リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 外国文学を読み直していて、奇妙な感覚に襲われることがある。以前に読んだはずの小説なのに、どこか違うのである。登場人物の名前も同じなら、起こる事件も同じで、物語の結末まで変わっていない。それなのに主人公が以前より饒舌に感じられたり、恋愛の場面が妙に生々しくなったり、かつては重苦しかった作品が意外なほど軽快に読めたりする。そこで表紙や奥付を確かめてみると、翻訳者の名前が違っている。

 この瞬間、外国文学を読むという行為の少し不思議な正体が見えてくる。私たちはドストエフスキーを読み、カフカを読み、ヘミングウェイを読んでいると思っている。しかし日本語で作品を読んでいる限り、実際に目の前に並んでいる日本語の文章を書いたのは原作者その人ではない。原作者の文章を読み取り、それを別の言語体系の中で組み立て直した翻訳者が、読者と原作者の間にいる。

 それなら翻訳者が変わったとき、私たちは本当に「同じ作品」を読んでいるのだろうか。この問いは単なる言葉遊びではない。翻訳研究や文体研究を見ても、翻訳者ごとの語彙や文章構造の違いは実際に分析できることが分かっており、一方で、それだけを理由に別作品だと言い切ることもできない。問題は、「作品の何を同じと考えるのか」にある。

物語は同じなのに、声が違う

 小説を筋書きとして考えるなら、翻訳者が変わっても作品はかなりの部分で同じである。青年が故郷を離れ、誰かと出会い、事件が起こり、別れが訪れるという出来事の順序は通常変わらず、登場人物の関係も舞台も結末も基本的には保存される。物語の骨格という点では、二つの翻訳は明らかに同じ原作に属している。

 しかし、小説を読む楽しみは筋書きだけにあるわけではない。もし出来事の順序さえ分かれば作品を読んだことになるのなら、数百ページの小説を数ページのあらすじに縮めても、ほぼ同じ読書体験が得られるはずである。実際にはそうならないのは、私たちが小説の中で受け取っているものの相当な部分が、「何が書かれているか」だけではなく、「どのように書かれているか」に宿っているからである。

 たとえば、ある人物が相手からの申し出を拒絶する場面を考えてみる。「嫌だ」「いやです」「お断りします」「そんなことはできません」「冗談じゃない」と訳せば、伝えている中心的な意味は似ていても、人物の年齢、性格、社会的距離、感情の強さは少しずつ違って見える。同じ場面を読んでいるはずなのに、読者の頭の中に立ち上がる人物像は完全には一致しない。

 しかも違いは単語の選択だけではない。一文を長く保つか短く区切るか、主語を明示するか省略するか、敬語を使うか、句読点をどこに置くかによって、文章の呼吸そのものが変わる。翻訳研究では、こうした語彙や文体上の特徴を数量的に調べ、翻訳者ごとの傾向を検出しようとする研究も行われている。つまり「翻訳者によって文章の感じが違う」という経験は、単なる気分の問題ではなく、ある程度は実際の言語的特徴として捉えることができる。

 もっとも、ここで注意しなければならないのは、訳文が翻訳者だけの文体になるわけではないということである。そこには原作者の文章の特徴があり、原語と日本語の違いがあり、翻訳された時代の言語感覚があり、出版社や編集方針の影響も加わる。そのため訳文とは、原作者の特徴と翻訳者の特徴が単純に入れ替わるのではなく、複数の要因が重なった結果として生まれる文章だと考えるほうが実態に近い。

翻訳者は透明なガラスではない

 翻訳について語るとき、翻訳者は原作者と読者の間に置かれた透明なガラスのように考えられることがある。理想的な翻訳とは翻訳者自身の存在を消し、原文をそのまま読者へ届けることだ、という考え方である。しかし、言語が違えば意味の区切り方も語感も異なる以上、完全に透明な翻訳を作ることは原理的に難しい。

 一つの外国語の単語に対して、一つの日本語だけが機械的に対応しているわけではない。ある語には複数の意味があり、その場面でどれが最もふさわしいかを判断しなければならず、同じ発言であっても、それが親愛なのか皮肉なのか怒りなのか照れ隠しなのかによって訳し方は変わる。翻訳者は辞書の単語を横に移しているのではなく、作品全体を読みながら、「この人物はこの場面で何を感じ、どういう調子で語っているのか」を解釈し続けている。

 その意味で、翻訳は言語の変換であると同時に読解でもある。そして読解を伴う以上、選択は避けられない。どの言葉を使うのか、どの程度原文の構造を残すのか、どこまで自然な日本語へ寄せるのかという判断の一つ一つに、翻訳者の文学観や言語感覚が反映される。

 だからといって、翻訳者が自由に作品を書き換えているわけではない。むしろ原文に忠実であろうとするほど、「この表現を日本語でどう響かせれば、原文に最も近い働きをするのか」という難しい選択を繰り返さなければならない。翻訳者が目立たない訳文ほど、実はその背後で膨大な判断が行われているのである。

「正しい翻訳」は一つなのか

 翻訳が二つあれば、読者はどちらが正しいのかを知りたくなる。もちろん原文の事実関係を取り違えたり、語句の意味を誤認したりした場合には誤訳が存在するため、すべての翻訳を同じように正しいと考えることはできない。しかし問題は、誤訳ではない部分に複数の訳し方が存在することである。

 たとえば、ある原語を文脈によって「寂しい」「孤独だ」「心細い」などと訳せる場合を考えると、どれも完全に同じ日本語ではない。「寂しい」は日常的な感情に近く、「孤独だ」にはより重い響きがあり、「心細い」には不安や頼りなさが加わる。それでも原文が持つ意味の幅によっては、いずれも一定の妥当性を持ち得る。

 このことから、原文の意味をただ一つの点として捉えるより、ある程度の幅を持った意味の領域として考えたほうが翻訳の実態を理解しやすい。翻訳者はその範囲の中から、日本語として最も適切だと考える位置を選ぶ。複数の優れた翻訳が存在できるのは、一方が間違っているからではなく、原文が一種類の日本語だけでは完全には覆い尽くせない意味や響きを持っているからでもある。

 この点で、翻訳を読み比べることは単なる正誤判定ではなくなる。一つの翻訳では目立たなかった人物の感情が、別の翻訳でははっきり見えることがあり、逆に最初の訳にあった曖昧さが、新しい訳では消えてしまうこともある。どちらが常に優れているという単純な関係ではなく、それぞれの翻訳が原文の異なる部分を照らし出す場合がある。

翻訳によって登場人物は変わるのか

 翻訳の違いがとりわけ鮮明に現れるのは会話である。人間は話し方によって人格を判断されるため、「そう思う」「そう思います」「そう考えているのだ」「私はそう考えています」という違いだけでも、同じ人物の印象は変化する。

 外国語では年齢や社会的立場の違いが、日本語ほど語尾や敬語体系にはっきり現れない場合もある。それを日本語へ移すとき、翻訳者は何らかの話し方を選ばなければならず、その選択によって、原作の人物像のどの部分が前面に出るかが変わることがある。

 ただし、「翻訳者が人物を作る」とまで言ってしまうのは正確ではない。人物の基本的な性格や行動は原作者によって設計されており、翻訳者がゼロから人格を創造するわけではないからである。より正確に言えば、翻訳者の言語選択によって、原作に存在する人物像の輪郭や、読者が受け取る印象の強弱が変化し得る。

 乱暴な人物なのか、理知的な人物なのか、気取った人物なのか、素朴な人物なのか。同じ原文であっても、日本語の語尾や語彙の選択によってその傾向が多少違って見えることがある。読者がその声を聞いて登場人物に親しみを抱いたり、不快感を覚えたりするとすれば、翻訳者は原作者と読者の間で、人物の印象を調整する重要な役割を担っていることになる。

文体まで訳すことはできるのか

 さらに難しいのは文体である。小説家の個性は、描かれている物語だけでなく、文章の速度や長さ、比喩の使い方、感情の示し方にも宿っている。長い文章を何層にも重ねる作家もいれば、必要なものだけを切り取るように短く書く作家もいる。感情を直接書く作家もいれば、行動や風景だけを示して読者に感じ取らせる作家もいる。

 翻訳者が内容だけを伝えればよいのなら、こうした違いは重要ではない。しかし文学作品では、文体そのものが作品の一部である以上、意味だけを保存して文体を失えば、何か大切なものが消えてしまう。

 とはいえ、原文の構造を一字一句そのまま再現すればよいわけでもない。言語によって自然な語順や文章の長さが異なるため、原文の形を守りすぎれば日本語として極端に不自然になり、逆に読みやすく整えすぎれば原作者独特の癖や違和感が消えてしまう。

 ここで翻訳者は二種類の忠実さの間に立つ。原文の表面の形に忠実であることと、原文が読者に与える感覚に忠実であることは、必ずしも一致しない。原文そのものが複雑で息苦しく、不安定な文章なら、それを滑らかな日本語へ整えることは親切である一方、作品の性格を変えてしまう可能性もある。

 この難しさを考えると、文学翻訳とは、「意味を損なわずに日本語へ置き換える仕事」という説明だけでは足りない。何を残し、何を変えざるを得ないのかを判断しながら、別の言語の中に似た読書体験を再構築しようとする仕事なのである。

古い翻訳は本当に古くなるのか

 外国文学には、原作そのものは変わっていないのに、何十年か前の翻訳を読むと古く感じることがある。かつて自然だった語彙や言い回しが、後の時代には仰々しく聞こえたり、若い登場人物の会話が必要以上に古風に感じられたりするからである。

 ただし、「翻訳は必ず古くなる」という法則が科学的に確立されているわけではない。古い訳であっても文学的価値を失わず読み継がれることはあり、反対に新訳だからといって必ず原文に近くなるわけでもない。翻訳が古びて感じられる現象は確かに存在するが、その程度は作品、翻訳者、時代、読者によって異なる。

 それでも、言語そのものが変化する以上、訳文と読者との距離が時代とともに変化することは避けられない。新訳が生まれる理由の一つには、この距離を縮めようとする試みがある。ただし、新訳が作られる理由はそれだけではなく、原典研究の進展、翻訳規範の変化、出版社の企画、旧訳との差別化など、複数の事情が重なっている。

 新しい翻訳者の仕事も、単に古い表現を現代語へ置き換えることではない。作品が書かれた時代の距離感まで消してしまえば、十九世紀の人物が二十一世紀の若者のように話すことになりかねないため、翻訳者は現代の読者に届く日本語を使いながら、作品が本来持つ歴史的な距離も残さなければならない。古さを和らげながら、古さを消しすぎないという微妙な調整が求められるのである。

翻訳が変わると読後感は変わるのか

 ここまで考えると、「翻訳者が違えば読後感も変わる」という最初の感覚はかなり説得力を持つ。しかし科学的に厳密に言うなら、翻訳者が変われば必ず読後感が変化すると断言することはできない。

 訳文の語彙、文の長さ、敬語、会話表現などが違うことは比較できる。しかし、それを読んだ人間がどの程度違う感情を抱くかについては、読者自身の年齢、読書経験、原作についての知識、どの翻訳を先に読んだかといった多くの要因が影響する。そのため、訳文の違いから読者の反応を一対一で予測することは難しい。

 それでも、言葉遣いや文体が人物の印象や読みやすさに影響し得る以上、翻訳の違いが読者の感情や作品評価を変える可能性は十分にある。重要なのは、「翻訳が違えば必ず別の感想になる」と考えるのではなく、「翻訳の違いは読書体験を変化させる一つの要因になる」と考えることである。

同じ音楽を違う演奏家が弾くように

 翻訳について考えていると、音楽の演奏に少し似ているように思えてくる。ベートーヴェンの楽譜は同じでも、演奏者が変わればテンポも強弱も間の取り方も異なり、ある演奏は厳格に、別の演奏は情熱的に聞こえる。それでも私たちは、一方だけがベートーヴェンで、もう一方は別の作品だとは通常考えない。

 文学翻訳にも似たところがある。原文という共通の基礎があり、それを翻訳者が別の言語で表現する。同じ原作から異なる翻訳が生まれるのは、必ずしも作品が壊れているからではなく、一つの原文を別の言語で完全に一通りだけ再現することが難しいからである。

 もっとも、音楽との比較には限界もある。演奏では作曲者と演奏者の存在がはっきり意識されるのに対し、翻訳小説では翻訳者の存在が読者から見えにくい。「この文章は美しい」と感じたとき、読者はまず原作者の文章が美しいと考えるが、その日本語の美しさには翻訳者の判断も含まれている。

 だから翻訳者の名前を意識して読むことは、原作者の価値を下げることではない。むしろ、外国文学が日本語として私たちの前に現れるまでに、どのような知的・言語的作業が介在しているのかを見ることにつながる。

「私はこの作家が好き」の中に誰がいるのか

 翻訳文学を長く読んでいると、少し不思議な問いが生まれる。自分が好きだと思っていた外国作家は、本当にその作家だけだったのだろうか。

 ある翻訳者の文章で初めて海外文学に触れ、その日本語のリズムや言葉遣いに強く惹かれた読者がいるとする。後になって別の翻訳者による同じ作品を読んだところ、以前ほど魅力を感じなかったなら、最初に好きになったのは原作者だったのか、それとも翻訳者だったのかという疑問が出てくる。

 おそらく、この問いをどちらか一方だけで答える必要はない。物語と人物を生み出したのは原作者だが、その人物を日本語の中で語らせたのは翻訳者であり、翻訳文学における読書体験は両者の仕事が重なったところに成立している。

 だから「この作家が好き」という感覚の中には、原作者の物語世界への好みだけではなく、翻訳者の文章に対する好みが混じっている場合もある。どの程度混じっているかを一人の読者について正確に測定することは難しいが、少なくともその可能性を無視することはできない。

数学的に考えると「同じか、違うか」では足りない

 この問題を少し数理的に考えてみると、「同じ作品か、別作品か」という二択そのものが粗すぎることに気づく。二つの翻訳を比べた場合、物語の出来事、登場人物、舞台、主題といった要素は非常によく一致していても、語彙、文章の長さ、会話の調子、比喩、リズムといった要素には差がある。

 つまり作品の同一性は、〇か×かで決まるものではなく、どの層を比較するかによって異なる。物語構造という尺度なら二つの翻訳はほぼ同じだが、文章表現という尺度なら明らかな距離があるということである。

 現在では文章の特徴を数値化し、単語の使い方や文の構造から翻訳者ごとの傾向を調べる研究も可能になっている。だから翻訳者の違いは文学的印象だけの問題ではなく、一部は数量的に検討できる。しかし、文章の違いを数字で示せたとしても、「その差が作品を別物と呼ぶほど大きいか」という判断は数字だけでは決められない。

 ここに科学と文学の境界がある。どれだけ違うのかは計測できても、その違いを「別作品」と呼ぶべきかどうかは、最後には作品という概念をどう定義するかという問題になる。

作品はどこに存在するのか

 そこまで考えると、問いは翻訳の技術を越えて、「そもそも作品とは何なのか」というところまで広がっていく。

 同じ文章であっても、十代で読んだ小説を五十代で読み返せば、まるで違う作品のように感じることがある。文章は一文字も変わっていないのに、昔は気にも留めなかった人物の言葉が胸に残り、理解できなかった別れの場面が突然現実味を帯びる。

 だからといって、「作品は読者の心の中にしか存在しない」と科学的事実のように断定することはできない。これは文学理論や哲学の領域に属する問題であり、作品を物理的な本と考えるのか、書かれた文章と考えるのか、それとも読者によって具体化されるものと考えるのかによって立場は分かれる。

 しかし少なくとも、読書体験が読者によって変わるという事実を考えれば、作品を本の中に完全に固定されたものとしてだけ捉えるのでは足りないことも確かである。翻訳文学ではそこにさらに翻訳者が加わり、原作者が書いた文章を最初に深く読み、その解釈を日本語の文章として次の読者へ渡していく。

 新しい翻訳を読むことは、同じ建物へ別の入口から入り直すことに似ている。一度目には見えなかった階段が見え、以前は気づかなかった窓から違う景色が現れる。それでも建物そのものが完全に別物になったわけではない。その微妙な関係こそが、翻訳文学の面白さなのだろう。

では、翻訳者が変わると別の作品になるのか

 結局、この問いに最も近い答えは、「同じでありながら、同じではない」というものになる。

 物語の骨格、人物関係、舞台、歴史的背景、原作者が構築した世界という点では、翻訳者が変わっても同じ作品である。しかし読者が直接触れる文章の呼吸、人物の声、感情の温度、文章の速度という点では、それぞれの翻訳が異なる読書体験を生む可能性がある。

 科学的に言えば、二つの翻訳の言語的な差はある程度測ることができるし、翻訳者固有の文体的特徴も分析できる。しかし、その違いをもって「別の作品になった」と判断することは科学的測定だけでは決められない。そこには、作品とは筋書きなのか、文章なのか、読書体験なのかという定義の問題が残る。

 だから一冊の外国小説について「読んだことがある」と言うことさえ、本当は少し曖昧なのかもしれない。ある翻訳で読んだ作品を別の翻訳で読み直すと、二度目なのに初めて出会ったように感じることがある。その瞬間、最初の翻訳が間違っていたわけでも、新しい翻訳だけが正しかったわけでもない。むしろ原作という一つの世界が、一種類の日本語だけでは収まりきらないほど広かったと考えることもできる。

 翻訳文学の面白さは、そこにもう一つ隠されている。同じ小説を繰り返し読むだけでなく、違う翻訳者を通して読むことで、一つの作品の中に複数の声を聞くことができる。そしていくつかの翻訳を読み比べたあと、読者の中には、どの一冊とも完全には一致しない作品の像が残る。

 翻訳者が変わると、同じ小説は別の作品になるのか。その答えは、「なる」か「ならない」かという二つの箱のどちらかに収めるよりも、どこまで同じで、どこから違って見えるのかを考えるところにある。その境界をたどっていくと、私たちは翻訳について考えていたはずなのに、いつの間にか「文学作品とは何なのか」という、もっと大きな問いの前に立っているのである。

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