リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

第6章(最終章) 底が割れる日

- Posted in 潮の香りのする男(九条レオン) by

 東京の空気は匂いがない。 匂いがないものは、腐っているかどうかが分からない。政治家はだから、東京が好きだ。腐っていても、香水でごまかせる。  だが——腐りは、ある日突然、音を立てる。 カチャン。

ホチキスの音でもない。 朱肉のスタンプでもない。 クリック音でもない。 通知音でもない。 封印が切れる音だった。

全国珍英語ツアー Season2  最初に燃えたのは、海の町ではなかった。 山の町だった。  派閥筋の運用会社が「横展開」を急ぎ、全国の自治体にアプリと多言語看板のテンプレートを配り始めた。テンプレートは便利だ。便利なものは、だいたい危ない。便利すぎると、考えなくなるからだ。  そして、考えないまま貼られた看板に、こう書かれた。 Please evacuate to the river. (川へ避難してください) ——川は、避難先ではなく、だいたい脅威だ。 これを見つけたのは、火種屋YouTuberだった。  彼はもう火種屋というより、火災報知器だった。鳴る場所を嗅ぎ分ける嗅覚が、プロになっていた。 「皆さん見てください!『川へ避難』です! 行政DXの未来が、川に流されてます!」  再生数が伸びた。 伸びる動画は政治家にとって面倒だ。 面倒が全国規模になると、政治家にとって危険になる。

 メディアが乗った。 「行政DXの落とし穴」 「多言語化の盲点」 「データドリブンの誤作動」 どの記事にも、必ず出てくる言葉があった。 ——元祖成功事例。 元祖成功事例。  それはつまり、『最初にやった人』だ。 そして最初にやった人は、だいたい最初に叩かれる。  島田幸夫の名前が、全国紙の片隅に出た。 片隅に出る名前ほど怖い。大きく出る前触れだからだ。

係長の胃が、制度を超える  地元の役場係長の胃は、すでに行政でできている。 だがこの日、胃は行政を超えて、国家になった。 係長は島田の事務所に電話した。声が震えている。 「先生……来ました……」 島田は条件反射で言いかけた。 「いいですね」  だが言葉が途中で止まった。 『いいですね』は便利な魔法だった。けれど魔法は、炎の前では薄い。  係長は泣きそうに言った。 「監査です。 県も、総務も、議会も、記者も。 センターに『監査班』が設置されるって……」 設置。

 第4章で「会議が設置されるのが政治の怖さ」だった。 今度は監査が設置される。設置された瞬間、だいたい終わる。  さらに係長が続けた。 「それと……先生、例の発言……」 「どの?」  係長は言った。 「『嘘をつくのは数字の作り方です』…… 切り抜きが、全国で回ってます……」  島田の背中が、初めて冷えた。 冗談として言った言葉が、冗談でなくなる。 政治家が一番嫌う瞬間だ。

 島田は静かに言った。 「係長、落ち着いて。 これは、改善のチャンスです」  係長が叫んだ。 「改善じゃないです! 追及です!責任です! 胃が、胃が……!」  電話の向こうで、胃が崩れる音がした気がした。 係長の胃は、もはやSE(効果音)になっていた。

監査は『正義の顔』でやって来る  観光防災センターに、黒いスーツの一団が現れた。 監査班だ。名札が整っている。資料が整っている。表情が整っていない。  監査はいつも正しい顔で来る。 正しい顔は強い。強い顔は、島田の演説では揺れない。

監査の焦点は三つだった。 1. 協賛枠——行政のアプリに広告を入れていいのか 2. データ共有——利用者の同意は適切か 3. KPI——成果指標は妥当か。水増しはないか  どれも島田が好きな言葉だった。 協賛、データ、KPI。 彼の鈴の素材だった。  監査官は淡々と問う。 「協賛企業選定の基準は?」 NPO代表が善人顔で答える。 「地域の応援を募りました」  監査官は首を傾げる。 「応援の定義は?」 善人顔が、少し揺れた。  次に、監査官。 「利用者データの保存期間は?第三者提供は?」 運用会社(派閥筋)が答える。 「仕様通りです」

 監査官は言う。 「仕様を決めたのは?」 運用会社が一瞬黙り、言った。 「…島田先生のモデルです」 島田の鈴が、ひとつ鳴った。  次に、KPI。 「閲覧数はユニークユーザーですか?」  会長が言う。 「えっと…伸びてます」  監査官の目が冷たくなる。 「伸びているのは棒グラフです。 質問は数字の意味です」 棒グラフの魔法が、解け始めた。 派閥は守らない。派閥は『切る』  島田は党本部に呼ばれた。 呼ばれ方が、第5章の招待と違う。 招待は笑顔で来る。呼び出しは無表情で来る。  幹部は言った。 「島田君、君の件、厳しい」  島田は微笑んだ。 微笑むと相手が『怒りにくくなる』のを知っている。 「ご心配をおかけしました。 改善案を——」  幹部は遮った。 「改善じゃない。処理だ」

処理。 政治で『処理』と言われたら、だいたい終わりだ。

 幹部は続けた。 「君は派閥に入っていない。 つまり、守りようがない」  島田は一瞬、言葉を失った。 守りようがない、ではなく、守らないと言っているのだ。 島田は、演説の声を出そうとした。  だが出る前に、幹部が言った。 「君の名前は、資料から消す。 だが、問題の出どころは『君のモデル』だ。 責任は君に残す」  完璧だった。 政治の責任転嫁として、教科書に載せたいほどだ。 島田はその場で、初めて少しだけ声を荒げた。 「それは…筋が違うでしょう」  幹部は笑った。笑い方が上手すぎて、誰も突っ込めない。 「筋?政治に筋を求めるな。 求めるなら、君が派閥に入って筋になれ」  島田は黙った。 黙ると負ける。だが反論するともっと負ける。 島田は負け方を選べるほど、もう強くなかった。  帰り道、スマホが鳴った。 ピコン。 通知音だ。 「党の広報:島田議員に関する報道について」 ——中身は薄い。だが島田の名前だけが太い。  鈴が鳴った。 今度は自分を殺す鈴だった。

最後の演説。拍手の起点がいない  記者会見の日、島田は「言い訳の上手さ」を見せた。 それが致命傷だった。 「私は英語が話せないので——」 「データは専門家が——」 「運用は委託先が——」  言えば言うほど、島田の演説力は『言い訳の技術』に見えた。 人の心を掴むのがうまい男が、責任から逃げる言葉だけうまい。

 その瞬間、世論のスイッチが切り替わった。 火種屋YouTuberが動画を出した。 「皆さん、聞きましたか? 『私は話せないので』です。 じゃあ、何ができるんですか。 ——棒グラフです」  再生数は伸びた。 今度は笑いではない。嘲笑だ。

 監査は結論を出した。 「適切でない運用があった」 「透明性に課題」 「改善が必要」

改善。  島田がいつも使ってきた言葉が、今度は島田を殴る棒になった。 そして島田は決断する。 決断させられる。 政治家の決断は、だいたい他人が決める。

辞職。 「自ら身を引く」 という形にしないと、党が困るからだ。 困らない段取り。最後まで段取りだった。

 島田は、地元に戻った。 駅前ロータリー。 第1章の始まりの場所。 いつもなら拍手が起きる場所。 観光協会会長が拍手の起点になり、旅館組合幹部が頷き、係長が胃を押さえ、警備社長が「安全のためです」と言う場所。

 だが今日は違った。 観光協会会長はいない。 旅館組合幹部はいない。 NPO代表もいない。  係長は、病欠だった。胃が国家になりすぎた。 いるのは、数人の記者と、通りすがりの人と、火種屋YouTuberだけだ。  YouTuberは最前列でカメラを構えていた。 拍手の代わりに、録画ボタンが赤く光っている。 島田はマイクを握った。 いつものように空気を寄せようとした。 だが空気は寄らない。空気は逃げる。

「皆さん」 声はよく通る。 通るが、届かない。 届かない声ほど虚しいものはない。 「私は——この町を、困らない町にしたかった」  静かだった。 静かすぎて、海の匂いがする気がした。 海の匂いがするのは、潮風ではなく、孤独の匂いだ。

 島田は続けた。 「結果として、皆さんにご迷惑をかけました。 だから私は、辞職します」 拍手は起きない。  島田は一秒だけ『間』を置いた。 間は金になるはずだった。  だが今日は、ただの空白になった。 空白の中で、YouTuberのカメラの電子音だけが鳴った。 ピッ。  鈴だった。 投票箱の底でもなく、ホチキスでもなく、朱肉でもなく、クリックでもなく、通知でもない。

録画開始の音で鳴る鈴だった。  島田は気づいた。 自分は、最後まで「音」に支配されてきた。

 鈴の音を追いかけて、ここまで来た。 鈴を鳴らす仕組みを作って、鳴らすたびに強くなった。 そして今——鳴る鈴は、もう自分のものではない。  島田は最後に、誰にともなく言った。 「数字は嘘をつきません」 言ってしまった。 癖だ。癖は最後に出る。

 YouTuberが小さく笑った。 その笑いが、拍手より刺さった。  島田は口を閉じた。 もう言葉が武器にならないと分かったからだ。

 駅前ロータリーの風が吹いた。 拍手のない風だ。 ただ、ポスターの端が少しだけ剥がれた。 剥がれる音は、ホチキスの音に似ていた。 カチャン。 鈴が止んだ。

 いや、鈴は止まらない。 鳴る場所が変わっただけだ。

島田幸夫の物語は、そこで幕を下ろした。 困らない町を作ろうとして、 最後に自分だけが困った男の幕だった。