リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 書店に入ると、棚にたどり着く前に、本のほうからこちらへ近づいてくる。入口の正面や通路沿いの平台には、表紙を上に向けた本が何冊も重ねられ、帯には「話題作」「累計○万部」「映像化決定」「いま最も読まれている」といった言葉が並んでいる。私たちはそれらを眺めながら、ほとんど無意識のうちに「この本は売れているのだろう」と判断するが、その一冊を手に取ったところで少し意地の悪い問いを立ててみると、書店という場所の見え方は急に変わってくる。

 その本は、本当に売れているから平積みされているのだろうか。それとも、平積みされているから売れているのだろうか。

 前者なら平積みは人気の「結果」であり、後者なら人気を生み出す「原因」である。ところが現実の書店では、この二つをきれいに分けることができない。売れているから良い場所へ移される本がある一方で、売れそうだと期待されて良い場所を与えられ、その結果として売上を伸ばす本もあるからである。そして売上が伸びれば、その本はさらに目立つ場所に置かれやすくなる。人気が陳列を呼び、陳列が人気を増やし、その人気が再び陳列を正当化するという円環が、書店の平台の上では静かに回っている。

 だから平積みとは、売れている本を映す鏡であると同時に、そこに映った人気を少し大きくして返す鏡でもある。

棚の本と平台の本は、本当に同じ商品なのか

 もちろん、本そのものは何も変わらない。棚に一冊だけ差してあっても、入口に二十冊積まれていても、文章も著者も価格も同じである。それなのに読者から見た商品の意味は、置かれる場所によってかなり変化する。

 背表紙しか見えない棚の本には、読者の側から近づかなければならない。著者名を知っている、題名を覚えている、その分野の棚を見るという目的がある、といった何らかの動機が必要になる。それに対して平積みの本は、こちらが探していなくても視界に入ってくる。表紙も題名も帯の言葉も一度に見え、その瞬間、それまで存在すら知らなかった一冊が突然「買うかもしれない本」の候補に入る。

 ここには、本を選ぶ行為を考えるうえで重要な問題が潜んでいる。私たちは何万冊もの本から自由に選んでいるように思っているが、実際には、一度も認識しなかった本を選ぶことはできない。巨大な書店に十万冊が並んでいたとしても、一人の客がその日に視界へ入れる本はごく一部であり、購買以前にまず「候補として認識される競争」が存在しているのである。

 小売店舗を対象にした研究でも、商品の位置や視認性が選択に影響することは繰り返し確認されてきた。目につきやすい場所へ移した商品では購買行動が変化することがあり、単に商品数を増やす以上に、「どこに置くか」が重要になる場合もある。本についても、図書館で棚の高さと本の利用状況を調べた研究では、利用者の目線に近い本ほど手に取られやすく、低い位置に置かれた本は利用されにくい傾向が確認されている。

 書店での購入と図書館での閲覧は同じ行動ではないため、その結果をそのまま販売数へ置き換えることはできない。それでも、人間が棚にあるすべての対象を均等な確率で認識しているわけではないという点については、かなり自然な説明ができる。

 そう考えると、平積みにされた本は単に目立っているのではない。数万冊のなかから、「少なくとも一度、この本について考えてみませんか」と店の空間によって指名された本なのである。

二十冊積まれていること自体が、ひとつの情報になる

 さらに平積みには、表紙が見えるという以上の効果がある。同じ本が十冊、二十冊と重なっている光景そのものが、読者に情報を与えるからである。

 一冊だけ棚に差してある本を見ても、それが売れている本なのか、たまたま一冊だけ残っているのか、あるいはほとんど動いていない本なのかは分からない。しかし平台に山ができていれば、少なくともその書店が一定の販売を見込んで仕入れていることは伝わってくる。その量が、「この本には何か理由があるらしい」という無言の合図になる。

 人間は、他人の行動から判断の手掛かりを得る。初めて入る飲食店で、誰も客がいない店より何人か客が入っている店に安心することがあるように、本を選ぶときにも「多くの人が読んでいるらしい」という情報は無視できない。ただし、ここで慎重にならなければならないのは、平積みの量そのものが必ずしも実際の人気を正確に表しているとは限らないことである。大量に積んであるのは、すでによく売れたからかもしれないし、出版社や書店がこれから売れると予測して大量に仕入れたからかもしれない。

 読者には、その違いはほとんど見えない。

 その曖昧さこそが、平積みのおもしろさでもある。現在の人気と未来への期待が、同じ本の山のなかに混ざっているのである。

書店は過去の売上ではなく、未来の売上も並べている

 書店が、過去の販売実績だけを見て本を並べているのだとすれば話は簡単である。しかし発売されたばかりの新刊には、そもそも十分な販売実績が存在しない。それでも発売日に何十冊も積まれる本はある。

 著名な作家の新作、文学賞候補として注目されそうな作品、映画やテレビドラマの原作、新聞やテレビで紹介された本、その店の客層なら動きそうだと書店員が判断した本など、平台には「すでに売れた本」だけでなく「これから売れると予想された本」も置かれている。

 ここで書店は、少し奇妙な立場に立つことになる。未来を予測しているだけなのに、その予測に基づいて陳列を変えることで、未来の売上そのものに影響を与えられるからである。

 天気予報で「明日は晴れる」と言ったからといって空が晴れるわけではない。しかし書店が「この本は売れそうだ」と判断して入口に置けば、少なくともその本が客の目に触れる機会は増える。目に触れる機会が増えれば、手に取る人も増える可能性があり、そのなかの一定割合が購入すれば、結果として販売数も増える可能性が高くなる。

 つまり書店の予測は、純粋な予測ではない。結果へ少しだけ働きかける予測なのである。

数字にすると、平積みの意味が見えてくる

 この仕組みは、非常に単純化すると数理的にも説明できる。

 ある本の販売数は、大まかには「その本を買う可能性のある客の数」「その本に気づく確率」「手に取る確率」「手に取ったあと購入する確率」の積み重ねとして考えることができる。

 仮に一日に千人が書店を訪れ、その本が通常の棚では客の二割にしか認識されず、そのうち一割が手に取り、手に取った人の二割が買うとする。この仮定なら、一日に売れる冊数の期待値は四冊程度になる。

 ところが入口の平台へ移したことで、その本に気づく人が二割から五割へ増えたとすれば、手に取る割合も購入する割合も変わらなくても、期待される販売数は十冊になる。ここで使った数字は説明のための仮定にすぎず、実際の書店の数値を示しているわけではないが、重要なのは、内容や価格を一切変えなくても「認識される確率」が変化するだけで期待売上が変わり得るという構造である。

 さらに書店が、今週よく売れた本を来週も目立つ場所へ残すと考えると、売上は次の陳列に影響し、その陳列が次の売上へ影響する。そこにランキング、口コミ、新聞紹介、映像化、読者による投稿などが加われば、販売数が露出を生み、露出がさらに販売数を生むという正のフィードバックが形成される。

 最初はほんの小さな差だったものが、何度も循環するうちに大きな差へ育つ可能性があるのである。

本当に「売れているから売れる」ということは起きるのか

 この現象に近いものは、文化商品の研究でも確認されている。

 音楽を使った大規模な実験では、参加者に無名の楽曲を選ばせ、一方の集団には他の人が何回その曲を選んだかという人気情報を見せ、もう一方には見せないという比較が行われた。その結果、人気情報が見える環境では、特定の曲へ人気が集中しやすくなり、最終的なヒットのばらつきも大きくなった。

 さらに興味深いのは、人気情報を意図的に操作して、本来はそれほど人気のない曲を上位に見せた実験である。すると一部では、その「見せかけの人気」が実際の選択を呼び、やがて本当に人気になる現象が観察された。ただし、どんな作品でも宣伝だけで成功させられるわけではなく、作品そのものの魅力が低ければ効果には限界がある。

 この結果は、本の平積みについて非常に重要な示唆を与える。

 「良い場所へ置けば、どんな本でもベストセラーになる」と考えるのは間違いである。しかし「同じ程度の魅力を持った本でも、最初の露出や人気情報の違いによって、その後の売れ方が変わる可能性がある」と考えるのは十分に合理的である。

 つまり作品の力と売り方は、どちらか一方だけが重要なのではない。作品の力が読者を引きつけ、露出が作品と読者を出会わせ、その結果として生まれた人気が次の読者を呼び込むのである。

ベストセラーランキングも、単なる成績表ではない

 平積みと同じようなことは、ベストセラーランキングにも起こる。

 本来、ランキングは過去の販売結果を集計した成績表である。しかし「今週よく売れた本」という情報を来週の客が見ると、ランキングは過去を記録するだけではなく、未来の購買行動にも影響する。

 書籍のベストセラーランキングについて因果関係を調べた研究でも、単に売れている本がランキング入りするというだけではなく、ランキングに掲載されること自体が、その後の売上を一定程度押し上げる効果が確認されている。とりわけ、それまで読者に広く知られていなかった作家では効果が大きく、すでに著名な作家では比較的小さい傾向が示されている。

 ここには非常に分かりやすい理由がある。誰もが知っている作家の新刊なら、ランキングを見なくても買う人は多い。しかし名前を知られていない作家にとって、「ベストセラーに入った」という情報は読者がその本を見る理由そのものになり得る。

 結果を示す数字が、次の結果を生み出すのである。

 この意味で、ベストセラーという言葉には不思議な二重性がある。それは「売れた本」という過去形であると同時に、「みんなが読んでいるのだから読んでみよう」という未来への誘惑でもある。

それでも「平積みにすれば売れる」と単純化してはいけない

 ここまで読むと、平積みされた本と売上には強い関係があるように見える。しかし、ここに統計の罠がある。

 仮に調査をして、平積みの本が平均百冊売れ、棚に差してある本が平均二十冊しか売れていなかったとしても、「平積みにすると売上が五倍になる」と結論づけることはできない。

 なぜなら、最初から売れる可能性の高い本ほど平積みに選ばれているからである。

 有名作家の新刊、映画化作品、受賞作、広告量の多い作品、発売前から予約の多かった作品と、ほとんど知られていない本を比べれば、もともとの販売力が違う。その差を無視して「平積みだから売れた」と考えると、原因と結果を取り違えることになる。

 この問題は、因果関係を考えるときに非常に重要である。

 売れたから平積みされたのか、平積みにされたから売れたのか。

 実際には、おそらく両方が起きている。

 研究で厳密に調べるなら、似た条件の本を無作為に平積みと通常棚へ振り分け、価格、在庫数、宣伝量、店舗、販売期間などをなるべく同じにして比較する必要がある。現実の書店でこのような実験を大規模に行うことは容易ではないため、平積みそのものの効果を一つの数字で示すことは難しい。

 したがって科学的に最も慎重な言い方をすれば、平積みは「売上を必ず増やす装置」ではなく、「本が認識される機会を増やし、条件によっては購入確率を押し上げる可能性のある装置」ということになる。

 文学的な響きは少し弱くなるが、現実はこちらのほうがおもしろい。書店には一方向の単純な因果関係ではなく、複数の原因が絡み合う世界が広がっているからである。

一冊の成功は、なぜ次の成功を呼ぶのか

 本が売れ始める過程を追っていくと、その複雑さはさらによく分かる。

 ある読者が一冊の本を買う。その本を別の人に薦める。書店員が売れ方に気づく。平台へ移される。表紙を見る人が増える。販売数が伸びる。ランキングに入る。ランキングに入ったという事実が記事になる。別の書店も目立つ場所へ置く。

 こうして、最初は小さかった動きが次の動きを呼び込み、やがて誰の目にも見える「ヒット」へ変わることがある。

 ここまで来ると、「本当に良い作品だったから売れた」という説明だけでは足りないことが分かる。しかし逆に、「宣伝がうまかったから売れただけ」と片づけるのも同じくらい雑である。

 作品に魅力がなければ、たとえ一度は目立つ場所へ置かれても、読者の評価が続かないことはある。一方で、どれほど優れた作品でも、存在を知られなければ読者と出会うことができない。

 作品の価値と露出の効果は敵同士ではない。むしろ、この二つが出会ったときに初めてヒットが生まれる可能性が高くなる。

平積みから消えたとき、本は価値を失ったのか

 書店で本を見ていると、昨日まで入口に二十冊積まれていた本が、数週間後には棚に一冊だけ差し込まれていることがある。その姿を見ると、作品の価値まで下がったような奇妙な錯覚を覚える。

 しかし本の中身は一文字も変わっていない。

 変わったのは、本の周囲にある環境である。

 新刊だった本が既刊になり、新しい新刊が入ってくる。社会的な話題だった本が日常へ戻り、ニュースだった作品が一冊の本へ戻る。平台から棚へ移された瞬間、その本は初めて「目立たせてもらわなくても見つけてもらえるか」という別の競争に入る。

 ここに出版の世界の残酷さと面白さがある。

 発売直後にはほとんど注目されなかった作品が、何年もたってから突然発見されることがある一方で、大ベストセラーだった本が数年後には店頭から消えていることもある。売上の速さと作品の寿命は、同じ時計では動いていない。

 文学にとって、このずれはむしろ重要なのかもしれない。

 その年に何十万冊売れた本が百年後にも読まれているとは限らず、発売時にはほとんど売れなかった本が後世の古典になることもある。市場は「いま何を読む人が多いか」を測ることはできても、「何が長く読むに値するか」を完全には決められない。

平台に並んでいるのは、本だけではない

 それでは最初の問いに戻ろう。

 書店の平積みは「売れている本」を並べているのか。それとも「売れる本」を作っているのか。

 答えは、どちらか一方ではない。

 売れているから積まれる本があり、売れそうだから積まれる本があり、積まれたことでさらに売れる本がある。そして、その売上が次の陳列を呼び、ランキングや口コミがその循環をさらに強くする。

 原因と結果は一本道ではなく、輪になってつながっている。

 しかも、その輪を回しているのは書店だけではない。出版社の営業も、書店員の判断も、新聞やテレビの記事も、読者の口コミも、そして昨日一冊の本を買った名も知らない誰かも、少しずつ次の日の平台を作っている。

 そう考えると、平台に積まれているのは本だけではない。

 出版社の期待があり、書店の予測があり、読者の選択があり、その時代の関心がある。

 書店の入口に積まれた二十冊の本は、単なる在庫の山ではなく、「いま、この本が読まれるかもしれない」という多くの人間の予測が、一時的に形になったものなのである。

私たちは本を選んでいるのか、それとも選ばれた本から選んでいるのか

 私たちは書店で本を選ぶとき、自分の意思で選んでいると思っている。それは間違いではない。しかし、その自由は何もない空間で働いているわけではない。

 入口には入口に置かれた本があり、目線の高さには目線の高さへ置かれた本があり、ランキングにはランキング入りした本がある。私たちは、その環境のなかで選択している。

 だからといって、読者が書店に操られているという話でもない。

 平台の本を手に取ってもいいし、無視して棚の奥へ進んでもいい。ベストセラーを読むこともできれば、誰も話題にしていない一冊を見つけることもできる。重要なのは、自分の選択の前に、すでに誰かの選択が存在していると知ることなのだろう。

 次に書店へ行ったとき、入口に積まれた本を見ながら、ほんの一瞬だけ考えてみてもいい。

 「私はこの本を選んだのだろうか。それとも、この本が私の目に入るところまで、誰かが先に選んでいたのだろうか。」

 そして、おそらく答えはその両方である。

 書店とは、本を売る場所であると同時に、出版社、書店員、読者、メディア、そして偶然が互いに働きかけながら、「一冊の本と一人の人間が出会う確率」を絶えず変化させている場所なのだ。

 平積みは、売上を測る温度計でありながら、その温度をわずかに変えてしまう暖房器具でもある。そのことに気づいたとき、いつも見慣れた書店の平台は、単なる商品の山ではなく、人気が生まれ、増幅され、ときには消えていく瞬間を目の前で見せてくれる、小さな文化市場の実験場に見えてくるのである。

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