地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 地方の小さな町でスーパーが閉店すると、ニュースではしばしば「買い物弱者」や「食品アクセス問題」という言葉が使われる。自動車を運転できない高齢者にとって、食料品を買える場所が遠くなることは確かに深刻な問題だが、この問題について考え始めると、いつの間にか「なくなったスーパーを何によって置き換えるか」という議論になりやすい。そこで候補に挙がるのが移動販売だが、移動販売車1台で、かつて存在したスーパーと同じ品ぞろえ、営業時間、価格、サービスをそのまま再現することは難しい。

 売り場の広さも、扱える商品の種類も違う。大量仕入れによる価格競争力でも、大型スーパーと同じ条件で競うことは難しく、肉、魚、野菜、惣菜、飲料、日用品まで幅広い商品を好きな時間に選べる固定店舗と、週に1度か2度、決められた時間にやって来る移動販売車とを比較すれば、小売店舗としての機能には明らかな差がある。しかし、この違いを理由に「スーパーの代わりにならないのだから意味がない」と考えてしまうと、人口減少地域でこれから必要になる商売の姿を見誤るかもしれない。

 移動販売に求められているのは、失われたスーパーを小さくして車の中へ再現することではない。地域の暮らしに生じた空白のすべてを埋めることができなくても、その一部分を埋めることができれば、そこには十分な社会的価値があり、条件によっては小さな商売として成立する可能性も生まれる。

「一週間分を買う店」ではなく「今日と明日をつなぐ店」

 冷蔵庫を開けたら牛乳がなかった。夕食に使うつもりだった豆腐を前日に食べてしまい、卵も残り1個しかない。薬を飲むために少し何か食べたいが、パンまで切れている。都市部で生活していれば、この程度の不足は大きな問題にならず、コンビニエンスストアやスーパーへ歩くか、自転車や自動車で出掛ければ済むことが多い。

 ところが最寄りの食料品店まで数キロ、場合によっては10数キロ離れ、自分では自動車を運転できない人にとっては、1本の牛乳を買うことさえ小さな外出ではなくなる。家族に頼むのか、近所の人に頼むのか、バスの時刻に生活を合わせるのか、それとも数百円の商品を買うためにタクシーを利用するのかという問題になり、商品そのものの価格とは別に、時間、交通費、他人へ依頼する心理的負担まで発生する。

 このような暮らしの中では、移動販売の価値を「何種類の商品が積まれているか」だけで測ることはできない。毎週決まった曜日の決まった時間に販売車が来ることが分かっていれば、牛乳や卵が少なくなったときにも、何日も前から完全な買い物計画を立てる必要がなくなる。スーパーで3,000円分をまとめて買う代わりに、移動販売では牛乳、パン、卵、惣菜だけを買う人もいるだろうが、その数品によって「今日は遠くの店へ行かなくてもよい」という1日が生まれるのであれば、生活者にとっての効用は購入金額だけでは測れない。

 移動販売は1週間分の暮らしをすべて背負わなくてもよいのであり、今日と明日の間に生じた小さな不足を埋めるだけでも、固定店舗とは異なる役割を持つことができる。

店が成立しにくくなっても、生活需要まで消えるわけではない

 人口減少地域では、「人口が減れば店がなくなる」という単純な一本線だけで現象を説明することはできない。実際には人口減少に加えて、高齢化、経営者の高齢化や後継者不足、自動車で大型店へ買い物に行く生活への変化、人件費や物流費、電気代の上昇、地域内での消費額の減少などが重なり、一定以上の売上を必要とする固定店舗から維持が難しくなっていく。

 しかし、店が閉じた翌日に地域の住民まで消えるわけではない。店舗を支えるには市場規模が小さくなっていても、そこで暮らす数百人、数千人の食事や日用品への需要までなくなるわけではないため、固定店舗を1軒維持するほどには大きくないが、完全に無視できるほど小さくもない需要が地域に残る。この「店を1軒維持するには小さすぎるが、生活需要としては消えていない」という中間領域こそ、移動販売のような小規模サービスを考える余地である。

 大型店舗は、一定数の人が1つの場所へ来てくれることを前提に、建物、駐車場、冷蔵設備、照明、従業員、在庫を用意する。それに対して移動販売は、建物を1日中開けて客を待つのではなく、需要のある場所と時間に商品を移動させることができるため、費用構造そのものが固定店舗とは異なる。

 もちろん、移動販売であれば自動的に低コストになるわけではない。専用車両の取得や改装、冷蔵設備、燃料、保険、点検整備、人件費、商品の積み込み、廃棄などの費用が必要であり、既存のスーパーや物流拠点を商品の補給基地として利用できる事業者と、ゼロから仕入れや保管の仕組みを構築する事業者とでは採算条件も違う。それでも、需要の薄い地域全体に1つの固定店舗を置く方法とは別に、「需要のある地点を時間で結ぶ」という選択肢を持てることが移動販売の特徴である。

問題は人口ではなく、「1時間に何人と出会えるか」

 移動販売を考えるうえで最も注意すべきなのは、「高齢者が多い地域だから商売になる」「買い物に困っている人が多いから需要がある」と短絡しないことである。困っている人が存在することと、事業として採算が取れることは別の問題であり、両者をつなぐ重要な条件が顧客密度と巡回効率になる。

 仮に40人の固定客がいるとして、その40人が1つの住宅団地にまとまって住んでいれば、販売車は1か所あるいは数か所に停車するだけで多くの客に商品を販売できる。ところが同じ40人が広い山間部に1人ずつ散らばって住んでいれば、1人の買い物のために何分も走り、次の客までさらに何キロも移動しなければならない。同じ40人、同じ客単価であっても、1日に販売できる人数と必要な燃料、労働時間は大きく変わる。

 したがって、事業者が本当に知るべき数字は地域全体の高齢者人口だけではなく、「1時間に何人の購入者と接触できるか」「1キロメートル走行する間にどれだけの粗利益を得られるか」「1つの停車地点で何人が買ってくれるか」といった密度である。移動販売の巡回経路について実際に数理最適化の研究が行われているのも、どの順番で停車地点を回るかによって走行距離と労働時間が変わり、それがそのまま事業採算へ影響するからである。

 ここで、従来の「商圏」という考え方も少し変わってくる。固定店舗では店舗から半径何キロメートルの範囲に何人住んでいるかを考えることが多いが、移動販売では「月曜日の午前10時には住宅団地で10人、10時40分には公民館前で8人、11時20分には別の集落で12人」といった時間軸を含んだ商圏を設計することになる。人口が薄い地域であっても、人を時間と場所によって束ね直すことができれば、散らばっていた小さな需要を1つの巡回ルートとして組み直せる可能性が出てくる。

「何が人気か」より「何がなくなると困るか」

 移動販売車の車内には限りがあるため、固定スーパーの売り場をそのまま縮小して積み込むことはできない。そこで商品構成を考えるときには、「よく売れる商品」だけでなく、「なくなったときに生活上の不便が大きい商品」という視点が重要になる。

 牛乳、卵、豆腐、パン、納豆、飲料、調味料、簡単な惣菜などは、1つ1つの価格は高くなくても、家庭から切れた途端に買い物の必要性が生じやすい。反対に、限られた荷台の中で種類ばかりを増やせば、1商品当たりの在庫量が減って欠品が生じやすくなる一方、売れ残る商品の種類も増えてしまうため、「品ぞろえが多いほどよい」というスーパー型の発想をそのまま持ち込むことはできない。

 ここで移動販売の弱点を補うのが、固定客との距離の近さである。同じ地区を毎週同じ曜日に回れば、「来週は味噌を1本持ってきてほしい」「この魚なら買いたい」「このパンを2個取っておいてほしい」といった注文が自然に集まりやすくなる。事前注文が増えれば、事業者は売れるかどうか分からない商品を大量に積んで走る必要が減り、需要があることを確認してから仕入れや積み込みを行えるため、在庫の不確実性や廃棄のリスクを小さくできる。

 つまり、移動販売は品ぞろえの少なさという弱点を持つ一方、客との距離が近いことを利用すれば、「何でも並んでいる店」ではなく「必要な物を次回持ってきてもらえる店」という別の価値へ変えることができる。

商品価格だけでは見えない「移動しなくてよい価値」

 同じ牛乳1本でも、固定スーパーで買う場合と自宅近くまで来る移動販売で買う場合では、商品以外に必要となる費用が異なる。都市部のスーパーでは、客が店舗まで何キロメートル移動したか、そのために何分使ったかという費用は店舗側の帳簿には表れないが、利用者側ではガソリン代、公共交通の運賃、運転時間、家族に送迎を頼む負担、バスを待つ時間などが実際に発生している。

 移動販売は、この「消費者が店まで移動する費用」の一部を販売者側が引き受け、その代わりに商品の価格や販売効率の中で回収する仕組みとも見ることができる。そのため、スーパーの商品価格だけを見れば移動販売の方が高い場合があっても、買い物へ行くための時間や交通費まで含めて考えれば、利用者にとっての実質的な負担差は小さくなる場合がある。

 ただし、この追加価値に利用者がいくらまで支払う意思を持つのかは、地域ごと、世帯ごとに違う。「地域のためになるのだから多少高くても買ってくれる」と考えるのは危険であり、地域貢献への共感による1度の買い物と、毎週続く購買行動は同じではない。移動販売が事業として長く残るためには、善意で利用されるサービスではなく、「水曜日にはあの車から買う」という日常の習慣になる必要がある。

採算を決めるのは、売上の大きさだけではない

 移動販売には、大型スーパーのような巨大な売上を期待しにくいという構造的な制約がある。1台の車に積める商品量にも、1日に回れる地点数にも限界があり、例えば客単価を1,000円、1日の購入客数を50人と仮定すれば、1日の売上は50,000円となる。しかし、この50,000円がそのまま利益になるわけではなく、仕入原価、燃料、人件費、車両費、整備費、保険料、決済手数料、商品の廃棄などを差し引かなければならない。

 逆に考えれば、事業性を判断するときに重要なのは、「1日にいくら売れるか」だけではなく、「その売上を何時間、何キロメートルの走行で生み出せるか」である。客単価が同じでも、50人へ販売するのに4時間で済むルートと8時間かかるルートでは採算性がまったく異なるため、移動販売では売上高だけでなく、1時間当たりの粗利益、走行1キロメートル当たりの粗利益、1停車地点当たりの購入人数などを見る必要がある。

 人口減少地域を相手にする以上、顧客数が将来急激に増えることを前提とした事業計画も現実的ではない。だからこそ、移動販売は大きな市場を発見する商売というより、散らばっている小さな需要を効率よく束ね、限られた時間の中で採算が取れる形に組み直す商売と考えた方がよい。

「小さすぎる需要」を組み合わせるという発想

 人口減少社会で増えていくのは、大企業にとって魅力的な巨大市場だけではない。むしろ、かつて1つの商店や1つの地域サービスの中にまとまっていた需要が、少人数ずつ地域の中へ散らばって残る可能性が高い。

 食料品を少し買いたいという需要の隣に、電球を交換してほしい、灯油を届けてほしい、重い物を運んでほしい、スマートフォンの設定を手伝ってほしいといった小さな困り事が存在することがある。これらをすべて1つの移動販売事業者が直接引き受ければ採算が改善すると断言することはできず、資格や責任範囲、個人情報、事故時の対応など、別の課題も生じる。しかし、定期的に地域へ入る事業者が住民の需要を知り、それを地域の別の事業者へつなぐという仕組みには検討の余地がある。

 1つ1つの需要はあまりに小さく、1件のためだけに新しい事業を立ち上げることは難しい。それでも、同じ地域の同じ利用者が抱える複数の小さな不便を1つの接点で把握できれば、これまで市場として認識されなかった需要が見えてくる可能性がある。

移動販売車は「走る小売店」だけでは終わらない

 毎週決まった曜日に同じ地区へ行き、同じ住民と顔を合わせるという行為には、小売売上だけでは測りにくい価値がある。オンライン通販では注文情報は分かっても顧客の日常生活までは見えにくく、宅配便は荷物を届ければ次の配達先へ向かうが、移動販売では短い時間であっても利用者との定期的な対面接触が生まれる。

 実際、移動販売を高齢者の見守りと組み合わせる取り組みは既に各地で行われており、定期訪問という特徴を生かせば、単なる販売車以上の地域接点になり得る。ただし、販売員が福祉職や医療職の役割まで担うべきだという意味ではなく、いつも利用している人が来なかった、普段と様子が違ったといった変化に気付き、必要であればあらかじめ決められた連絡先へつなぐという程度でも、地域における意味は大きい。

 また、毎週会話を重ねるうちに、「来週はこれが欲しい」という商品需要だけでなく、地域にどのような不便が残っているかも見えてくる。その情報を適切に扱い、地域の事業者や行政、福祉サービスなどと結びつけることができれば、移動販売車は商品を運ぶだけでなく、地域に散在する需要を発見する接点になる可能性がある。

スーパーが戻らなくても、暮らしを少し戻すことはできる

 人口が減った地域では、以前存在した便利さをすべて同じ形で取り戻すことは難しい。スーパーを復活させ、銀行の店舗を戻し、バスの本数を増やし、医療機関や商店を以前と同じように配置するという願いがあっても、それを長期間維持できる人口と売上がなければ、再び同じ問題に直面することになる。

 しかし、それは「人口が減ったのだから不便になるのは仕方がない」という結論と同じではない。以前と同じ大きさ、同じ頻度、同じ形式では維持できなくても、サービスを小さくし、時間を限定し、必要な場所を巡回する仕組みに変えることで、失われた便利の一部分を取り戻せる場合がある。

 移動販売は、その象徴的な例の1つである。大型スーパーと同じ品ぞろえも、長い営業時間も、最安値も提供できないかもしれないが、毎週水曜日の午前11時になれば家の近くへ車が来て、牛乳と卵と夕食のおかずを買える。それによって誰かに車を出してもらわなくて済む日が1日増え、自分の生活を自分で組み立てられる時間が少し延びるのであれば、その価値は店舗の売場面積だけでは測れない。

 人口減少社会で本当に問われるのは、失われた便利を100の状態まで戻せるかどうかではないのだろう。100あった便利が30まで減った地域で、現実的な費用の範囲内で35や40へ戻す方法を考え、その5や10の改善に住民がどれだけ価値を感じ、どこまでなら対価を支払うのかを確かめる。その需要を短い巡回距離の中にまとめ、1時間当たりに必要な粗利益を確保できるところまで設計できれば、それは慈善や一時的な地域支援ではなく、小さくても持続する商売になり得る。

 地方に巨大な市場が眠っているとは限らないし、人口減少によって何をしても新しい需要が生まれるわけでもない。しかし、人がそこで暮らし続ける限り、「これがないと少し困る」という小さな空白は残る。その空白の1つ1つは、大企業から見れば小さすぎて市場と呼ぶほどのものではないかもしれないが、場所と時間をうまく組み合わせれば、小さな需要同士が1つの事業を支えるだけの厚みを持つことがある。

 移動販売が運んでいるのは、商品だけではない。遠くなった店と、その土地に残った暮らしとの間を、毎週決まった時刻に細い橋で結び直しているのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方の人口減少を語るとき、私たちはどうしても「住んでもらう」という発想から離れにくい。移住者を増やし、若い世代を呼び込み、子どもの数を増やして地域を維持するという筋書きは分かりやすいが、日本全体の人口が減少している以上、すべての町が同時に定住人口を増やすことはできず、しかも仕事、学校、医療、人間関係まで都市側に築いている人に対して、生活の中心そのものを地方へ移してくださいと求めるのは、本人にとってかなり大きな決断になる。

 しかし、「住民になってもらわなければ意味がない」という前提を外してみると、地方と都市の関係は少し違って見えてくる。月に2度来る人、週末だけ滞在する人、春から秋にかけて頻繁に訪れる人、仕事は都市に残したまま地方にも住まいを持つ人は、住民票を基準にした人口統計には十分現れないかもしれないが、実際には食料を買い、ガソリンを入れ、飲食店を利用し、住宅を維持し、ときには草刈りや修繕を地域の誰かに頼んでいる。

 その1回1回の支出は小さい。それでも、1度だけ訪れて帰る観光客とは違い、同じ人が翌月も、半年後も、数年後も戻ってくるのであれば、そこには「反復される需要」が生まれる。二地域居住の経済的な意味を考えるとき、まず見るべきなのは地域を劇的に変える一人の移住者ではなく、何度も来て少しずつお金を使う人がつくる、小さいけれど繰り返される市場なのである。

「一人増える」より「何回来るか」

 人口政策では「何人住んでいるか」が重要になるが、商売の側から見ると、それだけでは十分ではない。重要なのは、地域を利用する人が1年間に何回来て、そのたびにどれくらいの支出を行い、その支出のうちどれだけが地域内の事業者に届くかということである。

 たとえば説明のための仮定として、ある二地域居住者が月に2回町を訪れ、1回の滞在で食料、外食、燃料、日用品などに5,000円を地域内で使うとする。この場合、1年間の支出は24回掛ける5,000円で12万円となり、同じ程度の利用をする人が百人いれば、年間の地域内支出は1,200万円になる。

 もちろん、これは二地域居住者の全国平均を示した数字ではなく、あくまで経済の仕組みを考えるための仮定である。また、1,200万円の支出がそのまま地域住民の所得として残るわけでもない。スーパーで買った商品の仕入代金は地域外へ出ていき、ガソリンや家電も地域外で生産されていることが多いため、地域で支払われた金額と地域に残る所得は区別して考えなければならない。

 そこで重要になるのが、地域内で発生した支出のうち、どれだけが地域の人件費、利益、地域内仕入れとして残るかという割合である。同じ1,200万円の支出でも、ほとんどの商品を外部から仕入れている店に流れる場合と、地域の人が提供する草刈り、修繕、清掃、飲食、農産物販売などに流れる場合とでは、地域経済への影響はかなり違ってくる。

 二地域居住者の人数だけを数えても、地域への影響は十分に分からない。「何人いるか」に加えて、「年間何回来るか」「1回いくら使うか」「その支出を地域内でどれだけ受け止められるか」を見る必要があり、この三つを分けて考えると、地方における二地域居住の経済的な意味がかなり見えやすくなる。

観光客とも住民とも違う「半分知っている客」

 観光客は、その土地をまだよく知らないため、有名な観光施設や検索で見つけた飲食店を利用しやすい。一方、長く住んでいる住民は地域をよく知っているため、生活上の支出をできるだけ効率的に済ませようとすることが多い。二地域居住者はその中間に位置し、何度も町を訪れるうちに観光客ではなくなるが、完全な日常生活者にもならないという特徴を持つ。

 最初は評判の店を探して歩いていた人が、何度も通ううちに気に入った魚屋やパン屋を見つけ、帰宅前には同じ直売所で野菜を買うようになることがある。その行動が毎月繰り返されれば、1回限りの観光消費ではなく、ある程度予測できる反復需要に変わっていく。

 ただし、ここには注意も必要である。地域に慣れた人が必ず高い商品を買うとは限らず、土地を知るほど安い店や便利な店を選ぶようになることもあるため、二地域居住者は価格を気にしない優良顧客になると単純に考えるべきではない。それでも、店の商品や店主との関係に愛着が生まれれば、価格だけでは説明できない反復利用につながる可能性があり、地域の小さな商売にとって重要なのは、1度に大きな金額を使う客を探すことより、何度も戻ってくる客との接点を失わないことである。

人が来ても、買える場所がなければ消費は生まれない

 二地域居住者が増えれば、その人数に比例して地域の売上も増えると考えたくなるが、現実はそれほど単純ではない。地域に欲しい商品やサービスを提供する店がなければ、食料を都市から持ってきたり、インターネット通販を利用したり、隣の市まで買い物に出たりするため、地域に人が滞在していても、その消費が地元の事業者には届かない場合がある。

 つまり、二地域居住者が持ち込む購買力と、その購買力を地域で受け止める供給力は別の問題であり、「人を呼ぶこと」と「地域でお金を使ってもらうこと」の間には一段階がある。飲食店が閉まる時間が早すぎる、必要なものをどこで買えるのか分からない、住宅の修理を頼める事業者を探せないといった小さな不便が積み重なれば、せっかく地域に持ち込まれた需要は外へ流れてしまう。

 だから二地域居住を経済政策として考えるのであれば、人数を増やすことだけを成果にしてはいけない。重要なのは、外から持ち込まれた需要を地域の商いがどれだけ捕まえられるかであり、その意味では店の存在、営業時間、サービス情報、注文のしやすさ、支払い方法といった、一見地味な条件の方が、華やかな移住促進イベントより実際の消費に直結することがある。

「住んでいない時間」が新しい市場になる

 二地域居住の経済が興味深いのは、飲食や買い物だけではない。むしろ地域にとって特徴的なのは、「そこに住んでいない時間」があるために、定住者とは違ったサービス需要が生まれることである。

 家を持てば草は伸び、湿気はたまり、排水溝には葉が入り、台風のあとには屋根や雨戸が気になる。毎日住んでいる人なら自分で確認できることでも、月に数回しか訪れない人には確認すること自体が難しく、そこで誰かにお金を払って任せる理由が生まれる。

 たとえば月に1度の換気や簡単な清掃、庭の状態確認、郵便物の確認、台風通過後の外観点検、冬期の水道確認、設備の異常確認などは、1件ごとの仕事として見れば小さい。しかし、二地域居住者が一定数集まる場所では、こうした仕事を定期的に束ねることで、一つのサービスとして成立する可能性がある。

 ここで大切なのは、何でも代行する便利屋を始めれば成功するということではない。地方では顧客同士の距離が離れていることが多く、1件3,000円の仕事のために片道30分かけて移動すれば、それだけで採算が崩れてしまうことがあるため、小さな需要を商売にするには、その需要を地理的に束ねなければならない。

地方の商売では「顧客数」より「顧客密度」が効く

 二地域居住者向けサービスの成否を考えるうえで、人数以上に重要になるのが顧客密度である。百人の顧客が広い町全体に散らばっている場合と、同じ百人が一つの住宅地や別荘地に集中している場合では、売上の総額が同じでも利益は大きく異なる。

 1日に十軒を回れる地域と、1日に三軒しか回れない地域では、1件当たりの料金が同じでも事業者の収益性は変わるため、地方の生活サービスでは「市場人口が何人いるか」という問いだけでは十分ではない。「1時間で何人の顧客に会えるか」「1回の移動で何件処理できるか」という視点が必要になる。

 このため二地域居住者を対象とする小規模サービスには、町全域を広く取りに行くより、二地域居住者が比較的多い住宅地や別荘地など、狭い範囲にサービスを集中させる方が向いている。人口減少地域の新しい商売では、大規模な市場を探すことより、散らばっている小さな需要を採算の取れる密度まで束ねられるかどうかが重要になるのである。

「歓迎します」だけではお金は動かない

 二地域居住や関係人口を推進するとき、自治体や地域団体は交流会、イベント、移住相談会といった人間関係をつくる施策を考えやすい。しかし、人と人がつながることと、その地域で継続的な経済活動が生まれることは同じではない。

 二地域居住者が本当に困るのは、住宅に着いたら庭が荒れていたとき、夕方に食料を買える場所が分からないとき、壊れた網戸を誰に頼めばよいのか分からないとき、台風のあとに屋根が心配だが遠くにいて確認できないときである。こうした問題は一つ一つが小さいため行政課題として目立ちにくいが、商売の視点で見ると、小さいからこそ全国企業が参入しにくく、地域の個人事業者や小規模事業者が扱える余地が残っている。

 町が二地域居住者を増やしたいのであれば、「この町を好きになってください」と呼びかけるだけでは十分ではない。「困ったときには誰に頼めるのか」「何をどこで買えるのか」「留守中に何を任せられるのか」が分かる仕組みを整えることで、地域に持ち込まれた購買力が実際の商売へ変わりやすくなる。

月3,000円のサービスは商売になるのか

 二地域居住者向けの小さなサービスを考えるとき、売上と利益を分けて考える必要がある。仮に一人から月3,000円を受け取り、百人の顧客がいれば、月間売上は30万円、年間売上は360万円となる。

 しかし、ここから車両費、燃料費、保険、通信費、消耗品、決済費用、広告費、移動時間などを負担しなければならないため、360万円すべてが所得になるわけではない。二人分の生活を支える専業事業として考えれば十分な規模とは言いにくいが、一人で運営する小規模事業、副業、あるいは造園、清掃、修繕、不動産管理など既存事業の追加サービスとして考えるなら、意味を持つ可能性がある。

 ここでも重要なのは、1件当たりの売上を無理に高くすることではなく、同じ移動の中で複数の顧客を回れるかどうかである。月3,000円という小さな支払いでも、百軒が狭い地域に集まれば事業になる可能性がある一方、十軒ずつ十地区に散らばれば、同じ売上でも移動費によって利益が消えることがある。

 地方で新しい商売を考えるとき、「何人買ってくれるか」だけを見るのではなく、「その人たちはどこにいるのか」という問いを加える必要があるのは、このためである。

二地域居住は、必ず地域を豊かにするわけではない

 二地域居住には経済的な可能性があるが、それを無条件に地域にとって良いものだと考えるのも危険である。外部から住宅需要が増えれば、地域によっては土地や住宅の価格を押し上げ、地元で暮らす若者やサービス業従事者が住宅を取得しにくくなる場合もある。

 とくに住宅供給が少なく、観光需要の強い地域では、二地域居住や別荘需要が地元住民の住宅需要と競合する可能性がある一方、空き家が多く、住宅需要が弱い地域では、使われなくなった住宅を維持し、固定資産の価値を保つ方向に働くこともある。同じ二地域居住でも、住宅が不足している地域と空き家が余っている地域では意味がまったく異なるため、一つの成功例を全国へそのまま当てはめることはできない。

 また、地域内に十分な店や事業者がなければ、二地域居住者が持ち込んだ支出の多くが地域外へ流れる可能性もある。したがって、二地域居住そのものを経済効果と考えるのではなく、住宅市場の状況、地域の商業構造、顧客密度、地域内で供給できるサービスの種類まで含めて考える必要がある。

地方に必要なのは「大当たり」ではない

 人口減少地域で新しいビジネスを考えるとき、全国から顧客を集められる商品や、急成長する事業が理想として語られやすい。しかし、そのような事業が生まれる確率は高くなく、地方の小さな経済では、すでに地域を利用している人たちの未処理の需要を見つけ、少額でも繰り返し購入してもらう方が現実的な場合が多い。

 一人の顧客から年間数万円しか得られなくても、その顧客が百人、二百人と一定の範囲に集まり、しかも翌年も利用し続けるなら、1度きりの大型契約とは違った安定性が生まれる。市場が小さいことは弱点だが、その市場が小さすぎるため大企業が入りにくく、地域の小規模事業者には競争が少ない市場として残る場合もある。

 ただし、その小さな市場を見つけるには、「地方だから何か需要があるだろう」と考えるのではなく、誰が、何に困り、何回必要とし、いくらなら払い、どの地域に集まっているのかまで確かめる必要がある。二地域居住者という言葉そのものが商機なのではなく、その人たちが繰り返し経験する具体的な不便の中に商機があるのである。

「町を救う人」にしない

 地方政策では、人に役割を背負わせすぎることがある。移住者には自治会活動への参加を求め、若者には地域を変えることを期待し、起業家には雇用創出を期待するうちに、二地域居住者にも「地域を活性化してくれる人」という役割が与えられかねない。

 しかし、月に2度やって来る人は、その町を救うために来ているわけではない。海が好きだから来る人もいれば、小さな畑を楽しみたい人もいて、都会とは違う静かな時間を過ごしたいだけの人もいる。その人に地域貢献を要求する必要はなく、町へ来て、食事をし、必要なものを買い、家の手入れを地域の誰かに頼み、また都市へ戻っていけばよい。

 その往復が何年も続けば、一人の生活の中にその町が組み込まれていく。住民票はなくても、いつものスーパーがあり、いつもの飲食店があり、頼めば来てくれる職人がいて、道ですれ違えば挨拶する人がいるという関係が生まれれば、それはもはや単なる観光ではない。

 町の側から見れば、その人が使う1回数千円のお金は小さい。しかし、その数千円が年に20回、30回と繰り返され、同じような人が百人、二百人と存在すれば、それは一つの市場になる可能性がある。ただし市場になるかどうかを決めるのは人数だけではなく、来訪頻度、支出額、地域内で支出を受け止める割合、そして顧客同士の距離である。

 人口減少の町を一気に反転させるほどの力は、二地域居住にはないだろう。しかし、それは弱点ではない。人口減少の時代に必要なのは、すべてを元に戻す巨大な政策だけではなく、減っていく需要の隙間に小さな需要を差し込み、それを地域の商いへ変える仕組みでもある。

 二地域居住者は町を救わなくてもいい。月に何度かやって来て、昼を食べ、野菜を買い、ガソリンを入れ、伸びた草を刈ってもらい、壊れた雨戸を直してもらい、また翌月戻ってくる。その何でもない往復の中で、一つの店の売上が少し増え、一件の仕事が生まれ、使われなくなるはずだった住宅がもう少し長く維持されるなら、それだけでも地域経済にとって意味がある。

 地方の未来は、必ずしも劇的な人口増加によって始まるとは限らない。ときには、住民でも観光客でもない人が月に数回来るという、統計では見えにくい生活の往復から、小さく、静かで、それでも繰り返される経済が始まるのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方の町を歩いていると、ときどき時間から取り残されたようなものに出会う。庭先には最近ほとんど動いていない軽トラックがあり、道路沿いには何年もシャッターの上がらない倉庫があり、大きな住宅には子どもが独立したあとの部屋がそのまま残っている。それらは壊れているとは限らず、価値がなくなったとも限らないのだが、現在の暮らしや経済の中では役割を失い、ただ静かにそこに置かれている。

 人口が増え、消費も拡大していた時代なら、新しい商売を始めるときに店舗を借り、車を買い、設備をそろえることは自然な選択だった。しかし人口が減り、地域の市場そのものが縮んでいく時代には、同じ方法をそのまま採用することが合理的とは限らない。まだ売上が一円もない段階から家賃や設備費を負担すれば、商売が軌道に乗る前に固定費だけが積み上がるからである。

 そこで、発想を少し反対側から始めてみたい。新しい設備を買って商売を作るのではなく、すでに町の中にあるのに使われていないものを、別の仕事へ移すことはできないだろうか。

人口減少の町には「不足」と「余剰」が同時に存在する

 人口減少地域について語るとき、病院が足りない、店が減った、交通が不便になった、人手が足りないという「不足」に目が向きやすい。しかしその反対側では、住宅、部屋、車、倉庫、店舗、農機具、駐車場など、かつて人口や産業を支えるために用意された資産の一部が余り始めている。

 住宅については、この変化がすでに大きな数字になって現れている。2023年の住宅・土地統計調査では、全国の空き家は約900万戸、空き家率は13.8%に達し、賃貸用、売却用、別荘などを除いた空き家だけでも約386万戸に上る。もちろん、空き家と軽トラックや倉庫を同列に数えることはできず、地方に使われていない軽トラックが何台あり、利用可能な倉庫がどれほどあるかを示す全国統計が十分にそろっているわけでもない。それでも、既存の資産が利用されないまま残るという現象が拡大していること自体は、単なる印象論ではない。

 ここで重要なのは、こうした資産を「宝の山」と呼んでしまわないことである。使われていないものに潜在的な価値があることと、その価値を実際に売上へ変えられることは別の問題であり、むしろその間にある条件を一つずつ確認していくところから商売は始まる。

軽トラックは、小さな店になるのか

 たとえば、農作業を縮小したため月に数回しか動かさなくなった軽トラックがあるとする。中古車として売却すればそこで役割は終わるが、別の見方をすれば、商品や道具を積んで移動できる小さな事業所でもある。

 固定店舗の場合、基本的には客が店まで来なければならず、周辺人口が減れば商圏内の顧客数も減る。一方、移動する商売では、月曜日は集落A、火曜日は集落B、水曜日は集落Cというように複数の小さな需要を一つの事業者が束ねることができるため、一つの集落だけでは成立しない商売が、複数地域を巡回することで成立する可能性が生まれる。

 これは机上の発想だけではない。高齢化や単身世帯の増加、地域の小売店の廃業などによって食料品の購入に不便を感じる人の存在は、国も食品アクセスの問題として認識しており、全国の多くの自治体で移動販売などの対策が行われている。

 ただし、ここで「軽トラックがあれば移動販売ができる」と考えると危ない。島根県雲南市で長期間続いている移動販売の事例でも、事業開始当初には一日に100戸以上を回って売上が3,000円程度しかない日があり、半年ほどかけて顧客の需要を把握し、販売ルートや商品構成を改善している。現在では複数台の車両で事業を継続できているが、その背景には一台ごとの販売目標、顧客需要、商品原価、巡回経路を細かく管理する経営がある。

 つまり、移動できること自体が利益を生むのではない。店舗の家賃という固定費を小さくできる代わりに、燃料費、車両整備費、移動時間、人件費という別の費用が発生するため、「動けば客が増える」のではなく、「移動に要する費用よりも大きな利益を生む需要を一つのルート上に集められるか」が問題になる。

商売になるかどうかは「人口」より需要密度で決まる

 この違いは、簡単な数字にすると見えやすい。

 仮に一日の移動、人件費、車両費などとして1万7,000円程度が必要で、販売する商品の粗い利益率を30%と考えた場合、その費用を回収するだけでも一日約5万7,000円の売上が必要になる。一人の客が平均2,000円購入するとすれば、およそ29人の購入者を一日の巡回経路で確保しなければならない。

 もちろん実際の経費や利益率は業種によって大きく異なるので、この数字自体が基準なのではない。大切なのは、人口が何人いるかだけで商売の成立性を判断できないということである。人口5,000人の町であっても、そのうち30人が一定の距離と時間の中で継続的に購入してくれれば成り立つ仕事がある一方、人口2万人の地域でも客が広く散らばり、一人当たりの購入額が低ければ採算は取れない。

 したがって、地方の小さな商売で本当に測るべきものは、単純な人口ではなく、「一定時間、一定距離の中で、料金を払う意思のある客を何人集められるか」という需要密度なのである。

軽トラックから考えるのではなく、不便から考える

 この順序を間違えると、遊休資産活用は失敗しやすい。余っている軽トラックを見つけてから「これで何を売ろうか」と考えるのではなく、先に町の中で誰が何に困り、どの程度ならお金を払うのかを探し、その解決手段として軽トラックが使えるかどうかを考えるほうが合理的である。

 買い物へ行くのが難しい人がいるのなら移動販売が候補になり、重いものを運べない人がいるのなら運搬サービスが候補になり、庭や空き家の片づけに困っている人がいるのなら道具を積んだ生活支援サービスが候補になる。しかし困っている人がいることと、料金を払う人がいることもまた同じではないため、「困っていますか」という質問だけでは事業性を判断できず、「この内容なら、いくらまでなら継続して支払うか」というところまで確かめる必要がある。

 町の中の不便と支払意思を先に探し、そのあとに余っている資産を組み合わせる。この順番を守るだけでも、「車はあるが客はいない」「倉庫を借りたが商品が売れない」という失敗をかなり減らせる。

倉庫には、町の人口とは別の可能性がある

 農機具が減って半分以上空いている納屋、廃業した商店の倉庫、家業をやめたあとの作業場なども、外から見れば古い建物にすぎないが、事業を始めようとする人から見ると別の意味を持つことがある。

 商品の保管、通信販売商品の梱包、工具の収納、農産物の仕分け、小規模な修理や加工などには、必ずしも人通りの多い一等地の店舗は必要ない。都市部に比べて低い費用で利用できる倉庫が見つかれば、それは地方で事業を行う一つの強みになり得るが、地方なら必ず安いというわけではなく、立地、建物の状態、電力設備、道路への接続条件などによって価値は大きく変わる。

 ここで面白いのは、倉庫を使った事業では、必ずしも町の住民だけを客にする必要がないことである。インターネットを通じて全国へ商品を販売する仕事であれば、事業所が人口一万人の町にあっても、市場そのものが一万人に限定されるわけではない。

 人口減少地域の商売には、大きく分けて地域内の需要を取りに行く仕事と、地域にある低コストの資産を利用して地域外から売上を持ってくる仕事がある。前者では需要密度が大きな制約になるが、後者では物流費、送料、仕入れ、生産性などのほうが重要になるため、同じ遊休倉庫でも事業モデルによって価値はまったく異なる。

空き部屋は「空いている」のに市場へ出てこない

 住宅の空き部屋は、さらに興味深い。

 子どもが独立し、夫婦二人で大きな住宅に暮らしている家庭では、二階の一室や二室をほとんど使っていない場合がある。それなら、その部屋を事務所や教室に使えばよいと考えたくなるが、現実にはそれほど簡単ではない。

 空き家に関する国の調査でも、使用目的の明確でない空き家の所有者の約4割は、今後も物置を含めて空き家として所有しておく意向を示している。つまり、物理的に空いていることと、経済活動のために他人へ貸せることは同じではない。

 住宅の一室であれば、玄関、トイレ、駐車場、騒音、防犯、家族の生活時間、事故が起きた場合の責任など、倉庫以上に多くの問題が発生する。そのため所有者から見れば、月に数千円や一万円程度の収入を得るために生活上の不安を抱えるくらいなら、使わないままにしておいたほうがよいという判断も十分合理的である。

 それでも利用頻度を抑え、利用者を限定すれば使える可能性は残る。毎日不特定多数が訪れる店舗ではなく、予約制の相談室、少人数の教室、事務作業をする場所などであれば、所有者側の負担を小さくできる場合がある。しかし飲食、宿泊、福祉、医療など、法令や安全基準が関係する用途では、単に部屋が空いているだけでは事業を始められず、建物の用途、安全設備、許認可、保険などを個別に確認しなければならない。

「無料だから安い」という錯覚

 遊休資産を利用する商売には、もう一つ注意すべき点がある。それは取得価格と利用コストを混同しないことである。

 長期間動かしていない軽トラックなら、車両そのものが無料でも車検、タイヤ、バッテリー、修理、自動車保険などに費用がかかる。古い倉庫なら家賃がほとんどなくても、雨漏り、照明、電気設備、防犯、清掃、害虫対策などが必要になるかもしれず、住宅の空き部屋なら利用者の安全確保や家族との生活動線を整えるための改修が必要になる場合もある。

 したがって、遊休資産の本当の価値は「無料で使えること」ではない。新品を購入したり、通常の店舗を借りたりする場合に比べて、事業開始時の固定費と撤退時の損失をどこまで小さくできるかにある。

固定費を下げる意味は、損益分岐点を下げることにある

 ここは、小さな商売を考えるうえで最も重要な部分かもしれない。

 商売には、ほとんど売れなくても発生する固定費と、売上に応じて増える変動費がある。利益がちょうどゼロになる売上を損益分岐点売上高といい、おおまかには「固定費を限界利益率で割った金額」で考えることができる。

 仮に店舗を借りて始める事業の固定費が月18万円、売上から商品の仕入れなどを引いた限界利益率が35%なら、損益分岐点となる売上は月約51万円になる。一方、遊休倉庫や既存設備を利用して固定費を月6万円まで下げられれば、同じ35%の限界利益率なら損益分岐点は月約17万円まで下がる。

 これは単なる節約ではない。月51万円売らなければ生き残れない商売と、月17万円で損益が均衡する商売では、必要となる地域人口も顧客数もまったく違う。

 実際、小規模企業は大企業や中規模企業に比べて損益分岐点売上高が低く、人口の少ない地方でも商圏を支え得る一方、売上高に対する損益分岐点の割合は高く、売上が少し減っただけでも赤字になりやすいという弱点を持っている。つまり「小さく始めれば安全」というほど単純ではなく、固定費を抑えることと同時に、売上が少し減っても耐えられる余白を残す必要がある。

本当の商品は、倉庫や部屋ではないかもしれない

 ここまで考えると、もう一つ違う商売が見えてくる。

 軽トラックを使いたい人と、ほとんど使わなくなった軽トラックを持っている人。荷物を置きたい人と、倉庫の三分の一だけ余らせている人。週一回だけ相談室を使いたい人と、住宅の一室を持て余している人。その両者が同じ町にいたとしても、お互いの存在を知らなければ何も起こらない。

 そこで価値を持つのが、遊休資産そのものではなく、それを安心して使える状態に変える仕組みである。

 ただし、ここでも「マッチングすれば商売になる」と飛躍してはいけない。遊休資産が市場へ出ない理由には、所有者と利用者の信頼関係だけでなく、相続、権利関係、建物の老朽化、改修費、将来自分で利用する可能性、税金、事故責任、感情的な抵抗など多くの事情がある。したがって、遊休資産が動かない原因を単純に「貸し手と借り手を結ぶ人がいないから」と説明することはできない。

 しかし裏返せば、誰が、何のために、いつ、どの範囲を利用し、破損した場合はどうするのかという条件をあらかじめ整理し、所有者の不安を減らすことができれば、これまで市場へ出なかった小さな余剰が利用可能になる可能性はある。

「全部借りる」から「必要な分だけ使う」へ

 従来の不動産市場では、倉庫なら倉庫一棟、店舗なら店舗一室、住宅なら住宅一戸という単位で貸すことが一般的だった。しかし人口が減り、事業規模も小さくなる地域では、その単位自体が大きすぎることがある。

 月五万円の店舗を一軒借りるほどではないが、週に一日なら使いたい人がいる。倉庫を一棟借りるほどではないが、棚二列分なら必要な人がいる。軽トラックを所有するほどではないが、毎週水曜日だけ必要な人がいる。

 大きな需要が減る社会では、需要を諦めるのではなく、利用単位を小さくすることで市場そのものを作り直せる可能性がある。部屋一室、倉庫の一角、車を一日という単位へ細かく分けることで、「借りるほどではない」と市場から消えていた需要が表面に出てくるからである。

 ただし、小分けにすればするほど予約管理、鍵の受け渡し、清掃、保険、契約、料金回収といった管理費用は相対的に重くなる。そのため、細分化そのものが利益を生むのではなく、その管理コストをどこまで低くできるかが事業性を左右する。

最初から立派な「事業」にしない

 地方で新しい商売を考えるとき、多くの失敗は需要を確認する前に形を整えすぎるところから始まる。店名を決め、看板を作り、車を買い、店舗を改装し、広告を出してから客を探すという順番では、客が来ないことが分かった時点ですでに多くの資金を使っている。

 遊休資産を利用する最大の意味は、ここを逆転できることにある。軽トラックが使えるなら週一日だけ試し、倉庫なら一角だけ借り、空き部屋なら月二回だけ利用してみる。その結果、客が何人来たのか、一人当たりいくら払ったのか、再び利用した人が何人いたのか、移動や準備に何時間かかったのかを記録し、数字が合わなければ大きな損失を抱える前にやめる。

 人口減少地域では、大きく当てることより、大きく外さないことのほうが重要になる場合がある。遊休資産とは、その意味で単に安い設備なのではなく、少ない資本で商売の仮説を試すための実験装置なのである。

町に眠っているのは「資産」ではなく「組み合わせ」かもしれない

 地方の町には、人口減少という厳しい現実がある。だからといって、使われていない軽トラックを一台見つけたところで人口が増えるわけではなく、空き倉庫を開けたところで突然大きな市場が生まれるわけでもない。

 それでも、人口減少によって生まれるものは不足だけではない。住宅が余り、部屋が余り、車が余り、仕事に使われなくなった場所が増える一方で、高齢化によって買い物、運搬、片づけ、移動、生活支援など新しい不便も生まれている。

 この「余っているもの」と「足りなくなったもの」が同じ町の中に存在するところに、小さな商機がある。

 ただし両者を結んだだけでは商売にはならず、そこには支払意思、需要密度、利益率、移動距離、改修費、管理費、所有者の意思、安全性という条件が立ちはだかる。その数字を一つずつ確認して、それでも利益が残るときに初めて、眠っていた資産は事業資産へ変わる。

 だから、地方に眠る資産を「宝の山」と呼ぶ必要はない。実際には使えないものも多く、使えても儲からないものもあり、所有者が貸したくないものもある。それでも、新しい店舗を建て、新しい車を買い、新しい設備を一式そろえることだけが商売の出発点ではないと分かれば、町を見る目は少し変わってくる。

 庭先に止まっている軽トラックも、シャッターの下りた倉庫も、使われなくなった二階の部屋も、それだけでは一円も生まない。しかし、その近くに料金を払ってでも解決したい不便があり、その不便を低い固定費で解決できる方法があり、客を一定の密度で集められるなら、それまで経済から外れていたものが、もう一度仕事の中へ戻ってくる可能性がある。

 人口が増えない町で次の商売を探すことは、何もないところから画期的な商品を発明することだけではない。すでに町の中に存在しながら、需要と結びついていないものを見つけ、それをなるべく小さな費用で試し、数字を確かめながら仕事へ変えていくこともまた、新しい商売をつくる方法なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 本稿で触れる法律、成年後見制度、日常生活自立支援事業、高齢者等終身サポート事業その他の制度は、2026年9月時点の内容を前提としている。高齢者をめぐる支援制度は現在まさに見直しの途上にあり、2026年6月には社会福祉法等の改正法も公布されているため、今後、施行時期や具体的な運用が変わる可能性がある。したがって、ここで考える「老後の事務管理」は、既存制度を代替したり法律行為を代理したりする仕事ではなく、本人に十分な判断能力がある段階から生活情報を整理し、必要になったときに家族や専門職へ正確につなげられる状態を保つ、いわば予防的な生活管理サービスとして考えてみたい。

 高齢になった人の家を訪ねても、その家が荒れているとは限らない。庭はきれいに手入れされ、食器は片づき、冷蔵庫には食材があり、毎日の薬も決められた場所に並んでいる。それでも引き出しを一つ開けると、何年も使っていない銀行口座の通帳、契約内容を説明できない保険証券、通信会社から届いた封筒、固定資産税の通知、期限の過ぎた行政書類、使っているのかどうか分からないクレジットカードが現れ、さらにスマートフォンの中には家族の誰も知らない認証情報や契約が積み重なっている。家は片づいていても、人生の事務は静かに散らかっていくのである。

 老後について考えるとき、多くの人は健康、介護、年金、相続、葬儀には比較的早く目を向けるが、その間に横たわる膨大な「日常事務」は見落とされやすい。元気なうちは銀行へ行き、電話をかけ、郵便物を読み、インターネットで手続きをし、不要な契約を解約できるため、それらを能力だと意識する必要がない。しかし年齢を重ねるにつれて、契約内容を比較し、複数の請求を管理し、古い書類と現在の契約を結び付け、期限を覚え、必要な相手へ連絡するという一連の作業は、身体介護とは別の負担として少しずつ大きくなる。

介護が始まる前に、事務の能力が揺らぐことがある

 ここで重要なのは、認知症と「何もできなくなる状態」を同一視しないことである。アルツハイマー型認知症などでは認知機能が徐々に変化することが多い一方、病型や原因によって経過は異なり、脳血管障害などを契機として急激あるいは階段状に低下する場合もあるため、誰もが同じ順序で能力を失うわけではない。それでも研究から比較的はっきり分かっているのは、食事や着替えといった基本的な生活が保たれている段階でも、金銭管理、服薬管理、電話、予定管理、買物、銀行明細の理解といった複雑な生活行為に変化が現れることがあるという点である。

 こうした能力はIADL(Instrumental Activities of Daily Living・手段的日常生活動作)と呼ばれ、MCI(Mild Cognitive Impairment・軽度認知障害)を対象とした多数の研究でも、金融管理など認知的負荷の高い行為ほど影響を受けやすいことが報告されている。37研究をまとめた系統的レビューでは、その大半で何らかのIADL低下が確認され、特に金融能力は多くの研究で差が認められた。つまり、「まだ一人で暮らせるから、事務もすべて大丈夫だろう」という推測は必ずしも成り立たない。

 ただし、ここでも注意が必要である。MCIを単純に「認知症の前段階」と呼ぶと、認知症への一本道であるかのような誤解を招く。実際には、長期追跡研究をまとめた近年の分析でも、MCIのまま推移する人、認知症へ進行する人、正常認知の範囲へ戻る人が存在し、その割合は病院を受診した集団なのか一般地域の集団なのかによっても大きく異なる。したがってMCIは、認知症への進行リスクが高い状態の一つではあっても、認知症になることを意味する診断ではない。

 それでも社会全体で見ると規模は小さくない。厚生労働省の研究班による推計では、2040年には認知症の高齢者が約584万人、MCIの高齢者が約613万人になると見込まれている。さらに高齢単身者も増えており、65歳以上人口に占める一人暮らしの割合は2050年には男性約26%、女性約29%に達すると推計されているため、これまで配偶者や子どもが暗黙のうちに補ってきた生活事務を、本人だけで管理する家庭が増えることになる。

必要なのは通帳の整理ではなく、「人生の事務地図」である

 では、認知機能が十分なうちに何を整理すればよいのだろうか。ここで「通帳をまとめる」「保険証券を一冊にする」「パスワードを書いておく」と個別作業だけを並べてしまうと、本質を見失う。必要なのは書類をきれいにファイルすることではなく、その人の生活が何によって動いているのかを、本人以外の人でも必要になれば理解できる状態にしておくことである。

 年金はどの口座へ振り込まれ、その口座から何が引き落とされているのか。電気、通信、保険、自動車、住宅、税金にはどのような契約があり、どこへ連絡すればよいのか。通院している医療機関はどこで、緊急時に連絡してほしい家族は誰なのか。土地や建物について相談してきた相手は誰で、重要書類はどこに置かれているのか。こうした情報が互いにつながって、初めて生活全体を示す「人生の事務地図」になる。

 本人の頭の中には、多くの場合この地図が存在している。「電気代はいつもの口座から落ちる」「保険のことはあの会社に電話すればよい」「土地のことは昔から頼んでいる人が知っている」と本人は理解しているため、わざわざ文章にする必要を感じない。しかし、その地図が本人の記憶の中にしか存在しなければ、病気や事故、認知機能の低下によって家族が突然そこへ入れなくなる可能性がある。

 老後の事務管理で本当に保存すべきものは、紙そのものではなく、この地図なのである。

家族を疲弊させるのは、大事件より小さな不明点の連続である

 高齢者の財産問題というと、相続税や巨額の預貯金、不動産処分などが注目されるが、実際に家族の時間を奪うのは、もっと小さな「分からない」の積み重ねである。父親が入院したので携帯電話の契約を見直そうとしても契約会社が分からず、母親が施設へ入ったので実家の通信回線を止めようとしても契約書が見つからず、毎月口座から数千円が引き落とされているのに何の料金なのか説明できず、保険会社から書類が届いても継続すべき契約なのか家族には判断できない、という出来事が少しずつ重なっていく。

 一件だけなら大したことではない。しかし十件、二十件と重なると、離れて暮らす子どもは仕事を休んで実家へ行き、引き出しを探し、金融機関や通信会社へ電話をかけ、本人に何度も同じことを尋ねなければならなくなる。そのとき初めて、「元気なうちに聞いておけばよかった」という言葉が出てくるのである。

 そう考えると、老後の事務管理が提供する価値は「書類を片づけること」ではない。将来、家族が費やす探索時間と混乱を減らすことであり、そこまで価値を言い換えなければ、わざわざ料金を払うサービスにはなりにくい。

実は、この仕事の周辺には既に制度がある

 ただし、この領域を「誰も気付いていない全く新しい仕事」と表現するのは正確ではない。既に公的制度として日常生活自立支援事業があり、認知症高齢者など判断能力が不十分な人のうち、利用契約については理解できる人を対象に、福祉サービスの利用援助や日常的な金銭管理などを社会福祉協議会が支援している。2024年度の実利用者は約5万7千人であり、郵便物の確認、支払い支援、重要書類の預かりなど、この記事で考える仕事と重なる部分も存在する。

 また民間では、身元保証、日常生活支援、入院や施設入所時の支援、死後事務などを提供する「高齢者等終身サポート事業」が既に広がっている。サービス内容や契約期間、預託金などをめぐる問題もあるため、国は2024年に事業者向けガイドラインを策定し、さらに2026年6月には社会福祉法等の改正法が公布された。改正法全体は原則として2027年4月1日に施行されるが、頼れる身寄りがない高齢者などへの日常生活支援や死後事務等に関係する新たな第二種社会福祉事業の中心規定については、公布後2年以内の政令で定める日から施行される仕組みとなっており、この領域が今まさに制度整備の途中にあることが分かる。

 つまり「老後の事務管理」の商機は、制度が存在しないことにあるのではない。既存制度を並べてみると、その手前に残された空間が見えてくることにある。

 日常生活自立支援事業は、既に判断能力が不十分になっている人を主な対象としている。成年後見制度や任意後見制度には法的な財産管理や代理という重要な役割があり、任意後見では本人に十分な判断能力があるうちに公正証書で契約を結び、判断能力が低下した後、家庭裁判所が任意後見監督人を選任することで契約の効力が生じる。一方、高齢者等終身サポート事業は、身元保証や死後事務まで含む場合が多い。そのどれとも少し違う、「まだ十分に判断できる人が、自分自身の生活情報を整理し、その状態を定期的に更新する」という予防的な領域が残っているのである。

「何でもしてくれる人」にしてはいけない

 この仕事を実際の事業にするとき、最も危険なのは親切の範囲を広げすぎることである。「老後のことなら何でもお任せください」と言った瞬間に、単なる書類整理から、法律、税務、行政手続、財産管理へ踏み込む可能性が生まれる。

 本人の書類を一緒に確認し、現在利用している契約を一覧にし、本人から聞いた連絡先を記録し、重要書類の所在を本人と確認することと、本人に代わって契約を締結したり、紛争について法律判断をしたりすることは同じではない。報酬を得る目的で法律事件について法律事務やその周旋を業として行えば弁護士法上の問題となり得るし、報酬を得て官公署に提出する書類や権利義務・事実証明に関する書類を作成すれば行政書士法との関係を検討しなければならない。税務代理、税務書類作成、税務相談は税理士法による資格業務であり、年金や社会保険についても内容によって社会保険労務士の専門領域になる。

 したがって、このサービスで最も重要な商品設計は、「何をしてくれるのか」だけではなく「何をしないのか」を決めることである。情報を整理し、本人の説明を記録し、本人自身が判断しやすい形にし、専門的判断が必要になれば本人に適切な相談先を案内するという線を越えない方が、むしろ長期的には事業として強い。現金やキャッシュカードを安易に預からず、暗証番号を事業者側で一括保管せず、本人の意思を越えて契約を変えず、法律や税務について結論を出さないという制約は、サービスを弱くするためではなく、利用者を守るための構造になる。

この仕事では、個人情報そのものが原価になる

 老後の事務を整理すれば、必然的に非常に深い個人情報を扱うことになる。銀行、保険、不動産、家族関係、連絡先だけでなく、通院先、病歴、投薬情報まで把握するサービスに発展すれば、その一部は個人情報保護法上の要配慮個人情報となり、原則として取得に本人同意が必要になる。

 だからこの仕事では、「信用できる人です」という人柄だけでは不十分である。誰が情報を見ることができるのか、紙をどこに保管するのか、電子データをどの端末に入れるのか、退会した顧客の情報をいつ廃棄するのか、家族から電話があったとき本人の同意なしに何を答えてよいのかまで、あらかじめ決めておかなければならない。

 情報セキュリティは、この事業では後から付け加える経費ではない。サービスそのものの原価である。

高齢者相手だからこそ、売り方にも制限が必要になる

 営業方法にも注意が必要である。高齢者宅を訪ね、その場で有料サービスの契約を締結する形を採れば、契約形態によっては特定商取引法の訪問販売に該当し、法定書面の交付や原則8日間のクーリング・オフなどの規制を受ける可能性がある。

 それ以上に重要なのは、この事業が恐怖を売る商売になりやすいことである。「今整理しなければ認知症になったとき大変ですよ」「子どもに迷惑をかけますよ」と不安を刺激すれば、短期的には契約を取れるかもしれない。しかし、認知機能の低下を扱う事業者が本人の不安を利用して契約を迫れば、そのサービスの根本にある信用を自ら壊すことになる。

 このサービスで売るべきものは、「認知症への恐怖」ではなく、「元気な今だから自分で決められる」という安心である。

一度片づけても、人生の事務はまた散らかる

 ここに、従来の終活と少し違うビジネスモデルが見えてくる。エンディングノートを書いた日には正確だった情報も、五年後まで正しいとは限らない。銀行口座を解約し、通信会社を変更し、自動車を手放し、保険を見直し、病院が変わり、配偶者が亡くなれば、生活の構造そのものが変わっていくからである。

 したがって最初に生活全体を棚卸しして終わるのではなく、半年や一年ごとに本人と確認し、変化した部分だけを更新する方が実際の生活には合っている。そうすれば、情報が古くなるのを防ぐだけでなく、その人がどのような生活をしてきたのかという履歴も少しずつ蓄積されていく。

 この履歴は認知症になったときだけ役立つものではない。突然の入院、事故、配偶者の死亡、施設入所など、本人が一時的に事務を行えなくなった場面でも価値を持つため、商品名を「認知症対策」に限定しない方がよい理由もここにある。

市場はありそうだが、採算まで証明されたわけではない

 需要の背景はかなり強い。高齢者人口は大きく、高齢単身世帯も増え、認知機能に課題を抱える人も少なくなく、実際に国がこの分野の制度整備へ動いている。しかし、需要が存在することと、民間の小規模事業者が利益を出せることは別問題である。

 例えば月額3,000円なら、月商約10万円を得るために34人程度の継続顧客が必要になる。月額5,000円なら20人で月商10万円になるが、そこから訪問時間、移動時間、電話対応、記録作成、顧客獲得、賠償責任への備え、情報管理などの費用を引かなければならないため、「30人契約したから月15万円の利益になる」という計算にはならない。

 特に地方では顧客の人数より密度が重要になる。同じ30人でも、一つの住宅地に集中している30人と、車で一時間の範囲に散らばる30人では採算が全く違うため、この仕事は全国へ広く広告するより、ある地域の中で信頼と顧客密度を積み上げる方が向いている可能性が高い。

 料金についても、高齢者本人だけを顧客だと考える必要はない。むしろ離れて暮らす四十代、五十代、六十代の子ども世代が、「親が何かあったとき、生活の全体像だけは分かる状態にしてほしい」と費用を負担する市場が考えられる。ただし、これも現段階では合理的な仮説であって、十分な支払意思が実証されたとまでは言えない。実際に事業化するなら、小規模な地域で料金を変えながら試し、契約率、継続率、一人当たり対応時間、移動時間、解約率を測定して初めて採算性を判断すべきである。

公的支援が増えるほど、民間は「その前」を狙う

 今後、公的な支援制度が充実していけば、この仕事の市場がなくなるようにも見える。しかし、むしろ市場の境界がはっきりする可能性がある。判断能力が低下し、生活支援や財産管理の必要性が高くなった段階には既存の福祉制度や成年後見制度があり、頼れる身寄りがない人への公的支援も今後拡充されていく一方、それらが必要になる前の「まだ元気だからこそ自分で整理しておきたい」という領域は、必ずしも公的制度が全面的に担う必要はない。

 七十歳になったから支援されるのではなく、七十歳の自分が八十五歳の自分のために情報を整理しておく。本人の判断能力が十分なうちに、自分が何を所有し、誰と契約し、何を残し、誰に何を知らせたいのかを自分自身で決める。その作業を定期的に手伝うのであれば、「高齢者を管理するサービス」ではなく、「本人の自己決定を長く保つためのサービス」と考えることができる。

 この違いは大きい。

人生には総務部がない

 考えてみれば会社には総務があり、経理があり、契約を管理する人がおり、重要書類の保管場所が決まっている。担当者が退職すれば引き継ぎを行い、取引先や銀行口座や契約内容も会社の情報として残される。

 ところが一人の人生は、会社より長く続くことがあるにもかかわらず、引き継ぎという制度をほとんど持っていない。若いころに作った銀行口座、四十代で加入した保険、五十代で購入した不動産、六十代で始めたインターネットサービスが一人の頭の中に積み上がり、本人だけが知っている状態のまま八十代を迎える。

 そして、ある日その記憶が曖昧になってから、家族が人生全体の復元を始める。

 それでは遅いのである。

 「老後の事務管理」という仕事は、まだ誰も行っていない仕事ではない。その周囲には社会福祉協議会があり、成年後見制度があり、行政書士、司法書士、弁護士、税理士、社会保険労務士などの専門職があり、高齢者等終身サポート事業者も既に存在している。

 それでも、その間には仕事が残っている。

 法律問題になる前、判断能力を失う前、介護が必要になる前に、本人と一緒に生活の地図を作り、それが古くならないよう静かに更新していく仕事である。

 人口が減少する地域では、店も働き手も減り、「もう新しい商売などない」と考えやすい。しかし高齢化とは、単に既存市場が縮小する現象ではない。かつて家族の中で無償に処理されていた仕事が、家族構造の変化によって外へ押し出され、初めて市場として姿を現す現象でもある。

 老後に必要になるのは、介護だけではない。

 人生という小さな組織を最後まで動かすための総務機能も必要になる。そして、その総務を本人が元気なうちから準備するという考え方は、これからの地域社会において、一つの現実的な仕事になる可能性を持っている。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 人口が減っていく町では、人間の姿が少なくなるだけではなく、人と人とが偶然に出会う機会まで少なくなっていく。子どもの声が聞こえなくなり、商店のシャッターが閉まり、夕方になっても道を歩く人がほとんどいない町では、かつてなら買い物や通勤、学校への送り迎えの途中で自然に生まれていた「おはようございます」や「今日は寒いですね」という短い会話さえ、少しずつ失われていく。高齢化とは住民の平均年齢が上がる現象であると同時に、仕事や子育てを終えた人が増え、日常生活の中に埋め込まれていた役割や外出の理由が減っていく現象でもある。

 そこへ一匹の犬を迎えると、暮らしの時間の使い方が変わる。朝になれば餌を用意し、水を替え、首輪をつけて外へ連れ出さなければならず、雨が降っていても、少し気分が乗らなくても、犬はこちらの都合だけでは一日を過ごしてくれない。昨日と同じ道を歩いていると向こうから別の犬を連れた人がやって来て、「何歳ですか」「今日は寒いですね」と言葉を交わすようになり、初めは犬の名前しか知らなかった相手を、何度も会ううちに顔なじみとして覚えていくこともある。

 この光景だけを見て、「犬を飼えば高齢者は幸福になる」と結論づけることはできない。それでも、犬を飼うことが人間の行動を変えるという点には、一定の科学的な裏付けがある。日本の地域在住高齢者を対象にした研究では、犬の飼育経験と歩行活動や身体機能との間に統計的な関連が確認されており、海外を含む研究をまとめた近年の総合的な検討でも、犬を飼っている高齢者では犬の散歩に伴う身体活動が多いという傾向が比較的一貫している。ただし、もともと健康で歩ける人だから犬を飼えるという逆方向の可能性もあるため、「犬を飼えば健康になる」と単純な原因と結果に置き換えることは慎まなければならない。

 それでも、高齢者の生活という視点から見ると、犬を飼う行為には興味深い特徴がある。散歩は「健康のために運動しましょう」と誰かに勧められて行う運動とは違い、犬の世話として生活の中に組み込まれるからである。自分の健康のためだけなら今日は休もうと思う日があっても、玄関の前で犬が待っていれば靴を履くことがある。運動を目的として外出するのではなく、犬の世話をした結果として歩いているという順序が、行動を継続させる一つの仕組みになり得る。

 実際、日本の65歳以上の地域在住者を追跡した研究では、調査開始時に犬を飼っていた高齢者は、犬を一度も飼ったことがない高齢者に比べ、その後約3年半の間に要介護状態へ移行するオッズが低かった。もちろん、これは犬を飼うだけで要介護状態を防げることを意味しない。研究では年齢、所得、病歴、運動習慣、外出頻度など多くの条件が統計的に調整されているものの、観察研究である以上、測定されていない生活習慣や住宅環境などの影響を完全に取り除くことはできないからである。それでも、犬との暮らしと高齢期の身体活動や生活機能との間に何らかの関係が存在する可能性を考えるには、十分に興味深い結果である。

 犬には、もう一つ、家の外へ人を連れ出す性質がある。犬を飼っている高齢者と猫を飼っている高齢者を比較した海外研究では、犬の飼い主の方が近隣住民と出会う可能性が高いという結果が得られている。ただし、この研究で散歩回数そのものと近隣交流との関係を詳しく見ると、散歩が多いほど交流が多くなる傾向は認められたものの、通常用いられる統計学的な基準では明確な有意差には達していなかった。したがって、「犬をたくさん散歩させれば必ず地域交流が増える」とまでは言えないが、犬を連れて外を歩くことが人間同士の接触機会をつくるという仮説には、一定の現実味がある。

 ここで重要なのは、人間同士の交流を直接の目的にしなくてもよいことである。人口が少なくなった地域で「交流会を開くので集まりましょう」と呼び掛けても、もともと人付き合いの得意な人ばかりが集まり、孤立しがちな人ほど参加しないことがある。しかし犬を飼っている人は、交流するために家を出るのではなく、犬に排せつをさせ、運動をさせ、匂いを嗅がせるために外へ出る。その途中で別の人に会い、犬同士が立ち止まっている間に少し話すという形なら、人間関係を築こうと意識しなくても接触が生まれやすい。

 人間同士だけで向き合えば、何かを話さなければ気まずいと感じることもあるが、犬が間にいれば話題を無理に探す必要はない。「この子はいくつですか」と聞けば会話が始まり、犬が草の匂いを嗅いでいる間は黙っていても不自然ではない。昨日会った人と今日もすれ違い、数日後にまた会い、その繰り返しの中で「あの犬を連れた人」が少しずつ「近所で声を掛けられる人」へ変わっていくとすれば、犬は人間関係をつくる主体というより、人間同士が接触するための摩擦を小さくする存在だと考えた方がよい。

 もっとも、この作用が人口減少地域で都市部より強いということまで、現在の研究から証明されているわけではない。日本の高齢者を対象とした代表的な研究の一つは東京都内で行われており、人口密度の低い過疎地域だけを対象としたものではないからである。それでも、日常生活で他人と接触する機会そのものが少ない地域では、一日に一度の犬の散歩によって生まれる一回の出会いが相対的に大きな意味を持つのではないか、という仮説を立てることはできる。

 人口の多い都市では、人に会うための仕組みが数多く用意されている。文化教室、スポーツ施設、飲食店、商業施設、地域イベントなどがあり、公共交通を使って別の場所へ移動することも比較的容易である。ところが人口が減った地域では、利用者が少なくなれば教室も店も交通機関も維持しにくくなり、交流を生み出す施設そのものが減っていく。二十人集めなければ成立しない教室はなくなるかもしれないが、犬の散歩は一人と一匹で始めることができ、途中でもう一人と一匹に出会えば、それだけで小さな社会的接触が成立する。

 猫との暮らしは、犬とは少し違った方向から考えた方がよい。猫には通常、犬のように飼い主を毎日外へ連れ出す力はないため、「猫を飼えば歩行量や地域交流が増える」と考える根拠は弱い。一方で、朝になれば餌を用意し、水を替え、トイレを掃除し、体調がおかしければ様子を見て、必要なら動物病院へ連れて行くという世話は発生する。猫を飼うことによって生まれる可能性があるのは、身体活動というより、日課、役割、愛着、自分以外の生き物を気に掛ける時間である。

 退職し、子どもが独立し、ときには配偶者を亡くした高齢者にとって、役割の減少は生活の大きな変化になる。仕事をしていた頃には朝起きる時刻が決まり、職場へ行けば自分の仕事があり、家庭では子どもの世話をする必要があったが、それらが終われば自由になる一方、「今日しなければならないこと」が少なくなることもある。そこへ犬や猫を迎えると、餌を与え、水を替え、排せつ物を片付け、健康を気遣うという小さな責任が毎日発生し、自分の気分とは関係なく世話を必要とする相手が家の中にいることになる。

 このような役割が心理的な充実につながる可能性は十分に考えられるものの、ここでも科学的には慎重であるべきだろう。2026年に公表された日本の全国的な社会調査データを用いた研究では、ペットの世話をしているかどうかと生活満足度との間に、統計学的に明確な関連は確認されなかった。つまり、ペットの世話をしているという事実だけから、その人の生活満足度が高いとは言えないのである。

 この結果は、一見すると「ペットは幸福に役立たない」という話に見えるかもしれないが、むしろ重要なのは逆である。犬や猫を飼っているという一つの事実だけでは、人と動物との関係を説明できないということである。長年一緒に暮らして強い愛着を持っている人もいれば、世話を負担に感じている人もおり、経済的に余裕のある人もいれば、治療費を心配している人もいる。人間関係と同じように、動物との関係にも質があり、その違いを無視して「飼っているか、飼っていないか」の二つだけに分ければ、生活満足度との関係が見えなくても不思議ではない。

 犬や猫との暮らしには負担もある。餌代が掛かり、予防接種や治療にも費用が必要で、犬なら毎日の散歩を続けなければならない。若い頃に飼い始めた動物が十年以上生きれば、飼い主自身の身体能力が低下してからも世話が続く可能性があり、入院すれば誰かに餌を頼まなければならず、認知機能が低下すれば適切な飼育が難しくなることもある。高齢になってから動物を迎える人にとっては、「自分の方が先に亡くなったら、この犬や猫はどうなるのか」という不安も現実的な問題になる。

 だから、高齢化する地方で考えるべきなのは、犬や猫の頭数を増やすことではない。まして高齢者にペットを飼うよう勧めれば生活満足度が上がる、という政策でもない。重要なのは、もともと動物と暮らしたいと思っている人が、自分の年齢や身体能力、経済状態を考えながら無理なく迎えることができ、体力が低下した後も最後まで責任を持って飼える環境を地域としてどこまで支えられるか、という問いである。

 もし飼い主が数日間入院したときに犬や猫を一時的に預かる人がいれば、飼育を続けやすくなる。自動車を運転できなくなった人が動物病院へ行くとき、人だけでなく犬や猫も一緒に運べる移動手段があれば、通院を諦めずに済むかもしれない。犬の散歩が身体的に難しくなったとき、近隣の人や事業者が代わって散歩をする仕組みがあれば、高齢になったからという理由だけで長年暮らした犬と離れなくてもよくなる。さらに飼い主が亡くした後の引き取り先まで事前に考えておけば、高齢者が抱える「最後まで世話できるだろうか」という不安を小さくすることもできる。

 そこには小さな事業の可能性もあるが、「高齢化地域だからペットビジネスが必ず成立する」と考えるのも早計である。人口密度の低い地域では、一件の犬の散歩や動物病院への送迎を引き受けるために長い距離を移動しなければならず、利用者が存在しても料金収入より移動時間や燃料費の方が重くなることがあるからだ。散歩代行、通院支援、一時預かり、餌の配送といった需要が潜在的に存在するとしても、それを事業にするには利用者がどの程度の料金を支払えるのか、何世帯をどの範囲で回れば採算が取れるのかを別に検証しなければならない。

 それでも、人口減少地域における新しいサービスを考えるうえで、ペットという視点は興味深い。高齢化によって需要がすべて消えるのではなく、これまで家庭の中だけで処理されていた小さな困りごとを、外部の誰かに頼まなければならない場面が増えるからである。犬の散歩を頼みたい、猫を動物病院へ連れて行きたい、数日だけ預かってほしいという需要は、一件一件は小さいものの、生活を続ける本人にとっては切実であり、こうした小さな需要を効率よく束ねることができれば、地域サービスとして成立する余地はある。

 さらに興味深いのは、ペットを支えるサービスが、結果として飼い主本人を支えるサービスになることである。犬を散歩させに来た人が高齢の飼い主と毎週顔を合わせれば、普段と様子が違うことに気付くかもしれない。猫を動物病院へ運ぶために家を訪ねれば、高齢者が困っていることを知ることもあるだろう。このような効果を最初から保証することはできないが、動物の世話を媒介として人と人との接点が生まれることには、人口の少ない地域だからこそ検討する価値がある。

 ここまで考えると、「犬や猫が増えれば地域の生活満足度が上がる」という単純な話ではないことが分かる。科学的に比較的確かなのは、犬を飼う生活と歩行などの身体活動との間に関連が認められること、犬との散歩が人と人との接触機会を生み出す可能性があること、そして動物との暮らしを高齢者自身が役割や情緒的な支えとして受け止める場合があることまでである。一方で、ペットを飼っているというだけで生活満足度が高くなるという一貫した証拠はなく、猫については犬ほど身体活動との明確な関係も確認されていない。

 さらに、個人に対する効果と地域全体に対する効果を混同してはならない。ある高齢者が犬を飼うことで毎日外を歩くようになり、近所に顔見知りが増えたとしても、そのことだけから、その町の犬の飼育率を高めれば住民全体の生活満足度が上昇すると結論づけることはできない。地域全体への効果を確かめるには、ペットの飼育率だけでなく、高齢化率、独居率、所得、住宅環境、人口密度、交通手段、医療へのアクセス、地域活動への参加状況などを考慮しながら、複数の地域を長期間追跡する必要がある。

 したがって、この問題を地域政策として考えるなら、「犬や猫を増やす政策」ではなく、「犬や猫と暮らしたい人が安心して暮らし続けられる地域」をつくるという方向の方が現実的である。動物を好まない人や飼えない人にまでペットを勧める必要はないが、飼いたい人が年齢だけを理由に諦めなくてもよい仕組みを整え、散歩、通院、一時預かり、飼い主亡き後の引き取りまでを地域の生活支援として考えるなら、ペット政策は単なる動物愛護の話を越えて、高齢者の生活基盤の一部として扱える可能性が出てくる。

 人口減少をすぐに止めることは難しい。地方から若者が流出し、商店が減り、公共交通が縮小していく現実に対して、一匹の犬や猫が人口問題を解決してくれるわけでもなければ、地域経済を一変させるわけでもない。それでも、人口を増やすことだけを地域政策の成功と考える必要もないだろう。

 これからの地方では、「何人住んでいるか」と同時に、「そこに住んでいる人がどのように一日を過ごしているか」が今まで以上に重要になる。朝起きる理由があり、自分を待つ相手がいて、外へ出る用事があり、道端で誰かと言葉を交わし、夕方になればまた世話をする相手がいるという生活は、人口統計には表れにくいが、その土地で暮らし続けたいと思えるかどうかに関わっている。

 朝、玄関を開けると犬が先に外へ出て、飼い主がその後を歩き、少し先から別の犬を連れた人がやって来る。二人は犬同士が匂いを嗅いでいる間に昨日の雨の話をし、しばらくしてそれぞれ反対方向へ歩いていく。別の家では、高齢の飼い主が猫の餌を皿に入れ、「今日はよく食べるね」と声を掛ける。その散歩も会話も声掛けも、町の人口統計には一行も記録されない。

 けれども、人口が減っていく町を最後まで「暮らせる場所」にしているものは、人口の数字だけでは測れない。犬や猫を飼うということは、動物を家に置くことではなく、毎日餌を用意し、水を替え、歩き、掃除をし、病気を心配し、ときには人の助けを借りながら、その命と一緒に暮らし続ける行為である。

 科学はまだ、その行為が地方全体の生活満足度をどれほど高めるのかという問いに、明確な数値を示してはいない。それでも、犬との散歩が身体を外へ動かし、動物の世話が一日の中に役割をつくり、ときにはその動物が人と人との間に小さな接点を生み出すことについては、検討するだけの根拠がある。人口が減っても暮らしまで痩せ細らせないために、犬や猫と安心して暮らせる環境をつくることは、派手な地方創生策ではないが、高齢化する地域の生活の質を考える一つの現実的な選択肢なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方を歩いていると、ときどき時間だけが置き去りにされたような家に出会う。雨戸は閉じられ、庭木は少しずつ道路へ枝を伸ばし、かつて家族が出入りした玄関には人の気配がない。朝になればカーテンが開き、夕方には台所の明かりがともった家だったはずなのに、人が住まなくなった瞬間から、その家は生活を支える場所ではなく、固定資産税、草刈り、修繕、見回りといった費用や手間を所有者に要求する存在へと変わっていく。

 「空き家は負債だ」という言葉には、それなりの根拠がある。総務省の2023年住宅・土地統計調査では、全国の空き家は約900万戸に達し、空き家率は13.8%と過去最高になった。賃貸用や売却用、別荘などを除いた空き家も約385万戸に上り、もはや一部の過疎地域だけの特殊な問題とは言えない。さらに国土交通省の空き家所有者に関する調査を見ると、維持管理に年間数万円から十数万円以上を支出している所有者も珍しくなく、建物を使っていなくても費用は消えないという現実がある。

 売ろうとしても買い手がつかず、貸そうとしても借り手が現れず、解体しようとすればまとまった費用が必要になる。相続した所有者が遠方に住んでいれば、年に何度か様子を見に行くだけでも時間と交通費がかかり、屋根や外壁が傷めばさらに出費が増える。適切に管理されない状態が続き、自治体から一定の勧告を受ける段階に至れば、土地に対する固定資産税の住宅用地特例が受けられなくなる可能性まであるため、「何もしない」という選択にも費用とリスクがある。

 それでも、一つ考えてみたい。売れない家は、本当に「何の価値もない家」なのだろうか。

売却価格と利用価値は、同じものではない

 不動産の世界では、どうしても売却価格が価値の中心に置かれる。三千万円で売れる家と三百万円でも買い手がつかない家を比べれば、前者のほうが市場価値が高いことは疑いようがない。しかし、市場でいくらの値段がつくかということと、その場所が誰かの役に立つかということは、本来別の問題である。

 駅から遠く、築年数が古く、住宅としては人気がなくても、雨をしのげる屋根があり、荷物を置ける床があり、車を止められる土地があり、電気や水道が残っているなら、そこにはまだ機能が残っている。住宅として一千万円で売れないからといって、物を保管する場所としても、短時間作業する場所としても、まったく価値がないとは限らないのである。

 ここで重要なのは、「一戸建て住宅」という一つの完成品としてだけ建物を見ないことである。家には住むという機能のほかにも、物を保管する、作業する、車を置く、雨を避ける、短時間滞在する、誰かと会うといった複数の機能が重なっている。住宅市場では評価されなくなった家であっても、そのうち一つの機能だけなら誰かの不便を解消できる可能性がある。

 経済的に言えば、資産全体の市場価値が低いことと、そこに含まれる個々の機能の利用価値がゼロであることは同義ではない。売れないことと、役に立たないことは違うのである。

「家一軒」を売ろうとするから難しくなる

 地方の空き家問題では、「どうすればこの家を売れるか」「移住者に貸せないか」という議論が繰り返される。それ自体は必要だが、人口が減り、世帯数も縮小している地域では、住宅の供給数に対して居住需要そのものが足りないことがある。そのような地域で広告だけを工夫しても、すべての空き家に新しい居住者を見つけることはできない。

 そこで、「一軒の家を一人の新しい住民に使ってもらう」という発想から少し離れてみる。乾燥していて鍵が掛かる一室なら、資材や季節用品を置く場所として使えるかもしれない。車庫や庭に余裕があれば、道具や自転車などの保管場所として価値を感じる人がいる可能性もある。静かな部屋が残っていれば、毎日ではなく週に一度だけ仕事をする場所を欲しがる人がいるかもしれない。

 ただし、ここでは「いるはずだ」と決めつけてはいけない。月三千円なら借りる人がいる、月五千円なら物置として需要があるという数字は、全国どこでも通用する法則ではない。地域によって人口構成、所得、住宅の広さ、土地価格、道路事情、既存の貸倉庫の有無が異なるため、小さな利用需要が実際に存在するかどうかは、その地域ごとに調べなければならない。

 したがって、ここで述べる小口利用は「すでに成立している普遍的な市場」ではなく、「検証する価値のある仮説」と考えたほうがよい。

月三千円の価値を探す

 空き家活用という言葉には、ときに大きな成功を期待させる響きがある。古民家を改修して人気店にする、宿泊施設に変える、観光拠点にするといった事例は目を引くが、日本に存在する膨大な空き家のすべてを、そのような華やかな施設に変えることは現実的ではない。

 そこで考え方を変え、その家から月十万円を生み出せるかではなく、まず月三千円、五千円、一万円を払ってでも使いたい人がいるかを調べてみる。

 月三千円なら年間三万六千円、月五千円なら年間六万円、月一万円なら年間十二万円になる。これは不動産投資として見れば小さな数字だが、すでに所有していて、売却も難しく、維持費だけが発生している空き家なら意味は変わる。

 たとえば年間八万円の維持管理費がかかっている家から年間六万円の利用料が得られれば、それだけで負担のかなりの部分が軽くなる。ただし、ここから鍵の交換、保険、修繕、契約、清掃、募集、見回りといった追加費用が発生するため、六万円の収入がそのまま六万円の利益になるわけではない。

 空き家の小口利用を数理的に考えるなら、見るべきなのは単純な家賃ではなく、年間利用料に利用者が担う管理による費用削減を加え、そこから追加修繕費、保険料、募集費、契約費、管理費、空室による損失を差し引いた後に、どれだけ所有者の経済状態が改善するかである。

 つまり、この仕組みの成否を決めるのは「いくらで貸せるか」だけではなく、「一件の利用を成立させるための追加コストをどこまで小さくできるか」なのである。

一万円を稼がなくても、五千円損失を減らせればよい

 ここでは、空き家を収益物件に変えることだけを成功と考える必要はない。毎月一万円かかっていた負担を五千円まで減らせれば、所有者の家計は毎月五千円、年間では六万円改善する。

 これは一見地味だが、すでに売却が難しい資産を持っている人にとっては重要である。不動産投資では、物件価格に対してどれだけ賃料収入を得られるかが注目されるが、既存の空き家の場合、目的を「利益最大化」ではなく「負のキャッシュフローを縮小すること」と定めてもよい。

 たとえば利用者が定期的に出入りするため建物の異常に早く気づけるようになり、庭の一部を管理してくれ、さらに少額の利用料まで支払ってくれるなら、その経済効果は賃料だけでは測れない。空き家を立派な収益物件に変身させなくても、「負債としての速度を緩める」ことには十分な意味がある。

安ければ借りる、とは限らない

 ただし、月額料金を下げれば需要が必ず生まれるわけではない。

 月千円の物置でも、自宅から車で三十分離れているなら利用者にとって本当に安いとは言えない。往復の燃料代がかかり、一時間近く時間を使い、荷物を取りに行くたびに移動しなければならないからである。

 利用者が感じる実質的な負担は、月額料金だけではなく、交通費、移動時間、出入りのしにくさ、駐車のしやすさ、建物の安全性などを合わせたものになる。経済学的には、こうした金銭以外の負担まで含めて利用を判断するため、地方では価格以上に「距離」が需要を左右する場合がある。

 したがって、「安くすれば使う人が現れる」という単純な話ではない。その場所から何分圏内に利用候補者が存在し、その人が何のために、どの程度の頻度で場所を使うのかまで考えなければならない。

空き家の数より、困っている人の数を見る

 ここで、空き家活用を考えるうえで重要な逆転が起きる。

 多くの空き家対策では、「この地域には何軒の空き家があるか」という供給側の数字が先に語られる。しかし、商売として考えるなら、本当に知るべきなのは「場所がなくて困っている人が何人いるか」である。

 空き家が百軒あっても、利用したい人が一人しかいなければ市場はほとんど成立しない。一方、空き家が十軒しかなくても、周辺に資材置き場を求める小規模事業者や、趣味の作業場所を探している人、季節用品を保管する場所を欲しがる人などが一定数存在すれば、小さな市場が成立する可能性はある。

 国土交通省の空き家所有者に関する調査でも、賃貸や売却を考える所有者にとって、建物の傷みと並んで「借り手や買い手の少なさ」が大きな課題となっている。これは、空き家が存在すること自体が市場をつくるのではなく、その地域に有効な需要が存在して初めて取引が成立することを示している。

 空き家問題を商機として見るなら、空き家の戸数を数えるだけでは足りない。需要があり、支払う意思があり、現実的な距離の中に利用者がいて、さらに契約や管理の費用を支払っても収支が成立するかどうかまで確認する必要があるのである。

高額な改修から始める危うさ

 空き家再生の成功例として紹介される建物には、美しいものが多い。古い梁を生かした天井、広い土間、しゃれた照明、磨かれた木の床が写真に映れば、「空き家が生まれ変わった」という物語は分かりやすい。

 しかし、事業として見るなら、美しいことと採算が取れることは別である。

 市場価値が三百万円程度しかない地域の住宅に五百万円を投じて改修しても、それだけで物件価値が八百万円になるとは限らない。さらに店舗や施設として使うなら、改修費を回収できるだけの利用者と売上が必要になる。

 他の条件が同じなら、地域住民を主な顧客とする事業では、人口三千人の町と人口三十万人の都市で潜在的な顧客数には大きな差が生じる。ただし、観光客が大量に訪れる地域や、インターネットを通じて地域外から売上を得る事業などでは、地域人口だけでは需要を判断できないため、人口規模だけで事業性を決めることも危険である。

 だからこそ、地方の空き家では「きれいにする前に使い道を確かめる」という順番が大切になる。

 誰が使うのか分からないまま数百万円を投じるのではなく、「現在の状態ならいくらで使うか」「床を直せば使うのか」「電気があれば十分なのか」と利用候補者に確かめてから、必要な部分だけに資金を投じる。利用者が求めていない設備まで整えないことで、需要が外れた場合の損失を小さくすることができる。

 人口が減る地域で重要なのは、建物を豪華にすることではなく、需要が確認できるまで大きな固定費を抱えないことである。

空き家を商売にするのではなく、困りごとと結びつける

 ここに、小さな商機が生まれる可能性がある。

 所有者の側には、「売れない」「貸せない」「管理が面倒」という問題があり、利用者の側には、「倉庫を一棟借りるほどではないが少し場所が欲しい」「週に一度だけ作業できる場所があれば助かる」といった小さな需要が存在するかもしれない。

 この二つは、従来型の不動産市場では出会いにくい。月数千円程度の契約では、現地確認、募集、問い合わせ対応、契約書作成、鍵の受け渡しなどにかかる手間に対して、一件当たりの収益が小さくなりやすいからである。

 そのため、「大手企業には商売にならない」と単純に断定するより、従来型の仲介手数料を中心とした仕組みでは、小額契約ほど取引コストの比率が高くなりやすいと考えたほうが正確である。

 逆に言えば、契約や管理を標準化し、一人の担当者が近接した複数物件を扱い、一件当たりの管理時間を十分に減らせるなら、小さな需要を束ねる事業が成立する余地はある。ただし、これは理論上の可能性であり、実際に利益が出るかどうかは、地域ごとの物件密度、利用者密度、移動時間、管理時間などを測定しなければ判断できない。

「仲介すればよい」ほど簡単ではない

 もう一つ、空き家を使った小規模事業を考える際に忘れてはならないのが法制度である。

 空き家所有者と利用者を結びつけ、建物の貸借について反復継続して有償で代理や媒介を行う場合、その事業形態によっては宅地建物取引業法の対象となり、宅地建物取引業の免許が必要になる。

 したがって、「地域の空き家を見つけて利用者を紹介し、手数料を受け取ればよい」というほど単純ではない。実際に事業化するのであれば、宅地建物取引業者と連携するのか、自ら免許を取得する必要があるのか、あるいは別の契約構造にするのかを専門家と確認しなければならない。

 また、住宅として使われてきた建物を作業場、店舗、教室、宿泊施設などに変える場合には、用途や規模、場所によって建築基準法、都市計画法、消防関係法令、衛生関係の規制などが関係する場合がある。市街化調整区域のように土地利用に強い制約がある地域もあり、「空き家だから自由に使える」と考えるのは危険である。

 小さな商売であるほど、法律まで小さくなるわけではない。

「使わないほうがよい空き家」も確実に存在する

 ここまで読むと、どの空き家にも工夫すれば使い道があるように感じるかもしれない。しかし、現実には活用しないほうがよい家もある。

 構造上危険な建物、雨漏りや腐食が著しい建物、車両が入れない土地、権利関係が複雑な物件、相続人が多数存在して意思決定できない住宅などでは、小規模利用であっても費用やリスクが利用価値を上回る可能性が高い。

 仮に年間六万円の利用料が得られても、安全確保のために数十万円の修繕が必要なら、短期間では収支が合わない。さらに数年後に大規模修繕や解体が必要になるなら、利用を続けることで問題を先送りしているだけになることもある。

 空き家を活用すること自体を目的にしてはいけない。使う価値がある家は使い、使わないほうが合理的な家は撤去も含めて判断するという区別が必要である。

「家」ではなく、地域に余った場所として見る

 人口が増えていた時代には、土地も住宅も不足していた。家を建てるには土地を買い、事業を始めるには店舗を借り、商品を保管するには倉庫を契約しなければならず、場所そのものが希少な資源だった。

 ところが人口が減る地域では、その関係が少しずつ逆転する。人よりも場所のほうが余り始める。

 これは地域経済にとって深刻な問題である一方、場所を必要とする新しい仕事から見れば条件の変化でもある。都市では高い家賃が障害となって試せなかった小さな事業でも、場所の利用コストを極端に低くできれば試験的に始められる可能性がある。

 ただし、ここでも「空き家があるから何かを始める」という順番では弱い。まず地域にどのような不便があり、人が何に対してお金を払っているのかを調べ、その不便を解決するために場所が必要になったとき、初めて空き家を候補にすべきである。

 「空き家があるからカフェをやろう」ではなく、「継続的な需要が存在し、その需要を満たすには安い場所が必要だから空き家を使う」と考える。空き家を起点に商売を考えるのではなく、需要を起点に空き家を使うのである。

小さく使うという技術

 人口が減る社会では、すべての建物を現役の住宅として維持することは難しい。売れる家と売れない家の差は広がり、行政がすべてを買い取ることも、民間企業がすべてを再生することもできない。

 そうなると必要になるのは、「価値のある家を探す技術」だけではなく、「価値が大きく失われた家の中から、まだ残っている機能を拾い出す技術」ではないだろうか。

 一軒の住宅を一つの商品として見るのではなく、部屋、庭、車庫、屋根のある空間、電気の使える場所、短時間滞在できる空間という機能の集合として見る。その中の一つだけが地域の誰かの不便を解決するのであれば、完全に役割を失う前に、もう一度だけ使われる可能性が生まれる。

 もちろん、その仕組みが大きな産業になる保証はない。月数千円の利用者を探し、建物を確認し、安全性を確保し、契約を整え、所有者と利用者の間を調整する仕事は、手間の割に利益が小さい可能性がある。需要が薄い地域では、どれほど効率化しても採算が取れないこともある。

 それでも、空き家問題のすべてを「高額改修して再生するか、解体するか」という二択で考える必要はない。その間には、数年だけ使う、一室だけ使う、月に数回だけ使うという広い中間領域が残っている。

売れないことと、役に立たないことは同じではない

 空き家の前を通ると、私たちはつい、その家がいくらで売れるのかを想像する。しかし、百万円でも買い手が現れない家に市場価値がほとんどないことと、その場所が誰の役にも立たないことは同じではない。

 市場は、大きな需要を見つけることには向いているが、一人が月三千円だけ支払いたいという小さな需要を拾うことは必ずしも得意ではない。しかも、その需要が本当に存在するのかどうかは地域ごとに確かめなければならず、利用料よりも管理費や移動費が大きくなれば、事業としては成立しない。

 だからこそ、空き家活用に必要なのは希望的観測ではなく、小さな実験である。利用候補者が本当にいるのか、いくらなら払うのか、何分離れると利用しなくなるのか、年間の管理コストはいくらなのか、最低限の修繕にはいくら必要なのかを確かめ、その数字が合った物件だけを使えばよい。

 誰かの倉庫になり、誰かの作業場所になり、誰かが月に数度訪れる場所になる。それだけで空き家問題そのものが解決するわけではないし、老朽化した建物をいつまでも残す理由にもならない。役割を終えた建物はいずれ解体しなければならない。

 それでも、解体されるまでの十年間に、何の役割もないとは限らない。

 かつて家族の暮らしを支えた家が、最後には誰かの工具を雨から守る屋根になり、小さな仕事を始める部屋になり、所有者の維持費を年間数万円だけ軽くする場所になる。その程度の使われ方であっても、経済的な意味は残る。

 空き家の未来を考えるとき、私たちは「再生」か「解体」かという鮮やかな答えを求めがちである。しかし、人口が減っていく社会で本当に増えていくのは、その二つの間にある灰色の領域なのかもしれない。

 立派に生まれ変わらなくてもよいし、大きな利益を生み出さなくてもよい。ただ、実際の需要を確かめ、安全と法律を守り、投じる費用より得られる効果が大きい間だけ、小さく使う。

 人口減少社会で必要になるのは、すべての空き家を蘇らせる技術ではない。使える家と使えない家を冷静に分け、残された小さな価値を過大評価も過小評価もせず、最後まで使い切る技術なのではないだろうか。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方で新しい商売を考えるとき、多くの人は最初から数字を大きくしようとする。月商100万円、年商1000万円、いずれは従業員を雇い、法人化できる事業へ育てるという具合に、「起業」と呼ぶ以上は一定以上の規模が必要だと思ってしまう。しかし人口が減り、高齢化が進み、商店や生活サービスが少しずつ撤退している地域を見渡してみると、この考え方には都市の市場を前提とした思い込みが含まれていることに気づく。地方には月100万円にはならないが、月5万円なら成立する仕事があり、その規模が小さすぎるために企業からも起業家からも見過ごされていることがある。

 ここでいう月5万円とは、単なる売上高ではなく、交通費や消耗品費、通信費など事業に必要な経費を差し引いた後に残る「事業利益」を基本として考えたい。売上が5万円あっても、そこから2万円の経費が出ていけば残るのは3万円であり、「月5万円をつくった」とは言いにくいからである。月5万円だけで生活全体を支えることは現実的ではないが、年金や給与、別の仕事などと組み合わせる一つの収入源として考えれば年間60万円になるため、一人で始める小規模事業として無視できる数字ではない。

 さらに重要なのは、5万円という金額そのものではなく、その5万円を誰かが継続して支払っているという事実である。自分では価値があると思っているサービスでも、他人が一円も払わなければ事業にはならない。反対に、規模は小さくても毎月顧客が現れ、同じサービスに対して繰り返し代金が支払われているなら、そこには需要、価格、信用の三つが小さいながらも結び付いている。壮大な事業計画よりも、実際に毎月数万円の利益を生み続ける小商いの方が、商売としてはすでに一歩先へ進んでいる。

地方では「市場がない」のではなく、需要密度が低い

 地方では人口が少ないから商売が難しいと言われるが、この説明は半分だけ正しい。同じ半径の中に何万人も暮らす都市と、数千人しか暮らしていない地域では、店舗を構えて通行客や来店客を待つ商売の条件は大きく異なり、人口が少なければ広告を見て反応する人数も、店の前を通る人数も限られる。しかし一方で、人口が減る地域では顧客だけでなくサービスを提供する側も減っていくため、需要そのものが消えるというより、需要と供給の間に距離ができることがある。

 かつてなら町の電器店や商店、近所の人、家族や親戚が自然に引き受けていた小さな仕事が、人口減少や高齢化によって少しずつ宙に浮いていく。スマートフォンやパソコンの設定、空き家の確認、ちょっとした書類整理、事業記録の表計算化、庭仕事や修繕を頼める業者探しなど、一つ一つを見れば大きな産業にはならないが、当事者にとっては放置できない問題である。

 ただし、ここで「困っている人がいるから商売になる」と考えてはいけない。商売として成立するためには、困り事が存在するだけでなく、その問題をお金を払ってでも解決したいという支払意思と、実際にその金額を負担できる支払能力が必要になるからである。地方の小商いで見るべき数字は人口そのものではなく、困っている人のうち何人がお金を払って解決したいと思い、その人たちにどの程度の費用でサービスを届けられるかである。

2000世帯あっても、顧客は10人に満たないことがある

 例えば対象地域に2000世帯があったとして、そのサービスを一か月のうちに必要とする世帯が5%なら100世帯になる。しかし、そのうち有料でも頼みたいと考える人が30%なら30世帯に減り、さらに複数の選択肢の中から自分を選んでくれる割合が30%なら、実際の顧客は月9件程度にすぎない。人口2000世帯という数字だけを見れば十分な市場に思えるが、実際の商売では「困っている割合」「お金を払う割合」「自分が選ばれる割合」を順番に通過した人数しか顧客にはならない。

 逆に言えば、数千人しか住んでいない地域でも、特定の困り事が強く、既存のサービスがほとんどなく、適切な価格で解決できれば商売は成立し得る。地方で重要なのは巨大市場を探すことではなく、少人数でも支払意思の強い需要を見つけることであり、「みんなが少し欲しいもの」よりも「少人数がかなり困っていること」の方が、一人事業には向いている場合がある。

月5万円の利益をつくるには、売上は5万円では足りない

 月5万円という目標を現実の商売として考えるなら、売上と利益を混同しないことが重要になる。例えば一件5000円の訪問サービスを月10件行えば売上は5万円になるが、一件ごとに交通費や消耗品費が700円かかり、通信費や広告費などの固定費が月5000円必要なら、手元に残る利益は3万8000円程度にとどまる。

 この条件で月5万円の利益を残したいなら、必要な件数はおよそ13件になる。さらに車両費や道具の更新、決済手数料などが増えれば必要件数は多くなり、逆に材料費をほとんど使わない知識サービスなら少なくて済む。つまり「5000円の仕事を10件取れば月5万円」という計算は売上の説明としては正しいが、商売の現実を表すには不十分なのである。

 それでも月13件や15件程度なら、週に3件から4件ほどであるため、仕事の内容によっては一人で十分扱える件数になる。この「大量販売を必要としない」という点が小規模事業の特徴であり、中小企業に関する公的な分析でも、小規模企業は大企業や中規模企業に比べて必要な損益分岐点売上高が低く、比較的小さな商圏でも成立しやすいことが示されている。

一人だからこそ成立する価格がある

 同じ5000円の仕事でも、会社が受注する場合と一人事業者が受注する場合では採算が違う。会社なら営業、事務、管理、店舗や事務所、人件費など多くの固定費を負担しなければならず、一件5000円では採算が合わない仕事でも、自宅を拠点に一人で運営し、自分で予約を受け、自分でサービスを提供するなら成立することがある。

 これは一人起業の弱さではなく、小規模だからこそ持てる経済性である。大量の仕事を受ける能力はなくても、大企業が採算基準のために拾えない仕事を引き受けることはできる。地方では、この「市場としては小さすぎる」という条件そのものが、一人事業者にとって参入余地になる場合がある。

 ただし、小さいから競争がないとは限らない。競争相手が少ない地域は、それ以上に顧客も少ない可能性があるため、「競争が少ない=有望市場」と短絡することはできない。見るべきなのは競合企業の数ではなく、支払意思を持つ顧客数と、その顧客にサービスを提供した後にいくら残るかである。

地方では「件数」より「移動」が利益を決めることがある

 地方の小商いでは、都市以上に無視できないのが移動時間である。顧客が月15人いても、その15人が半径数キロメートルに集中しているのか、30キロメートル四方に散らばっているのかでは事業の効率がまったく違う。地方は人口密度が低いため、顧客数だけで市場規模を判断すると、売上は確保できてもほとんどの時間を車の中で過ごす商売になりかねない。

 例えば一件のサービス料金が5000円で、作業そのものは1時間でも、往復の移動に1時間、予約や会計、連絡に30分かかれば、一件のために2時間半を使うことになる。月16件なら40時間となり、月5万円の利益を生んだとしても、時間当たりの利益は1250円程度にしかならない。反対に、顧客を同じ地域の同じ曜日にまとめ、移動と事務処理を含めた拘束時間を一件1時間15分まで縮められれば、同じ月5万円でも20時間程度で生み出せるため、時間当たりの利益は2500円になる。

 したがって、一人起業で本当に重要なのは「月にいくら売れるか」だけではない。「その利益を何時間で生み出したか」という視点が必要であり、地方では特に、移動距離と顧客密度が採算を左右する。

売れるのは新しいものとは限らない

 起業という言葉には、これまで世の中になかった新しいサービスを作らなければならないような印象がある。しかし地方で生まれる商機は、必ずしも革新的な発明から生まれるわけではない。むしろ「以前は誰かがやってくれたが、今は頼める人がいない」という仕事の方が現実的な場合がある。

 高齢化が進めば、以前なら簡単にできた作業が難しくなる人が増える。行政や銀行、買い物がオンライン化すれば便利になる一方、その操作を理解できない人も生まれ、店舗や窓口が減れば、サービスそのものは存在していても利用するための障壁が高くなる。人口減少とは単に人数が減る現象ではなく、かつて家族、近所、商店、地域組織が無償あるいは低価格で吸収していた細かな仕事の担い手が失われていく現象でもある。

 農林水産行政でも、高齢者を中心として食料品店へのアクセスが困難になる問題が長く調査されており、生活サービスへのアクセス低下が一部の地域だけの特殊な問題ではないことは明らかになっている。だからこそ、人口減少地域では「新しい需要を無理に作る」よりも、「すでに存在しているが供給されていない需要」を探す方が合理的な場合がある。

地方の商売では、信用が資産になる

 小さな地域で新しいサービスを始めたとき、最初の顧客を獲得することは簡単ではない。知らない人を自宅に入れる、パソコンを操作してもらう、書類を預けるといった仕事では、料金以前に「この人に任せても大丈夫か」という問題があるからである。

 小規模企業に関する公的調査でも、多くの事業者が「顧客との信頼関係」や「地域への密着」を自社の強みとして挙げている。地方圏の小規模事業では、価格や設備だけではなく、顧客との距離の近さや継続したコミュニケーションそのものが競争力になり得る。

 ただし、「口コミさえあれば広告はいらない」と考えるのも危険である。信用は事業開始と同時に存在するものではなく、一件ずつ仕事を積み重ねることで初めて形成されるため、最初の数人をどう獲得するかという問題は残る。それでも、一度頼んだ人が再び利用し、その人の紹介から次の顧客につながるようになれば、新規顧客を毎月ゼロから探す必要は少なくなり、一人事業としてはかなり安定した形に近づいていく。

固定客10人は強みであると同時に弱点でもある

 少人数の固定客から繰り返し頼まれる商売は、一人事業との相性がよい。毎月1000人の新規顧客を探すより、10人や20人の顧客が繰り返し利用してくれる方が営業負担は小さくなり、相手の事情も理解できるため仕事も効率化しやすい。

 しかし、ここにも小規模事業特有の弱さがある。顧客10人で売上を支えている商売なら、一人を失っただけで売上は10%減少するからである。大勢の顧客を持つ企業より必要売上高は低くても、少人数への依存度が高いため、顧客喪失への耐性が強いとは限らない。

 実際、小規模企業は損益分岐点となる売上高そのものは低い一方で、現在の売上に対してどの程度余裕があるかを見ると必ずしも安全とは言えないことが、公的な企業分析でも指摘されている。つまり「小さく始めれば安全」なのではなく、「小さく始められるが、数人の顧客を失う影響は大きい」と考えた方が現実に近い。

「5万円で終わる商売」と「5万円から育つ商売」

 同じ月5万円の利益でも、その中身によって事業としての価値は大きく違う。月100時間働いて5万円しか残らない仕事なら、時間当たりの収益は低く、続けるほど疲弊する可能性がある。一方、月20時間程度で5万円を生み、同じ顧客から繰り返し依頼が入り、徐々に作業時間が短くなっているなら、その仕事にはかなり違った意味がある。

 したがって確認すべきなのは、売上や利益の額だけではなく、時間当たり利益、再利用率、継続率、移動距離、顧客一人への依存度である。一度作った説明資料を次の顧客にも利用する、同じ地域の依頼を一日にまとめる、毎回同じ作業が発生するなら定額サービスに変えるなど、小さな改善を積み重ねることで、一時間働いたら一時間分しか売上が発生しない状態から少しずつ離れることもできる。

 ここまで進めば、月5万円は単なる副収入ではなく、小さな事業モデルが機能している証拠になってくる。

月5万円は、暮らしの選択肢を一つ増やす

 月5万円だけで生活することは難しいが、年間では60万円になる。年金生活者なら生活費の一部を補うことができ、会社員なら副業収入になり、退職を控えた人なら会社を離れた後も続けられる仕事を試す期間にもなる。

 一つの仕事だけで月20万円を作ることが難しくても、月3万円、5万円、7万円になる仕事を複数持つという考え方なら現実味を持つ場合がある。ただし、収入源を増やせば必ず安全になるわけではなく、それぞれに営業、会計、顧客対応が必要になるため、仕事を増やし過ぎれば管理コストも増える。分散すること自体が目的ではなく、性質の異なる小さな収入源を無理なく維持できるかどうかを見る必要がある。

 人口が減る地方では、一つの仕事だけで十分な需要量を確保できないことも多い。だからこそ、地域内の小さな仕事と、地域外から受けられる仕事を組み合わせる考え方には合理性がある。地域の需要だけに依存せず、かといって地域を捨てるわけでもなく、複数の小さな市場に足場を置くという働き方である。

「小さすぎるから誰もやらない」が空白をつくる

 地方には、ときどき奇妙な空白が生まれる。住民は困っているのに事業者がいない。需要はあるのに市場として認識されず、誰も参入しない。その理由の一つは、一件当たりの金額も地域全体の市場規模も、大きな企業にとっては小さすぎるからである。

 年間数十万円しか売上にならない地域に、企業が新たな支店や担当者を置くことは難しい。しかし、その地域に暮らす一人の事業者なら条件は違う。自宅から10分の場所に顧客がいて、すでに持っている知識や道具を利用でき、月に十数件の依頼で利益が残るなら、その市場は決して小さすぎるとは限らない。

 つまり市場規模は絶対的なものではない。年間100万円の市場は大企業には無意味でも、一人の人間にとっては意味を持つ。地方で「小さすぎる商売」を考える価値は、この市場規模と事業規模の組み合わせにある。

大きくすることより、無理なく消えないこと

 起業の成功は、しばしば成長と同じ意味で語られる。売上を増やし、従業員を雇い、店舗を増やし、営業地域を広げることが成功だと考えられやすい。しかし、一人で行う地方の小商いでは、別の成功の形があってもよい。

 10年間無理なく続けられ、毎月数万円でも利益が残り、顧客から繰り返し頼まれ、本人の時間や健康を損なわないのであれば、売上規模だけでは測れない価値がある。逆に売上を追うあまり遠方まで車を走らせ、安い仕事を大量に引き受け、月商だけは増えているのに利益も自由時間も残らなくなれば、その事業は成長しているように見えて、生活としては悪化しているかもしれない。

 地方で月5万円をつくる商売の核心は、大きな市場を探すことではない。困っている人が実際に存在し、その人に支払意思があり、適切な価格を設定でき、移動や経費を差し引いて利益が残り、それを無理のない時間で提供できるかを確かめることである。この条件がそろえば、顧客が十数人しかいなくても商売は成立し得るし、逆に人口が何万人いても支払意思がなければ商売にはならない。

 月5万円は、起業の最終目標として見れば小さい。しかし何もなかった場所から、自分の知識や経験を使い、顧客の困り事を解決することで毎月5万円の利益が生まれているなら、その数字の意味は決して小さくない。そこには需要があり、支払意思があり、価格があり、信用があり、そしてもう一度頼みたいと思う人がいる。

 大企業から見れば小さすぎる市場でも、一人の暮らしから見れば十分な市場になることがある。地方では、その尺度の違いそのものが商機になる。誰にも拾われなかった小さな需要を十数件集め、それを無理なく毎月繰り返せる仕組みに変えることは、華々しい起業物語にはならないかもしれない。しかし、一人の暮らしを少し支え、地域の十数人の不便を減らし、それが何年も続いていくのであれば、それは人口減少時代の地方において、むしろ非常に現実的な商売の姿なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 山の斜面に沿うようにつくられた墓地へ行くと、墓石の新しさよりも、足元の草の伸び方に目が向くことがある。よく手入れされた墓の隣に、しばらく誰も訪れていないらしい墓があり、そのさらに隣には花立てだけが妙に新しい墓がある。墓地という場所は一見すると変化の少ない空間だが、よく見れば、そこには町の人口移動や家族構成の変化が静かに刻まれている。

 かつて墓は、そこに住み続ける家族が守ることを前提にできた。子どもが同じ町に残り、盆や彼岸になれば親族が集まり、誰かが草を刈り、誰かが花を替える。その役割はサービスとして購入するものではなく、家族の生活の一部として受け継がれていた。しかし人口が減り、若い世代が都市へ移り、結婚や就職によって家族が全国に散らばるようになると、この仕組みそのものが成り立ちにくくなる。

 ここで重要なのは、「墓を大切にしたい気持ち」が消えたわけではないということだ。問題になっているのは、気持ちではなく距離と時間である。東京で暮らす70代の夫婦が、房総半島や東北、九州の実家の墓まで年に何度も出かけることは簡単ではなく、本人が80代になれば、電車を乗り継ぎ、坂道を歩き、暑さの中で草取りをすること自体が負担になる。その子ども世代まで時間が進めば、墓の正確な場所や管理する寺院の名前さえ十分に知らないということも起こり得る。

 こうした変化から生まれたサービスの一つが墓参り代行である。依頼を受けた事業者が墓地へ行き、墓石を清掃し、草を取り、花や線香を供え、作業後の写真を送るという仕組みはすでに存在している。ただし、人口減少地域を新しい商いの視点から眺めるなら、墓参り代行は完成形ではなく、むしろ入口として考えた方がよい。

 なぜなら、遠方に住む家族が本当に困るのは、「今年の盆に墓参りへ行けない」という一回の問題だけではないからである。本当の不安は、この墓をこれから10年、20年、誰が見ていくのかという時間の問題にある。墓石が傾いていないか、雑草が周囲まで広がっていないか、寺や霊園から連絡が来ていないか、管理料の支払いはどうなっているのか、そして自分が亡くなったあと、この墓を誰が引き継ぎ、あるいはどう終えるのかまで考え始めると、必要になるのは単なる「墓参りの代理」ではなく、「離れた場所にある家族の墓を継続して見守る存在」へと変わっていく。

 ここから、墓参り代行の次に生まれるサービスが見えてくる。それは墓を掃除する仕事ではなく、墓の状態を継続して確認し、その変化を記録し、必要なときには次の対応へつなぐ仕事である。

 たとえば年に数回墓地を巡回し、墓石、外柵、花立て、雑草、周囲の樹木などを確認して写真を残す。台風や大雨のあとには、希望する顧客から追加依頼を受けて異常がないか確認し、修繕が必要であれば石材店や寺院への相談につなぐ。依頼者は遠く離れた自宅にいながら、自分の家の墓がどのような状態になっているのかを知ることができるため、このとき顧客が買っているのは「掃除そのもの」より、「知らない間に墓が荒れているかもしれない」という不安を減らす機能だと考えた方が近い。

採算を決めるのは、単価よりも移動と集約である

 このサービスを商売として見るなら、最初に注意しなければならないのは、墓参り代行が見た目ほど簡単に利益を残せる仕事ではないという点である。大掛かりな店舗や高価な機械がなくても始められる一方、地方の訪問サービスでは、作業時間そのものよりも「何も売上を生んでいない移動時間」が利益を削るからである。

 仮に、一件の簡易な現地確認を5,000円で引き受け、墓地まで片道30分、現地確認と軽い清掃に40分、写真整理と報告に20分、帰路に30分かかったとすると、一件の仕事に合計2時間を使うことになる。この場合、経費を差し引く前の時間当たり売上は2,500円であり、ここからガソリン代、車両費、清掃用品、通信費、保険、事務作業などを負担しなければならないため、5,000円という価格は、注文が入れば売上にはなるものの、それだけで十分な利益が残る水準とは限らない。

 さらに注意したいのは、5,000円という数字が墓参り代行全体の標準価格を意味するわけではないことである。簡易な現地確認なら数千円台も考えられる一方、草取り、墓石清掃、供花、線香、写真報告まで含むサービスでは、一件当たり1万円前後あるいはそれ以上の価格になることもある。そのため採算を論じるときには、「墓参り代行は一回5,000円である」と固定するのではなく、作業範囲によって価格も必要時間も変わるサービスとして考える必要がある。

 それでも、同じ墓地に複数の契約者が集まれば採算が改善するという考え方そのものは、数理的にかなり強い。先ほどの条件をそのまま使い、一件当たり現地作業と報告に合計1時間かかるとすると、一件だけなら往復移動1時間を含めて合計2時間必要になるが、同じ墓地で二件を処理すれば合計3時間、五件なら合計6時間となる。このとき一件5,000円なら、一件だけでは売上5,000円を2時間で割って時間当たり2,500円、二件なら売上1万円を3時間で割って約3,333円、五件なら売上2万5,000円を6時間で割って約4,167円となり、同じ墓地に顧客が集まるほど共通の移動時間を複数の契約で分担できる効果が現れる。

 ただし、この効果には明確な上限がある。一件ごとの作業時間そのものは消えないため、顧客数を増やせば時間当たり売上が無限に高くなるわけではない。先ほどの条件では、顧客数が増えるにつれて共通移動時間の影響が小さくなり、時間当たり売上は一件当たり単価である5,000円に近づいていくが、それを超えることはない。したがって、共通の移動時間だけが薄まり、個別作業時間は必ず残るという構造で考える必要がある。

 ここから、この商売で見るべき数字が変わってくる。単純な契約者数より重要なのは、一つの墓地に平均何件の契約が集まるのかという「墓地単位の集約度」である。人口が少ない町だから事業が成立しないとは限らず、町内にいくつかの大きな墓地があり、そこに都市部へ転出した家族の墓がまとまっているなら、一回の巡回で複数件を処理できる可能性がある。反対に、契約者が20人いても墓地が広い地域に散らばり、それぞれ長時間の移動が必要なら、契約者数だけを見て「顧客が増えた」と判断することはできない。

年間契約は安定には効くが、利益率まで自動的に高めるわけではない

 墓参りには季節性がある。盆や彼岸の前には依頼が集中しても、それ以外の時期には仕事が少なくなる可能性があるため、一件ごとの依頼だけを待つ経営では年間売上を読みづらい。そこで有効になるのが年間契約だが、年間契約には長所と同時に注意点もある。

 ここでは一例として、年四回の状態確認と年二回の簡易清掃を組み合わせ、年間六回訪問する契約を考えてみる。台風や大雨のあとの緊急確認まで定額料金に無制限で含めると年間の訪問回数が事前に読めなくなるため、災害後の特別確認は追加料金とした方が、事業者にとっても顧客にとっても料金体系が分かりやすい。

 年間料金を仮に3万円とすると、年間六回の予定訪問だけで単純平均すれば一回当たり売上は5,000円になる。ただし、四回の状態確認と二回の簡易清掃では作業量が異なるため、一回当たり5,000円という数字だけで採算を判断するのは適切ではない。年間全体で何時間の作業が必要になるかを見る必要がある。

 そこで、状態確認一回につき現地30分と報告15分の計45分、簡易清掃一回につき現地60分と報告15分の計75分かかると仮定する。年四回の状態確認には合計3時間、年二回の簡易清掃には合計2時間30分が必要になるため、一契約当たりの年間直接作業時間は合計5時間30分となる。

 事業者自身の労働時間を一時間2,000円で評価すれば、年間直接人件費は1万1,000円になる。さらに清掃用品などの年間消耗品費を1,500円と仮定すると、移動費を除いた一契約当たりの年間直接費は1万2,500円となる。

 次に移動を考える。一回の墓地への往復について、移動時間に相当する人件費と燃料・車両費を合わせて2,800円かかると仮定すれば、年間六回の訪問に必要な共通移動費は1万6,800円となる。ただし、この1万6,800円は同じ墓地に複数の契約者がいれば分担できる。

 一つの墓地に一件しか契約がない場合、一件当たり年間費用は1万2,500円に1万6,800円を加えた2万9,300円となり、年間売上3万円から差し引くと残るのは700円にすぎない。二件なら移動費を二件で分けられるため、一件当たり費用は2万900円、残額は9,100円となり、五件なら一件当たり費用は1万5,860円、残額は1万4,140円、十件なら一件当たり費用は1万4,180円、残額は1万5,820円となる。

 もちろん、この残額はそのまま事業者の利益ではない。ここから広告費、通信費、保険料、決済手数料、会計費用、車両の減価償却、契約管理などの間接費を負担する必要がある。それでも、この試算からは、一墓地一件では採算が極めて厳しく、同じ墓地に複数件の契約を集めることによって初めて事業としての余裕が生まれるという構造が見えてくる。

 重要なのは、これらの数字が墓参り代行業界の平均実績を示したものではなく、一定の条件を置いた感度分析だということである。実際の価格、作業時間、移動距離、車両費、清掃範囲によって結果は変化するため、この数字そのものよりも「どの変数が利益を左右するのか」を見ることに意味がある。

「100件で300万円」という数字だけでは、事業性は判断できない

 年間3万円の契約者が100件いれば年間売上は300万円になる。この計算自体は正しいが、その数字だけで事業が成立するかどうかは判断できない。

 同じ100件でも、十か所の墓地に平均十件ずつ集まっている場合と、百か所の墓地に一件ずつ散らばっている場合では、必要な移動回数がまったく違う。仮に一件当たり年六回訪問するとすれば、契約単位では年間延べ600件分の作業が発生するが、一回の巡回で平均五件をまとめて処理できれば、必要な墓地訪問は年間120回となり、月平均では10回程度になる。

 一方、一回の巡回で平均1.5件しか処理できなければ、600件分の作業を1.5件ずつ処理するため、墓地訪問は年間400回になる。同じ年間売上300万円でも、前者と後者では移動に必要な時間と車両費が大きく異なるため、事業の採算性もまったく違ってくる。

 そのため事業計画で本当に見るべきなのは、「100件集める」という数字ではなく、年間契約件数、年間訪問回数、一巡回当たり平均処理件数、平均移動時間、一件当たり作業時間を組み合わせた運営構造である。墓地単位で仕事をまとめられるなら比較的少ない契約数でも効率が上がるが、顧客が広域に散らばれば、件数が増えるほど忙しくなるのに利益が残らないということも起こり得る。

継続率は重要だが、高い更新率を当然視してはいけない

 この事業では継続契約が増えるほど新規営業の負担が下がるため、更新率は非常に重要な指標になる。しかし、「毎年九割程度の顧客が継続する」といった数字を、実績の裏付けなしに当然の前提とするのは危険である。

 たとえば年間継続率が90%なら翌年には100件中90件が残るが、80%なら80件、70%なら70件しか残らない。契約数を100件に維持しようとすれば、それぞれ年間10件、20件、30件の新規契約を獲得しなければならず、継続率が10ポイント違うだけでも営業負担は大きく変わる。

 したがって、高い更新率を実現できれば経営が安定するという方向性は正しいものの、「墓管理だから自然に更新率が高くなる」と考えることはできない。実際に何%が翌年も契約するのかは、事業を始めたあとに検証すべき重要な数字である。

 その意味で、この事業の本当の資産は清掃道具でも車でもなく、特定地域に積み上がった継続契約と、それぞれの墓について蓄積された記録である。毎回同じ角度から墓石を撮影しておけば、ひび割れや傾きの変化を確認でき、雑草の状態や補修履歴、寺院や霊園からの連絡事項まで残していけば、その事業者は単なる清掃業者ではなく、その墓の経過を最もよく知る外部管理者になっていく。

低価格競争を避けるには、「掃除」以外の価値が必要になる

 墓石を洗い、草を取り、花を供え、写真を送るだけなら、利用者から見た事業者の違いは小さくなり、最終的には価格競争へ向かいやすい。ところが、数年間の記録が残り、「昨年よりここに細いひびが増えている」「この時期は草が伸びやすい」「前回は石材店にこの補修を依頼した」といった情報まで蓄積されれば、サービスの価値は清掃作業そのものから離れていく。

 この差は大きい。安い業者が新しく現れたとしても、何年間も状態を記録し、自分の家の事情や寺院との関係を理解している事業者を簡単に変更するとは限らないため、継続性が生まれやすくなる。価格ではなく「自分の墓について誰が最もよく分かっているか」が選択理由になれば、地域密着型事業者が大きな会社に対して持てる優位性も見えてくる。

次の商機は、墓を売ることではなく、次の問題へつなぐことにある

 ただし、墓の管理だけで十分な市場規模を確保できるとは限らない。墓を自分で管理する人もいれば、寺院が管理サービスを提供している地域もあり、将来的に墓じまいが進めば管理対象そのものが減る可能性もある。そのため、「高齢化するから墓管理市場は必ず拡大する」と単純化するのは適切ではない。

 むしろ長期的には、墓を入口として家族が抱える別の問題へ自然につながっていくことに意味がある。墓を管理している顧客から、「実家も空き家になっている」「仏壇をどうすればよいかわからない」「子どもは墓を継がないと言っている」「墓じまいについて誰に相談すればよいかわからない」といった話が出てくれば、空き家管理、家財整理、墓じまいの準備、寺院や石材店への連絡補助など、別の困りごとが見えてくる。

 ここで大切なのは、自社ですべてを施工しようとしないことである。石材工事を自分で行う必要もなく、法律や税務に関する専門判断まで抱え込む必要もない。地域の石材店、寺院、行政書士など、それぞれの分野を担当できる人へつなぐ調整役になるだけでも価値は生まれる。小規模事業者が何でも自前で抱えれば、設備投資と固定費が増え、かえって採算を悪化させる可能性があるからである。

広告より、地域内の紹介経路が重要になる可能性が高い

 墓というものには、一般的な家事代行とは違う難しさがある。依頼者にとって墓は単なる石ではなく、家族の記憶や宗教観、感情と結びついているため、広告を見ただけで知らない事業者へすぐ任せるとは限らない。

 そのため、年間3万円の契約を得るために高額な広告費を使えば、初年度の利益がほとんど消えてしまう可能性がある。むしろ寺院、石材店、葬祭事業者、不動産事業者など、すでに地域で信頼を持っている人から紹介される仕組みの方が相性はよい。ただし、これらの事業者の仕事を奪うような入り方をすれば紹介は生まれないため、自分は現地確認や依頼者との連絡を担当し、専門的な施工や宗教的手続きは既存の専門家へ渡すという役割分担が必要になる。

「小さい市場だから儲かる」とは限らない

 人口減少地域の商機を考えるとき、「大企業には小さすぎ、一人で営むには十分な市場」という表現には魅力があるが、これは条件付きでしか成立しない。市場が小さいということは、大企業が参入しにくいという利点と同時に、そもそも十分な顧客が存在しないという欠点も意味するからである。

 したがって、小規模事業者に向く市場とは、単に人口が少ない市場ではない。一定の支払意思を持つ顧客が特定の墓地や地域にある程度まとまり、大手企業が店舗や人員を配置するほどの規模ではない一方、一人あるいは少人数の事業者には十分な売上が見込める場合に初めて、地域型のニッチ市場として成立する。

 この条件を満たすかどうかは、地域ごとに調べなければわからない。墓地の数、区画数、都市部へ転出した世帯の割合、寺院や霊園がすでに提供しているサービス、現在の管理状況、価格に対する支払意思などを確認しなければ、本当の市場規模は見えてこない。つまり、この事業は「高齢化している町だから成立する」のではなく、「困っている人が一定数いて、その人たちが一定の価格を払い、しかも効率よく訪問できる場所に集まっている」という複数の条件が重なったときに初めて成立するのである。

墓の記録は、やがて家族の記録へ変わっていく

 この仕事は、やがて「墓の状態を記録するサービス」から、「家族の記憶を整理するサービス」へ発展する可能性もある。墓石には亡くなった人の名前や年月日が刻まれているが、その人がどのような人物で、現在の家族とどのようにつながっているのかまでは残らない。親が亡くれ、叔父や叔母が亡くれ、墓について詳しく知る人がいなくなると、墓石だけが残り、そこに眠る人と現在の家族との関係がわからなくなることもある。

 そこで、墓の所在地、墓石の写真、刻まれている名前、建立時期、管理する寺院や霊園、親族関係などを整理し、家族へ渡すサービスが考えられる。これは華やかなデジタル事業ではないが、「父が元気なうちに実家の墓について整理しておきたい」と考える人にとっては現実的な価値を持つ可能性があり、家系図まで大げさに作らなくても、最低限の情報を冊子や電子データとして残すだけで、次の世代が困る可能性を減らすことができる。

 さらに時間が進めば、問題は「墓を守る」ことから「墓をどう終えるか」へ移っていく。墓じまいを考え始めても、寺院、霊園、石材店、行政、親族など複数の関係者が登場し、何から始めればよいのかわからない人は少なくない。遠方に住んでいれば現地で相談すること自体が難しいため、依頼者の代わりに現地を確認し、必要な作業を整理し、適切な専門家へつなぐ「墓の相談窓口」という役割も考えられる。

 ここまで来ると、この仕事は墓石の清掃業からかなり離れ、高齢社会における家族資産の遠隔管理へ近づいていく。空き家管理と墓地管理は一見すると別の仕事に見えるが、遠方にある家族の資産を定期的に確認するという点ではよく似ており、実家、墓、仏壇、寺院との連絡などをまとめて扱うサービスへ発展する可能性もある。ただし、それが実際に事業として成立するかどうかは、需要の存在だけではなく、顧客がどこまでお金を払うのかを確かめなければ判断できない。

人口減少は、「家族が無償でしていた仕事」が市場へ出てくる現象でもある

 人口が減少する地域では、店が減り、交通が減り、仕事も減っていくため、地域経済について語るとどうしても悲観的な話になりやすい。しかし人口減少とは、単に人が少なくなる現象ではなく、これまで家族の内部で無償に近い形で処理されていた仕事を担当する人がいなくなる現象でもある。

 親の様子を見る人がいなくなれば見守りサービスが必要になり、庭を手入れする人がいなくなれば草刈りサービスが生まれ、買い物へ行く人がいなくなれば配送サービスが必要になる。同じように、墓を守る人がいなくなれば、その役割の一部を地域の誰かが引き受ける余地が生まれるため、人口減少地域で新しい商売を探すときには、「まだ誰も思いついていない画期的な商品」より、「これまで家族が黙って引き受けていた仕事のうち、これから誰もできなくなるもの」を探した方が現実的なのかもしれない。

 ただし、そこに困りごとがあるからといって、すぐに市場になるわけではない。困っている人がいても、自分で解決する人、親族に頼む人、寺院へ相談する人、何もしない人もいるため、「困っている人数」と「お金を払ってサービスを買う人数」は一致しない。事業として成立するかどうかを判断するには、その間にある支払意思を確かめる必要がある。

 したがって、この墓管理サービスを「これから必ず伸びる市場」と断定することはできない。一方で、墓の承継や管理が難しくなる社会背景は現実に存在し、地理的に顧客を集約できれば採算が改善することも数理的には説明できるため、少なくとも検討に値する事業仮説ではある。

 十年後、地方の墓地を歩けば、今以上に空いている区画や管理されていない墓が目立つようになるかもしれない。しかし、その風景を単なる衰退として見るだけでは、地域でこれから必要になる仕事は見えてこない。誰も来なくなった墓の向こう側には、遠く離れた町でその墓を気にしながら、自分では簡単に行くことのできない家族がいる可能性がある。

 その距離を埋める仕事に商機があるとしても、成立条件は厳しい。高い料金をつければよいわけでも、契約数だけを増やせばよいわけでもなく、同じ墓地に顧客を集め、移動を減らし、年間契約を無理のない頻度で設計し、長く付き合える関係をつくる必要がある。それができなければ、墓参り代行は善意に近い便利屋仕事のまま終わる可能性があり、逆にこの条件を丁寧に積み上げることができれば、小さくても持続する地域サービスになる余地がある。

 墓地に生える一本の草は、人口減少そのものを表しているのではない。それは、これまで家族の中で処理されていた役割が、少しずつ担い手を失っていることを知らせる兆候である。その兆候を見て、「誰もいなくなる」と嘆くだけではなく、「では、この仕事を誰が引き受けるのか」と問い直したところから、過疎地の新しい商いは始まる。ただし、その答えは希望だけでは完成せず、需要、支払意思、移動時間、顧客密度、継続率という冷静な数字を通過して初めて、現実の事業へ変わるのである。

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