リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

作家・作品論

作家・作品論

三島は右、大江は左。それだけで二人を理解できるのか

三島由紀夫と大江健三郎。

戦後日本文学を代表する作家として、この二人ほど対照的に語られやすい人物も少ない。

三島由紀夫。

天皇。

日本文化。

自衛隊。

楯の会。

1970年11月25日の市ヶ谷での行動と自決。

一方、大江健三郎。

戦後民主主義。

広島。

核兵器。

平和。

憲法。

1994年のノーベル文学賞。

このように並べれば、

三島=保守・右翼 大江=リベラル・左派

という構図が成立するように見える。

政治的位置を大きく整理するなら、この違いを無視することはできない。

しかし、それだけで二人を比較すると、非常に重要な部分が見えなくなる。

なぜなら二人とも、

「敗戦後の日本とは何なのか」

という同じ巨大な問題から出発しているからである。

三島は、戦後日本によって失われたものを見ようとした。

大江は、敗戦後に獲得されたものを守り、さらに徹底しようとした。

三島は、

日本文化、

天皇、

歴史、

身体、

死、

国家、

へ向かった。

大江は、

民主主義、

個人、

核、

広島、

沖縄、

少数者、

へ向かった。

方向は大きく異なる。

しかし二人とも、

経済的に豊かになれば、それで戦後日本は完成する、

とは考えなかった。

だからこの二人を比較する意味は、

どちらが正しかったかを決めることではない。

同じ戦後日本を見ながら、なぜこれほど異なる答えへ到達したのか。

そこを考えることにある。

1 二人は同じ「戦後作家」でも世代が少し違う

三島由紀夫は1925年生まれである。

大江健三郎は1935年生まれである。大江は1994年にノーベル文学賞を受賞し、2023年に87歳で亡くなった。ノーベル財団も1935年1月31日生まれ、2023年3月3日没としている。

二人の年齢差は10歳である。

この10年は大きい。

三島は敗戦時に20歳だった。

大江は10歳だった。

つまり三島には、

戦前から戦後へ、自分自身の青年期の途中で世界が断絶した

という経験がある。

一方、大江の場合には、

敗戦後の新しい日本で青年期を形成した

という側面が強い。

大江自身も1994年のノーベル賞講演で、第二次世界大戦中、四国の山村で少年時代を送っていたことから語り始めている。

この世代差は、二人の戦後観を考える重要な前提になる。

2 三島にとっての戦後~「何かが失われた」という感覚

三島の文学や評論を読むと、

戦後日本に対する強い違和感が繰り返し現れる。

もちろん三島を、

「昔の日本へ戻りたかっただけの作家」

と整理することはできない。

三島自身は西欧文学を深く読み、非常に近代的な小説技法を使った作家でもある。

しかし政治・文化論では、

日本の歴史と文化が、

戦後の社会の中でどのように連続するのか、

という問題を強く意識した。

その代表的な文章の一つが『文化防衛論』である。

同書は1969年に刊行され、戦後文化が成熟し学生運動も激しかった時期に、「最後に護られねばならぬ日本」をめぐって展開された評論・対談などを収録している。

三島にとって重要だったのは、

日本が経済成長することだけではない。

日本が日本であり続けるとはどういうことなのか

という問題だった。

3 大江にとっての戦後~「新しく始めることのできる日本」

一方、大江にとって戦後は違う意味を持った。

大江は戦後日本の民主主義を、自分自身の思想形成に深く関係するものとして受け止めた。

その背景には、

敗戦、

戦争体験、

広島・長崎、

日本国憲法、

といった問題がある。

大江は1994年のノーベル賞講演を「Japan, the Ambiguous, and Myself」、日本語では一般に『あいまいな日本の私』として知られる題で行った。そこでは、日本が近代化の中で西洋との関係に引き裂かれ、戦後には民主主義と非軍事化を新しい方向として選んだことについて論じている。

つまり大江にとって戦後は、

失われた伝統を回復する時代

というより、

戦前とは異なる原理によって日本を作り直す可能性

を持った時代だった。

ここに三島との大きな分岐がある。

4 しかし二人とも「戦後日本はこれでよい」とは考えなかった

この違いだけを見ると、

三島は戦後を否定し、

大江は戦後を肯定した、

と整理したくなる。

しかし、それも単純すぎる。

大江は戦後日本の現実を無条件に肯定したわけではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

国家。

少数者。

こうした問題について、戦後日本が掲げた民主主義や平和主義を本当に実現しているのかを繰り返し問うた。

東京大学の大江健三郎文庫には、原稿・関連資料・書誌情報が保存されており、大江の文学と公共的活動を研究する基盤になっている。 つまり大江も、

現実の戦後日本

と、

戦後日本が掲げた理念

の間に大きな距離を見ていた。

その点では三島と共通している。

二人とも、

現実の日本に満足していなかった。

違ったのは、

何を基準に現実を批判したのか

なのである。

5 三島は「失われた連続性」から戦後を批判した

三島の戦後批判を大きく整理すれば、

戦後によって、

歴史、

文化、

天皇、

国家、

身体、

死、

といったものの意味が切断されたのではないか、

という問題になる。

三島の天皇論は、単純に戦前の政治制度をそのまま復活させようという議論と同一ではない。

『文化防衛論』を中心とする三島の天皇論については、天皇を文化概念として捉える側面が研究されている。

三島にとって天皇は、

単なる行政権力者というより、

日本文化の歴史的連続性を象徴する存在

として重要だった。

ここを理解しないと、

三島=天皇制支持

という政治ラベルだけになってしまう。

6 大江は「戦後民主主義の未完成」から日本を批判した

大江の場合は逆方向である。

大江が基準にしたのは、

民主主義、

個人の尊厳、

平和、

核への抵抗、

などだった。

戦後日本がそうした理念を掲げた以上、

現実の日本もその原理へ近づくべきだ、

と考える。

だから大江にとって問題なのは、

戦後によって伝統が失われたこと

というより、

戦後が掲げた理念が十分に実現されていないこと

だった。

つまり二人の批判は、

三島~

「戦後によって何を失ったのか」

大江~

「戦後が約束したものを本当に実現したのか」

という違いとして考えることができる。

7 三島にとって「天皇」は何だったのか

三島を語る場合、天皇の問題を避けることはできない。

しかし、

三島は天皇を政治的独裁者にしようとした、

と単純化するのも適切ではない。

三島の政治・文化論における天皇は、

日本の歴史、

祭祀、

文化、

共同体、

と結び付いた存在として考えられている。

彼が問題視したのは、

戦後日本が、

経済、

消費、

生活水準、

という方向では豊かになる一方、

自分たちが何を共有する国家なのかを説明できなくなること

だった。

ここで天皇が、

文化的な統合原理として現れる。

もちろん、この考え方には多くの批判があり得る。

日本文化を一つの原理へまとめることが可能なのか。

文化的多様性をどう扱うのか。

天皇を共有しない人々はどう位置付けられるのか。

こうした問題は残る。

8 大江にとって「民主主義」は何だったのか

大江にとって民主主義は、

単なる政治制度ではなかった。

戦後を生きる人間の基本的な価値に近い。

大江はノーベル賞講演でも、日本が戦後に民主主義と非軍事化を自らの新しい道として選んだことを重視している。

ここには三島との鮮明な違いがある。

三島は、

戦後制度だけでは日本の文化的根拠を支えられない、

と考える。

大江は、

戦後民主主義こそ、過去の破局を繰り返さないための重要な原理だ、

と考える。

二人は同じ「戦後」を、

ほぼ逆方向から評価したのである。

9 文化勲章辞退に表れた大江の立場

1994年、大江はノーベル文学賞を受賞した。

同じ年、日本国内では文化勲章の授与を辞退したことでも大きく注目された。

当時報じられた理由は、自分は戦後民主主義の人間であり、民主主義に勝る権威や価値観を認めないという趣旨のものだった。

この行動は、

大江が単に政治について発言する作家だったのではなく、

自分自身の公的な立場についても、戦後民主主義との整合性を意識していた

ことを象徴する出来事として読むことができる。

三島が天皇を文化的な中心として考えたのに対し、

大江は国家的・天皇的権威より民主主義の価値を優先した。

ここでは両者の違いが極めて鮮明になる。

10 しかし三島も単純な「国家権力礼賛」ではない

ここで三島についても注意が必要である。

三島を、

国家権力を無条件に支持した作家

とするのは正確ではない。

三島は戦後日本の国家そのものに強い不満を持っていた。

その不満の対象には、

日本国憲法、

安全保障、

自衛隊の位置付け、

対米関係、

などがあった。

つまり三島は、

当時の日本国家を守ろうとしたというより、

当時の日本国家を不完全なものとして批判していた

のである。

だから三島の国家観は、

現状維持型の保守主義

とも少し違う。

11 三島事件~文学と政治が最終的に重なった瞬間

1970年11月25日、三島は楯の会の会員4人とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ入り、東部方面総監を拘束し、自衛隊員に向けて演説した後、自決した。毎日新聞の写真資料にも同日の事件が記録されている。

三島の最後の声明文「檄」は全集にも収録されている。国立国会図書館のレファレンス事例でも、その所在が確認されている。

ここでは三島の文学、

身体、

死、

国家、

政治、

が一つの行為へ重なった。

だから三島を読む場合、

文学作品と政治行動を完全に切り離すことも難しい。

しかし逆に、

すべての小説を1970年の自決から逆算して読むことも危険

である。

三島文学は政治思想だけでは説明できないからである。

12 大江は「行動する文学者」だったが、方法は三島と正反対だった

大江も文学だけに閉じこもった作家ではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

憲法。

社会問題。

などについて長期間公的発言を続けた。

しかし方法は三島と大きく異なる。

大江が選んだのは、

文章。

講演。

市民運動。

社会的発言。

といった方法だった。

三島の場合には、

最終的に身体そのものを政治的表現へ変えた。

大江の場合には、

言葉と市民社会の中で主張し続けること

を選んだ。

この対照は非常に大きい。

13 「身体」の三島と「言葉」の大江

三島文学を考える上で身体は重要である。

三島自身、肉体鍛錬を行い、

身体、

美、

死、

行為、

を結び付けていった。

彼には、

言葉だけでは現実へ到達できない、

という感覚が強くなっていったと読むことができる。

一方、大江は極めて言語的な作家である。

複雑な文章。

自己検証。

引用。

歴史。

政治。

文学。

を通して問題を考える。

大きく整理すれば、

三島は、

言葉を身体と行動へ近づけようとした作家

であり、

大江は、

言葉によって世界の複雑さを引き受け続けようとした作家

と見ることもできる。

ただしこれは比較のための整理であり、二人の全作品をこの一点へ還元することはできない。

14 三島の「明晰さ」と大江の「あいまいさ」

文章の方向にも興味深い違いがある。

三島は、

美。

死。

天皇。

文化。

国家。

といった概念を、

非常に強い輪郭を持たせて提示する傾向がある。

大江は逆に、

矛盾。

曖昧さ。

複数の声。

弱さ。

周縁。

を残そうとする。

1994年のノーベル賞講演で、大江が自ら選んだ言葉が、

「ambiguous」~あいまいな

だったことは象徴的である。

大江は、日本を一つの明確な本質によって定義することそのものへ慎重だった。

ここにも三島との差が見える。

15 三島は「日本とは何か」を一つの中心から考えようとした

三島にとって、

日本文化には何らかの中心が存在する。

歴史。

伝統。

天皇。

古典芸能。

武士的倫理。

そうしたものを通して日本を考える。

だから三島の思考は、

中心を探す思考

だと言える。

日本とは何か。

何を守れば日本なのか。

何が失われれば日本ではなくなるのか。

という問いである。

『文化防衛論』という題名そのものが、

守るべき文化が存在する

という前提に立っている。

16 大江は「中心から外された人」から日本を考えた

大江の文学には、

周縁に置かれた存在が繰り返し現れる。

社会から外れた人。

弱い人。

障害を持つ人。

地方。

広島の被爆者。

国家の中心的物語から外れる人々。

大江は、

日本の中心とは何か

という問いより、

中心から見えなくなっている人間は誰か

という方向へ向かう。

ここに三島との根本的な違いがある。

三島は中心を回復しようとする。

大江は中心によって消されるものを見ようとする。

17 広島~大江が戦後日本を見る重要な場所

大江の思想と文学を考える上で、広島は極めて重要である。

『ヒロシマ・ノート』などを通じて、大江は被爆者や核兵器の問題を長期間考え続けた。

大江にとって広島は、

過去の一事件

ではない。

近代国家。

戦争。

科学。

核。

人間の尊厳。

を問い続ける場所である。

ここから大江の平和・核に関する社会的発言もつながっていく。

三島が、

日本文化の断絶

を戦後の核心問題として見るとすれば、

大江は、

戦争と核の経験を経た国家が、どうすれば再び人間を犠牲にしない社会になれるのか

を重要な問題とした。

18 二人の「日本」はどちらも単純な現状肯定ではない

ここまでを見ると、

三島は日本を愛した。

大江は日本を批判した。

という対立に見えるかもしれない。

しかしこれも違う。

三島は現実の日本を激しく批判した。

大江も日本社会を批判しながら、日本語で日本社会について書き続けた。

つまり二人とも、

現実の日本と、自分が望む日本との距離

に苦しんだ作家である。

違うのは理想像だった。

三島~

文化的連続性を回復した日本。

大江~

戦後民主主義をより徹底した日本。

という方向である。

19 二人とも「経済成長だけでは人間は満たされない」と考えた

戦後日本は高度経済成長によって急速に豊かになった。

生活水準が向上する。

消費社会が拡大する。

都市化が進む。

しかし三島も大江も、

経済成長だけで日本社会の問題が解決した

とは考えなかった。

三島には、

豊かさの中で文化的中心が失われる、

という危機感があった。

大江には、

経済的繁栄の背後に、

広島、

沖縄、

核、

社会的弱者、

などの問題が残されるという意識があった。

したがって二人は、

政治思想は反対でも、

高度成長社会への違和感

という点では意外に近い。

20 三島は「強さ」を、大江は「弱さ」をどう見たか

二人の文学を比較すると、

人間の強さと弱さに対する視線にも違いがある。

三島の作品では、

美しい身体。

意志。

決断。

死。

英雄性。

といったものが強い魅力を持つ。

もちろん三島文学には弱い人間も多く登場するが、その弱さと理想的な美との緊張が作品を生む。

一方、大江文学では、

弱さ。

傷。

障害。

失敗。

周縁。

を抱えた人間が重要になる。

大江は、

弱さを克服して完全な人間になる、

という方向だけではなく、

弱さを抱えたまま他者と生きる可能性

を探る。

ここにも二人の戦後的人間像の違いがある。

21 「個人」を重視する点では意外に共通している

それでも二人には重要な共通点がある。

どちらも、

国家や社会の中へ完全に溶け込んだ人間

を描いた作家ではない。

三島の登場人物も、

社会から孤立する。

欲望を抱える。

美への執着を持つ。

自分だけの世界を作る。

大江の登場人物も、

社会の中で葛藤し、

個人として選択を迫られる。

二人とも、

近代的な「個人」の孤独を描いた作家

なのである。

ここを見ると、

三島=集団主義、

大江=個人主義、

と単純には分けられない。

22 なぜ作家が政治について語ったのか

現在では、

小説家は文学だけを書けばよい。

政治は政治学者へ任せればよい。

という考え方もある。

しかし三島と大江の時代には、

文学者が社会問題について公に語ることは現在ほど珍しくなかった。

それは、

戦後日本において作家が、

人間、

社会、

国家、

歴史、

について考える公共的知識人でもあったからである。

三島と大江は、その意味で二人とも、

戦後型知識人としての作家

だった。

思想は反対でも、

「作家は社会について語る資格と責任を持つ」

という点では共通していたと見ることができる。

23 三島の行動は文学によって正当化されるのか

三島について語る場合、一つ慎重に区別しなければならない。

優れた文学を書いたこと

と、

政治行動が正しかったこと

は別である。

文学的価値によって、

1970年の行動を政治的に正当化することはできない。

逆に、

政治的立場に反対だから文学作品にも価値がない、

ということにもならない。

ここは重要である。

作品の評価と政治行動の評価は、関連させながらも区別する必要がある。

それをしなければ、

三島支持=文学評価、

三島批判=文学否定、

という不毛な二択になってしまう。

24 大江の政治的発言も文学的権威だけで正しいとは言えない

これは大江についても同じである。

ノーベル文学賞を受賞したからといって、

大江の政治的主張が自動的に正しいわけではない。

文学的才能。

社会分析。

政治判断。

は別の能力である。

したがって大江の、

核。

憲法。

沖縄。

国家。

についての主張も、

内容それ自体によって検討されるべき

である。

この区別をしなければ、

ノーベル賞作家だから正しい、

という権威主義になってしまう。

二人を公平に比較するためには、

三島についても大江についても、

作家としての評価と政治的評価を分ける必要がある。

25 二人は本当に「正反対」だったのか

ここで記事の題名へ戻ろう。

三島と大江は、

戦後日本を正反対の方向から考えた二人

なのか。

大きな政治的方向としては、

確かに非常に遠い。

天皇。

憲法。

軍事。

戦後民主主義。

国家。

について、二人の立場には大きな隔たりがある。

しかし、

問題意識の深い部分では共通点もある。

二人とも、

戦後日本とは何か

を問い続けた。

二人とも、

経済成長だけでは社会を評価しなかった。

二人とも、

文学を社会から隔離しなかった。

二人とも、

国家と個人の関係を考えた。

二人とも、

戦後日本に何らかの「欠落」を感じていた。

ただし、その欠落の名前が違った。

26 三島が見た欠落、大江が見た欠落

整理すると分かりやすい。

三島が見た欠落は、

歴史的連続性。

文化的中心。

天皇。

国家としての自立。

身体と行為。

だった。

大江が見た欠落は、

民主主義の徹底。

戦争責任。

被爆者への視線。

核への抵抗。

少数者や周縁への視線。

だった。

つまり、

二人は違う日本を見ていた、

というより、

同じ日本の中で、違う欠落を見ていた

と考える方がよい。

27 三島は過去から未来を作ろうとした

三島の方向を簡潔に表すなら、

過去との連続性を取り戻すことで未来を作ろうとした

と言える。

古典。

伝統。

天皇。

武士。

身体。

そうした歴史的・文化的資源を現代へ取り戻す。

もちろん単純な復古ではない。

三島自身は極めて近代的な作家だったからである。

むしろ、

近代化した日本が、

それでも日本として何を保持できるのか

を問う。

これは、

過去を使って未来を考える方法だった。

28 大江は戦後の理念を徹底することで未来を作ろうとした

大江の場合は違う。

敗戦後に日本が掲げた、

民主主義。

平和。

個人の尊厳。

を、

不十分だから捨てるのではなく、

不十分だからこそ徹底する

方向へ向かう。

過去の日本へ戻るのではない。

戦後日本が始めたものを完成に近づける。

だから大江の未来像は、

戦後の否定

ではなく、

戦後民主主義の自己修正

に近い。

ここが二人の決定的な分岐である。

29 現代から見ると、どちらの問いもまだ終わっていない

三島が問いかけた、

日本文化とは何か。

国家として自立するとは何か。

歴史と現代をどう接続するのか。

という問題は、現在も消えていない。

一方、大江が問い続けた、

核兵器。

戦争。

民主主義。

個人の尊厳。

少数者。

という問題も消えていない。

つまり二人の「答え」は違っても、

二人が設定した問いそのものは現在にも残っている。

これが、二人が今も読まれる大きな理由の一つだろう。

30 二人の対立を「右対左」に閉じ込めない

三島と大江を比較するとき、最も簡単なのは、

右翼対左翼。

保守対リベラル。

天皇対民主主義。

という図式である。

しかし、それだけでは文学評論として浅い。

なぜなら、

三島の文学には個人の孤独や欲望がある。

大江の文学にも国家や共同体への強い関心がある。

二人とも西欧文学の強い影響を受けながら日本について考えた。

二人とも戦後日本を国際社会の中から見ている。

つまり、

単純な日本主義対西洋主義

でもない。

二人の思想はもっと複雑である。

31 「どちらが正しかったか」ではなく、「何が見えたか」を比較する

思想家や作家を比較すると、

最終的に、

どちらが正しいか

を決めたくなる。

しかし文学を読む場合、それだけが目的ではない。

三島の視点から見ると、

戦後日本の、

文化的断絶。

歴史。

国家。

身体。

という問題が見える。

大江の視点から見ると、

戦後日本の、

民主主義。

被爆。

弱者。

核。

周縁。

という問題が見える。

つまり、

違う思想を読むことによって、同じ社会の違う部分が見える。

ここに二人を並べる意味がある。

32 三島だけを読む危険、大江だけを読む危険

三島だけから戦後日本を見ると、

伝統や国家の問題はよく見える。

しかし、

国家によって傷つけられる人、

少数者、

戦争被害、

という問題が弱くなる危険がある。

一方、大江だけから見ると、

民主主義、

平和、

弱者、

という問題はよく見える。

しかし、

共同体の歴史、

伝統、

国家的帰属、

文化的連続性、

といった問題を十分に説明できない場合がある。

だから、

二人を並べる。

賛成するためではない。

一人の視点によって見えなくなるものを、もう一人によって補うためである。

33 現代の分断社会に二人を読む意味

現在の社会では、

自分と同じ意見だけを読むことが容易になっている。

SNSでは、

自分が賛成する人をフォローする。

反対する人を遮断する。

似た思想の情報が集まる。

その結果、

相手の考えがなぜ成立するのか

を理解する機会が減る。

三島と大江を同時に読むことには、

この問題への一つの意味がある。

二人は簡単には統合できない。

どちらか一方を選べば済むわけでもない。

だからこそ、

両方を読んで、自分の中に矛盾した問いを残す。

それ自体が教養の一つの形になる。

結論~二人は「違う日本」を望んだのではなく、「日本の違う欠落」を見ていた

三島由紀夫と大江健三郎。

政治的位置から見れば、

二人は確かに遠い。

三島は、

日本文化、

天皇、

国家、

歴史、

身体、

を通して戦後日本を問い直した。

大江は、

民主主義、

広島、

核、

個人、

弱者、

を通して戦後日本を問い直した。

三島は戦後によって失われたものを見た。

大江は戦後が約束しながら実現できていないものを見た。

この違いを一言で整理すれば、

三島は「戦後以前との断絶」を問題にし、 大江は「戦後理念と戦後現実との断絶」を問題にした

と言えるかもしれない。

三島は、

過去との連続性を取り戻そうとした。

大江は、

戦後民主主義をさらに前へ進めようとした。

一人は過去を見た。

もう一人は未来を見た。

と表現したくなる。

しかし、それも完全には正しくない。

三島も未来の日本を考えていた。

大江も過去の戦争を繰り返し振り返った。

つまり二人とも、

過去・現在・未来の関係をどう結び直すか

を考えた作家だった。

そして二人とも、

現実の戦後日本へ強い違和感を持っていた。

高度経済成長。

豊かな生活。

消費社会。

それだけでは、

人間はどう生きるのか。

国家とは何か。

日本とは何か。

という問いには答えられない。

この点では、二人はむしろ同じ場所に立っていた。

そこから、

三島は、

文化、

天皇、

身体、

死、

へ進んだ。

大江は、

民主主義、

核、

個人、

弱者、

へ進んだ。

だから二人を読む時に重要なのは、

「三島と大江のどちらを支持するか」

だけではない。

より重要なのは、

なぜ同じ戦後日本を見て、二人はこれほど違う答えへ進んだのか

を考えることである。

そしてさらに、

現代の私たちは、

三島が見た問題と、

大江が見た問題の、

どちらをすでに解決したのだろうか。

文化と歴史。

民主主義と個人。

国家の自立。

核と戦争。

共同体。

少数者。

これらの問いを見る限り、

二人が考え続けた「戦後」は、

完全に過去になったとは言いにくい。

三島由紀夫と大江健三郎を同時に読む意味は、

正反対の思想のどちらかを選ぶことではない。

互いに相手が見なかった日本を、二人の視線を重ねることで見ること。

そこにあるのではないだろうか。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

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戦後日本から「知識人」はなぜ消えたのか~総合誌、テレビ、インターネットまで

導入~「知識人を見なくなった」という感覚は何を意味するのか

戦後日本の歴史を読んでいると、「知識人」という言葉が現在より頻繁に登場する。

大学教授。

哲学者。

文学者。

評論家。

作家。

科学者。

こうした人々が、専門分野の内部だけではなく、

政治、

外交、

戦争と平和、

民主主義、

教育、

文化、

道徳、

社会の将来、

について公に発言していた。

丸山眞男、加藤周一、大江健三郎、吉本隆明など、立場も思想も異なる人物たちが、「知識人」と呼ばれながら社会的な議論に参加した時代があった。

現在にも当然、大学教授、研究者、作家、評論家は存在する。

専門家の数そのものは、むしろ戦後直後よりはるかに多い。

インターネットを開けば、大学教授、医師、弁護士、経済学者、科学者、ジャーナリストなどが直接発信している。

それにもかかわらず、

「昔のような知識人がいなくなった」

という感覚が生まれる。

これはなぜなのだろうか。

知的能力の高い人が減ったからなのか。

社会について考える人がいなくなったからなのか。

大学教授の権威が落ちたからなのか。

それとも、私たちが知識人を見る場所そのものが変わったのだろうか。

本稿では、

「知識人が消えた」という現象を、人材の消滅ではなく、メディアと社会構造の変化として考える。

戦後直後には総合誌が重要な舞台だった。

その後テレビが巨大な影響力を持つ。

社会の専門化が進む。

そしてインターネットとSNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が登場する。

この過程で、

「一人の人物が社会全体について語る」という知識人モデルそのものが成立しにくくなった。

そう考えると、戦後日本における知識人の変化が見えやすくなる。

1 そもそも「知識人」とは何だったのか

「知識人」という言葉は、単に知識の多い人を意味するわけではない。

専門知識を持つだけなら、

研究者、

技術者、

専門職、

教師、

なども含まれる。

しかし戦後日本で「知識人」と呼ばれた人物には、もう一つ特徴があった。

自分の専門領域を越えて、社会全体について発言する。

ということである。

例えば政治学者が、

政治制度だけではなく、

民主主義、

戦争責任、

市民社会、

教育、

文化、

について論じる。

文学者が、

小説だけではなく、

核兵器、

憲法、

国際政治、

人権、

について発言する。

科学者が、

研究内容だけでなく、

核兵器、

科学技術と社会、

戦争、

倫理、

について語る。

つまり知識人とは、

専門家であると同時に、公共的な問題について発言する人

だった。

ここで重要なのは、

知識人=正しい人

ではないことである。

知識人同士の意見は大きく異なっていた。

保守もいた。

リベラルもいた。

社会主義者もいた。

国家を重視する人もいた。

個人を重視する人もいた。

重要なのは思想の一致ではなく、

社会全体について考え、公共の場へ言葉を出す役割

が成立していたことである。

2 敗戦は「知識人とは何か」を問い直した

戦後日本における知識人を考える上で、1945年の敗戦は決定的に重要である。

日本には戦前にも、

大学教授、

文学者、

哲学者、

科学者、

評論家、

が存在していた。

しかし日本は戦争へ進み、1945年に敗戦を迎える。

そこで大きな問いが生じた。

知識を持つ人々は、なぜ戦争を止めることができなかったのか。

岩波書店の社史によれば、岩波茂雄は敗戦に際し、日本に優れた知性が存在していたにもかかわらず、国が破局へ進むことを阻止できなかったことを大きな痛恨と考えた。

そこで文化と広い国民を結び付ける必要があるとして、総合雑誌『世界』の創刊へつながっていく。1946年1月号として『世界』が創刊され、吉野源三郎が編集主任を務めた。

吉野はその後、『世界』を中心として平和や民主主義に関する議論へ深く関わっていった。岩波書店自身も、吉野が知識人を組織し、戦後日本の平和と民主主義を支える論陣を張った人物として紹介している。

つまり戦後知識人には、

「知っている人」

以上に、

知識を公共社会へ返す責任を負う人

という自己像が生まれたのである。

3 総合誌が「知識人の舞台」になった理由

戦後知識人が社会的影響力を持つためには、

発言する場所

が必要だった。

その重要な場所の一つが総合誌である。

『世界』

『中央公論』

『文藝春秋』

などには、

政治、

経済、

国際問題、

哲学、

文学、

科学、

社会問題、

について長い文章が掲載された。

『中央公論』は現在も、自らを創刊130年を超える日本最長寿の月刊総合誌と位置付け、政治、経済、国際、教育、医療、科学、文化などを横断して論者を登場させている。

『文藝春秋』も1923年の創刊時から、菊池寛が編集者や読者に過度に気兼ねせず自由にものを語る場所を志向していた。

こうした雑誌には、一つの特徴があった。

異なる専門分野が一冊の中に同居する。

政治学者の次に作家が登場する。

経済学者の隣に歴史家がいる。

科学者と哲学者が同じ社会問題について論じる。

この構造によって、

専門家が、

専門の外に向かって話す

ことが可能になった。

それが「知識人」という存在を成立させる一つの条件だった。

4 総合誌は単なる情報媒体ではなく「選択装置」だった

現在では、検索すれば専門家の文章を直接読むことができる。

しかし戦後直後の読者には、現在ほど情報への入口が多くなかった。

そこで雑誌編集部が重要な役割を持った。

誰に書かせるか。

どの問題を特集するか。

どの論争を取り上げるか。

どの文章を重要だと判断するか。

つまり総合誌は、

情報を運ぶだけではなく、

「誰の発言を社会的に読む価値があると認定するか」を決める装置

でもあった。

編集部が、

大学教授、

作家、

評論家、

研究者、

を選び、

誌面へ載せる。

その人物は読者の前に、

「この問題について読むべき人物」

として現れる。

ここで知識人の権威は、

本人の知識だけではなく、

大学、出版社、新聞社などの制度によって支えられていた

と考えることができる。

5 戦後初期には「社会全体について語る」必要があった

なぜ戦後には、専門家が社会全体について発言する必要が大きかったのか。

理由の一つは、

社会そのものを作り直す必要があったからである。

敗戦。

占領。

日本国憲法。

民主化。

教育改革。

農地改革。

労働制度。

安全保障。

講和。

冷戦。

戦後直後には、

「既存の制度をどう改善するか」

だけではなく、

「日本という社会をこれからどうするのか」

という問題が存在した。

こうした問題は、一つの専門分野だけでは解けない。

政治だけではない。

法律だけでもない。

経済だけでもない。

歴史。

倫理。

文化。

教育。

国際関係。

多くの問題が同時に絡み合う。

だからこそ、

社会全体を論じる知識人

が必要とされたのである。

6 「進歩的文化人」という戦後モデル

戦後日本には、しばしば「進歩的文化人」と呼ばれる人々が登場した。

この名称には後に批判的な意味も加わるため、単純に一つの思想集団として扱うべきではない。

しかし概念的には、

民主主義、

平和、

市民社会、

人権、

戦争責任、

などについて、

学者や文化人が公共的発言を行うモデルが成立した。

その象徴的なメディアの一つが『世界』だった。

吉野源三郎が編集を担い、知識人を公共的議論へ組織したことは、戦後知識人モデルを理解するうえで重要である。

ただし、ここで注意しなければならない。

戦後知識人がすべて同じ思想だったわけではない。

また、

進歩的知識人=知識人全体

でもない。

戦後日本には、

保守系知識人、

自由主義者、

社会主義者、

民族主義者、

文学者、

宗教者、

など多様な公共的論者がいた。

知識人の時代とは、

全員が同じ方向を向いていた時代

ではない。

むしろ、

少数の論者たちが、互いに対立しながらも同じ社会的議題を共有していた時代

と考える方がよい。

7 丸山眞男型の知識人~専門家でありながら社会全体を論じる

戦後知識人を象徴する存在として、しばしば丸山眞男が挙げられる。

丸山をここで思想的に評価する必要はない。

重要なのは役割である。

政治思想史の研究者でありながら、

民主主義、

日本社会、

戦争、

政治意識、

市民、

などについて広く社会へ発言する。

つまり、

専門研究者+公共的論者

という二つの役割を同時に担う。

このタイプの知識人は、戦後社会では成立しやすかった。

なぜなら、

専門知識を持つことが社会的権威となり、

その権威を使って社会全体について語ることが比較的受け入れられていたからである。

現在では、この二つは次第に分離している。

8 作家も「社会について語る人」だった

戦後知識人は大学教授だけではない。

文学者も重要だった。

例えば大江健三郎は、小説家であると同時に、広島、核、戦争、民主主義などについて継続的に文章を書いた。

東京大学の大江健三郎文庫の資料でも、『ヒロシマ・ノート』が『世界』への連載をもとに成立し、被爆者や平和をめぐる問題について作家が社会へ発言していたことが確認できる。

現代から考えると、

「なぜ小説家が政治について語るのか」

という疑問も生じるかもしれない。

しかし戦後知識人のモデルでは、

文学者は人間や社会について考える人であり、

専門分野を越えて公共問題へ発言することが必ずしも不自然ではなかった。

ここでも、

専門と公共的発言の境界が現在ほど厳格ではなかった

ことが分かる。

9 一方で「知識人への批判」も戦後すぐに始まっていた

知識人が社会的権威を持てば、その権威への批判も生まれる。

その代表的な問題の一つが、

知識人は本当に大衆を理解しているのか

という問いである。

戦後知識人が民主主義や平和を語っても、

一般の人々の日常生活、

労働、

家族、

欲望、

感情、

から離れているのではないか。

知識人が上から大衆を「教育」しようとしているだけではないか。

こうした批判は戦後思想の内部からも出てきた。

吉本隆明の議論も、その大きな流れの一つとして研究されている。吉本は、既成の知識人と大衆の関係そのものを重要な問題として扱った。

つまり、

知識人の時代は、知識人が無条件に尊敬された時代ではない。

知識人の権威と、

知識人批判が、

同時に存在していたのである。

10 1960年代~知識人が政治の前面へ出た時代

1960年前後には、

安全保障、

学生運動、

核兵器、

ベトナム戦争、

大学制度、

公害、

などが大きな社会問題になる。

これらをめぐって、

大学教授、

作家、

評論家、

科学者、

などが公に発言した。

政治家だけが政治を語るのではない。

新聞記者だけが社会を論じるのでもない。

「文化人」「知識人」と呼ばれる人々が、

署名、

声明、

雑誌論文、

集会、

講演、

などを通して政治的問題へ参加した。

ここでは知識人は、

専門知識を持つ観察者ではなく、社会運動へ参加する主体

にもなった。

しかし、この時代こそ、後に知識人への不信が強まる原因の一つにもなった。

11 なぜ「知識人の言うことは正しい」とはならなかったのか

知識人も当然、間違える。

政治情勢の予測を外す。

外国の社会を理想化する。

思想的立場から現実を単純化する。

特定の政治体制について十分な批判をしない。

逆に過剰に批判する。

つまり、

高度な学問的能力を持つこと

と、

政治的判断が常に正しいこと

は別である。

社会がこのことを経験するほど、

「大学教授だから正しい」

「有名作家だから正しい」

という単純な権威は弱くなる。

これは知識人の衰退というより、

権威の相対化

と見ることができる。

民主社会としては、必ずしも悪い変化ではない。

12 高度経済成長が社会を専門化した

1950年代後半以降、日本社会は高度経済成長へ向かう。

社会制度が複雑になる。

企業が巨大化する。

行政が専門化する。

科学技術が高度化する。

医療も複雑になる。

金融も複雑になる。

ここで、

「社会全体について一人で語る」という知識人モデルが徐々に難しくなる。

例えば原子力政策を論じるには、

原子核物理学、

工学、

電力制度、

経済、

安全工学、

環境、

行政法、

地域政策、

など複数の知識が必要になる。

医療政策なら、

医学、

疫学、

医療経済、

社会保障、

人口統計、

行政、

倫理、

が関係する。

一人の思想家が、

「社会とはこうあるべきだ」

と大きな方向性を語ることはできる。

しかし政策の細部になるほど、

専門家が必要になる。

ここで、

知識人から専門家へ

という社会的重心の移動が起きる。

13 「知識人」と「専門家」は何が違うのか

この違いは重要である。

知識人は、

社会全体について語る。

専門家は、

特定分野について高い精度で語る。

例えば、

政治学者が民主主義全体について語るのが知識人的役割だとすれば、

選挙制度の効果をデータで分析する研究者は専門家的役割になる。

医学者が生命や人間の尊厳について社会へ語れば知識人的役割を持つ。

特定の薬の有効性について臨床研究を説明する場合は専門家的役割になる。

もちろん一人の人物が両方を担うこともできる。

しかし社会が高度化するほど、

「専門外について語ること」に対する要求水準が高くなる。

これが知識人モデルを難しくした。

14 テレビが「知識人」を変えた

次に大きな変化をもたらしたのがテレビである。

総合誌では、数千字から数万字を使って議論できる。

複雑な前提条件を書く。

反論を想定する。

歴史を説明する。

例外を示す。

しかしテレビでは、

時間が限られる。

出演者の人数も多い。

視聴者に分かりやすく話す必要がある。

ここで知識人の能力に、

新しい条件が加わる。

短時間で分かりやすく説明できること

である。

これは悪いことではない。

難解な学問を社会へ伝える重要な能力である。

しかしメディア形式が変われば、

社会で評価される知識人のタイプも変わる。

15 「書く知識人」から「話す文化人」へ

総合誌時代には、

何を考えたか

が文章で評価された。

テレビ時代になると、

何を言ったか

だけではなく、

どう話したか

も重要になる。

声。

表情。

話す速度。

分かりやすさ。

ユーモア。

瞬発力。

対立する相手への対応。

テレビに適した人物と、長文に適した人物は同じとは限らない。

すると、

大学教授、

作家、

評論家、

の一部が、

「テレビ文化人」

「コメンテーター」

として登場する。

ここで戦後知識人の役割は、

少しずつ別の職業へ変化していく。

16 テレビでは「考える人」より「説明する人」が求められる

総合誌では、

読者が知らなかった問題そのものを論者が提示できる。

一方テレビのニュースや情報番組では、

すでに起きた事件について、

「これはどういうことですか」

と説明を求められることが多い。

つまり役割が、

問題を設定する人

から、

出来事を解説する人

へ変わりやすい。

ここで、

知識人

から、

専門家、

解説者、

コメンテーター、

への分化が進む。

この違いは小さくない。

「日本社会はこれから何を問題にすべきか」

と問うことと、

「今日起きた事件をどう理解すればよいか」

と説明することは別だからである。

17 テレビは知識人の権威を高めると同時に壊した

テレビには逆説的な作用があった。

有名大学の教授がテレビに出演する。

有名作家がニュース番組で語る。

それによって知識人の社会的知名度は高まる。

しかし同時に、

知識人も芸能人や政治家と同じ画面に登場する。

反論される。

失言する。

間違える。

人間的な癖も見える。

つまりテレビは、

知識人を社会へ近づける一方で、

知識人を特別な存在ではなくする。

活字だけで知っていた人物と、

毎週テレビで見る人物では、

権威の感じ方も変わる。

知識人の大衆化は、

知識人の権威の相対化でもあった。

18 1980年代~思想そのものも「商品」になった

1980年代には、

思想、

哲学、

記号論、

現代思想、

などが若い読者にも消費される文化が生まれた。

ここでは、

知識人が社会運動の指導者として語るだけではなく、

思想そのものが一種の文化商品になる。

難しい思想を読むこと自体が、

知的な趣味、

ファッション、

自己表現、

になる。

これは思想の大衆化という意味では重要だった。

一方で、

「この思想を使って社会をどう変えるか」

よりも、

「この思想は面白い」

という消費へ変わる場合もある。

知識人の役割が、

社会を導く人

から、

知的刺激を提供する人

へ変わる兆候でもあった。

19 1990年代~冷戦終結で大きな物語が崩れる

戦後知識人の多くは、

資本主義、

社会主義、

民主主義、

国家、

平和、

革命、

市民社会、

といった大きな概念で社会を論じた。

しかし冷戦が終わると、

世界を大きな思想体系だけで整理することが難しくなる。

日本国内でも、

バブル崩壊、

少子高齢化、

雇用、

金融、

地方衰退、

情報化、

環境問題、

など、

従来の左右対立だけでは整理できない問題が増える。

つまり、

「社会全体を説明する一つの思想」

の説得力が弱くなる。

ここでも知識人より専門家が優位になる。

20 専門家社会では「何でも語る人」はむしろ疑われる

現在では、

医学者が安全保障を語る。

経済学者が感染症を語る。

文学者が金融政策を語る。

政治学者が医学を語る。

となれば、

「それは専門なのか」

と問われる。

これは健全な態度でもある。

専門外の発言を、肩書だけで信用しない。

しかし戦後型知識人は、

まさに専門を越えて語る存在だった。

したがって、

専門性を重視すればするほど、古典的な知識人は成立しにくくなる。

ここには構造的な矛盾がある。

社会問題はますます複雑になり総合的視点を必要とする。

一方、その問題について語る人には、ますます高度な専門性が要求される。

21 インターネットは「知識人になる入口」を開放した

そしてインターネットが登場する。

これは知識人の歴史における非常に大きな転換である。

総合誌時代には、

出版社に選ばれなければ多くの読者へ届きにくかった。

新聞も同じである。

テレビも、

放送局に呼ばれなければ出演できない。

つまり従来の公共的発言には、

編集者という門番

がいた。

しかしインターネットでは、

誰でも文章を公開できる。

動画を出せる。

SNSで意見を発信できる。

専門家も出版社を通さず直接発信できる。

文藝春秋自身も現在、紙だけでは読者へ広がりにくい時代になり、デジタル技術を使ってコンテンツを届ける必要性を説明している。

知識の発信は大幅に民主化された。

22 しかし「誰でも発信できる」は「誰を読めばよいか分からない」でもある

インターネットの最大の利点は、

門番がいないこと

である。

しかし最大の問題も、

門番がいないこと

である。

大学教授の文章。

専門家の文章。

一般市民の文章。

広告。

宣伝。

陰謀論。

誤情報。

個人的体験。

一次資料。

すべてが同じ検索結果やSNS画面に並ぶ。

すると読者自身が、

誰を信頼するかを選ばなければならない。

これは総合誌時代との大きな違いである。

かつては編集部が、

「この人を読む価値がある」

とある程度選別していた。

現在は読者自身が編集者になった。

23 知識人の「権威」がフォロワー数に置き換わったのか

インターネットでは、新しい評価指標が生まれた。

閲覧数。

フォロワー数。

再生回数。

「いいね」。

共有数。

これらは、

どれだけ多くの人に届いたか

を測るには便利である。

しかし、

多く読まれたことと、内容が正しいことは一致しない。

ここで知識人の権威は、

大学、

出版社、

専門学会、

という制度的権威だけではなく、

可視化された人気

とも競争することになる。

非常に専門的で正確だが読みにくい説明より、

簡潔で断定的な説明の方が広がりやすいこともある。

これは知識人の社会的立場をさらに複雑にした。

24 SNSは「知識人」を無数の小さな論者へ分解した

総合誌の時代には、

全国的に知られる論者は限られていた。

現在は違う。

経済に詳しい人。

医療に詳しい人。

地方行政に詳しい人。

鉄道に詳しい人。

安全保障に詳しい人。

教育に詳しい人。

それぞれに数千人、数万人の読者がいる。

つまり、

一人の巨大な知識人の代わりに、無数の小さな専門的公共圏が生まれた

と考えることができる。

これは「知識人の消滅」ではない。

むしろ、

知識人の分散

である。

25 現代では「国民全員が知っている知識人」が生まれにくい

昭和のテレビには、

国民の多くが同じ番組を見る

という構造があった。

総合誌も読者層は限られていたが、論壇そのものは比較的狭い空間だった。

現在は、

YouTubeを見る人。

Xを見る人。

新聞を読む人。

テレビを見る人。

専門サイトを見る人。

それぞれが違う。

したがって、

ある分野では非常に有名でも、

別の分野の人は名前すら知らない

ということが普通になる。

知識人がいないのではない。

共通して知っている知識人がいない。

この違いは大きい。

26 公共圏が「一つ」ではなくなった

戦後総合誌が作ったのは、

正解だけではなかった。

「今、日本社会ではこれを考えるべきだ」

という共通議題だった。

安全保障。

憲法。

公害。

教育。

文学。

経済。

読者は意見が違っても、

同じ問題について考えることができた。

インターネットでは、

人によって見える問題そのものが違う。

ある人には、

国際政治。

別の人には、

芸能。

別の人には、

投資。

別の人には、

子育て。

別の人には、

ゲーム。

アルゴリズムによる推薦も含め、それぞれ異なる情報環境を生きる。

その結果、

「国民的な議論の中心」という場所そのものが弱くなる。

知識人が消えたように見える最大の理由の一つは、ここにある。

27 知識人の衰退は民主化でもある

ここまで読むと、

昔は良かった、

という話に見えるかもしれない。

しかし、そう単純ではない。

戦後知識人の世界には問題もあった。

発言できる人が限られていた。

東京の大学。

大手出版社。

新聞社。

著名作家。

そうした人的ネットワークへ参加できる人の言葉が社会へ届きやすかった。

地方の市民。

若者。

女性。

少数者。

現場の専門職。

当事者。

こうした人の声は現在ほど簡単には全国へ届かなかった。

インターネットは、この構造を大きく変えた。

したがって、

知識人の権威が弱くなったことには、言論の民主化という側面もある。

28 「誰でも発言できる社会」は本当に平等なのか

しかし新しい問題もある。

誰でも発言できる。

しかし、

誰の発言も同じだけ届く

わけではない。

情報発信能力。

動画制作能力。

文章力。

知名度。

資金。

時間。

アルゴリズム。

ネットワーク。

こうした差によって影響力が変わる。

つまり、

旧来の出版社中心の権威構造は弱まったが、

完全に平等な言論空間になったわけではない。

新しい形の影響力が形成されている。

29 「知識人」から「インフルエンサー」へ変わったのか

ここで、

知識人はインフルエンサーに取って代わられた、

という説明もできそうに見える。

しかし両者は同じではない。

インフルエンサーとは基本的に、

他人へ影響を与える力

によって定義される。

知識人とは、

知識や思考を公共問題へ結び付ける役割

によって定義される。

したがって、

フォロワーの多い学者は、

知識人でもありインフルエンサーでもあり得る。

一方、

非常に影響力があっても社会的問題を論じない人は、

従来の意味での知識人とは違う。

重要なのは、

影響力と知的権威が別の尺度になった

ことである。

30 専門家は増えたが「総合する人」が減った

現在社会には専門家が大量にいる。

これは大きな進歩である。

しかし専門化には弱点もある。

人口減少を考える。

人口統計だけでは足りない。

雇用。

住宅。

教育。

医療。

交通。

地域経済。

社会保障。

家族。

文化。

全部関係する。

気候変動も同じである。

科学。

経済。

エネルギー。

国際政治。

生活。

産業。

倫理。

が関わる。

現代社会の問題は、

専門分野をまたいでいる。

ところが専門家は、一つの分野を深く研究する。

ここに、

「総合する人」

の必要性が再び現れる。

31 知識人が消えたのではなく「総合知の担い手」が空席になった

ここまでを整理すると、

知識人が本当に消えたのではない。

大学教授もいる。

作家もいる。

評論家もいる。

専門家もいる。

社会へ発言する人もいる。

しかし、

複数分野を横断し、社会全体の問題として整理し、広い層から一定の信頼を得る人物

は以前より成立しにくくなった。

なぜなら、

社会が複雑化した。

専門家が増えた。

権威が相対化した。

メディアが分散した。

読者が細分化した。

情報量が爆発的に増えた。

この条件の中では、

一人の人物が、

「社会とはこういうものだ」

と語ることへの疑いが強くなる。

それはある意味で健全でもある。

32 現代に必要なのは「万能知識人」ではない

では、もう一度昔のような巨大な知識人を作ればよいのだろうか。

それも現実的ではない。

現代社会は、一人で理解できるほど単純ではない。

医学。

経済。

人工知能。

安全保障。

環境。

人口。

法律。

すべてを高い専門水準で理解する人は存在しない。

したがって必要なのは、

「何でも知っている人」

ではない。

むしろ、

自分が知らないことを認識し、異なる専門家の知識を結び付ける人

である。

これは戦後知識人とは少し違うモデルになる。

33 令和の知識人に必要な能力

現代型の知識人を考えるなら、いくつか条件が考えられる。

第一に、

専門性を持つこと。

単なる思いつきではなく、何らかの専門的基盤が必要になる。

第二に、

専門外では専門家へ譲ること。

何でも断定しない。

第三に、

異なる分野を接続できること。

経済だけ。

政治だけ。

科学だけ。

ではなく、関連を考える。

第四に、

一次資料やデータを確認すること。

肩書だけに依存しない。

第五に、

自分の考えを修正できること。

間違いが分かったら変える。

つまり現代の知識人には、

権威

より、

修正可能性

が重要になるのではないだろうか。

34 「答えを教える知識人」から「問いを整理する知識人」へ

戦後知識人の中には、

社会はこうあるべきだ、

という強い方向性を提示する人も多かった。

現代では、それだけでは受け入れられにくい。

価値観が多様化している。

専門知識も細分化している。

そこで知識人の役割を、

答えを与える人

から、

問題を整理する人

へ変えることができる。

何が事実なのか。

何が価値判断なのか。

どこに利害対立があるのか。

どのデータが不足しているのか。

専門家同士はなぜ意見が違うのか。

こうしたことを整理する。

これは現代社会に非常に必要な仕事である。

35 総合誌の役割も同じように変わる

総合誌も完全に消えたわけではない。

『中央公論』は現在も刊行され、ウェブでも政治、経済、国際、社会、科学、歴史、文化など広い領域を扱っている。

『文藝春秋』も紙媒体だけでなくデジタルへ発信経路を広げている。

つまり総合誌自身も、

紙だけの論壇

から、

紙+ウェブ+デジタル

へ変わっている。

しかし本当に重要なのは媒体ではない。

異なる専門分野を一つの場所で考える機能

を残せるかどうかである。

36 インターネット時代だからこそ「編集」が重要になる

情報が少なかった時代には、

情報を集めること

に価値があった。

現在は逆である。

情報が多すぎる。

そこで重要になるのは、

何を捨てるか。

何を残すか。

何を関連付けるか。

という編集能力である。

この意味で、

知識人、

総合誌、

優れたジャーナリスト、

研究者、

には共通する新しい役割がある。

知識を増やすことではなく、知識の位置関係を示すこと

である。

37 AI時代には知識人はさらに不要になるのか

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が発達すると、

知識を持っていること自体の価値はさらに変化する可能性がある。

多くの事実は検索できる。

文献を要約できる。

統計を整理できる。

複数の議論を比較できる。

それなら知識人は不要になるのか。

必ずしもそうではない。

なぜなら、

どの問題を重要と考えるか。

どの価値を優先するか。

どのデータを信頼するか。

不確実性をどう扱うか。

社会的利害をどう調整するか。

という問題は、

情報量だけでは決まらないからである。

むしろ情報が大量になるほど、

何をどう考えるかを整理する能力

の価値が増える可能性がある。

38 ただし知識人を「先生」に戻してはいけない

ここで過去を理想化する必要はない。

知識人が上に立ち、

大衆へ正しい考えを教える。

という構図には問題がある。

市民にも知識がある。

現場にも知識がある。

当事者にも経験がある。

専門家も間違える。

だから令和の知識人が存在するとすれば、

大衆を教育する教師

ではなく、

異なる知識をつなぐ参加者

である方がよい。

権威によって従わせるのではない。

根拠を示す。

議論する。

訂正する。

そうした態度が重要になる。

39 「知識人の不在」は、本当は「共通の広場の不在」なのかもしれない

ここまで考えると、

知識人がいなくなったように見える理由は、

人物の問題だけではない。

むしろ、

知識人が立つ広場がなくなった

と考える方が分かりやすい。

戦後直後には総合誌があった。

新聞論壇があった。

その後テレビが国民的な共通空間になった。

現在はメディアが細分化している。

したがって、

一人の知識人が全員の前へ立つことが難しい。

これは、

スターがいなくなった

のではなく、

観客が同じ会場に集まらなくなった

ということなのである。

結論~知識人は消えたのではなく、社会の中へ分解された

戦後日本では、

総合誌、

新聞、

大学、

出版社、

などを中心として、

「知識人」という存在が成立した。

敗戦後には、

日本社会をどう再建するか、

民主主義とは何か、

戦争と平和をどう考えるか、

という巨大な問題があった。

そのため、

一つの専門分野を越えて社会全体について語る人物が必要とされた。

『世界』の創刊には、日本に知性が存在しながら戦争への道を阻止できなかったという出版人側の反省があり、知識と社会を結び付けようとする明確な意図があった。

しかし社会は変わった。

高度経済成長によって専門化が進んだ。

テレビが登場し、

「長く書く知識人」

から、

「短く説明する文化人」

が目立つようになった。

冷戦が終わり、

社会を一つの思想体系で説明することが難しくなった。

さらにインターネットによって、

出版社、

新聞社、

テレビ局、

という情報の門番が弱くなった。

誰でも発信できるようになった。

その結果、

知識人は消えたように見える。

しかし実際には、

大学、

専門メディア、

ブログ、

動画、

SNS、

研究機関、

地域社会、

さまざまな場所へ分散した。

つまり、

知識人が消えたのではない。 「知識人」という一つの社会的役割が、専門家、評論家、ジャーナリスト、コメンテーター、研究者、インフルエンサー、市民へ分解されたのである。

これは単純な衰退ではない。

言論が民主化されたという利点もある。

かつてなら大手出版社に選ばれなければ社会へ届かなかった人の言葉が、現在は直接届く。

一方で問題もある。

誰の言葉を信頼すればよいのか。

何が専門知識で、

何が意見で、

何が宣伝で、

何が誤情報なのか。

読者自身が判断しなければならなくなった。

そして、もう一つ大きな問題がある。

専門家は増えた。

情報も増えた。

それでも、

複数の専門分野を結び付けて、社会全体の問題として整理する人が不足している。

人口減少。

人工知能。

安全保障。

社会保障。

環境。

地域衰退。

これらは、一つの専門分野だけでは考えられない。

だから現代に必要なのは、

昔のように、

「私が社会の正解を教える」

という知識人ではないだろう。

必要なのは、

自分の専門を持ちながら、

専門外では他者の知識を尊重し、

異なる領域をつなぎ、

事実と価値判断を分け、

分からないことを分からないと言い、

間違えれば修正する人である。

知識人の役割を、

「正しい答えを持つ人」

ではなく、

「複雑な社会について、何をどう考えればよいのかを整理する人」

と捉え直すのである。

そう考えると、

知識人の時代は終わった、

とは言い切れない。

むしろ私たちは、

戦後型とは違う、新しい知識人の形をまだ十分に作れていない

のかもしれない。

総合誌の時代には、少数の知識人が同じ舞台に立った。

テレビの時代には、同じ画面に映った。

インターネットの時代には、無数の人がそれぞれ別の画面にいる。

問題は、

誰が一番偉い知識人なのか、

ではない。

これから問われるのは、

分散した知識を、誰が、どのように、もう一度社会の共通問題として結び直すのか。

なのではないだろうか。

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つながっているのに、なぜ孤独なのか

私たちは、かつてないほど簡単に他人とつながることのできる時代を生きている。

SNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を開けば、友人や知人の近況を知ることができる。

遠く離れた人とも連絡できる。

自分の考えや写真を公開すれば、多くの人から反応を受け取ることもできる。

しかし、

人とつながる手段が増えたことと、孤独がなくなることは同じではない。

大勢の人と交流していても孤独を感じることがある。

自分について多くの情報を公開していても、「本当の自分は誰にも分かってもらえていない」と感じることもある。

逆に、自分の内面をすべて他人へ公開すれば、深い信頼関係が成立するわけでもない。

こうした問題を考えるとき、百年以上前に発表された夏目漱石の『こころ』は意外なほど現代的な問いを投げかけてくる。

『こころ』の中心人物である「先生」は、社会的に完全に孤立している人物ではない。

妻がいる。

若い「私」が先生を慕って訪ねてくる。

生活そのものにも、ただちに困窮しているわけではない。

それでも先生は、

「私は淋しい人間です」

と「私」に語る。

そして若い「私」に、

「若いうちほど淋しいものはありません」

とも語る。

先生自身が孤独を自覚している一方、「私」の中にも同じ孤独を見ているのである。

ここで重要なのは、先生の孤独が、

周囲に人がいない孤独

ではないことである。

むしろ、

人がそばにいても、自分の最も重要な部分を他者と共有できない孤独

である。

だから『こころ』を現代に読み直すとき、問いは、

「先生はなぜ孤独だったのか」

だけでは終わらない。

もう一つ重要な問いが現れる。

人間にとって、信頼とは何なのか。

そして、

人とつながることと、人を信頼することは同じなのか。

SNS時代に『こころ』を読む意味は、この問いから始まる。

1 『こころ』はどのような物語なのか

『こころ』は、

「先生と私」

「両親と私」

「先生と遺書」

という三部から構成されている。

物語の前半では、大学生の「私」が鎌倉で先生と知り合い、次第に先生へ強く惹かれていく。

しかし先生は、自分の過去について簡単には語らない。

「私」は先生の家へ通う。

先生と散歩する。

先生の妻とも話す。

先生が定期的に墓参りをすることも知る。

それでも先生の核心には近づけない。

つまり、

接触することと、理解することが一致していない。

ここが『こころ』の重要な構造である。

人と頻繁に会う。

会話する。

家へ行く。

一緒に食事をする。

それでも、その人物が過去に何を経験し、何を恐れ、何を後悔しているのかまでは分からないことがある。

これはSNS時代にもそのまま考えられる問題である。

毎日投稿を見る。

メッセージを交換する。

写真を見る。

職業も趣味も知っている。

それでも、

その人について「知っている情報」が増えたことと、

その人の内面を理解したことは同じではない。

『こころ』では、この距離が先生と「私」の関係を通して描かれている。

2 先生は最初から人間嫌いだったわけではない

先生を、

「もともと他人を信用できない性格の人物だった」

と説明してしまうと、作品の重要な部分を失う。

先生の遺書によれば、若い頃の先生は、両親を亡くした後、叔父を信頼していた。

財産の管理についても叔父を頼っている。

ところが、後になって先生は叔父が自分の財産をめぐって誠実ではなかったと知る。

先生にとって、この経験は単なる金銭上の損失ではなかった。

重要なのは、

自分が信頼していた人間への見方が崩れたこと

である。

先生は、後に「私」に対して、人間を最初から善人と悪人という二種類に分けることのできない存在として語る。

通常は善人に見える人でも、ある条件によって行動が変わる可能性がある。

先生は自分自身の経験から、人間の善悪を固定的に考えることができなくなったのである。

3 信頼を失うと、人は何を疑うようになるのか

大きな裏切りを経験すれば、

「もう同じ目には遭いたくない」

と思うのは自然である。

先生も、叔父との経験を通して他人を警戒するようになる。

下宿先の奥さんが自分へ親切にすると、

何か別の意図があるのではないか、

と考える。

お嬢さんとの関係についても、奥さんが何らかの考えを持っているのではないかと疑う。

つまり先生は、

他人の表面的な言葉と、その背後にある動機を分けて考える

ようになる。

これはある意味では自己防衛である。

しかし、この防御には代償がある。

他人を疑えば、再び裏切られる可能性を下げることができるかもしれない。

その一方で、

他人へ頼る。

弱みを見せる。

自分を委ねる。

本音を話す。

ということも難しくなる。

したがって不信は、

人間を傷つくことから守る壁であると同時に、人との親密さを妨げる壁

にもなる。

先生の孤独は、この二重性と深く結び付いている。

4 しかし先生は誰も信用しなかったわけではない

ここで注意したい。

先生を、

「叔父に裏切られて以来、すべての人間を信用しなくなった」

と単純化するのも正確ではない。

Kとの関係を見ると、それほど単純ではないからである。

先生とKには長い付き合いがある。

Kの家族関係や宗教的・精神的な志向についても先生は詳しく知っている。

先生はKの複雑な事情を知った後も、Kという人物そのものを一定程度信用している。

つまり先生の問題は、

すべての人間を一律に疑うこと

というより、

他人を信じたい感情と、

人間は状況によって変わるという疑念との間で揺れていることにある。

この複雑さを残しておかなければ、『こころ』の先生を単なる「人間不信の人物」にしてしまう。

5 先生の最大の転換点はKとの関係にある

先生の人生で大きな意味を持つのがKである。

先生とKは親しい友人だった。

そして二人は同じ家で暮らすようになる。

その家には奥さんとお嬢さんがいる。

先生は次第にお嬢さんへ恋愛感情を持つ。

一方、Kも先生に対して、お嬢さんへの気持ちを告白する。

ここで状況が変わる。

先生はKから秘密を打ち明けられた側になる。

しかし先生自身もお嬢さんを愛している。

つまり、

友情と恋愛上の利害が衝突する。

この場面で、『こころ』の人間観が最も厳しい形で表れる。

6 「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」

『こころ』の中で非常に有名なのが、

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」

という言葉である。

もともとこの言葉は、以前Kが先生に対して使ったものである。

その後、お嬢さんへの恋愛感情を告白したKに対して、今度は先生が同じ言葉を返す。

先生自身は遺書の中で、この言葉について極めて厳しく自己分析している。

先生は、

Kが自分と同じお嬢さんを求めることで、自分の利害と衝突することを恐れた。

そして自分の言葉を、

「単なる利己心の発現」

だったと認めている。

ここが重要である。

先生は後になって自分の行動を正当化していない。

自分が友情だけではなく、自分自身の利益を守ろうとして行動したことを認めている。

7 自己開示の非対称性

Kとの場面を「信頼」という観点から見ると、もう一つ重要な問題がある。

Kは先生に、自分の恋愛感情を打ち明けている。

先生はそれを知った。

ところが先生は、自分もお嬢さんを愛しているという重要な情報をKへ同じようには開示しない。

そしてKより先に奥さんへ結婚を申し込む。

ここには、

自己開示の非対称性

がある。

Kは自分の内面を先生へ渡した。

先生はその情報を受け取った。

しかし先生は、自分の同種の情報をKへ渡さない。

情報は、人間関係の中で一種の力になる。

相手の秘密。

弱点。

希望。

恐れていること。

価値観。

それを知っている人は、知らない人より有利な立場に立つことがある。

だから信頼とは、

秘密を漏らさないことだけではない。

相手が信頼して差し出した情報を、自分の利益のために利用しないこと

も含んでいる。

『こころ』における先生とKの関係は、その難しさを示している。

8 先生がKを死なせた、と単純化してはいけない

その後、Kは自ら命を絶つ。

ここで、

「先生がKを自殺させた」

と単純に説明するのは慎重であるべきだろう。

Kには、

家族との対立、

養家との問題、

自分の生き方についての厳しい理想、

精神的な葛藤、

などがある。

作品はKの死を一つの原因だけで完全に説明しているわけではない。

したがって文学的により正確なのは、

先生自身が、Kの死を自分の行動と強く結び付けて受け止めた

ということである。

先生はKの死後、自分自身の言動を何度も振り返る。

そこから罪悪感を抱え続ける。

重要なのは、客観的に誰が何パーセント責任を負うかという問題ではない。

先生自身の中では、自分はKを裏切ったという認識が消えなかった。

そこが、その後の先生の人生を決定的に変える。

9 他人への不信から、自分自身への不信へ

叔父との出来事で先生が学んだのは、

「人間は信用できない場合がある」

ということであった。

しかしKとの出来事によって、問題はさらに深くなる。

先生自身も、

利害が生じれば、

友情より自分の欲望を優先することがある。

つまり叔父を批判した先生自身の中にも、

自分が嫌悪した人間と共通する部分があることに気付く。

ここで先生の問題は、

他人への不信

だけではなく、

自分自身への不信

へ移る。

他人が信用できないだけなら、

「少なくとも自分は正しく生きればよい」

と思うことができる。

しかし自分自身も状況によって変わる人間だと知ってしまうと、その逃げ道もなくなる。

これは先生の孤独を考える上で非常に重要である。

10 先生には妻がいる。それでも孤独である

Kの死後、先生はお嬢さんと結婚する。

つまり先生は家庭を持っている。

妻との生活が常に不幸であるとも描かれていない。

それでも先生は孤独である。

なぜなら、夫婦の間には非常に大きな秘密が存在するからである。

妻は、Kと先生の間で何が起きたのかを知らない。

Kが自分に恋愛感情を抱いていたことも知らない。

そして先生が、自分との結婚をめぐってどれほどKへの罪悪感を抱えているのかも知らない。

先生はその真相を妻へ知らせないまま生きている。

ここで、

一緒に暮らしていることと、すべてを共有していることは違う

という問題が生じる。

11 先生が妻に話さないのは不信なのか

先生は最後の遺書の中で、妻には自分の過去を知らせたくないという意思を明確にする。

妻が自分の過去について持っている記憶を、

できるだけ「純白」に残しておきたい、

と考えている。

さらに「私」に対して、自分の死後も妻が生きている間は、この秘密を胸の内にしまっておくよう求める。

この態度を、

「先生は妻を信用していない」

だけで説明するのは難しい。

先生の中には、

妻を傷つけたくないという思いもある。

妻のKについての記憶を変えたくないという思いもある。

しかし一方で、

先生が一人で「妻は知らない方がよい」と決めていることも事実である。

ここには、

思いやりと信頼は同じではない

という難しい問題がある。

相手を守るために秘密にする。

それ自体が常に間違いとは言えない。

しかし、秘密によって相手から「知るかどうかを選ぶ可能性」まで奪う場合、

それを完全な信頼関係と呼べるのか。

『こころ』は簡単な答えを出さない。

12 信頼とは「何でも話すこと」ではない

ここから現代のSNSを考えてみよう。

SNS時代には自己開示の機会が大きく増えた。

仕事。

食事。

旅行。

家庭。

恋愛。

成功。

失敗。

悩み。

自分について多くのことを公開できる。

しかし、

自己開示の量と信頼の深さは一致しない。

自分について大量に公開していても、誰にも本当に相談できないことはある。

逆に、生活をほとんど公開していなくても、一人の人と深い信頼関係を持っている場合もある。

したがって、

秘密がある=信頼がない

とは言えない。

同様に、

全部話す=信頼している

とも言えない。

大切なのは、

何を、誰に、なぜ話すのか。

そして、

話した情報を相手がどう扱うのか。

ということである。

13 なぜ先生は妻ではなく「私」に語ったのか

『こころ』最大の逆説の一つはここにある。

先生は、最も身近な妻には話さなかった過去を、

最後に若い「私」へ長い遺書として語る。

なぜ「私」なのか。

作品から唯一の理由を断定することはできない。

しかし先生自身は、自分の過去を他人の参考に供する意思を示している。

そして妻だけはその対象から外す。

つまり「私」は、

妻のように過去の事件そのものの関係者ではない。

Kとの関係者でもない。

しかも先生に強い関心を持ち、先生の生き方を理解しようとしてきた若者である。

先生にとって「私」は、

自分の人生を受け取ることのできる、一定の距離を持った他者

だったと読むことができる。

ただしこれは文学的な解釈であり、作品本文から一つの動機として断定するべきではない。

14 告白には距離が必要なこともある

現実の人間関係でも、

最も身近な人だから最も話しやすい、

とは限らない。

家族には話せない。

長年の友人には話せない。

同僚には話せない。

しかし少し離れた人には話せる。

そういうことがある。

関係が近いほど、告白した後の影響が大きいからである。

妻に真実を伝えれば、先生と妻の関係そのものが変わる。

Kについての妻の記憶も変わる。

結婚についての意味も変わる可能性がある。

「私」には、その直接的な利害が少ない。

現代でも、

専門家への相談、

匿名相談、

ネット上での相談、

などでは、身近な人より遠い人の方が話しやすいことがある。

これは『こころ』がSNSを予言したという意味ではない。

しかし現代的な比較として、

親密さだけでなく、適度な距離も自己開示を可能にする場合がある

と考えることはできる。

15 若い「私」も孤独である

先生は、自分だけを孤独な人間だとは考えていない。

「私」にも孤独を見ている。

先生は、

「私は淋しい人間です」

と語ったうえで、

「若いうちほど淋しいものはありません」

と「私」に話す。

そして、もし孤独でないなら、なぜ何度も自分の家へ来るのかと問いかける。

ここには興味深い逆転がある。

孤独な人間とは、

一人で部屋に閉じこもっている人だけではない。

むしろ人との接触を求めて、

動き、

訪ね、

話し、

誰かを探している人の中にも孤独がある。

SNS時代であれば、

投稿を見る。

反応を確認する。

メッセージを送る。

交流する。

そうした行為によって人との接触を求める場合もある。

もちろん、SNSを頻繁に使う人が孤独だと断定することはできない。

ここで考えたいのは、より一般的な問題である。

人は孤独だからこそ、他者を求めることがある。

16 「自由と独立と己れ」に満ちた現代

『こころ』には、先生の孤独を個人的経験だけではなく、時代の問題へ広げる重要な言葉がある。

先生は、

「自由と独立と己れとに充ちた現代」

を生きる人間は、その代償として淋しさを味わわなければならない、という趣旨を語る。

ここでは原文に合わせ、

「自由・独立・自己」

ではなく、

「自由・独立・己れ」

と捉える方がよい。

近代社会では、個人が以前より大きな自由を持つ。

自分で考える。

自分で選ぶ。

自分で人生を作る。

しかしその自由は、

共同体から与えられた答えだけで生きなくてよい、

ということであると同時に、

自分の選択を自分で背負わなければならない

ということでもある。

先生自身が、この自由と孤独を結び付けて考えているのである。

17 SNSは「己れ」をさらに強く見せる装置なのか

ここから先は、作品そのものの説明ではなく現代的な比較である。

SNSでは、個人が自分自身を社会へ直接提示できる。

自分の写真。

経歴。

意見。

作品。

仕事。

趣味。

生活。

こうした情報を自分で選び、発信する。

これは個人の自由を拡大した。

同時に、

「自分」というものを絶えず編集し、他者へ提示する社会

も生み出した。

何を見せるか。

どう見られたいか。

どんな人だと思われたいか。

現代人は、以前より頻繁にこうした問題に向き合う可能性がある。

その意味で、『こころ』にある「己れ」の問題を、SNS時代から考え直すことには意味がある。

ただし、

SNS=孤独を生む

と単純化してはいけない。

SNSによって人との関係を維持できる人もいる。

孤立を避けられる人もいる。

趣味や経験を共有できる人に出会うこともできる。

問題なのはSNSそのものではなく、

つながっていることと理解されていることを同一視すること

である。

18 「見られている」と「理解されている」は違う

SNSでは多くの人から見られることがある。

しかし、

見られること、

知られること、

理解されること、

信頼されること、

は同じではない。

先生にも似た構造がある。

妻は先生と毎日生活している。

「私」は頻繁に先生を訪ねる。

しかし先生がKとの過去をどう背負っているのかは知らない。

つまり、

接触できる情報量が多いことと、その人の核心へ到達することは別である。

現代では大量のプロフィール情報を見ることで、

「あの人を知っている」

と思いやすくなった。

だが、画面に表示される情報は、その人の一部でしかない。

『こころ』が描いている、

外から見える人間と、

内側に抱えている人間との距離は、

SNS時代にも消えていない。

19 先生の遺書は対話なのか

最後に先生は、「私」へ長い遺書を書く。

これは非常に深い自己開示である。

しかし、通常の対話とは違う。

先生は告白した後で、

「私」と話し合おうとしているのではない。

質問に答えるわけでもない。

批判を聞くわけでもない。

許しを求めて相互に関係を作り直すわけでもない。

先生の告白は、

先生から「私」への一方向の伝達

である。

ここが重要である。

自分について深く語ることと、

他者と対話することは同じではない。

20 SNS時代の自己開示にも同じ問題がある

現在では、自分の過去や悩みを不特定多数へ語ることもできる。

長文を書く。

動画で話す。

体験を公開する。

そこには自己開示がある。

しかし、公開したからといって対話したことにはならない。

自分の言葉だけを出す。

相手の反応を受け取らない。

自分の説明だけを完成させる。

この場合、

自己開示は増えても、人間関係が深まるとは限らない。

先生の遺書は、SNS投稿ではない。

両者を同一視することはできない。

しかし比較することで、

「語ること」

と、

「他人と関係を作ること」

の違いが見えてくる。

21 明治という時代の終わり

『こころ』を、先生・K・お嬢さんの恋愛関係だけで読むと、作品のもう一つの大きな軸を見落とす。

物語の後半では、

明治天皇の崩御、

そして乃木希典の殉死、

が重要な背景になる。

先生は明治天皇の死を受け、明治という時代そのものが終わっていく感覚を持つ。

そして乃木の殉死は、先生自身の死についての意識とも結び付いていく。

ただし、

「乃木の殉死だけが原因となって先生が死を決めた」

と一本化するのは適切ではない。

先生には、それ以前から、

Kへの罪悪感、

自己不信、

長年の孤独、

死への意識、

が存在している。

明治の終焉は、それらと重なって作用する。

したがって『こころ』は、

個人的な罪の物語であると同時に、

明治という時代の終わりを生きる個人の物語

でもある。

22 もし先生にSNSがあったら孤独ではなかったか

ここで一つ思考実験をしてみる。

先生が現代に生きていたとして、

SNSを利用できれば孤独ではなかっただろうか。

匿名で相談する。

同じ悩みを持つ人を探す。

文章を書く。

専門家へ相談する。

こうした選択肢は増える。

それによって助けられる可能性もあるだろう。

しかし先生の問題は、

単純に話し相手がいないことではない。

他人との間で何を信頼できるのか。

自分自身をどこまで信頼できるのか。

過去を他人へどう渡すのか。

という問題である。

したがって、

フォロワー数が増えるだけでは先生の問題は解決しない。

ここから考えられるのは、

孤独の大きさは、人間関係の数だけでは測れない

ということである。

23 信頼とは「絶対に裏切らない人」を探すことなのか

先生は、人間が状況によって変わり得ることを知った。

そして先生自身もKとの関係で、自分が必ずしも理想通りに行動できない人間であることを知る。

ここから現代的に考えられることがある。

信頼とは、

「この人は絶対に悪いことをしない」

と確信することなのだろうか。

人間が完全ではない以上、その保証を得ることは難しい。

むしろ現実的な信頼とは、

相手が間違える可能性を認める。

自分も間違える可能性を認める。

利害が違う場合があることを認める。

問題が起きたら話し合う。

必要なら距離を取る。

関係を修復できる場合には修復する。

というものかもしれない。

ここは『こころ』そのものが明確な答えを示しているわけではない。

作品から現代へ引き出すことのできる、一つの考察である。

24 完全に分かり合えなくても、人は信頼できるのか

『こころ』では、誰も他人を完全には理解していない。

「私」は先生の過去を長く知らない。

妻も先生の秘密を知らない。

先生はKの内面を完全には理解できない。

Kも先生が同じ女性を愛していることを知らない。

人間は他人の心の全体を見ることができない。

これは現実の人間関係でも同じである。

したがって、

完全に理解した後で信頼する

という順序は、現実には成立しにくい。

むしろ信頼とは、

相手には分からない部分が残っている。

自分にも相手へ見せていない部分がある。

それでも一定の関係を作る。

という行為なのかもしれない。

25 秘密を持つことと孤立することは違う

SNS時代には、

本音を言う。

ありのままの自分を見せる。

隠し事をしない。

といった自己開示が肯定されることがある。

しかし、人間には秘密があってもよい。

すべての人にすべてを公開する必要はない。

問題は、

秘密を持っていることそのものではなく、

その秘密によって、誰とも重要な部分を共有できない状態になっているかどうか

だろう。

先生の人生では、Kとの過去が長く閉じられたままになる。

そのため妻とも共有できず、

社会とも距離を置き、

自分自身の中で抱え続けることになる。

秘密は必要な場合もある。

しかし秘密が自分と世界との間を完全に遮断する壁になると、孤独は深くなる。

26 『こころ』を心理診断へ変換してはいけない

先生について、

現代の特定の精神疾患だった、

特定の人格障害だった、

などと作品だけから診断することは適切ではない。

先生は文学作品の登場人物である。

作品の中で描かれているのは、

孤独、

嫉妬、

罪悪感、

不信、

欲望、

自己嫌悪、

近代的個人、

といった複数の問題である。

それらを一つの診断名に置き換えてしまうと、文学作品の複雑さを失う。

同じ理由で、

「先生はコミュニケーション能力が低い」

だけで説明することもできない。

先生は鋭く他人を観察する。

「私」と会話する。

自分自身をかなり厳しく分析することもできる。

問題は単純な会話能力ではなく、

他者との信頼関係の中へ自分の核心を置くことができなかった

ところにある。

27 令和の私たちが『こころ』から考えられること

『こころ』はSNS時代のために書かれた小説ではない。

したがって現代への教訓を無理に取り出す必要はない。

しかし考える材料としては、少なくとも五つの論点が見えてくる。

第一に、

人との接触量と孤独の大きさは一致しない。

多くの人と交流していても孤独な場合がある。

第二に、

信頼には一定の危険が伴う。

完全な安全を確認してから他人を信じることは難しい。

第三に、

他人への不信と自分への不信は別の問題であり、先生の場合は後者まで深まっていく。

第四に、

自己開示と信頼は同じではない。

大量に自分を語ることによって自動的に信頼関係が生まれるわけではない。

第五に、

完全に理解し合えなくても、人間関係は成立し得る。

他人には分からない部分が残ることを認めたうえで、関係を続ける必要がある。

28 『こころ』をSNS社会の予言書にしてはいけない

一方で、『こころ』とSNS社会を直接同一視してはいけない。

1914年の日本と令和の日本では、

家族制度、

男女関係、

教育、

職業、

通信手段、

社会規範、

が大きく異なる。

漱石がSNS社会を予測して先生を書いたわけではない。

だから、

「先生は現代ならSNS疲れをしていた」

「Kとの問題は現代の既読無視と同じだ」

というような単純な置き換えは文学作品を軽くしてしまう。

現代との比較に意味があるのは、

具体的な道具ではなく、人間関係の構造

である。

人に知られていることと、

理解されること。

自己開示することと、

信頼すること。

自由であることと、

孤独であること。

こうした問題は、媒体が変わっても考えることができる。

29 先生の最大の悲劇は、孤独だったことだけではない

先生には妻がいる。

「私」もいる。

完全に社会との接触を失った人物ではない。

それでも先生は、自分の最も重要な過去を生きている間に妻と共有しない。

最後に「私」へ語る。

しかし、その告白は未来の対話を始めるためのものではない。

先生自身が去ることを前提とした遺書である。

ここに『こころ』の非常に厳しい部分がある。

先生はついに自分の「こころ」を他者へ渡す。

しかし、

渡した後で相手と生き続ける時間を自ら残さない。

「私」は先生の言葉を受け取る。

しかし先生へ問い返すことができない。

これは深い自己開示であると同時に、

最後まで完成しない対話でもある。

結論~孤独の反対は「つながり」ではなく「信頼」なのかもしれない

『こころ』の先生は一人ではない。

妻がいる。

「私」がいる。

それでも先生は、

「私は淋しい人間です」

と語る。

先生の孤独は、

人間が周囲に存在しないことではない。

自分の最も重要な部分を、他者との関係の中へ置くことができない孤独

である。

先生は叔父を信頼し、その信頼を傷つけられた。

だから人間を以前と同じようには信じられなくなった。

しかし先生は、すべての人間を完全に拒絶したわけでもない。

Kとの友情もある。

妻への愛情もある。

「私」との交流もある。

それでもKとの出来事によって、先生は別の問題に直面する。

他人だけではない。

自分自身も、利害や欲望によって理想通りには行動できない。

先生はそのことを知ってしまう。

だから先生の問題は、

「人間は信用できない」

という単純な人間不信だけではない。

自分自身を含め、人間という存在を無条件には信じられなくなったこと

にある。

令和の私たちは、先生の時代とは比較にならないほど多くの人と接触できる。

SNSを通じて、

数百人、

数千人、

場合によっては数万人とつながることもできる。

しかし、

フォロワーがいること。

「いいね」が付くこと。

自分について多くを公開すること。

誰かの生活を毎日見ていること。

それだけで信頼関係が成立するわけではない。

なぜなら人間が必要としているのは、単なる情報交換だけではないからである。

自分の一部をこの人に預けてもよいと思えること。

そして、

相手から預けられた一部を、自分の利益のために利用しないこと。

そこに信頼の一つの形がある。

しかし、その信頼にも完全な保証はない。

相手も間違える。

自分も間違える。

人間は状況によって変わる。

それでも、完全に安全になるまで他者を拒み続ければ、先生が抱えたような孤独へ近づいてしまう可能性がある。

孤独の反対は、

単純に大勢の人とつながっている状態ではないのかもしれない。

一人でもよい。

自分の全部を公開しなくてもよい。

秘密があってもよい。

しかし、自分の一部を渡すことのできる相手がいる。

そして、その人から渡された一部を大切に扱うことができる。

それを信頼と呼ぶならば、『こころ』は百年以上前の作品でありながら、SNS時代の私たちにも非常に厳しい問いを残している。

あなたには、何人の知り合いがいるのか。

という問いではない。

あなたには、自分の「こころ」の一部を預けられる人がいるのか。

そして、もう一つ。

誰かがあなたに預けた「こころ」を、自分の利益のために使わずにいられるのか。

『こころ』を現代に読み直す価値は、この二つの問いが、通信手段がどれほど進歩しても簡単には古くならないところにあるのではないだろうか。

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歌人と俳人は、何を見て、どのように言葉にするのか

俵万智と夏井いつきは、いずれも昭和に生まれ、平成に広く知られるようになり、令和においても創作と普及活動を続けている。

俵万智は一九六二年生まれ、夏井いつきは一九五七年生まれである。年齢差は五歳にすぎず、二人はほぼ同じ時代の社会変化を経験してきた。高度経済成長後の日本で成長し、昭和末期に国語教師を経験し、平成期に短詩型文学の大衆化を進め、令和のデジタル社会でも言葉の価値を伝えている点では、驚くほど共通している。

俵万智は高校の国語教員を経て、第一歌集『サラダ記念日』によって現代短歌を一般読者へ大きく開いた。夏井いつきも中学校の国語教員を経て俳人となり、「俳句の種まき」や句会ライブ、俳句甲子園などを通じて、俳句を専門家だけのものにしない活動を続けてきた。

しかし、二人の作品と活動を注意深く見ると、同じ日本語の短詩型文学に携わりながら、その言葉の使い方、他者との関わり方、人生の捉え方には、かなり異なる方向性が見えてくる。

その違いは、単に「俵万智は短歌、夏井いつきは俳句」という形式上の区別だけではない。

短歌の三十一音と俳句の十七音は、作者が現実をどこまで説明し、どこから沈黙するかを決める装置でもある。二人の表現者としての性格は、それぞれが選んだ形式と長年の活動のなかで、互いに影響しながら形成されてきたと考えるべきだろう。


1 短歌と俳句は、文字数が違うだけではない

一般に、短歌は五・七・五・七・七を基本とする三十一音、俳句は五・七・五を基本とする十七音の詩型である。

また、伝統的な俳句では季語が重要な役割を持ち、作品を季節、自然、時間の循環と結び付ける。短歌には原則として季語の使用義務はなく、恋愛、家族、社会、日常、思想など、より広い題材を直接的に扱いやすい。

ただし、この違いを「短歌は長く、俳句は短い」とだけ捉えるのは不十分である。

短歌には、上の句と下の句の展開によって、状況と感情、問いと答え、現在と過去など、二つ以上の要素を一首の内部に置く余地がある。

たとえば、ある場面を示した後で、その場面に対する作者の解釈や感情を加えることができる。短歌は短いながらも、ある程度の物語性や論理的展開を持ち得る形式である。

これに対して俳句では、十七音という制約のため、説明を大幅に削らなければならない。作者が感じた理由や結論をすべて書く余裕はない。

そこで俳句は、季語、物、光景、音、動きなどを提示し、読者の記憶や感覚に解釈を委ねる。俳句における沈黙や省略は、情報不足ではなく、作品を成立させる中心的な構造である。

この差を情報処理の観点から言えば、短歌は比較的多くの文脈を作者側が作品内部に保持できるのに対し、俳句は文脈の多くを読者側に補完させる形式だと考えられる。

短歌は「この出来事を私はどのように受け取ったか」を記述しやすい。

俳句は「この瞬間に、何がそこにあったか」を提示しやすい。

もちろん、すべての短歌や俳句がこの通りになるわけではない。しかし、俵万智と夏井いつきの表現姿勢を比較するうえでは、この形式上の差が重要である。


2 俵万智~感情を日常語へ翻訳する歌人

俵万智の短歌が広く受け入れられた理由として、日常会話に近い口語を、短歌の韻律へ自然に乗せたことが挙げられる。

『サラダ記念日』以前にも口語短歌は存在した。しかし俵は、当時の若者が使う言葉、恋愛や生活の場面、会話の断片を、五・七・五・七・七という伝統的な形式と結び付けた。

その結果、短歌は古典や専門家の世界に属するものではなく、自分たちの日常を表現できる器として一般読者に再認識された。『サラダ記念日』は大きな社会的反響を呼び、俵は現代短歌の大衆的な入口を広げた人物となった。

俵の表現には、日常のなかで起きた小さな感情の変化を見逃さず、それに言葉を与える特徴がある。

本人も、言葉を集めたり観察したりすることが好きで、目には見えない心の動きを短歌によって残せるという趣旨の発言をしている。また、子育てについても、子どもの言葉をその場で捉えることや、日常の出来事を新鮮な状態で短歌にする意義を語っている。

ここから読み取れるのは、俵万智が単に感情的な歌人なのではなく、感情を観察対象として扱う能力に優れているということである。

人は通常、恋愛、家族、喪失、喜びなどを経験しても、それを適切な言葉にできるとは限らない。むしろ感情が強いほど、言葉は混乱しやすい。

俵は、その混乱をいったん距離を置いて眺め、他者にも理解できる日常語へ変換する。

この意味で、俵の創作は「感情の記録」というより、「感情の翻訳」に近い。

自分の内面をそのまま放出するのではなく、読者が自分自身の経験に重ねられる形に整えて提示する。だからこそ、俵の短歌は個人的な経験を題材にしながら、多くの読者に共有され得る。


3 俵万智の性格は、内向的なのか外向的なのか

公開情報だけを根拠に、俵万智の心理学的性格を断定することはできない。

たとえば、外向性、協調性、誠実性などを測定する標準化された心理検査の結果は、公表されていない。作品中の「私」と実在する作者本人を同一視することも、文学研究上は慎重でなければならない。

そのうえで、本人の発言や活動から確認できる傾向を挙げるなら、俵には強い観察志向と開放性がある。

開放性とは、心理学において、新しい経験、言葉、芸術、価値観への関心を示す性格傾向をいう。

俵は、若い世代の言葉、インターネット上の表現、業界用語、子どもの発言など、従来の文学語彙に限定されない言葉を積極的に観察している。近年も異なる世代や職業の人々との歌会に参加し、新しい語彙や感覚に関心を示している。

これは、伝統を守るために現代語を排除する姿勢ではない。

むしろ、日々変化する言葉を短歌の形式に入れることで、伝統を更新しようとする姿勢である。

一方で、俵の社会的な振る舞いは、強く他者を指導したり、正誤を即座に判定したりする形では現れにくい。

俵は言葉の間違いを裁くよりも、なぜその言葉が生まれ、どのような感情や状況を伝えているのかを受け取ろうとする傾向がある。

したがって、俵の対人姿勢は「指導型」より「受容型」、「評価型」より「共感型」に近いように見える。

ただし、これは優柔不断という意味ではない。

口語を短歌として成立させるためには、音数、語順、助詞、語感を厳密に選択しなければならない。表面上の柔らかさの背後には、高い編集能力と形式感覚がある。

俵万智は、感情を尊重する歌人であると同時に、感情をそのままでは作品にしない、冷静な言葉の技術者でもある。


4 俵万智の人生観~人生は意味づけ直すことができる

俵の作品や発言から見える人生観の中心には、日常を言葉によって意味づけ直す姿勢がある。

人間の生活の大部分は、歴史的事件や劇的な転換ではなく、会話、食事、移動、子育て、別れ、待つ時間といった小さな出来事から成り立っている。

俵は、その一見すると平凡な時間のなかに、記念日となる瞬間や、後から思い出される感情の節目を見つける。

これは、人生には初めから明確な意味が備わっているという考えではない。

出来事をどのような言葉で捉えるかによって、その出来事の意味が変わるという考えに近い。

たとえば、何気ない食事や会話も、言葉によって切り取られれば、二人の関係を象徴する出来事になる。子どもの一言も、記録されなければ消えるが、短歌にすれば成長の時間を保存する媒体になる。

俵にとって短歌は、人生から離れた芸術ではなく、人生の見え方を少し変える道具なのだろう。

それは人生を過度に美化することとは異なる。

恋愛の不安、別れ、嫉妬、孤独、子育ての難しさも作品になり得る。重要なのは、つらい経験を無理に肯定することではなく、それを言葉として扱える状態に変えることである。

言葉にすることによって、経験と自分との距離が生まれる。

その距離によって、人は経験に完全に支配されるのではなく、経験を見つめ直すことができる。

俵万智の人生観には、言葉による自己回復の思想があると考えられる。


5 夏井いつき~対象を具体化し、他者へ返す俳人

夏井いつきもまた、国語教師の経験を持つ。

しかし俵万智が個人の日常感情を短歌へ翻訳することで広く知られたのに対し、夏井は俳句を他者に教え、他者の作品を評価し、共同体を形成する活動によって社会的な役割を広げてきた。

夏井は中学校の国語教員を八年間務めた後、俳人となった。俳句経験のない人をゼロから一へ導く「俳句の種まき」を掲げ、句会ライブ、俳句甲子園、新聞やウェブ上の選句、テレビでの添削など、多様な方法で俳句人口の拡大に取り組んできた。

夏井のテレビ上の人物像は、明快で、厳しく、即断的である。

作品の問題点を具体的に指摘し、語順や季語、映像の焦点を修正するため、視聴者には「毒舌の先生」という印象を与えやすい。

しかし、この印象だけで夏井の性格を判断するのは不十分である。

夏井の添削は、作者の人格を否定することではなく、作品内部で何が伝わり、何が伝わらないかを分解する作業である。

曖昧な感情語を具体的な映像に変える。

説明を削り、一つの物や動作へ焦点を絞る。

作者が言いたかった内容ではなく、実際に言葉から読者へ届く内容を検討する。

そこには、俳句を神秘的な才能の産物ではなく、一定程度は学習し、改善できる技術として扱う姿勢がある。

本人も、俳句を続ければ言葉の筋力が付くという趣旨の説明をしている。

この点で夏井は、創作者であると同時に、俳句の方法論を体系化して伝える教育者である。


6 夏井いつきの性格~外向的に見える内向的な実務家

夏井いつきは、テレビでは強い発言力を持つ外向的な人物に見える。

しかし本人は、本と多少の食べ物があれば外出せずに過ごせるという趣旨を語っており、もともと活発に動き回る性格ではないとしている。

ここには、社会的行動の多さと心理学的な外向性を同一視してはならないという問題がある。

多くの人の前で話し、全国を移動し、テレビに出演する人物が、必ずしも社交そのものを好む外向型とは限らない。

責任感、目的意識、専門的使命によって、大量の対人活動を行っている可能性もある。

夏井の場合、行動の中心には「俳句の種をまく」という明確な目的がある。

したがって、夏井の活動性は、刺激や注目を求める外向性よりも、目標を継続的に遂行する誠実性や使命志向によって説明する方が妥当である。

また、夏井には、判断基準を言語化し、他者へ明確に示す傾向がある。

どの言葉が余分なのか。

季語がどのように働いているのか。

作者の説明が映像を弱めていないか。

読者がどの順番で情景を受け取るのか。

こうした問題を具体的に説明する姿勢は、直感だけでなく、分析と構造化を重視する性格傾向を示している。

一方で、夏井の活動は単なる規則主義ではない。

俳句を通じて、病気、引きこもり、育児などの困難を抱えた人が、自分の経験を表現できるようになった事例も紹介されている。

夏井の厳しさは、人を俳句から排除するためではなく、作品を完成させる方法を共有するための厳しさである。

表面上は俵より断定的であるが、その目的は他者を支配することではなく、他者が自力で表現できるようにすることにある。


7 夏井いつきの人生観~経験はすべて素材になり得る

夏井は、楽しいこともつらいことも、すべてが俳句の種になるという考えを繰り返し示している。

これは、つらい出来事を肯定的に考えれば幸福になれる、という単純な楽観論ではない。

俳句においては、経験を説明するよりも、その経験を象徴する物や瞬間を見つけることが重要になる。

悲しいと書くのではなく、悲しみが現れた部屋、天気、手の動き、季節の変化を書く。

苦しいと説明するのではなく、その苦しさのなかで見えた具体的な一物を示す。

この作業によって、個人的な経験は、他者が読める作品へ変化する。

夏井の人生観では、人間の経験は、そのままでは混沌としている。しかし、観察し、言葉を削り、季語や具体物と結び付ければ、一つの形を得ることができる。

俳句は人生の問題を解決するものではない。

病気を治すわけでも、失ったものを戻すわけでもない。

それでも、自分が見たものを十七音で残すことによって、自分の経験が無意味ではなかったと確認できる。

夏井が俳句を「人生の杖」として語る背景には、俳句が人を目的地へ運ぶのではなく、歩き続けるための支えになるという理解がある。

俵が言葉によって人生を意味づけ直す歌人であるなら、夏井は経験のなかから一つの具体物を拾い上げ、人生を支える形へ加工する俳人だといえる。


8 二人の違いは、共感と指導の違いなのか

表面的に比較すれば、俵万智は柔らかく共感的であり、夏井いつきは厳しく指導的に見える。

しかし、この対比を固定的な性格差として扱うと、本質を見誤る。

俵も短歌の選者として他者の作品を評価しており、音数や表現には厳しい技術的判断を持っている。

夏井も他者の人生や感情を尊重し、俳句を通じて人が自己表現を獲得することを重視している。

したがって、二人の差は「優しい人」と「厳しい人」の差ではない。

より正確には、他者に接近する順序の違いである。

俵はまず、相手の言葉や感情を受け取る。

その後、それを共有可能な言葉へ整える。

夏井はまず、相手の言葉を作品として分析する。

その後、何を残せば作者の経験がより明確に伝わるかを示す。

俵は共感から形式へ進み、夏井は形式から共感へ進む。

入口は異なるが、最終的には、個人の経験を他者へ届く言葉に変えるという同じ地点に向かっている。


9 科学的に見た、三十一音と十七音の認知的な違い

「科学的」という言葉を用いる場合、文学作品から作者の性格を直接診断することは避けなければならない。

一方で、短歌と俳句の形式が、作者や読者に異なる認知的処理を要求することは、論理的に説明できる。

短歌は三十一音あるため、俳句より多くの情報を保持できる。

主語、時間、会話、理由、感情などを、一首のなかに複数配置できる。そのため作者は、経験を時間的または因果的に構成しやすい。

これは、自伝的記憶を文章化する働きと相性がよい。

俵の短歌に、恋愛、子育て、家族、移住など、人生の時間的経過が入りやすいのは、作者の資質だけでなく、短歌という形式の容量にも関係している。

これに対して俳句は十七音である。

情報容量が小さいため、複数の説明を盛り込めば、焦点が曖昧になる。

作者は、経験全体から一つか二つの情報を選び、残りを捨てなければならない。

これは注意の選択、情報の圧縮、具体物への焦点化を要求する。

夏井の添削が、抽象語を減らし、映像を明確にし、焦点を一つに絞る方向へ進むのは、俳句という形式の認知的要請と一致している。

短歌は、経験を関係づける力を鍛える。

俳句は、経験から核心を選ぶ力を鍛える。

短歌では、「私はこの出来事をどう感じたか」という自己と世界の関係が作品になりやすい。

俳句では、「世界のなかで何がこの瞬間に現れたか」という対象の存在が前面に出やすい。

この違いは、俵と夏井の表現上の人格にも反映されているように見える。

俵は関係を言葉にする。

夏井は対象を言葉によって立ち上げる。


10 昭和・平成・令和をどう生きたか

二人が生きてきた時代は、日本語の環境が大きく変わった時代でもある。

昭和期には、文学作品を発表し、読者へ届ける経路は、書籍、雑誌、新聞、結社などに限られていた。

平成期にはテレビが文学者を大衆文化のなかへ招き入れ、令和期にはSNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)や動画配信を通じて、一般の人が短歌や俳句を発表するようになった。

俵万智は、昭和末期に口語短歌を広く普及させた。

若者の日常語や恋愛感情を短歌に入れ、短歌を現代生活へ近づけた。

令和に入っても、新しい言葉や若い世代の文化を観察し、短歌を固定された古典形式として扱っていない。

夏井いつきは、平成から令和にかけて、俳句を教える技術をテレビや公開講座に適応させた。

俳句を才能の有無だけで判断せず、初心者でも改善できる過程として示した。

二人とも、伝統文化をそのまま保存したのではない。

伝統の中心構造を保ちながら、伝達方法を時代に合わせて変えた。

俵は、短歌に入る言葉を更新した。

夏井は、俳句を学ぶ仕組みを更新した。

この違いは、二人の社会的役割を端的に示している。


11 二人は対照的でありながら、同じ仕事をしている

俵万智と夏井いつきを比較すると、次のような対照が見えてくる。

俵万智は、感情の揺れを捉える。

夏井いつきは、対象の輪郭を捉える。

俵は、日常の出来事を人間関係のなかで意味づける。

夏井は、日常の出来事から一つの具体的な瞬間を切り出す。

俵は、受け取った言葉を共有可能な感情へ変換する。

夏井は、曖昧な感情を共有可能な映像へ変換する。

俵の短歌には、話しかける相手が存在しやすい。

夏井の俳句には、作者と読者の間に、一つの物や季節が置かれやすい。

しかし二人は、根本では同じ仕事をしている。

それは、個人のなかに閉じ込められている経験を、他者へ手渡せる言葉に変える仕事である。

文学は、自分の感情を述べるだけでは成立しない。

他者が読み、感じ、場合によっては自分自身の経験として受け取れる形にする必要がある。

俵万智は三十一音を使って、その橋を架ける。

夏井いつきは十七音を使って、その橋を架ける。

橋の構造は違うが、渡そうとしているものは、人間が生きた時間である。


12 結論~歌人は人生を関係として捉え、俳人は人生を瞬間として捉える

俵万智と夏井いつきの違いを、単純に性格の違いとして結論づけることはできない。

二人の心理学的性格を客観的に比較できる検査資料はなく、作品やテレビ上の印象だけで、内向的、外向的、感情的、論理的と断定するのは科学的ではない。

それでも、公開された経歴、発言、作品傾向、教育活動から、表現者としての方向性を比較することは可能である。

俵万智は、人生を人と人との関係、言葉の交換、感情の変化として捉える傾向が強い。

夏井いつきは、人生を季節のなかの一瞬、具体的な物、動作、光景として捉える傾向が強い。

俵は、人生を「語り直す」歌人である。

夏井は、人生を「見直す」俳人である。

俵の三十一音は、出来事と感情の関係を保存する。

夏井の十七音は、消えそうな瞬間の輪郭を保存する。

どちらが人生を深く表現できるかという問いには、優劣による答えはない。

短歌には、感情や関係を言葉として展開できる強みがある。

俳句には、説明を削ることによって、読者の感覚を直接刺激する強みがある。

俵万智は、日常のなかに名前のない感情を見つけた。

夏井いつきは、日常のなかで見過ごされる一瞬を拾い上げた。

二人が昭和、平成、令和を通じて示してきたのは、短詩型文学が古い形式でありながら、現代人の生活を記録するための極めて実用的で柔軟な方法だということである。

人間の人生は、三十一音でも十七音でも収まりきらない。

しかし、収まりきらないからこそ、人は言葉を選ぶ。

俵万智と夏井いつきは、その選び方が異なる。

そして、その違いこそが、歌人と俳人という二つの表現者の最も本質的な違いなのである。

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三島由紀夫について論じるとき、その政治的な言動や晩年の行動が大きく取り上げられることは少なくない。しかし、それらの事柄が強い印象を残しているために、三島が小説家として何を描き、どのような言葉によって文学作品を構築したのかが、十分に検討されないままになることもある。

本稿では、三島由紀夫の政治的な主張や行動、またその最期については扱わない。

それらを軽視するためではなく、考察の対象を意識的に文学作品の内部へ限定するためである。三島由紀夫の小説において、美しいものはどのように描かれているのか。美は登場人物を幸福にするのか、それとも現実から遠ざけるのか。また、人物の容貌や肉体、自然、建築物、季節、恋愛といった要素は、三島の文体によってどのような美へと組み替えられているのか。

こうした問題を、小説の描写、人物造形、物語構造、文体表現に即して考えてみたい。

三島由紀夫を「美の作家」と呼ぶことは難しくない。だが、その言葉だけでは、三島文学の特徴を明らかにしたことにはならない。

三島の小説に現れる美は、必ずしも人を慰めるものではない。人を幸福に導くとも限らない。ときには見る者を圧倒し、劣等感を刺激し、現実との間に越えがたい隔たりを生じさせる。

一方で、『潮騒』のように、肉体、自然、労働、恋愛が一つの調和を形成する作品もある。

三島由紀夫の文学における美は、単純な一つの原理によって説明できるものではない。それは幸福であると同時に不安であり、調和であると同時に緊張であり、現実に存在しながら、現実を超えた観念にもなる。

本稿では、『金閣寺』『仮面の告白』『潮騒』『春の雪』を中心に、三島由紀夫が美をどのように小説の中へ組み込み、その美によって人物の内面や人間関係をどのように描き出したのかを考察する。


第一章 三島由紀夫は本当に「美の作家」なのか

三島由紀夫は、しばしば「美の作家」と評される。

その評価には、いくつかの異なる意味が含まれている。

第一に、三島の小説には、美しい人物、美しい肉体、美しい建築物、美しい自然が数多く登場する。

第二に、その文章自体が、華麗で視覚的であり、精密に構築されている。

第三に、美とは何か、美しいものを前にした人間がどのように変化するのかという問題が、物語の中心に置かれることがある。

したがって、三島を「美の作家」と呼ぶ場合、美しい題材を扱った作家という意味だけでは不十分である。

三島文学において重要なのは、美しいものそのものだけではない。それを見た人間が何を感じ、どのような行動を取り、現実との関係をどのように変化させるかという問題である。

一般に、美しいものは人を喜ばせ、慰め、生活を豊かにすると考えられている。

美術館で絵画を見ること、美しい音楽を聴くこと、自然の風景を眺めることは、人間に安らぎや感動を与える。美は、人間にとって肯定的な価値を持つものとして理解されることが多い。

しかし、三島の小説では、美は必ずしも穏やかなものではない。

美しいものを前にした人物は、しばしば自分自身の醜さ、弱さ、未熟さを意識させられる。美は人間を励ますどころか、現実の自分を否定する力として働くことさえある。

この構造が最も明確に現れる作品が『金閣寺』である。

『金閣寺』では、美しい建築物が主人公を救済するのではなく、次第に主人公の現実生活を圧迫する存在となっていく。

一方、『仮面の告白』では、美しい肉体が、見る者の憧れや欲望を喚起すると同時に、見る者と見られる者との距離を明らかにする。

『春の雪』では、美しい人物や恋愛が、日常生活の中に安定して存在するのではなく、距離、身分、時間、失われていく季節によって強調される。

これに対し、『潮騒』では、美しい肉体と自然と労働が比較的調和した関係を形成している。新潮社も同作を、太陽や海、若い男女の肉体と恋愛が結びついた「恩寵的な世界」を描く作品として紹介している。

この違いを見ると、三島文学の美は、単に暗いものでも、破壊的なものでもないことが分かる。

美が人物を苦しめるか、人物の生活と調和するかは、その美が現実から切り離されているか、それとも労働や生活の中に置かれているかによって変わる。

三島由紀夫が描いたのは、美そのものの定義というよりも、美と人間との関係だったのではないだろうか。

美しいものは、そこに存在しているだけでは文学にならない。

それを見る人間がいる。

憧れる人間がいる。

所有しようとする人間がいる。

拒絶される人間がいる。

美にふさわしい自分になろうとする人間もいれば、美を前にして自分の価値を失ったように感じる人間もいる。

三島文学における美は、このような人間の感情や欲望を映し出す鏡として働いている。


第二章 『金閣寺』――美は人間を幸福にするのか

『金閣寺』は、三島由紀夫の美の問題を考えるうえで、最も重要な作品の一つである。

主人公の溝口は、吃音と自らの容貌に強い劣等感を抱いている青年である。彼にとって金閣は、単なる歴史的建造物ではない。

それは父から語り聞かされた、世界で最も美しいものだった。

新潮社の作品紹介でも、溝口にとって金閣は「世界を超脱した美そのもの」であったと説明されている。

重要なのは、溝口が最初から現実の金閣を見て、その美しさに感動したわけではないことである。

金閣は、実物を見る前から、父の言葉や溝口自身の想像によって作り上げられていた。

つまり、金閣の美は、現実の建築物として存在する以前に、溝口の内面に観念として形成されている。

この順序は、『金閣寺』を理解するうえで重要である。

現実の金閣と、溝口の想像の中の金閣は、同じものではない。

現実の建築物には、物質的な古さや傷みがあり、見る位置や天候によって印象も変わる。しかし、観念の中の金閣は完全であり、変化せず、溝口の日常生活を超越している。

そのため、溝口は金閣を自由に見ることができない。

金閣は目の前に存在しているにもかかわらず、溝口にとっては決して日常的な建物にならない。それは常に、現実を超えた美として立ち現れる。

ここに、美と人間との不均衡が生まれる。

溝口は、自分の吃音や外見に悩み、他者との円滑な関係を築くことができない。現実の世界では、自分が不完全な存在であることを意識させられる。

それに対し、金閣は完全な美として存在する。

溝口の不完全さと、金閣の完全さが対比されるほど、金閣の美は彼を幸福にするのではなく、圧迫するものになる。

美しいものは、自分もまた美しくなれるという希望を与えるとは限らない。

むしろ、自分がその美から遠く隔てられた存在であることを、残酷なほど明確に示すことがある。

溝口にとって金閣は、憧れの対象であると同時に、自分の劣等感を絶えず確認させる存在でもある。

また、金閣の美は、溝口が現実の行動を起こすことを妨げる。

溝口が女性と関係を持とうとするときにも、金閣の像が彼の意識に現れ、目の前の現実を遮る。

ここでは、美が現実を豊かにするのではなく、現実への参加を困難にしている。

美しいものを想像することによって、現実の人間関係が色鮮やかになるのではない。反対に、観念として完成された美が、現実の人間や出来事を価値の低いものに見せてしまう。

その意味で、『金閣寺』における美は、一種の絶対的な基準である。

完全な美を基準にすれば、現実の人間も、日常生活も、身体も、恋愛も、すべてが不完全に見える。

だが、人間が生きるのは、完全な観念の世界ではない。

不完全で変化し続ける現実の中である。

溝口の苦しみは、美を愛したことだけから生じているのではない。美を現実とは異なる絶対的なものとして捉え、その美と自分との間に関係を築けなかったことから生じている。

『金閣寺』が示しているのは、美しいものが必ず人間を善い方向へ導くわけではないという事実である。

美は人間を高めることもあるが、人間を現実から遠ざけることもある。

美を前にした人間は、感動するだけではない。嫉妬し、恐れ、支配され、ときにはその美が存在すること自体を重荷に感じる。

三島由紀夫は、金閣の美しさを説明するだけではなく、その美に耐えられなくなる人間の内面を描いた。

そこに、『金閣寺』が単なる建築美の小説ではなく、人間と美との緊張関係を描いた文学作品である理由がある。


第三章 『仮面の告白』――美しい肉体はなぜ遠いのか

『仮面の告白』では、美の対象が建築物から人間の肉体へと移る。

この作品の語り手である「私」は、自らの内面を他者に知られないようにしながら、社会の中で生きている。

題名にある「仮面」とは、単なる嘘や演技を意味するものではない。

人間が社会の中で求められる役割を演じ、自分の内面と外部に示す姿との間に距離を作ることを表している。

新潮社の作品紹介では、この小説は、少年である「私」が自らの性的指向に煩悶し、級友の妹との関係を通して、自分が一般的な幸福に適合できないことを認識していく物語として紹介されている。

『仮面の告白』に登場する美しい肉体は、「私」が自然に近づき、触れ合い、日常を共有できる対象ではない。

それは、遠くから見つめられる対象である。

ここに、『金閣寺』と共通する構造がある。

金閣が溝口にとって所有できない美であったように、美しい男性の肉体は、「私」にとって自由に近づくことのできない美である。

ただし、『仮面の告白』における距離は、物理的な距離だけではない。

社会的な距離であり、心理的な距離であり、言葉にすることのできない内面と、他者に見せている自分との距離でもある。

美しい肉体を見つめる「私」は、その肉体を純粋な自然物として見ているわけではない。

肉体は、想像、物語、絵画、宗教的な図像などと結びつき、現実以上の意味を与えられる。

そのため、肉体の美は、単なる健康や均整だけでは説明できない。

「私」の想像力によって、肉体は現実の身体でありながら、象徴的な像へと変化する。

ここでも、美は見る者の内面によって作られている。

美しい人物が客観的に存在し、その美しさがそのまま語り手へ伝わるのではない。

語り手の欲望、記憶、不安、孤独が、美しい肉体の意味を変える。

同じ人物を見ても、別の人間には同じ美が見えるとは限らない。

美とは対象だけに属するものではなく、対象と見る者との関係の中に成立する。

さらに、『仮面の告白』では、美しい肉体と、語り手自身の身体感覚との間にも大きな差がある。

「私」は、美しい肉体を外側から見つめる。その視線には憧れがあるが、同時に、自分はその美の側にはいないという感覚も含まれている。

美を見るという行為は、自分と対象との違いを確認する行為でもある。

自分が持っていないもの、自分がなることのできないもの、自分が近づくことを許されないものほど、強く美しく見える場合がある。

この意味で、『仮面の告白』における美は、距離によって成立している。

完全に理解し、日常的に接し、自由に所有できるものは、観念的な美を維持しにくい。

遠く、禁じられ、言葉にできないからこそ、美は強くなる。

しかし、距離によって成立する美は、見る者を幸福にするとは限らない。

美が強くなるほど、それに近づけない自分の孤独も強くなるからである。

三島由紀夫は、美しい肉体を描くことによって、単に官能的な世界を作ったのではない。

美を見つめる人間が、なぜ自分を隠さなければならないのか。

なぜ美しいものを欲望することと、社会の中で普通に生きることの間に緊張が生じるのか。

そして、なぜ人間は他者に見せる自分と、自分だけが知る自分との間に仮面を必要とするのか。

美しい肉体は、こうした問いを引き出す装置として機能している。

『仮面の告白』の美は、人間を外部へ導くよりも、自己の内面へと深く沈める。

美しいものを見たために、自分自身が何者であるかを問わざるを得なくなる。

その点に、この作品における美の厳しさがある。


第四章 『潮騒』――生活と調和する美

『金閣寺』と『仮面の告白』では、美は人物と現実との間に距離を生じさせていた。

しかし、三島由紀夫の小説に登場する美が、常に人間を孤独にし、現実から遠ざけるわけではない。

そのことを示す作品が『潮騒』である。

『潮騒』の舞台は、伊勢湾の小島である。

若い漁師の新治と、島へ戻ってきた少女・初江との恋愛を中心に物語が展開する。二人の周囲には、海、太陽、風、星、漁、船、島の共同体が存在する。新潮社の紹介でも、同作は海の若者と少女の恋を中心に、若い肉体と自然が結びついた澄明な作品として位置づけられている。

『潮騒』における美は、現実から切り離された観念ではない。

新治の肉体は、鑑賞されるためだけの肉体ではなく、働くための肉体である。

漁に出て、船を動かし、海の危険に対応する。

初江の美しさも、遠くから眺められるだけの人工的な美ではない。島の自然や日常生活の中に存在し、労働や共同体との関係を持っている。

ここでは、肉体の美しさと、肉体の有用性が分離していない。

現代社会では、美しい肉体は、しばしば日常的な労働から切り離されて表現される。

鍛えられた身体、美しい容貌、若さなどが、それ自体の価値として提示される。

しかし、『潮騒』の肉体美は、海で働き、困難に耐え、他者を守る力と結びついている。

そのため、新治の肉体は観念的な像になりすぎない。

彼は美しい若者である以前に、生活する人間である。

この点が、『仮面の告白』に登場する、遠くから見つめられる肉体との大きな違いである。

『潮騒』では、美しいものが生活の外部に置かれていない。

太陽は人物を照らし、海は人物の生活を支える。

同時に、海は危険をもたらし、若者の力量を試す場所でもある。

自然は単なる背景ではなく、人物の身体、感情、成長に関わる現実の環境である。

また、新治と初江の恋愛は、二人だけの観念的な世界に閉じこもるものではない。

島の噂や家族、経済的な立場、結婚といった現実的な条件にさらされる。

それでも二人は、現実を拒絶して自分たちの世界へ逃げるのではなく、困難を乗り越えながら共同体の中で関係を成立させようとする。

ここでは、美と幸福が比較的近い位置にある。

美しい人物が、美しい自然の中で、互いを愛し、労働し、将来の生活へ向かっていく。

これは三島文学の中では、きわめて明るい美の形である。

ただし、『潮騒』の美を単純な楽観主義と見るべきではない。

二人の恋愛は、最初から無条件に認められているわけではない。嫉妬、噂、身分や経済的な違い、自然の危険が存在する。

それでも美と現実が決定的に分裂しないのは、新治と初江が、観念の中に閉じこもらず、行動によって現実との関係を築いていくからである。

『金閣寺』の溝口は、美を見つめ続ける。

『仮面の告白』の「私」も、美しい対象を見つめ、その意味を内面で増幅させる。

これに対し、『潮騒』の新治は、美しいものを見つめるだけではない。

働き、選択し、危険に立ち向かい、人間関係の中で責任を引き受ける。

『潮騒』が示すのは、美が生活と結びつくためには、美を観念として所有するのではなく、現実の行動の中で経験する必要があるということではないだろうか。

美が日常生活を超越した絶対的なものになるとき、人間は美に支配される。

しかし、美が労働や自然や人間関係の中に存在するとき、それは生活を肯定する力になり得る。

『潮騒』は、三島由紀夫が美を苦悩や孤独だけでなく、人間と世界との調和としても描くことのできた作家であることを示している。


第五章 『春の雪』――美はなぜ失われるときに強くなるのか

『春の雪』は、『豊饒の海』四部作の第一巻である。

物語の中心となるのは、華族の家に生まれた松枝清顕と綾倉聡子である。

二人は互いに惹かれ合いながらも、清顕の自尊心やためらいによって関係を素直に進めることができない。清顕が聡子を遠ざけた後、聡子は皇族との婚約を受け入れる。その後、二人の関係は、許されないものとなったことによって、かえって激しさを増していく。

『春の雪』における美は、若さ、季節、身分、恋愛、距離、時間と密接に結びついている。

題名にある「春の雪」は、その性質を象徴している。

春の雪は美しい。

しかし、長く残ることはない。

降り積もったとしても、季節の暖かさによって間もなく消えてしまう。

その美しさは、永続することではなく、消えてしまうことと結びついている。

清顕と聡子の関係も、安定した日常の中で少しずつ育つ恋愛ではない。

二人が自由に結ばれる可能性があるとき、清顕は自分の感情を十分に受け入れることができない。

ところが、聡子が他者との婚約によって遠い存在になると、清顕の感情は強くなる。

ここには、美と距離の関係がある。

身近にあり、手に入れることのできるものよりも、失われようとしているものの方が美しく見える。

自由に会えるときよりも、会うことを禁じられた後の方が、相手の存在が強く感じられる。

人間は、対象そのものを愛しているのか。

それとも、その対象を失う可能性によって、自分の感情を強めているのか。

『春の雪』は、この判別しにくい問題を描いている。

清顕は、聡子を愛している。

しかし、その愛は、聡子が遠ざかるほど強くなる。

もし聡子がいつでも会える身近な存在であり続けたならば、清顕は同じように彼女を求めただろうか。

この問いに、簡単な答えは出せない。

ただし、三島は、愛や美が対象との距離によって変化することを、物語の構造として明確に描いている。

また、『春の雪』では、若さそのものが美として表現されている。

若さは、永続する性質ではない。

若者は、自分の若さが失われることを十分には理解していない。清顕の繊細さ、傲慢さ、ためらい、気まぐれは、若さの魅力であると同時に、若さの未熟さでもある。

三島は、清顕を道徳的に完全な人物として描いてはいない。

清顕は、自分の感情を扱いきれず、相手を傷つけ、決断を遅らせる。

それでも、その未熟さを含んだ存在全体が、美しいものとして描かれる。

ここでの美は、人格的な善良さと一致しない。

人は善良であるから美しいとは限らず、正しい判断をするから美しいとも限らない。

矛盾や欠点を持ちながら、二度と戻らない若い時間の中に存在していること自体が、美を生み出している。

『春の雪』の自然描写や室内描写も、この失われる時間を強く意識させる。

季節、光、庭園、衣服、建物、儀礼などが細かく描かれ、人物たちは美しく整えられた世界の中に置かれる。

しかし、その世界は安定していない。

旧い貴族社会の秩序と、新しい時代の動きが重なり、登場人物たちが属する世界そのものも変化しようとしている。

美しい形式が存在しているからこそ、それが長くは続かないという予感が生まれる。

三島文学において、美はしばしば、変化しない完全なものとして求められる。

しかし、『春の雪』の美は、変化を拒むことで成立するのではない。

むしろ、失われていくことが、美を強くしている。

雪は溶けるから美しい。

春は過ぎるから美しい。

若さは失われるから美しい。

自由に結ばれない恋愛は、その不可能性によって、日常的な恋愛よりも鮮烈なものになる。

ただし、このような美は、人を幸福にする美ではない。

失われるから美しいものを愛するならば、その美を感じることは、同時に喪失を経験することでもある。

『春の雪』における美は、所有や安定ではなく、時間と距離の中で成立する。

それは完成された幸福の美ではなく、幸福になり得た可能性が失われていく美である。


第六章 三島由紀夫の文体はどのように美を作るのか

三島由紀夫は、美しい建築物、肉体、自然、恋愛を題材にした。

しかし、題材そのものが美しいだけで、文学作品が自動的に美しくなるわけではない。

同じ海、同じ庭園、同じ若者、同じ建築物を描いても、文章の選び方によって、読者が受け取る印象は大きく変わる。

三島文学の美を考えるためには、何が描かれているかだけではなく、どのように描かれているかを見る必要がある。

1 視覚的に構成される文章

三島の文章は、視覚的な印象が強い。

色、光、影、形、輪郭、表面の質感などが細かく描かれ、読者は場面を頭の中に映像として想像しやすい。

ただし、それは写真のように現実をそのまま写す描写ではない。

三島は、現実の風景から特定の要素を選び取り、強調し、配置し直す。

光をどこに当てるか。

何を暗い影の中に置くか。

人物の身体のどの部分を描くか。

背景をどの程度まで説明するか。

こうした選択によって、現実の場面が一つの構図へ変えられる。

三島の自然描写が、単なる写生とは異なるのはそのためである。

海や庭園や雪は、自然のままに存在しているのではなく、文章の中で造形された美として読者の前に現れる。

2 比喩によって現実を変形する

三島の文体では、比喩が重要な役割を持つ。

比喩は、あるものを別のものにたとえる表現である。

しかし、三島の比喩は、単に説明を分かりやすくするためだけに用いられているのではない。

比喩によって、現実のものが別の意味を持ち始める。

身体が彫刻のように見える。

水面が金属や宝石のように見える。

雲や光が布や紙のように見える。

自然物が人工物のように描かれ、人工物が生き物のように描かれる。

この変換によって、読者は日常的な対象を、普段とは異なる角度から見ることになる。

比喩は現実を忠実に再現するのではなく、現実に新しい形を与える。

その意味で、三島の文章は、世界を説明する文章というよりも、世界を作り直す文章である。

3 感覚と観念を結びつける

三島の文章には、視覚、聴覚、触覚、嗅覚などの具体的な感覚が多く現れる。

一方で、美、時間、孤独、欲望、幸福といった抽象的な観念も頻繁に語られる。

三島の特徴は、感覚と観念を別々に書くのではなく、両者を一つの文章の中で結びつける点にある。

たとえば、ある光景が美しく描かれた後、その光景が人物にとって何を意味するかが考察される。

また、人物の感情が抽象的に説明されるだけでなく、身体感覚や風景の変化として表現される。

そのため、読者は単に場面を見るだけではなく、その場面に与えられた思想的な意味まで同時に読むことになる。

『金閣寺』における金閣は、建築物であると同時に、溝口にとっての絶対的な美の観念である。

『仮面の告白』の肉体は、身体であると同時に、欲望、孤独、自己認識を引き出す象徴である。

『潮騒』の海は、自然環境であると同時に、新治の労働能力や勇気を試す場所である。

『春の雪』の雪は、自然現象であると同時に、若さや恋愛のはかなさを表している。

三島の文体は、物と意味を結びつける。

物を物のまま放置せず、その背後に観念を生じさせる。

4 人物を一つの造形物として描く

三島の人物描写では、人間の内面だけでなく、外見、姿勢、衣服、動作、周囲の光景が重視される。

人物は心理だけで作られているのではない。

身体の形、歩き方、視線、服装、置かれている空間によって、一つの視覚的な像として構成される。

この方法によって、登場人物は単なる現実の人間以上の存在感を持つ。

清顕や聡子は、一人の若者、一人の女性であると同時に、失われていく時代や若さを表す美しい像にもなる。

新治と初江は、個人であると同時に、海と太陽の下で生きる若い男女の象徴的な姿としても描かれる。

ただし、人物を美しい像として描くことには危うさもある。

人物が造形的に完成するほど、日常生活を送る普通の人間から遠ざかる可能性があるからである。

三島文学の人物には、ときに現実の人間以上に整いすぎている印象がある。

しかし、その人工性こそが三島の文体の特徴でもある。

三島は、現実の人物をそのまま写すのではなく、言葉によって人物を造形する。

小説の人物を、彫刻や絵画のように配置し、光を当て、輪郭を与える。

5 自然美ではなく、構築された美

三島の文章は、自然に流れ出た感情をそのまま記したような文章ではない。

語句、比喩、文の長さ、場面の配置が強く意識され、人工的に構築されている。

ここでいう人工的とは、不自然で価値が低いという意味ではない。

庭園、建築、彫刻、舞台などと同じように、人間の意志によって形を整えられた美という意味である。

三島の文体は、感情を無加工で表に出すのではなく、感情に形式を与える。

苦悩をそのまま叫ぶのではなく、比喩や構図の中に置く。

恋愛を直接的な感情表現だけで描くのではなく、季節や衣服や建物と結びつける。

人物の孤独を説明するだけでなく、その人物と美しい対象との距離として表現する。

そのため、三島の文章には、感情の激しさと、形式の冷静さが同時に存在する。

内容は激しくても、文章は制御されている。

人物は混乱していても、場面の構成は整っている。

この緊張関係が、三島の文体に独特の美しさを与えている。


おわりに――美は人を救うのか

三島由紀夫の文学における美は、一つの意味に固定することができない。

『金閣寺』では、美は溝口を現実から遠ざけ、その劣等感を強める。

金閣の完全な美は、溝口に幸福を与えるのではなく、自分の不完全さを意識させる。

『仮面の告白』では、美しい肉体は、欲望の対象であると同時に、語り手が自分自身の孤独を知るきっかけとなる。

美しいものは近くにあるのではなく、距離や禁忌によって、いっそう強い美となる。

『潮騒』では、美は現実の生活と調和している。

若い肉体は労働する身体であり、海は美しい背景であると同時に、人間の力を試す生活の場である。

ここでは、美が人間を現実から遠ざけるのではなく、現実の行動や共同体の中で成立している。

『春の雪』では、美は時間と喪失によって強められる。

若さ、恋愛、季節、旧い社会の形式は、永遠に続くから美しいのではない。

失われていくことが避けられないからこそ、強い美として感じられる。

これらの作品を比較すると、三島文学における美は、対象そのものに固定された性質ではないことが分かる。

美は、見る者との関係によって変わる。

近づけるか、近づけないか。

生活の中に置かれているか、現実を超越した観念になっているか。

所有できるか、失われようとしているか。

美を前にした人物が行動するか、ただ見つめ続けるか。

こうした条件によって、美は幸福にもなり、苦悩にもなる。

三島由紀夫は、美しいものを数多く描いた。

しかし、三島文学の本質は、美しい対象を並べたことにはない。

美しいものを前にした人間が、どのように自分を知り、どのように現実との距離を測り、どのように欲望し、ためらい、行動するかを描いたことにある。

また、その美は、文章の外部に最初から存在しているわけではない。

光、色彩、比喩、身体、季節、建築、自然を精密に配置する文体によって、美は小説の中に作り出される。

三島由紀夫は、美を説明した作家というよりも、言葉によって美が成立する瞬間を構築した作家だったと言える。

美は人を救うのか。

三島の小説は、この問いに一つの答えを与えない。

美は人を幸福にすることもあれば、自分の不完全さを意識させることもある。

現実の生活を肯定することもあれば、現実を価値のないものに見せることもある。

美しいものが人間に何をもたらすかは、美そのものによって決まるのではない。

人間がその美と、どのような関係を結ぶかによって決まる。

三島由紀夫の文学が今も読者を引きつける理由の一つは、美を単なる慰めや装飾として扱わなかった点にある。

三島が描いた美は、人間を静かに満足させるだけのものではない。

見る者の内面を照らし、その欲望、劣等感、孤独、若さ、幸福、時間への恐れを浮かび上がらせる。

だからこそ、三島由紀夫の小説における美は、美しいだけでは終わらない。

それは、人間が現実をどのように生きるのかを問い返す、文学の力そのものなのである。

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