リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

本屋に入ると、ときどき一冊の本だけが妙に明るく見えることがある。平積みされた本の帯には、「○○賞受賞」と大きな文字が印刷されている。その文字は、まだその作家を知らない読者に向かって、「これは読む価値のある本です」と静かに保証しているようにも見える。

文学賞には不思議な力がある。

無名だった作家の名前が一夜にして新聞やテレビに現れ、それまで数千人しか知らなかった作品を、何十万人もの人が手に取ることがある。昨日まで書店の棚の一角に置かれていた本が、翌日には入口近くの台を占領する。文学という、本来ならばひどく個人的で静かな営みが、賞の発表された瞬間だけ社会的な事件になる。

しかし、そこで一つ疑問が生まれる。

その本は、十年後にも読まれているのだろうか。五十年後にも書店に並んでいるのだろうか。

文学賞を取ることと、文学として残ることは、本当に同じなのだろうか。

賞を取った瞬間と、本が生き残る時間

文学賞について考えるとき、私たちはつい「受賞作=優れた作品」と一本の線で結びたくなる。もちろん、選考委員が読み、議論し、一定の評価を与えた作品なのだから、受賞にはそれなりの意味がある。

だが、ここには時間の問題がある。

文学賞が選んでいるのは、基本的には「いま」の作品である。その時代の言葉、その時代の問題意識、その時代の文学観の中で、どの作品に新しさがあるのか、どの作家に可能性があるのかを判断する。

たとえば芥川龍之介賞は、そもそも完成された大家を顕彰する賞というより、新しい文学を担う新人を見いだす性格を持つ。日本文学振興会も、芥川龍之介賞について「日本文学に新風を送る作品を著した有為の新人」を選ぶ賞として位置づけている。

ここが重要である。

文学賞は未来から作品を眺めることができない。

選考委員にも、ある作品が五十年後に高校の教科書へ載るのか、文庫として読み継がれるのか、あるいは古書店でしか見つからない本になるのかは分からない。賞が判断できるのは、その作品が発表された時点で持っている価値までである。

ところが、読者はそこから先を生きる。

そして文学の本当の選考は、受賞式が終わってから始まる。

文学史には、受賞者より有名になった「落選者」もいる

文学賞の歴史を振り返ると、少し奇妙なことに気づく。

過去の受賞者一覧を眺めていると、現代の一般読者にはほとんど知られていない作家や作品が少なからず並んでいる。第1回芥川龍之介賞は1935年、石川達三の『蒼氓』に与えられた。その後も多くの作家が受賞してきたが、すべての作品が現在まで同じように読まれているわけではない。公式の歴代一覧を見れば、それだけでも文学賞と文学的寿命が別物であることが分かる。

それは賞の失敗というより、むしろ当然のことである。

文学史そのものが、賞の選考よりはるかに長い時間をかけて行われる巨大な選考だからだ。

ある作品は受賞した年には鮮烈に新しく見える。しかし、その「新しさ」が時代に依存していた場合、社会が変われば輝きも弱くなる。一方、その年には目立たなかった作品が、人間の孤独や愛情、死、嫉妬、貧困、家族といった時代を越える問題を抱えていたために、何十年も後になって読み返されることもある。

文学というものは、発表された瞬間の順位表だけでは決まらないのである。

競馬ならばゴール板を通過した瞬間に着順が決まる。

文学には、そのゴール板がない。

十年後に順位が変わり、三十年後にも変わり、作者が亡くなった後にさらに変わる。生前には評価されなかった作家が後世に巨大な存在となることさえあるのだから、文学史という競技は、参加者自身がいなくなっても続いていることになる。

賞には「読まれるきっかけ」を作る力がある

だからといって、文学賞に意味がないわけではない。

むしろ文学賞の最大の力は、作品を永遠に残すことではなく、作品と読者が出会う確率を劇的に高めるところにある。

国立国会図書館が紹介している日本のベストセラー史を見ると、この作用がよく分かる。石原慎太郎の『太陽の季節』、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、綿矢りさの『蹴りたい背中』などは、芥川龍之介賞受賞を契機として社会的な注目を集め、大きな販売部数につながった代表的な例である。『限りなく透明に近いブルー』は1976年末までに130万部、『蹴りたい背中』も130万部を超えたとされる。

ここには文学賞のもう一つの顔が見えてくる。

賞は評価制度であると同時に、巨大な読書案内でもある。

実際、芥川龍之介賞と直木三十五賞を創設した菊池寛自身、賞に宣伝的な性格があることを早くから認めていた。

考えてみれば当然でもある。

世の中には毎年、数え切れないほどの小説が出版される。読者はそのすべてを読むことなどできない。本屋で一冊を選ぶためには、何らかの手掛かりが必要になる。好きな作家の名前、書店員の推薦、新聞の書評、友人の口コミ、表紙の美しさ。そしてその中でも、「文学賞受賞」という表示は非常に強い情報になる。

したがって賞とは、作品の価値を最終決定する判決ではない。

むしろ、「この作品を一度読んでみませんか」と大量の読者に差し出す招待状なのである。

売れた本と、残る本もまた違う

さらに話を複雑にするのが、ベストセラーとロングセラーの違いである。

ある年に百万人が読んだ本が、そのまま百年後まで残るとは限らない。反対に、刊行当初には爆発的に売れなかった本が、世代から世代へ細く長く読み継がれることもある。

本には「高さ」と「長さ」がある、と考えると分かりやすい。

発売直後に一気に売れる本は、グラフにすれば高い山を描くだろう。しかし、その山が急激に下がれば、累積された読書の時間は意外に短い。一方、一年あたりの読者数はそれほど多くなくても、五十年、百年と読み継がれる本は、低いながらも長い線を描く。

文学史に残るのは、必ずしも最も高い山ではない。

長い線を描いた作品なのである。

国立国会図書館が戦後出版史を紹介する中でも、文庫や文学全集が作品を継続的に読者へ届ける重要な仕組みになってきたことが分かる。 一度話題になっただけでは本は残らない。文庫に入り、全集に収録され、書店に置かれ、図書館に入り、誰かが誰かに薦める。その繰り返しによって、作品は世代を越えていく。

文学賞はその長い旅の出発駅にはなれる。

しかし、終着駅を決めることまではできない。

時代の問題を書いた作品ほど、時代とともに苦しくなることもある

受賞当時にはきわめて鮮烈だった作品が、その後あまり読まれなくなる理由の一つは、「時代との結びつき」が強すぎる場合である。

これは少し皮肉である。

文学賞ではしばしば、その時代を鋭く捉えた作品が評価される。新しい若者像、新しい家族像、新しい社会問題、新しい性意識、新しい言語感覚。それらを最も早く文学に取り込んだ作品は、発表時には強烈な印象を与える。

だが、「新しい」という言葉ほど早く古くなるものもない。

新しかった風俗は普通の風俗となり、衝撃的だった言葉は誰も驚かない言葉になる。社会制度が変われば、作品の前提そのものが説明なしには分からなくなることさえある。

それでも残る作品は、その時代固有の出来事の奥に、人間そのものを描いている。

舞台になった社会が消えても、その人物が感じる羞恥や嫉妬や孤独だけは消えない。服装も街並みも制度も古くなったのに、登場人物の心だけが妙に現在の自分に似ている。

読者がそこで時間を越える。

古典とは、おそらく「古い本」のことではない。

何度時代が変わっても、新しい読者の現在形に入り込んでくる本のことである。

作品を残す最後の審査員は、名前のない読者たちである

文学賞には選考委員がいる。

しかし文学史には、正式な選考委員会がない。

そこにいるのは、何百万人という名前のない読者である。

ある人は高校生のときに一冊を読み、二十年後に子どもへ薦める。ある教師は授業で取り上げ、ある評論家は論文を書き、ある出版社は文庫を再刊する。図書館員が棚から除籍せず、古書店主が本を捨てず、誰かがSNS(Social Networking Service・インターネット上で人々が交流するサービス)で突然話題にする。

そうした無数の小さな判断が積み重なって、一冊の本の寿命が決まっていく。

ここには文学賞とはまったく違う選考原理がある。

文学賞の選考は数人で行われ、数時間あるいは数日の議論によって結論が出る。しかし読者による選考には百年かかることがある。

しかも投票用紙はない。

読むという行為そのものが一票なのである。

読み終えて誰かに薦めれば、もう一票増える。新しい版が出版されれば、作品は次の選挙に立候補する。そして誰にも読まれなくなったとき、その作品は静かに文学史の表舞台から退いていく。

だから、文学作品にとって本当に厳しい審査は、賞の選考会ではないのかもしれない。

受賞後の長い時間なのである。

文学賞は「正解」ではなく、その時代から届いた手紙である

では、文学賞受賞作を私たちはどう読めばよいのだろう。

「賞を取ったのだから名作に違いない」と読む必要はない。また、「受賞作など権威が決めたものだから信用できない」と反発する必要もない。

もっと面白い読み方がある。

なぜ、この作品はこの時代に選ばれたのだろう、と考えて読むのである。

すると文学賞は、一冊の作品だけではなく、その背後にある時代まで見せてくれる。

何を新しいと感じたのか。何に社会が驚いたのか。どのような文章が文学的だと考えられていたのか。何を人間の重要な問題としていたのか。

そう考えると、現在ほとんど読まれていない受賞作にも意味が生まれる。

後世まで残らなかったから価値がなかったのではない。その作品は、その時代の文学が何を見ていたかを記録している。

文学賞の受賞作一覧とは、名作ランキングではない。

文学が時代ごとに残してきた足跡なのである。

百年後に残る一冊を、私たちはまだ知らない

今年の文学賞受賞作の中に、百年後にも読まれている作品があるかもしれない。

ないかもしれない。

それを現在の私たちは知ることができない。

いま書店の中央に山積みされている一冊より、棚の隅に一冊だけ差し込まれている小説のほうが、百年後には有名になっている可能性さえある。

文学にはその逆転がある。

だから面白い。

文学賞は一晩で作家の運命を変えることができる。しかし、一冊の本の寿命を決めることはできない。

賞が与えるのは「選ばれた」という事実であり、「残る」という保証ではない。

作品を残すのは、結局のところ時間と読者である。

何十年という歳月の中で社会が変わり、価値観が変わり、言葉が変わっても、それでも誰かが本を開く。その人物に笑い、その孤独に胸を締めつけられ、自分が生まれる前に書かれた一行の中に自分自身を見つける。

その瞬間、文学賞の肩書はもう必要ない。

表紙の帯がなくなっても、作者が亡くなっても、受賞した年を誰も覚えていなくても、その物語だけが読者の前でもう一度生き始める。

おそらく、それが文学作品にとって最も長く、最も厳しく、そして最も公平な「賞」なのだろう。

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