駅前の朝は、いつも少しだけ遅れて目を覚ます。
七時半を回っても、汐崎駅前通りには、都市の朝のような勢いはない。改札を抜けてくる高校生の数は年々減り、駅前のロータリーに並ぶ車も、観光客を乗せたレンタカーより地元の軽自動車のほうがずっと多い。色あせた観光ポスターが貼られたアーケードの下を、制服の上にまだ冬の名残のような薄い上着を羽織った生徒たちが、眠たげな顔で通り過ぎていく。土産物屋は半分以上がシャッターを下ろしたままで、開いているのはパン屋と薬局、それに駅前で唯一朝から灯りのついているコンビニくらいだった。
潮の匂いだけは、昔と変わらず駅前まで届いてくる。
海は見えない。だが、風の湿り気と塩気が、この町が港町であることを忘れさせない。観光パンフレットには「海と暮らす町」と書いてあるが、真鍋恒一には、その文句が少しばかり白々しく思えることが増えていた。 観光客が海へ行くことはあっても、駅前で暮らしている人間の生活に、その海が何かを返してくることは、ここ数年ますます少なくなっているように思えたからだ。
市役所へ向かう途中、真鍋は駅前の角を曲がり、姉の店の前を通った。ガラス戸の内側で、真鍋ゆかがモップを動かしているのが見えた。まだ開店前だが、毎朝この時間には仕込みと掃除を始めている。
真鍋が軽く手を上げると、姉は戸を少し開けた。 「姉さん、おはよう」
「おはよう」 姉は外に顔だけ出して、真鍋の背後に広がる駅前を一瞥した。 「今日も死んでるね」 「朝から縁起でもないこと言うなよ」 「縁起じゃなくて現実。見れば分かるでしょ」 ゆかは、通りの向こうの閉まったままのシャッター群を顎でしゃくった。 「観光客は海の方に行くし、温泉街にも行くし、道の駅にも流れる。駅前で降りて歩く人なんて、今どきほとんどいないよ」
「分かってるよ」 「分かってる、で何年経ったっけ」
真鍋は答えなかった。
姉は別に責めたいわけではないのだろう。だが、役所に勤めている弟に対して、言わずにはいられないのだ。その気持ちも、真鍋には分かる。駅前の飲食店で毎日売上と向き合っている人間からすれば、「活性化」だの「関係人口」だのという言葉は、たいてい煙のようなものに見えるはずだった。
「今日は昼、団体入るの?」 真鍋が話をそらすように訊くと、ゆかは肩をすくめた。 「団体ってほどじゃない。法事帰りの予約が少し。でも駅前の店なんて、予約があるだけマシかもね」 「そうか」 「そうか、じゃなくてさ」 姉は少し笑って言った。 「役所もたまには、本当に人が降りる駅前の作り方、考えてよ」 「考えてる」 「考えてるだけじゃ駄目なんだって、あんたが一番分かってるでしょ」
そのとおりだった。 真鍋は曖昧にうなずき、じゃあ行く、とだけ言って歩き出した。背中に、戸の閉まる音がした。
駅前の朝は、いつも同じ顔をしていた。変わらなさだけが、この町でいちばん確かな現実だった。 汐崎市役所は、駅前から歩いて十分ほどの、小高い場所に建っている。庁舎の正面に出ると、海へ向かって開けた斜面の向こうに港のクレーンが見える。 観光パンフレットには「海の見える庁舎」と書かれていたが、職員たちはそんな売り文句を口にしない。毎日見ていれば、それもただの風景になる。
地域戦略課のフロアに入ると、もう数本の電話が鳴っていた。コピー機の前には先客がいて、給湯室からはインスタントコーヒーの匂いが流れてくる。真鍋が席に座るとほぼ同時に、隣の席の職員がファイルを抱えたまま言った。 「真鍋さん、昨日の空き家バンクの件、問い合わせ先変わったそうです。後でメール回ります」 「分かった」 「あと、移住フェアの配布資料、観光協会の地図だけ差し替えですって」 「それも了解」 地域戦略課は、名刺に書かれている言葉の印象ほど格好のいい部署ではない。地方創生、移住定住、空き家対策、補助事業、官民連携、地域交通、デジタル施策、イベント調整。 時期によって名目は変わるが、要するに「どこの課に入れるか決めきれない仕事」が集まってくる部署だ。真鍋はそこへ配属されて三年目だった。
自席でパソコンを立ち上げると、向こうから野添直美が紙の束を持ってきた。地域戦略課長の野添は、四十代後半、仕事は早いが怒鳴らないタイプの管理職で、波風を立てずに案件を通すことに長けていた。 「真鍋くん、午後の面談、入ってもらえる?」 「面談?」 「移住相談。だけど、少し政策の話もしたいって」 野添は紙の束から一枚を抜き取って真鍋に渡した。 「北陸から来る人。北倉さん。経歴がちょっと面白い」
真鍋はその場で目を落とした。 履歴書に添付された職務経歴書には、整理された文字で、いかにも今の自治体が欲しがりそうな言葉が並んでいた。 IT企業勤務。地域デジタル化支援。地方自治体との連携事業。NPO設立支援。地域ブランド開発。アドバイザー経験。
「……ずいぶん、今どきですね」 真鍋が言うと、野添は笑った。 「でしょ。こういう人材、うちにはいないから」 後ろで書類を綴じていた職員が、興味を示したように顔を上げた。 「どういう人なんですか」 「半島の方の港町出身らしい。こっちと雰囲気が似てるとかで、関心を持ったんだってさ。デジタル関係に強くて、自治体とも仕事してたみたい」 「へえ」 「市長も少し興味持ってるみたい。都合がつけば顔を出すかもしれない」
その一言で、ただの移住相談では済まないことが分かった。 真鍋はもう一度、紙面に目を戻した。実績欄には、たしかに魅力的な単語が並んでいる。 この町に足りないもの、あるいは足りないと市役所の誰もが口にしているものが、そのまま列記されているようだった。
デジタル。発信力。官民連携。外の視点。 どれも庁内の会議で何度も聞いてきた言葉だ。だが、実際にそれを仕事にしてきた人間は、汐崎市役所の中にはほとんどいない。
「こういう人が本当に来るなら、助かりますね」 真鍋は半ば独り言のように言った。 野添はすぐにうなずいた。 「だよね。ま、話を聞いてみないと分からないけど」
話を聞いてみないと分からない。役所では便利な言葉だった。期待も、保留も、その一言の中に収まる。 真鍋は資料を机の上に置き、メールソフトを開いた。だが数秒後、また紙へ目が戻った。 履歴書の文字は、庁内のどの文書よりも滑らかに未来を約束しているように見えた。 午後一時半。会議室には、窓から斜めの光が差し込んでいた。古い会議机の上に白い湯呑みが三つ並び、端の席には真鍋が資料を置いている。野添課長はすでに座っており、市長はまだ来ていない。 やがてノックがして、秘書課の職員に案内されるようにして、北倉恒一郎が入ってきた。
第一印象は、派手ではない、だった。 濃紺のジャケットに白いシャツ、ネクタイはしていない。地方の役所を訪ねるのにちょうどよいくらいの柔らかさで、かといって砕けすぎてもいない。質の良さそうな鞄をひとつ持ち、歩き方も急がない。年齢は四十代半ばほど。笑うと目尻に細い皺が寄る。
「北倉です。本日はお時間をいただいて、ありがとうございます」 声も穏やかだった。押しつけがましさがない。 名刺交換のとき、真鍋はそこに並ぶ肩書きを見た。地域DXアドバイザー。ソーシャルデザイン・コンサルタント。 コミュニティ再生実務家。少し多い気もしたが、不思議と下品には見えなかった。見せ方を知っている人間の名刺だと、真鍋は思った。 ほどなくして、市長の黒瀬隆も現れた。「少しだけ」と言いながら席に着くあたり、関心は相応にあるのだろう。 野添が簡単な挨拶をしてから、面談が始まった。 「まずは、汐崎市に関心を持たれた理由からお聞きしてもよろしいですか」 野添がそう振ると、北倉は小さくうなずいた。 「最初は、景色だったんです」
その言い出しは少しありふれているようで、だが次の言葉がよかった。 「でも、数日滞在して考えが変わりました。汐崎市の強みは、景色そのものじゃない。人の距離が、まだ使えることだと思いました」 黒瀬市長が興味を示したように眉を上げた。 「人の距離、ですか」
「はい。大都市では、何かを始めるのにまず関係者を集めるところからです。でも、この規模の町なら、商工会、観光協会、福祉、行政が、まだ同じテーブルにつける。 もちろん近いことは弱みでもあります。でも、設計次第では強みに変えられる」
設計。 その言葉に、真鍋は少し感心した。単に「人が温かい」「海がきれいだ」と持ち上げるだけではなく、町の規模と組織の距離感を、機能として捉えている。少なくとも、そう見せるのがうまい。
「なるほど」 野添がうなずく。 「具体的には、どんな分野から着手できるとお考えですか」 「観光の見せ方、移住の受け皿づくり、高齢者向けのデジタル支援。ばらばらに見えますけど、全部つながっています。たとえば観光は、ただ人を呼ぶだけでは持続しない。住む人の満足度や、地域内の動線と結びつかないと。逆に、住む人にとって便利な仕組みは、外から来た人にとっても分かりやすい」
言葉が滑らかだった。しかも、横文字を振り回しすぎない。必要なときだけ「デジタル実装」だの「コミュニティ設計」だのという語を挟みつつ、すぐに噛み砕いて戻す。相手に合わせているのが分かった。
「補助金は、そのための手段でしかありません。目的にしてしまうと、だいたい失敗します」 そう言ったとき、市長が明らかに機嫌よく笑った。 「いいですね。そういう考え方が必要なんです」
真鍋は手元の経歴書に目を落としながら、ひとつ気になっていた点を聞いてみた。 「以前、自治体と連携した事業をいくつかされていたとありますが、差し支えなければ、どちらの自治体で」 北倉は一瞬だけ目を細めた。ほんの一瞬だった。 「いくつかあります。ただ、守秘の関係もありまして、今この場で固有名詞は少し……沿岸部の自治体が中心です」 「成果としては、どのような形で」 真鍋が重ねると、北倉は微笑みを崩さなかった。 「成果という言い方にも色々ありますけど、最初の段階で大事なのは、数字より土台づくりなんです。制度って、書類を作るより前に、人の理解を揃える作業の方が重いので」
うまい答えだ、と真鍋は思った。 うまいが、少しだけ霧がかっている。 だが、その程度の曖昧さは、実際に外部の案件をやってきた人間なら珍しくないのかもしれない。守秘という言い方も、間違ってはいない。真鍋自身、民間にいた頃、他社案件を気安く話すことはなかった。
会議はその後も前向きに進んだ。北倉は、汐崎市に住むことへの関心と、もし機会があれば地域の施策にも関わっていきたい意思を、押しつけがましくなく表明した。市長は「またぜひ話を」と言い、野添は明らかに手応えを感じている様子だった。
会議室を出るころには、北倉はもう客人ではなく、この町に必要な誰かとして座っていた。
面談が終わって資料を持って廊下に出ると、総務課の桐生道子とすれ違った。細身の体に無駄のない歩き方をする人で、法務や契約関係に強いと庁内で知られている。必要なことしか言わないが、その必要の見極めが妙に正確な職員だった。
「その人、今日の面談の?」 桐生は足を止めて訊いた。 「ええ。移住相談を兼ねて、少し政策の話も」 真鍋が答えると、桐生は真鍋の腕の中の書類へ視線を落とした。 「見せてもらっていい?」 差し出すと、桐生は職務経歴書をざっと見た。読むというより、眺めるに近い速さだった。 「書き方、上手ね」 「上手、ですか」 「ええ。見せたい経歴は太く見えるし、見せなくても困らないところは薄くなってる」 真鍋は少し笑った。 「職務経歴書なんて、だいたいそんなものでしょう」 「そうね」 桐生はうなずいた。だが紙を返しながら、もう一言つけ加えた。 「だから、気になるの」 「何がです?」 「空白の処理が、きれいすぎる」 その言い方が少し引っかかった。 真鍋が問い返そうとしたとき、桐生はもう歩き出していた。 「ま、考えすぎかもしれないけど」 それだけ言って、後ろ姿を見せた。 真鍋は書類を見下ろした。さっきまで頼もしく見えた履歴書に、急に余白があることだけが気になった。
午後の外回りで、真鍋はまず観光協会に寄った。駅から海沿いに少し下った古い建物の二階に事務局があり、窓からは港が見える。安積恵子は事務机の上にパンフレットを広げたまま、真鍋の持ってきた資料を受け取った。 「ありがとう。助かった」 「来週の移住フェア用です。地図の差し替えだけお願いします」 「了解」 資料を脇に置くと、安積は思い出したように言った。 「そういえば、今日来てた人、本当に汐崎に来るの?」 「もう話広がってるんですか」 「狭い町なんだから広がるでしょ」
安積は笑った。 「デジタルに強い人なんだって? だったら助かるなあ」 「まだ移住相談の段階ですけど、かなり前向きではあるみたいです」 「観光って、もう景色だけじゃ無理なのよ」
安積は真鍋にというより、机の上のパンフレットに向かって言った。 「見せ方が下手だと、あるものまで古く見えるから。SNSでもウェブでも、ちゃんと回せる人がいれば違うんだけど、こっちは現場を回すだけで手一杯だもの」
現場を回すだけで手一杯。その言葉は実感があった。観光協会も人が足りない。少ない人数でイベントもパンフレットも問い合わせ対応もやっている。そこへ「発信力を高めろ」「新しい客層を取れ」と言われても、手が足りないのが現実だった。
「必要なんですよ、そういう人」 安積ははっきり言った。 真鍋は、必要とされる理由がよく分かると思った。
観光協会を出たあと、今度は商工会へ寄った。藤代茂雄は窓際の机で帳簿を広げており、真鍋を見ると老眼鏡を少し上げた。 「おう、どうした」 「例の創業支援セミナーの日程、確認で来ました」 「ああ」
必要な話をひと通り終えてから、真鍋が何気なく北倉の話を出すと、藤代はすぐに反応した。
「また外から先生が来るのか」 「先生、ですか」 「肩書きの立派な人は、だいたいそう呼ばれるからな」 藤代は苦笑した。 「今回は、実務も分かる人かもしれませんよ」 真鍋が言うと、藤代は机に肘をつき、少しだけ真顔になった。 「そうだといいがね。町に必要なのは、喋る人より残る人だ」 それ以上は言わなかった。否定も、歓迎も、しきらない声だった。
商工会を出ると、港へ向かう道の途中にある交流スペースの前で、水城海斗が外へ出てくるのが見えた。移住者コミュニティの中心にいる若者で、何かと地域戦略課にも顔を出す。 「あ、真鍋さん」 「どうした、そんな急いで」 「今、北倉さんの話してたんです」 もう「さん」付けなのか、と真鍋は思った。 「やばいっすよ、あの人」 「やばいって何だよ」 「いい意味でです。ああいう人、地元にいなかったじゃないですか。話してて分かるんです。町の外の速度を知ってる人だって」 「まだ何か始まったわけじゃないだろ」 「でも分かりますよ。ああいう人が一人いるだけで、空気って変わるから」 水城の目は本気だった。希望を信じる目だ、と真鍋は思った。 北倉はまだ何も始めていないのに、もう町の複数の場所で、必要な人として語られ始めていた。
夕方、港の見える小さな飲食店で、簡単な交流の席が設けられた。歓迎会というほど大げさではない。移住者コミュニティの顔合わせに、観光協会や商工会、それに市役所からも何人か出ている程度の、よくある寄り合いだ。
店の窓の外には、夕暮れの港が見えた。漁船の影が水面に揺れ、遠くの防波堤の向こうに、日が沈みかけている。潮の匂いに、焼き魚と醤油の匂いが混じる。
北倉は、そういう場に馴染むのもうまかった。 決して自分ばかり話さない。相手の仕事を聞き、店を褒め、町の話を引き出し、ときどき自分の経験を差し込む。水城のような若い層には速度と可能性の話をし、安積には発信設計の話をし、商工会の人間には「地元の事業者が主役になる形が大事です」と言ってみせる。
誰に何を言えば喜ばれるかを、考えるより早く体が知っているようだった。 「北倉さん、今度ぜひ観光協会にも来てくださいよ」 安積がすっかり前向きな顔で言う。 「ぜひ。むしろ、現場を見ないと始まらないと思っています」 「コワーキングの方でも話してもらえません?」 水城が身を乗り出す。 「若い人、絶対集まります」 「こちらが学ぶことの方が多いですよ」 そう返す言い方まで、嫌味がない。
野添も珍しく機嫌がよく、北倉の話に何度もうなずいていた。市長の黒瀬も顔だけ出して、「またぜひじっくり」と手短に言って帰っていった。 真鍋はその様子を見ながら、少し安堵に近い気持ちになっていた。この人は、ちゃんとこの町に馴染めるのかもしれない。そう思えたからだ。
そこへ、少し遅れて一人の男が入ってきた。 堂本忍だった。地元紙・北浜新報の記者で、汐崎市では知らない者のほうが少ない。だが、付き合いやすい人間として知られているわけではない。愛想は薄く、書くべきことしか書かない代わりに、書くと決めたことは容赦しない、という評判があった。
堂本は店の中を見回し、真鍋に軽く会釈してから、北倉の方へ向かった。 「北浜新報の堂本です」 「これはどうも」 北倉が名刺を差し出す。 「地元紙の方に早くご挨拶できるのはありがたいですね」 堂本は名刺を一瞥した。 「立派な肩書きですね」 言い方は丁寧だが、温度が低い。 北倉は微笑んだまま言った。 「名刺は、少し賑やかになってしまって」 「どこで一番長く仕事を?」 その問いで、近くにいた何人かの動きがほんのわずかに止まった。
北倉は笑みを崩さない。 「いろいろ渡り歩いてきました。今は肩書きより、どこで何ができるかだと思っています」 「そうですか」
堂本はそれ以上、追わなかった。追わないからこそ、そのやりとりは少しだけ後味が悪かった。
会が終わり、真鍋が店を出ると、港からの夜気が思ったより冷たかった。店先の灯りから少し離れたところで、堂本が煙草も吸わずに立っていた。
「お疲れさまです」 真鍋が言うと、堂本はうなずいた。 「気を悪くしないで聞いてください。ああいう人、役所は好きでしょう」 「好き、というか……必要としてますよ」 真鍋は少し身構えながら答えた。 「うちにはいないタイプですから」 「でしょうね」 「何か問題でもあるんですか」
堂本は、すぐには答えなかった。港の方へ一度視線をやってから、静かな声で言った。 「問題かどうかは、まだ分かりません。ただ——」 「ただ?」 「履歴書は、書いてあることより、抜けてる所を見た方が、その人は早いですよ」 それだけ言うと、堂本は先に歩き出した。呼び止めるほどの言葉ではない。だが、聞き流せるほど軽くもなかった。 夜、庁舎へ戻った真鍋は、自席の明かりだけを点けて資料を鞄から出した。フロアの大半はもう暗く、遠くで当直の気配がするだけだった。
北倉恒一郎。 整った文字。無駄のない経歴。今の汐崎市が欲しがっているものを、まるで理解したうえで並べたような職務履歴。 真鍋は一枚ずつ、もう一度見直した。
たしかにおかしなことは書いていない。嘘だと決めつけられる箇所もない。だが、数年分の記載が妙に簡潔に処理されている部分がある。会社名や自治体名を伏せていること自体は、ありえないことではない。ありえないことではないが、あまりにも角が立たない。 桐生の言葉がよみがえった。空白の処理が、きれいすぎる。 続いて、堂本の声も。 抜けてる所を見た方が、その人は早い。 真鍋は履歴書をもう一度開いた。書かれている言葉より、そのあいだの静けさの方が、急に気になり始めていた。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.
