リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

本屋の風景は、ときどき一夜で変わる。

昨日まで新刊棚の片隅に一冊だけ置かれていた小説が、文学賞の発表翌日には平台の中央へ移り、何十冊もの山になる。「受賞」の文字を大きく刷った新しい帯が巻かれ、作者の名前が新聞やテレビに現れ、それまでその本の存在を知らなかった人まで書店で手に取る。静かに生まれた一冊の本が、文学賞を境に突然、社会の中央へ引き出されるのである。

その光景を見ていると、文学賞を取った作品は、それだけで名作への切符を手に入れたようにも思える。しかし、そこで時計を十年、二十年、五十年と進めてみると、風景はかなり違ってくる。

かつて大きく報じられた受賞作のなかには、いまも書店で新しい読者を待っている作品がある一方、文学に詳しい人でなければ題名さえ耳にする機会の少なくなった作品もある。逆に、受賞作そのものより、その作家が後に書いた別の小説のほうが代表作として読み継がれている場合も珍しくない。

文学賞を取ることと、長く読まれること。

私たちはこの二つをつい同じものとして考えてしまうが、実はそこには大きな距離がある。

文学賞が選ぶのは「その時代の優れた作品」である

日本を代表する文学賞である芥川龍之介賞と直木三十五賞は、文藝春秋の創業者である菊池寛が1935年に創設した。現在、芥川賞は雑誌に発表された新進作家による純文学の中・短編を、直木賞は新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本を対象としている。対象期間中の作品から候補作を選び、選考委員の討議によって受賞作を決める制度である。

ここで重要なのは、文学賞が制度上、「何十年後まで読まれる作品」を予測する仕組みではないことである。

選考委員が読むことのできるのは、いま目の前にある作品である。その文章がどのような完成度を持ち、同時代の文学の中でどのような意味を持つのかを判断することはできる。しかし、その作品を2050年や2070年の読者がどのように読むのかまでは分からない。

どれほど優れた選考委員を集めても、未来の読者を選考会へ呼ぶことはできない。

文学賞とは未来を予言する制度というより、現在という一点において「この作品には読む価値がある」と社会へ知らせる制度なのである。

だからこそ、受賞時の評価と数十年後の評価が一致しないことは、選考委員が間違えたことを直ちに意味しない。その作品が当時優れていたことと、半世紀後にも広く読まれていることは、そもそも別の問いだからである。

それでも文学賞には、実際に本を売る力がある

では文学賞とは、単なる名誉なのだろうか。

そうではない。

少なくとも「受賞によって本が売れる」という現象については、かなり強い実証的な根拠がある。

フランスで最も権威ある文学賞の一つであるゴンクール賞について、経済学者ニコラ・ラギオスとピエール=ギヨーム・メオンは、RDD(Regression Discontinuity Design・回帰不連続デザイン)という因果推論の手法を使って受賞の効果を調べている。

文学賞と販売部数を単純に比べるだけでは、「もともと売れそうな優れた作品だったから受賞したのではないか」という問題が残る。そこで研究者たちは、ゴンクール賞の投票で僅差で勝った作品と僅差で敗れた作品を比較した。似た水準まで評価された作品同士を比較することで、単なる相関ではなく、受賞そのものが販売に与えた影響へ近づこうとしたのである。

その推計では、ゴンクール賞の受賞によって販売部数が約350%増え、平均では約26万部の増加に相当するとされた。映画化や出版社などの要因を考慮した分析でも、受賞効果は統計的に有意だった。

文学賞には、本当に本を動かす力がある。

それは単に「権威ある人たちが高く評価したから」というだけではない。賞によって作品の存在そのものを初めて知る人が生まれ、「これほど話題になっているのだから読んでみよう」という読者も現れる。同じ本を多くの人が読むことで、学校や職場、友人同士の会話の対象にもなる。

文学賞は品質の評価であると同時に、巨大な情報装置でもあるのだ。

なぜ「受賞」の二文字だけで人は本を買うのか

毎年、世の中には膨大な数の本が出る。

読者にとって困難なのは、読む価値のある本が存在しないことではない。むしろ、本が多すぎて何を選べばよいのか分からないことにある。

そこで文学賞が働く。

書店に数千冊の本が並んでいても、「芥川賞受賞」「直木賞受賞」と書かれた帯があれば、読者には一つの理由が生まれる。自分で未知の作家を一から調べなくても、専門家による選考を通過したという情報を利用できるからである。

この効果は海外の文学賞でもはっきり現れる。

2018年にブッカー賞を受賞したアンナ・バーンズの『ミルクマン』は、受賞前の週に963部だった販売が、受賞翌週には9446部となった。前週比880%増、冊数で見れば約9.8倍である。その翌週にはさらに1万8786部まで伸びた。ブッカー賞の公式サイト自身が、こうした受賞後の急激な販売増を「ブッカー・バウンス」と呼んでいる。2020年の受賞作『Shuggie Bain』でも、受賞後の最初の一週間に英国で2万5000部以上が売れ、前週比約1900%増となった。

賞が人の目を本へ向ける力については、疑う余地はあまりない。

しかし、本当に面白いのはここからである。

受賞によって一度手に取られた本が、そのあとも読まれ続けるとは限らない。

賞によって読者は増えるが、「その本を好きな読者」だけが増えるわけではない

ゴンクール賞の研究には、売上以上に興味深い結果がある。

受賞するとAmazonに投稿されるレビューの数が増えた。しかし同時に、否定的なレビューになる確率も上昇していたのである。研究者たちは、文学賞によってそれまで作品の存在を知らなかった人だけでなく、本来自分の好みとは離れた作品を選ばなかったであろう読者まで本を読むようになることが、その一因ではないかと考えている。

これは文学賞という制度の性格をよく表している。

賞は作品と読者を出会わせる。

しかし、その二人の相性まで保証してくれるわけではない。

「受賞作だから読んでみよう」と手に取った人のなかには、強く感動する人もいれば、「なぜこれが受賞したのだろう」と首をかしげる人もいる。それでも重要なのは、それまでなら出会わなかったはずの作品と読者が出会ったことである。

受賞直後の読者には、賞によって集められた人々が数多く含まれている。

ところが十年後になると事情は変わる。

テレビはもう受賞を報じない。書店の正面に山積みされることもない。赤や金色の大きな受賞帯がなくなっても、その本を探す人がいるかどうか。

そこで初めて作品は、文学賞という大きな追い風から離れ、自分の足で歩き始める。

文学賞の効果は受賞直後だけでは終わらない

もっとも、「文学賞の効果は一時的な宣伝だけだ」と考えるのも正確ではない。

ゴンクール賞の研究では、1954年から2018年までの受賞を対象に範囲を広げ、2004年から2019年までの販売を使った分析も行われている。研究者自身がこれを受賞の長期的効果を推定する方法の一つと位置づけており、さまざまな条件を変えた分析でも、ゴンクール賞の効果は正で、通常用いられる統計的基準で有意だった。

つまり文学賞は、受賞翌週だけ本を売って終わるとは限らない。

受賞歴そのものが長く作品に付随し、文庫化や増刷、書店での陳列、批評、研究、読書案内などを通して、後の読者へ作品を届ける可能性を高める。

ただし、ここで一つ大きな線を引かなければならない。

「何年も販売されること」と「文学として長く残ること」は同じではない。

本が年間何千部売れているかは比較的数えやすい。しかし、作品が文学史に残ったかどうかを一つの数字で測ることは難しい。販売部数だけでなく、絶版にならず再版されているか、文庫として読めるか、図書館に所蔵されているか、翻訳されているか、学校や大学で読まれているか、研究や評論の対象になっているか、映像化によって新しい世代に再発見されているかといった複数の要素が関係する。

文学の生命は、売上という一本の物差しだけでは測れないのである。

受賞作が、その作家の代表作になるとも限らない

芥川賞の歴代受賞作を眺めると、さらに面白いことが分かる。

安部公房は『壁』、遠藤周作は『白い人』、松本清張は『或る「小倉日記」伝』、大江健三郎は『飼育』、村上龍は『限りなく透明に近いブルー』で受賞している。

しかし、その後の文学史を見れば、受賞作だけがその作家を支えてきたわけではない。

安部公房には『砂の女』があり、遠藤周作には『沈黙』があり、松本清張には『点と線』や『砂の器』がある。現在では、そうした受賞後の作品も広く代表作として知られている。

ここに文学賞の別の役割が見えてくる。

文学賞は、一冊の作品を永遠に残すための装置というより、作家をより大きな読者の前へ送り出す装置になることがある。

受賞をきっかけに名前を知った読者が次の作品を読み、出版社が新作を刊行し、作家自身もさらに書き続ける。その過程で、受賞作とは別の作品が後世の代表作になることもある。

そう考えると、受賞作が数十年後に何部売れているかだけで文学賞の成否を判断するのは狭すぎる。

賞はゴールというより、しばしば長い作家生活の途中に置かれた巨大な分岐点なのである。

同じブッカー賞受賞作でも、時間がたつと売れ方は大きく分かれる

受賞すれば、その後の運命まで同じになるわけではない。

英国では2004年、書店チェーンのWaterstonesとNielsen BookScanの販売データを用いて、歴代ブッカー賞受賞作が直近一年間にどれだけ売れていたのかを調べた結果が報じられた。

その時点で、1978年の受賞作であるアイリス・マードックの『The Sea, The Sea』は年間約7600部売れていた。一方、前年の1977年に受賞したポール・スコットの『Staying On』は17部で、1969年の第1回受賞作『Something to Answer For』はその一年間には販売が確認されなかった。もちろんこれは2004年という一時点の英国販売データであり、現在の販売状況を示しているわけではない。それでも、同じ「ブッカー賞受賞作」という条件を持ちながら、長い時間が経過した後の販売には極端な差が生じていたことは分かる。

2012年にNielsen BookScanのデータをまとめた別の資料でも、受賞後の累積販売には大きな開きが見られる。2002年受賞のヤン・マーテル『Life of Pi』は1998年以降の集計で130万部を超えていたのに対し、ほかの歴代受賞作には数万部規模にとどまるものもあった。

つまり文学賞は長期的な成功の確率を有利にすることはあっても、その結果を一様にはしない。

受賞は未来を決定する運命ではなく、未来へ向かう条件の一つなのである。

長く読まれる本は、何度も「再発見」される

では、文学賞の力が薄れたあと、何が作品を残すのだろう。

ここから先は、売上統計だけでは答えられない領域になる。

出版社が作品を刊行し続けること、文庫として手に入りやすい価格で残すこと、図書館が所蔵すること、評論家や作家が語ること、学校や大学で取り上げられること、映画やテレビドラマになること。そうした複数の経路が、作品と新しい読者との接点をつくっていく。

『The Cambridge History of Japanese Literature』でも、文学全集や芥川賞のような制度が、特定の作品へ文化的な権威や威信を与え、同時に作品を商品として広く流通させる装置になってきたことが論じられている。芥川賞そのものも、単なる作品評価だけでなく、近代日本文学の正典化と大衆化に関わる仕組みの一つとして位置づけられている。

しかし、それでも制度だけでは十分ではない。

何十年か前に読んだ人が再びページを開く。ある作家の新しい作品から過去の作品へ遡る。映画を見た若者が原作を探す。古本屋で偶然見つけた一冊を、知らない世代の読者が持ち帰る。

そうやって作品は、ときに忘れられ、ときに呼び戻される。

古典とは、一度も忘れられなかった作品だけを指すのではないのかもしれない。

何度忘れられても、そのたびに誰かに発見される作品。

その繰り返しのなかで、時間を超えていく本が生まれるのではないだろうか。

「普遍的だから残る」と簡単には言えない

よく、長く読まれる作品には「人間の普遍的な問題」が描かれていると言われる。

孤独、愛、家族、欲望、死、嫉妬、社会との違和感。

確かに、時代が変わっても消えない問題を扱う作品ほど、新しい世代が自分自身の物語として読み直しやすいように思える。

しかし、ここは慎重に考えなければならない。

長く読まれている本に普遍的な主題が多いからといって、「普遍的な主題を書けば長く残る」とは限らないからである。作品の寿命には、文章そのものの力だけでなく、作家の知名度、出版社、文庫化、価格、書店流通、教育、批評、翻訳、映像化、時代ごとの関心など、多くの条件が重なっている。

文学作品の長期的な生存は、一つの原因で説明できる現象ではない。

だから文学賞についても、「賞を取ったから残った」と単純に考えることはできないし、「賞とは関係なく作品の力だけで残った」と言い切ることも難しい。

文学は作品だけで生きているのではなく、作品を取り巻く社会全体の中で生きているのである。

文学賞の歴代一覧には、「時間」というもう一人の選考委員がいる

芥川賞や直木賞の歴代受賞者一覧を古い時代まで遡っていくと、不思議な感覚になる。

現在も作品が書店に並び続けている作家がいる。その一方で、当時は同じように受賞者として新聞に名前を載せながら、現在では文学史の中でしか出会うことの少なくなった作家もいる。公式記録には、現在の知名度とは無関係に、その時代に選ばれた作品が同じ形式で並んでいる。

そこにあるのは、選考委員が正しかったか間違っていたかという単純な物語ではない。

文学賞の選考会が終わった瞬間から、もう一つの長い選考が始まっているのである。

選考委員の名前は「時間」。

審査期間は数十年、ときには百年以上。

毎年少しずつ読者が入れ替わり、書店の棚から本が消え、別の本が復刊され、新しい批評が生まれ、新しい世代が作品を読み直す。その過程で、作品は何度も評価され直していく。

この選考会には受賞式がない。

結果が発表される日もない。

ただ、何十年か後の書店や図書館を見れば、その途中経過だけは分かる。

文学史とは、そういう途方もなく長い選考会なのかもしれない。

文学賞は「名作の証明書」ではなく、未来へ渡すための強い切符である

では、「文学賞を取った作品は本当に長く読まれるのか」という最初の問いに戻ろう。

答えは、「文学賞を取れば必ず長く読まれる」ではない。

しかし、「文学賞は長く読まれることとは無関係だ」でもない。

研究が比較的強く示しているのは、文学賞が作品の認知度を高め、販売を増やし、その効果が長期の販売にも及びうることである。さらに賞による文化的な権威は、増刷や文庫化、批評や研究といった、作品が次の世代へ渡っていくための条件を有利にする。

その意味で文学賞は、長く読まれるための十分条件ではないが、作品の生存確率を高めうる有力な要因の一つだと考えるのが最も妥当だろう。

ただし、賞ができるのはそこまでである。

賞は本を読者の前へ連れてくる。

書店の中央に置き、新聞に名前を載せ、何万人、何十万人という人に「この本を読んでみよう」と思わせることができる。

けれど十年後、その本をもう一度棚から取り出すかどうかまでは決められない。

二十年後、新しい読者へ薦めるかどうかも決められない。

五十年後、その作品の中に自分自身の時代を読み取る人がいるかどうかも決められない。

考えてみれば、それは文学にとって幸運なことなのだろう。

もし受賞した作品だけが後世に残るのであれば、文学史は少数の選考委員によって決められてしまう。しかし実際には、賞を取った本が忘れられることもあれば、賞とは別の場所にいた作品が後から読み直されることもある。ある時代には古びたと思われた作品が、別の時代には驚くほど新しく見えることさえある。

文学には、権威だけでは支配できない時間が流れている。

文学賞が選ぶのは、その時代の一冊である。

その本を長く読む本に変えていくのは、出版社でも評論家でも選考委員でもなく、何十年にもわたってページを開き続ける、名もない読者たちなのだ。

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