ある小説が発売される。最初は静かだったのに、誰かが一節を取り上げて「これはひどい」と書き込んだ瞬間から空気が変わり、別の誰かが「文脈を読めば意味は違う」と反論し、さらに「作者はなぜこんな人物を描いたのか」「こんな本を世に出してよいのか」という議論が重なっていく。数日後には、その小説を一ページも読んでいなかった人まで題名を知り、書店では目立つ場所に置かれ、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)では批判者と擁護者が同じ作品名を繰り返している。誰も宣伝しているつもりはないのに、結果だけ見れば巨大な宣伝装置が動いている。
ここには文学をめぐる奇妙な逆説がある。本来なら作品に対する激しい批判は評価を下げるはずなのに、ときとしてその批判自体が作品の存在を広く知らせ、販売や貸出を増やすことがあるのである。そうなると、「炎上した小説ほど読まれるのなら、炎上は文学にとって失敗なのか、それとも成功なのか」という問いが生まれる。しかし、この問いに答えるためには、まず「炎上した」「売れた」「読まれた」「高く評価された」「文学として残った」という五つの出来事を、一つの成功という言葉でまとめないところから始めなければならない。
悪評は、本当に本を売れなくするのか
私たちは普通、評判のよい商品が売れ、評判の悪い商品は売れなくなると考える。レストランについて「まずい」と聞けば足は遠のき、家電について「すぐ壊れる」と聞けば購入をためらうからである。しかし書籍、とりわけ小説では、少し違うことが起こる。「そんなにひどい作品なのか」「なぜそこまで怒る人がいるのか」「問題とされている場面を自分で確かめたい」という好奇心が、否定的な評判そのものから生まれることがある。
これは単なる印象論ではない。2010年にマーケティング研究者のジョナ・バーガーらが書籍販売を分析した研究では、否定的な書評は著名な作家の本では売上を下げる一方、あまり知られていない作家では売上を増やす場合があることが示された。重要なのは、悪評そのものに本を売る力があるのではなく、それまで知られていなかった作品の認知度を大きく押し上げる効果が、評価低下による悪影響を上回る場合があるという点である。
この関係は、簡単な数字で考えると分かりやすい。たとえば炎上前には一万人しか作品を知らず、そのうち一割が購入していたとすれば販売数は千冊になる。ところが炎上によって作品を知る人が三万人に増え、悪評のため購入率が六%まで下がったとしても、販売数は千八百冊になる。作品への評価は悪化したのに、売上は八割増えるのである。
一方、すでに百万人が知っている著名作家なら事情は逆になる。炎上しても認知度を大きく増やす余地は小さいのに、購入をやめる人だけが増えれば売上は下がる。つまり「炎上すると売れる」のではなく、炎上によって生じる認知度の増加が、悪評による購買意欲の低下を上回った場合にだけ、結果として販売が増えると考える方が正確なのである。
禁止されるほど、読まれるという逆説
この構造をさらに強く示すのが、米国で論争になった「禁止された本」を調べた近年の研究である。学校や図書館などで閲覧や所蔵が問題視された書籍を追跡した研究では、禁止の対象になった本は、比較対象となる本より平均して貸出が約一二%増加し、その効果はとりわけ知名度の低い著者で強く現れていた。
もちろん、図書館での禁止とSNS上の炎上は同じ現象ではない。しかし、「読むべきではない」「問題がある」と社会的に注目されたことが作品の存在を知らせ、結果として新しい読者を呼び込むという点では共通している。人間には「見てはいけない」と言われたものほど確かめたくなる心理があり、文学はときとして批判されることによって、それまで作品の存在すら知らなかった読者の前に姿を現す。
しかし、ここで注意しなければならないのは、禁止された本の貸出が一二%増えたからといって、「問題視されればされるほど売れる」という単純な法則が成立するわけではないことである。効果は作品の知名度や読者層、論争の内容、作品に触れるための費用や手間によって変わり、同じ騒動でも結果は一定ではない。文学をめぐる炎上は、万能の販売装置ではなく、条件によって効果が逆転する不安定な現象なのである。
「読まれた」と「話題になった」は同じではない
さらに厄介なのは、炎上によって何が増えたのかを慎重に見なければならないことである。作品名を見た人が増えること、作品に興味を持つ人が増えること、本を買う人が増えること、実際に読み始めること、最後まで読むこと、読み終えたあと高く評価することは、すべて別の段階に属している。
炎上した作品について、百万人がSNSで題名を見たとしても、その全員が本を買うわけではない。二十万人が興味を持ち、そのうち五万人が購入し、四万人が読み始め、二万人しか最後まで読まなかったということは十分に考えられる。それでも表面上は「五万部売れた」という数字だけが残り、やがて「炎上によって五万人に読まれた」という物語に変わっていく。
とりわけ現在のSNSでは、小説そのものより小説について語られた言葉の方が圧倒的に速く流通する。問題視された数行、誰かの怒り、作者の発言、出版社の説明、それに対する反論が切り取られて共有されるうちに、原作を開いていない人まで「どんな作品なのか知っている」という感覚を持ち始める。数百ページの小説が数行の証拠へ圧縮され、その断片が作品全体を代表するようになれば、小説は読まれる前から判決を受けることになる。
だから「炎上した小説ほど読まれる」という言葉を検証するには、売上だけでは足りない。本当に増えたのは読者なのか、購入者なのか、それとも作品名を知っている人なのかという区別が必要であり、注意、購入、読了を一つの「人気」にまとめてしまえば、炎上の効果を実際以上に大きく見積もることになる。
怒りはなぜ広がりやすいのか
それでも炎上が大きく見えるのには理由がある。人間は穏やかな情報より、驚きや怒り、不安といった感情を強く刺激する情報に反応しやすく、社会的・道徳的な問題を扱ったSNS研究でも、感情の強い言葉を含む投稿ほど広がりやすい傾向が報告されている。
ただし、この知見をそのまま文学へ当てはめることには慎重であるべきだろう。政治や社会問題についての怒りが拡散されやすいからといって、小説への否定的感想が肯定的感想より必ず拡散すると証明されたわけではない。それでも、「面白かった」という静かな感想より、「なぜこんな作品が許されるのか」という強い言葉の方が多くの人を議論へ巻き込みやすい可能性はある。
その結果、批判している人も、擁護している人も、論争そのものを批判している人さえ、同じ作品名を繰り返すことになる。文学作品が宣伝費を一円も払わずに何度も人々の画面へ現れるとすれば、炎上は少なくとも「作品の存在を知らせる」という一点において、非常に強い効果を持つことがある。
文学はもともと人を不快にする
しかし文学と炎上の関係は、販売だけで考えると本質を見失う。そもそも小説は、読者を心地よくするためだけに書かれてきたわけではない。犯罪者の心の中へ入り込み、不倫をする人物に共感させ、利己的な人間を魅力的に描き、社会が触れたがらない性愛、暴力、貧困、差別、宗教、階級をあえて物語の中心に置くことによって、人間の理解しにくい部分へ読者を連れていくことも文学の役割だった。
その意味では、小説が人を怒らせたという事実だけで、作品を文学的な失敗と判定することはできない。読者が当然だと思っていた価値観を揺さぶった結果として反発が生じる場合もあり、文学史には、不道徳、不快、猥褻、読むべきではないと非難された作品が、後世まで読み継がれた例が存在する。
その象徴的な一例が、D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』である。露骨な性描写をめぐって長く論争となり、英国では一九六〇年に完全版の出版をめぐる猥褻裁判にまで発展したが、出版社側の無罪判決後には大量に読まれ、出版と言論の自由をめぐる歴史的な作品としても記憶されるようになった。
もっとも、この例から「論争したから名作になった」と考えるのも誤りである。作品そのものの文学的価値と、裁判によって知名度が上昇したことは区別しなければならない。騒動は読者を本の前まで連れてくることはできても、作品を名作に変えることまではできないからである。
小説の中の悪と、作者の賛同は同じではない
炎上が文学と衝突しやすいもう一つの理由は、小説が本質的に曖昧な表現形式だからである。悪人を書くことは悪を勧めることではなく、差別的な人物を書くことも直ちに差別を支持することにはならない。不倫を描いたから不倫を勧めているわけでも、犯罪者の心理を細かく描いたから犯罪を肯定しているわけでもない。
小説はしばしば、作者の意見を直接述べず、矛盾した人物や不快な出来事を読者の前に置いて判断を委ねる。「この人物は善か悪か」と簡単には決められない状態そのものを作ることで、人間を単純な分類から救い出すことさえある。
ところが炎上は、その曖昧さと相性が悪い。「作者は賛成なのか反対なのか」「この作品は正しいのか間違っているのか」「この人物を描いた作者はどちら側なのか」という二択を求めるからである。文学が曖昧さを残すことで成立する表現だとすれば、炎上は曖昧さを消して即座に結論を求める社会現象であり、両者の摩擦は偶然ではない。
炎上を狙えば文学は強くなるのか
それなら出版社や作家は、あえて炎上を利用すればよいのだろうか。ここにも大きな罠がある。
炎上によって注目が集まり、売上が伸びることが繰り返されれば、刺激の強い表現を使うことに経済的な動機が生まれる可能性はある。複雑な人物を時間をかけて描くより、賛否が割れそうな設定を置く方が早く話題になり、微妙な倫理的葛藤を書くより、一部分だけ切り取られて拡散される言葉を入れた方が注目されると考える人が出てきても不思議ではない。
人間の行動は報酬によって強化されることがあり、SNSでも反応の多かった投稿形式が繰り返されやすくなる傾向が研究されている。ただし、そこから直ちに「出版社や作家が実際に炎上を狙って小説を書いている」と結論することはできない。科学的に言えるのは、炎上が経済的・社会的な報酬を生む場合、炎上を誘発する表現を選ぶ動機が生まれる可能性があるというところまでである。
そして仮にその傾向が強まれば、文学は読者を揺さぶるものから、読者を怒らせる仕掛けへ少しずつ近づいていく。両者は似ているようで違う。優れた文学が結果として読者を怒らせることと、怒らせることを目的に作品を作ることは同じではないからである。
「炎上して成功した作品」ばかりを見てはいないか
もう一つ、忘れてはならない統計上の罠がある。私たちの記憶に残るのは、炎上したあと大きく売れた作品であって、炎上したまま売れずに消えた作品ではない。
これは生存者バイアスと呼ばれる考え方に近い。成功して残った事例だけを観察すると、成功しなかった多数の事例が視界から消え、ある戦略の効果を実際以上に高く評価してしまうのである。「炎上したのに百万部売れた」という作品はニュースになるが、「炎上して三千部のまま終わった」という作品はほとんど記録されない。
そのため、目立つ成功例だけを集めれば「炎上は本を売る」という結論が簡単に作れてしまう。しかし実際には、炎上によって作品を知る人が増えても、同時に購入を拒む人も増えるため、どちらの力が勝つかは作品ごとに違う。成功した炎上だけを後から選べば、炎上は実際以上に万能な販売戦略に見えてしまうのである。
文学の成功を一つの数字で測れるのか
結局、この問題は「文学にとって成功とは何か」という問いへ戻ってくる。
出版社は販売部数を見る。書店は売れ行きを見る。作者は読者の反応を見る。研究者や評論家は作品の構造、文体、思想、同時代への影響を見る。読者は自分にとって面白かったか、何かが残ったかを見る。そして数十年後の社会は、その本がまだ読まれているかどうかを見る。同じ一冊でも、成功を測る物差しは一つではない。
一か月で十万部売れ、その後ほとんど読まれなくなった作品と、初版は少なくても二十年、三十年、五十年と新しい読者を獲得し続ける作品のどちらが成功なのかという問いには、単純な答えがない。商業的成功なら前者かもしれないが、文学的な生命の長さでは後者かもしれない。
炎上によって生まれた注目の多くは、時間とともに弱まっていく可能性が高い。社会の関心が別の問題へ移れば、当時は大騒ぎだった発言や一場面も、やがて話題に上らなくなる。そのとき作品は、炎上という追い風を失った状態で、もう一度読者の前に立たなければならない。
そこで初めて、その本に炎上とは別の力があったのかが試される。
炎が消えたあとに、何が残るのか
文学にとって炎上は、成功とも失敗とも一言では決められない。短期的には評価を傷つけながら売上を伸ばす場合があり、商業的には成功しても作品そのものへの理解を浅くする場合がある。逆に、激しい批判を受けたことで、それまで作品を知らなかった人が読み始め、結果として長く読み継がれる入口になることもある。
だから問題は、どれだけ大きく燃えたかではない。
怒って読む人がいてもよいし、擁護するために読む人がいてもよい。「そんなに問題なら自分で確かめよう」と初めてページを開く人がいてもよい。炎上が文学にもたらす数少ない確かな力は、本来ならその本を手に取らなかった人の注意を作品へ向けることにある。しかし、そこから先は炎上には決められない。作品名を覚えさせることはできても、最後まで読ませることはできず、本を買わせることはできても、読者の記憶に残すことまではできないからである。
読み終えたあと、騒動のことは忘れたのに一つの場面だけが頭から離れず、嫌いだった登場人物について何年も考え続け、自分なら絶対にしないと思っていた行為をほんの少し理解してしまい、別の人生の局面で突然その小説を思い出すことがある。そこまで来れば、その本はもう単なる「炎上した小説」ではない。
文学の成功とは、炎上の大きさではなく、炎が消えたあとにも、読者の中で何かが燃え続けていることなのかもしれない。

