リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 美術館の静かな展示室に、二枚の絵が並んでいるとする。構図も色彩も筆致もほとんど同じで、肉眼では専門家でも簡単には違いを見つけられないほどよく似ている。一枚は百年前に有名画家が描いた本物で、もう一枚は後世の誰かが精巧に再現した作品である。純粋に目から入ってくる色や形だけを比較するなら、二枚から受け取る視覚情報にはほとんど差がないかもしれない。

 それにもかかわらず、一方には数億円の値段がつき、もう一方には数十万円、場合によってはそれ以下の値段しかつかないことがある。価格差が十倍や二十倍にとどまらず、百倍、さらにそれ以上になる例さえ存在するが、もちろん贋作だと分かった作品が必ず本物の何百分の一になるという法則があるわけではない。作者や作品、市場、贋作そのものの評価によって価格差は大きく異なり、売買市場から事実上消えてしまう作品もあれば、後に別の価値を持つ作品もある。それでも、見た目がほとんど同じなのに経済的価値が劇的に違うという現象そのものは、美術というものの少し奇妙な性質を映し出している。

 私たちは絵を見ているようでいて、実は絵だけを見ているのではなく、その背後にある作者や時間、歴史まで含めて見ているのである。

値段は「美しさの点数」ではない

 美術品の価格について考えるとき、まず離れた方がよいのは、美しい作品ほど高く、美しくない作品ほど安いという単純な発想である。もちろん美しさや芸術的評価は価格に影響するが、美術市場の値段は、作品の美しさを百点満点で採点して、その点数を金額に置き換えたものではない。

 もし価格が純粋に見た目だけで決まるなら、精巧な複製画は現在よりはるかに高額になっていなければ不自然である。現代の印刷技術や画像技術を使えば、有名絵画の色彩や構図を非常に高い精度で再現できるが、それでも美術館の売店で販売される複製画と、展示室にある原画の価格には比較にならないほど大きな差がある。この事実が示しているのは、美術市場が売買しているものがキャンバスの表面に現れた色や形だけではなく、その絵が「誰によって、いつ、どのように生まれたのか」という過去まで含んでいるということである。

本物とは「出来事の痕跡」でもある

 たとえばゴッホの絵を見るとき、黄色や青という色そのものが特別な物質であるわけではない。同じような絵具を手に入れることはできるし、筆の運びを研究し、外見上よく似た画面を作ることもできる。それでも、ゴッホ本人がキャンバスの前に立ち、ある瞬間にその筆を動かしたという事実だけは再現することができない。

 一枚の原画は物体であると同時に、過去に実際に起きた制作行為の痕跡でもあり、画家がその時代に存在し、その場所にいて、自分の判断で線を引き、色を重ね、その結果として現在の作品が残っている。本物と贋作の違いを考えるとき、見た目以上に重要なのは、この因果的なつながりである。

 贋作者がまったく同じ形の線を引いたとしても、それは「ゴッホが引いた線」にはならない。同じ形を再現することはできても、その線を生み出した過去まで同じにすることはできないからであり、心理学の研究でも、人間は原作品と複製品を単なる見た目だけでは評価していないことが示されている。作者本人による創作行為や、作者と作品との直接的な結びつきを知ることによって、同じような物体でも評価が変わることを考えると、私たちが作品に感じている価値の一部は、画面そのものではなく、その画面が生まれた経緯に宿っていると考える方が自然である。

「誰が触れたか」という事実に意味を感じる

 この感覚は、美術品だけに存在するわけではない。歴史上の人物が使った万年筆、有名な音楽家が演奏した楽器、名選手が実際の試合で使用した道具などは、同じ型の製品よりはるかに高い価格で取引されることがあるが、物理的な性能が優れているとは限らず、むしろ新品の方が使いやすい場合さえある。それでも人間は、「その人物が実際に触れた」「その出来事の現場に存在した」という履歴に意味を感じる。

 美術品では、この性質がさらに強く現れる。絵は作者が単に所有していた物ではなく、作者自身の行為によって生まれた物だからであり、画家の手が作品に触れたというより、その手の動きそのものが作品の形成過程になっている。だから本物を見るという経験には、現在の鑑賞者と、すでに存在しない作者の時間とが、一つの物体によってつながる感覚が生まれ、複製画にも同じ風景や人物は描かれていても、その画像が生まれた出来事まで同じになるわけではない。

贋作が判明した瞬間、キャンバスは何も変わっていない

 贋作の問題を考えるうえで、もっとも興味深い現象の一つは、それまで名画として評価されていた作品が、調査によって贋作と判明する場合である。その瞬間に絵具の色が変化するわけではなく、構図も筆遣いも人物の表情も昨日までと同じであるのに、作者帰属が崩れるだけで市場価格は大幅に低下することがある。

 ここには、美術品の価格が視覚的な美しさだけを測っていないことが、ほとんど自然実験のような形で現れている。昨日まで「この画家が人生のこの時期に描いた作品だ」と考えていた人は、筆遣いや色彩に作者の思想や時代背景を読み込んでいたかもしれないが、作者が別人だと判明すれば、物理的には同じ線であっても、その線を支えていた意味の体系が変わる。

 つまり変わったのは絵の表面ではなく、絵と歴史との関係である。心理学や脳科学の実験でも、作品を「本物」と認識している場合と「複製」と認識している場合では、同じような視覚刺激であっても評価や情報処理が変化することが示されており、人間の美術体験が網膜に入る情報だけで完結していないことが分かる。

美術品には時間が積み重なっている

 本物の美術品には、もう一つ簡単には複製できないものがあり、それが時間である。何百年前の作品であれば、その絵は戦争、政変、移動、所有者の交代、ときには火災や略奪の危険までくぐり抜けながら現代まで残ってきた。ある時代には王侯貴族の館に掛けられ、別の時代には倉庫に眠り、長い間忘れられた後で再評価された作品もある。

 美術市場では、こうした作品の所有や伝来の履歴をprovenance(プロヴェナンス・作品の来歴)と呼ぶ。来歴は単なるロマンチックな物語ではなく、作品の真贋や作者帰属を検証する重要な証拠でもあり、誰が所有し、どの展覧会に出品され、どのような記録が残っているかという情報は、市場価値にも影響する。

 新品のキャンバスに昨日描かれた極めて精巧な複製は、見た目では三百年前の作品と近づけることができても、三百年間存在してきたという履歴を持つことはできない。時間そのものをコピーすることができない以上、古い美術品を所有することは、単に絵具の塗られた布を所有することではなく、過去から現在まで連続して存在してきた一つの物体を、自分の時代で一時的に預かることでもある。

高値を生むのは、希少性だけではなく「需要のある希少性」である

 本物の価値を考えると、美術の問題は経済学の問題ともつながってくる。ある画家が生涯に百枚しか作品を残さず、その画家がすでに亡くなっているなら、その画家本人による新しい作品を追加することはできず、需要が増加しても、本物の供給を同じ方法で増やすことは不可能である。

 普通の商品なら、需要が強くなればメーカーは生産量を増やすことができるが、故人となった画家の作品にはそれができない。ただし、ここで重要なのは、「供給が増えないから必ず高くなる」という意味ではないことであり、どれほど数が少なくても、欲しい人がいなければ価格は上がらない。

 高い価格が成立するのは、作品を所有したいという需要が存在し、その一方で供給を追加できない場合である。つまり、美術市場で重要なのは単なる希少性ではなく、需要を伴った希少性であり、ある画家の評価や知名度が高まり、作品を求める人が増えているにもかかわらず、その画家本人による新作が増えないなら、需給関係は価格を押し上げる方向に働きやすい。

 一方で、画家が亡くなったからといって、すべての作品価格が自動的に上昇するわけではなく、死後の評価、市場参加者、売却の集中などによって価格が異なる動きをする場合もある。したがって、本物の高価格を「希少だから」とだけ説明するのは不十分であり、正確には、作者への需要、本物の固定的な供給、作品ごとの差異、来歴、市況などが同時に作用していると考えるべきである。

贋作は、美しさだけでなく「信用」の問題になる

 贋作という言葉には、単なるコピーとは異なる意味が含まれている。最初から「これは模写です」「これは複製です」と明示されている作品なら、それはそれ自体の技術や鑑賞価値によって評価することができるが、別人が描いた物を有名画家本人の作品であるかのように提示すれば、そこには作者についての虚偽が加わる。

 高額な美術品の買い手は、絵そのものだけを購入しているわけではなく、その作品が誰によって作られたのか、どこから伝わってきたのか、将来も本物として扱われる可能性が高いのかという情報まで含めて購入している。そのため贋作が発覚すると、問題になるのは美的評価だけではなく、来歴、鑑定、過去の売買、専門家の判断など、その作品を支えていた信用の連鎖まで見直されることになる。

 ここでは芸術と金融市場が意外なほど近づいている。高額な美術品は鑑賞の対象であると同時に、所有権を移転できる資産でもあるため、「次の買い手も本物として受け入れるか」という市場の信頼が価格を左右する。ただし、本物性は単なる多数決による社会的合意ではなく、provenance(プロヴェナンス・作品の来歴)、文献資料、作者の制作記録、画材、顔料、キャンバスや木材などの科学的分析、画像調査、専門家による様式研究といった複数の証拠によって支えられている。

 したがって、美術市場における本物性とは、単なる「みんなが本物だと思っている状態」ではなく、歴史資料、科学的検証、専門的判断、市場制度によって形成された認定なのである。

「何百分の一」は法則ではない

 ここで、タイトルにある「何百分の一」という表現についても整理しておく必要がある。贋作が発覚した作品の価格は、一律に決まった割合で下落するわけではなく、作者帰属が疑われただけで大きく値下がりする場合もあれば、贋作と確定したため主要な市場では取引対象にならなくなる場合もある。

 反対に、後になって贋作者自身が著名になり、その人物の作品として一定の価格がつく場合もあるため、贋作と本物の価格差には統一された倍率は存在しない。そもそも、明確に贋作と認定された作品は主要なオークション市場から排除されやすいため、「本物と贋作を大量に集めて価格差を統計的に比較する」こと自体が難しく、市場に残っている贋作だけを観察すれば、観察できない作品が大量に存在することになり、そこにはselection bias(セレクション・バイアス・観測対象の偏りによって結論が歪む現象)が生じる。

 したがって、「何百分の一」という言葉は、美術市場に共通する平均倍率ではなく、外見の差に比べて経済的価値の差が極端に大きくなり得ることを象徴した表現として受け取るのが正確である。

美術品の価格を数理的に眺める

 美術品の価格形成を少し数理的に考えると、この問題はさらに分かりやすくなる。美術市場の研究では、作品価格を、美しさという一つの要素だけから説明するのではなく、作者、サイズ、技法、制作年代、ジャンル、来歴、作者帰属、市場環境など複数の要因から分析する方法が用いられている。

 単純化すれば、一枚の作品の価格には、視覚的・芸術的な評価だけでなく、作者の評価、本物であることへの確信、希少性、来歴、再売却のしやすさ、市場全体の状態などが同時に入り込んでいると考えることができる。したがって、本物と贋作の見た目を仮に完全に同じだと仮定しても、価格が同じになる必要はなく、視覚的価値が同じでも、作者帰属、本物性、来歴、希少性、市場での信用が異なれば、最終的な市場価格は大きく変わる。

 この意味では、「同じくらい美しいのに値段が違う」という現象には数理的な矛盾は存在せず、単に価格を決めている変数が、美しさだけではないのである。

それでも贋作を美しいと感じてはいけないのか

 では、本物だと思って感動していた作品が、ある日贋作だったと分かったとき、それまでの感動まで偽物になるのだろうか。色彩に心を動かされ、構図に美しさを感じ、人物の表情に何かを読み取ったという鑑賞体験そのものまで否定されるわけではなく、贋作者が高度な技術を持っていたなら、その技術や画面そのものを評価することもできる。

 ただし、ここでは「美しいか」という問いと、「誰が作った物なのか」という問いを分ける必要がある。美しさだけについて言えば、贋作が本物と同程度に鑑賞者を魅了することは十分にあり得るが、美術作品の市場価値は美しさだけでは構成されていない。

 作者、制作時代、創作行為、希少性、来歴、真贋の確実性、市場での信用、そして作品が現在まで生き残ってきた歴史が重なり、その総体に対して価格が形成されるのであり、だからこそ贋作が本物と同じくらい美しかったとしても、それだけで本物と同じ値段になることはない。

贋作が別の意味で「本物」になるとき

 ところが、話はさらに奇妙な方向へ進むことがある。一部の著名な贋作者の場合、その人物自身が美術史上の存在として知られるようになり、かつて作った贋作が「著名な贋作者による作品」として収集対象になることがある。

 この場合、その作品は有名画家本人が描いた真正作品ではないが、「この贋作者本人が制作した物」という意味では真正である。かつては「別人になりすました絵」として価値を失った作品が、時間の経過によって、「美術界を欺いた人物が実際に作った歴史的資料」という新しい来歴を獲得することになる。

 もちろん、すべての贋作にこのような価値が生まれるわけではないが、この例は美術品の価値がどこに宿るのかを考えるうえで興味深い。失われたのは本物性という概念そのものではなく、本物性が何を指しているかなのであり、その作品は巨匠の本物ではなくても、著名な贋作者の作品としては本物であり、そこに別の歴史、希少性、収集需要が生まれれば、新たな市場価値が成立する可能性がある。

私たちは絵ではなく、絵の向こう側まで見ている

 もし美術の価値が完全に視覚情報だけで決まるなら、本物と極めて精巧な複製を区別する必要はほとんどなく、美術館には高品質な複製を展示し、壊れやすい原画は温度と湿度を管理した収蔵庫に保存しておけば十分だということになる。

 しかし、多くの人はそれでは満足しない。ルーヴル美術館で《モナ・リザ》を見る人が求めているのは、女性の肖像という画像だけではなく、レオナルド・ダ・ヴィンチが実際に向き合い、その手を動かした物体が、長い時間を越えて現在の自分の目の前に存在しているという事実もまた、鑑賞経験の一部になっている。

 だから印刷された《モナ・リザ》と、本物の《モナ・リザ》は、同じような画像を見せていても同じ存在にはならない。美術とは、視覚情報だけではなく、人間の行為と時間を物質の中に保存する仕組みでもあるのかもしれず、贋作が本物と同じくらい美しく見えるのに、価格が百倍、場合によってはそれ以上に違うことがあるのも、そのためである。

 価格が測っているのは美しさだけではなく、誰がその絵を描き、いつ描き、それがどのような時間を通り抜け、どのような証拠によって本物と認められ、なぜ現在まで存在しているのかという、そのすべてである。それらが一枚のキャンバスの価値の中に折り畳まれている。

 私たちは美術館で一枚の絵を見つめながら、実際には目に見えないものまで見ている。作者の手も、制作された部屋も、過ぎ去った何百年という時間も目には映らないが、それらが実際に存在し、一枚の物体を通じて現在につながっていると知ることによって、作品の意味は変わる。

 美術品の価格とは、目に見える美しさにつけられた値段であると同時に、二度と再現することのできない「誰が、いつ、何をしたのか」という過去につけられた値段でもあるのである。

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