リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

作品保存と現代倫理の衝突

 古い小説を読んでいると、それまで滑らかに進んでいた視線が、ある一語のところで突然止まることがある。物語の筋が難しいわけでも、文章が古めかしいからでもない。かつては新聞や雑誌にも現れた呼称が、いまでは人を傷つける差別語と考えられていたり、障害、病気、出自、民族などについて、現代ならまず許容されない表現が何気なく使われていたりするからである。

 そこで、ごく自然な疑問が生まれる。いま読んで不快な言葉なら、現代の言葉に直してしまえばよいのではないか。しかし文学について考え始めると、この「直せばよい」という発想は、思った以上に厄介である。一つの差別語を削除することは、現代の読者への配慮になる一方、その版を読む人から、かつて社会の中で実際に使われていた差別の言葉を見えにくくすることにもなるからだ。

 もちろん、一冊の現代版から言葉を削除したところで、歴史的事実そのものが消滅するわけではない。初版本や研究資料が保存されていれば、過去にその表現が存在したことは確認できる。それでも、多くの人が読む普及版だけが現代的な表現に置き換えられていけば、一般の読者が過去の社会に触れる入口から、その時代特有の生々しさが少しずつ取り除かれていくことになる。

 過去の文学を現代の読者に届けるために、われわれはどこまで文章を書き換えてよいのだろうか。それとも、過去の醜さまで含めて原文を残すべきなのだろうか。この問いが難しいのは、どちらを選んでも、何か大切なものを守る代わりに別の何かを失う可能性があるからである。

『破戒』をきれいな言葉にしたら、何が残るのか

 日本文学でこの問題を考えるとき、島崎藤村の『破戒』は避けて通りにくい作品である。1906年に刊行されたこの小説は、被差別部落出身であることを隠して生きる小学校教師、瀬川丑松を主人公とし、出自を知られることへの恐怖、社会の偏見、自己告白をめぐる苦悩を描いている。作品の中心に差別問題が存在していることは明らかだが、その本文には、現在では使用を避けるべき被差別部落民への蔑称も登場する。

 現在、青空文庫で『破戒』を読もうとすると、そこには現代では不適切とされる表現が含まれていることを示す注意が置かれている。しかし本文そのものは、現代的な言葉に置き換えられてはいない。この対応は、差別的な言葉を肯定しているというより、過去の本文と現在の倫理的評価を分離して提示しようとする方法と考えた方がよい。

 ここに、この問題の核心が見えてくる。『破戒』は差別を主要な問題として描いた作品であるにもかかわらず、その作品自体が現代の読者には差別的と受け取られる言葉を含んでいる。そのため、「差別を扱った作品なのだから差別語を消すべきだ」という考えと、「差別がどのような言葉によって人間を傷つけていたのかを知るためにも原文を残すべきだ」という考えが、同じ作品の中で衝突するのである。

 もし本文の差別語をすべて穏当な表現へ変更すれば、物語そのものは読めるだろう。しかし丑松が自分の出自を知られることをなぜそれほど恐れていたのか、当時の社会で人間を分類する言葉がどれほど強い力を持っていたのかは、いくらか見えにくくなるかもしれない。差別は抽象的な「偏見」として宙に浮いていたのではなく、人間が実際に口にする言葉となり、学校、職場、地域社会の中で人を傷つける現実として存在していたからである。

 ところが、この説明だけで『破戒』を「差別と闘った進歩的な作品」として安全な場所に置くこともできない。『破戒』そのものについても、被差別部落の描き方や登場人物の認識をめぐって、後世さまざまな批判が行われてきた。つまり問題は、「差別を告発した作品にたまたま古い言葉が残っている」という単純な話ではなく、差別を描こうとした文学作品自身もまた、その時代の社会認識から完全には自由ではなかった、というところにある。

 だから『破戒』を読むことは、藤村が正しかったか間違っていたかを判定する作業ではない。作品が差別を描きながら、同時にその時代の限界も抱えていた可能性まで読むことなのである。

作者が書き直すことと、後世の私たちが直すこと

 『破戒』の問題をさらに複雑にするのは、作品そのものに改訂の歴史があることである。藤村は生前に本文へ手を入れており、後年の版では多くの変更が加えられている。そのため、「文学作品の文章には一字たりとも触れてはいけない」という考えも、そのままでは成立しない。

 文学史を見れば、作者が自分の作品を書き直すことは珍しくない。連載時と単行本で文章が違う作品もあれば、再版のたびに表現を変更する作家もいる。その場合、われわれが「原文」と呼んでいるもの自体、一つしか存在しないとは限らない。

 しかし、作者が自分の作品を書き直すことと、作者の死後に編集者や出版社が現代の倫理観に合わせて文章を変更することは、同じ「改訂」という言葉で括るには性質が違う。作者による改稿であれば、新しい文章も作者自身の表現である。それに対して後世の編集者が「現在ならこの言葉の方が望ましい」と判断して変更すれば、その瞬間から本文には別の時代の倫理判断が入り込む。

 一語くらいなら問題ないと思えるかもしれない。しかし、その一語を許せば、次は人物の呼び方が問題になり、その次には女性観や家族観、病気や障害についての表現が問題になるかもしれない。さらに進めば、登場人物の発言や行動まで「現代の読者には不適切だから」という理由で変更することも理屈の上では可能になる。

 そこで百年後の世界を想像してみるとよい。現在われわれが当然と思って使っている言葉や価値観のいくつかは、おそらく未来から見れば奇妙であり、ときには残酷に見えるだろう。その未来の編集者が、21世紀の小説を22世紀の倫理基準に合わせて修正し、「現代の読者が安心して読めるようにしておきました」と差し出してきたとき、それを作品の保存と呼べるのかという問題が残る。

 過去の文章を読むとは、過去の人間が現在と同じ価値観を持っていたことを確認する行為ではない。むしろ、同じではなかったことを知るための行為でもある。

「原文だから仕方がない」でも終われない

 ここまで考えると、「それなら何も変えず、原文を残せばよい」という結論になりそうだが、それもまた十分ではない。

 文学作品は、古文書のように研究室の中だけで保存されているわけではない。書店で売られ、学校や図書館で読まれ、電子化され、新しい読者が今日も初めてその言葉に出会う。作品は過去の文化財であると同時に、現在も人間に作用し続けている。

 ある差別表現を歴史資料として保存することと、その言葉を何の説明もなく現代の読者へ差し出すことは別の問題である。「これは昔の文章だから」という理由だけで、その表現が生まれた背景や、なぜ現在では問題とされるのかを説明しなくてもよいことにはならない。

 とりわけ、その差別と現在も無関係ではない人々にとって、「歴史だからそのまま読め」という態度は、原文尊重というより、編集する側が説明責任を放棄しているように映る可能性がある。

 だから原文保存を選ぶなら、それに伴う責任も引き受けなければならない。なぜこの言葉を残しているのか、それがどのような歴史的背景を持つのか、現在ではなぜ使用が避けられているのかを、本文の外側から説明する必要がある。

 青空文庫は『破戒』だけでなく、芥川龍之介の一部作品についても、現在では不適切と受け取られる可能性がある表現を含むことを示しながら、本文は底本に従って公開している。ここで重要なのは、「古典なのだから問題にするな」と言っているのでも、「問題があるから削除する」と言っているのでもなく、現在の評価と過去の文章を同時に読者へ渡そうとしていることである。

注意書きを付ければ、それで解決するのか

 ただし、ここでも一つ注意しておかなければならない。注意書きを付ければ読者への心理的な負担が大きく減る、と科学的に証明されているわけではない。

 刺激の強い内容について事前に警告を示す方法については心理学的な実験研究があり、警告によって読後の不快感が大幅に減少するとは限らず、読む前の不安をわずかに高める場合もあることが報告されている。したがって、「注意書きを付ければ傷つく読者を守れる」という単純な説明は避けた方がよい。

 しかし、文学作品に付けられる解説には、読者の感情を和らげることとは別の役割がある。現在の出版社や編集者がその表現を無批判に肯定しているわけではないと示すこと、その言葉が生まれた歴史的な背景を伝えること、そして作者と現代の読者との間に存在する時間的な距離を可視化することである。

 つまり、注記や解説は「嫌な気持ちにならないための薬」というより、作品をどの時代の文章として読んでいるのかを知らせる標識に近い。

 文学には、その標識が意外に重要なのだと思う。

消してしまうと、作者の限界まで消えてしまう

 古典文学を読む面白さは、昔の偉大な作家がわれわれと同じ価値観を持っていたことを確認するところにはない。

 夏目漱石であれ、芥川龍之介であれ、島崎藤村であれ、文章の中には現代の感覚から見れば奇妙な社会観や人間観が現れる。その一部は作者個人の偏見かもしれないし、その時代にはほとんど疑問を持たれなかった社会的常識かもしれない。どこまでが個人の考えで、どこからが時代の考えなのかを考えること自体が、古典を読む面白さでもある。

 ところが、現代人にとって不快な部分を後世が一つずつ取り除けば、過去の作家は不思議なほど21世紀的になっていく。明治の作家も大正の作家も、いつの間にか現代の人権感覚を備えた人物に見えるようになり、読者は作品を安心して読めるようになる代わりに、作者が生きていた社会との距離を感じる機会を失う。

 それは作家を尊重しているようでいて、むしろ作家を別人にしてしまうことでもある。

 優れた文学を書いた人間が、あらゆる面で優れた倫理観を持っていたとは限らない。名作の中に偏見があり、見事な文章の中に現代なら受け入れられない表現があり、人間を深く描いた作家自身が別の人間について十分な理解を持っていなかったとしても、その矛盾そのものを読むことが文学なのではないか。

 古典を現在の倫理に完全に一致させようとすると、われわれは作品を読みやすくする代わりに、その作品が過去に書かれたという事実を読みづらくしてしまう。

「原文を残すか、配慮するか」という二択ではない

 この問題がしばしば混乱するのは、「原文を残すなら読者への配慮を諦めなければならない」「読者へ配慮するなら原文を書き換えなければならない」と考えてしまうからである。

 しかし実際には、その間に多くの方法がある。

 たとえば一般の成人向け文学作品であれば、本文は保存し、巻頭や巻末に歴史的背景や現在の評価について解説を置く方法がある。現在の新潮文庫版『破戒』にも、作品と差別問題を考えるための解説が収められており、読者は小説の本文だけでなく、その作品をめぐって生じてきた議論まで含めて読むことができる。

 一方、児童向けの再話や学校教材では事情が異なる。対象年齢や教育目的によって表現を変更することには十分な合理性があり、それ自体が文学の破壊とは限らない。ただし、その場合には「原文そのもの」であるかのように扱わず、現代向けに一部表現を変更した版であることや、原作をもとに再構成した文章であることを明示すればよい。

 一冊の作品に一つの版しか存在してはいけない理由はない。研究者や原文を読みたい読者のために原典を保存した版があり、一般読者向けには詳しい解説を付けた版があり、子ども向けには現代的な再話があってもよい。問題なのは複数の版が存在することではなく、変更された文章が何の説明もなく「これが作者の文章です」と提示されることである。

 こう考えると、「原文を残して説明する」という方法が比較的合理的に見えてくる。これは唯一の正解だからではない。原文を保存すること、現代の読者へ配慮すること、歴史的背景を伝えることという、互いに競合しやすい目的を、比較的同時に満たしやすいからである。

 言い換えれば、全面的に書き換える方法は現代的な読みやすさを高める代わりに原文性を失い、何の説明もなく原文を掲載する方法は原文性を守る代わりに読者へ文脈を渡さない。その中間にある「本文は残し、本文外で説明する」という方法は、どれか一つを完全に犠牲にせずに済む。

 ただし、どの価値を最も重く見るべきかは、研究用全集、一般文庫、学校教材、児童書では当然異なる。したがって、すべての本に同じ処方箋を当てはめる必要もない。

差別語を消したとき、差別まで過去になる危うさ

 この問題でもっとも警戒したいのは、不適切な言葉を削除することによって、社会そのものが少し良くなったような錯覚を持つことである。

 古い小説に残る差別表現は、不快である。しかし、その不快さは偶然そこに存在するのではなく、ある社会が実際に人間をそのような言葉で呼び、分類していた歴史から生まれている。文章だけをきれいにしても、その時代まできれいになるわけではない。

 そして、もう一つ厄介なことがある。われわれは昔の差別語を見ると、「昔の人はひどかった」と考え、そこで安心してしまいがちである。しかし、百年後の読者が21世紀の文学や新聞やインターネット上の文章を読んだとき、われわれが何気なく使っている言葉のどれかで同じように立ち止まる可能性は十分にある。

 その言葉が何であるかを、現在のわれわれはまだ知らない。

 当時の人々も、自分たちが未来から「差別的な時代」と呼ばれることを意識しながら毎日の言葉を使っていたわけではないだろう。同じように、われわれも現在の倫理を歴史の最終到達点だと思いがちだが、未来から見れば現在の常識もまた途中経過にすぎない。

 そう考えると、古典文学の不快な表現には意外な役割がある。それは過去の人間を裁く証拠であるだけでなく、「自分たちの常識もまた時代によって作られている」と現在の読者に知らせる装置でもある。

文学は、きれいに保存するものではない

 昔の文学にある差別表現を書き換えるべきかという問いに、どんな作品にも通用する一つの答えを出すことは難しい。それでも一般の文学作品について原則を置くなら、私は、原文を消してしまうよりも、まず残し、その表現が持つ歴史と現在の評価を十分に説明する方が望ましいと考える。

 ただし、それは差別語を文化財としてありがたがるという意味ではない。逆である。なぜその言葉が存在したのか、誰がその言葉によって傷つけられたのか、なぜ現在では使うべきではないのかまで含めて読める状態にしておくのである。

 文学を保存するとは、美しい文章だけを保存することではない。作者の偏見も、その時代の常識も、作品が抱えていた矛盾も、後世から見れば耐え難い社会の残酷さも保存することである。

 古い本を開き、ある言葉の前で思わず手が止まる。その瞬間は不快かもしれない。しかし編集者が先回りしてその違和感をすべて取り除いてしまえば、われわれは作品を快適に読む代わりに、「なぜこんな言葉が書かれているのだろう」と考える機会まで失ってしまう。

 過去を現代倫理によって無罪にする必要はないし、「昔だから仕方がない」と免罪する必要もない。むしろ、不快なところを不快なまま残し、それがなぜ不快なのかを考えられるようにする方が、過去に対しても現在に対しても誠実なのではないか。

 文学に必要なのは、過去をきれいに保存することではない。

 過去がきれいではなかったことまで、未来の読者が読めるようにしておくことなのである。

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