リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

第三章 弔電の順番

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 雨が止んだ翌日ほど、町はうるさい。空が静かでも、人の口が騒ぐ。水が引いたぶん、声が残る。

 川辺泰蔵の事務所は朝から電話が鳴り続けていた。鳴っているのは電話だけではない。机の上の紙束も、名簿ファイルも、香典袋の束も、勝手にざわついているように見える。伊賀透はそれらを「物」として扱わない。物の皮をかぶった生き物だと思って扱う。生き物は順番を間違えると噛む。

 透は事務所に入るなり、壁の予定表を見上げた。 黒字で「葬儀」。赤字で「顔出し必須」。さらに赤字で「弔電読み上げ」。青字で「香典返し手配」。その隅に、透が小さく鉛筆で書いた「県・返答待ち」がある。県の返答は遅い。だが後援会の返答は早い。早すぎて痛い。

「伊賀さん」  杉田恒一が、眠そうな顔で近づいてきた。いつもより声が小さい。小さい声は悪い知らせだ。 「朝から、大谷会長が三回電話してます。あと、金庫番の宮沢さんも。『昨日の件で』って」 「昨日の件?」

 透は一瞬だけ眉を動かした。昨日の件は多い。港、橋、県、久米山。どれだ。

杉田が言いにくそうに続けた。 「……弔電の順番です」  透は息を吐いた。予想していた最悪のうち、最も面倒な種類だ。復旧の順番で怒るのは理解できる。弔電の順番で怒るのは、理解できるが、説明ができない。説明できない怒りほど、後援会を割る。

 透は机に鞄を置き、弔電の束を引き寄せた。薄墨の文字が並ぶ。差出人の名前が、どれも『地元の心臓』に刺さる針だった。 C県連会長・久米山征志。 商工会長。 建設業協会理事長。 農協組合長。 漁協組合長。 自治会連合会長。 消防団長。 介護事業者連絡会。 観光協会。

 そして、一番下に、手書きの短い弔電が一枚。差出人は「大谷剛造」。後援会長本人が弔電を打つことは珍しい。弔電は『出させる』ものだ。自分で出すと、格が下がる。なのに出している。怒っている証拠だ。

 透は弔電の束を机の端に揃えた。揃え方にも順番がある。机の上で紙を揃える仕草を見て、古参は人間の格を判断する。 「杉田。今日は葬儀、どこだ」 「市街地の、佐久間さんのところです。商工会寄りの……」  透の頭に地図が浮かぶ。市街地、商工会、観光、建設。票が濃い。濃い場所の葬儀は、政治家の仕事場だ。 「喪主は誰だ」 「長男です。息子さん、県庁の出向経験があるって……」  透は一瞬だけ笑いそうになった。出向経験があると葬儀で箔になる町。箔は、肩書の順番だ。 「分かった。弔電読み上げの台本、持ってこい」  杉田が走る。走る姿が、少しだけ頼もしい。だが走るだけでは足りない。走った先に順番がなければ、転ぶ。

 葬儀会館の駐車場は、いつもより車が多かった。雨上がりの泥がタイヤにこびりつき、白い車ほど汚れて見える。透は車を降り、泰蔵の背中を確認した。背中はまっすぐだが、歩幅は小さい。老いは、政治家の歩幅から始まる。  入口で、大谷剛造が待っていた。待っている、というより、立っている。立っているだけで圧になる男だ。黄色い雨具ではなく、黒いコートを着ている。喪の色を選ぶのも政治だ。 「先生」  剛造は泰蔵にだけ頭を下げ、透には下げなかった。透はそれを礼だと思った。透に頭を下げれば、透が『同格』になる。剛造はそれを許さない。 「剛造さん。今日は……」  泰蔵が笑おうとして、笑いを途中で引っ込めた。葬儀で笑う政治家は、地元に嫌われる。嫌われるのは、順番の外へ落ちることだ。

 剛造は透へ視線を投げた。 「伊賀。弔電の順番、ちゃんとしたんだろうな」  直球だった。直球を投げるのは、後援会長の仕事ではない。後援会長は遠回しに刺すものだ。直球は、割れる兆候だ。  透は、顔の筋肉を一つも動かさずに言った。 「もちろんです。喪家の意向と、町の序列と、県の礼を踏まえています」 「県の礼?」  剛造の眉が動く。動き方が荒い。荒い眉は荒い噂を生む。 「久米山を上に置いたのか」  透は否定しなかった。否定すると、剛造は『確信』する。確信した怒りは止まらない。透は怒りを『疑い』のままに置く。 「順番は、台本で確認できます。会館の方とも打ち合わせています」  剛造は鼻で笑った。 「台本で町は回らん」  その言い方は、昨日の港と同じだった。紙の上で人は救えない。だが紙の上で人は殺せる。透はその言葉を飲み込んで、泰蔵の半歩後ろに下がった。今日は、ここで前に出てはいけない。

 式が始まった。焼香の列ができ、男たちの黒い背中が並ぶ。背中にも序列がある。透は列の流れを見ながら、誰がどのタイミングで頭を下げるかを観察した。観察するのは癖だ。癖は武器になる。

 弔電の読み上げが始まった。司会が淡々と読み上げる。淡々と読むことで、怒りが目立つ。 「C県連会長 久米山征志様」  会館の空気が一瞬だけ変わった。変わったのは誰かの呼吸だ。呼吸が変わると、噂が生まれる。  透は、剛造の背中を見た。背中が硬くなった。硬い背中は、次の祭礼で酒が回らない背中だ。  次に読まれたのは、商工会長。建設業協会理事長。観光協会。介護連絡会。自治会連合会。消防団長。農協。漁協。

 そこで透は、喉の奥が冷えた。 漁協が農協より先だ。  透の台本では、農協が先だった。農協の組合長は古参で、祭礼の席順でも上だ。漁協が先に読まれると、農協が恥をかく。恥は票になる。恥をかいた側が票を抜く。  透は司会の手元を見た。台本が違う。会館側が差し替えたのか。喪家が差し替えたのか。あるいは――誰かが差し替えたのか。 差し替えた者は、順番を握っている。  透は、背中から汗が出るのを感じた。葬儀で汗をかく秘書は、目立つ。目立つのは損だ。  読み上げが終わり、焼香が進む。透は、会館の控室へ静かに入った。控室の机の上に、弔電の束と台本が置かれている。透は手袋を外すように慎重に台本を取り、差し替えられたページを見つけた。  鉛筆の薄い線で、こう書かれていた。 「漁協→農協」  その文字は、透の筆跡ではなかった。透の字はもっと角がある。これは丸い。丸い字は、柔らかい顔で刺す人間の字だ。 透の頭に、金庫番の宮沢の顔が浮かんだ。  金庫番は、金の順番を知っている。金の順番を知っている人間は、弔電の順番もいじれる。

 透が台本を戻した瞬間、控室の戸が開いた。  宮沢百合子(みやざわ・ゆりこ)が、黒い喪服のまま入ってきた。後援会の会計責任者。小柄で、声は柔らかい。柔らかい声は、恐い。 「伊賀さん」  宮沢は笑った。笑いは礼だが、刃でもある。 「台本、確認されました?」 「……されましたね」  透が言うと、宮沢は首を傾けた。 「町の順番って、難しいですよね。弔電は『誰が偉いか』じゃなくて、『誰に恥をかかせないか』ですもの」  透は頷かなかった。頷くと同意になる。同意は借りになる。借りは後で利息になる。 「誰が差し替えたんですか」  透が低く言うと、宮沢は柔らかいまま答えた。 「喪家の奥様が。『海の人は本当に大変だったから、先にして』って」  喪家の奥様。言い訳としては美しい。美しい言い訳ほど危険だ。危険なものは、だいたい正しい顔をしている。

 透は言った。 「それなら、農協には、こちらから礼を入れます」  宮沢は微笑んだ。 「礼は、香典返しで入れるんですよ」  透の胃が、また縮んだ。香典返し。順番の中核。香典返しは、品物で序列を示す。価格で示す。タイミングで示す。届ける順番で示す。政治家の秘書が一番神経を使う『無言の政策』だ。

 宮沢が続けた。 「佐久間家は、香典返しを『地区ごと』に分けるそうです。市街地の人、港の人、農村の人、過疎の人。分けると便利でしょう? でも、分け方を間違えると――」 宮沢は言葉を止めた。止めた言葉が一番刺さる。  透は言った。 「間違えません」 宮沢は、柔らかい声で言った。 「伊賀さん、昨日、県の人を港に連れて行ったでしょう。港が先になったんでしょう? じゃあ、香典返しも――」

 透は、そこで初めて理解した。 復旧の順番と、弔電の順番と、香典返しの順番は、一つの鎖で繋がっている。  鎖が引かれれば、後援会が割れる。  宮沢が控室を出ると、透は一人になった。透は天井を見上げた。葬儀会館の天井は低い。低い天井は、人の声を近くする。近い声は、噂を太らせる。  事務所に戻ると、電話が鳴っていた。杉田が受話器を押さえ、透へ身振りで「農協」と伝える。透の頭の中で、順番が音を立てて崩れる。  透が受話器を取る前に、泰蔵が小さく言った。 「伊賀、頼む」  泰蔵が透の名前を呼ぶ。頼るときの呼び方だ。透はそれが少し腹立たしかった。泰蔵は決めない。決めないから、透が恨まれる。恨まれた秘書は、いずれ捨てられる。捨てられると、後援会の外へ落ちる。

 透は受話器を取った。 「はい。伊賀です」 『伊賀君か』  農協組合長・村瀬忠夫(むらせ・ただお)の声は低い。怒っている声ではない。怒りを冷やした声だ。冷えた怒りは、最悪だ。 『今日の弔電、うちは後だったな』 「……ご不快にさせたなら、申し訳ありません。喪家の意向で――」 『喪家の意向、ねえ』  村瀬は笑った。笑いは音がない。音がない笑いは、政治の死刑宣告みたいに聞こえる。 『伊賀君。順番を決めるのは、喪家じゃない。町だ。町を回してるのは誰だ』  透は答えなかった。答えると、自分が『回している』と認めることになる。認めた瞬間、透は主役になってしまう。主役は狙われる。  村瀬が続けた。 『明日の香典返し、うちの地区は「農村」だな? それ、誰が決めた』  透の喉が乾いた。香典返しの分け方が、もう噂になっている。噂の伝播速度は、県の決裁速度より速い。圧倒的に速い。 「……佐久間家が、会館と相談して――」 『伊賀君。会館は会館だ。伊賀君が言ったことを、そのままやる。そういう場所だ』 村瀬は静かに言った。

『順番を間違えるな。間違えると、後援会が割れる』 電話が切れた。透は受話器を握ったまま、数秒動けなかった。

事務所の空気が薄く感じる。紙の匂いが濃すぎる。  杉田が恐る恐る言った。 「伊賀さん……どうします?」  透はゆっくり息を吐いた。息を吐くと、頭の中の順番が少し戻る。 「香典返しのリストを出せ。地区割り、全部。誰がどこに入ってるか」 「はい!」  杉田が走る。走る先に順番があるかどうかは、透が作るしかない。

 透は名簿ファイルを開き、佐久間家のページを探した。ページの端が、微妙に黒ずんでいる。何度も開かれたページは黒ずむ。黒ずみは、後援会の血の色だ。  香典返しの手配リストが届く。透は目を通し、すぐに異変に気づいた。

「港の人」が、妙に厚い。  港の地区が、香典返しの『上段』にまとめられている。農村は下段。過疎は最後。並びが露骨だ。露骨な順番は、後援会を割る。

 透は、机の端に置いた「県提出用資料」の束を見た。昨日、自分が港の写真を強調した。その結果、港が『上』に見える。港が上に見えると、弔電と香典返しが港を上にする。上にした者は、農協を恥に落とす。

透の資料編集が、ブーメランになりかけている。

 そこへ、事務所の電話がまた鳴った。今度は、鳴り方が乱暴だった。杉田が受話器を取り、透を見て首を振る。大谷剛造だ。  透は受話器を取った。 「はい、伊賀です」 『伊賀』  剛造の声は短い。短い声は命令だ。 『農協が騒いでる。漁協も「俺たちが上だ」って言い始めた。商工会は「港ばかり優遇するな」だ。――お前、何をした』

 透は答えを選ばなかった。選ぶと遅れる。遅れると噂が先に走る。

「順番が、勝手に動いています」 『勝手に動く? 動かしたのは誰だ』  透は沈黙した。沈黙は罪に見える。だが、言い訳はもっと罪に見える。  剛造が低く言った。 『伊賀。後援会を守れ。守れないなら――』  言葉が途切れた。途切れた言葉が一番怖い。続きは「出て行け」だろう。あるいは「神谷に渡す」だろう。

 透は言った。 「香典返しの順番を、組み替えます。露骨にならないように。農協には、こちらから頭を下げます」 『頭を下げるのは、お前だ。先生じゃない』  剛造の声が少しだけ柔らかくなった。柔らかくなるのは、脅しが効いた証拠だ。 『いいか。先生は『聴く』。お前は『直す』。それが順番だ。順番を壊すな』 電話が切れた。透は受話器を置き、机の上の香典返しリストを見た。 直す。 直すとは、誰かの恥を別の誰かの恥に移すことだ。恥は消えない。移るだけだ。

 透は鉛筆を取り、リストの地区区分を少しずつ崩し始めた。「港」を「市街地」と混ぜる。「農村」を「過疎」と混ぜる。混ぜれば、露骨さは減る。露骨さが減れば、怒りは散る。散った怒りは、どこへ行くか分からない。分からない怒りは、選挙で出る。

 杉田が戻ってきた。手に追加の紙を持っている。 「伊賀さん、これ……会館から。『弔電の差し替えは、宮沢さんの指示』って、受付の人が……」  透は鉛筆を止めた。宮沢百合子。金庫番。柔らかい声の刃。  透はゆっくり紙を受け取った。紙の匂いが、いつもより濃かった。濃い紙は、嘘が染みやすい。

 透は、宮沢が何を狙っているか、分かり始めた。 復旧の順番を港寄りにする。 弔電の順番を港寄りにする。 香典返しの順番を港寄りにする。 港を『心臓』に見せる。心臓を握る者が、後援会を握る。 そして――後援会を握れば、次の候補も握れる。

 透は、机の端に置いた久米山征志の弔電を見た。薄墨の名前が、まるで監視の目のように見えた。  久米山は言った。「順番を壊すな」。 剛造も言った。「順番を壊すな」。  だが今、順番は壊れ始めている。壊れ始めている順番を、誰が壊したのか。透は、答えの輪郭を掴みかけていた。  透は鉛筆を再び動かした。リストを直しながら、同時に別のリストを頭の中で作る。 弔電を差し替えた者。 香典返しを分けた者。 順番を動かした者。 そして、動かした順番で得をする者。

 政治は、善悪ではない。順番だ。 窓の外では、雨がまた降り始めていた。空は明るいのに、雨だけが落ちる。台風の季節の嫌な癖だ。  透はその雨を見ながら思った。 雨は数字より先に人を動かす。 だが、この町では――

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