田中康夫の『なんとなく、クリスタル』という題名を聞くと、1980年代のブランド文化を思い浮かべる人は多いだろう。
高価な洋服、洒落たレストラン、輸入車、洋楽、東京の街。若者たちが、何を着て、どこで食事をし、どんな音楽を聴くのかによって、自分自身を表現し始めた時代である。
しかし、この小説を単なる「1980年代の流行を並べた作品」と考えると、その重要な部分を見落としてしまう。
『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、ブランドそのものではない。
それまでとは違う「豊かさの中で生きる人間」の姿だった。
バブル経済より前に現れた新しい若者
『なんとなく、クリスタル』は1980年に第17回文藝賞を受賞した田中康夫のデビュー作である。当時、田中康夫は一橋大学の学生だった。作品は大きな反響を呼び、のちに発行部数100万部に達した。
重要なのは、この作品が書かれた1980年という時期である。
日本で一般に「バブル経済」と呼ばれる時代が本格化するのは、もう少し後になる。つまり『なんとなく、クリスタル』は、バブル時代を後から振り返って描いた作品ではない。
日本社会がこれから一段と消費社会へ向かっていこうとしていた、その入口に立って書かれた小説だった。河出書房新社も新装版を「日本がバブル経済に沸く直前の東京」を描いた作品として紹介している。
主人公の由利は、東京で暮らす女子大生であり、モデルでもある。
彼女の生活には大きな事件が起こるわけではない。恋愛をし、友人と会い、食事をし、音楽を聴き、服を選び、東京の街を移動する。
従来の小説から見れば、「何も起きない」とさえ言える生活である。
ところが田中康夫は、その何気ない日常そのものを小説の中心に置いた。
そこに、この作品の新しさがあった。
「何を考えるか」より「何を選ぶか」
それ以前の若者を描いた文学では、思想や政治、社会との対立、家族との葛藤、貧困、恋愛などが物語を動かす大きな要素になっていた。
ところが『なんとなく、クリスタル』の世界では、人間を形づくるものが少し違っている。
どのブランドを選ぶのか。
どの店へ行くのか。
どんな音楽を聴くのか。
どの街に住むのか。
つまり「何を考えている人間なのか」だけではなく、「何を選んでいる人間なのか」によって、その人の輪郭が作られていく。
これは1980年代以降の日本社会を考えるうえで、非常に象徴的な変化だった。
大量生産された同じ商品を多くの人が所有することが豊かさだった時代から、自分の感覚に合った商品や店や音楽を選び、それによって他人との差異を示す時代へ移ろうとしていたのである。
だから、この小説に登場する商品名や店名は単なる背景ではない。
それ自体が登場人物を説明する言葉になっている。
膨大な「註」は何のためにあったのか
『なんとなく、クリスタル』を特徴づけているものとして、本文以上に有名なのが膨大な註である。
作品には実在するブランド、レストラン、学校、地名、音楽などが次々と登場し、それらに442もの註が付けられている。
普通の小説なら、
「彼女は高級な服を着ていた」
と書けばよいところを、この作品では具体的なブランド名が出てくる。
しかし、そのブランドを知らない読者には、そこに込められた意味が分からない。
だから註が必要になる。
言い換えれば、この作品では商品や店についての「知識」そのものが、一種の文化的な暗号になっている。
知っている人には説明しなくても分かる。
知らない人には註釈が必要になる。
そして、その「知っている/知らない」という境界そのものが、当時の都市文化の一部分だった。
この構造は現在にも通じる。
今日なら、どのスマートフォンを使い、どのSNS(インターネット上で人間関係や情報を共有するサービス)を使い、どのカフェへ行き、どの動画配信サービスを見ているのかによって、ある程度その人の生活や価値観を想像できる。
『なんとなく、クリスタル』は、そのような社会が日本に現れ始めた瞬間を記録した作品でもあった。
「クリスタル」とは何だったのか
では、題名にある「クリスタル」とは何なのだろう。
もちろん、何か特定の商品を意味しているわけではない。
むしろ重要なのは「なんとなく」という言葉である。
絶対的な思想や信念によって行動するのではなく、「なんとなく気分がいい」「なんとなくこちらの方が好き」という感覚によって物や生活を選んでいく。
朝日新聞の田中康夫への取材記事でも、この作品は「なんとなく気分がいい」ことを買い物や行動の尺度にする若者の生き方を描いた作品として整理されている。
それまでの日本では、何かを選ぶときに「役に立つ」「長持ちする」「安い」といった実用的な価値が重視されてきた。
ところが経済的な豊かさが広がるにつれて、「自分の感覚に合う」「雰囲気がいい」「格好いい」といった価値が重要になっていく。
クリスタルとは、その新しい感覚を象徴する言葉だったと考えると分かりやすい。
実は「豊かな日本」を礼賛した小説ではない
この作品は、しばしばブランド志向の若者を描いた小説として語られる。
しかし、田中康夫がその生活を全面的に肯定していると読むのも少し違う。
作品を読んでいると、華やかな都市生活に対する奇妙な距離感がある。
ブランドを詳しく紹介しながら、そのブランドを選ぶ人間を観察している。
流行を知り尽くしているようでありながら、その流行そのものを少し離れた場所から眺めてもいる。
そのため、『なんとなく、クリスタル』は消費文化の内側から書かれた小説であると同時に、消費文化を観察した小説でもある。
ここが、この作品を単なる風俗小説にしなかった重要な部分だろう。
最後に突然現れる「人口」の話
そして『なんとなく、クリスタル』を現在から読み返したとき、最も興味深いのが作品の終わり方である。
華やかな東京の若者たちを描いた物語の最後に、突然、人口問題に関する公的資料が登場する。
そこでは、出生力の低下や高齢化に関する将来予測が示されている。作品末尾に人口問題審議会の報告や当時の厚生白書から人口動向を示す資料が置かれていたことは、後年の解説でも確認できる。
なぜ、ブランドと恋愛と音楽に囲まれた若者の物語の最後に、人口統計が出てくるのか。
ここに、この作品のもう一つの顔がある。
1980年の日本は、まだ「これからもっと豊かになる国」に見えていた。
しかし、その同じ時代に、出生率の低下と高齢化はすでに始まっていた。
目の前には新しい服があり、新しいレストランがあり、新しい音楽があり、消費社会は華やかになっていく。
その一方で、長期的に見れば日本社会の人口構造は静かに変化し始めている。
この二つを同じ作品の中に置いたことが重要なのである。
『なんとなく、クリスタル』が本当に描いたもの
そう考えると、この作品が描いたものは「1980年代のブランド生活」だけではない。
より正確に言えば、
日本人が「生きるために物を買う社会」から、「自分らしくあるために物を選ぶ社会」へ移っていく瞬間
だったのではないだろうか。
高度経済成長を経て、若者たちは親の世代より豊かになった。
海外の商品や音楽に触れ、自分の趣味で生活を組み立てることができるようになった。
自由になったのである。
しかし、その自由を何に使うのかという問いには、必ずしも明確な答えがない。
だから「なんとなく」なのである。
この言葉には、豊かさと同時に、どこか頼りなさも含まれている。
40年以上たった今だから分かること
1980年から40年以上が過ぎた現在、この小説に登場する店や商品を知らない読者も増えた。
その意味では、『なんとなく、クリスタル』は確かに時代を映した作品である。
しかし不思議なことに、その基本構造はそれほど古びていない。
ブランドが別のものに置き換わっただけで、私たちは今も「何を選ぶか」によって自分自身を表現しているからである。
服だけではない。
スマートフォン、クルマ、旅行先、食事、音楽、動画、SNS。
私たちは無数の選択を通じて、「自分はこういう人間である」という像を作っている。
その意味では、現在の私たちもまた、形を変えた「クリスタル」の時代を生きているのかもしれない。
ただし、1980年と現在には大きな違いがある。
当時の若者たちの背後には、「明日は今日より豊かになる」という日本社会全体の空気があった。
現在の私たちは、人口減少、高齢化、社会保障、地方の衰退といった問題が現実になった社会に生きている。
『なんとなく、クリスタル』の最後に置かれていた人口の話は、もはや未来予測ではない。
私たちが現在暮らしている社会そのものになった。
だからこそ、この小説は懐かしいだけでは終わらない。
『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、1980年の若者たちの華やかな生活であると同時に、豊かさの頂上へ向かって歩きながら、その先にある黄昏にはまだ気づいていなかった日本社会の姿だったのである。

