小説を読んでいるのに、頭の中では俳優が歩いている。
そんな経験をした人は少なくないだろう。文章には「堺雅人」とも「石坂浩二」とも書かれていない。それでも『半沢直樹』を読めばテレビドラマの表情が浮かび、『犬神家の一族』を開けば金田一耕助の姿や、湖面から突き出した二本の足まで脳裏に現れる。原作を読んでいるはずなのに、そこにはすでに映像の記憶が入り込んでいる。
考えてみれば奇妙な話である。
時間の順序では、小説が先にあり、その小説をもとに映画やテレビドラマが作られる。ところが作品が社会に広く浸透すると、この順序が逆転することがある。後から原作を読む人にとっては映画やドラマの方が先に存在し、映像によって作られた人物像や物語の印象を持ったまま、本を開くことになる。
すると映像化は、単に原作を宣伝する装置ではなくなる。
映画やドラマによって原作が大量に売れれば、それはまず市場での成功である。しかし、その影響が長く続けば、作品が社会の中でどのように見られるかまで変わってくる。ある場面だけが作品を象徴するものとして記憶されたり、それまで忘れられかけていた作家が新しい世代に発見されたりすることもある。さらに映像作品の人物像が強烈であれば、後から原作を読む人の想像力そのものに入り込み、作品の読み方にまで影響を及ぼす。
もっとも、ここでは「評価」という言葉を慎重に使う必要がある。
映画化によって本が売れたからといって、その小説の文学的価値まで高くなったとは限らない。本が売れることと、作品が広く知られることは近いようで異なり、さらに作家そのものが再発見されることや、文学史の中で位置づけが変化することはまた別の現象である。したがって、映像化によって文学的価値そのものが上昇したとまで断定することは難しい。
それでも、日本には映像化によって原作の社会的な位置や読まれ方が明らかに変化したと考えられる作品がある。
その代表的な例をたどっていくと、映画やテレビドラマが文学に対して持つ、意外なほど大きな力が見えてくる。
『犬神家の一族』は、一冊の本ではなく「横溝正史」を復活させた
1976年、市川崑監督の映画『犬神家の一族』が公開された。
白いゴムマスクをかぶった佐清や、湖面から逆さに突き出した死体の脚は、映画を見ていない人にまで知られるほど強烈なイメージとなった。そして石坂浩二が演じた金田一耕助もまた、その後の横溝作品の受け止められ方に大きな影響を与える存在となった。現在では、こうした映像のいくつかが日本のミステリー文化そのものを象徴するものになっている。
映画公開と同じ時期、角川書店は横溝正史作品を角川文庫で積極的に展開していた。1976年には角川文庫版の横溝作品全体の販売が1800万部を突破し、『犬神家の一族』自体も大規模なベストセラーとなったことが出版史料から確認されている。
ただし、ここで「映画一本が忘れられていた横溝正史を突然復活させた」と考えるのは正確ではない。
横溝作品の再評価は、それ以前から始まっていた。1970年前後には全集が刊行され、1971年には『八つ墓村』が角川文庫に入り、出版側ではすでに横溝作品を新しい読者へ届ける動きが進んでいた。
つまり1976年の映画は、何もない場所にブームを生んだのではない。
小さく燃え始めていた再評価の火に、映画と文庫と広告を組み合わせた巨大な風を送り込んだのである。
その結果、横溝正史の作品世界は、単に昔の探偵小説としてではなく、独特の日本的な闇を抱えた物語として新しい世代に読み直されていった。横溝作品では、古い家や土地に残された因習が人間関係を縛り、その背後に血縁や相続をめぐる過去が横たわっている。そこへ閉ざされた村の空気や怪奇的な殺人が重なることで、単なる謎解きを超えた世界が形づくられている。その世界そのものが、1970年代の読者に新鮮なものとして発見され直したのである。
ここで重要なのは、『犬神家の一族』の読者だけが増えたわけではないことである。
映画を見た人が原作を読み、その世界に魅力を感じれば、次には『獄門島』や『八つ墓村』、『悪魔の手毬唄』へと進んでいく。そうなれば、一つの映画が入口となり、映像化されていない作品まで読まれることになる。結果として、一冊の小説の人気上昇が作家全体への関心へと広がっていく。
映像化が一冊の本を売るのではなく、一人の作家をもう一度文学の棚へ戻す。
横溝正史の場合、少なくとも社会的受容という意味では、そのような現象が起きたと考えてよいだろう。
『砂の器』では、映画が原作の中心を少し動かした
松本清張の『砂の器』になると、映像化と原作の関係はさらに複雑になる。
原作は殺人事件の捜査を軸に進む長編推理小説である。刑事たちは事件の断片を追いながら、言葉の違いや土地の記憶、戸籍に残された過去へ少しずつ近づいていく。その過程で、個人が自分の過去から逃れようとしても、社会の制度や記録がそれを完全には消してくれないという松本清張らしい世界が浮かび上がってくる。
ところが1974年の野村芳太郎監督による映画版では、原作の中では比較的短く処理されていた父と子の放浪の旅が大きく膨らませられた。
映画の終盤では、交響曲「宿命」が流れる中、捜査会議と父子の旅の記憶と現在が交互に描かれる。その映像と音楽の力は非常に強く、映画版『砂の器』を代表する場面となった。
ここで起きたことは、単なる脚色ではない。
映画は原作に存在する複数の要素の中から父と子の関係を選び、それを物語の感情的な中心へと大きく育てた。過去から逃れようとする人間の姿も、映画では父子の記憶を通してより強く浮かび上がる。そのため映画を先に知った読者は、原作を開いたときにも自然と父と子の線を探しながら物語を読むことになる。
これは、原作の内容が変わったということではない。
変わったのは、読者がどこを見るかである。
文学や映画の受容を考える理論では、読者や観客は作品を完全な白紙の状態で受け取るわけではないとされる。すでに持っている知識や記憶は、新しく読む作品の意味を組み立てる材料になる。そう考えれば、映画を見た記憶もまた、後から原作を読む人にとって一つの前提として働くことになる。
今日の『砂の器』の受容に、1974年映画版の父子像が強い影響を与えていると考えることには十分な理由がある。
ただし、それを客観的に完全証明するには、映画を見た読者と見ていない読者を比較し、作品のどこを重要だと感じるかを調べる必要がある。
だから「映画が原作の意味を変えた」と断言するより、「映画が原作のどこを見るかを大きく変えた可能性がある」と考える方が正確である。
そして、その方がむしろ面白い。
文章は一文字も変わっていないのに、作品の中心が少し移動して見えるからである。
『半沢直樹』では、映像が原作の名前まで変えていった
現代的な例として分かりやすいのが、池井戸潤の『半沢直樹』シリーズである。
2013年にテレビドラマ『半沢直樹』が放送される以前、原作第一作の題名は『オレたちバブル入行組』、第二作は『オレたち花のバブル組』だった。
ところがドラマが大ヒットすると状況が一変する。
放送前にはそれぞれ数十万部規模だった発行部数が急増し、ドラマ開始から約50日後には二作品の合計発行部数が200万部を超えた。
ここまでは、映像化による典型的な販売促進効果といえる。
しかし、その後が興味深い。
現在では講談社文庫版が『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』『半沢直樹2 オレたち花のバブル組』という形で整理されている。
つまり最初は本の題名ですらなかった「半沢直樹」という主人公名が、ドラマによって巨大なブランドとなり、そのブランドが原作側へ戻ってきたのである。
原作がドラマを生み、ドラマが「半沢直樹」という名前を社会へ広げ、その名前によって再び原作シリーズが編成される。
出発点と帰着点が一周している。
もちろん、これは文学的評価が上昇した証拠ではない。むしろ市場的評価と社会的認知が変化した例である。
しかし、作品の受容を考えるうえでは非常に重要な現象だろう。
映像化が成功すると、原作の登場人物が作品から外へ飛び出し、社会の共有物になることがある。そしていったん共有物になった人物像が、今度は原作を読む人の頭の中へ戻ってくる。
「倍返し」という言葉を知り、堺雅人が演じた半沢の表情を知っている読者が、小説の半沢を完全に何も知らない状態から想像することは難しい。
原作の人物は変わっていない。
それでも読者の中にいる半沢直樹は、もうドラマ以前の半沢直樹とは同じではないのである。
『白い巨塔』は、何度も「現在」に戻ってくる
山崎豊子の『白い巨塔』は、さらに異なる形で映像化の力を示している。
この作品は、映像化される以前から高く評価されていた。大学病院という巨大な組織の中で、一人の医師が上を目指していく過程を描きながら、その成功の陰で何が失われるのかを問い続ける小説である。教授選をめぐる駆け引きや医療過誤裁判は物語を動かす装置であると同時に、専門職が組織の論理に飲み込まれていく姿を映し出している。
それでも『白い巨塔』は何度も映像化されてきた。
2003年のテレビドラマ版では物語の舞台が当時の現代へ移され、医療環境も現代に合わせて再構成された。2019年にも再び大型ドラマとして映像化されている。
なぜ、半世紀以上前に書かれた大学病院の物語が、何度も現代へ移されるのだろう。
おそらく『白い巨塔』が描いているものが、医学技術そのものではないからである。
財前五郎が求める地位や成功は、単なる個人的な野心として描かれているのではない。組織の中で評価され、権力を持とうとするとき、人間はどこまで自分の倫理を保てるのかという問題がその背後にある。里見脩二との対照もまた、成功と良心のどちらを選ぶのかという単純な二者択一ではなく、専門家が社会の中でどう生きるのかという問いにつながっている。病院の設備や制度が変わっても、その問いそのものは簡単には古くならない。
そこで映像化は、作品を「昔の大学病院を描いた小説」から、もう一度「現在の社会にもつながる物語」として提示する役割を果たす。
ただし、これも「ドラマ化によって原作の文学的評価が上昇した」と言うのは難しい。
むしろ重要なのは、古典となりつつある作品が、映像化によって何度も現在の時間へ呼び戻されていることである。
名作が生き残るとは、単に絶版にならないことではない。
時代が変わるたびに、その作品へ新しい問いを投げかけることができるということなのかもしれない。
映像化は原作の「第二の初版」になる
こうして四つの作品を比べると、映像化が原作へ及ぼす影響は作品ごとにかなり異なっていることが分かる。
『犬神家の一族』の場合、映画と出版の連動は一冊の売上を伸ばすだけにとどまらず、横溝正史という作家そのものを新しい読者へ送り届ける力になった。『砂の器』では、映画が原作の父子関係を大きく膨らませたことで、読者がどこに作品の感情的な中心を見るかに影響した可能性がある。
さらに『半沢直樹』では、映像によって主人公の名前が独立したブランドとなり、その知名度が原作の出版形態にまで戻ってきた。『白い巨塔』の場合には少し性質が異なり、繰り返し映像化されることで、過去に書かれた物語がその時代の問題として何度も提示され直している。
これらを一括して「文学的評価が上がった」と呼ぶのは粗すぎる。
しかし、そこには確かに共通する現象がある。
映像化によって、社会が原作を見るための枠組みが変化しているのである。
作品そのものは変わらない。
文章も変わらない。
それなのに、同じ本が以前とは少し違って見える。
ここに映像化と文学の関係の面白さがある。
映画やテレビドラマは原作から物語を借りるだけではない。成功した映像作品は、文章の中にしかいなかった人物へ具体的な顔や声を与え、物語の一場面を社会全体が共有できる記憶へ変えていく。ときには原作ではそれほど大きくなかった要素が映像によって強調され、やがて作品そのものを象徴するものとして定着することさえある。
そして、その記憶を持った人々が再び本へ戻ってくる。
だから映像化された小説には、二度の刊行があると考えてみてもよい。
一度目は、作家が書いた作品が本として世に出たときである。
そして二度目は、その作品が映画館やテレビ画面を通り抜け、別の記憶をまとって再び読者の手元へ戻ってきたときだ。
二度目の初版では、文章は一文字も変わっていない。
それでも、同じ作品ではない。
正確に言えば、変わったのは本ではなく、その本を見る社会の目なのである。

