リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

はじめに――なぜ寺山修司と野坂昭如を比較するのか

寺山修司と野坂昭如。

二人は、ともに昭和を代表する作家でありながら、「小説家」や「詩人」という一つの肩書だけでは捉えきれない人物である。

寺山修司は、短歌、詩、戯曲、小説、評論、作詞、映画、写真、ラジオ、競馬評論など、複数の領域を横断した。三沢市寺山修司記念館も、寺山を詩人、歌人、劇作家、小説家、評論家、作詞家、映画監督、写真家など、多数の顔を持った表現者として紹介している。([Terayama World][1])

野坂昭如もまた、小説だけを書いていた人物ではない。放送作家、作詞家、歌手、テレビ出演者、政治家として活動し、文学、大衆芸能、社会批評、政治的発言の間を行き来した。兵庫県立美術館のネットミュージアム兵庫文学館は、野坂を「小説家、タレント」と位置づけ、『エロ事師たち』『アメリカひじき・火垂るの墓』『戦争童話集』などを代表作として挙げている。([兵庫県立美術館][2])

二人には、明確な師弟関係や、文学上の共同運動があったわけではない。

そのため、本稿は二人の直接的な交流を検証する記事ではない。

比較するのは、二人がともに戦争と戦後を経験し、既成の文学の枠だけでは表現しきれない何かを抱え、自分自身の姿、声、行動、私生活に近い記憶までも表現の一部にしたという点である。

寺山修司は、現実を虚構へ作り替えた。

野坂昭如は、現実の醜さを戯作と挑発によって露出させた。

二人は似ているようで、その表現が向かう方向は異なっている。

なぜ二人には、文学作品を書くだけでは足りなかったのか。

その問いから、戦後日本における作家の役割を考えてみたい。


1.戦争と離別から始まった二人の原風景

寺山修司と野坂昭如を結びつける第一の要素は、戦争によって揺さぶられた少年期である。

寺山修司は1935年、青森県弘前市に生まれた。寺山修司記念館の年表によれば、1945年、9歳のときに青森市大空襲で焼け出され、その後、三沢駅前で食堂を営む父方の伯父のもとに身を寄せている。さらに1949年には、青森市で映画館を経営していた母方の叔父夫婦の家に引き取られた。([Terayama World][3])

寺山の少年期には、戦争、父の不在、母との距離、親族間の移動、映画館という虚構の空間が重なっていた。

ただし、寺山の作品を、そのまま事実に基づく自伝として読むことには注意が必要である。

寺山は自らの出生、母、故郷、少年時代を、事実どおりに記録するのではなく、何度も語り直し、虚構と混ぜ合わせた。

寺山にとって過去とは、保存しておく固定的な記録ではなかった。

過去は、書き換えることのできる舞台装置であった。

一方、野坂昭如の戦争体験は、より直接的に飢餓と死の記憶へ結びついている。

野坂の代表作『火垂るの墓』は、神戸大空襲後の兄妹の生活と死を描いた作品である。新潮社は同作を、浮浪児となった兄妹が餓死へ向かう姿を描いた作品として紹介している。『アメリカひじき』と『火垂るの墓』は、ともに野坂の作家的原点を示す作品と位置づけられている。([新潮社][4])

寺山も野坂も、戦争によって少年期の生活基盤を崩された。

しかし、その記憶の扱い方は異なる。

寺山は、記憶を事実から切り離し、神話や演劇へ変えていった。

野坂は、飢え、死体、焼け跡、占領、闇市という、身体的で生々しい記憶を繰り返し書いた。

寺山にとって戦後とは、失われた故郷を想像力によって再構成する時代だった。

野坂にとって戦後とは、生き残った者が、死者に対する後ろめたさを抱えながら生き続ける時代だったと考えられる。


2.寺山修司――現実を虚構へ変えた人

寺山修司の表現を理解するうえで重要なのは、彼が現実から離れて夢の世界へ逃げた人物ではないということである。

寺山は、現実をそのまま受け入れることを拒んだ。

そして、現実は変えられないとしても、その意味や見え方は変えられると考えた。

家族とは何か。

故郷とは何か。

自分の過去とは何か。

社会から与えられた名前や経歴は、本当に自分自身なのか。

寺山の作品には、こうした問いが繰り返し現れる。

寺山にとって、家出は単なる家庭からの逃亡ではなかった。

家出とは、あらかじめ決められた人生から離れ、自分で自分の物語を作り直す行為であった。

人は家族、学校、地域、国家から、多くの役割を与えられる。

子どもであること。

生徒であること。

会社員であること。

男であること。

女であること。

善良な市民であること。

寺山は、それらを自然で変更不可能なものとは考えなかった。

役割は演じられている。

演じられているならば、別の役を選ぶこともできる。

この発想が、寺山の演劇や映画、短歌、評論に共通している。

寺山は1954年、早稲田大学に入学し、短歌研究新人賞を受賞した。その後、病気による長期入院を経験しながら、詩劇や戯曲の創作を始め、1957年には最初の著作『われに五月を』を刊行している。([Terayama World][3])

その後の寺山は、短歌や詩にとどまらず、演劇実験室「天井棧敷」を中心に、観客と舞台、演技と日常、虚構と現実の境界を揺さぶる活動を展開した。三沢市寺山修司記念館は、「天井棧敷」の活動を世界的な前衛演劇の成果として紹介している。([Terayama World][1])

寺山は、文学を本の中だけに閉じ込めなかった。

街頭も、身体も、広告も、観客も、記憶も、すべてを作品へ取り込もうとした。

そこには、文学という制度そのものへの不信があったのではないか。

本を読み、意味を理解し、静かに感想を持つ。

寺山は、そのような安定した鑑賞だけでは、人間の生き方は変わらないと考えたのだろう。

観客自身が巻き込まれること。

日常生活が揺さぶられること。

自分が信じていた現実が、実は一つの演出にすぎなかったと気づくこと。

そこまで起こして初めて、表現は人間を変える力を持つ。

寺山にとって文学は、現実を説明する道具ではない。

現実の外側に、別の生き方が存在することを示す装置だった。


3.野坂昭如――現実の醜さを隠さなかった人

寺山が現実を虚構へ変えたのに対し、野坂昭如は、社会が隠そうとする現実を露出させた。

野坂の作品に登場するのは、立派な人間だけではない。

飢えた人間。

欲望に動かされる人間。

金に困る人間。

性を商売にする人間。

戦争によって家族を失った人間。

占領下の価値観に翻弄される人間。

生き残るために、道徳を守る余裕を失った人間である。

野坂は、戦争を美しい犠牲や英雄的な物語として描かなかった。

そこにあるのは、空腹、病気、孤立、無関心、死者の身体といった、具体的な現実である。

『火垂るの墓』も、兄妹の愛情を描いた感動的な物語としてだけ読めば、その厳しさを見失う。

兄妹を追い詰めたのは、爆撃だけではない。

家族関係の崩壊、食料不足、共同体からの排除、少年の自尊心、周囲の無関心が重なり合っている。

戦争は、ある日突然、人を殺すだけではない。

人間同士が助け合う余裕を徐々に奪い、弱い者から生きる場所を失わせる。

野坂が描いたのは、その過程である。

兵庫文学館の作家紹介には、『火垂るの墓』だけでなく、『エロ事師たち』『戦争童話集』『一九四五・夏・神戸』などが挙げられている。これらの作品群からも、野坂が戦争、性、都市、欲望、戦後社会を一貫した問題として扱ったことが分かる。([兵庫県立美術館][2])

野坂の表現は、しばしば戯作的である。

戯作とは、単なる冗談ではない。

深刻な問題を、わざと俗悪で過剰な語り口によって描く方法である。

社会が上品な言葉で隠しているものを、下品さ、笑い、猥雑さによって暴き出す。

野坂は、道徳的に正しい立場から社会を説教するのではなかった。

自分自身もまた、欲望、虚栄、矛盾を抱えた戦後日本人の一人として、社会の中に立った。

ここに、野坂の批判の強さがある。

自分だけを安全な場所へ置かず、批判される側の醜さを自分自身の中にも認める。

そのうえで、戦争責任、飢餓、国家、消費社会、性、家族を語る。

野坂が作家だけでなく、テレビ、歌、政治の世界へ進んだのも、文学だけでは社会の矛盾を十分に伝えられないと考えたからではないか。


4.二人はなぜ文学の外へ出たのか

寺山修司と野坂昭如は、ともに文学的評価を受けながら、文学界の内部だけにとどまらなかった。

寺山は演劇、映画、ラジオ、作詞、写真、競馬評論へ進んだ。

野坂は放送作家、作詞家、歌手、テレビ出演者、政治家として活動した。

これは、単なる多才さではない。

二人には、文字による文学だけでは伝えられないものがあった。

文学作品は、基本的には読者が自発的に本を手に取ることで成立する。

しかし、演劇、映画、テレビ、ラジオ、歌謡、広告は、本を読まない人にも届く。

寺山と野坂が活躍した昭和後期は、テレビが家庭へ急速に普及し、作家自身が映像の中へ登場するようになった時代である。

作家は、作品だけによって知られる存在ではなくなった。

顔、声、服装、話し方、振る舞いまでが、作家像を形成するようになった。

寺山は、特徴的な容姿や語り方を含め、自らを前衛的な表現者として提示した。

野坂も、サングラス、独特の声、歌唱、テレビでの振る舞い、政治活動を通して、強烈な公的人物像を作った。

二人は、メディアによって作られた人物であると同時に、メディアを利用して自分自身を演出した人物でもあった。

重要なのは、自己演出が必ずしも虚偽を意味しないことである。

人間は、社会の中で常に何らかの自分を演じている。

会社では会社員を演じる。

家庭では親や配偶者を演じる。

学校では教師や生徒を演じる。

寺山は、その事実を意識的に表現へ変えた。

野坂は、社会が作家に期待する「立派な文化人」の役割を、あえて壊すような振る舞いを見せた。

二人にとって、自分自身を演じることは、作品の宣伝だけではなかった。

作家とは何か。

文化人とは何か。

社会的信用とは何か。

その問いを、自らの身体を使って示す行為だったと考えられる。


5.寺山は現実から逃げ、野坂は現実と闘ったのか

寺山修司と野坂昭如を単純化すると、次のような対比が考えられる。

寺山は、現実から虚構へ逃れた。

野坂は、現実の醜さと正面から闘った。

しかし、この対比だけでは不十分である。

寺山の虚構は、現実逃避ではない。

現実を変えるための方法だった。

家族、学校、国家、郷土といった制度が人間を拘束するとき、別の物語を作ることで、その拘束を相対化する。

寺山にとって虚構とは、現実から目を背けることではなく、現実が唯一の世界ではないと示すことだった。

一方、野坂も、現実をそのまま報告しただけではない。

独特の文体、誇張、笑い、猥雑さ、自己演出を用いて、現実を戯作へ変えた。

野坂の作品もまた、厳密な意味での記録文学だけではない。

実体験を材料としながら、言葉によって再構成された文学である。

つまり、寺山にも現実への批判があり、野坂にも虚構的な演出がある。

違いは、その重心にある。

寺山は、現実を別の可能性へ開く。

野坂は、現実が隠している傷や醜さを暴く。

寺山の表現は、「ここではない場所」を作ろうとする。

野坂の表現は、「今ここ」に存在する欺瞞から目をそらすなと迫る。

寺山は、与えられた人生を書き換えようとした。

野坂は、社会が書き換えようとした戦争の記憶を、再び表面へ引き戻そうとした。

同じ反権威であっても、その方向は異なる。


6.家族から逃れようとした寺山、死者から逃れられなかった野坂

寺山修司の表現には、家族から離れたいという欲望と、家族から完全には離れられない苦しさが共存している。

寺山は母や故郷を繰り返し作品に登場させた。

しかし、それは単純な懐郷ではない。

母を愛しながら、母から逃れようとする。

故郷を求めながら、故郷という考え方を疑う。

過去を語りながら、事実どおりの過去を拒む。

寺山にとって家族は、安心できる場所であると同時に、人間の役割や運命を決めてしまう制度でもあった。

だからこそ、家出という言葉が重要になる。

家出とは、家族を憎むことではない。

自分に与えられた家族関係だけを、人生の絶対的な基準にしないことである。

これに対し、野坂昭如の作品には、死者から離れられない生存者の感覚がある。

戦争で亡くなった家族。

飢えによって失われた子ども。

空襲で消えた街。

焼け跡で見捨てられた人間。

生き残った者は、死者を忘れて日常生活へ戻る。

社会は復興し、経済は成長し、戦争の記憶は過去の出来事になる。

しかし、野坂にとって戦争は終わった出来事ではなかった。

生き残った自分の身体の中に、戦争は残り続ける。

寺山が家族や故郷を書き換えようとしたのに対し、野坂は、消されようとする死者の記憶を書き残そうとした。

寺山は、過去を変形させることで自由を得ようとした。

野坂は、過去を忘却する社会に抵抗した。

この違いは、二人の表現の根本にある。


7.反権威とは、単なる反抗ではない

寺山修司も野坂昭如も、権威や常識に対して従順な人物ではなかった。

しかし、反権威という言葉は、注意して使う必要がある。

権威に反対することが、直ちに正しいとは限らない。

社会の規則や道徳の中には、弱い立場の人を守るために必要なものもある。

また、既成の価値観を否定する人物が、自ら新しい権威になることもある。

寺山の反抗は、学校、家庭、文学制度、地域共同体といった、個人の生き方を固定する仕組みに向けられた。

人は出生や学歴によって決まるのではない。

自分の人生を自分で演出できる。

寺山の表現は、そうした自由を示した。

一方、野坂の反抗は、国家、戦争責任、消費社会、戦後の繁栄、道徳的建前に向けられた。

豊かになった社会が、過去の死者や弱者を忘れてよいのか。

平和を語る社会が、戦争を生み出した構造を本当に検証したのか。

野坂は、その問いを投げ続けた。

寺山の反権威は、個人を既成の物語から解放しようとする。

野坂の反権威は、社会が自らを美化することを許さない。

寺山は、人生には別の脚本があると語る。

野坂は、その脚本の裏側に死者がいることを忘れるなと語る。

二人の反抗は、同じではない。

しかし、いずれも、社会から与えられた説明をそのまま信じない姿勢に基づいている。


8.昭和の「異端児」という言葉では足りない

寺山修司と野坂昭如は、しばしば「異端」「奇才」「怪人」といった言葉で紹介される。

確かに、二人の外見、言動、活動は、一般的な作家像から大きく外れていた。

しかし、異端児という評価だけでは、二人の表現が生まれた社会的背景を見落としてしまう。

寺山が演劇、映画、ラジオ、競馬、歌謡へ進んだのは、単に変わったことが好きだったからではない。

既存の文学だけでは、人間の現実を十分に変えられないと考えたからだろう。

野坂が小説、テレビ、歌、政治を横断したのも、目立ちたかったからだけでは説明できない。

戦争や社会の矛盾を、文学を読む一部の人だけでなく、より広い層へ伝えようとした面があった。

もっとも、二人の活動をすべて社会的使命によって説明することも適切ではない。

自己顕示欲、名声への欲望、経済的事情、競争心、個人的な好奇心もあっただろう。

人間の行動は、一つの高尚な動機だけで決まるものではない。

重要なのは、個人的な欲望があったとしても、その欲望が時代の問題と結びつき、結果として独自の表現を生み出したことである。

二人は、清廉な思想家ではなかった。

矛盾を抱え、自分自身も時代の欲望に巻き込まれながら、それでも社会の常識を疑った。

そこに、二人を読む価値がある。


9.現代において二人の表現は有効なのか

寺山修司と野坂昭如が活躍した時代と、現在の情報環境は大きく異なる。

現代では、誰もがインターネット上で文章、写真、動画を公開できる。

個人は、ソーシャルメディアを通じて自分自身を演出する。

現実と虚構の境界は、寺山の時代以上に曖昧になっている。

加工された写真。

作られた経歴。

誇張された幸福。

演出された怒り。

短い動画によって形成される人物像。

この状況は、寺山が問い続けた「人はどこまで自分を作ることができるのか」という問題とつながっている。

ただし、現代の自己演出には、寺山が求めた解放とは逆の側面もある。

人は自由に自分を演出しているようで、実際には、閲覧数、評価、広告、流行によって、演じる役割を決められている。

自分を作っているつもりが、プラットフォームに求められる自分を演じている。

寺山の問いは、現在も終わっていない。

一方、野坂の問題意識も現代に残っている。

戦争体験者が減少し、戦争の記憶は映像や教材を通してしか伝えられなくなりつつある。

経済的に豊かな社会でも、貧困、孤立、家庭内の問題、災害時の弱者の排除はなくなっていない。

社会は、大きな出来事を短期間で消費し、次の話題へ移っていく。

野坂の作品は、死者や弱者を、感動的な物語として消費するだけでよいのかと問いかける。

かわいそうだった。

悲しい話だった。

戦争は恐ろしい。

それだけで終われば、現実の構造は何も検証されない。

なぜ救われなかったのか。

誰が見捨てたのか。

共同体はなぜ機能しなかったのか。

自分が同じ状況に置かれたとき、本当に他人を助けられるのか。

野坂の文学は、そうした不快な問いを読者に残す。

寺山は、自分に与えられた現実を疑うことを求める。

野坂は、社会が忘れようとする現実を見続けることを求める。

現代に必要なのは、この二つの視点ではないか。


10.文学だけでは足りなかった二人

寺山修司と野坂昭如は、文学を軽視したから、文学の外へ出たのではない。

むしろ、言葉の力を強く信じていたからこそ、言葉が本の中だけに閉じ込められることを拒んだのではないか。

寺山は、言葉を舞台、映像、音楽、街頭、身体へ広げた。

野坂は、言葉をテレビ、歌、政治、社会的発言へ広げた。

二人にとって文学は、完成した作品を静かに鑑賞するためだけのものではなかった。

人間の記憶を揺さぶるもの。

社会の建前を壊すもの。

人間が自分自身を別の角度から見るためのもの。

忘れられた死者を、現在へ戻すもの。

そのような働きを持つものだった。

寺山の表現には、世界は作り直せるという希望がある。

野坂の表現には、世界を簡単に美化してはならないという警告がある。

寺山だけを読めば、虚構の自由を過大に信じる危険がある。

人は物語を変えれば、すべての過去から自由になれるわけではない。

野坂だけを読めば、過去の傷や人間の醜さから抜け出せない感覚に陥る可能性がある。

人間は罪や記憶だけによって決定されるわけでもない。

寺山の想像力と、野坂の記憶。

寺山の家出と、野坂の帰還。

寺山の虚構と、野坂の焼け跡。

二人を並べることで、一方だけでは見えない戦後日本の姿が浮かび上がる。


おわりに――一人は世界を書き換え、一人は世界に忘れさせなかった

寺山修司と野坂昭如は、同じ戦後日本を生きながら、異なる方向へ進んだ。

寺山修司は、自分に与えられた故郷、家族、過去、名前、人生を、そのまま受け入れなかった。

現実が人間を縛るならば、虚構によって別の世界を作ればよい。

人間は、与えられた役割だけを演じる必要はない。

寺山は、その可能性を短歌、演劇、映画、評論、自らの人物像を通して示した。

野坂昭如は、戦後社会が忘れようとしたものを、執拗に書き続けた。

飢えた子ども。

焼け跡。

死者。

占領下の屈辱。

豊かさの裏に隠された欲望。

戦争は終わったという言葉によって消されていく記憶。

野坂は、それらを文学、歌、テレビ、政治的発言によって、何度も社会の前へ戻した。

寺山は、世界を書き換えようとした。

野坂は、世界に忘れさせまいとした。

寺山は、現実は唯一ではないと語った。

野坂は、現実から目をそらすなと語った。

二人にとって、文学だけでは足りなかった。

それは、文学に力がなかったからではない。

文学を、本の中だけに収めるには、二人が抱えていた戦後の記憶と欲望が、あまりにも大きかったからである。

寺山修司と野坂昭如は、作品を書いた作家であるだけでなく、自らの身体、声、経歴、矛盾を使って、戦後日本そのものを演じた表現者だった。

二人の表現は、私たちに異なる問いを残す。

自分に与えられた人生を、自分で書き換えることはできるのか。

そして、社会が忘れようとする死者や弱者を、私たちは記憶し続けることができるのか。

この二つの問いが失われない限り、寺山修司と野坂昭如は、過去の奇人でも昭和の異端児でもない。

現代を生きる私たち自身に、なお必要な表現者なのである。

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