国語の教科書を久しぶりに開いてみると、不思議な再会がある。
芥川龍之介、夏目漱石、宮沢賢治、森鴎外、中島敦。使われている作品や教科書会社、学校段階によって顔ぶれは異なるが、何十年分かの国語教科書を眺めていると、同じ作家や同じ作品が驚くほど長く読み継がれていることに気づく。何十年も前に学校を卒業した人が現在の教科書を見ても、「これは自分も習った」と感じることが珍しくない。
文学の世界には毎年、新しい小説が生まれている。昭和から平成、令和へと社会が変わり、私たちが日常で読む文章も大きく変化した。それなのに、教科書の中では百年以上前に生まれた文学作品がなかなか席を立たない。
いったいなぜなのだろう。
そこには「名作だから」という一言では説明できない、教科書という本に特有の事情がある。
文部科学省が「芥川龍之介を載せなさい」と決めているわけではない
まず知っておきたいのは、国語教科書に掲載する作家や作品を、文部科学省が一つ一つ指定しているわけではないということである。
日本の教科書制度では、基本的に民間の教科書発行者が学習指導要領や教科用図書検定基準などをもとに教科書を著作・編集し、文部科学大臣の検定を受ける。検定に合格した教科書の中から、教育委員会や学校などが実際に使用するものを採択する仕組みになっている。したがって出版社には教材を選ぶ余地がある一方、どんな文章でも自由に掲載できるという意味ではない。教科書として教育上適切であり、学習指導要領との整合性を持っていることが求められる。
ここが、一般の文学全集と教科書との決定的な違いである。
文学全集なら、「文学史上重要な作品だから」という理由で収録することができる。しかし教科書の場合、作品そのものの価値だけでは十分ではない。その文章を使って何を学ばせるのか、どの年齢の生徒にどのような思考を促すことができるのか、限られた授業時間の中で教材として成立するのかまで問われる。
教科書に載っている文学作品は、文学であると同時に「教材」なのである。
ここに、同じ作家や作品が長く教科書に残り続ける理由を解く鍵がある。
「良い小説」と「良い教材」は必ずしも同じではない
世の中には傑作と呼ばれる小説が数多くある。しかし、そのすべてが国語の授業に向いているわけではない。
長大な小説を一冊丸ごと扱うには授業時間が足りない。高度な背景知識がなければ理解しにくい作品もある。文学作品として魅力的であっても、授業の中で文章を手掛かりに考えを深めていくことが難しい場合もある。
反対に、長く教科書に残る作品には、何度読んでも問いを生み出せるという特徴がある。
芥川龍之介の『羅生門』を読めば、下人はなぜ老婆の着物を奪う側へ回ったのかという問いが生まれる。中島敦の『山月記』なら、李徴を虎にしたものは才能への執着だったのか、臆病な自尊心だったのか、それとも社会との関係だったのかを考えることができる。夏目漱石の『こころ』では、先生とKの行動を追ううちに、友情や嫉妬、罪悪感、さらには明治という時代そのものへと問題が広がっていく。
教師が正解を一つ説明して終わるのではなく、生徒が本文の言葉へ何度も戻りながら考えることができる。
これは教材として非常に強い。
高等学校学習指導要領解説でも、文学的な文章を読むことは、単に物語の筋を理解することではなく、登場人物の考え方や生き方に共感したり疑問を持ったりしながら思索を深め、人間や社会などについての見方や考え方を広げていく学習と結び付けられている。
そう考えると、教科書会社が長い時間をかけて同じ作品へ戻ってくることは、それほど不思議ではなくなる。
優れた文学作品だから教科書に残る。それだけではない。
優れた作品の中でも、授業という場所に置いたときに、生徒に考えさせる余地を持ち続ける作品が残っていくのである。
『羅生門』は最初から「定番」だったわけではない
さらに興味深いのは、現在では定番と思われている教材も、最初から教科書の指定席を持っていたわけではないことである。
その代表が『羅生門』だろう。
国語教育研究によれば、『羅生門』が高等学校の教科書教材として初めて採録されたのは1956年とされる。その後、採録率は1973年には40%、1982年には83%へと上昇し、2003年に「国語総合」が始まった時期には100%に達したとされている。
これは重要な事実である。
『羅生門』は、ある日突然、「国民的教材」に選ばれたわけではない。
教室で使われ、研究され、次の教科書にも採用され、その積み重ねの中で少しずつ定番になっていった。
研究では、『羅生門』が定着した理由の一つとして、小説の基本的な読み方を学ばせやすく、指導すべき内容が比較的明確であることも指摘されている。
ここに、教科書という世界の興味深い性質が見える。
一度教材として定着すると、その作品について多くの授業実践が生まれる。教師用の指導資料が整い、どのような問いを立てれば生徒の読みが深まるのかという研究も蓄積していく。教師自身が学生時代に同じ作品を読んでいることもある。
昨日まで誰も歩いたことのない山道より、何十年も人が歩き続けた登山道の方が歩きやすいのと少し似ている。
道には標識が立ち、どこが急坂なのかが知られ、どこで迷いやすいのかについても情報が積み重なっている。
そうなると、「良い作品だから教科書に載る」という一方向の関係は、やがて「教科書に載り続けたことによって、さらに教材として使いやすくなる」という循環へ変わっていく。
定番は、名作だから生まれるだけではない。
使われ続けることによって、定番としての強さを増していくのである。
定番化には「出版社が外しにくくなる」という側面もある
しかし、『羅生門』が2003年に採録率100%に達した理由を、「作品が優れていたから」「授業で教えやすかったから」だけで説明すると、もう一つ重要な側面を見落とす。
国語教育の研究では、教科書市場そのものの構造にも注目されている。
少子化によって高校生の数が減れば、当然ながら教科書市場も縮小する。その中で複数の出版社が採択を競えば、すでに学校現場で広く受け入れられている教材を外して、未知の教材へ大きく入れ替えることには一定のリスクが生じる。実際、『羅生門』の採録率100%という現象については、作品固有の価値だけではなく、教科書市場の縮小や、出版社間で教材のラインナップや配列が似ていく「同質化」という側面からも説明すべきだという研究がある。
これは、教科書を考えるうえで非常に面白い視点である。
ある教材が多くの学校で使われる。教師がその教材に慣れる。指導法が蓄積する。すると次の教科書でもその教材を採用する利点が大きくなり、他社も同じ教材を残す。
こうして定番は、文学的評価だけではなく、教育現場と出版市場の双方によって強化されていく可能性がある。
「昔から名作と決まっていたから残っている」のではない。
文学的価値、教材としての使いやすさ、現場の慣れ、出版側の判断が互いに作用しながら、長い時間をかけて「教科書の定番」が形成されていくのである。
同じ作品を読む人が変われば、作品も違って見える
それでも、別の疑問は残る。
昔から読まれてきた作品ばかりを扱うくらいなら、もっと新しい作家や作品を教科書に入れた方がよいのではないか。
これはもっともな疑問である。
一方で、一度読んだ文学作品を後になって読み返すことにも、文学ならではの意味がある。
十二歳の読者と十七歳の読者では、同じ文章を読んでも見えているものが違う。さらに三十歳、五十歳になれば、学生時代には理解できなかった登場人物の弱さが突然分かることもある。
作品の文字は変わっていない。
変わっているのは読者である。
高等学校学習指導要領解説でも、文学作品の解釈は読む人の年齢や経験などによって異なり得ることが説明されている。文学には、作品を読むことと、読み手自身の人生経験とが切り離せない部分がある。
子どものころには、ただ奇妙だと思った登場人物が、大人になって読むと痛々しく感じられることがある。若いころには理解できなかった人物の妥協に、何十年か後には自分自身の姿を見つけることさえある。
文学には、読む人間の年齢によって、作品の方が姿を変えたように感じられる瞬間がある。
だから昔、学校で読んだ文学作品を大人になって読み返すことは、単なる復習ではない。
それは作品との再会であると同時に、その作品を読んでいた昔の自分との再会でもある。
しかし「定番」であることには危うさもある
ここまで読めば、「それなら昔からの教材を残しておけばよい」と思うかもしれない。
しかし、話はそれほど単純ではない。
定番教材が使いやすければ使いやすいほど、新しい作品が入り込みにくくなるという逆の問題が生まれるからである。
長年使われている作品には授業実践がある。教師用資料がある。生徒がどこで迷いやすいかについても経験が共有されている。一方で、新しい作品にはその蓄積がない。
すると、新しい作品が文学的には優れていても、「教材としてどう使えばよいか分からない」という理由で不利になる可能性がある。
しかも、社会そのものは変化している。
家族のあり方も、仕事も、人と人との関係も変わった。日本社会の中で暮らす人々の背景も多様になった。インターネットやスマートフォンによって言葉との付き合い方さえ変化している。
百年前の作品から人間について考える意味は失われていない。しかし、百年前の作品だけで現代社会を生きる人間のすべてを映し出せるわけでもない。
だから定番教材は、「昔から載っているから」という理由だけで残るべきではない。
なぜ今、この作品を読むのか。
この問いは、文学作品を読む生徒だけではなく、作品を選ぶ側にも向けられなければならない。
長く使われているという事実は、その作品が教材として優れてきたことを示す一つの材料になる。しかし、長く使われていること自体を、永遠に使い続ける理由にしてしまえば、教科書は少しずつ現代社会から離れてしまう。
伝統とは、おそらくそういうものなのだろう。
ただ残っているものを守ることではなく、なぜ残すのかを問い直しながら、それでも価値があると考えられるものを次の世代へ渡していくことである。
教科書は「日本文学ベスト100」ではない
国語教科書を文学史上の名作ランキングだと思って眺めると、不思議なことがたくさん起きる。
なぜ、あの大作家が載っていないのか。
なぜ、この作品は何十年も残っているのか。
なぜ、現代のベストセラー作家より百年前の作家の方が目立つのか。
しかし教科書を「優れた文学を順番に並べた本」ではなく、「言葉を通じて考えるために設計された本」と考えると、その景色は変わってくる。
そこでは作品の文学史的価値だけでなく、文章の長さや難易度、表現の豊かさ、問いを生み出す力、学習目標との関係、長年蓄積された授業実践、さらには教科書会社がどの教材を採用するかという出版上の判断までが絡み合っている。
だから、同じ作家や作品が何十年にもわたって教科書へ戻ってくる。
彼らは単に偉大だから教科書に住み続けているのではない。
何世代もの生徒を相手にしながら、それでもなお問いを生み出すことのできた作品なのである。
『羅生門』を読んだ高校生が、「自分なら下人と同じことをしないと言い切れるだろうか」と考える。
『こころ』を読んだ生徒が、「先生はなぜもっと早く誰かに話すことができなかったのだろう」と考える。
その瞬間、百年前の文章は文学史の資料ではなくなる。
教室の中で、もう一度現在形になる。
おそらく国語教科書に長く残る作品とは、古くならない作品なのではない。
古くなっても、その時代を生きている読者に新しい問いを返してくる作品なのだ。
そして何十年たっても同じ作家の名前を教科書で見つける理由も、最後にはそこへ戻ってくる。
作品は同じでも、それを読む私たちは、もう昔と同じ読者ではないのである。

