リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 美術館へ行き、これまで画集やテレビ、インターネットで何度も見てきた絵の前に立ったとき、「こんな絵だったのか」と思うことがある。想像していたより小さいこともあれば、反対に、こちらの身体を包み込むほど大きく感じることもあり、色についても、画面で見ていたものより暗く見えたり、ある部分だけが不思議なほど明るく浮き上がったりする。何度も見たはずなのに、実物を前にした瞬間、初対面の作品のように感じられるのである。

 ここには少し奇妙な問題がある。私たちは美術館へ行く前から、その絵を知っていたはずだからだ。構図も知っている。描かれている人物も知っている。作者の名前も知っている。それどころか、デジタル画像なら拡大して細部まで見たことがあるかもしれない。それでも原画を見ると、画像とは違う経験をしたように感じる。このずれを考えていくと、「絵を見る」とは何をしていることなのか、という思いのほか難しい問いに行き着く。

私たちは絵を見ているのか、それとも絵の情報を見ているのか

 スマートフォンに表示された一枚の絵にも、人物、風景、構図、色彩、線、明暗は存在している。何が描かれているのかを知ることが目的なら、画像でもかなりのことが分かるし、むしろ画像には実物にはない利点すらある。作品を自由に拡大でき、複数の絵を並べて比較でき、世界中の美術館に散らばった作品を数秒で行き来できるからである。

 したがって、「画像は偽物であり、原画を見なければ本当の鑑賞ではない」と考えるのは、科学的にも文化的にも単純すぎる。実際、原物と複製を比較した心理学的研究では、美的評価に明確な差が現れなかった例がある。2015年に行われた研究では、110人の参加者を、美術館か実験室か、原物か複製かという条件に分け、作品への好み、興味、感情的な反応、理解度などを比較したが、場所にも原物性にも明確な効果は確認されなかった。

 ただし、この結果をそのまま「原画と画像は同じである」という証明に使うこともできない。この研究で扱われたのは主として現代のコンセプチュアル・アートであり、油絵の絵具の厚みや表面の質感そのものが重要になる作品とは条件が異なるからである。つまり、研究が示しているのは「原物なら必ず高く評価されるわけではない」ということまでであり、「あらゆる作品において原画と画像は同じである」とまでは言えない。

 さらに2023年に発表された複数研究のメタ分析でも、原物が複製より高く評価される傾向そのものは小さいながら認められたものの、その差の多くには、美術館で原物を見た場合と実験室で複製を見た場合を比較しているという問題が含まれていた。原物だから評価が高まったのか、美術館という環境だから高まったのか、それとも両方なのかを区別しにくかったのである。

 ここから分かるのは、本物と画像の問題が、意外なほど単純ではないということである。

絵は平面に見えて、実は平らではない

 油絵を近くで見ると、画像では分からなかったものが現れる。絵具は場所によって厚く盛られ、筆が通った跡が残り、表面には細かな凹凸があるため、見る位置や照明によって光の反射が変わる。画面では一枚の平らな長方形に見えていたものが、実際には表面を持つ物体として存在しているのである。

 この違いは、単純に画像の解像度を上げれば消えるとは限らない。どれほど精密に撮影しても、その画像を通常のディスプレイで見るとき、私たちは絵具の表面で反射した光そのものではなく、ディスプレイが発した光によって再構成された像を見ることになる。さらに、本来数十センチしかない作品も、数メートルの大作も、同じスマートフォンの画面に表示すれば似た大きさになってしまう。

 この「大きさ」は、単なる作品データではない。作品と鑑賞者の身体との関係そのものを変えるからである。小さな絵なら自然に近づき、大きな絵なら少し離れなければ全体を見ることができない。近づけば筆触や絵具の盛り上がりが現れ、離れればそれまで断片にしか見えなかった色や形が一つの構図に戻っていく。その往復が、原画を見る行為の一部になる。

 ところが画像では、作品へ身体を近づける代わりに、指で拡大することができる。これは非常に便利だが、作品との距離を身体によって調整する経験とは違っている。画像は私たちを作品の大きさから解放する一方で、作品の大きさに身体を従わせる経験も失わせるのである。

美術館で感動しているのは、本当に絵だけなのか

 ここで逆方向から疑ってみる必要もある。原画を見て感動したとして、その感動は本当に原画そのものだけから生まれているのだろうか。

 美術館には、静かな展示室があり、照明があり、壁があり、額縁があり、その横には作品名と作者名が記されている。そこへ行くまでに電車に乗り、入館料を払い、いくつもの展示室を歩き、ようやく有名な作品の前へたどり着くこともある。そのとき私たちは、ただ色と線だけを見ているのではなく、「いま本物を見ている」という知識も含めて作品を経験している。

 実際、美術館で作品を見る場合と、実験室で画像を見る場合を比較した研究では、美術館にいる参加者の方が一つの作品を長く眺め、作品をより好ましく、より興味深いものとして評価した例がある。また別の研究では、美術館で鑑賞した作品の方が後から思い出されやすく、作品が展示されていた場所などの空間情報も記憶の手掛かりとして利用されていた。

 ただし、ここで慎重でなければならないのは、その差をすべて「原画の力」と呼ぶことはできないという点である。美術館という場所そのもの、展示空間の雰囲気、周囲に他の作品が存在していること、鑑賞するために時間を取って訪れたという行動など、多くの条件が同時に変わっているからである。

 つまり、美術館での鑑賞体験が豊かになることを示す研究はあっても、それが作品の原物性だけによって生じたと断定できるわけではない。むしろ現在の研究からは、作品そのものと、それを取り囲む環境との組み合わせが鑑賞体験を作っている、と考える方が自然である。

 旅先で飲んだ一杯のコーヒーが、自宅で同じ豆を使って淹れた一杯とは完全には同じ経験にならないのと少し似ている。成分だけを分析すれば同じでも、経験は成分だけから作られているわけではない。

「これは本物だ」と知るだけでも、絵の見え方は変わる

 さらに興味深いのは、原物そのものだけでなく、「これは本物である」という知識が人間の評価に影響することである。

 目の前に見分けがつかないほど似た二枚の絵があり、一方には「作者本人が描いた作品」、もう一方には「後世につくられた複製」と説明されていたら、私たちは本当にまったく同じように見ることができるだろうか。

 心理学や神経科学の研究では、作品が本物だと思われているか、コピーだと思われているかという情報が、その作品に対する判断や脳活動に影響する可能性が示されている。レンブラントとレンブラント風作品を用いた研究では、参加者に「本物」「コピー」という情報を与えたところ、作品を見るときの脳活動に違いが現れた。

 もっとも、ここでも注意が必要である。この結果は、人間の目に入ってくる色や形そのものが別物に変化したことを示しているわけではない。むしろ、作品に対する期待、価値判断、作者についての知識などが、鑑賞体験を構成する認知過程に加わっていると考える方が適切である。

 考えてみれば、百年以上前に描かれた絵の前に立つとき、私たちは色と線だけを見ているわけではない。このキャンバスの前に実際に作者が立ち、ここへ筆を置いたのだという事実を想像する。その後、作品が所有者を変え、戦争や移動や保存の時間を通過し、それでも同じ物体として目の前にあると知れば、作品には視覚情報だけでは説明しきれない時間の感覚が重なってくる。

 ここから先は、科学というより哲学の領域に近づいていく。

ベンヤミンが考えた「アウラ」

 20世紀の思想家ヴァルター・ベンヤミンは、写真や映画のような複製技術が発達する時代に、芸術作品の「アウラ」という問題を考えた。単純化して言えば、それは作品が「いま、この場所にしか存在しない」という一回性や真正性と結びついた独特の存在感である。

 原画は同時に世界中へ存在することができない。東京にあればパリにはなく、美術館に展示されていれば自宅にはない。ところが画像なら、一つの作品をほぼ無限に複製し、世界中で同時に見ることができる。この差は単なる技術の違いではなく、作品と人間との関係そのものを変える。

 ただし、ベンヤミンの議論を「複製は悪く、本物だけが優れている」と読むのは適切ではない。彼が見ていたのは、複製によって作品が特定の場所や権威から解放され、多くの人が芸術へアクセスできるようになる変化でもあった。複製技術は、作品から何かを失わせる可能性を持つ一方、作品を社会へ開く力も持っていたのである。

 この問題は、スマートフォンの時代にはさらに大きくなっている。かつて王侯や富裕層、一部の旅行者しか見ることのできなかった作品を、現在では世界中の人が日常的に見ることができる。それは美術史の中でも、きわめて大きな変化である。

画像だからこそ見えるものもある

 ここまで読むと、原画の方が豊かで、画像はその不完全な代用品に思えるかもしれない。しかし、それも正確ではない。

 高精細なデジタル画像なら、作品の一部分を極端に拡大できる。人間の目では気づきにくい筆触や細部を比較し、同じ作者の複数作品を並べて見ることもできる。さらに美術保存や修復の現場では、通常の写真だけでなく、赤外線撮影、X線撮影、分光技術、三次元表面計測などが用いられ、肉眼では見えない下描きや修正跡、顔料の違い、表面の微細な形状まで調べることができる。

 つまり、画像技術は原画の代用品であるだけではない。人間の目では見えない作品の側面を発見するための道具にもなっているのである。

 ここで、本物と画像を「本物は100点、画像は60点」といった一本の尺度で比べることの不自然さが見えてくる。原画には原画にしか得られない情報や経験があり、画像には画像だからこそ可能になる観察や比較がある。それぞれが同じ目的を不完全に果たしているのではなく、そもそも得意とすることが少し違っている。

原画の方が本当に感動するのか

 では、もっと素朴な問いに戻ってみよう。本物の絵を見た方が、画像を見るより人は感動するのだろうか。

 これについても、科学的には単純な答えは出ていない。2018年に行われた研究では、抽象絵画の原物と高品質なデジタル複製を美術館内で比較し、心拍や心拍変動などの生理的反応を測定した。その結果、高品質な複製でも原物に近い自律神経系の覚醒が起こりうる一方、原物の方が「感情の強さ」や「作品に触れてみたい」という一部の主観的評価で高い値を示した。

 これは興味深い結果である。身体が示す生理的反応という意味では高品質な複製でもかなり原物に近づける一方、原物だという認識や物質的な存在感に関係する感情では差が出る可能性があるからである。

 しかし、そのことから「原画なら必ず画像より感動する」と結論することはできない。作品の種類、鑑賞者の知識、展示方法、画像の品質などによって結果は変わる可能性があり、現在の研究でも原物の絶対的な優位性が確立しているわけではない。

本物と画像は同じなのか

 最初の問いに戻る。

 本物の絵を見ることと、その画像を見ることは同じなのだろうか。

 何が描かれているかを確認し、構図を理解し、色の組み合わせを調べるという意味では、画像でも相当なところまで作品を知ることができる。場合によっては、拡大や比較によって原画の前では見落としていた特徴を発見することさえある。その意味で、画像を見ることも確実に「絵を見ること」の一つである。

 しかし、作品の大きさ、表面の凹凸、光の反射、鑑賞距離、自分の身体の動き、その物体が長い時間を経て現在ここに存在しているという認識まで含めれば、画像と原画を完全に同じ経験だと考えることも難しい。

 そしてここで重要なのは、「同じ経験ではない」ということと、「原画の方が優れた経験である」ということは別の問題だという点である。科学的研究は前者を考えるための材料を数多く与えてくれるが、後者については一つの答えを与えてはいない。作品によっても、見る人によっても、見る目的によっても違うからである。

 画像で見ることによって初めて好きになる作品もあるだろう。美術館へ行くことのできない人が画像によって作品と出会うこともある。一方、画像で何十回見ても特別な印象を持たなかった作品が、原画の前に立った瞬間、突然こちらへ迫ってくることもある。

 画像は作品を私たちのところまで運んでくるが、原画は私たちを作品のところまで運ばせる。その違いは、おそらく思っている以上に大きい。

 スマートフォンなら、寝転がったまま世界中の名画を見ることができる。しかし美術館では、自分の方が歩かなければならない。作品に近づき、立ち止まり、離れ、もう一度近づく。その途中で別の作品に目を奪われることもあれば、理由も分からないまま一枚の前から動けなくなることもある。

 そのとき私たちは、単に絵に含まれた視覚情報を受け取っているのではない。自分の身体と時間を使って、一つの物体と向き合っている。

 だから、本物の絵を見ることと画像を見ることは、同じ作品を見る二つの方法ではあっても、完全に同じ経験ではないのだろう。しかし、だからといってどちらか一方を本物の鑑賞と呼ぶ必要もない。

 むしろ画像の時代になったからこそ、私たちは以前より多くの作品を知ることができ、その中から「一度、本物を見てみたい」と思う作品を見つけられるようになった。そして実際にその絵の前に立ったとき、何度も画面で見たはずの作品がまるで違って見えたなら、画像は原画の敵だったのではなく、その出会いを準備していたことになる。

 絵を見るという行為は、目だけで行われているのではない。私たちは色や形だけでなく、大きさを見て、距離を感じ、物質を意識し、作品が通過してきた時間まで想像している。そして同時に、画像を通じて肉眼だけでは到達できない細部を見ることもできる。

 そう考えると、本物と画像のどちらが優れているかという問いよりも、「それぞれによって、私たちは作品の何を見ることができるのか」と問う方が面白い。

 画像がこれほど身近になった時代だからこそ、本物を見るとは何なのかという古い問いが、以前より鮮明に浮かび上がっているのである。

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