リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

潮の香りのする男(九条レオン)

潮の香りのする男

 北倉が古民家を借りたという話を、真鍋が最初に聞いたのは、第一章の終わりから十日ほど経ったころだった。  地域戦略課の朝は相変わらず雑然としていて、電話と回覧と印刷機の音が途切れない。真鍋が移住関係の書類をまとめていると、野添課長が席の脇に立って言った。 「北倉さん、家、決めたらしいよ」 「家?」 「旧市街の坂の途中にある古い家。空き家バンク経由じゃなくて、地元の不動産屋の紹介で」  野添は、ちょっと面白いものでも見つけたような顔で続けた。 「かなり本気みたい。奥さんと子ども二人も、いずれ呼ぶつもりだって」  真鍋は顔を上げた。 「家族ごと、ですか」 「そう。学期の区切りを見てって話らしい。ほら、こういうのって地元の人、安心するでしょ」  確かにそうだった。  単身で来る人間と、家族ごと根を下ろそうとする人間とでは、町の受け止め方はまるで違う。地方の小さな町では、暮らしを置く意思そのものが、信用の一部になる。 「確認も兼ねて、一度見に行ってみる?」 野添が軽く言った。 「移住相談の延長で、不便なところがないか聞くくらいなら自然だし」 「分かりました」  真鍋はそう答えたが、内心では少しだけ前向きな気持ちになっていた。

 履歴書の空白のことは、完全に消えたわけではない。堂本の言葉も、桐生の言い方も、記憶の底に残っている。  だが、それでも家族ごと移るつもりだという話は、真鍋の中で小さく効いた。そこまで言うなら、一時の顔出しではないのかもしれない、と。

 古民家は、駅前から海とは逆の方角へ少し上がった、旧市街の外れにあった。昔は宿屋か商家だったのか、道に面した間口は狭いが奥行きのある造りで、黒ずんだ木の格子戸と、低い石垣の上に延びた小さな庭木が、まだかろうじて形を保っていた。軒は少し傷んでいるが、柱や梁はしっかりして見える。

 格子戸の前で声をかけると、中から北倉が出てきた。  袖を軽くまくったシャツ姿で、右手には軍手、左肩にはカメラのストラップがかかっている。 「真鍋さん。どうぞ、上がってください」 「お邪魔します」

 土間には、掃除の途中らしい箒とバケツが置かれていた。畳は張り替えればまだ使えそうで、障子は一部破れているが、陽の入り方は悪くない。縁側の向こうに、手入れされなくなって久しい庭が見える。古い灯籠と、伸びすぎた椿と、倒れかけた物干し台。そのどれもが、少し整えれば画になりそうだった。

「いい家ですね」  真鍋が言うと、北倉はうれしそうに笑った。 「でしょう。最初に見たとき、これは残した方がいい家だなと思って」 言いながら、北倉は縁側の木枠を指先で軽く叩いた。 「新しいものを入れるのも大事ですけど、古いものを全部壊してしまうと、町の記憶まで薄くなりますから」 うまいことを言う、と真鍋は思った。

 うまいが、それだけではないとも思った。北倉は、こういう言葉が相手にどう響くかを、よく知っている。 「ここに、ご家族も?」 「ええ。今はまだ向こうですけど」  北倉は縁側に立ち、庭の向こうの空を見た。海は見えないが、風に塩気が混じっている。

「妻も海のある町が好きでして。子どもは上が中学一年で、下がまだ小学生なんです。だから、学期の区切りを見てって話にはなってますけど、こちらに呼ぶ前提で考えています」 「永住、という形で?」  北倉は自然にうなずいた。 「できれば、そのつもりです。短く使い捨てるみたいな関わり方は、したくないんです」  その言葉は、役所の人間にも、地元の人間にも、よく効くだろうと真鍋は思った。

 実際、真鍋自身にも少し効いた。  北倉はカメラを手に取ると、障子越しの光が落ちる縁側の角度を変えて数枚撮った。次に、土間の上から柱の傷を撮り、低い位置から庭を切り取る。高級な一眼レフだった。黒いボディは使い込まれていて、趣味の持ち物というより、仕事道具の顔をしている。 「写真、お好きなんですか」 「好きですね。動画もやりますけど、結局、写真の方が性格が出る気がして」 北倉はモニターをちらりと見せた。  真鍋が見慣れているこの家の内側が、そこには少し違って映っていた。古びているのに、みすぼらしくはない。傷んでいるのに、終わった感じがしない。 「同じものでも、残し方で印象は変わるんです」  北倉は軽く言った。 「町も、たぶん同じで」  真鍋はその言葉を聞きながら、相手が町を見ているというより、町から使える表情を選んでいるようにも感じた。だがその感覚は、まだ言葉になるほどはっきりしなかった。

 北倉が駅前の商店街で買い物をしているのを見たのは、その数日後だった。  真鍋は昼休みに姉の店の前を通りかかり、入口脇の看板を拭いているゆかに声をかけようとしたところで、通りの向こうの魚屋の軒先に北倉の姿を見つけた。片手に買い物かご、肩には例のカメラ。店先に並んだ鯵と小さなイカを前に、店主と何やら楽しそうに話している。 「珍しい人と知り合ったんだね」  ゆかが真鍋の視線の先を見て言った。 「もう顔なじみ?」 「二回目じゃないかな。でも、ああいう人は二回で十分なのかもね」  魚屋の店主は、地元の人間に対しても無愛想なことで知られている。だが北倉の前では、今日は少し機嫌がよさそうだった。魚の並べ方のこと、今朝の港の水揚げのこと、観光客がどの魚に目を留めるかという話まで、店主が自分から口を開いている。

 北倉は決して知ったふうには言わない。 「これはどう食べるのがいちばんですか」 「この時期は、こっちの方がいいんですか」 と、相手に教えさせる。それでいて、ただのおべっかにも見えない。  やがて北倉は魚を買い、会計のあとで店先の木箱と氷の上の銀色の魚体を、二、三枚だけ手早く撮った。断ってから撮っているのが見て取れた。

 魚屋を出ると、今度は乾物屋へ入った。続けて酒屋にも寄る。どの店でも長居はしない。  だが、短時間で相手の警戒を解く。通りの空気に、自分をそっと混ぜる。 「スーパーの方が安いのにね」  ゆかが言った。 「商店街で買う方が、顔は売れる」 「顔だけ?」  姉の言い方に、真鍋は少し笑った。 「……まあ、地元でやっていくなら大事だろ」 「そうだね」 ゆかはそう言いながらも、どこか観察する目をしていた。

 北倉は酒屋から出ると、そのまま姉の店の方へ歩いてきた。真鍋に気づくと、いかにも偶然というふうに手を上げた。 「真鍋さん。お昼ですか」 「ええ。たまたま通って」 「いい商店街ですね」 そう言って、北倉は振り返った。

「みんな、死んだ死んだって言うんですけど」  ゆかが、ほう、とでも言いたげに眉を上げる。 「死んでますよ、この辺は」 「そう見えるように撮られてきただけかもしれません」  北倉は穏やかに返した。 「駅前は死んでるんじゃなくて、まだ顔を持ってるのに、見せ方を知らないだけです」

 その場にいた誰も、すぐには言い返せなかった。 真鍋は、その言葉に少しだけ胸を突かれた。姉は口を閉じたまま、北倉の顔を数秒見てから、小さく笑った。 「その見せ方ってやつ、ほんとに分かるなら、うちの駅前にも教えてくださいよ」 「ぜひ」  北倉は冗談めかして頭を下げた。 「その代わり、まずは美味しいものを教えてください」 ゆかは少し肩の力を抜いたように、「じゃあ今度ね」と言った。

 そのやりとりを見ながら、真鍋は感心していた。 この人は、本当にやり方を分かっている。  そう思う一方で、どの相手にも短時間で『ちょうどいい顔』を作れることに、わずかな速さも感じていた。

 観光協会の安積恵子から、真鍋のところへ連絡が来たのは、その週の金曜日だった。 「今、港の方に来られる?」 「何かあったんですか」 「北倉さんが撮ってるんだけど、ちょっと見てほしいの」

 行ってみると、港の一角で北倉がカメラを構えていた。 ただ風景を撮っているのではなかった。船溜まりに並ぶ漁船の全景よりも、網を直す老人の指先、濡れた防波堤の質感、使われなくなった古い看板の文字の剥げ方、朝の作業を終えて一服している男たちの横顔。そういうものを拾っていた。

 鍋は少し離れたところからその様子を見た。 北倉は被写体との距離の取り方がうまい。近づきすぎず、だが他人行儀にもならない。必要なら声をかけ、断り、ほんの少し話してから撮る。そうすると、撮られる側も悪い気はしないらしい。 「こんなふうに撮れるんですね」  安積が感心したように言った。 「うちでパンフレット用に撮るのと、全然違う」 「パンフレットは説明の写真だから」  北倉はモニターを見せながら言った。 「人に見てもらう写真は、説明だけじゃ弱いんです。先に匂いとか温度とか、そういうものが来ないと」 「匂い」 「ええ。海の町なら、なおさら」  その言葉に、真鍋は一章の題を思い出しかけたが、声には出さなかった。

 北倉は港を撮り終えると、今度は坂のある路地へ移った。空き店舗の軒先に置かれた鉢植え、赤錆びた郵便受け、石段の途中から見える海。水城海斗が荷物持ちのように付き従いながら、すっかり感心しきった顔で話を聞いている。 「北倉さん、これ動画でも撮るんですか」 「撮るよ。静止画と動画は役割が違うから」 「どう違うんです?」  北倉は歩きながら答えた。 「写真は、一枚で足を止めさせる。動画は、その先へ連れていく。どっちも必要だけど、順番を間違えると弱い」 水城は目を輝かせてうなずいていた。

 撮影が一段落すると、北倉は観光協会の事務所へ戻り、ノートパソコンを開いた。  その場で取り込んだ素材をざっと並べ、簡単な色味の調整までしてみせる。さらに、以前撮っておいた海沿いの映像や商店街の短いカットを合わせて、数十秒のラフ動画を作った。

 そこに映っている汐崎市は、真鍋が毎日見ている町より、少しだけ美しかった。  現実そのものではない。だが嘘でもない。  夕陽はちゃんと夕陽で、商店街はちゃんと商店街なのに、切り取られた順番のせいで、町全体が何かを待っている場所のように見える。 「すごい……」 安積が思わず漏らした。 「こんなの、うちで今まで作れたことない」 「素材がいいんです」 北倉は当然のように言った。 「この町は、映る顔を持ってる。皆さん、それを一枚に集めてこなかっただけで」

 真鍋はその動画から目を離せなかった。 自分の知っている町が、自分の知らない顔をしている。 感動に近いものがあった。だが同時に、それが『選ばれた顔』であることも感じていた。

 安積はすでに仕事のことを考え始めているようだった。 「これ、正式にお願いできないかな」 その言葉に、北倉は少しだけ間を置いた。 「必要なら、形は相談しましょう」 無料の協力が、仕事の入口に変わる瞬間を、真鍋は見た気がした。        北倉の提案で、高齢者向けのスマホ相談会が開かれたのは、その翌月の初めだった。  会場は社会福祉協議会の会議室で、机を島にして椅子を並べ、職員とボランティアが付き添う形だった。発端は、観光協会の動画の話とは別に、北倉が「まずは小さくやった方がいい」と言い出したことだった。 「大きな事業より、困りごとの見えるところから始める方がいいです」 市役所での打合せで、北倉はそう言った。 「高齢者の方のスマホの困りごとは、福祉でも、行政でも、生活でも、全部につながる。しかも成果が見えやすい」

 野添課長はすぐに乗った。 社会福祉協議会の佐伯邦彦も、慎重ながら反対はしなかった。現場で困りごとがあるのは事実だからだ。真鍋は会場調整や参加者募集のチラシ作成を手伝った。

 当日、参加者は想像以上に集まった。 写真の送り方が分からない、病院からの連絡が見られない、地図の開き方が分からない、詐欺っぽい表示が出る。困りごとは細かく、だが切実だった。北倉は自分が前へ出すぎず、水城や若いボランティアをうまく動かしながら、全体を回した。 「皆さん、できてないんじゃないんです」  途中、少し緊張している参加者に向かって、北倉は柔らかく言った。 「使い方を誰にも習っていないだけです。恥ずかしいことじゃありません」

 その言い方がよかった。  上から教えるのではなく、困っていることを一度ほどくような言い方だった。  相談会が終わるころには、参加者の顔つきが少し明るくなっていた。  佐伯も「これは続けてもいいかもしれませんね」と控えめに言った。野添課長は露骨に満足そうだった。 「こういうの、必要だったんだよな」 帰り際、野添が真鍋にそう言った。 「北倉さん、やっぱり現場感覚あるわ」

 会場の片づけをしているとき、真鍋はテーブルの端に置かれたカメラに気づいた。北倉が途中で、参加者が笑顔になる瞬間や、ボランティアが寄り添う場面をきちんと撮っている。しかも撮りすぎない。必要なカットだけを押さえている。

 後日、市長への報告用にまとめられた簡易レポートには、その相談会の写真が使われた。  明るい表情。丁寧な支援。町に必要な小さな一歩。 どこから見ても、よくできた実績だった。

 真鍋は、そのレポートを見て感心した。 感心しながら、少しだけ別のことも思った。 この人は、何をやっても『報告書映えする形』へ整えてしまうのだ、と。

 その晩、小さな打ち上げのような流れで、真鍋は北倉たちと港近くのスナックへ流れた。断るほどの理由もなく、野添課長も途中までは一緒だった。店は古く、紫色のソファはところどころ擦り切れている。カウンターの奥には古いウイスキーの瓶が並び、壁には何年も前のカレンダーの風景写真がそのまま掛かっていた。

 ママは五十代後半くらいの女性で、北倉を見るなり「あら、もう来てくれたの」と笑った。  もう、という言葉に、真鍋は内心で少し驚いた。いつの間に、ここまで顔をつないでいるのか。 「この前はありがとうございました」 北倉は自然に頭を下げた。 「こちらこそ。北倉さん、話しやすいからねえ」 ママはそう言いながら、真鍋たちを席へ案内した。

 店の奥には、観光関係者や商工会寄りの顔ぶれがすでに数人いる。藤代茂雄も来ていた。北倉は誰に対しても出しゃばらず、だが場を冷やさない位置へ座った。酒を勧める相手、話を振る相手、聞き役に回る相手を、迷わず選んでいる。

 途中、港湾関係の古参らしい男が、昔の観光キャンペーンの失敗談を大声で話し始めた。場が少し白けかけたところで、北倉がうまく笑いを返した。 「でも、失敗したってことは、やろうとした人がいたってことですからね。何もしてない町より、ずっといいですよ」  男は満更でもない顔になり、そのまま機嫌を持ち直した。 そういう細かい場の立て直しが、いちいちうまい。

 さらに、別の席では観光協会の人間と、顔見知りの手配師らしい男が小声で話していた。宴席の二次会や、町の寄り合いで人を回す筋の人間だろう。北倉はその輪にも、必要以上に踏み込まず、だが話の流れだけは理解しているふうだった。

「この辺の夜は、思ってたより奥が深いですね」 真鍋が何気なく言うと、北倉はグラスを軽く回しながら笑った。 「昼の会議より、夜の方が本音が早いことがありますから」 「そういうものですか」 「地方は特に。会議で決まる前に、空気が決まることがあるでしょう」  その言葉に、真鍋は返事をしなかった。 否定しにくい。実際、そういう場面を見たことはある。

 北倉は酒に呑まれる様子もなく、誰の前でも下品にならなかった。 だからこそ、こういう古い宴席の文化に理解があることが、逆に怖いといえば怖かった。露骨に浸るのではなく、必要なときだけ使える人間の顔をしている。  帰り道、店を出て港の方へ歩くと、藤代が少し酔った声で言った。 「北倉さんは、先生って感じじゃないな」 「どういう意味ですか」 「商売人だよ。悪い意味じゃなくてな。何が動けば人が動くか、よう分かっとる」 藤代はそれだけ言って、先に細い路地へ曲がっていった。

 真鍋は夜の港を見た。 漁船の灯りが黒い水に揺れている。 この町に馴染むのが、早すぎる。 そんな感覚が、胸の奥に小さく残った。  その頃にはもう、町のあちこちで呼び方が変わっていた。 最初は「北倉先生」だの「外から来た人」だのと言っていた者たちが、いつの間にか自然に「北倉さん」と言うようになっていた。  観光協会では「北倉さん、あの動画の件なんですが」。商店街では「北倉さん、この前の写真、ちょっと使わせてもらっていいですか」。市役所でも、地域戦略課を訪ねてきた誰かが「北倉さん、いらっしゃいます?」と口にすることが増えた。  相談の窓口が、少しずつ北倉へ集まり始めていた。 真鍋はそれを見て、この町に必要なのはこういう人なのかもしれない、と思いかけていた。 誰と誰をつなぎ、何をどう見せれば通りやすいかが分かる人。 町の内と外の言葉を、行き来できる人。

 ある夕方、真鍋が市役所を出ようとしたとき、庁舎前の植え込みの脇に堂本忍が立っていた。新聞社の車は少し先に停まっている。 「お疲れさまです」  真鍋が声をかけると、堂本は軽くうなずいた。 「北倉さん、忙しそうですね」 「ええ、まあ。あちこちで頼りにされてるみたいで」 「そうでしょうね」  堂本はそれ以上うなずきもせず、汐崎の夕方の空を見た。 港の上に、薄く雲が伸びている。 「便利な人は、たいてい便利すぎる時期があります」  それだけ言って、堂本は車の方へ歩き出した。

 真鍋は呼び止めなかった。 意味は分かるようで、まだ分からない。 ただ、その言い方だけが耳に残った。

 その夜、真鍋は自席のパソコンで、北倉が仮に編集した町の映像をもう一度見た。  港。商店街。坂道。古い家並み。波止場の光。魚を並べる手元。窓辺の花。  見慣れた町の断片が、ゆるやかな音楽とともに順番を与えられ、別の表情を持ち始める。  たしかに美しかった。 たしかに、この町の一面だった。  だが、映っていない場所もまた、この町なのだということを、真鍋は見ているうちに思い出した。シャッターの閉まったままの駅前も、空き地になったままの角地も、誰にも撮られないまま夕方を迎える路地も。  北倉の撮った汐崎は、真鍋の知っている町より少しだけ美しかった。そして、その少しが、なぜか気になった。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.