リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

九条レオンのエッセイ

エッセイ

本を読む人間として始まったわけではなかった

振り返ってみると、私は幼い頃から本ばかり読んでいた子どもではない。

小学生の頃に読んだ本といえば、学校から指定された課題図書が中心だった。夏休みになると、感想文を書くために本を読む。自分から書店へ行き、棚の中から一冊を探し出して読むというより、まず読むべき本が先に決められていた。

課題図書には、子どもが自分では選ばない本に触れられるという意味がある。しかし、当時の私にとって、読書はまだ自発的な楽しみというより、学校生活の一部だった。

本を読めば、読書感想文を書かなければならない。

何を感じたのか、どこが印象に残ったのかを、原稿用紙の升目に合わせて書く。実際に深い感動があったかどうかより、感想として成立する文章を作ることの方が先にあったようにも思う。

私は、最初から読書家だったわけではない。

後年の自分から過去を振り返り、幼い頃から文学に親しんでいたように話を整えることもできる。しかし、それは正確ではない。

私の読書は、課題として与えられた本を読むところから始まった。

文学は、まだ遠くにあった。

中学生の私が読んだ『天声人語』

中学生になると、新聞の『天声人語』を読むようになった。

『天声人語』は、朝日新聞の朝刊に掲載されてきたコラムで、その起源は1904年にさかのぼる。掲載が中断された時期や名称の変遷はあるものの、長く日本の新聞コラムを代表する存在の一つとして読まれてきた。

中学生の私は、その長い歴史を意識して読んでいたわけではない。

一回の文章は長すぎず、時事問題、社会、歴史、文化、季節の話題などが、限られた文字数の中でまとめられていた。学校の教科書とは違い、その時に社会で起きていることが文章の題材になっていた。

一つの出来事から別の話題へ移り、最後には最初の話へ戻ってくる。短い文章の中に引用や比喩が置かれ、時事的な事実と書き手の見方が組み合わされる。

その論調にいつも賛成していたわけではない。

当時は、賛成や反対を明確に判断できるほど、政治や社会を理解してもいなかった。それでも、出来事をただ知らせる新聞記事とは異なり、出来事をどう読み、どのような言葉で捉えるかという文章の働きを知った。

小学生の頃、文章は課題図書の感想を書くためのものだった。

中学生になると、文章は社会について考えるためのものになった。

文学を読む前に、私は新聞の短いコラムを通じて、文章の形に触れていたのである。

後になってブログで政治、経済、地域社会、文化について書くようになったことを考えると、この時期の経験は小さくなかったのかもしれない。

一つの出来事だけを孤立させず、その背景や別の問題とのつながりを考える。短い話題から、より大きな社会を見ようとする。

その方法を、十分に自覚しないまま『天声人語』から学んでいたように思う。

高校生になって、ようやく文学へ入った

私が本格的に文学を読むようになったのは、高校生になってからである。

太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成。

日本文学の名著と呼ばれる作品を、少しずつ読むようになった。

学校の授業や文学史の中では、彼らはすでに評価の定まった作家だった。しかし、高校生の私は文学史上の位置づけを確認するためだけに読んでいたのではない。

むしろ、なぜこれほど多くの人が読み続けているのかを知りたかった。

太宰治の作品には、人間の弱さや自己嫌悪、他人からどう見られるかという不安が、隠されずに書かれていた。

三島由紀夫の文章には、美しさと緊張感があり、その思想や人生を十分に理解できなくても、言葉そのものに強い力を感じた。

芥川龍之介の作品は比較的短いものが多かったが、その短さの中に、人間の利己心、矛盾、不安、残酷さが凝縮されていた。

川端康成の作品では、説明し尽くされない感情や、情景の背後に残る沈黙が印象に残った。

もちろん、高校生の私が、これらの作品を深く理解していたとは思わない。

年齢を重ねてから読み返せば、当時は見えていなかったものが多くあるはずだ。

しかし、文学はすべてを理解してから読むものではない。

よく分からない部分があっても、言葉や場面だけが記憶に残ることがある。作品全体の意味はつかめなくても、そこに自分の日常とは違う世界が存在することは感じられる。

高校生の私にとって文学は、知識として理解する対象というより、まだ自分では言葉にできない感情に触れる場所だった。

新潮文庫と角川文庫の棚

当時の読書を思い出すと、個々の作家だけでなく、新潮文庫や角川文庫の存在を抜きにすることはできない。

新潮文庫の歴史は古く、最初の創刊は1914年で、ドイツのレクラム文庫にならい、海外の名著を一般読者へ普及させる意図を持って始められた。戦後には昭和文学を中心とする文庫として再出発している。

角川文庫は1949年に創刊され、第1回配本にはドストエフスキーの『罪と罰』が含まれていた。1950年には現在につながる小型の判型へ改められ、戦後の文庫本普及に大きな役割を果たした。

しかし、高校生だった私が、そのような出版史を考えて文庫本を選んでいたわけではない。

書店の棚に並んでいる本を見て、題名、作家名、表紙、裏表紙の紹介文などを手掛かりに選んだ。

文庫本は単行本よりも小さく、比較的購入しやすかった。

一冊を鞄に入れて持ち歩くことができる。読んだ本を本棚に並べれば、自分がどのような本を読んできたのかが背表紙によって見える。

現在では、検索すれば作品のあらすじも評価もすぐに分かる。読者の感想を読み、内容を比較してから購入できる。

当時は、店頭で偶然目に入った本を手に取ることが多かった。

よく知らない作品を買い、読み始めてから、自分に合うかどうかを知る。

外れることもあった。

最後まで読めない本もあった。

それでも、書店の棚には、自分がまだ知らない考え方や人生が無数に並んでいるように見えた。

名著と同時代の文学を一緒に読む

高校生の頃に読んだのは、近代日本文学の名著だけではなかった。

当時読まれていた片岡義男や三田誠広の作品も手に取った。

文学の読書歴を語るとき、後世に評価された名作だけを並べると、実際の読書生活とは違うものになる。

現実の読書は、文学史の順番には進まない。

太宰治を読んだ次に、片岡義男を読む。

芥川龍之介の短編を読んだ後で、当時書店に並んでいた現代小説を読む。

古典的な作品と流行している作品が、同じ読者の中で混ざり合う。

片岡義男の小説には、車やオートバイ、音楽、男女の関係、都市的な生活など、当時の若者にとって新しく見える世界があった。

日本を舞台にしながら、どこかアメリカ文化の影響を感じさせる軽さや映像的な感覚があった。

太宰や三島とは違う。

しかし、違うからこそ読んだ。

文学には重い人生論や苦悩だけでなく、時代の空気、生活様式、会話、服装、乗り物、音楽なども含まれる。

三田誠広は、1977年に『僕って何』で第77回芥川賞を受賞している。自己とは何かという問いを題名そのものに掲げた作品が、当時の若い世代の感覚と重なる時代だった。

私は、後世に残る作品だけを選別して読んでいたのではない。

その時代に生きながら、その時代に売られ、その時代に話題になっている本を読んでいた。

それは、昭和という時代を、文学を通じて同時進行で読むことでもあった。

フランス文学とロシア文学で立ち止まる

日本文学を読むようになると、次第に海外文学にも関心が向いた。

フランス文学やロシア文学にも挑戦した。

しかし、ここで私の読書が順調に広がったわけではない。

途中で挫折した作品も少なくなかった。

海外の名作は、題名も作家名もよく知られている。文学を読むのであれば、一度は通らなければならないようにも感じられた。

ところが、実際にページを開いてみると、簡単には入っていけない。

国の歴史、社会階級、宗教、政治、家族制度、恋愛観など、日本の高校生にはなじみの薄い背景がある。

登場人物の名前を覚えるだけでも苦労することがある。特にロシア文学では、一人の人物が複数の呼び名で呼ばれることがあり、物語の関係を追うだけでも集中力を要した。

長編作品では、物語がすぐに動くとは限らない。

人物の思想や社会状況について長い記述が続く。読んでいる間は理解したつもりでも、少し間を置くと誰が誰だったのか分からなくなる。

文学史上の名作であることと、当時の自分が読み通せることは別問題だった。

フランス文学にも同じ難しさがあった。

洗練された恋愛や心理を描いた作品であっても、その背後には階級社会や当時の道徳、宗教、結婚制度がある。

言葉だけを追っても、人物がなぜそのように行動するのかを十分に理解できない。

私は、名作だから読めるのではなく、読む側にも経験や背景知識が必要なのだと知った。

最後まで読めなかった本は、読書歴の失敗として忘れられがちである。

しかし、挫折したこともまた読書の一部である。

本には、読むのに適した時期がある。

高校生の自分には難しかった本が、成人してから読むと理解できることもある。反対に、若い時に強く響いた作品が、後年にはそれほど響かないこともある。

読書は、作品だけで決まるものではない。

読む人間の年齢、経験、知識、生活状況によって変わる。

高校生には難しかったスタンダール『恋愛論』

フランス文学の中でも、特に記憶に残っているのが、スタンダールの『恋愛論』である。

スタンダールは『赤と黒』『パルムの僧院』などで知られるフランスの作家である。『恋愛論』は1822年に刊行され、恋愛を心理、社会、文化、階級など複数の面から考察した作品である。恋愛によって相手を理想化していく精神の働きを「結晶作用」と表現したことでも知られている。

私は、この本を高校生の頃に読もうとした。

題名だけを見れば、恋愛について説明した本である。

高校生にも身近な題材のように思える。

しかし、実際には簡単な恋愛指南書ではなかった。

人はなぜ恋をするのか、恋する相手をどのように理想化するのか、恋愛と虚栄、社会、身分、習慣がどのように結びついているのか。

その分析は抽象的で、歴史的・社会的背景も含んでいた。

当時の私には難しかった。

文章を追っても、スタンダールが何を分類し、何を証明しようとしているのか、十分には理解できなかった。

恋愛という題材を扱っているのだから、感情的に分かりやすい本だろうと思っていた。しかし、そこで論じられていたのは、単純な恋の喜びや悲しみではない。

恋愛を観察し、分類し、心理の働きとして分析する文章だった。

高校生の私は、恋愛についての経験も、当時のヨーロッパ社会についての知識も乏しかった。

恋愛における理想化や虚栄といわれても、それを自分の経験と結びつけることができない。

名著とされる本を手に取ったものの、読み進めるほど、自分の理解が追いついていないことを感じた。

私は途中で挫折した。

しかし、『恋愛論』を読み通せなかったことは、不思議に記憶に残っている。

容易に読めた本よりも、歯が立たなかった本の方が、後になって思い出されることがある。

それは、自分の外側に、まだ理解できない広い世界があることを知らせるからだろう。

高校生の私には、『恋愛論』は早すぎた。

けれども、早すぎる本に出会ったこと自体には意味があった。

本は、いつでも読者に合わせて分かりやすく書かれているわけではない。

理解できない文章に出会い、自分の知識や経験の不足を知ることも読書なのである。

雑誌によって社会へ出ていく

小説や文庫本とともに、『朝日ジャーナル』『文藝春秋』『サンデー毎日』などの雑誌も読んだ。

これらは性格の異なる媒体だった。

『朝日ジャーナル』は1959年に創刊され、1992年まで発行された週刊誌で、報道、解説、評論を掲げ、戦後日本の政治、社会、思想を論じる媒体の一つだった。

『文藝春秋』は菊池寛が1923年に創刊した月刊総合誌で、文学だけでなく政治、社会、人物論、座談会などを広く扱ってきた。創刊号には芥川龍之介や川端康成らも寄稿している。

『サンデー毎日』は1922年4月2日に創刊され、『週刊朝日』と並ぶ日本の初期の週刊誌の一つである。

私は、それぞれの雑誌を体系的に比較研究していたわけではない。

小説とは異なる文章を読みたかった。

政治、社会、文化、事件、教育、人間について、新聞記事よりも長く、書籍よりも早く論じる文章が雑誌にはあった。

雑誌には、その時代の熱があった。

後から歴史書を読めば、出来事の原因と結果が整理されている。しかし、その時代に発行された雑誌では、まだ結論が出ていない問題が扱われている。

何が正しいのか分からない。

社会がどこへ向かうのかも分からない。

書き手の主張には偏りもある。

しかし、未確定な時代の中で、人々が何を問題だと考えていたのかが見える。

文学が人間の内面を読むものだとすれば、雑誌は、その人間が生きている社会を読むものだった。

私は、小説から社会へ、社会からまた小説へと行き来するようになった。

学生時代には理系雑誌へ

学生時代になると、読むものは理系雑誌へ広がった。

文学から理系へ転向したというより、関心の対象が増えたといった方が正確だろう。

文学は、人間の感情や行動を言葉によって描く。

理系雑誌は、自然、技術、医学、数学、機械などの仕組みを説明する。

一見すると、この二つは遠く離れている。

しかし、私にとっては、どちらも知らない世界を文章によって理解しようとする行為だった。

文学作品を読むときには、登場人物がなぜそのように考え、行動したのかを追う。

科学や技術の記事を読むときには、現象がなぜ起こり、どのような仕組みで成り立っているのかを追う。

対象は違っても、「なぜ」を考えることは共通している。

学生時代の読書では、楽しみだけでなく、学習や専門知識の獲得という性格が強くなった。

分からない用語を調べる。

図や数式を読み直す。

一度では理解できない説明を、前のページへ戻って確認する。

フランス文学やロシア文学で感じた「分からなさ」と、理系雑誌で感じる「分からなさ」は性質が違う。

しかし、理解できない文章の前で立ち止まるという経験は同じだった。

文学での挫折も、無駄ではなかったのかもしれない。

成人してから、ジャンルの境界がなくなった

成人してからは、特定のジャンルに限らず、あらゆる分野の本を広く読むようになった。

文学、政治、経済、歴史、科学、医学、宗教、社会問題、資格、技術、実用書。

仕事や生活の中で必要になった本もあれば、純粋な関心から読んだ本もある。

高校生の頃には、文学を読むことに、一種の背伸びがあった。

名著を読まなければならない。

有名作家を理解しなければならない。

難しい本を最後まで読まなければならない。

成人後は、そのような義務感が少し薄れた。

必要な本を読む。

関心を持った本を読む。

難しければ、関連する入門書を先に読む。

途中で読むのをやめることもある。

一冊の本をすべて理解しなくても、必要な部分から何かを得ることができる。

読書に対する考え方が柔軟になった。

一方で、広いジャンルを読むことには問題もある。

一つの作家を長く追い続けることが難しくなる。

次々に別の分野へ関心が移り、知識が断片化する。

文学作品をゆっくり味わうより、必要な情報を探す読み方が増える。

多くの本を読んでも、それぞれの内容が深く残るとは限らない。

広く読むことと深く読むことは、必ずしも両立しない。

それでも、さまざまな分野を横断して読むことで、一つの問題を一つの視点だけで見ない習慣が生まれた。

医療の問題には、医学だけでなく、経済、倫理、家族、制度が関係する。

地域社会の問題には、人口、交通、産業、行政、教育、文化が関係する。

人間の生活は、学問の分類どおりには分かれていない。

文学、科学、社会、実用の本を分けずに読んできたことは、複数の視点を結びつける基礎になったと思う。

昭和の読書は、書店と紙の中にあった

昭和の読書を思い返すと、本に出会う場所は限られていた。

書店、図書館、学校、新聞広告、雑誌の書評、友人や教師の紹介。

自分が知らない本は、存在しないのと同じだった。

現在のように、作家名を検索すれば著作一覧が出てくるわけではない。読者の感想や評価をすぐに読めるわけでもない。

地方では、書店に置かれる本の種類にも限界があった。

取り寄せには時間がかかる。

外国文学の背景を知りたいと思っても、関連資料を簡単に集めることはできない。

その不便さを美化する必要はない。

情報が少ないために、理解できないまま終わった本もあったはずである。

スタンダールの『恋愛論』も、現在なら作品解説、時代背景、「結晶作用」の意味などを調べながら読むことができる。

高校生だった当時は、難しいと感じても、その難しさを解くための手掛かりを簡単には得られなかった。

しかし、情報が少なかったからこそ、一冊の本を長く手元に置くこともあった。

分からなくてもページをめくる。

途中でやめても、本棚に残しておく。

何年か後に、もう一度開く。

本は、すぐに答えを出す道具ではなく、理解できないまま自分のそばに存在するものでもあった。

平成、本を探す方法が変わった

平成になると、読書を取り巻く環境は大きく変化した。

大型書店が増え、書店の品ぞろえは広がった。

やがてインターネットが普及し、書名や作家名を検索して本を探せるようになった。オンライン書店を使えば、近くの書店にない本も購入できる。

昭和には「本が見つからない」ことが問題だった。

平成以降は、「本が多すぎて選べない」ことが問題になった。

書評や読者の感想を読んでから購入できるようになったことは便利だった。

一方で、他人の評価を先に知ることによって、自分だけの印象で作品と出会う機会は減ったかもしれない。

作品のあらすじを詳しく知りすぎれば、読む前から理解したような気持ちになることもある。

情報が増えれば、読書が必ず深くなるわけではない。

選択肢の増加は、一冊の本へ集中する時間を奪うこともある。

平成の読書は、入手の自由を広げると同時に、注意を分散させる時代でもあった。

令和、読む側から書く側へ

令和の現在、文章を読む環境はさらに変わった。

紙の本だけでなく、電子書籍、ウェブ記事、電子資料、個人ブログなど、さまざまな形で文章を読める。

スマートフォン一台で、多くの文章へ接続できる。

そして、読むだけでなく、個人が文章を公開することも容易になった。

私はいま、自分が読んできた本、使ってきた機械、聴いてきたラジオ、暮らしてきた時代について文章を書いている。

小学生の頃、課題図書を読んで感想文を書くことから始まった。

中学生では『天声人語』を読んだ。

高校生では太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成を読み、片岡義男や三田誠広を読んだ。

新潮文庫と角川文庫の棚を眺めた。

フランス文学やロシア文学に挑み、途中で挫折した。

スタンダールの『恋愛論』は難しく、最後まで十分には理解できなかった。

『朝日ジャーナル』『文藝春秋』『サンデー毎日』から社会を読んだ。

学生時代には理系雑誌を読み、成人してからは、ジャンルを限定せず幅広い本を読んだ。

そして今度は、自分が文章を書く側にいる。

もちろん、読むことと書くことは同じではない。

多くの本を読んだからといって、優れた文章を書けるとは限らない。

しかし、これまで読んだ文章は、自分の中に残っている。

文章のリズム。

場面の始め方。

一つの事実から考えを広げる方法。

人間を簡単に善悪で決めつけない視点。

理解できないものを、理解できないまま抱えておく姿勢。

それらは、一冊の本から直接教えられたものではない。

長い読書の中で、少しずつ形づくられたものだと思う。

読み通せなかった本も、読書遍歴に含まれる

読書歴を語るとき、人は読み終えた本を並べたくなる。

何を読破したか。

どの作家を理解したか。

どれほど難しい本を読んだか。

しかし、本当の読書遍歴は、もっと不完全なものである。

読み始めたまま、途中でやめた本がある。

内容をほとんど覚えていない本がある。

当時は感動したのに、なぜ感動したのか説明できない本がある。

難しくて理解できなかった本がある。

読み終えたつもりでも、実際にはほとんど分かっていなかった本もある。

フランス文学やロシア文学での挫折も、スタンダールの『恋愛論』を読み通せなかったことも、私の読書遍歴から除く必要はない。

むしろ、そこで初めて、本には自分の理解を超えるものがあると知った。

すべてを理解できると思うことの方が危うい。

文学は、簡単に答えを与えるものではない。

人間の感情や社会は複雑で、一度読んだだけでは理解できない。

年齢を重ねても、完全に理解できるとは限らない。

だからこそ、もう一度読む意味がある。

三つの時代を通じて残ったもの

昭和、平成、令和を通じて、読書の環境は大きく変わった。

昭和には書店の棚から本を選び、紙の文庫本を持ち歩いた。

平成にはインターネットで本を探し、遠くの書店やオンライン書店から購入できるようになった。

令和には電子書籍やウェブ上の文章を読み、自分自身もブログや電子書籍を通じて文章を発表できる。

本の形は変わった。

本を探す方法も変わった。

読む速度や、文章へ向き合う時間も変わった。

それでも、人が文章を読む理由の根本は、それほど変わっていないのかもしれない。

自分とは違う人生を知りたい。

自分の中にある感情を言葉にしたい。

世界がどのようにできているのかを知りたい。

過去の人が何を考えていたのかを知りたい。

自分が一人ではないことを確かめたい。

文学は、人生の問題を解決してくれるわけではない。

病気、仕事、家族、孤独、老いといった現実は、本を読んだだけで消えるものではない。

しかし文学は、自分だけが抱えていると思っていた感情が、別の時代、別の国、別の人間にも存在していたことを教えてくれる。

答えを与えるというより、問いに言葉を与えてくれる。

それが文学の役割なのだと思う。

課題として始まった読書が、人生の一部になるまで

小学生の頃、私は課題図書を読む程度だった。

その時点では、読書がその後の人生にこれほど長く関わるとは思っていなかった。

中学生で新聞のコラムを読み、高校生で文学に出会った。

名著を読み、流行作家を読み、文庫本を買った。

外国文学に挑み、挫折した。

雑誌を読み、社会へ関心を広げた。

理系雑誌を読み、自然や技術の仕組みを知ろうとした。

成人してからは、ジャンルを越えて本を読んだ。

振り返れば、読書の対象は変わり続けている。

しかし、知らないものを文章によって知ろうとする姿勢は変わっていない。

読み終えた本だけが、自分を作ったのではない。

理解できなかった本も、途中で閉じた本も、書店で手に取っただけの本も、自分の中に何らかの痕跡を残している。

高校生には難しかったスタンダールの『恋愛論』も、その一冊である。

内容を十分に理解できなかった。

それでも、理解できない本が世界には存在することを教えてくれた。

そして、いつかもう一度開けば、当時とは違うものが見えるかもしれないと思わせた。

課題として始まった読書は、やがて自分から本を選ぶ読書になり、社会を知る読書になり、専門を学ぶ読書になった。

そして令和の今、それは、自分が生きてきた時代を文章として残すための読書へつながっている。

昭和に開いた一冊の文庫本も、平成に探した専門書も、令和に読む電子書籍も、すべてが同じ形で記憶に残るわけではない。

けれども、読み終えて本を閉じた後、自分の人生や社会について少し考える時間が残るなら、その読書は無駄ではなかった。

本を読む人間として始まったわけではない私が、長い時間をかけて本を読む人間になった。

それが、昭和、平成、令和を通じた、私の読書遍歴である。

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地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

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世界から届いたベリカード~海外短波放送と国内中波局を追った少年時代

はじめに~電波の向こうから届いたもの

 インターネットが一般家庭には普及しておらず、スマートフォンも動画配信サービスも存在しなかった1970年代末、遠い外国のニュースや音楽、そこで暮らす人々の声を直接聞くことは、現在ほど容易ではなかった。テレビや新聞、雑誌などを通じて海外の情報に触れる機会はあったものの、自分の意思で外国の放送局を探し、その国から発信された番組を聞くという体験には、特別な魅力があった。

 1978年から1981年にかけての中学生時代、私はナショナルの「プロシード2800」と、ソニーの「スカイセンサーICF-5900」という2台の短波ラジオを使っていた。ダイヤルを回すと、雑音の中から聞き慣れない言葉や音楽が現れ、ときには何千キロメートルも離れた地域に向けて発信された放送を受信することができた。

 しかし、当時のBCL(Broadcasting Listening・主に海外の短波放送を受信して楽しむ趣味)には、放送を聞くことだけでは終わらない楽しみがあった。受信した内容をノートに記録し、受信報告書を作成して放送局へ送り、その返事を待つことである。

 数週間、あるいは数か月後、外国の切手が貼られた封筒が自宅に届くことがあった。その中に入っていたのは、放送局が受信を確認したことを示すベリカードだった。ラジオから聞こえた声は形のない電波だったが、カードが届くことで、その体験は手に取ることのできる記憶へと変わったのである。

ベリカードが届くまで~受信報告書という手紙

 ベリカードとは、Verification Card(ベリフィケーション・カード、受信確認証)を略して呼んだものである。放送を聞いた人が受信報告書を送り、放送局がその内容を確認した場合に発行されることがあった。カードには放送局名や国名、送信所の写真、風景、歴史的な建物、民族衣装、動物、観光地など、局ごとにさまざまな図柄が印刷されており、単なる受信確認のための書類というよりも、その国や地域を紹介する小さな絵はがきのような存在でもあった。

 もっとも、ベリカードは行政機関が発行する公的な証明書ではなく、各放送局が独自に発行する受信確認証である。すべての局が発行していたわけではなく、受信報告書を送れば必ず返信されるというものでもなかった。それでも、当時は海外の短波放送局だけでなく、日本国内の中波放送局や一部のテレビ局などでも、受信報告書に応じてベリカードを発行する習慣があった。

 受信報告書は、単なる「放送を聞きました」という感想文ではない。受信した日付や時刻、周波数、放送内容、受信状態、使用したラジオやアンテナなどを記載し、どの放送を、どのような条件で聞いたのかを放送局へ伝えるためのものだった。放送局によって必要な情報や返信の条件には違いがあったが、受信内容を具体的に記録することは、共通する基本的な作業だった。

 放送局にとっても、受信報告書には一定の意味があった。電波がどの地域まで届いているのか、時間帯によって受信状態がどう変化するのか、他局からの混信が生じていないかといった情報は、放送の到達状況を把握する手がかりになる。ただし、受信報告書を送るのは主に放送受信に関心を持つ人々であり、その報告だけで一般家庭全体の受信状況を統計的に推定できるわけではない。それでも、個々の場所と時間における受信状況を知らせる資料として、一定の実用的価値があった。

 中学生だった私にとっては、そのような技術的な意味よりも、受信した放送局へ自分の記録を送り、返事をもらえるかもしれないという期待の方が大きかった。遠い外国の放送局と、郵便を通じて直接やり取りできること自体が、特別な経験だったのである。

ノートに書き留めた放送内容

 受信報告書を書くためには、まず放送内容をできるだけ正確に記録する必要があった。私はラジオのそばにノートを置き、何時何分にどのような放送が聞こえたのか、音楽の後に男性または女性のアナウンサーが話したのか、ニュースではどのような国や出来事が取り上げられていたのか、といった内容を書き留めていた。

 外国語の放送では、意味を十分に理解できないこともあった。そのような場合には、聞き取れた固有名詞や地名、曲の特徴、時報、放送局名らしい言葉などを手がかりにして記録した。放送局が使用するインターバル・シグナルと呼ばれる特徴的な旋律も、局を識別するための重要な手がかりだった。

 日本語による海外向け放送であれば、番組の内容をより詳しく記録することができた。ニュース、文化紹介、音楽、聴取者から届いた手紙の紹介など、放送局によって番組の構成や雰囲気は異なっていた。同じ出来事を取り上げていても、国によって説明の仕方や重視する点が違うことがあり、海外向けの日本語放送を聞くことは、外国の立場から世界を見る機会にもなった。

 受信状態が悪いときには、放送内容のすべてを聞き取ることは難しかった。雑音が強く、何を話しているのか分からなくなることもあれば、途中で別の放送局が重なって聞こえてくることもあった。それでも、確認できた範囲をノートに記録し、分からない部分を無理に補わないようにすることが、受信報告書を作成するうえでは大切だった。

 こうした記録を続けるうちに、単に放送を聞くだけではなく、聞き取れた事実と自分の推測を区別する必要があることを、経験として学んでいったように思う。目的の局を受信したと思っていても、局名が確認できなければ別の放送だった可能性は残る。音楽や言葉の特徴だけで判断せず、時報や局名アナウンスなど複数の手がかりを組み合わせることは、受信記録の信頼性を高めるためにも重要だった。

受信状態を数字で表すSINPOコード

 受信報告書では、放送の聞こえ方を数字で評価することもあった。その際によく使われていたのが、SINPO(Signal strength・信号強度、Interference・混信、Noise・雑音、Propagation disturbance・伝搬障害、Overall merit・総合評価)コードである。

 これは受信状態を5つの要素に分け、それぞれを1から5までの数字で評価する方法だった。一般に5が良好な状態、1が不良な状態を表し、信号がどの程度強いか、ほかの放送局からの混信があるか、雑音がどの程度入るか、フェージングなどによって電波が不安定になっていないか、全体としてどれほど聞きやすいかを評価する。

 実際に使ってみると、受信状態を数字で表すことは、思ったほど単純ではなかった。信号そのものは強くても、同じ周波数に別の放送が重なって聞き取りにくい場合がある。一方、信号が弱くても雑音や混信が少なければ、番組内容を比較的理解しやすい場合もある。音声の大きさだけで受信状態が決まるわけではなく、いくつもの条件を分けて考える必要があった。

 また、SINPOコードの数字は、電波の強さを直接測定した物理量ではなく、受信者が状態を判定するための評価尺度である。信号強度を4と評価したからといって、2と評価した場合の2倍の強さがあるという意味ではないし、総合評価もほかの4項目を単純に平均して求めるものではない。あくまで受信状況を整理して伝えるための目安だった。

 当時の私が、このような数理的な性質まで理解していたわけではない。ただ、受信状態を一つの言葉で「良い」「悪い」と表現するのではなく、何が聞き取りやすさを妨げているのかを分けて記録することには、自然と慣れていった。今振り返ると、それは観察した現象を分類し、一定の基準に沿って評価し、相手に伝えるための作業だったのだと思う。

海外へ手紙を送る~返事のない時間

 海外の放送局へ受信報告書を送ることには、国内の放送局へ郵便を出す場合とは違う緊張感があった。放送局の住所を確認し、外国語で宛先を書き、航空便であることを示して、日本の郵便料金に応じた切手を貼る。封筒を郵便ポストへ入れた後、その手紙がどのような経路で目的の国まで運ばれるのか、何日かかるのか、本当に放送局へ届くのかは、中学生だった私には分からないことも多かった。

 現在の電子メールであれば、海外の相手に送信しても、通常は短時間で相手側のシステムへ届けることができる。しかし、当時の国際郵便では、相手国まで運ばれた後、放送局の担当者が報告書を確認し、返信を用意して再び郵送する必要があった。したがって、返事が届くまでには何週間もかかることがあり、場合によっては数か月待つこともあった。

 受信報告書を送ったからといって、必ずベリカードが届くとは限らなかった。局によっては返信条件が定められている場合もあり、報告内容が不十分だったり、受信の確認ができなかったりすれば、カードが送られてこないこともあった。それでも、手紙を出してしまえば、あとは返事を待つしかない。当時は海外郵便の配送状況を画面で確認できるような環境ではなく、返信がなければ、まだ処理されていないのか、郵便が遅れているのか、そもそも返信されないのかも分からなかった。

 そんな中で、すっかり忘れかけた頃になって、外国の切手が貼られた封筒が自宅に届くことがあった。郵便受けに見慣れない文字の封筒を見つけ、差出国を確かめてから慎重に封を切ると、中には色鮮やかなベリカードが入っている。放送局によっては、番組表や局を紹介する冊子、ステッカーなどが同封されていることもあった。

 その喜びは、単にカードを1枚手に入れたということだけでは説明できない。自分が受信した放送について記録し、その内容を海外へ送り、遠い場所にいる誰かが報告書を確認して返事を出してくれたという、一連の過程に意味があった。ラジオの向こう側にいた放送局の人々と、郵便という別の手段を通じてつながったことが、何よりもうれしかったのである。

1枚のカードに詰まっていた世界

 ベリカードは、放送を受信したことを確認するためのカードであると同時に、その国や地域を知るための小さな資料でもあった。カードに印刷された街並みや建物、国旗、民族衣装、動物、自然の風景などを眺めていると、まだ訪れたことのない国の暮らしや文化への関心が自然と広がっていった。

 そこに描かれている建物には、どのような歴史があるのだろうか。民族衣装を着た人々は、普段どのような生活を送っているのだろうか。放送局のアンテナが写っていれば、その設備からどの地域に向けて電波が送り出されているのかと考えることもあった。カードに掲載された写真が、その国の生活のすべてを表しているわけではないが、知らない場所に関心を持つきっかけとしては十分だった。

 学校の地理で習った国名と、ベリカードの風景、そしてラジオから聞こえてきた音声が結びつくと、その国が少し身近に感じられた。世界地図を開いて放送局のある国を探し、日本からどれほど離れているのか、間にはどのような海や大陸があるのかを確かめることもあった。

 もっとも、国際短波放送には、自国内の送信所だけでなく、国外の中継送信所を利用するものもあった。そのため、ある国の放送局を受信したからといって、必ずしも電波がその国の領土から直接届いたとは限らない。放送局が制作した番組と、実際に電波を送り出した送信所の位置は、区別して考える必要がある。それでも、遠い国の人々に向けて制作された放送を日本で聞き、その放送局からカードが届くという経験は、世界の広さを実感するのに十分だった。

 現在なら、インターネットを使って世界中の都市の写真を探したり、衛星画像で街を眺めたり、現地の映像を再生したりすることができる。翻訳機能を利用すれば、外国語の情報を日本語で理解することも以前より容易になった。しかし、情報を手に入れるまでに時間がかかった時代には、1枚のカードから想像できる世界が、今とは違った大きさを持っていたように思う。

 届くまでに何週間も待ったこと、封筒を開けるまで図柄が分からなかったこと、そこに知らない国の文字や風景が印刷されていたこと。それらが重なり、ベリカードは単なる印刷物以上の存在になっていたのである。

日本国内の中波放送局を追う

 私が受信報告書を送ったのは、海外の短波放送局だけではなかった。日本国内の中波放送局にも報告書を送り、ベリカードを集めていた。

 中波放送は、昼間には主として地表に沿って進む電波によって受信されるが、夜間になると電離層の状態が変化し、遠方の放送局が聞こえやすくなることがある。昼間は電離層下部で電波が吸収されやすい一方、夜間にはその吸収が弱まり、電離層を経由して遠くまで届く電波が受信される場合があるためである。

 その結果、昼間には聞こえなかった地域の放送局が、夜になるとラジオから現れることがあった。北海道、東北、北陸、近畿、中国、四国、九州など、遠方の局から地域ごとに異なる番組やコマーシャル、地名、方言が聞こえてくる。短波放送では外国の文化に触れることができたが、国内の中波放送では、同じ日本の中にも自分の知らない暮らしがあることを感じられた。

 特に印象的だったのは、地域ごとのコマーシャルや天気予報、催し物の案内だった。全国放送では耳にしない地元企業の名前や、聞いたことのない地名が流れてくると、その放送局がある町には、そこで暮らしている人々の日常があるのだと想像した。放送の向こう側には、商店があり、学校があり、仕事をする人々がいて、その地域だけの時間が流れているのである。

 外国語による短波放送では、言葉が分からず、内容を十分に理解できないこともあった。しかし、日本国内の中波放送であれば、言葉そのものは理解できる。だからこそ、放送内容から地域の生活や文化を具体的に想像することができた。遠方の中波局を受信することは、日本という国の広さだけでなく、その中にある地域ごとの違いを知る体験でもあった。

1978年の中波周波数変更~時代の転換点

 私が中学生だった時期には、日本の中波放送にとって重要な制度上の変更も行われている。1978年11月23日、国際協定に基づき、日本を含む関係国の中波放送の周波数配置が変更され、放送局の周波数間隔が従来の10キロヘルツから9キロヘルツへと改められた。

 この変更は、国際的な電波の利用調整を通じて混信の軽減を図り、限られた周波数をより有効に使用するためのものだった。日本国内の多くの放送局でも周波数が変更され、例えば東京の日本放送協会第1放送は590キロヘルツから594キロヘルツへ、当時の東京放送は950キロヘルツから954キロヘルツへと移った。

 現在の感覚では、わずか数キロヘルツの変更は小さな出来事に思えるかもしれない。しかし、周波数表やラジオの目盛りを頼りに各地の放送局を探していた時代には、放送局の周波数が変わることは、受信する側にとっても意味のある変更だった。

 この一斉変更について、当時の自分がどの程度意識していたかは、今となっては定かではない。ただ、日本各地の中波局を追いかけていた1978年から1981年という時期が、日本の中波放送の周波数配置が大きく変わった時代と重なっていたことは、今振り返ると興味深い。

夜の中波帯に現れる遠い町

 中波放送の遠距離受信では、同じ周波数に複数の放送局が重なることがあった。目的の局が聞こえたと思っても、しばらくすると別の局の音声が強くなり、先ほどまで聞こえていた番組が分からなくなることもある。受信状態は時間とともに変化するため、一度聞こえたからといって、安定して受信を続けられるとは限らなかった。

 このような状況では、放送局の識別に根気が必要だった。番組の切り替わりや時報の前後を待ち、アナウンサーが読み上げる局名や周波数を聞き取る。地元企業のコマーシャルや天気予報に登場する地名も、局を特定するための有力な手がかりになった。

 ただし、コマーシャルや地名だけで局を判断すると、思い違いをする可能性もある。複数の地域に同じ企業があったり、同じ地名が使われていたりする場合もあるため、局名アナウンスや番組表などと照らし合わせて確認することが望ましかった。目的の局なのか、それとも同じ周波数を使う別の局なのかを確かめる過程も、遠距離受信の楽しみだった。

 思いがけない遠方の局を確認できた夜には、なかなかラジオの前を離れられなかった。受信した日時、周波数、番組内容、受信状態をノートに書き、その記録をもとに国内の放送局へ受信報告書を送った。しばらくして返信が届けば、封筒の中には局舎や送信アンテナ、地域の観光地、放送局のマスコットなどが描かれたベリカードが入っていることがあった。

 海外局のベリカードには、異国の文化や風景への憧れがあった。一方、国内局のベリカードには、まだ訪れたことのない日本各地への関心があった。外国の放送局と日本国内の放送局では距離も言葉も違っていたが、自分の知らない土地から届いた電波を受信し、その確認としてカードを受け取るという喜びには、共通するものがあった。

ベリカードを並べて眺める

 集まったベリカードは、何度も取り出して眺めた。国別、地域別、放送局別に整理すると、それまで単なるコレクションだったカードが、自分の受信の歴史を表す記録にもなった。カードには受信した日付や周波数などが記載されている場合もあり、自分のノートに残した受信記録と照らし合わせることで、そのときのことを思い出すことができた。

 局名を確認するまで長く待ったこと、雑音が強く何度も周波数を合わせ直したこと、受信報告書を作るために放送内容を丁寧に書き留めたこと、そして郵便受けに封筒を見つけたときの喜びなど、カードには受信から到着までのさまざまな記憶が結びついていた。

 もちろん、ベリカードの枚数が増えることもうれしかった。しかし、単に多く集めればよいというものでもなかった。受信が難しかった放送局のカードには、比較的容易に受信できた局のカードとは違う意味があったし、初めて海外へ送った受信報告書に対する返信にも、特別な価値を感じた。

 受信の難しさは、放送局までの距離だけでは決まらない。送信出力やアンテナの指向性、使用する周波数、電離層の状態、他局からの混信、受信場所の雑音環境など、さまざまな条件が関係する。そのため、遠い国の放送が明瞭に受信できる一方で、比較的近い地域の放送局を確認するのに苦労することもある。そうした違いがあったからこそ、受信が難しかった局のカードには、特別な思い入れが生まれた。

 夏休みに聞いた局、冬の夜にようやく確認できた局、何度も受信を試みた末に報告書を送った局など、カードの一枚一枚には、それぞれ異なる時間と季節が結びついていた。ベリカードは、世界各地の放送局が発行した印刷物であると同時に、自分がラジオの前で過ごした時間を思い出させてくれる記録でもあったのである。

中学生の自分が学んでいたこと

 当時の私は、BCLを勉強だとは思っていなかった。ただラジオが好きで、遠くの放送局を探し、受信報告書を書き、ベリカードを集めることが面白かったのである。しかし、今になって振り返ると、その趣味には、情報を集め、整理し、確かめてから相手に伝えるという一連の作業が含まれていたことに気づく。

 目的の局を受信するためには、放送時間や周波数を調べ、時間帯や季節による電波の届き方を考える必要があった。実際に受信するときには、聞こえてきた内容を注意深く記録し、局名が確認できるまで手がかりを集める。さらに、受信状態を複数の項目に分けて評価し、報告書として相手に分かるようにまとめる必要があった。

 こうした作業では、自分の記憶だけに頼るのではなく、日時や周波数、放送内容などを記録することが重要だった。また、受信できなかった場合にも、放送時間が違っていたのか、選局がずれていたのか、それとも電波の伝搬条件が適していなかったのかを考えることで、次に試す方法が見えてくる場合があった。

 もちろん、このような趣味の経験によって、情報処理能力や科学的な思考力がどの程度向上したのかを、客観的な数値で示すことはできない。それでも、観察した事実と推測を区別すること、結果を記録して後から確認できるようにすること、複数の条件を比較して原因を考えることなどは、さまざまな学習や仕事にも通じる姿勢である。

 また、海外向けの日本語放送や、内容を理解できる外国語放送を聞いていると、同じ出来事でも国によって取り上げ方が異なることに気づく場合があった。放送局の編集方針や、それぞれの国の立場がニュースの伝え方に反映されることもあり、一つの情報源だけでは世界を十分に理解できないという感覚を持つきっかけになった。

 BCLは、学校の授業とは異なる方法で、世界の地理や文化、技術、情報の伝わり方に関心を持たせてくれた。勉強を目的に始めたわけではなかったが、好きなことを続ける過程で、知らないことを調べ、確かめる楽しさを経験していたのかもしれない。

ラジオが教えてくれた距離

 現代では、遠い国との距離を意識する場面が以前より少なくなった。海外へ電子メールを送っても、国内へ送る場合と通常は大きな時間差がなく、外国の放送もインターネットを通じて明瞭な音声で聞くことができる。衛星画像で街並みを眺めたり、現地の映像を再生したりすることも容易になり、遠くの地域に関する情報を得るための時間や費用は、かつてに比べて大きく変化した。

 ただ、短波ラジオを聞いていた時代には、遠い場所とのつながりを、受信するまでの手間や聞こえ方の変化を通じて実感することがあった。電波が弱くなったり、音声が揺れたり、ほかの局からの混信が入ったりすると、遠方から届く放送の不安定さを意識させられた。

 もっとも、電波が弱いことと送信所までの距離が遠いことは、必ずしも同じではない。電波は真空中では光と同じ速さで進み、短波の長距離伝搬では電離層による屈折や吸収、複数経路の干渉などが受信状態を左右する。例えば、5,000キロメートルという距離も、電波がその長さの経路を進むのに必要な時間は、光速に近い速度で考えれば約0.017秒にすぎない。実際の伝搬経路が長くなる場合でも、郵便物のように何週間もかかるわけではない。

 それでも、放送局の所在地を世界地図で確かめ、受信するまでに何度もダイヤルを回し、さらに受信報告書を海外へ送って返事を待つという過程は、遠い国とつながることの意味を強く感じさせた。電波が届くまでの時間と、放送局から郵便が届くまでの時間はまったく異なるが、その両方を経験することで、地図上の距離が生活の中で実感できるものになっていた。

 現在の通信技術がもたらした便利さは、間違いなく大きな進歩である。しかし、簡単には情報が手に入らなかった時代には、目的のものを探し、時間をかけて確かめ、返事を待つという過程そのものに楽しさがあった。短波ラジオとベリカードの記憶は、そうした時代の情報との付き合い方を思い出させてくれる。

2台のラジオが残したもの

 ナショナルのプロシード2800と、ソニーのスカイセンサーICF-5900。2台のラジオは、それぞれ異なる選局方式と操作感覚を持ちながら、私に世界中の声を聞かせてくれた。海外のニュースや異国の音楽、知らない言葉、日本各地の中波放送、そして夏休みの午後に聞いた大橋照子さんのヤロメロなど、当時の記憶にはさまざまな放送が結びついている。

 ラジオの前に座っていた私は、部屋から一歩も出ていなかった。それでも、ダイヤルを回すたびに、遠い国や日本各地の放送局から届く声に出会うことができた。地図の上では単なる国名や地名だった場所が、放送を通じて人々の生活する地域として感じられたのである。

 そして、放送を聞いて終わりにするのではなく、ノートに記録し、受信報告書を書いて送ることで、その体験はもう一つの広がりを持った。数週間、あるいは数か月後に届いたベリカードは、あの日聞いた放送が確かに存在し、その内容を放送局へ伝えることができたという記念になった。

 今のように膨大な情報がすぐに手に入る時代ではなかったからこそ、一つの放送局を確認することにも、一枚のカードを受け取ることにも、大きな意味を感じていたのだと思う。限られた情報の中で、自分の手と耳を使って世界を探していた時間は、今でも忘れがたい。

おわりに~雑音の向こうにあった世界

 1978年から1981年までの中学生時代、私の机の上にはプロシード2800とICF-5900があった。現在の小さな端末と比べれば、大きく、重く、選局にも手間のかかるラジオだったかもしれない。しかし、あの2台には、現在の通信機器とは異なる魅力があった。

 自分の手でダイヤルを回し、注意深く耳を澄ませなければ、目的の放送局を見つけることは難しかった。受信した内容を記録し、報告書を書かなければ、放送局に受信を知らせることもできなかった。さらに、ベリカードが届くかどうかは放送局の対応にも左右され、返事が来るまでには長い時間が必要だった。

 そこには、情報を得るまでの時間と、記録する手間と、返事を待つ時間があった。その一つ一つが重なり、受信した声や届いたカードは、単なる情報や印刷物ではなく、自分自身の経験として記憶に残っていったのである。

 世界は、最初から画面の中に整理されて表示されていたわけではなかった。雑音の向こうから、かすかに聞こえてくる声を探し、その声がどこから届いているのかを確かめることで、少しずつ身近になっていった。

 遠い国や日本各地から届いた放送を聞きながら、私は自分の知らない世界がどこまでも広がっていることを知った。そして、郵便受けに届いたベリカードによって、ラジオの向こう側には確かに人々がいて、放送を送り出し、受信報告書に返事を書いてくれる人がいることを感じた。

 あの頃、短波ラジオは単なる受信機ではなかった。プロシード2800とICF-5900は、中学生だった私にとって、世界へ向けて開かれた窓だったのである。

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ナショナル・プロシード2800とソニーICF-5900の記憶

はじめに~世界はラジオの向こう側にあった

 インターネットが一般家庭には普及しておらず、スマートフォンも動画配信サービスも存在しなかった時代、遠い外国と出会うための入口は、今よりもはるかに限られていた。外国の街並みを見たければ、テレビの紀行番組や映画、写真集、雑誌などを頼りにすることが多く、海外の人々が何を考え、どのような音楽を聴き、どんなニュースを伝えているのかを知るにも、現在ほど多くの手段はなかった。

 しかし、私の部屋には、世界へ直接つながる機械があった。短波ラジオである。

 1978年から1981年にかけての中学生時代、私はナショナルの「プロシード2800」と、ソニーの「スカイセンサーICF-5900」という2台のラジオを使っていた。ダイヤルをゆっくり回していくと、ザーッという雑音の中から、聞いたことのない言葉や音楽が浮かび上がってくる。遠い国の放送局から送り出された電波が、さまざまな条件を経て日本まで届き、私の部屋で音声になっているのである。

 その声がどこの国から届いているのか、送信所はどれほど遠くにあるのか、放送している人々はどのような場所で暮らしているのか。学校の教科書や地図帳だけでは実感しにくかった世界の広さを、私はラジオの前に座りながら想像していた。

1970年代末の中学生にとっての「世界」

 1978年当時、日本は高度経済成長期を終え、家庭にはカラーテレビやステレオなどの電気製品が広く普及していた。海外のニュースも新聞やテレビで報じられ、外国の文化に触れる機会がまったくなかったわけではない。しかし、一般の中学生が海外の人々の声を直接聞いたり、外国の放送局が伝えるニュースに接したりする機会は限られていた。国際電話や手紙による海外との連絡も可能だったが、費用や時間の面で、現在ほど気軽なものではなかった。

 そんな時代に、海外の放送局が発信する声を自分の部屋で受信できることは、特別な体験だった。当時はBCL(Broadcasting Listening・主に海外の短波放送を受信して楽しむ趣味)が、中学生や高校生を中心に大きな人気を集めていた。書店には短波放送の周波数や放送時刻、受信方法を紹介する雑誌や書籍が並び、電器店には大型のダイヤルや多数のスイッチを備えた高性能ラジオが展示されていた。

 BCLの魅力は、単にラジオ番組を聞くことだけではなかった。放送予定を調べ、弱い電波を探し、周波数を調整し、局名を確認して受信状態を記録するという一連の作業にも楽しさがあった。目的の放送局がすぐに聞こえるとは限らず、時間帯を変えたり、アンテナを工夫したり、何度も選局を繰り返したりする必要があったが、その手間も含めて一つの趣味として成立していたのである。

 1970年代後半は、こうしたBCLブームが最盛期を迎えた時代だった。ただし、高性能な短波ラジオは決して安価な製品ではなく、誰もが所有できたわけではない。現在のように世界中の放送へ簡単にアクセスできる環境がなかったからこそ、短波ラジオを手元に置いて自由に選局できることには、大きな魅力があった。

ナショナル・プロシード2800~周波数が数字で見えるラジオ

 私が使っていた1台は、ナショナルのプロシード2800、型式名ではRF-2800というラジオだった。1977年に発売されたこの機種は、当時の定価が49,800円という高級受信機で、横に長い存在感のある筐体と、多数の操作部を備えた外観が印象的だった。家庭用ラジオでありながら、どこか本格的な通信機器を思わせる雰囲気があり、その前に座るだけでも特別な気分になった。

 プロシード2800は、中波放送、FM(Frequency Modulation・周波数変調方式による超短波放送)、そして3つに分けられた短波帯を受信できる5バンドラジオだった。特徴的だったのは、周波数カウンターを利用した赤色のデジタル表示である。当時の一般的なラジオでは、ダイヤルの目盛りから受信周波数を読み取ることが多かったが、この機種では選局した周波数を数字で確認できた。

 もっとも、デジタル表示があるからといって、現在の電子同調式ラジオのように数字を入力すれば自動的に目的の周波数へ移動するわけではなかった。周波数の表示には電子回路が使われていても、選局そのものは可変コンデンサーを用いたアナログ式であり、最終的には自分の手でダイヤルを動かす必要があった。数字による確認と、指先による微妙な調整が組み合わされていたことが、このラジオの特徴だった。

 目的の放送局を探すときには、まず周波数表で放送予定を確認し、表示される数字を見ながらダイヤルを回していく。周波数が近づくにつれて雑音の中に音声が現れることもあれば、隣接する放送局の音声や混信音が重なり、何を話しているのか分からなくなることもあった。そんなときには、ダイヤルをほんの少しだけ左右に動かし、最も聞き取りやすい位置を探した。

 雑音に埋もれていた人の声が少しずつ明瞭になり、やがて放送局名や番組の内容が聞き取れるようになる。その瞬間には、単に番組を聞く以上の喜びがあった。放送局は最初から目の前に用意されているのではなく、自分で探して見つけるものだったのである。

 現在の検索エンジンであれば、放送局名を入力するだけで関連する情報にたどり着ける。しかし、プロシード2800の前では、探している局とは別の放送が突然聞こえてくることも珍しくなかった。その偶然によって、予定していなかった国の言葉や音楽に出会うことがあった。

ソニー・スカイセンサーICF-5900~電波を追い込む楽しさ

 もう1台は、ソニーのスカイセンサーICF-5900だった。1975年に発売されたこの機種は、当時の定価が27,800円で、1970年代のBCLブームを代表する受信機の一つだった。プロシード2800よりも比較的コンパクトな筐体に、短波受信のための機能が詰め込まれており、前面に並ぶダイヤルやスイッチには、機械を操作すること自体を楽しませる魅力があった。

 ICF-5900も、中波、FM、3つの短波帯を受信する5バンドラジオだったが、周波数を合わせる仕組みはプロシード2800とは異なっていた。この機種の大きな特徴は、クリスタルマーカーとスプレッドダイヤルを組み合わせた選局方式である。クリスタルマーカーによって周波数の基準を確認し、主ダイヤルで受信したい周波数の周辺へ合わせた後、スプレッドダイヤルを使って細かな調整を行うことができた。

 短波放送では、多くの局が比較的狭い周波数範囲に並んでいるため、わずかな選局の違いが受信状態に影響する。ICF-5900の操作では、まず大まかな位置を探し、基準となる周波数を確認しながら、目的の局へ少しずつ近づいていくことになる。周波数を数字で直接表示するプロシード2800とは違い、目盛りと操作感覚を頼りに周波数を把握するところに、独特の面白さがあった。

 また、ICF-5900の短波受信回路には、デュアルコンバージョン方式(二重周波数変換方式)が採用されていた。受信した高周波信号を二段階で中間周波数へ変換する方式で、適切に設計することで、不要な信号による妨害を抑えるうえで有利になる。短波放送のように多数の電波が入り交じる環境では、こうした回路設計も受信性能を支える重要な要素だった。

 もっとも、中学生だった私が、こうした電子回路の仕組みをすべて理解していたわけではない。目的の局が聞こえないとき、それが選局のずれによるものなのか、放送時間が違うのか、それとも電波の伝搬状態が悪いのか、すぐに判断することは難しかった。それでも、試行錯誤を重ねるうちに、どのダイヤルをどの程度動かせば聞き取りやすくなるのか、少しずつ感覚として身についていった。

 プロシード2800には、デジタル表示を備えた大型受信機らしい堂々とした魅力があった。一方、ICF-5900には、限られた大きさの中で細かな操作を積み重ね、目的の電波を探し当てる道具としての魅力があった。周波数を確認する方法も、選局するときの感覚も異なる2台を使い分けながら、私は夜ごとに周波数表とラジオの目盛りを見比べていた。

夜になると開かれる世界~電離層と短波放送

 短波放送は、いつでも同じように聞こえるわけではない。昼間には受信しやすい放送局が、夜になるとほとんど聞こえなくなることもあれば、反対に、日中には弱かった遠方の局が夕方から夜にかけて浮かび上がってくることもあった。周波数が同じでも、季節や時間帯、太陽活動の状態によって受信状況は変化するため、一度聞こえた局が翌日も同じように聞こえるとは限らなかった。

 こうした現象には、地球の上空に存在する電離層が深く関係している。太陽から届く放射線の影響を受けて形成される電離層では、電波の進む方向が変化し、条件が整えば短波の電波が地表へ戻ってくる。このような伝搬を繰り返すことで、短波放送は地球の曲率によって直接見通せない遠方にも届くことがある。

 ただし、短波であればどの周波数でも同じように遠くまで届くわけではない。昼間は電離層下部での吸収が強くなるため、比較的低い周波数の短波が不利になる場合がある。一方、夜間にはその吸収が弱まるものの、電離層上部の状態も変わるため、高い周波数では遠距離伝搬が成立しにくくなる場合がある。放送局が時間帯や対象地域によって使用する周波数を変えるのも、こうした性質と関係している。

 当時の私は、電離層の物理的な仕組みを十分に理解していたわけではなかったが、電波の届き方が昼と夜で違うことは、実際の受信を通じて知っていた。夕方になるとラジオの前に座り、ロッドアンテナを伸ばして向きを変え、場合によってはアンテナ線や受信場所を工夫して、少しでも聞き取りやすくなる条件を探した。

 ダイヤルを合わせると、日本語による海外向け放送が聞こえてくることがあった。外国語の放送では、話している内容のすべてを理解できなくても、音楽や話し方、時報、放送局名らしい言葉から、どの地域の放送なのかを考えた。同じ周波数に複数の放送局が重なることもあり、目的の局なのかどうか確信が持てない場合には、番組の切り替わりや局名アナウンスを待つ必要があった。

 特に重要だったのが、インターバル・シグナルと呼ばれる、放送局を識別するための短い音楽や旋律だった。言葉が分からなくても、周波数表や受信資料に記載された特徴的な音を手がかりに、目的の放送局かどうかを判断できることがあった。時報や局名アナウンスと組み合わせて確認できたときには、自分の推測が正しかったことを確かめる小さな達成感があった。

 世界地図の上では、ただの点や国名として認識していた場所から、実際に放送が発信されている。国際放送には国外の中継送信所を利用するものもあったため、必ずしも放送局の本部がある国から直接電波が届くとは限らなかったが、それでも遠い地域に向けて発信された放送を日本の家庭で受信できることに変わりはなかった。地図帳の中にあった世界が、音声を通じて現実のものになったように感じられた。

雑音もまた、短波受信の記憶だった

 現在では、音声が途切れたり、雑音が混じったりすると、通信品質が悪いと判断されることが多い。インターネットを経由した音声配信では、一定の通信条件が保たれていれば、遠方からの放送でも明瞭な音を聞くことができる。しかし、短波ラジオを聞いていた頃には、雑音や音の揺らぎも日常的な受信体験の一部だった。

 短波放送では、受信している信号が突然強くなったり弱くなったりすることがある。人の声が急に遠ざかったように小さくなり、数秒後には再び聞き取りやすくなる現象は、フェージング(Fading・電波の伝搬条件や干渉によって受信信号の強さが変動する現象)と呼ばれる。電離層の状態が時間とともに変化することや、異なる経路を通って届いた電波が互いに干渉することなどが、その原因となる。

 ほかにも、雷放電による雑音が受信に影響することがあり、家庭内の電気製品から発生する電気的な雑音に悩まされることもあった。近くの放送局であっても雑音が多い場合はあり、反対に、何千キロメートルも離れた送信所からの電波が比較的明瞭に聞こえることもある。したがって、雑音の強さだけで放送局までの距離が分かるわけではない。

 それでも、当時の私にとって、雑音の奥から聞こえてくる人の声には、遠距離受信ならではの実感があった。ダイヤルをわずかに動かすだけで声が消えたり、しばらくすると再び音楽が聞こえてきたりする不安定さが、遠くの世界とつながっているという感覚を強めていたのである。

 音質が良いことだけが、放送を聞く楽しさではなかった。雑音の中から聞き取れた短い言葉や、かすかに響く音楽にも、それまで知らなかった世界の存在を感じることができた。受信状態が十分でなくても、どこの局なのかを確かめようと耳を澄ませる時間そのものが、私にとっては大切だった。

夏休みの午後と「ヤロメロ」

 短波ラジオの思い出は、海外放送だけではない。夏休みには、日本短波放送、当時のラジオたんぱの番組も聞いていた。中でも印象に残っているのが、大橋照子さんが出演していた「ヤロウどもメロウどもOh!」、通称「ヤロメロ」である。

 この番組は1977年4月に始まり、東京の公開放送用スタジオからの生放送として親しまれた。その後、1978年4月からは「ふれあいスタジオ」という番組名の時期を経て、1980年4月には「ヤロウどもメロウどもOh!」の名称が復活した。さらに1983年には「日本全国ヤロメロどん!」へと発展し、関連する番組の流れは1985年まで続いた。私が中学生だった1978年から1981年は、ちょうどこうした番組名や構成の変遷と重なる時期だった。

 当時は番組名に変化があったものの、私の記憶の中では、大橋照子さんの声や親しみやすい放送の雰囲気とともに、一連の番組が「ヤロメロ」の思い出として残っている。

 夏休みの午後は、学校の授業がある日とは時間の流れ方が違っていた。いつもなら教室にいる時間帯に、自分の部屋でラジオを聞くことができる。そんな自由な時間の中で、大橋照子さんの声が聞こえてくると、遠い外国の放送局を探していたときとは別の楽しさがあった。

 海外短波放送では、聞き慣れない言葉や音楽を通じて、遠くの国を想像していた。一方、ヤロメロでは、出演者と全国各地のリスナーが同じ番組を共有しているような親しさを感じることができた。公開生放送という形式には、何が起こるか分からない面白さがあり、出演者の声や会話から、その場の雰囲気が伝わってくるように思えた。

 短波という同じ電波を利用しながら、一方では世界各国のニュースや文化に触れ、もう一方では日本各地にいる同世代のリスナーの存在を感じることができたのである。海外放送は世界の広さを教えてくれたが、ヤロメロは、日本国内にも自分の知らない多くの人々がいて、同じ時間にラジオを聞いていることを意識させてくれた。

 現在なら、番組への投稿や出演者との交流は、インターネットやSNS(Social Networking Service・人々が情報を発信し交流するソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じて行うことができる。しかし、当時は電波を通じて声を聞き、手紙を送り、放送で紹介されることを待つという方法が中心だった。そうした時間のかかる交流もまた、ラジオ文化の特徴だったのだと思う。

2台のラジオが教えてくれたこと

 プロシード2800とICF-5900の前で過ごした時間を振り返ると、そこには単に放送を聞くだけではない、多くの経験が含まれていたことに気づく。放送時刻と周波数を調べ、受信条件を考え、ダイヤルを操作して目的の局を探し、聞こえてきた音声から放送局を確認するという作業は、自分で情報を集め、手がかりを比較し、確かめることの繰り返しだった。

 もちろん、当時の私は、それを科学的な観察や情報収集の訓練だと考えていたわけではない。ただ、ラジオを操作することが好きで、知らない放送局を見つけることが面白かったのである。しかし、受信できなかった理由を考え、翌日に時間帯や周波数を変えて試してみることは、結果として条件の違いを意識する経験になっていたのかもしれない。

 今では、海外の放送もインターネットを使えば比較的容易に聞くことができ、世界中のニュースや音楽、映像に短時間でアクセスできる。それは情報を得るうえで大きな進歩であり、かつての不便さに戻る必要はない。ただ、情報が限られていた時代には、目的のものへたどり着くまでの過程に、現在とは異なる楽しみがあった。

 自分の手でダイヤルを回し、周波数を探し、雑音の奥から人の声を見つける。その一つ一つの操作が、知らない世界との出会いにつながっていた。

前編のおわりに~電波の向こうにいた人々

 1978年から1981年までの中学生時代、ナショナルのプロシード2800とソニーのスカイセンサーICF-5900は、私にとって特別な存在だった。2台のラジオには、それぞれ異なる選局方式と操作の面白さがあり、どちらも遠い世界を探すための道具として、記憶に深く残っている。

 机の前に座ってダイヤルを回すだけで、外国の放送局が伝えるニュースや音楽を聞くことができた。ときには国内のラジオたんぱから大橋照子さんの声が聞こえ、全国のリスナーと同じ時間を過ごしているような感覚を味わうこともあった。短波ラジオは、外国へ向かう窓であると同時に、日本各地の人々とつながる場所でもあったのである。

 しかし、BCLの楽しみは、放送を聞いたところで終わるわけではなかった。受信した日時や周波数、番組内容、受信状態を記録し、放送局へ受信報告書を送るという、もう一つの楽しみが待っていた。

 報告書を送ってから数週間、あるいは数か月後、外国の切手が貼られた封筒が自宅に届くことがあった。その中に入っていたのは、放送局が受信を確認したことを示すベリカードである。遠い国から届いた一枚のカードは、ラジオから聞こえた声を、手に取ることのできる思い出へと変えてくれた。

 後編では、海外短波放送局や日本国内の中波放送局へ受信報告書を送り、ベリカードの到着を待った日々について振り返りたい。

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