採択が決まったあとの会議は、喜びより先に疲労を連れてきた。 港町魅力発信・関係人口創出実証事業。 紙の上では、町の未来へ向けた前向きな一歩だった。地元紙にも載り、市長も手応えのある案件として口にし、観光協会はようやく何かが始められると安堵していた。真鍋自身も、そのこと自体を疑ってはいなかった。
問題は、その一歩を誰が現実に変えるのかだった。 採択後最初の合同打合せは、市役所の会議室で行われた。長机をコの字に並べた真ん中に、印刷された事業概要、予算の概算表、役割分担の叩き台が置かれている。 野添課長、観光協会の安積恵子、地域戦略課の真鍋、それに必要に応じて福祉側と商工会側にも声をかけていた。 北倉恒一郎は、いつものように少し遅れて入ってきたが、その遅れ方まで、このところは場に自然に馴染んでいた。
会議は最初の十五分ほど、前向きな確認で進んだ。 採択の共有。スケジュールの確認。広報のタイミング。市長報告。 だがそこから先は、案の定、重くなった。 「で、実施の窓口をどこに置くかなんですけど」 野添が資料をめくりながら言った。 「市が制度の管理を持つのは当然として、現場の実務をどこまで抱えるかですよね」 安積がほとんど間を置かずに応じた。 「観光協会もやります。でも、正直に言うと、広報、現場調整、参加者対応、写真や動画の素材確認、それに終わったあとの報告書まで全部は難しいです」 「分かります」 真鍋は言った。 「市も、窓口機能や契約整理までは持てても、現場の細かい運営まで入ると、他の案件が止まります」 会議室に、誰も責めてはいないのに責められているような沈黙が落ちた。 人が足りない。 その事実は誰も知っていたし、誰も解決策を持っていなかった。 佐伯邦彦が福祉側の資料を閉じながら、控えめに言った。 「高齢者向けの接点や参加支援なら協力できます。ただ、事業全体の事務局をどこか一つが持つという話だと、うちも簡単ではありませんね」 それで議論は止まった。 誰も「できません」とは言わない。だが誰も、真正面から「やります」とも言えない。
その沈黙のあとで、北倉が口を開いた。 「既存の団体を否定するつもりはないんです」 あくまで抑えた声だった。 「観光協会にも商工会にも、それぞれに役割がある。ただ、事務局機能だけは別に持たないと、回るものも回らなくなると思います」 野添が顔を上げた。 「事務局機能……」 「はい。市役所と観光協会の間に、実施調整の受け皿が一つあるとかなり違うはずです」 「受け皿」 真鍋がその言葉を復唱すると、北倉はうなずいた。 「一時的でもいいんです。実施体制を柔らかく持つ器が必要なんです。市が全部抱えると硬くなるし、観光協会だけだと負荷が集中する」 言っていることは、よく分かった。 というより、分かりすぎるほど分かった。 真鍋もこの数日、採択後の工程表を見ながら、誰かが実施調整を持たないと確実に止まると感じていた。
北倉の言葉は、その予感を誰にでも分かる形に直しただけだった。 だから反論しにくかった。 「じゃあ、その受け皿って、どういう形になりますか」 真鍋が訊くと、北倉は少し考えるそぶりを見せた。 「まだ決め打ちする段階じゃないですが、少なくとも既存団体をそのまま一枚かぶせる形よりは、中間に柔らかい実施体制を置いた方が自然だと思います」
柔らかい実施体制。 また、便利な言い方だと真鍋は思った。 便利で、間違っていないからこそ、少しだけ気になった。 採択のあとに待っていたのは、夢の広がりではなく、誰がその夢の実務を引き受けるのかという、乾いた問いだった。 次の打合せでは、その「受け皿」が、曖昧な必要性ではなく、具体的な形を持ち始めた。 場所は同じ会議室だったが、前回より参加者が少なかった。野添、真鍋、安積、北倉。それに途中から藤代茂雄が顔を出すくらいだ。人数が少ないぶん、話は早く進む。早く進むということは、誰かが方向を決めやすいということでもある。
ホワイトボードの上部に、真鍋がとりあえず書いた。 実行委員会案 任意の連絡会案 協議会案
「実行委員会だと、一時的すぎるかな」 野添が言う。 「事業が終わったら解散、という感じが強いですね」 安積も腕を組んでうなずいた。 「観光協会の中に置く形だと、うちが全部背負うみたいに見えるんですよね。実際そこまで背負えないし」 「任意団体だと柔らかいけど、逆に曖昧にもなります」 真鍋が言うと、北倉がすぐに拾った。 「曖昧にする必要はないです。ただ、硬すぎると人が入りにくい」 「たとえば?」 「『推進協議会』くらいがちょうどいいかもしれません」 北倉はそう言って、ボードの脇にいくつか名前を書いた。 汐崎関係人口推進協議会 港町編集室 みなと未来デザイン会議 どれも、いかにもありそうな名前だった。 ありそうで、少しずつ意味が違う。 「編集室、はちょっと民間色が強いかもしれませんね」 安積が言う。 「観光協会としては嫌いじゃないですけど」 「会議、だと逆に弱いかな」 野添が首をひねる。 「推進協議会、がいちばん役所的には通しやすいかもしれない」 真鍋も同じことを考えていた。 協議会。 行政が関わっていても不自然ではない。 だが、市の内部組織ほど責任主体が固定されない。 柔らかく、広げやすく、曖昧にもできる。
「名前って、何をするかだけじゃなく、誰が安心するかでも決まりますから」 北倉がさらりと言った。 その言葉に、真鍋はふと顔を上げた。 誰が安心するか。 市役所か。観光協会か。市長か。地元紙か。町の人か。 あるいは、その全部か。 「汐崎関係人口推進協議会……」 野添が口にしてみる。 「これなら、市長にも説明しやすいな」 「観光だけじゃなくて、移住や商店街も巻き込みやすいですし」 安積が続ける。 そのまま、名前はほとんど決まった。 正式な決裁はまだ先だ。 それでも、誰ももう別案へ戻ろうとはしなかった。 真鍋はボードを見た。 つい数分前までは、ただの受け皿だったものが、名前を得た瞬間に実体を持ち始めている。 そしてその命名は、いつのまにか北倉の手の中で行われていた。 名前が決まった瞬間、受け皿はただの方便ではなくなり、事業の重心を少しだけ市役所の外へ移したように真鍋には思えた。 受け皿に名前がつくと、次は中に誰を入れるかの話になる。 その段階で、北倉の古民家が打合せ場所として使われ始めたのは、いかにも自然な流れのようでいて、真鍋には少しだけ出来すぎているようにも見えた。 市役所でも観光協会でもなく、北倉の借りたあの古民家。 縁側があり、土間があり、古い建具と少し整えられた庭があって、町の資産のように見える場所。 そこで話すと、たいていのことが「新しい取り組み」に見えやすい。
水城海斗は、もう半分スタッフのような顔をしていた。 ノートパソコンを開き、スマートフォンで連絡を取り、必要ならすぐに車を出せる。若くて動ける。それは本当だ。 三崎聡子も、観光協会と移住者コミュニティの間を行き来しながら、資料整理や参加者対応を苦にしない性格だった。彼女もまた、実務を回す人材としてはたしかに使える。
「事務局補佐は、現場で動ける人じゃないと厳しいですね」 北倉が座卓の向こうで言った。 「会議に出るだけじゃなくて、連絡も、参加者対応も、現場判断もできる人」 「僕、動けます」 城がすぐに言う。 「SNSも手伝えるし、現場調整もできます」 「資料整理や参加者対応なら私も入れます」 三崎も落ち着いた調子で続けた。 「そういうの、嫌いじゃないので」 安積は明らかに助かった顔をしていた。 「うちの職員だけだと、通常業務がどうしても優先になるから……若い人が入ってくれるのは本当に助かる」 野添も同じようにうなずいた。 「だよな。現場で拾える人がいると全然違う」
真鍋はメモを取りながら、あえて事務的なことを口にした。 「立場上はどう整理します? 事務局補佐、運営補助、連絡調整……」 北倉は、そこだけ少し肩の力を抜いて答えた。 「そこは柔らかくていいと思います。最初から厳密に線を引きすぎると、逆に動けなくなるので」 「でも、最低限の整理は必要ですよね」 「もちろん」 北倉はうなずいた。 「ただ、まずは回る形を作るのが先です」 まずは回る形。 理屈としては正しい。 だが、その『まずは』が、どこまで続くのかは分からない。
真鍋は、水城が机の端で北倉のカメラバッグを何気なくよけ、三崎がすでに連絡先一覧の下書きを作り始めているのを見た。 不自然だとは言い切れない。 むしろ自然に見える。動ける人が入るのだから。 だからこそ言いにくい。 北倉の周辺が、そのまま受け皿の実務になっていく。 それは合理的で、合理的すぎた。 不自然だと言い切れない人選ほど、あとで振り返るといちばん深く入り込んでいるのではないかと、真鍋は初めて思った。 受け皿が形を持ち始めると、今度は小さな金が動き始めた。 最初は本当に小さかった。 撮影の追加分。動画編集の手間。チラシや告知画像のデザイン補助。会場設営の補助。事務局運営の交通費。SNS更新の謝金。 どれも一つ一つは、会計上は特別目立つものではない。だが真鍋が伺い書と支出整理の紙を並べて見ていると、別のことが気になってきた。
「この撮影分、北倉さん個人への謝金ですか?」 真鍋は野添の机に書類を持っていって訊いた。 「それとも協議会側の業務整理に入れます?」 野添はペンを持ったまま、少し困った顔をした。 「そこ、まだ整理しきれてないんだよな」 「事務局補助費も、誰にどの立場で払うか見えないと、あとで説明が難しくなります」 「分かってるんだけど」
そのとき、たまたま通りかかった桐生道子が書類の束を見て足を止めた。 「見せて」 真鍋が渡すと、桐生は数秒で目を通した。 「立場の線を先に引かないと、あとで全部混ざるわよ」 「ですよね」 「人が足りないときほど、『とりあえず』で払ったものが一番残るから」 桐生はそれだけ言って返した。 真鍋はうなずきながらも、その『とりあえず』の力をよく知っていた。地方の小さな現場では、たいていのことが『まず回すため』に少しだけ柔らかく処理される。問題は、その柔らかさがいつ線を越えるかだ。
後で北倉に確認すると、彼はまったく動じなかった。 「最初から硬くしすぎると、現場が止まりますよ」 それは、以前も聞いた調子だった。 「もちろん整理は必要ですけど」 「整理しながら回す、ということですか」 真鍋が言うと、北倉は自然にうなずいた。 「ええ。そのくらいの柔らかさは必要です」 その柔らかさが、紙の上では曖昧さになる。 真鍋にはそれが分かる。 分かるが、反論の言葉は弱い。なぜなら実際、現場は止められないからだ。 真鍋が怖いと思ったのは金額ではなかった。誰がどの立場で金を受け取るのか、その線が紙の上で少しずつにじみ始めていることだった。 昼の会議で決まったことの多くが、すでに前夜に決まっていたのではないか。 そう思わせたのは、一度きりではなかった。
その日も、昼の実施会議では役割分担がきれいに整理された。 「では、事務局の一次窓口は協議会側で整理して」 野添が言う。 「観光協会は現地対応と素材提供を中心に」 「商工会はイベント時の店側調整なら出せます」 藤代が言う。 「福祉側は高齢者接点に絞った協力ということで」 会議は滑らかだった。 異論は少なく、確認事項も少ない。 だが真鍋は、どこかで既視感を覚えていた。 前夜、港近くのスナックで交わされた会話。 北倉が藤代に「全部背負ってもらう気はない」と言っていたこと。 安積に「現場の顔が見える方が強い」と言っていたこと。 誰にどこまで負担をかけずに、どこからこちら側に引き取るか。 それが、夜の空気の中で先に整えられていた。
その晩も、会議のあと流れで同じ店へ行くことになった。 真鍋は断る理由を見つけられず、結局また一緒に座っていた。 ママはすでに北倉の好きな酒の薄さまで知っているらしかった。 店の奥では、手配師らしい男が地元の有力者と声を潜めて話している。宴席や顔つなぎの筋を持っている人間だろう。北倉はそこへ踏み込みすぎず、だが必要なところでは一言だけ入れる。
「藤代さん、店側は無理のない範囲で十分です」 北倉がグラスを置きながら言う。 「全部背負ってもらう気はありません」 「そう言ってくれると助かるな」 藤代は肩を落とした。 「こっちも店を抱えてるからな」 北倉は今度は安積の方を向く。 「観光協会は現場の顔が見える方が強いです。細かい事務局調整は、こちらで持った方がむしろ動きやすいと思います」 「その方がありがたいです、正直」 安積も疲れを隠さなかった。 真鍋はそのやりとりを聞きながら、何気ないふうに言った。 「もう、だいたい決まってるんですね」 北倉は笑った。 「昼の会議で揉めない方がいいでしょう」 「……そうですね」 「会議は大事ですよ。ただ、地方は会議の前に空気が整ってるかどうかの方が大きいこともありますから」 否定しにくい。 真鍋も、それを何度も見てきた。 だが、こうして自覚的に整えられていくのを見ると、どこか居心地が悪い。自分もその場にいて、何も止めていない。 むしろ、昼の会議でそれを正式な形へ整える側にいる。 そのことが、真鍋の中で小さな共犯性のように沈んだ。 会議で決まったのではなく、決まっていたことが会議の形を取っただけなのかもしれないと、真鍋はその日初めてはっきり思った。 受け皿となる汐崎関係人口推進協議会の初会合は、表向きには無難に終わった。
名簿も整った。 役割表もできた。 連絡体制も、支出予定も、一応は筋が通っている。 野添は会議が終わるなり、「これでようやく回せるな」と息をついた。安積も「現場も助かります、本当に」と言った。 水城はやる気に満ちた顔で次の動きを話し、三崎は「細かい運営は私の方で拾います」と自然にメモを取っていた。 北倉は、あくまで『まとめ役』だった。 議長でもない。責任者という顔もしていない。 だが、会議の流れも、言葉の置き方も、誰がどこを持つかのバランスも、すべて北倉の手が入っているように見えた。
夜、市役所に戻った真鍋は、自席の明かりだけを点けて、協議会の名簿と役割表、連絡先一覧、支出予定表をもう一度見返した。 どれも合理的だった。 市役所だけでは抱えきれない。観光協会だけでも無理だ。若い人材が入り、事務局補佐がいて、撮影や発信や現場対応がそれぞれ分担される。 たしかに、この形なら回る。 だからこそ不安だった。 市と外部の境界。 助言者と受託者の境界。 個人と団体の境界。 どれも消えてはいない。だが、じわじわと混ざり始めている。しかも、それが合理性と善意の名で進んでいる。
真鍋は支出予定の欄に目を止めた。 撮影関連。編集補助。運営調整。事務局補助。 金額は小さい。
だが、そこへ流れ込む人と役割の線が、もう簡単には一本で引けなくなっている。
受け皿ができたことで事業は回り始めた。けれど真鍋には、何が受け止められ、何がそこへ流れ込み始めているのか、もう簡単には見分けがつかなくなっていた。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.
