き家」の範囲が異なるのである。

「誰も住んでいない」と「空家等」は少し違う

 空家法では、「空家等」を、建築物またはこれに附属する工作物であって、居住その他の使用がなされていないことが常態となっているものなどと定めている。ここで重要なのは、「今日そこに人がいない」という一瞬の状態ではなく、「使用されていない状態が常態になっているか」という時間を含んだ考え方である。

 たとえば、1人暮らしの父親が亡くなり、遠方に住む子どもが葬儀や遺品整理のため数週間にわたって実家へ通っていたとする。人の出入りはあるものの、その家で以前のような日常生活が営まれているわけではない。一方で、父親が亡くなっても母親がその家で暮らし続けているなら、所有者の死亡という出来事があったとしても、その建物はそれだけで空き家にはならない。つまり、空き家かどうかを考える中心にあるのは、所有者が生きているか亡くなっているかではなく、その建物が実際にどのように使用されているかなのである。

 国の指針では、「居住その他の使用がなされていないことが常態」であるかを判断する際、建物が長期間にわたって使用されていない状態であるかを確認し、「概ね年間を通して使用実績がないこと」を1つの基準としている。ただし、これは「死亡後1年が経過した瞬間に自動的に空家等になる」という意味ではなく、人の出入り、電気・ガス・水道の利用状況、登記記録、住民票、建物の管理状態、所有者による利用の実態などを総合的に見ながら判断していく。

 したがって、「人が亡くなってから何日で空き家になるのか」という問いに対し、30日、半年、1年という1本の線を引いて答えることはできない。日常的な感覚では最後の居住者が亡くなった日から「空き家になった」と表現しても不自然ではないが、空家法上の「空家等」に当たるかどうかは、その後の使用実態と時間の経過を含めて判断されるのである。

家の時間と相続の時間は別々に進み始める

 ここで少し不思議なことが起こる。空家法上の「空家等」に該当するかどうかを判断するには一定の時間と使用実態の確認が必要なのに、相続の時計は人が亡くなった瞬間から動き始めるからである。民法では、相続は人の死亡によって開始すると定められているため、家族がまだ何も決めていなくても、法律上の相続関係はすでに始まっている。

 昨日まで父親が暮らしていた住宅について、子どもたちが「しばらく父の家のままにしておこう」と考えていたとしても、法律関係まで停止するわけではない。誰がその不動産を取得するのか、相続人同士でどのように分けるのか、今後誰が管理するのかという問題は、家族の心理的な整理とは別に進んでいく。

 さらに、2024年4月1日からは相続登記が義務化されており、相続によって不動産の所有権を取得した相続人は、自己のために相続が開始したことと、その不動産を取得したことを知った日から原則として3年以内に相続登記を申請する必要がある。このため、人が亡くなった実家には、相続関係を整理していく時計と、住宅として使われない時間が積み重なっていく空き家の時計という、2つの異なる時間が同時に流れ始めることになる。

家具や遺品が残っていれば空き家ではないのか

 空き家について考えるとき、判断を迷わせるのが家の中に残された物である。亡くなった人の服も家具も食器も仏壇もそのまま残っていれば、家族にとってその家は完全な空き家には見えず、「父の家」「母の家」という感覚が何年たっても残ることがある。

 しかし、家族の記憶の中に残る「家」と、建物の使用実態とは必ずしも一致しない。家具や遺品が残っているという事実だけで居住していることにはならず、反対に家具がほとんどなくても、別荘や仕事場などとして継続的に使用しているなら、その使用実態を見なければならない。空き家を考えるうえで重要なのは、物が置かれているかどうかという静止した風景ではなく、その建物の中で人間の生活や活動が現在も続いているかどうかなのである。

 ここには相続した実家特有の難しさがある。売却するには遺品を整理しなければならないが、遺品を整理することが、亡くなった人との関係まで片づけてしまうように感じられる場合があるため、判断そのものが先送りされやすい。その結果、家は「いずれ何とかする場所」として残され、「いずれ」が半年になり、1年になり、数年へと延びていく間に、住宅として使用されない時間だけが積み重なっていく。

人がいなくなった家では、管理の空白が生まれる

 住宅は、誰も触らなければ同じ状態のまま保存される巨大な箱ではない。人が窓を開け、風を通し、水を流し、庭の草を刈り、雨漏りや害虫に気づき、設備の異常を見つけるという日常の小さな行為によって、住宅の状態は維持されているため、住人がいなくなるということは、そうした無数の管理行為が同時に失われる可能性があるということでもある。

 ただし、空き家になれば数か月で必ず劣化する、と時間だけで断定することはできない。住宅の傷み方は、建築年代、木造か鉄骨造かといった構造、地域の気候、湿度、雨漏りの有無、海からの距離、換気状態、給排水設備、庭木の状況、そして管理頻度などによって大きく異なるからである。それでも管理されない状態が続けば、湿気や害虫、排水設備の不具合、庭木の繁茂、屋根や外壁の異常などが発見されにくくなり、小さな変化が修繕されないまま進行する危険は高くなる。

 国の管理指針でも、空き家は不具合が発見されにくいため、傷みが早く進行する傾向があるとされ、定期的な点検や通気、換気、破損部分の修繕などが重要とされている。したがって、空き家問題で本当に注意しなければならないのは、法律上いつ「空家等」になったかという一点だけではなく、「いつから誰も継続的に管理しなくなったのか」というもう1つの時間なのである。

「ときどき見に行く家」は空き家ではないのか

 では、相続人が月に1回訪れ、窓を開けたり庭の草を刈ったりしていれば、その家は空き家ではないのだろうか。ここでも、訪問回数だけで結論を出すことはできない。管理のために訪問することと、その建物を住宅や別荘、仕事場などとして実際に使用していることは同じではないため、月に1回草刈りをしているから直ちに「居住している家」になるわけではないからである。

 反対に、誰も住民票を置いていない、あるいは電気やガスの使用量が少ないという理由だけで、直ちに空家法上の「空家等」になるわけでもない。重要なのは、建物への人の出入り、ライフラインの利用、管理状況、所有者の説明、利用目的などを総合的に見て、実際に使用されている建物なのか、それとも管理だけが行われている空き家なのかを見分けることである。

 このように考えると、現実の住宅には、「住んでいる家」と「完全に放置された家」という2つの状態しかないわけではないことが分かる。誰も住んでいないが定期的に管理されている家、年に数回使われる家、売却準備中の家、遺品整理だけが続いている家など、その中間にはさまざまな状態が存在し、相続した実家の多くはこの灰色の時間の中に長く置かれることになる。

空き家の多くは相続によって生まれている

 空き家と相続の関係は、単なる印象ではなく統計にもはっきり表れている。国土交通省が2025年に公表した空き家所有者実態調査では、空き家を取得した方法として「相続」が57.9%を占め、半数を大きく上回っている。さらに、相続によって取得した空き家が空き家になった原因を見ると、所有者の死亡が58.3%を占めており、「人が亡くなったあとに家が残る」という出来事が、日本の空き家発生の主要な経路の1つになっていることが分かる。

 相続前に空き家への対応について何らかの対策をしていた世帯は23.0%で、対策をしていなかった世帯は77.0%だった。さらに、相続前に対策をしていなかった場合、そのまま空き家として所有し続けている割合は45.1%だったのに対し、事前に対策をしていた場合は29.4%にとどまっているため、相続が起こる前から家の扱いについて話し合っておくことと、その後の空き家状態には一定の関係があることが読み取れる。

 ただし、この数字から「事前に話し合えば必ず空き家にならない」とまで断定することはできない。もともと不動産を処分する意欲の高い家庭ほど事前に話し合っていた可能性もあり、統計上の関連と因果関係は同じではないからである。それでも、相続前に家の扱いについて考えることが、その後の選択に影響している可能性を示す数字としては十分に意味がある。

空き家は古い家が多いという事実も忘れてはいけない

 同じ調査では、空き家の71.8%に、構造上の不具合や室内外の腐朽・破損など、何らかの問題が確認されている。この数字だけを見ると、「空き家にすると建物が傷む」という単純な結論を出したくなるが、ここには統計を読むうえで注意しなければならない点がある。

 相続によって取得した空き家の73.2%は1980年以前に建築された住宅であり、もともと築年数の長い住宅が多い。つまり、建物が傷んでいる理由には、空き家であることだけではなく、建築から長い時間が経過していることも強く影響している可能性があるため、「空き家だから傷んだ」と単純な因果関係として説明することはできないのである。

 それでも、空き家では日常的に人が生活している住宅に比べて異常が発見されにくく、修繕が遅れやすいという構造的な問題は残る。統計は「空き家にすると必ず壊れる」と証明しているわけではないが、古い住宅が空き家となり、さらに管理が不足することで、問題が表面化しやすくなるという現実的な危険を示していると考えるのが妥当である。

問題になるのは「空き家になった日」より、その後である

 空家法では、すべての空き家を危険な建物として扱っているわけではなく、適切に管理されている空き家もあれば、管理が十分でないため、そのまま放置すれば「特定空家等」になるおそれのある「管理不全空家等」も存在する。さらに、倒壊など著しく保安上危険となるおそれがある状態、衛生上著しく有害となるおそれがある状態、著しく景観を損なっている状態などに至れば、「特定空家等」として行政による助言、指導、勧告などの対象になる場合がある。

 この仕組みを考えると、「いつ空き家になったのか」という問いの意味も少し変わってくる。人が亡くなった翌日から誰も住まなくなったとしても、相続人が管理を続け、比較的早い段階で売却、賃貸、親族による利用などを決めれば、空き家である期間は短く終わることがある。一方で、「しばらくそのままでいい」という判断が積み重なり、5年、10年と時間が経過すれば、当初は単に誰も住んでいなかった住宅が、建物そのものだけでなく周辺環境にも影響を及ぼす住宅へ変わっていく可能性がある。

 家は、ある日の朝突然「空き家問題」になるわけではない。誰が住むのか、誰が管理するのか、売るのか、貸すのかという判断がされないまま時間だけが積み重なり、その間に管理の空白と建物の変化が進んだ結果として、少しずつ問題が姿を現すのである。

本当の境目は、人が亡くなった日ではない

 1人暮らしの人が亡くなった住宅は、生活上の意味では、その日から「誰も住んでいない家」になることがある。しかし、空家法上の「空家等」は、居住その他の使用がなされていないことが常態となっているかを、その後の利用実態を含めて判断するため、「死亡後何日」という全国共通の期限は存在しない。国の指針で示されている「概ね年間を通して使用実績がない」という考え方も、自動的に空き家へ切り替わる期限ではなく、あくまで判断するための1つの基準である。

 その一方で、相続は死亡によって直ちに開始し、相続登記にも期限があるため、家族が「まだ何も決めていない」と思っている時間も、法律上の時間と建物の時間は止まらない。だからこそ、本当に重要なのは、空家法上の「空家等」と認められる日を探すことではなく、最後の居住者がいなくなったあと、その家を誰が管理し、将来どうするのかをできるだけ早く考え始めることである。

 人が亡くなっても、家はその場所に残る。屋根も庭も玄関も、亡くなった人が最後に閉めた窓も残っているが、人間が結論を先送りしている間にも季節は巡り、雨は降り、草は伸び、建物には少しずつ時間が刻まれていく。相続した家にとって最も危険なのは、空き家と呼ばれることそのものではなく、「まだ決めなくてもよい」という時間が長く続き、管理と判断の両方が失われていくことなのかもしれない。

 人が亡くなったあと、その家はいつ空き家になるのか。この問いに、カレンダー上の1日に印を付けるような答えはない。むしろ空き家とは、人がいなくなった瞬間に突然誕生するものではなく、使われなくなった家に時間が積み重なり、管理や利用の実態が変化する中で、少しずつその姿を現してくるものなのである。

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毎日歩いている道路なのに、誰のものか知らない

 玄関を出ると道路があり、車が通り、郵便配達のバイクが止まり、雨が降れば側溝へ水が流れていくほど日常に溶け込んだ風景なので、普段はその道路が誰のものなのかなど考えることもないが、自宅の塀を直したり、土地を売ったり、建物を建て替えたりしようとすると、それまでただのアスファルトだった道路が突然、土地と権利の問題として姿を現し、「ここから先は町の土地なのか」「側溝は道路に含まれるのか」「そもそもこの道は町道なのか、それとも私道なのか」と考え始めた瞬間に、道路の見え方は一変する。

 道路には国道、県道、町道といった名前が付いているため、その名前を見れば誰のものなのか分かるように思えるが、実際には「何という道路なのか」「誰が管理しているのか」「道路になっている土地を誰が所有しているのか」「自宅の土地との境界はどこなのか」はそれぞれ別の問題であり、「家の前の道路は誰のものなのか」という一見単純な疑問の中には、道路の種類、管理者、土地所有者、境界という複数の問いが重なっているのである。

道路法上の道路は4種類に分かれている

 道路法上の道路は、高速自動車国道、一般国道、都道府県道、市町村道の4種類に分けられており、町に住んでいる場合、市町村道のうち町が認定した道路が一般に町道と呼ばれ、県が認定する道路が県道となる。

 この区分だけを見ると、町道なら町、県道なら県、国道なら国のものだと考えたくなるが、最初に注意しなければならないのは、「道路を管理している者」と「その道路敷の土地を所有している者」は必ずしも同じではないということである。

 町道であれば、通常は町が道路管理者として舗装の補修や側溝の維持、道路占用などの行政事務を行うため、日常感覚として「町の道路」と呼んでも大きな問題はないものの、この「町の道路」という表現には、町が道路として管理しているという意味と、道路敷の土地そのものを町が所有しているという意味が混在しやすい。

 県道でも同じであり、県が管理している道路だからといって道路敷の全区間が必ず県有地であるとは限らず、実際に道路台帳では、道路敷について国有地、地方公共団体有地、民有地などの区分を設けて整理する仕組みがあり、道路として公共的に管理されている土地の中に民有地が含まれる場合が制度上想定されているため、「町道だから町有地」「県道だから県有地」「国道だから国有地」という理解は、道路の性格をおおまかに把握するには便利であっても、土地の所有関係を確定する答えにはならない。

「誰が管理しているか」と「誰が所有しているか」は別の問題

 ここで重要なのは、「管理」と「所有」という2つの概念を切り離して考えることである。道路管理者は、道路を安全かつ適切に利用できる状態に維持する責任を負っており、舗装が傷めば補修し、側溝が壊れれば対応し、道路上に電柱や水道管などを設置する場合には占用について判断するが、こうした行政上の管理権限があることと、その下にある土地の所有権を持っていることは法律上別の問題である。

 古くから使われてきた道路では、もともと集落道や農道だった道が拡幅されたり、沿道住民から土地の一部が寄付されたり、道路工事に伴って土地が買収されたりしながら現在の形になっていることがあり、その過程で登記上の所有関係が複雑になっている場合もある。

 道路法上の道路であっても、その道路敷に民有地が含まれていることがあり、その場合、所有者は通常の宅地や畑と同じように自由に使えるわけではなく、道路として公共の用に供されている以上、土地利用には道路法上の制約が加わるためである。

 この関係を理解すると、「町が管理している道路なのだから町の土地に違いない」という推論が必ずしも成り立たない理由が見えてきて、管理者から所有者を直接推定することはできず、土地の所有者を知りたければ道路の名称だけではなく登記まで調べなければならない。

アスファルトの端が境界線とは限らない

 道路と自宅との境界を考えるとき、多くの人が最初に目印とするのはアスファルトの端や側溝、縁石、ブロック塀、フェンスなどであるが、それらは境界を推測する材料にはなっても、それ自体が法律上の境界を証明するものではない。

 道路は車が走る舗装部分だけで構成されているわけではなく、歩道、路肩、側溝、植樹帯、法面などまで道路区域に含まれていることがあるため、舗装が終わった位置からさらに外側まで道路として管理されている場合もある一方、昔から置かれている石垣や塀が、そのまま正確な土地境界の上に造られている保証もない。

 何十年もそこにある構造物を見ると境界そのもののように感じてしまうが、人が造った構造物と法律上の土地の線は別のものであり、道路と自宅の境界を確認しようとして「側溝の外側が自分の土地だろう」「舗装が切れたところが道路の終わりだろう」と外観だけで判断するのは危険であるため、本当に確認するには道路台帳や登記、公図、測量資料などを重ねて見る必要がある。

道路区域という、もう1つの線

 ここで道路法上の「道路区域」という考え方が登場し、道路管理者はどこからどこまでを道路として管理するのかという区域を定めているが、この道路区域は道路行政を行ううえで重要な意味を持つ一方で、道路区域の線と土地の所有権を区切る線が必ず一致するとは限らない。

 たとえば、ある町道の道路区域の中に町有地と民有地が混在している場合、道路として管理される範囲は連続していても、その下にある土地の所有者は場所によって異なることになり、現地には見えない複数の線が重なって存在していることになる。

 道路行政上の「道路区域」があり、不動産登記上の土地を区切る線があり、さらに所有権が実際にどこまで及んでいるかという線もあるため、見た目には1本の道路でも、制度上は複数の異なる境界が重なっているのである。

「境界」には筆界と所有権界がある

 土地について調べ始めると、「境界」という言葉そのものにも注意が必要になり、日常会話では土地と土地の境目をすべて境界と呼ぶが、法律上は「筆界」と「所有権界」という異なる概念がある。

 筆界とは、土地が登記された際に1筆の土地と隣の土地を区画するために定められた線であり、所有者同士が相談して自由に移動させることのできる線ではない一方、所有権界は実際に所有権がどこまで及んでいるのかを示す境界であり、多くの場合は筆界と一致しているものの、必ず一致するとは限らない。

 この違いは普段の生活ではほとんど意識されないが、土地売買や分筆、相続、建物の建て替え、境界紛争などが起きたときに重要になり、隣同士で「ここを境界にしましょう」と合意したからといって、それだけで登記上の筆界そのものが自由に動くわけではない。

 道路との境界を調べる場合にも、「道路区域の端」「筆界」「所有権界」を同じ線だと思い込まないことが重要であり、この3つが一致しているかどうかは、資料と現地を照合して初めて分かる。

公図を開くと、現在の道路の下から昔の土地が現れる

 境界をさらに追いかけると、法務局にある地図や地図に準ずる図面、いわゆる公図、登記事項証明書、地積測量図などの世界へ入っていく。

 現在の道路だけを見ていると、その道路は最初から現在の幅と形で存在していたように感じられるが、実際には土地の歴史の上に道路が重なっており、昔は畑と畑の間の細い道だった場所が拡幅されたり、集落の生活道路が町道として認定されたり、道路改良の際に沿道の土地が少しずつ買収されたり寄付されたりして現在の道路が形成されていることがある。

 公図を眺めると、現在では1本の道路にしか見えない場所の下に、かつての地番や複数の土地の形が残っていることがあり、道路という現在の風景の下から昔の土地利用が浮かび上がってくる。

 ただし、公図は万能ではなく、特に古い公図には明治期の地租改正などを起源とするものもあり、土地のおおまかな位置関係を確認するには有用であっても、現地を正確に復元できるほどの精度を備えていない場合があるため、公図に描かれた線だけを見て「ここが境界だ」と現地に線を引くことはできず、地積測量図や過去の境界確定資料、現地の境界標、周囲の土地との関係などを合わせて検討する必要がある。

境界標は小さいが、そこに大きな意味がある

 道路沿いを注意して歩くと、側溝の脇や塀の下、地面の隅などに金属製の標識やコンクリート杭、小さな鋲が埋め込まれていることがあり、その中には土地の境界を示すために設置されたものもあるが、境界標らしいものを見つけたからといって、それだけで現在の境界が確定するわけではない。

 工事などによって移動している可能性もあれば、道路との境界ではなく隣接する宅地同士の境界を示している可能性もあり、古い境界標であれば現在残っている測量資料との照合が必要になる。

 道路と民有地との境界を正式に確認する必要が生じた場合には、道路管理者が保有する資料、公図、過去の境界確定資料、測量成果などを調べたうえで現地を確認し、関係する土地所有者などの立会いを行って境界を確認する手続が取られるが、行政が地図を見て一方的に線を引くわけではなく、古い資料と現在の地形を照合し、関係者が現地を確認しながら協議を重ねていくため、道路の境界を確定する作業は、過去の土地の姿を現在の地面の上にもう一度復元していく作業ともいえる。

筆界そのものをめぐる問題には別の制度もある

 境界について話を進めると、さらにもう1つ知っておきたい制度があり、法務局には「筆界特定制度」が設けられ、土地の筆界がどこにあるのか分からなくなった場合に、資料や現地の状況などを調査して筆界の位置を明らかにする仕組みになっている。

 筆界特定は新しく境界を作る制度ではなく、かつて土地が登記されたときに存在していたはずの筆界が現在どこにあるのかを明らかにする制度であり、道路管理者との境界確定手続とは目的も仕組みも異なるため、「境界を調べる」という同じ言葉の中に複数の制度が存在していることにも注意が必要である。

私道になると、さらに話は複雑になる

 道路の世界には、道路法上の国道、県道、町道などに含まれない私道も存在し、私人や法人が所有する土地に設けられた道として、1人が所有している場合もあれば、沿道の住民が共有している場合、不動産会社などの法人が所有している場合もあり、住宅地の中には公道とほとんど区別できないほど整備された私道もある。

 見た目が立派に舗装され、誰でも普通に通行しているからといって公道とは限らない一方、私有地だから所有者が完全に自由に扱えるとも限らず、建築基準法が適用される区域では、私人が所有する道であっても建築基準法上の道路として扱われている場合があり、いわゆる位置指定道路などがその代表例である。

 このため、中古住宅や土地の広告に「前面道路4メートル」と書かれていても、幅員だけを確認すれば十分というわけではなく、その道路が公道なのか私道なのか、私道であれば誰が所有しているのか、自宅に持分があるのか、建築基準法上どのような道路として扱われているのかによって、同じ幅4メートルの道路でも意味は大きく変わるため、道路は幅だけを測れば分かるものではなく、その下に土地と権利という目には見えない層が重なっているのである。

町道に載っていなければ、すぐ私道とは限らない

 自宅の前の道路について調べる場合、最初に確認したいのは、その道路が道路法上どのような道路なのかということであり、町役場などで町道の認定路線や道路台帳を確認し、町道でなければ県道や国道の可能性を調べていくことになるが、町道、県道、国道のどれにも該当しないからといって、直ちに私道と判断できるわけではない。

 道路法上の道路以外にも、農道、林道など別の制度に基づいて管理されている道があり、古くから存在する道の中には歴史的な経緯を持つものもあるため、「町道ではなかった」という事実は調査の終点ではなく、むしろ次の調査の入口になり、その土地の地番を確認し、登記を調べ、公図を見ていくことで、ようやくその道の正体が少しずつ見えてくる。

「道路の名前」から調べ始めると世界が開く

 自宅の前の道路について知りたいだけなら、最初から測量や境界確定まで進む必要はなく、最初に調べるべきなのは、その道路が何という道路なのかという、ごく単純な事実である。

 町道であることが分かれば町の道路担当部署が入口となり、県道なら県の道路管理部門、国が管理する国道なら国の道路管理部門へと調査先が変わり、そのうえで「道路の種類だけ知りたい」のか、「土地の所有者まで知りたい」のか、「自宅との境界を正式に確認したい」のかによって必要な資料も手続も変わっていく。

 道路の種類を知るだけなら道路台帳などで足りることが多いが、土地所有者を知ろうとすれば登記へ進み、正確な境界を確認しようとすれば測量や現地立会いの世界へ入っていくため、1つの疑問が次の疑問を呼び、道路の表面から少しずつ地下へ掘り進んでいくように調査が深くなっていくところに、このテーマの面白さがある。

家の前の1本の道路には、町の歴史が埋まっている

 こうして見ていくと、「家の前の道路は誰のものなのか」という問いに、ひと言で答えることが難しい理由が分かってくる。町が管理する町道であっても、道路敷の全てが必ず町有地とは限らず、県道や国道でも管理者と土地所有者を分けて考える必要があり、さらに道路区域、筆界、所有権界という異なる線が存在し、私道になれば所有者や共有持分、建築基準法上の扱いなどまで関係してくる。

 しかし、制度が複雑に見えるのは、単に行政手続が難しいからではなく、道路そのものが長い時間をかけて作られてきたからである。

 昔の農道や集落道が広がり、土地が寄付され、買収され、舗装され、側溝が造られ、町道や県道として認定されるたびに、新しい制度が古い土地の上へ少しずつ重ねられてきた結果、現在の道路の下には、過去の土地利用と所有関係の痕跡が幾重にも残っている。

 私たちは毎日、その歴史の上を何気なく歩いているが、玄関の前にあるアスファルトも、調べなければただの道路にしか見えない一方、道路台帳を開き、公図を眺め、地番を追い、登記を確認し、境界標を探してみると、そこには「町が管理している道路」という一言では説明できない土地の履歴が浮かび上がってくる。

 道路と自宅との境目にある1本の細い線は、単なる土地の端ではなく、私有地と公共空間を分ける線であり、現在の町と過去の土地利用をつなぐ線であり、個人の暮らしと行政制度が接する場所でもある。

 家の前の道路は誰のものなのか。その答えを追いかけていくと、最後に見えてくるのは道路そのものだけではなく、私たちが暮らしている町がどのような土地の積み重ねによって形づくられてきたのかという、普段は地面の下に隠れているもう1つの歴史なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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草に埋もれた土地にも、当然「持ち主」がいると思っていた

 町を歩いていると、住宅と住宅の間や細い道の奥、あるいは昔は畑だったらしい場所に、誰も使っている様子のない小さな土地を見かけることがあるが、草は腰の高さまで伸び、境界らしき古い杭だけが残り、近所の人に「あそこは誰の土地ですか」と尋ねても、「昔は○○さんの土地だったと思うけれど、今はよく分からない」という曖昧な答えしか返ってこないことがある。土地には必ず所有者がいて、法務局で登記を調べれば誰のものか分かるはずだと考えるのが普通なので、このような話を聞くと奇妙に感じられるが、実際の日本では、登記簿に所有者の名前が記載されていても現在の所有者や相続人にすぐにはたどり着けない土地が存在し、それは山奥の特殊な土地だけではなく、住宅地や町の中にも存在している。

 ただし、ここで最初に整理しておかなければならないのは、「誰の土地か分からない土地」という日常的な表現と、法律上の「所有者不明土地」とは完全に同じ意味ではないということであり、一般的には登記簿を見ただけでは現在の所有者が分からない土地まで広く含めて語られることがある一方、法律上は、必要な探索を行っても所有者の全部または一部を確知できない土地について、より厳密に所有者不明土地として扱われる。したがって、町に見える草むらのすべてが法律上の所有者不明土地なのではなく、実際には所有者や相続人が存在しているものの、登記の情報が古くなり、現在誰に連絡すればよいのかが簡単には分からなくなっている土地が相当数含まれているのである。

「登記を見ても分からない」と「調べても分からない」は大きく違う

 この違いを理解するうえで興味深い数字があり、国土交通省が2016年度の地籍調査で約62万筆の土地を調べたところ、登記簿だけでは所有者等の所在を確認できなかった土地は20.1%に達していたが、その後、戸籍や住民票などを使って追跡すると、最終的に所在を確認できなかった土地は0.41%まで低下した。つまり、「日本の土地の約20%は本当の所有者が分からない」という意味ではなく、約20%は登記簿を開いただけでは現在の所有者やその所在までたどり着けず、追加調査が必要だったということであり、さらに調査を進めても所在を確認できなかった土地は、その中の一部だったということである。

 この20.1%と0.41%の差は、この問題の本質をよく表しており、日本に大量の「完全に持ち主のいない土地」が存在しているのではなく、土地には権利者がいるにもかかわらず、登記と現在の家族関係や住所との間に長い時間のずれが生じ、その人を探すために追加の調査が必要になっているのである。町の人が「あそこは誰の土地か分からない」と話している場合も、実際には誰のものでもないというより、「昔の所有者までは分かるが、今の権利者が誰なのかをすぐには説明できない」という状態である可能性が高い。

登記簿に名前が残っていても、その人が今の所有者とは限らない

 例えば、町の片隅にある土地の登記簿を調べたところ「山田太郎」という人物が所有者として記載されていたとすれば、一見すると誰の土地かは明らかになったように思えるが、その山田太郎さんが30年前に亡くなり、その後も相続登記が行われていなかったとすれば、登記簿の名前は現在その土地について権利を持っている人物を直接示しているのではなく、過去のある時点で所有していた人物を示しているにすぎない。山田さんに複数の子どもがいて、その子どもたちの世代でも相続が起こり、さらに孫やひ孫へ権利が分かれていけば、最初は1人だった所有者から多数の相続人が生じることになり、その人たちが町外や県外へ移り住んでいれば、1枚の登記簿から現在の権利者全員へたどり着くために、何世代分もの戸籍や住所の履歴を確認しなければならなくなる。

 これは単なる仮定の話ではなく、公共事業に関連した土地調査では、約560平方メートルの土地について法定相続人が242人にまで広がっていた事例も報告されているため、記事の中で「相続人が10人、20人になることもある」と書くことさえ、決して大げさな表現ではない。相続人の数が世代ごとに必ず倍になるわけではないものの、遺産分割が行われないまま複数回の相続が続けば、土地に関係する人の数が急速に増える可能性があるという構造は、数理的にも十分に理解できる。

原因の中心にあるのは、相続と住所変更である

 なぜ登記簿と現実との間にこのようなずれが生まれたのかを調べると、原因はかなり明確であり、国土交通省の調査では、登記簿だけで所有者の所在を確認できなかった土地について、相続に伴う所有権移転の登記が行われていなかったことが約3分の2を占め、住所変更の登記が行われていなかったことも約3分の1を占めていた。つまり、この問題の中心には、所有者が突然消えてしまうという不可解な現象があるのではなく、人が亡くなって相続が発生したにもかかわらず登記が更新されなかったり、所有者が転居したにもかかわらず住所変更の登記が行われなかったりすることで、登記簿に記録された人と現実に土地の権利を持っている人との距離が少しずつ広がっていくという、極めて現実的な事情がある。

 土地は何十年たっても同じ場所に存在するが、人間は引っ越し、結婚し、名字が変わり、子どもを持ち、やがて亡くなり、その子どもたちもまた別の地域へ移っていくため、何もしなければ土地と所有者を結び付ける情報は時間とともに古くなっていく。土地は動かないのに人間だけが動き続けるという、この単純な時間差が積み重なった結果、登記簿には確かに名前が存在しているのに、現在誰へ連絡すればよいのか分からないという状態が生まれるのである。

町の中にも存在し、山林だけの問題ではない

 所有者不明土地という言葉から、過疎地の山林や人里離れた農地を思い浮かべるかもしれないが、国土交通省の調査では、登記簿だけで所有者等の所在を確認できなかった割合は、人口集中地区でも14.5%、宅地中心地区でも17.4%となっており、林地中心地区の25.6%より低いとはいえ、都市部や住宅地でも決して無視できるほど少ない数字ではない。したがって、「誰の土地かすぐには分からない土地」は山の中だけに存在する問題ではなく、普通に人が暮らしている町の道路沿いや住宅地の一角にも存在する可能性がある。

 もちろん、地籍調査の対象となった土地の数字をそのまま日本全国すべての土地に機械的に当てはめることはできないが、少なくとも「所有者を簡単には確認できない土地は山林だけに集中している」という見方は適切ではなく、町の中でも相続や住所変更が長期間登記に反映されなければ、同じ問題は発生する。普段は単なる空き地にしか見えなくても、道路整備や隣地との境界確認などで初めて所有者へ連絡する必要が生じた瞬間、その土地が長年抱えていた権利関係の複雑さが表面化するのである。

小さな土地でも、公共事業を止めることがある

 所有者へ連絡できない状態は、その土地だけの問題で終わるとは限らず、道路を広げようとするとき、防災工事を行おうとするとき、河川や排水設備を整備しようとするとき、あるいは土地の境界を確定しようとするときには、土地について権利を持つ人との調整が必要になるため、長期間放置されてきた登記の問題が突然、行政や地域全体の問題として現れることになる。土地そのものが数十平方メートルしかなくても、相続人を探して戸籍を確認し、それぞれの所在を調べ、権利関係を整理しなければならないとなれば、調査と手続きに必要な時間や費用が土地そのものの市場価値を上回ることさえあり得る。

 したがって、所有者を確認できない土地の問題は、「荒れた土地が景観を悪くする」という程度にとどまらず、公共事業の進行、防災、周辺土地の利用、地域の管理コストにまで影響を及ぼす可能性があり、国がこの問題への対応を急いできた理由もそこにある。

2024年と2026年に制度が大きく変わった理由

 このような状況をこれ以上増やさないため、2024年4月1日から相続登記が義務化され、不動産を相続したことなどを知った場合には原則として3年以内に登記することが求められるようになり、さらに2026年4月1日からは、所有者の氏名や住所が変更された場合についても原則として2年以内に変更登記を行うことが義務になった。これらの制度変更を単なる手続きの厳格化と考えると本質を見失うが、国が防ごうとしているのは、所有者が亡くなったり転居したりするたびに土地と人との情報が古くなり、その状態が何十年も積み重なることで、将来その土地について誰と交渉すればよいのか分からなくなることである。

 つまり、相続登記や住所変更登記の義務化は、土地と所有者との間をつないでいる情報の糸を世代ごとに更新し続ける仕組みと考えると分かりやすく、問題が深刻化してから多数の相続人を探すよりも、所有者が変わった時点で登記を更新する方が社会全体の負担ははるかに小さい。

「価値の低い土地ほど」と単純には言えない

 ここで注意しなければならないのは、「土地の価値が低ければ所有者不明になりやすい」と単純な因果関係で考えることには慎重であるべきだという点であり、実際には地価だけでなく、土地の用途、接道状況、形状、所有者が近くに住んでいるか、何回相続が発生したか、その土地に利用需要があるかなど、複数の条件が関係しているため、土地価格だけを原因として説明することはできない。

 しかし、利用需要の低い土地ほど所有者が積極的に関与する理由が弱くなりやすいという傾向には一定の根拠があり、国土交通省の調査では、利用されていない土地を相続した人の半数以上が土地の所有に負担を感じた経験があると回答しているほか、未利用の田畑や山林では「売却したい」「手放せるなら手放したい」と考える所有者も相当数存在している。駅前や住宅地のように売却、建築、賃貸など具体的な利用目的が生まれやすい土地では、登記を整理する必要に直面する機会が比較的多い一方、利用する予定もなく、買い手も見つかりにくい土地では、登記や管理に時間と費用をかける動機が弱くなりやすいという違いは考えられる。

人口減少だけが直接の原因ではない

 人口が減ると所有者不明土地が増える、と単純に結び付けることも正確ではなく、人口減少そのものが土地の所有者を不明にするわけではない。実際には、人口減少や高齢化が進むことで相続が増え、子ども世代が地域外で生活するようになり、土地を利用する需要も低下し、それに伴って土地への関与が弱くなるという複数の変化が重なったところへ、相続登記や住所変更登記が行われない状態が長期間続くことで、所有者探索が難しくなるという多段階の構造になっている。

 このため、人口減少と所有者不明土地の関係を考えるときには、「人口が減ったから土地の所有者が分からなくなった」と考えるのではなく、「人口減少、高齢化、地域外への移住、土地利用需要の低下、相続の繰り返し、登記情報の未更新」といういくつもの要素が連鎖した結果として、土地と人との関係を追跡することが難しくなると考えた方が実態に近い。

「いらない土地」でも、勝手に国や町へ返すことはできない

 利用する予定もなく、子どもにも残したくない土地なら、国や自治体へ返してしまえばよいと思うかもしれないが、所有者が「もう必要ない」と考えただけで、任意の土地を当然に国や自治体へ引き取らせることができる一般的な制度は存在しない。自治体などへ寄附を申し出る方法はあるものの、相手側が受け入れるとは限らず、民間へ売却しようとしても需要のない土地では買い手が見つからないこともあるため、「所有したくないが手放すことも難しい土地」が存在してきた。

 この問題への対応として2023年4月27日に相続土地国庫帰属制度が始まり、相続などによって取得した一定の土地については、条件を満たし、審査を受け、必要な負担金を納めることで国へ帰属させる道が設けられたが、建物が存在する土地、境界や所有権について争いがある土地、通常よりも多額の管理費用や労力が必要となる土地などは対象外となる場合があるため、不要な土地なら何でも国へ返せる制度ではない。それでも制度開始後には実際に数千件規模の申請と国庫帰属が行われており、土地を「所有する価値」だけではなく「維持する負担」の側から考えなければならない時代になったことを示している。

草むらの下には、何十年分もの家族の時間が眠っている

 人口減少という言葉を聞くと、人口が何万人から何万人へ減ったという統計を思い浮かべやすいが、町の中で実際に起きている変化はもっと静かであり、親が亡くなり、子どもが都市へ移り、家が空き家になり、畑が使われなくなり、その土地を相続した人が一度も現地を見ることなく別の町で暮らし、その次の世代へまた相続されるという出来事が、20年、30年、50年という時間をかけて積み重なっていく。

 道端の草むらを見ただけでは、その土地の過去を知ることはできないが、そこにはかつて家族が暮らし、畑を耕し、土地を管理していた時間があり、その後に死亡、相続、転居、人口流出、土地利用の停止という変化が何世代にもわたって重なった結果として、現在は「昔は誰かの土地だったことは分かるが、今は誰に話をすればよいのか簡単には分からない土地」になっている可能性がある。草が伸びた空き地は、単に管理されていない土地なのではなく、その町とそこに暮らしていた家族との関係が、時間の中で少しずつ薄れていった痕跡なのかもしれない。

本当に問題なのは、所有者が消えることではなく、土地と人との関係が切れることである

 町の中に「誰の土地か分からない土地」は本当にあるのかと問われれば、答えは「ある」と言ってよいが、その意味を正確に言い換えるなら、多くの場合は法律上まったく所有者が存在しない土地なのではなく、過去の所有者から現在の権利者へ続いているはずの道筋が、相続、転居、登記情報の未更新、長い年月によって見えにくくなり、簡単にはたどれなくなった土地である。

 そして、この問題の本当の重さは、登記簿から1人の名前を探し出せないことだけにあるのではなく、誰も住まず、誰も利用せず、誰も積極的に管理しようとしない土地が増えることで、土地と人とを結び付けていた関係そのものが地域から少しずつ失われていくことにある。これから人口が減少していく町を考えるときには、「あと何人が住むのか」という人口統計だけではなく、残された住宅を誰が持つのか、使われなくなった田畑を誰が管理するのか、山林を誰が引き継ぐのか、そして誰も必要としなくなった土地を最後に誰が引き受けるのかまで考えなければ、地域の将来像を十分に理解することはできない。

 町の片隅で草に埋もれている一見何でもない土地は、単なる放置された空き地なのではなく、人が土地を必要とし、家族がそれを受け継ぎ、やがてその関係が薄れていくという長い時間の先に現れた場所であり、人口が減っていく社会でこれから日本各地の町が向き合うことになる問題を、静かに先取りして見せているのかもしれない。

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「壊れた」ことより、「誰に頼めばよいのか分からない」ことの方が困る

 玄関のドアを閉めようとすると枠に少し当たり、以前より力を入れなければ閉まらなくなったり、台風が過ぎた翌朝に外へ出ると雨どいが途中から外れてぶら下がっていたり、洗面所の扉が蝶番の緩みで少しずつ傾いてきたりすることは、家そのものを建て替えなければならないほど重大な故障ではないため、住んでいる人も最初は「そのうち直してもらえばよい」と考えがちだが、いざ修理を頼もうとした時、故障そのものより難しい問題として現れてくるのが、「いったい誰に頼めばよいのか分からない」ということである。

 家を建てた工務店はすでに廃業し、以前近所にいた大工は高齢になって仕事を減らし、昔なら電話1本で「時間がある時に見に来てください」と頼めた相手がいなくなっている一方、インターネットで検索すれば住宅修理を掲げる会社はいくつも見つかるものの、「こんな小さな仕事を頼んでもよいのだろうか」「遠方から来てもらえば出張料はいくらになるのか」「知らない事業者を自宅へ入れて大丈夫なのか」といった新しい不安も生まれるため、家の故障を直す技術が世の中から消えたわけではないのに、それを自分の家まで届けてもらうことが難しくなりつつある。

 かつて住宅の小さな不具合は、技術だけによって解決されていたのではなく、「近所の大工さんにちょっと見てもらう」という地域の人間関係によっても支えられていたのであり、職人の高齢化や工務店の廃業が進むということは、単に施工できる人が減るだけではなく、住民が困った時に最初に相談できる入口そのものが少しずつ失われていくことを意味している。

建設業の人手不足は、すでに数字として表れている

 この問題を考えるうえで、まず確認しておかなければならないのは、建設業の担い手不足が単なる印象論ではないということであり、国土交通省と厚生労働省が2026年9月に示した資料では、建設技能者のうち60歳以上が約4分の1を占める一方、29歳以下は約12%にとどまっており、高齢層の比率が高い状態で世代交代を進めなければならないという構造的な課題が続いている。

 さらに労働市場を見ると、2024年度の有効求人倍率は全職業では1.25倍だったのに対し、建設躯体工事従事者では8.56倍、土木作業従事者では6.10倍、建築・土木・測量技術者では5.58倍、その他の建設従事者では4.59倍、電気工事従事者でも3.30倍となっており、職種による差はあるものの、建設関係では求人数に対して仕事を求める人が少ない状態がかなり明瞭に表れている。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、この数字が「雨どいを直してくれる職人」や「ドアを調整してくれる大工」だけを取り出した統計ではなく、建設関係職種全体の数字だということであるため、全国で小規模住宅修繕の事業者が何%減少したのかまで直接証明することはできないものの、少なくとも小修繕を担う人たちも、人材確保が難しい建設産業全体の中で仕事をしているという背景は無視できない。

なぜ「30分で直る仕事」ほど頼みにくくなるのか

 小さな住宅修繕には少し奇妙な経済構造があり、難しい工事だから頼みにくいのではなく、場合によっては簡単に終わる仕事だからこそ事業者にとって優先順位を上げにくくなることがあるが、その理由は、実際に工具を使っている時間だけを見ていては理解できない。

 例えば、現場に到着してから30分で終わるドア調整があったとしても、事業者側では電話やメールで症状を確認し、訪問日時を調整し、必要な工具や部品を準備し、車で現場まで移動し、駐車場所を確保し、状態を確認してから作業を行い、終了後には代金の精算や記録などの事務処理まで必要になるため、現場での作業が30分で済んだからといって、その仕事に費やす時間全体が30分で済むわけではない。

 この構造を単純化して考えれば、住宅修繕の費用には、移動や受付、日程調整といった仕事の大きさにかかわらず発生する固定的な費用と、実際の作業時間や材料量に応じて増減する費用があり、工事が小さくなれば作業時間や材料費は減っても、現場へ行くための固定的な費用までは同じ割合で小さくならないため、工事金額が小さいほど売上に占める移動や調整の比率が高くなりやすい。

 したがって、人手が十分にあり、地域の付き合いの中で小さな仕事を引き受ける余裕があった時代には成立していた修繕でも、職人の予定が埋まりやすくなれば、同じ半日を使うのであれば複数の小さな仕事を回るより、まとまった工事を優先するという経営判断が生じやすくなり、これは職人が不親切になったというより、限られた人員と時間の中で事業を継続するために起こる経済的な選択と考えた方が現実に近い。

本当に失われるのは「人数」だけではなく「見れば分かる経験」である

 建設業の高齢化を考える時、単純に「働く人が減る」とだけ捉えると重要な部分を見落とすことになり、とりわけ既存住宅の修繕では、新築工事のように新しい材料を図面どおりに組み立てれば済むとは限らず、目の前にある家を見ながら、どこで何が起きているのかを推測する力が必要になる。

 例えば、ドアが閉まりにくいという1つの症状でも、蝶番が緩んでいるだけなのか、建具そのものが湿気などで変形しているのか、枠に問題があるのか、それとも建物側の変形が関係しているのかによって対応は異なるため、「とりあえず蝶番を締めれば終わり」とは限らず、実際には築年数、材料、使われ方、これまでの修理履歴などを見ながら原因を絞り込んでいく必要がある。

 こうした判断力は、資格試験や教科書だけで完全に身につくものではなく、さまざまな住宅を長年見てきた経験によって磨かれる部分が大きいため、高齢の職人が引退するということは、単に1人分の労働力が減るだけではなく、「この家のこの症状なら、まずここを見る」という地域に蓄積された経験知が失われることでもあり、小修繕の問題を考える際には、人数だけでなく技能の継承まで見る必要がある。

小さな不具合を放置すると、修繕範囲が広がることがある

 雨どいが一部外れていても、晴れた日には生活へ直接影響しないため、そのまま何週間も放置されることがあるが、雨が降れば本来は雨どいを通って排水されるはずの水が外壁や軒先、家の周囲へ落ちる可能性があり、その状態が長く続けば、住宅の構造や外壁材、雨量などによって程度は異なるものの、周辺部分の劣化を促す要因になることがある。

 ドアについても同様で、蝶番の緩みやわずかなずれの段階なら小さな調整で改善できることがある一方、「まだ閉まるから」と力を入れて使い続ければ、蝶番や枠など別の部分に余分な負荷がかかることもあり、住宅の不具合は必ず大きな故障へ発展するわけではないものの、初期段階で点検や補修を行った方が修理範囲を小さく抑えられる場合があるというのは、住宅の維持管理という観点から見ても合理的である。

 ところが、小さな修繕を頼める相手が減れば、住民に修理する意思があっても依頼先を探している間に時間が過ぎ、結果として簡単な補修で済んだ可能性のある不具合が周辺へ広がってしまうことも考えられるため、住宅にも人間の医療における「かかりつけ医」に似た、重大な故障になる前の段階で相談できる存在があることには大きな意味がある。

高齢化する地域では、小修繕が生活継続の条件になる

 住宅の小さな不具合の中には、自分で修理できるものも存在するが、雨どいの確認や屋根周辺の作業のように脚立やはしごを使用する作業には転落の危険があり、とりわけ加齢によって筋力やバランス能力が低下した人にとっては、故障そのものより「自分で確認しに行くこと」の方が危険になることがあるため、何でも自分で直すことを前提にするのは現実的ではない。

 高齢者の家庭内事故では脚立や踏み台に関係する転倒・転落事故も問題とされていることを考えれば、高齢化が進む地域ほど、住宅の小さな修繕を専門の人へ頼める環境を維持する意味は大きくなり、今後は住宅修繕を単なる建築サービスとしてではなく、高齢者が自宅で安全に暮らし続けるための生活支援の一部として考える必要も出てくる。

 さらに人口密度の低い地域では、1軒の小修繕のために職人が長い距離を移動しなければならないことがあり、工事金額が小さいほど移動時間の比重が大きくなるため、小口の住宅修繕サービスを事業として維持しにくくなる可能性があるが、人口減少地域で実際に小修繕業者がどの程度減少しているのかを直接示す全国統計は十分ではないため、「人口減少地域では必ず職人がいなくなる」と断定するのではなく、人口の分散と移動コストが小修繕の採算を悪化させる要因になり得ると考えるのが適切である。

空き家900万戸の時代に、本当に必要なのは「新しく建てる人」だけではない

 2023年の住宅・土地統計調査では、日本全国の空き家は900万2,000戸、空き家率は13.8%となり、空き家数も空き家率も過去最高となったが、この数字から直接「空き家が増えたから職人が不足する」と結論づけることはできないものの、日本に築年数を重ねた膨大な住宅ストックが存在していることは明らかであり、今後の住宅政策を新築だけで考えることが難しくなっていることを示している。

 人が住んでいる既存住宅は、古くなったからといって一度にすべてを交換するわけではなく、雨どいを補修し、建具を調整し、外壁を直し、給湯設備を交換しながら少しずつ使い続けていくため、既存住宅を長期間利用する社会を目指すのであれば、それを点検し、補修し、必要な時に修繕する人や仕組みも同時に維持しなければならない。

 日本の住宅政策でも、住宅を適切に維持管理しながら長く使う方向が重視されているが、建物の長寿命化だけを進めても、実際に不具合を見つけて手を入れる技能者がいなくなれば、その住宅を良好な状態に保つことは難しいため、これから重要になるのは「何戸新築するか」だけではなく、「すでに存在する住宅を誰が直し続けるのか」という視点である。

大手企業やインターネットサービスがあれば解決するのか

 地域の職人が減少するのであれば、大手住宅会社、ホームセンター、住宅設備会社、インターネット経由の修理サービスなどがその役割を代替すればよいようにも思えるが、こうしたサービスには料金や受付方法が分かりやすく、従来の地域の人間関係を持たない人でも依頼しやすいという大きな利点がある一方で、受付窓口を全国規模にできたとしても、実際の修理まで画面の中だけで完結するわけではない。

 住宅修繕では、利用者がスマートフォンで故障部分の写真を送り、人工知能を使って原因の候補を絞り込み、予約や見積もり、部品手配を効率化することは可能であり、こうしたデジタル化によって1人の職人が処理できる案件数を増やせる可能性もあるが、最終的に雨どいへ金具を取り付けたり、ゆがんだ建具を調整したり、壊れた部品を交換したりする作業には、現場へ行く人間が必要である。

 したがって、大手企業やデジタルサービスは小修繕問題を軽減する重要な手段にはなり得るものの、地域に実際に動ける施工者が不足した場合に、その不足を完全に消してしまうものではなく、住宅修繕は情報部分を遠隔化できても、最後の物理的な作業までは遠隔化できない仕事なのである。

「部品代1,000円なのに修理代1万円」は本当に高いのか

 小さな住宅修繕がこれからも地域に残るかどうかを考える時、利用者側にも料金に対する見方の変化が必要になる可能性があり、例えば交換する金具そのものが1,000円程度であっても、出張料や作業料を含めて1万円を超える請求になれば「部品は安いのに、なぜこんなに高いのか」と感じる人は少なくないが、実際に購入しているのは部品そのものだけではない。

 その金額の中には、症状を判断する知識、工具や部品を積んで現場へ移動する時間、事故を起こさず施工するための技能、作業後に不具合が生じた場合の責任、さらに受付や会計といった事務作業まで含まれており、小さな修繕ほど材料費よりも「人が現場まで来るための費用」の割合が高くなるため、作業時間や部品価格だけを基準に料金を評価すると、利用者と事業者の間で大きな感覚のずれが生じる。

 無料見積もりや無料出張を当然の前提として小さな仕事にまで求め続ければ、利用者にとっては便利であっても、事業者側では採算を確保できず、その結果として小修繕そのものを受け付けなくなる可能性もあるため、これからは「30分の作業にいくら払うか」ではなく、「困った時に家まで来て、適切に判断して直してくれる体制を地域に残すために、いくら必要なのか」という視点も重要になってくる。

「何でも直せる人」より、「最初に相談できる人」が必要になる

 住宅修繕を考えると、「昔の大工のように何でも直せる人を増やせばよい」と考えたくなるが、現代の住宅設備は専門化しており、工事の種類によって資格や事業者指定が必要になるものもあるため、1人が住宅に関するすべての工事を施工することを前提にするのは現実的ではなく、例えば電気工事には電気工事士資格が必要となる工事があり、給水装置工事についても指定給水装置工事事業者制度が存在する。

 そのため、これから地域で重要になるのは「何でも自分で工事する人」ではなく、まず住宅の状態を見て、簡単な調整や補修で済むのか、それとも専門的な工事が必要なのかを判断し、自分で施工できる範囲なら対応し、資格や指定が必要な工事であれば適切な専門事業者へつなぐことのできる人である。

 昔の工務店や地域の大工は、制度として意識していたわけではなくても、結果としてこうした役割を担っており、雨漏りなら屋根職人へ、電気なら電気工事業者へ、建具なら自分で直すというように、住民にとっては「あの人に聞けば、次に誰へ頼めばよいか分かる」という入口になっていたため、職人の高齢化や工務店の廃業によって失われつつあるのは、個別の施工能力だけではなく、この住宅修繕の案内役としての機能でもある。

小さな仕事を「1件ずつの採算」だけで考えない仕組みも必要になる

 小修繕が採算面で不利になりやすいのであれば、1件の依頼ごとに職人が遠くから訪問する仕組みだけでなく、同じ地域の複数の修繕依頼をまとめて訪問する方法や、住宅の定期点検と簡単な補修を組み合わせる方法、複数の職種が情報を共有して必要な専門職へつなぐ方法など、小さな仕事をまとめて成立させる仕組みを考える余地がある。

 例えば、ある地域で月に1度だけ小修繕をまとめて受け付け、同じ日に複数の住宅を巡回できれば、1件ごとに往復する場合より移動時間を減らせる可能性があり、完全に昔の「近所の大工さん」の世界へ戻ることはできなくても、移動や受付を共同化することで、小さな住宅修繕を事業として残せる可能性は高まる。

 これは行政がすべての修繕を直接担うという話ではなく、地域の工務店、専門職、ホームセンター、管理会社などを住民が見つけやすくし、資格が必要な仕事とそうでない仕事を適切に振り分け、小口の仕事でも効率的に回れる環境を作るということであり、人口減少地域ほど、こうした「仕事をまとめる仕組み」そのものが新しい地域インフラになる可能性がある。

家は突然壊れるのではなく、「少し困る」が積み重なって古くなる

 住宅問題というと、空き家、耐震化、災害対策、新築価格の上昇といった大きな問題が注目されやすいが、実際に人が暮らしている家で最初に起こるのは、もっと小さな変化であり、ドアの閉まり方が以前より悪くなり、雨どいが少し傾き、網戸が破れ、蛇口から少量の水が漏れるというように、住宅はある日突然使えなくなるのではなく、「まだ使えるけれど少し困る」という状態を何度も繰り返しながら古くなっていく。

 だからこそ、既存住宅を長く使う社会で重要なのは、大規模な改修工事を施工できる会社だけではなく、「この程度の故障でも相談してよい」と思える相手が存在し、その人が自分で直せない場合でも適切な専門職へつないでくれることであり、小さな不具合を小さいうちに処理できる環境が、結果として住宅を長く使うための土台になる。

 「ドアが閉まらない」「雨どいが外れた」という1軒の家の出来事だけを見れば、国家的な問題とは到底思えないが、日本各地で同じような相談を受けてくれる人が減り、住民が修理したいと思っても依頼先を見つけられない状態が広がれば、それは単なる1軒の故障ではなく、住宅を維持する社会的な仕組みの問題へ変わっていく。

 新しい家を建てることのできる社会であっても、すでに建っている家の小さな傷みを直せなければ、人はその住宅に長く住み続けることが難しくなるため、これから地域から失わせてはいけないものは、単に「職人の人数」ではなく、壊れかけた住宅を見つけ、小さいうちに手を入れ、必要なら次の専門家へつなぎながら、「まだ使える家」を「これからも使える家」へ戻していく仕組みそのものなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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救急車が去ったあと、家に残る家族

 ある朝、ひとり暮らしの高齢者が体調を崩して救急車で病院へ運ばれたとき、本人が最初に心配するのは自分の病状ではなく、「家に犬がいる」「猫にまだ餌をあげていない」ということかもしれないが、人間は病院へ到着すれば、医師や看護師のもとで食事や治療を受けることができる一方、自宅に残された犬や猫にはその仕組みが自動的には働かず、誰かが家に入り、水を替え、餌を与え、トイレを掃除し、犬であれば散歩にも連れ出さなければならないため、飼い主の入院はその瞬間から、もう1つの生活上の問題を生み出すことになる。

 しかも、その問題は決して珍しいものではなく、2025年に公表された在宅療養者とペット飼育に関する国内調査では、回答した国民健康保険診療施設215施設のうち75施設、34.9%がペット飼育に関する問題や課題を経験しており、その75施設のうち47施設、62.7%が「同居家族のいない飼い主の入院・入所や死亡によって残されたペットの処遇」を問題として挙げているため、調査対象や回答率の関係から、この数字をそのまま日本全国の医療機関に当てはめることはできないものの、「高齢者が入院したとき、家に残された犬や猫をどうするか」という問題が、医療や福祉の現場で実際に起きていることは明らかである。

「家族がいるから大丈夫」とは限らない

 こうしたとき、最初に頼りになるのは子どもや兄弟姉妹、親戚、近所の知人であることが多いが、現代では「家族がいる」ということと「家族が毎日世話できる」ということは同じではなく、子どもが遠く離れた都市で暮らしていれば毎日通うことは難しいうえ、仕事や育児があれば数日間なら何とか対応できても、数週間、1か月と続けば負担は急速に大きくなる。

 また、家族が集合住宅に暮らしていて犬や猫を連れて帰れないこともあれば、動物に慣れておらず投薬や散歩が難しいこともあり、猫なら家に残しておけば大丈夫だと思われがちでも、毎日の飲水や給餌、排泄物の処理、体調の確認は必要であるため、実際には「誰か1人が引き取れば解決する」というほど単純ではない。

 さらに見落とされやすいのが自宅の鍵であり、世話を頼める家族がいても鍵を持っていなければ玄関から先へ進めず、ようやく家に入ることができても、どの餌を何グラム与えるのか、薬は必要なのか、かかりつけの動物病院はどこなのか、猫がどこに隠れることが多いのかといった情報が分からなければ、善意だけでは十分な世話ができない。

実際には、地域の人や民間サービスが支えることもある

 現実の支援事例を見ると、家族だけでなく、ケアマネジャー、民生委員、近隣住民、ペットホテル、動物病院などが組み合わさって支えているケースがあり、独居の高齢者が入院したあと、遠方に住む家族が犬の世話をしていたものの、その家族自身が対応できなくなり、ケアマネジャーが介入してペットホテルの利用につないだ例や、脳梗塞で入院した人の犬を近隣住民と民生委員が交代で世話し、本人が退院するまで支えた例も報告されている。

 こうした事例が示しているのは、飼い主が高齢だから犬や猫を飼ってはいけないということではなく、むしろ、1人だけに頼るのではなく複数の人やサービスを組み合わせておけば、突然の入院にも対応しやすくなるということであり、これは人間の医療や介護で家族、医療機関、介護事業者、地域が連携する考え方とよく似ている。

ペットホテルやペットシッターは大きな味方になる

 家族や近所の人だけで対応することが難しい場合には、ペットホテル、動物病院、ペットシッターなどの民間サービスが大きな助けになり、数日から数週間程度の入院であれば、こうしたサービスを事前に知っているだけでも選択肢は大きく広がるが、実際に利用するには犬や猫を自宅から連れ出す人が必要だったり、ペットシッターに入ってもらうための鍵の管理が必要だったりするため、単に「そのときになったら頼めばよい」と考えるより、元気なうちに近隣のサービスを確認し、自分の犬や猫を実際に預かってもらえるのか、持病や投薬があっても対応可能なのかを確認しておく方が安心である。

 特に高齢の犬や猫では、一般的なペットホテルよりも動物病院での預かりが適している場合があり、一方で環境の変化を嫌う猫では、住み慣れた自宅へペットシッターに来てもらう方が負担が少ないこともあるため、「犬ならこう、猫ならこう」と一律に決めるより、その動物の性格や健康状態に合わせた方法を用意しておくことが重要になる。

本当に大きな問題は「何日で帰れるのか分からない」こと

 入院当初は1泊か2泊で帰れると思っていても、検査の結果によって1週間、2週間と延びたり、骨折や脳血管障害、心疾患などをきっかけにリハビリテーションが必要となり、そのまま長期入院へ移行したりすることがあり、高齢者の入院では、入院期間が最初から読めないことが少なくない。

 そのため、「今日と明日の餌を誰が与えるか」という問題と、「1か月後も誰が世話を続けるのか」という問題は分けて考えた方がよく、最初の数日は家族や知人に頼み、それ以上長引けばペットシッターやペットホテルへ切り替え、さらに自宅へ戻れない可能性が出てきたときには、家族による引き取りや新しい飼い主を探すことまで検討するというように、時間の経過に応じて段階的に準備しておけば、突然すべてを決めなければならない負担を減らすことができる。

 ここで重要なのは、この「数日、数週間、それ以上」という区分が公的な制度として決められているわけではなく、あくまで実務上の考え方だということであるが、それでも人間の危機管理と同じように、短期、中期、長期の3段階で考えておく方法は非常に合理的である。

ペットがいるから入院できない、ということまで起きている

 実は、この問題にはもう1つ重要な側面があり、前述した国内調査では、ペット飼育に関する問題を経験している医療機関75施設のうち42施設、56.0%が「ペット飼育を理由とした治療拒否、入院・入所拒否等」を経験しているため、犬や猫を大切にしている人ほど、「自分が入院したらこの子を誰が見るのか」という心配から、自分自身に必要な治療をためらう可能性があり、これは動物の問題であると同時に、人間の医療の問題でもある。

 その意味で、ペットの世話を事前に決めておくことは、動物を守るだけでなく、飼い主が安心して必要な治療を受けられる環境をつくることにもつながる。

介護保険だけでは犬や猫の世話まで自動的には支えられない

 高齢者の生活を支える制度として介護保険があるが、訪問介護における犬や猫の世話は介護保険給付の対象ではなく、事業者が対応するとしても、介護保険サービスとは明確に区分された自己負担の保険外サービスとして提供されることになるため、「介護サービスを利用しているからペットの世話も何とかなる」と考えることはできない。

 また、飼い主が救急搬送されたからといって、公的サービスが自動的に自宅へ入り犬や猫の世話を引き継ぐ全国共通の制度が整っているわけでもなく、実際には家族、近隣住民、民間事業者、動物病院、地域の支援者などを組み合わせながら、その人の状況に応じた対応を考えることになる。

 人口1万人未満の自治体にある地域包括支援センターを対象とした調査では、回答した103か所のうち68か所、66.0%がペット飼育に関する問題を経験していた一方、98か所、95.1%は特別な取組を行っていないと回答しており、少なくとも現時点では、地域によって支援体制に大きな差があることも考えておかなければならない。

犬や猫との暮らしには、それ自体の大きな意味がある

 だからといって、高齢者は犬や猫を飼わない方がよいという結論にはならず、犬や猫との暮らしについては、高齢者の身体活動や社会的交流との関連を示す研究があり、特に犬の散歩をする人では、犬を飼っていない人より歩行時間や中高強度の身体活動が多いことを示した国内研究もある。

 また、日本の65歳以上を対象とした研究では、現在犬を飼っている人は犬を飼ったことがない人に比べ、要介護状態になる割合が低いという関連も報告されているが、これは観察研究であるため、「犬を飼えば介護予防になる」と単純に因果関係を断定することはできず、もともと活動的な人ほど犬を飼いやすいといった要因も考える必要がある。

 精神面についても、犬や猫が孤独感の軽減や心の支えになると感じる高齢者は少なくない一方、研究結果は必ずしも一方向ではなく、すべての人に同じ効果が生じるとはいえないものの、少なくとも、犬や猫との生活が毎日の行動を生み、生活に一定のリズムを与え、人との会話や外出のきっかけになる可能性は十分に考えられる。

 朝になると餌を待つ気配があり、名前を呼べばこちらを見る存在がいて、犬であれば散歩の時間になると玄関の前で待っているという毎日の小さな繰り返しは、単なる趣味という言葉だけでは説明しにくく、長年一緒に暮らした動物が家族のような存在になっている人にとっては、その存在そのものが生活の一部なのである。

高齢化よりも「単身化」がこの問題を大きくする

 この問題を考えるうえで重要なのは、高齢者が増えることだけでなく、1人で暮らす高齢者が増えていることであり、2020年には65歳以上人口のうち1人暮らしの割合が男性15.0%、女性22.1%だったが、将来推計では2050年には男性26.1%、女性29.3%まで上昇すると見込まれているため、同居家族がいない状態で突然入院する高齢者が増えていく可能性は高い。

 もちろん、将来どの程度の高齢者が犬や猫を飼うのかまでは確実に予測できないため、「残されたペットの問題が必ず急増する」と断定することはできないが、単身高齢者の増加を考えれば、飼い主が突然世話できなくなったときの仕組みを社会全体で考える必要性は、今よりも高まっていくと考える方が自然である。

「1人に頼む」より「2つの経路をつくる」

 準備というと大げさに聞こえるかもしれないが、実際には簡単なことから始めることができ、特に重要なのは「この人に頼む」と1人だけ決めるのではなく、その人が対応できなかった場合の第2の連絡先まで考えておくことである。

 例えば、緊急時に頼んだ1人が仕事や旅行、病気などの理由で対応できない可能性はゼロではないため、家族を第1連絡先、近所の信頼できる人を第2連絡先、長引いた場合にはペットシッターやペットホテルというように複数の経路を作っておけば、どこか1つが使えなくなっただけで全体が止まる危険を小さくでき、これは災害対策や情報システムで使われる「予備を持つ」という考え方と同じである。

「ペット用緊急情報」を1枚にまとめておく

 具体的には、犬や猫の名前、年齢、性格、餌の種類、1回の量、食事の時間、散歩の方法、服薬の有無、かかりつけの動物病院、ワクチンや持病の情報、緊急時に連絡してほしい人の名前などを1枚の紙にまとめ、家族や信頼できる人が分かる場所へ置いておくだけでも、突然の入院時の混乱は大きく減る。

 スマートフォンに記録しておく方法もあるが、本人が操作できない状態では第三者が確認できない可能性があるため、紙でも残しておく方が実用的であり、同時に自宅の鍵を誰が持つのか、ペットを病院やホテルへ運ぶためのキャリーバッグやリードがどこにあるのかまで共有しておけば、初動はさらに速くなる。

 そして、元気なうちに近所のペットホテルやペットシッター、動物病院などを調べ、一度問い合わせておけば、「そのときになって初めて探す」という最も不安な状況を避けることができる。

犬や猫と長く暮らすために、先のことを決めておく

 高齢になってから犬や猫と暮らすことについて、「自分が先に病気になったらどうするのか」と不安になる人もいるだろうが、その不安があるからこそ、飼うことを諦めるという結論だけが答えではなく、自分が世話できない期間を誰かにつないでもらう仕組みを作ることで、安心して一緒に暮らせる時間を長くするという考え方もできる。

 飼い主が突然倒れたとき、犬や猫は自分で電話をかけることも、隣人に事情を説明することも、冷蔵庫から食事を出すこともできないため、その代わりに人間があらかじめ「もしものときの道」を作っておく必要があり、それは決して弱さを認めることではなく、大切な家族に対する責任の一部と考えることができる。

「自分が帰れない夜」に誰が来てくれるのか

 入院の準備というと、保険証や薬、お金、着替えなどを考えることが多いが、犬や猫と暮らしている人にとっては、それと同じくらい大切な準備があり、それは「自分が今夜この家へ帰れなくなったら、この子のところへ誰が来てくれるのか」という問いに答えを持っておくことである。

 その答えが1人だけではなく、家族、友人、近所の人、ペットシッター、ペットホテル、動物病院といったいくつかの道につながっていれば、犬や猫の生活は飼い主の入院と同時に止まらず、飼い主自身も病室で「今ごろどうしているだろう」と心配し続けなくて済む。

 犬や猫と暮らすことには、喜びだけでなく責任もあるが、その責任は「最後まで自分1人で何もかも世話し続ける」という意味ではなく、自分ができなくなったときに誰かへきちんと引き継げるようにしておくことまで含まれており、高齢になっても犬や猫と暮らしたいと願うことは決して無理な望みではなく、その生活を長く安心して続けるために必要なのは、年齢を理由に諦めることではなく、「もしものときにも、この子の暮らしは続く」という仕組みを、元気なうちに用意しておくことである。

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議場から椅子を1つ減らしたら、いくら浮くのだろうか

 地方議会の議員定数について考えるとき、「議員を1人減らせば、その人に支払っていた報酬の分だけ税金を節約できる」という発想はごく自然であり、議場に並んだ椅子を1脚減らせば、その椅子に座る議員の報酬も消えるのだから、話はそれほど難しくないように思える。しかし、実際に数字を割り始めると、この単純な印象は何度も裏返されることになり、最初は大きく見えていた節約額が人口で割った瞬間に驚くほど小さくなったかと思えば、今度は「たった1議席」が議会全体に占める割合を計算した瞬間、予想以上に大きな存在へと変わって見えてくる。

 地方自治法では、都道府県議会と市町村議会の議員定数は条例によって定められ、地方議会議員の任期は4年であり、議員報酬や費用弁償、条例による期末手当などの仕組みも法令と条例によって定められているが、議員定数を条例で1人減らしたからといって、その日のうちに現職議員が1人いなくなるわけではなく、定数変更は原則として一般選挙を通じて実際の議席数に反映されるため、財政効果について考えるときにも「条例を改正した瞬間からいくら浮くか」ではなく、「1議席少ない状態が実際に成立した後、自治体の支出がどの程度変化するのか」と考える必要がある。

 さらに地方議会は、単に議員報酬を支払うために存在する組織ではなく、予算や条例などを審議し、行政を監視し、地域の意思を自治体の意思決定につなげる役割を担っているため、議員定数という数字は人件費の問題であると同時に、自治体がどのような規模の議会を維持するのかという制度設計の問題でもある。そこで、「議員を1人減らせば何円浮くのか」という素朴な疑問から出発しながら、その金額を人口や財政規模、議席総数という別の数字で割っていくと、議員定数について最初に抱いていた印象が少しずつ変わっていく。

2億円を20人で割っても、本当の答えは出ない

 仮に、ある自治体の年間議会費が2億円で議員定数が20人だったとすると、2億円を20人で割れば議員1人当たり1000万円となるため、「それなら議員を1人減らせば年間1000万円節約できる」と考えたくなるが、ここで最初の数字の罠が現れる。議会費の中には議員本人に支払われる報酬などだけではなく、議会事務局、議場や委員会室、会議録の作成、議会中継、情報公開、施設や設備の維持管理など、議員が20人から19人になっても短期的にはほとんど変化しない支出が含まれているため、議会費を議員数で割った平均的な金額と、実際に1議席を削減したときに減少する金額は同じではない。

 これは社員20人の会社から1人が退職したとしても、翌月から事務所の家賃が20分の19になり、サーバー代も20分の19になり、管理部門の人件費まで20分の19になるわけではないのと同じであり、議員1人の削減効果を測るのであれば、その議席がなくなることで直接消える報酬や期末手当などと、議員数がわずかに変わっても残り続ける支出を分けて考えなければならない。

 もっとも、議会事務局や設備関係の支出を「絶対に変わらない固定費」と考えるのも正確ではなく、議員数が長期にわたって減れば組織や設備の見直しが行われ、将来的には支出が変化する可能性もあるため、正確には「議員1人の増減には短期的に連動しにくい費用」と考えた方がよい。つまり、本当に知りたい数字は「議員1人当たりの議会費」ではなく、「1議席をなくした結果として実際にいくら支出が減るのか」であり、経済学や管理会計の考え方を借りれば、平均的な費用ではなく、1議席の増減に伴って変化する限界的な費用に近いものを見ることになる。

700万円が、突然14円になる

 ここからは数字の性質を分かりやすくするため、1議席が実際になくなった結果、その議席に直接関係する年間支出が700万円減少すると仮定してみよう。この700万円は特定の自治体の実額ではなく、議員報酬や期末手当などは自治体によって異なるため、あくまで計算の仕組みを理解するために置いた仮定上の数字であり、日本の地方議員1人を減らせば平均して700万円削減できるという意味ではない。

 年間700万円と聞けば、多くの人は決して小さくない金額だと感じるだろうが、人口5000人の自治体なら住民1人当たり換算額は年間1400円、人口5万人なら140円、人口50万人なら14円となり、同じ700万円という数字が人口という分母を置いた瞬間にまったく違った姿を見せる。700万円そのものは1円も変化していないのに、「自治体全体で年間700万円」と聞く場合と、「人口1人当たりに換算すると年間14円」と聞く場合では、受ける印象はほとんど別物になるのである。

 ここで「住民1人当たり負担」ではなく「住民1人当たり換算額」と表現することも重要であり、自治体の支出は住民全員から同額ずつ集めた税金によって賄われているわけではないため、700万円を人口で割った14円は各住民が実際に14円ずつ負担しているという意味ではない。あくまで自治体全体の削減可能額を人口で標準化して比較しやすくした数字であり、人口規模の違う自治体を考えるための物差しの1つなのである。

では、住民1人当たり14円なら、削減する意味はないのか

 人口50万人の自治体で1議席を減らし、年間700万円の削減が実現しても人口1人当たり換算額では14円にすぎないとすれば、「それなら議員を減らしても意味がない」と考えたくなるが、それもまた数字を1方向から見ただけの結論であり、人口で割った結果が14円になったからといって700万円という自治体全体の支出削減額そのものが消えるわけではない。

 反対に人口5000人なら人口1人当たり換算額は1400円になるため、「それなら人口の少ない自治体ほど議員を減らした方がよい」と思えるかもしれないが、ここで数字はもう一度向きを変える。小規模な議会では、1議席を削減した場合の人口1人当たり換算額が大きくなりやすい一方、そもそもの議員数が少なければ、1議席が議席総数に占める割合も大きくなるからである。

 例えば20人の議会から1人を減らせば議席総数は5%減るが、10人の議会から1人を減らせば10%減るため、どちらも「1人削減」という同じ言葉で表現されていても、議会全体の人数構成に対する相対的な変化は2倍になる。ただし、ここから「議席数が10%減るから代表機能も10%低下する」と結論づけることはできず、議員数と代表性との関係は、選挙制度、委員会構成、地域の広さ、議員活動、請願や陳情、議会報告会など住民参加の仕組みにも左右されるため、数学的に確実に言えるのは、議員数が少ない議会ほど1議席削減が議席総数に占める割合が大きくなるというところまでである。

小さな自治体ほど「節約効果」も「議席の変化率」も大きくなる

 ここに、この問題で最も興味深い数字の反転がある。人口が少なければ同じ700万円でも人口1人当たり換算額は大きくなるため、財政面から見ると定数削減の効果が大きく見えるが、議員数そのものも少なければ1議席を減らしたときの議席総数に対する変化率まで大きくなり、財布の側から見ると「1人減らす効果」が大きくなる一方、議会の構成という側から見ると「1人減らしたことによる人数上の変化」も大きくなる。

 もちろん、議員数を減らせば住民の声が必ず届きにくくなると断定することはできず、議会報告会、請願、陳情、オンラインによる意見受付などによって住民との接点を補うことも可能であり、逆に議員が多ければ多いほど高い代表性が自動的に保証されるわけでもない。しかし少なくとも、「人口が少ないから人口1人当たり換算額が大きい。したがって議席を減らすべきだ」という計算だけでは、財政的な側面しか見ていないことになる。

 議員定数と自治体全体の歳出との関係についても、実証研究の結果は単純ではなく、議員数が多いほど支出が増えるという結果を示す研究がある一方、逆方向の結果を示す研究もあり、複数の研究をまとめた分析でも、議会規模が政府予算を一貫して増加させる、あるいは減少させるという強固な一般法則は確認されていない。したがって、「議員を1人減らせば、その議員に直接結びついた支出の一部が減少する」という話と、「議員を減らせば自治体全体の歳出も必ず小さくなる」という話は別であり、この記事で計算しているのは前者である。

2800万円という大金が、28円に変わる瞬間

 地方議会議員の任期は4年なので、仮に年間700万円の削減可能額が4年間まったく変化しないと置けば、単純計算では700万円の4倍で2800万円となり、「1議席減らせば4年間で2800万円」という数字になると、年間700万円の場合よりもさらに大きな財政効果のように感じられる。

 ただし、この2800万円は将来の実額を保証する数字ではなく、4年間にわたって報酬や期末手当などの条件が変わらず、年間700万円という削減額が一定であるという仮定を置いた単純累計である。その条件の下で人口による違いを計算すると、人口1万人では4年間の人口1人当たり換算額が2800円、10万人では280円、100万人では28円となり、「4年間で2800万円」という表現と「人口1人当たり4年間で28円」という表現が、まったく同じ現象を説明しているとは思えないほど異なる印象を与える。

 この違いは計算ミスによって生じるのではなく、分母を変えることで生まれるものであり、大きな数字だけを示しても、小さな数字だけを示しても、数学的には間違っていない場合があるからこそ注意が必要になる。仮に年間700万円が削減でき、自治体の年間歳出が70億円なら、その削減額は年間歳出の0.1%に相当するため、「700万円」という絶対額、「人口1人当たり換算額」、「財政全体に占める0.1%」を並べて初めて、その数字を異なる角度から眺められるようになる。

140円浮いても、住民の財布に140円戻るとは限らない

 さらに数字の意味を取り違えてはいけない点があり、仮に人口1人当たり年間140円に相当する支出削減が実現したとしても、それによって住民1人の税金が翌年から140円安くなるわけではない。自治体の予算では多数の歳入と歳出が結びついており、削減された財源が別の行政サービスに使われることもあれば、基金への積み立てや財政収支の改善に充てられることもあるため、「人口1人当たり140円の削減効果」と「住民1人当たり140円の減税」はまったく同じ意味ではない。

 税金や議員報酬をめぐる議論では、金額が大きければ大きいほど説得力も増すように感じられやすいが、財政分析で重要なのは数字そのものの大きさ以上に、その数字が何を表しているのかを確認することであり、年間削減可能額、人口1人当たり換算額、自治体歳出に占める割合、実際の住民の税負担への影響は、それぞれ別の概念として区別しなければならない。

県議と市町村議も、報酬額だけでは比べられない

 同じことは県議と市町村議を比較するときにも当てはまり、年間報酬だけを横に並べれば高い方が財政負担も大きいように見えるが、都道府県と市町村では人口規模だけでなく行政権限や財政構造も異なるため、報酬額や人口1人当たり換算額だけから「どちらの議会が効率的か」という結論を導くことはできない。

 それでも、人口で割ることには意味があり、年間報酬などの絶対額だけではなく、人口を議員定数で割った平均値、1議席を削減した場合の人口1人当たり換算額、その削減額が自治体歳出の何%に相当するのかを並べれば、少なくとも人口規模の違いをある程度調整した参考比較ができる。ただし、「人口÷議員定数」で得られる数字は、各議員が実際に何人の住民を担当しているかを意味するわけではなく、特に県議会には選挙区があり、選挙区ごとの人口と定数も異なるため、あくまで自治体全体を平均化した統計上の指標として扱う必要がある。

 また、自治体の予算総額を議員数で割って「議員1人当たり予算額」を作ること自体はできても、それを議員の生産性や効率性とみなすのは適切ではなく、自治体予算は人口、福祉需要、公共施設、地域面積、行政権限など多くの条件によって決まるため、計算できる数字だからといって、必ずしも政策評価に意味のある数字になるとは限らない。

数字を比較するなら、同じ物差しで測らなければならない

 実際に複数の地方議会を比較しようとすると、今度は人口という分母そのものをどのようにそろえるのかという問題が生じ、ある自治体では国勢調査人口、別の自治体では住民基本台帳人口、さらに別の自治体では異なる年月日の人口を使ってしまえば、小数点まで計算した精密な表を作ったとしても比較条件はそろっていない。

 したがって、本格的に県議会や市町村議会を比較するのであれば、例えば同一基準日の人口を使い、議員定数、議員報酬、期末手当、議会費、一般会計歳出などについても可能な限り同じ年度の数字をそろえたうえで分析する必要があり、さらに平均値だけでなく中央値や分布まで調べれば、「人口規模の違いによって1議席の人口1人当たり換算額が実際にどの程度変化するのか」という統計的な問いへ進むことができる。

 つまり、この記事で使っている700万円という数字から分かるのは、日本の地方議会の平均的な実態ではなく、議員定数を見るときに数字をどのように割り、どのような分母と比較すればよいのかという数理的な構造である。実際の県議会や市町村議会について結論を出すのであれば、同じ条件で集めた実データによる検証が別に必要になる。

「1人減らすべきか」という答えは、最後まで数字だけでは出ない

 ここまで計算を続けてみると、最初は「議員を1人減らせばいくら浮くのか」という単純な問いだったものが、いつの間にか「人口1人当たりではいくらなのか」「自治体歳出全体では何%なのか」「1議席を減らすと議席総数は何%変化するのか」「その人数で議会の審議や行政監視をどのように維持するのか」という複数の問いへ姿を変えている。

 人口1人当たり年間14円しか削減できないからといって、その1議席が必ず必要だとは言えず、反対に人口1人当たり年間1400円削減できるからといって、その1議席をなくす方がよいとも言えない。議員数と自治体支出の関係について研究結果が一様ではないことからも分かるように、議席数を変えたときに生じる影響は単純な比例関係ではなく、財政効果は比較的数値化しやすくても、議会の行政監視、審議、代表性などを同じ円という単位だけで測ることはできない。

 だからこそ、議員定数について数字を使う目的は、「減らすべきだ」「減らすべきではない」という結論を数字に言わせることではなく、その判断をするときに何を比較しているのかを明らかにすることにある。

700万円を見るか、14円を見るか

 議員を1人減らした場合に年間700万円が削減できるという仮定も、人口50万人なら人口1人当たり換算額が14円になるという計算も、どちらか一方が正しくてもう一方が間違っているわけではなく、さらに4年間なら2800万円、人口100万人なら人口1人当たり28円となるように、同じ1議席でも見る距離を変えるたびに大きくなったり小さくなったりする。

 小規模な自治体へ目を移せば、今度は人口1人当たり換算額が大きくなる一方、1議席が議席総数に占める割合も大きくなるため、「財政上の削減効果」と「議会構成に対する人数上の変化」が同時に大きくなることがあり、この2つをどのように評価するかは単純な割り算だけでは決まらない。

 結局、数字が教えてくれる最も興味深いことは、「議員を1人減らすべきか」という答えそのものではないのかもしれない。むしろ、年間700万円という数字を見たときに抱いた印象が、1400円になり、140円になり、14円になり、さらに議席総数に占める5%や10%という別の数字を見た瞬間に再び揺らぐことこそ、この問題の面白さなのである。

 議員定数を考えるとき、本当に必要なのは大きな数字だけを探すことでも、小さな数字だけを探すことでもなく、同じ1議席を人口、財政規模、議席総数という異なる分母で割り、その数字が何を意味し、何を意味しないのかを確かめることであり、数字そのものを変えるのではなく数字を見る角度を変えたとき、私たちが当然だと思っていた「多い」「少ない」「高い」「安い」という常識の方が、静かに反転していくのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 病院から自宅へ帰る日は、多くの高齢者にとって待ち望んだ日である。見慣れた玄関を開け、いつもの椅子に腰を下ろし、自分の布団で眠れるとなれば、「ようやく元の暮らしに戻った」という安心感が生まれる。しかし、退院とは病気の治療が一区切りついたことを意味していても、生活能力が入院前の状態まで戻ったことを意味するわけではない。病院では時間になれば食事が運ばれ、薬は管理され、床を自分で掃除する必要もなく、体調が悪ければすぐに職員へ伝えることができるが、自宅へ戻った瞬間から、それまで病院という仕組みが支えていた仕事の多くを本人や家族が引き受けることになる。

 冷蔵庫に食べ物がなければ買い物へ行き、食材があれば調理し、食べ終えれば片付け、洗濯物がたまれば洗い、決められた日には病院へ行かなければならない。入院前には何気なくこなしていた動作でも、入院によって体力や筋力が落ちた高齢者にとっては、1つずつの負担よりも、それらが毎日の生活の中で連続して現れることのほうが問題になる。退院直後の7日間とは、単に病気の続きを自宅で療養する期間ではなく、「患者として支えられる暮らし」から「自分で生活を組み立てる暮らし」へ移る時間なのである。

「どれが一番不足するか」は、実は簡単には決められない

 食事、買い物、通院、家事の4つを並べたとき、どれが最も不足しやすいのかを1つだけ選びたくなるが、現在の研究から全国の高齢者について明確な順位をつけることは難しい。退院後1週間という時期を直接調べた研究では、何らかの支援が足りない高齢者が少なくなく、特に家事に困難を抱える人が多いことも報告されている一方、栄養状態の悪化が再入院などの不良な経過と関係することも知られているため、「最も多い問題」と「最も健康に影響する問題」は分けて考えなければならない。

 ここで重要なのは、発生する人数が多いこと、健康への影響が大きいこと、他の生活問題の影響が集まりやすいことは、それぞれ別の性質だということである。家事に困る人が多かったとしても、それだけで家事が最も危険だとは言えず、低栄養が再入院と関係していたとしても、それだけで食事に困る人が最も多いとは言えない。したがって、この4項目を単純な順位表にするよりも、「どの問題がどのように生活を崩していくのか」を見るほうが、退院直後の現実に近い。

家事は、決して小さな問題ではない

 退院後の生活で見落とされやすいものの1つが家事である。病院の廊下を歩けるようになり、トイレにも自分で行けるようになったからといって、自宅で掃除機を動かし、洗濯物を干し、風呂を洗い、ゴミ袋を持って外まで運べるとは限らない。むしろ家事には、病院内では試されにくい動作が多く含まれており、立ったりしゃがんだり、物を持って移動したり、腕を上げたりする作業が何度も重なることで、本人が想像していた以上に疲労することがある。

 掃除や洗濯の一部は数日延ばせることもあるが、だからといって重要度が低いわけではない。洗濯物がたまり、台所が片付かず、ゴミを出せない状態が続けば、生活環境そのものが悪化し、自宅で暮らし続けることが難しくなる。退院後1週間という早い時期の調査で家事の困難が目立ったという報告があることを考えれば、「家事は後回しにできるから問題が小さい」と考えるより、退院後の自立生活を支える中心的な能力の1つとして見る必要がある。

買い物の問題は、店まで歩けるかどうかだけではない

 買い物についても、単純にスーパーまで行けるかどうかだけを見ていては十分ではない。店まで歩くことができても、米や牛乳、野菜を持って帰る体力がなければ買い物は成立せず、歩行器や杖を使っていれば両手を自由に使えないこともある。車を運転していた人が入院をきっかけに運転を控えるようになれば、今まで何の問題もなかった距離が突然大きな壁になることもある。

 一方で、買い物には代替手段を作りやすい面もある。家族に頼む、宅配を利用する、配食サービスを使う、近所の人に手伝ってもらうといった方法によって、「本人が店まで行く」という行為そのものを外部へ任せられる場合がある。しかし、代わりの手段が使えるかどうかは、家族構成、地域の交通事情、経済状態、サービスの有無によって大きく違うため、買い物の困難は地域差が非常に大きい問題でもある。

[過去記事]スーパーがなくなった地域で高齢者は30年後も買い物できるのか

通院は回数が少なくても、1回の失敗が大きい

 通院は、食事や家事のように毎日行うものではないが、回数が少ないから重要度が低いわけではない。退院後の診察では、病状の確認、薬の調整、検査結果の確認などが行われるため、その1回に行けないことが治療全体へ影響することがある。本人が長い距離を歩けなくなっていれば、家族の付き添い、タクシー、介護サービスなどが必要になり、予約時刻に合わせて身支度をして外出するだけでも大きな負担になる。

 ただし通院には、生活上の問題として周囲から発見されやすいという特徴がある。次回受診日が決まっていれば、その日を基準に家族が予定を立てたり、移動手段を準備したりしやすいからである。これに対して、食事や家事の不足は毎日の中で少しずつ起こるため、「今日はできなかった」という1回だけでは問題として認識されにくく、本人自身も「まだ何とかやれている」と考えやすい。

[過去記事]外房で病院や診療所が減ったらどこまで通院できるのか~医療機関までの距離と高齢者生活を考える

食事は「最も多い問題」ではなくても、生活の変化が集まりやすい

 食事について最も慎重に考えたいのは、「最も不足する」と断定することではなく、他の生活上の問題が流れ込みやすいという性質である。買い物へ行けなければ食材が減り、家事能力が落ちれば調理や後片付けが負担になり、体力が落ちれば台所に長く立つことが難しくなる。その結果として、食卓に並ぶ料理が簡単になり、食事量が減り、食品の種類が少なくなることがある。

 しかも、冷蔵庫に食べ物が入っていることと、十分な食事ができていることは同じではない。卵や豆腐、野菜があっても調理する体力がなければ料理にはならず、本人が「食べた」と答えていても、実際にはパン1個とお茶だけだったということもあり得る。食事の不足は、食べ物が完全になくなる形だけで起こるのではなく、量が少なくなる、品数が減る、調理が単純になる、食事回数が減るという形で静かに進むことがある。

 この点で、食事は退院後の生活を見るうえで重要な窓になる。食事そのものが最も多い問題だと証明されているわけではないが、「何を食べているか」をたどっていくと、買い物へ行けるか、台所に立てるか、料理をする意欲があるか、家族に頼めるかといった生活上の事情まで見えてくるからである。

低栄養が重要なのは、「発生人数」ではなく「その後への影響」である

 高齢者の栄養状態が重要視される理由の1つは、低栄養がその後の健康状態と関係しているからである。高齢者を対象にした複数研究をまとめた分析では、低栄養の人では30日以内の再入院リスクが高いことが報告されている。これは、食事の問題が生活の中で見逃された場合、その影響が単なる空腹にとどまらず、身体機能の回復や再入院にも関係する可能性を示している。

 しかし、ここでも注意が必要である。低栄養の人ほど再入院しやすいという事実は、「食事に困る人が買い物や家事に困る人より多い」という意味ではない。統計的には、ある問題が起きたときの影響の大きさと、その問題がどれくらいの人数に起きるかは別に評価しなければならないため、食事については「頻度が最も高い」とするより、「起きたときに見過ごしたくない問題」と位置づけるほうが正確である。

最初の7日間を見る意味

 では、なぜ退院後の最初の7日間に注目するのか。それは、7日目に何か医学的な境界があるからではなく、この時期が病院から自宅への移行が最も濃く表れる期間だからである。退院直後から数週間は再受診や再入院が起こる時期でもあり、特に早い段階のフォローが重要であることは複数の研究でも示されている。

 退院当日は家族が迎えに来て、食品を買い、冷蔵庫を満たしてくれるかもしれない。しかし、その支援が毎日続くとは限らず、数日が過ぎるうちに、本人自身の生活能力が少しずつ表面に出てくる。ここで重要なのは「3日目に問題が現れる」と決めることではなく、退院当日の特別な支援が薄れていく過程で、本来の生活上の困難が見えてくることがあるという点である。

病院で歩けることと、自宅で暮らせることは同じではない

 退院判断では、歩行、排泄、食事など基本的な動作が確認されるが、自宅での生活には、それだけでは測れない仕事が数多くある。病院内で50メートル歩けたとしても、自宅ではその途中に玄関の段差があり、洗濯物があり、ゴミ袋があり、スーパーから持ち帰る荷物がある。病院で確認される身体能力と、実際に自宅生活を成立させる能力との間には、思っている以上の距離がある。

 この距離を考えるうえで重要なのが、IADL(Instrumental Activities of Daily Living・手段的日常生活動作)である。買い物、食事の準備、掃除、洗濯、服薬管理、金銭管理などは、単に身体が動くかどうかではなく、その人が地域の中で生活を組み立てられるかを示す。退院後の生活を考えるときには、歩けるか、立てるかという身体機能だけでなく、毎日の暮らしを自分で回せるかという視点が必要になる。

[過去記事]一人暮らしの高齢者の異変に最初に気づくのは、家族・隣人・宅配業者の誰なのか

4つを順位づけするより、「生活が崩れる入口」を探す

 食事、買い物、通院、家事の4つについて、現在の研究から全国共通の第1位を決めることはできない。退院後1週間では家事の困難が目立つ研究もあり、交通事情によっては買い物や通院が最大の問題になる人もいる。一方で、食事は他の問題の影響を受けやすく、低栄養になった場合にはその後の健康にも関係するため、特に注意して見る価値が高い。

 だから退院後の7日間に必要なのは、「何が一番足りないか」を機械的に決めることではない。その人の場合、どこから生活が崩れ始めるのかを見つけることである。ある人では掃除や洗濯ができないことから始まり、別の人では買い物に行けないことから始まり、また別の人では診察日に病院まで行く手段がないことから始まる。その中で、食事は多くの生活機能の変化が表れやすいため、暮らし全体を見る手がかりになりやすい。

 退院の日には、薬の数や次の診察日を確認することが多い。しかし、その人が本当に自宅で暮らし続けられるかを見るなら、「明日の朝、何を食べますか」「洗濯はどうしますか」「次の診察にはどうやって行きますか」「食べ物がなくなったら誰が買いに行きますか」と、生活そのものを尋ねる必要がある。

 そこで具体的な答えが返ってくれば、退院後の生活はある程度組み立てられている。一方、「何とかなるでしょう」という言葉の後に長い沈黙があれば、その沈黙の中には、台所に立ち続けられない体力、買い物袋を持てない腕、掃除のできない疲労、病院まで行く交通手段の不足、頼れる人の少なさが隠れているかもしれない。

 退院できたことと、自宅で暮らせることは同じではない。退院後7日間に本当に確認すべきなのは、食事、買い物、通院、家事のどれが全国で第1位なのかではなく、その人の暮らしのどこに最初のほころびが生まれているのかである。そして、そのほころびを早く見つけるために、食卓、台所、洗濯物、買い物袋、次の診察日といった、ごく普通の日常を見ることが重要なのである。

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