リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 難しい本を読み始めると、ときどき読書とは別の何かが始まる。最初の十数ページではまだ余裕があり、分からない言葉が出てきても「そのうち分かるだろう」と先へ進めるのだが、三十ページ、五十ページと進むにつれて知らない概念が増え、同じ段落を二度、三度と読み返しても意味がつかめず、気がつけば目だけが文字の上を移動している。それでも本を閉じることには、なぜか敗北に似た後ろめたさがつきまとう。せっかく買ったのだから、ここまで読んだのだから、名著と呼ばれているのだから、最後まで読まなければならないという声が、本の中からではなく、自分の中から聞こえてくるのである。

 しかし考えてみると、これは少し奇妙である。本を読む目的が理解することにあるのなら、理解できないまま最後の一ページへ到達することに、どれほどの意味があるのだろう。反対に、一冊の三分の一しか読んでいなかったとしても、その中の一節が何年も頭に残り、その後の考え方や物の見方に影響を与えたなら、それを「読書として失敗した」と言い切ることはできない。私たちはいつの間にか、「本を読む」という行為と「本を読み終える」という行為を、ほとんど同じものとして扱うようになっている。

 読書には、ほかの娯楽や学習にはあまり見られない、奇妙な完走主義がある。映画なら途中で退屈になれば見るのをやめることがあり、料理なら口に合わなければ残すこともあるのに、本だけは途中で閉じると「読めなかった」という言葉を使うことが多い。この言い方には、作品との相性やタイミングではなく、読者の能力に問題があったかのような響きがある。

 しかも、その感覚は本が難しくなるほど強くなる。娯楽小説を途中でやめても、それほど自尊心は傷つかないが、哲学書、思想書、古典文学のように「教養のある人が読む本」という雰囲気をまとった本になると話が変わり、「自分にはまだ早かったのではないか」「本当に頭のよい人なら理解できるのではないか」という不安が入り込む。その瞬間、読書は本との対話ではなく、自分自身の知性を測る試験へと姿を変え、理解することよりも最後まで到達することが目的になり始める。

「最後まで読んだ」という事実の誘惑

 難しい本を読み終えたときには、確かに独特の満足感がある。内容のすべてを理解できていなくても、何百ページもの本を閉じた瞬間には、「とうとう読んだ」という達成感が残る。その感覚そのものを否定する必要はなく、険しい道を歩き切った経験が人に自信を与えるように、一冊を最後まで読み通した経験も、次の読書に向かう力になることがある。

 しかし問題は、その達成感が理解の代用品になったときである。たとえば五百ページの思想書を三週間かけて読み終えたとしても、「結局この本は何を問題にしていたのか」と尋ねられた途端、うまく説明できないことがある。途中では何度も分かったような気になっていたのに、最後まで来たころには冒頭の議論をほとんど忘れており、それでも「読了した」という事実だけは確かな記憶として残っている。

 認知心理学の研究が繰り返し示してきたのは、教材を読んだことと、それを理解し、後から取り出せることとは同じではないということである。文章を何度も眺めるだけではなく、何が書かれていたのかを自分の言葉で思い出したり、説明したり、問い直したりする過程を伴ったほうが、長期的な記憶や理解につながりやすいことが知られている。つまり、ページを進めた距離は簡単に測れても、理解の深さまではページ数から分からない。

 ここには、本という物体の持つ少し厄介な性質が関係しているのかもしれない。本には最初のページと最後のページがあり、残りの厚さを見れば自分がどこまで進んだかが一目で分かる。百ページ読めば、確実に百ページ進んだことになるため、本来は理解の変化によって測るべき読書が、ページ数という目に見える数字へ置き換えられやすい。

 人間は、測れるものを目標にしやすい。一冊読んだ、十冊読んだ、年間百冊読んだという数字は分かりやすいが、「ある一冊について三年間考え続けた」という読書経験は数字にしにくい。それでも文学や思想との関係では、後者のほうがはるかに深い場合がある。百冊を通過した人よりも、一冊につまずき、その問いをいつまでも手放せなかった人のほうが、その本から多くを受け取っていることさえあるのである。

「難しい」という一言の中には、いくつもの理由がある

 ただし、「理解できない本は途中でやめればいい」と単純に結論づけてしまうのも危険である。難しさには少なくともいくつかの顔があり、文章が自分に合わないために難しい場合もあれば、語彙や背景知識が足りないために難しい場合もあり、さらに、それまで使ったことのない考え方を要求されるために難しいこともある。

 読解研究では、文章を理解するとき、読者がすでに持っている知識が大きな役割を果たすことが知られている。同じ文章でも、その分野について前提知識のある人とない人では、そこから読み取れるものが大きく変わる。本の難しさは文章だけの性質ではなく、本と読者との間に生まれる関係でもある。

 だから、十年前には退屈にしか感じられなかった本を読み返したとき、「こんなに面白い本だったのか」と驚くことがある。本そのものは一文字も変わっていないのに、読者が経験を重ね、別の本を読み、人生の中でいくつかの失敗や喪失を経験した結果、以前には見えなかった文章が突然こちらを向いてくる。

 これは読書の不思議なところである。本は同じ場所に置かれているのに、読む側が変われば、本の姿まで変わって見える。

 したがって、分からないという感覚は必ずしも読書の失敗を意味しない。むしろ自分がまだ持っていない知識や、慣れていない思考の型に触れたとき、人は「分からない」と感じることがある。難しい本を読む経験には、ときに知識を増やすだけではなく、知識を整理する枠組みそのものを見直させる働きがある。

 普段とは違う地図を渡され、最初は現在地さえ分からなかったのに、しばらく歩いているうちに、離れて見えていた道と道が突然つながることがある。それに似た瞬間が読書にもあり、だからこそ「分からない」という理由だけであまり早く本を閉じてしまえば、その先にあった理解の変化に出会えないこともある。

分かった「気がする」という罠

 難しい本を読むとき、もう一つ気をつけたいのは、「理解したこと」と「理解した気になったこと」は必ずしも同じではないという問題である。

 同じ文章を繰り返し読むと、文字列そのものには次第に親しみが生まれる。二度目には見覚えがあり、三度目には文章の展開も予想できるようになるため、人はそれを「理解が深まった」と感じることがある。しかし、いざ本を閉じて「何が書いてあったのか」を説明しようとすると、思ったほど言葉が出てこないことがある。

 読解や学習についての研究では、人間は自分自身の理解度を必ずしも正確に判断できないことが知られている。再読が役に立つ場面はもちろんあるが、ただ同じ文章を何度も目で追うことと、理解を深めることは同じではない。むしろ読み返しながら、「なぜ著者はここでこの言葉を使ったのか」「前の章との関係は何か」「この主張を自分の言葉で説明できるか」と考えるほうが、読書はずっと能動的になる。

 だから、同じページを何度読んでもよい。ただし、それは同じ道をただ往復するという意味ではなく、一度目とは違う問いを持って戻ってくるという意味である。

途中でやめることは敗北なのか

 それでも、すべての難しい本を最後まで読む必要はない。

 ここで区別したいのは、「読めなかった」と「いまは読まないと判断した」という二つの状態である。前提知識が足りないと感じていったん閉じる場合もあれば、何十ページか読んだ結果、今の自分がこの本から得たいものは十分得たと判断することもあるし、世間で名著とされていても自分にはそれほど重要ではないと分かることもある。

 それらをすべて敗北と呼ぶ必要はない。

 むしろ本を途中で閉じるという行為には、ときにかなり高度な判断が含まれている。何を読むかだけではなく、何を読まないかを決めなければ、一人の人間に与えられた読書時間はすぐに尽きてしまう。人生の時間には限りがあり、世界には一生を費やしても読み切れないほど多くの本がある以上、「読み始めた本は必ず最後まで」という規則を守ることは、必ずしも合理的ではない。

 それなのに、一度読み始めた本には最後まで付き合わなければならないと思い込むと、奇妙なことが起こる。本を買って最初の十ページを読んだ過去の自分が、まだ読んでもいない残り四百九十ページに使う未来の時間まで決定してしまうのである。

 途中で本を閉じることは、その本を否定することでもない。数年後にもう一度開けば、以前とは違う本に見えるかもしれないし、別の本を読んでから戻れば、それまで理解できなかった一節が急に意味を持ち始めることもある。未読のページを残したまま本棚へ戻すことは、本との関係を終わらせることではなく、「この本を読む時期はまだ来ていない」と判断することでもある。

それでも、最後まで読まなければ見えない本がある

 一方で、途中でやめる自由ばかりを強調すれば、読書のもう一つの大切な側面を見失う。

 本によっては、最後まで読まなければ姿を現さないものがある。

 小説では、冒頭では何気なく見えた場面が、終盤になって突然別の意味を帯びることがある。思想書でも、最初に提示された問いが何百ページもの議論の中で少しずつ形を変え、最後に至って初めて、著者が何を問題にしていたのかが見えることがある。文章の一部分を理解することと、一冊の構造を理解することは同じではない。

 本は単なる情報の容器ではない。

 もし本の価値が情報だけにあるなら、要約を読めば十分だということになる。しかし一冊の本には、著者がどの順序で問いを立て、どこで立ち止まり、何を繰り返し、どの地点まで読者を連れていくのかという時間の構造がある。途中を飛ばせば結論だけを知ることはできても、その結論にたどり着くまでの思考の運動を経験することはできない。

 難しい本を最後まで読むことに意味があるとすれば、その大きな理由の一つはここにある。読了とは答えを受け取ることではなく、一人の他人が長い時間をかけて考えた道筋を、自分の足でも一度歩いてみることなのである。

本が「知性の証明書」になったとき

 読書には、もう一つ厄介な誘惑がある。難しい本は、ときに知性や教養を象徴するものとして扱われるため、哲学書や古典文学、大部の思想書を読んでいるという事実そのものが、「自分はこういう人間である」という自己像と結びつくことがある。

 本の所有や読書習慣が文化的な自己表現になることは珍しくない。本棚は単なる保存場所ではなく、そこに何を置くかによって、自分自身の知的な姿を外へ示す場所にもなり得る。

 もちろん、難しい本を読む人が人に知的に見られたいから読んでいる、と単純に決めつけることはできない。しかし読書が自己証明に近づいたとき、本と読者の関係は少しずつ逆転する。

 本来、本は読者の考え方を揺さぶるものだったはずなのに、いつの間にか読者が自分のイメージを守るために本を利用し始める。難しくて退屈なのに閉じられず、意味が分からないままページだけを進め、最後まで読み終えたあとで「難しかったが勉強になった」と言いながら、具体的に何が変わったのかは自分でも分からないとすれば、その読了は知的経験というより、少し儀式に近づいている。

 儀式にも意味はある。苦労して一冊を読み切った経験が自信につながり、その後さらに難しい本へ向かう入口になることもある。しかし、完走そのものが目的になれば、読書は本との対話ではなく忍耐力の測定に変わってしまう。

 読むことと耐えることは、似ているようで同じではない。

読書の意味は、読み終えた日に決まらない

 昔読んだ本を思い出そうとすると、不思議なことに気づく。最後まできちんと読んだはずなのに、題名以外はほとんど何も覚えていない本がある一方、途中で読むのをやめた本の一節だけが、何年たっても突然頭に浮かぶことがある。

 読書の価値は、読了した瞬間には決まらないのかもしれない。

 ある言葉が数年後になって、自分の経験と突然結びつくことがある。若いころには理解できなかった登場人物の気持ちが、年齢を重ねた後になって初めて分かることもある。一度読んだ本を何年か後に開き、「こんなことが書いてあったのか」と驚くのも珍しいことではない。

 本を閉じたからといって、その本の働きまで終わるわけではない。

 読んでいる最中には理解できなかったものが、人生のどこかで遅れて意味を持つこともある。そう考えると、読書とは本の最後のページで完結する行為ではなく、本を閉じた後も読者の中で静かに続いていく長い作用なのだろう。

 だから「何冊読んだか」という問いは、読書を語るには少し粗すぎる。「どの本が自分の中に残ったのか」「どの本によって以前とは違う問いを持つようになったのか」「どの本について、いまも結論が出ていないのか」と尋ねたほうが、本当の読書経験には近い。

難しい本は、征服するものではない

 では結局、難しい本を最後まで読むことには意味があるのだろうか。

 おそらく答えは、「意味はある。しかし最後まで読むこと自体が、その意味なのではない」という少し面倒なものになる。

 最初には理解できなかったものが、最後まで読み続けることでつながり、自分の見方が少し変わったなら、読了には大きな意味がある。一方で、理解することよりページを進めることが目的になり、本との対話がすでに途切れているのなら、途中で立ち止まることにも意味がある。

 大切なのは、本に勝つことではない。

 難しい本を前にすると、私たちはつい「理解してやろう」「読み切ってやろう」と考える。しかし本は山ではなく、最後のページは山頂でもない。読了したからといって、その本を征服したことにはならず、むしろ本当に面白い本ほど、読み終わった後になって分からないことが増えていく。

 読む前には単純だった問いが、読み終えた後には複雑になる。正しいと思っていたことに迷いが生まれ、自分には関係ないと思っていた問題が気になり始め、それまで一つしかないと思っていた世界に別の見方があることを知る。もし一冊の本がそんな変化を残したのなら、たとえ内容のすべてを理解できなかったとしても、その読書には十分な意味があったのではないだろうか。

 反対に、最後の一ページまできちんとたどり着きながら、何も疑わず、何も迷わず、何も残らなかったとすれば、「読み終えた」という事実ほど頼りないものもない。

 難しい本を最後まで読むべきかどうかを決める基準は、読了できるかどうかではなく、その本がまだ自分に何かを問いかけているかどうかにあるのかもしれない。問いかけが残っているなら、ゆっくり読めばよく、同じページへ何度戻ってもよく、別の本を読んでから帰ってきてもよい。そして問いかけが完全に消えてしまったなら、そのときはいったん本を閉じればよい。

 読書とは、最後のページまで到達する競技ではない。一冊の本と出会ったことで、それまでとは少し違う問いを持つようになり、その問いが本を閉じた後にも残り続けるのなら、たとえ栞が本の途中に挟まれたままであっても、その読書はすでに読者の中で何かを始めているのである。

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