近松門左衛門の虚実皮膜論は、令和の文学にも通じるのか
「これは実話をもとにした物語です」という一言が付いただけで、作品の見え方が少し変わることがある。同じ悲劇でも、本当に起きた出来事だと思えば登場人物の苦しみが急に身近に感じられる読者もいるだろうし、逆に完全な創作だと知っているからこそ安心して物語へ入り込める人もいる。実際、心理学の研究でも「実話に基づく」という情報が作品のもっともらしさや評価を高める場合がある一方、没入感や好感度に明瞭な違いが生じない場合も報告されている。つまり、人間は単純に「事実だから感動する」のではなく、事実と虚構の関係を意識しながら物語を読んでいるのである。
この複雑な感覚を考えていくと、三百年ほど前の大坂で人形浄瑠璃を書いていた近松門左衛門の言葉へ行き着く。近松の芸術論として有名な「虚実皮膜論」である。しかし、この言葉を「文学は現実と嘘を半分ずつ混ぜればよい」という意味に取ってしまうと、近松が考えていた問題の面白さはほとんど失われてしまう。彼が問うていたのは、事実と虚構をどの割合で混ぜるかではなく、現実そのものと、人間が「現実らしい」と感じる表現との間には、なぜずれが生じるのかという問題だった。
「虚実皮膜論」という本を近松が書いたわけではない
まず押さえておきたいのは、近松自身が『虚実皮膜論』という著書を書いたわけではないということである。近松は体系化された芸術論を著書として残しておらず、今日「虚実皮膜論」と呼ばれている考え方は、近松の死後、穂積以貫が近松から聞いた話として『難波土産』に記したものを中心に後世まとめられたものである。そこには「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」という有名な言葉が伝えられており、現在では一般に、芸術は現実そのものでも完全な作り事でもなく、その微妙な接触面に成立するという芸論として理解されている。
ただし、この「間」という言葉を数学的な中間地点のように考えてはいけない。現実が五割、虚構が五割という話ではなく、現実に忠実でありすぎても芸にはならず、現実から離れすぎても観客には届かないという、表現の微妙な距離について語られているからである。
近松がこの問題を考えた背景には、人形浄瑠璃という芸能そのものが抱えていた矛盾がある。舞台上の人形は木でできており、本当の感情も人生経験も持っていない。それにもかかわらず、観客は人形の恋に胸を痛め、人形の死に涙を流す。生きていない木偶が、ときには生身の人間以上に「生きている」と感じられるのである。これは現実を忠実に再現するだけでは説明できない現象だった。
本物そっくりなら、本当にリアルなのか
『難波土産』に伝えられた近松の話には、この問題を象徴する興味深い例がある。家老を演じる役者について、本物の家老そのままに振る舞えば、それで優れた芝居になるのかという問題である。現実の家老が舞台役者のような化粧をしているわけではないのだから、現実を忠実に再現しようとすれば、むしろ舞台上では地味で分かりにくい人物になってしまうかもしれない。そこで役者は現実を少し変形し、観客が「家老らしい」と感じる身振りや表情を作り出す。そのとき舞台上に現れるのは現実の家老のコピーではないが、観客にはかえって家老らしく見える。
さらに『難波土産』には、恋する女性のために、愛する男性の姿を毛穴や歯の数までそっくりに再現した木像を作ったところ、あまりにも生身の人間そのままであったため女性が気味悪がってしまった、という趣旨の逸話も伝えられている。この話を史実そのものとして受け取る必要はないが、近松の芸論を説明する比喩としては非常に分かりやすい。私たちが「本物らしい」と感じるものと、本物を寸分違わず複製したものとは、必ずしも同じではないのである。
写真より肖像画の方が、その人物らしく見えることがある。実際の会話より、巧みに作られた映画の台詞の方が人間の本音を言い当てているように感じることもある。人間がリアリティと呼んでいるものは、現実との物理的な一致だけによって生まれるのではなく、見る側が持っている経験、期待、感情、物語の文脈などによって作り上げられている。
小説は、現実を削ることで現実に近づく
この考えを小説に置き換えると、虚実皮膜論は急に現代的になる。例えば実際の夫婦喧嘩を三十分録音し、一言一句そのまま文字に起こしたとする。そこには沈黙、言い直し、同じ話の繰り返し、話題の脱線、本人たちにしか分からない言葉などが大量に含まれているだろう。それは記録としては忠実だが、読者がその夫婦の関係を理解する文章として優れているとは限らない。
小説家はそこから不要な部分を削り、何度も繰り返された言葉を一つの台詞へまとめ、実際には数日離れて起きた出来事を一晩の出来事として組み直すかもしれない。現実には降っていなかった雨を降らせることさえあるだろう。そうして事実から離れていくにもかかわらず、作品の中では、二人の間にあった怒りや寂しさや未練が現実以上にはっきり見えてくることがある。
ここに文学の奇妙さがある。虚構を加えることによって事実から離れているはずなのに、人間の感情については、かえって現実へ近づく場合があるのである。
近松が女形について語った話も、この問題とつながっている。現実の女性なら実際には口にしないような言葉を舞台上の女性に言わせることで、現実の女性が胸の内に秘めている「情」を表現できることがある。実際の言動をそのままコピーするのではなく、現実には存在しなかった言葉を作ることで、現実に存在していた感情が観客に見えるようになる。
したがって、虚実皮膜論を単なる「嘘を上手に混ぜる技術」と考えるのは適切ではない。そこにはむしろ、「事実を正確に写すことと、人間についての真実を表現することは同じなのか」という、現在の文学にもそのまま残っている問いがある。
「虚構だから感情移入できない」は本当なのか
心理学的に考えても、虚構であると分かっている物語が人間の感情を動かすこと自体は不思議なことではない。私たちは映画を見ながら、スクリーンに映っている人物が俳優であることを知っている。それでも登場人物が死ねば悲しくなり、危険な場面では緊張する。小説についても同様で、そこに書かれている人物が実在しないと理解していても、その人物の人生を頭の中で想像し、感情を追体験することができる。
物語研究や認知心理学では、フィクションを人間関係や感情を疑似的に経験する一種のシミュレーションとして捉える考え方がある。ただし、文学を読めば必ず共感性が高まるとか、実話だと分かれば必ず感動が強くなる、とまで言うことはできない。読者の性格、作品のジャンル、物語への没入の程度などによって結果は変わり、研究でも一貫した効果が出ているわけではないからである。
それでも、虚構だと理解しながら人間が泣いたり笑ったりできるという現象そのものは確かに存在する。近松が人形浄瑠璃の舞台で向き合っていたのも、結局はこの問題だったのではないだろうか。観客は人形が木でできていることを知っている。それでも、その木偶の中に人間を見る。その瞬間、虚構は現実の代用品ではなく、現実を感じるための別の経路になる。
令和の文学では「皮膜」がますます見えやすくなった
虚実皮膜論が令和になって突然復活したわけではない。文学は昔から、現実から距離を取るためだけではなく、現実を別の角度から見せるためにも虚構を用いてきた。したがって、「昔の虚構は現実から逃げるためのものだったが、現代になって現実と近づいた」と単純に整理することはできない。
ただし現代文学では、事実と虚構の境界そのものを作品の仕掛けにする作品が以前にも増して意識されている。その代表として挙げられるのが、オートフィクションである。
オートフィクションという言葉そのものは令和になって生まれたものではなく、一般にはフランスの作家セルジュ・ドゥブロフスキーが1977年に用いた概念として知られている。作者自身の人生と物語上の人物を近づけながら、どこまでが事実でどこからが創作なのかを意図的に揺らす作品では、読者は「これは作者本人の経験なのだろうか」と考えながら読むことになる。そのため、事実と虚構の境界が消えるというより、むしろ境界そのものが目立つようになる。
日本文学には、それ以前から私小説という大きな伝統がある。もちろん私小説とオートフィクションは同じものではなく、その成立事情も文学制度も異なる。しかし、作者、語り手、主人公の距離が読者の読み方に影響するという点では、両者を比較する意味はある。作者本人に似た人物が登場すれば、読者は作品世界の外側にいる作者の人生まで意識するようになり、その結果、作品の中の一文が単なる創作ではなく、作者自身の告白のように感じられることさえある。
ここでも不思議な逆転が生じる。虚構を加えれば現実から遠ざかるはずなのに、読者にはかえって「これは作者の本音なのではないか」と感じられる場合がある。作れば作るほど本当らしくなり、本当らしく書けば書くほど、どこまでが本当なのか分からなくなる。その不安定な境界こそ、現代の読者が歩いている「皮膜」なのである。
文学の虚構と「嘘」は同じではない
もっとも、虚実皮膜論を令和へ持ち込む際には、慎重に区別しておかなければならないことがある。現在では事実と虚構の境界が揺らぐ現象が、文学だけでなくニュース、広告、動画、SNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にも広がっているため、「真実と嘘の境界など曖昧なのだ」と言ってしまえば、文学の虚構と偽情報を同じものとして扱うことになりかねないからである。
しかし両者は根本的に違う。小説を読むとき、読者は基本的にそこに書かれている出来事が創作であり得ることを承知している。芝居を見る観客も、舞台上で起きた殺人を現実の事件だとは考えない。その暗黙の約束が存在するからこそ、作者は実際には起きなかった出来事を作り、現実には存在しない人物を生きさせることができる。
一方、ニュースとして提示される情報には、「これは現実に起きた出来事について述べている」という別の約束がある。そこで意図的に虚偽を事実として示せば、作品内部で虚構を作るのとは意味がまったく違う。
したがって近松の「虚と実の皮膜」は、真実と嘘を区別しなくてもよいという思想ではない。むしろ虚構であると分かったうえで、その虚構から人間についての真実を感じ取るという、芸術固有の仕組みを考えたものとして読む方が自然である。
生成AIは、現代の「人形」なのか
そして令和には、近松の時代には存在しなかった新しい問題が加わった。生成AI(Generative Artificial Intelligence・生成型人工知能)である。
生成型人工知能は、大量の文章から言語のパターンを学習し、小説らしい文章、恋愛小説らしい台詞、悲しい回想のような文章まで生成することができる。その登場によって、「作者とは誰なのか」「創造性とは何なのか」「人間と道具の境界をどこに置くのか」といった問いが、文学や芸術の世界でも改めて議論されるようになった。
ここで人形浄瑠璃を思い出すと、不思議な類似が見えてくる。木偶には人生経験も感情もない。それにもかかわらず、近松の文章、太夫の語り、人形遣いの動きが重なれば、観客はその人形の悲しみに涙する。生成型人工知能にも、人間と同じ意味で幼少期の記憶や失恋経験があるわけではない。それでも生成された文章を読んだ人間が、そこに悲しみや孤独を感じることはあり得る。
もちろん、人形浄瑠璃と生成型人工知能が同じだということではない。これは科学的な同一性ではなく、表現の構造を比較するための類推にすぎない。しかし、感情を持たない媒体を通して、人間が感情を受け取るという点では興味深い共通性がある。
むしろ近松から学べるのは、木偶だけを見ても人形浄瑠璃を理解できないということである。そこには作者がおり、太夫がおり、三味線があり、人形遣いがいる。同じように生成型人工知能を用いた作品についても、機械が文章を生成したという一部分だけを見るのではなく、誰が指示を与え、誰が文章を選び、どこを削り、どのような作品として提示したのかという制作過程全体を見る必要があるだろう。
そう考えると、令和に現れた「皮膜」は、事実と虚構の境界だけではない。人間と機械、経験と言葉、作者と道具、創作と編集の境界にも、新しい皮膜が生まれている。
文学は「本当のことを書く技術」ではない
では、近松門左衛門の虚実皮膜論は、令和の文学にも通じるのだろうか。結論を言えば、十分に通じる。ただし、それは近松が三百年前にオートフィクションや生成型人工知能を予言していたという意味ではないし、人形浄瑠璃のために語られた芸論を、そのまま現代の文学理論として使えるという意味でもない。
それでも、近松が向き合った問いそのものは古びていない。現実そのものよりも作られた物語の方が、人間に現実を強く感じさせることがあるのはなぜなのか。実際には誰も口にしなかった台詞が、なぜ人間の本心を言い当てているように聞こえるのか。作者が体験した出来事をそのまま記録した文章より、存在しない人物について書かれた小説の方が、なぜ自分自身の人生について考えさせてくれることがあるのか。
文学は現実をそのまま映す鏡ではない。もし完全な鏡ならば、そこに映るのは私たちが毎日見ている現実と同じものだけである。しかし文学は現実を削り、並べ替え、誇張し、時には存在しなかった出来事を加える。その加工された像を通して初めて、日常の中では見落としていた人間の感情や社会の姿が見えてくることがある。
だから優れた小説を読み終えた読者は、ときに「こんなことは現実には起こらないだろう。それでも、なぜか分かる」と感じる。考えてみれば不思議な感想である。事実ではないと理解しながら、その物語を真実のように受け取っているからである。
三百年前、近松門左衛門が「実」と「虚」の間に見ていたものは、まさにこの奇妙な場所だったのかもしれない。事実だけでは届かず、嘘だけでも届かない。その薄い境界で、作り物が突然、人間の現実へ触れる。
令和になっても文学が文学であり続ける限り、その皮膜が消えることはないだろう。むしろ実話と創作、人間と生成型人工知能、記録と物語の境界が以前より複雑になった現在だからこそ、近松の古い言葉は思いがけず新しく響く。三百年前の人形浄瑠璃の舞台と、令和の小説や生成型人工知能との間には途方もない時間が流れているが、そこで人間が問うていることは、案外変わっていないのである。

