向田邦子の文章を読んでいると、ときどき不思議な気持ちになる。
そこに書かれているものは、決して特別なものではない。食卓があり、父親がいて、母親がいて、姉妹がいる。台所から匂いがして、誰かが機嫌を損ね、誰かが黙り込み、また何事もなかったように夕飯が始まる。
世界を揺るがすような事件が起きるわけではない。
それなのに、何十年も前に書かれた文章の一節が、妙に鮮やかにこちらへ届いてくる。
古い写真を見ているのとは少し違う。写真なら、そこに写っている髪型や服装や家具を見て、「昔だな」と思う。しかし向田邦子の文章を読んでいると、昔を見ているはずなのに、いつの間にか自分の家のことを考えている。
父親の咳払い。
母親の台所仕事。
食卓で交わされる、どうでもいいような会話。
子供のころには気づかなかった、大人たちの小さな嘘。
そういうものが、文章の向こう側から静かに立ち上がってくる。
向田邦子の文章が今も美しい理由は、昭和を書いたからではない。
昭和という時代を借りながら、その奥にある、人間が家族と暮らすときの「どうにも説明できない感情」を書いたからなのだと思う。
美しい文章なのに、美しく見せようとしない
文章の美しさというと、私たちはつい華麗な比喩や、難しい言葉や、長く流れるような文体を想像する。
しかし向田邦子の文章は、そういう美しさとは少し違う。
むしろ、言葉は驚くほど普通である。
普通の言葉を普通に並べているように見える。
ところが読み終えると、一枚の絵が残っている。
それも、輪郭のはっきりした絵ではない。
夕方の台所の明かりであったり、食卓の上に置かれた皿であったり、黙って新聞を読んでいる父親の横顔であったりする。
向田邦子は、読者に「ここで感動してください」と言わない。
悲しい場面でも、悲しいと大声で言わない。
寂しい人間が出てきても、「この人は寂しい人なのです」と説明しない。
その代わり、ちょっとした仕草を書く。
返事の間を書く。
食べものを書く。
着ているものを書く。
人間というものは、本当に悲しいときほど「私は悲しい」とは言わない。
むしろ味噌汁をすすったり、窓を閉めたり、テレビをつけたりする。
向田邦子は、そのことをよく知っていた。
だから文章が芝居がからない。
読者が感動するための場所を、作者が先回りして埋めてしまわないのである。
文章の中に、少しだけ空白が残されている。
その空白に、読者自身の記憶が入り込む。
そこに、向田邦子の文章の強さがある。
食べものを書けば、人間が見えてくる
向田邦子の文章には、食べものがよく似合う。
豪華な料理である必要はない。
むしろ、家庭の中にあるごく普通の食べもののほうがいい。
汁物、煮物、漬物、御飯。
そうしたものを書いているだけなのに、家族の姿が見えてくる。
考えてみれば、家族ほど不思議な集団はない。
会社なら嫌いな人とは距離を置ける。友人なら付き合わなくなることもできる。しかし家族は、腹を立てながら同じ鍋をつつき、口をきかなくても翌朝には同じ味噌汁を飲んでいたりする。
そこには愛情もある。
しかし愛情だけではない。
鬱陶しさもある。
嫉妬もある。
諦めもある。
それでも同じ卓袱台を囲んでいる。
向田邦子の描く食卓が美しいのは、家庭を理想化していないからだ。
仲のよい家族という、きれいな額縁には入れない。
父親には父親の勝手があり、母親には母親の我慢があり、子供には子供の反抗がある。
誰も完全には善人ではない。
それでも夕飯になると、みんなが集まってくる。
人間は理屈で家族をしているわけではない。
この当たり前だが説明しにくい事実を、向田邦子は料理の湯気の向こうから見せてくる。
昭和の父親を、単純な悪役にしなかった
向田邦子の世界には、昭和の父親がいる。
今の感覚で見れば、かなり横暴な父親もいる。
家では威張り、妻や子供に厳しく、自分の都合を押し通す。今日なら到底そのまま肯定されないような人物も少なくない。
しかし向田邦子は、そういう父親を単純な悪役にしなかった。
そこが重要である。
人間は、悪いところだけを切り取れば悪人になる。
よいところだけを集めれば聖人になる。
しかし現実の人間はそんなふうにはできていない。
腹を立てるほど嫌なところがあるのに、死んでしまえば思い出す。
怖かった父親の背中に、ある日突然、小ささを感じる。
子供のころには絶対者に見えた人が、こちらが大人になって振り返ると、実は一人の不器用な男にすぎなかったことに気づく。
向田邦子は、その距離を書く。
子供から見た父。
大人になって思い出す父。
生きている父。
記憶の中の父。
同じ人物なのに、見る場所によって姿が変わる。
人を理解するということは、相手の性格を分析することではなく、その人を見る自分自身もまた変わっていくことなのだと、彼女の文章は教えてくれる。
だから向田邦子の家族像は古びない。
父権的な家族制度そのものは変わっても、「親を完全には理解できない子供」と「子供には理解されない親」という関係は、今もほとんど変わっていないからである。
記憶には、いつも少し嘘がある
子供のころの家を思い出してみる。
不思議なことに、間取りの全部は思い出せないのに、どうでもよいものだけが残っている。
柱についた傷。
食器棚の取っ手。
雨の日の玄関の匂い。
誰かが着ていたセーター。
夕食前に流れていたテレビの音。
人間の記憶とは、歴史年表のようにはできていない。
重要な出来事から順番に残っているわけではない。
むしろ、何の意味があるのか分からない断片ばかりが残る。
向田邦子の文章は、この記憶の仕組みによく似ている。
だから読んでいると、読者の中に眠っていた記憶まで引き出される。
「ああ、こういうことがあった」
と思う。
しかし実際には、向田邦子と同じ経験をしたわけではない。
時代も家も家族も違う。
それでも懐かしい。
文学の不思議はここにある。
優れた文章は、作者の記憶を書いているはずなのに、いつの間にか読者自身の記憶へ変わってしまう。
向田邦子は、その変換が驚くほどうまい。
人間のおかしさを知っている文章
向田邦子の文章には、悲しさと一緒に、どこかおかしさがある。
ここも大きな魅力だと思う。
人間は、悲劇の中でも妙なことをする。
深刻な場面なのに腹が減る。
喧嘩をしている最中に、鍋が吹きこぼれる。
泣いていた人が、突然くしゃみをする。
葬式の日にも誰かが靴を間違える。
現実の人生とは、本来そういうものなのだろう。
悲しい日だから一日中悲しい音楽が流れるわけではない。
深刻な出来事の横に、くだらない出来事が普通に置いてある。
向田邦子は、この人生の「調子の外れ方」をよく知っている。
そのため文章が湿っぽくならない。
哀しい話を書いていても、どこか乾いている。
乾いているからこそ、かえって哀しさが残る。
読者を泣かせようとする文章より、泣かせようとしない文章のほうが、人を泣かせることがある。
向田邦子の文章には、その逆説がある。
説明しすぎないから、時代を越える
現代の文章は、説明が多い。
何が問題なのか。
誰が悪いのか。
なぜそうなったのか。
どう考えるべきなのか。
情報を伝える文章なら、それは必要である。
しかし文学では、説明するほど消えてしまうものもある。
たとえば、ある夫婦の間に流れている微妙な空気を、「二人の関係は冷え切っていた」と書けば、一行で説明できる。
けれども向田邦子なら、おそらく別のものを書く。
茶碗の置き方かもしれない。
呼び方かもしれない。
夫が帰ってきたときの妻の返事かもしれない。
人間関係というものは、説明ではなく、そうした細部に現れるからだ。
文章が美しいというのは、飾られていることではない。
必要以上に言わないことで、見えないものまで見えるようにすることなのだろう。
向田邦子の文章には、その節度がある。
読者を信用している文章、と言ってもいい。
全部説明しなくても、読者は分かる。
全部言わなくても、読者には届く。
その信頼が文章を軽くし、同時に深くしている。
昭和を書いたのではなく、「失われていくもの」を書いた
向田邦子を読むと、昭和という時代への郷愁を感じる人は多いだろう。
しかし彼女の文章を単なる昭和懐古として読むと、大切なものを取り逃がす気がする。
向田邦子が書いたのは、昭和そのものではない。
失われていくものではなかったか。
家族の形。
食卓。
父親。
母親。
若かった自分。
子供だった自分。
誰かと過ごした時間。
そのときには何とも思わなかったものが、失ってから初めて意味を持つ。
これは昭和だけの話ではない。
令和を生きる私たちも、今この瞬間、何かを失いつつある。
家族と食べている夕飯も、毎日見ている部屋も、電話をかければ声を聞ける人も、永遠には続かない。
だが私たちは、続いている間はその価値に気づかない。
向田邦子の文章を読んでいると、その当たり前のことを、不意に思い知らされる。
だから懐かしいのだ。
昔が懐かしいのではない。
失ってしまったものを持っていた自分が懐かしいのである。
美しい文章とは、記憶に残る文章なのかもしれない
向田邦子の文章を読み終えたあと、難しい言葉はほとんど残らない。
思想を一文で説明しろと言われても、案外困る。
しかし、景色が残る。
人が残る。
匂いが残る。
食卓の音が残る。
そして数日後、スーパーで昔ながらの惣菜を見かけたり、古い食器を手に取ったりしたとき、突然その文章を思い出す。
これこそ文章の強さなのだと思う。
読んでいる間だけ感心させる文章はたくさんある。
しかし本当に美しい文章は、本を閉じたあとから始まる。
日常のどこかに潜み込み、何でもない瞬間にふっと戻ってくる。
向田邦子の文章は、そういう文章である。
彼女が書いた昭和の家は、もうほとんど残っていない。
卓袱台を囲む家族も減った。
父親の権威も変わった。
食生活も変わった。
電話もテレビも、家族の会話の仕方さえ変わった。
それでも、人は家族に腹を立てる。
言わなくていいことを言い、言うべきことを言わない。
愛している人に素直になれず、いなくなってから思い出す。
その部分だけは、あまり変わらない。
だから向田邦子は古くならない。
彼女が書いていたのは、昭和の茶の間ではなく、その茶の間に座っていた人間だったからである。
そして人間というものは、時代が変わっても、驚くほど同じところで笑い、同じところで腹を立て、同じように後悔する。
向田邦子の文章の美しさとは、結局そこにあるのではないだろうか。
大げさな人生を書かずに、人生そのものを書いてしまう。
特別な言葉を使わずに、忘れられない文章を残してしまう。
そうして私たちは、何十年も前の昭和の食卓を読みながら、いつの間にか自分自身の家族を思い出しているのである。

