リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

数字で読む町の奇譚 第五編

注記

この物語はフィクションです。

作中に登場する潮見町、自治体、人物、統計制度、行政手続、地図、選挙、郵便、公共サービスなどは、すべて架空のものです。

現実の国勢調査や住民基本台帳では、住民が一日だけ町外へ出たからといって、その自治体の人口が直ちにゼロとして確定することはありません。また、人口統計上の誤りを理由に、町が地図、郵便、予算、選挙制度などから自動的に消えることもありません。

本作は、町は人が住んでいるから存在するのか、それとも制度に記録されるから存在できるのか、という問いを描いた幻想小説です。


十月一日の午前八時、潮見町には誰もいなかった。

役場の正面玄関は閉まっていた。

町立診療所の待合室には、椅子だけが並んでいた。

商店街では、魚屋の冷蔵ケースが低い音を立て、新聞販売店の前には配達されなかった朝刊が束のまま置かれていた。

町営バスの車庫には、小型バスが一台止まっていた。

エンジンは冷えていた。

道路には車がなかった。

歩道にも人影はなかった。

海岸には波が寄せていた。

山では鳥が鳴いていた。

信号機は、誰も見ていない交差点で赤と青を繰り返していた。

家々の中では、炊飯器が保温を続けていた。

洗濯機の中には、脱水を終えた衣類が残されていた。

テレビがついたままの家もあった。

仏壇の線香は消えていたが、湯飲みにはまだ朝の茶が入っていた。

住民は、消えたのではなかった。

町の外へ出ていた。

七千六百二十一人。

住民基本台帳に記録された潮見町民の全員が、その日の午前零時から午後十一時五十九分まで、町の境界線の外側にいた。

理由を知る者はいなかった。

誰かが命令したわけではない。

避難指示も出ていない。

災害予報もなかった。

祭りでも、選挙でも、抗議活動でもない。

それでも、全員が町を出た。

ある者は隣市の大型商業施設へ行った。

ある者は県庁所在地の病院へ行った。

ある者は東京の子どもの家へ行った。

ある者は山を越えた道の駅で一日を過ごした。

町外の介護施設に入所している者もいた。

通勤や通学で、いつもどおり朝早く町を出た者もいた。

普段なら家にいる高齢者も、乳児を連れた母親も、その日は町外にいた。

町内の病院へ入院している者はいなかった。

町内の宿泊施設に泊まっていた観光客も、午前零時前に全員チェックアウトしていた。

留置場もない。

刑務所もない。

住み込みの施設もない。

潮見町という行政区域の中に、人間が一人もいなかった。

ただし、全員が自分の意思で町を出たわけではなかった。

後日、住民たちはそれぞれ違う説明をした。

「朝、なぜか海を見たくなくなった」

「家にいると、時計が進まない気がした」

「町の外へ買い物に行かなければならないと思った」

「夢の中で、今日だけは帰るなと言われた」

「何も考えず、車を走らせていた」

「気づいたら隣町の駅にいた」

説明は一致しなかった。

共通していたのは、その日が終わるまで潮見町へ戻ろうと思わなかったことだった。

町役場の職員も例外ではなかった。

町長の秋元は県庁へ出張していた。

副町長は病院で検査を受けていた。

総務課長は休暇を取り、妻と県外へ出かけていた。

企画財政課の長谷川拓郎は、退職後の手続きで年金事務所へ行っていた。

健康福祉課の大崎美奈は、町外施設で行われる研修に参加していた。

住民課の職員は全員、県主催の合同研修へ出席していた。

町営バスの運転手は、その日だけ一斉健康診断を受けていた。

消防団員も、民生委員も、学校教員も、郵便局員も、商店主も、偶然のように町を離れていた。

役場は無人だった。

防災無線は午前七時に、いつもの音楽を流した。

放送の終わりに、自動音声が言った。

「本日も、安心して暮らせる町づくりにご協力ください」

聞いている者はいなかった。

その日、潮見町では国勢調査の現地確認が行われる予定だった。

五年に一度の調査ではなかった。

前回調査後に人口の不一致が続いたため、県と国の担当者が特別確認に入ることになっていた。

第1編で、潮見町の人口が理由もなく一人増えたこと。

第3編で、死亡者数が一時的にゼロになったこと。

町外施設への住所異動と、実際の居住地が大きくずれていたこと。

空き家台帳と住民記録の不一致。

町営バスの利用者数が、乗車記録と合わなかったこと。

一つひとつは説明可能な事務上の問題として処理された。

しかし、県の担当者は潮見町の統計に、継続的な異常があると判断していた。

午前九時十五分、県の調査車両が町役場へ到着した。

乗っていたのは、県統計課の職員三人と、国から派遣された調査官一人だった。

正面玄関は閉まっている。

インターホンを押しても応答がない。

代表電話へかけても、庁舎内で着信音が鳴るだけだった。

県職員の一人が町長へ連絡した。

町長は県庁の会議室にいた。

「今日は休庁日ではありませんよね」

「違います」

「職員が誰もいません」

「そんなはずはない」

町長は総務課長へ電話をかけた。

つながらない。

副町長。

企画財政課長。

住民課長。

誰も町内にいなかった。

「何が起きているんですか」

県職員が尋ねた。

「こちらが聞きたい」

町長は答えた。

県職員は、役場裏口の緊急用キーボックスを使い、庁舎へ入った。

町の職員が不在の状態で庁内システムを操作することはできない。

しかし、その日は特別確認のため、事前に限定された閲覧権限が付与されていた。

調査官は、住民基本台帳から抽出された人口集計画面を開いた。

総人口、七千六百二十一人。

男性、三千六百四十二人。

女性、三千九百七十九人。

数字は正常だった。

地区別人口も一致している。

年齢別人口も一致している。

世帯数も問題ない。

「システム上は異常ありません」

県職員が言った。

国の調査官は、窓の外を見た。

駐車場には、公用車しかない。

庁舎前の道路にも車が通らない。

「実際には何人いるのでしょう」

調査官は尋ねた。

「町内にですか」

「はい」

県職員は笑った。

「全戸を確認するわけにはいきません」

「今日は現地確認です」

調査官は無表情だった。

「標本地区だけでも訪問しましょう」

四人は、あらかじめ選ばれた調査区へ向かった。

最初は、役場に近い中央地区。

住宅二十七戸。

インターホンを押しても応答はない。

郵便受けには朝刊が入っている。

玄関先に靴がある家もある。

犬が庭で吠えている。

しかし、人はいない。

次は南浜地区。

四十一戸。

不在。

青葉団地。

六十三戸。

不在。

山根地区。

十九戸。

不在。

海岸沿いの集合住宅。

七十八戸。

不在。

観光用の別荘ではなく、住民登録のある世帯を選んで訪問した。

どの家にも生活の痕跡がある。

食器。

洗濯物。

自転車。

園芸用品。

子どもの玩具。

介護用手すり。

玄関先の杖。

それでも、一人もいなかった。

午後一時、町立診療所へ行った。

自動ドアは電源が入っていた。

扉の前に立つと開いた。

受付には誰もいない。

診察室も空。

処置室も空。

診療予定表には、午前の予約患者の名前が並んでいる。

全員、来院していなかった。

調査官は町長へ再び電話をかけた。

「町民はどこにいますか」

町長は県庁から、住民課職員や関係者へ連絡を続けていた。

「町外にいるようです」

「何人が」

「確認できた範囲では、全員です」

「全員」

「住民から問い合わせも来ています。町へ戻れないという相談が」

「道路が封鎖されているのですか」

「封鎖されていません」

「鉄道は」

「通常運行です」

「では、なぜ戻れない」

町長は答えられなかった。

町の境界付近では、不思議なことが起きていた。

午後三時頃、隣市にいた住民の一人が、忘れ物を取りに自宅へ戻ろうとした。

自動車で国道を走り、潮見町の標識を越えた。

その直後、見慣れない交差点に出た。

道を間違えたと思い、カーナビゲーション・システムを確認した。

画面上では、まだ隣市を走っている。

しかし道路脇には、潮見町立小学校跡の校舎が見えた。

少し走ると、再び隣市の大型店舗前へ戻っていた。

別の住民は電車で潮見駅へ向かった。

駅名表示は、潮見駅の一つ手前から、二つ先の駅へ変わった。

列車は止まらず、潮見駅を通過したらしい。

しかし窓の外に駅は見えなかった。

町営バスで戻ろうとした者もいた。

行先表示には「潮見町役場前」と出ている。

バスは定刻どおり発車した。

ところが終点は、隣町の市民体育館前だった。

運転手は、

「潮見町役場前に到着しました」

と案内した。

乗客が違うと指摘すると、運転手は首をかしげた。

「潮見町という町は、この路線にはありません」

地図アプリケーションで潮見町を検索すると、その日の午後から結果が表示されなくなった。

住所を入力しても、

「該当する地点がありません」

と出る。

地図上には海岸線と山だけが描かれ、町の区域が空白になっていた。

道路は存在している。

建物もある。

衛星画像にも家並みが写っている。

それでも、町名だけが消えていた。

県統計課の調査官たちは、町内に残っていた。

外から入ることは難しくなったが、中にいる者は自由に移動できた。

ただし、外へ出ようとすると、町の境界を越えた瞬間に方向感覚を失った。

同じ道を走っているはずなのに、役場前へ戻ってくる。

海岸通りを北へ進んでも、南へ進んでも、最後には町役場の前に出た。

午後四時、国の調査官は役場へ戻った。

人口集計画面を再び開いた。

総人口は七千六百二十一人のままだった。

調査官は、別の画面を開いた。

「常住地確認状況」

住民が通常生活している場所を、調査時点の現地確認によって分類する項目だった。

確認済み、〇人。

不在、七千六百二十一人。

町内滞在、〇人。

調査官は長い間、画面を見ていた。

県職員が言った。

「不在だから人口ゼロになるわけではありません」

「当然です」

「住民票もあります」

「あります」

「なら、問題ありません」

調査官は画面を指した。

「調査時点で、この町に常住している人を一人も確認できない」

「一日だけです」

「一日だけでも、確認結果は結果です」

「国勢調査は一日の外出を居住地変更とは扱いません」

「通常は」

調査官は言った。

「しかし、全員が同時に不在となり、町へ戻れず、地図から町名が消えている状況を、通常の外出と呼べますか」

県職員は答えられなかった。

午後五時三十分。

町長は県庁から緊急会見を行った。

「潮見町が消滅した事実はありません」

記者から質問が相次いだ。

「町民全員が不在というのは事実ですか」

「現時点では、その可能性があります」

「なぜ全員が町外へ出たのですか」

「確認中です」

「町へ戻れないという相談があります」

「道路交通上の問題は確認されていません」

「地図サービスから町名が消えています」

「民間サービスの不具合と思われます」

「町内にいる県職員が外へ出られないという情報があります」

「事実関係を確認しています」

「町は存在していますか」

最後の質問に、町長はしばらく答えなかった。

「行政区域として、存在しています」

その言葉は、翌朝の新聞に大きく掲載された。

しかし、その新聞が潮見町へ届くことはなかった。

午後六時、役場の統計システムに警告が表示された。

「居住実態未確認」

続いて、

「人口集計再判定を実行しますか」

という画面が現れた。

調査官は実行しなかった。

画面を閉じる。

しかし数分後、再び表示された。

今度は、選択肢が変わっていた。

「実行」

一つしかない。

調査官は電源を切った。

庁舎内の照明が一瞬消えた。

非常灯がついた。

数秒後、システムは自動的に再起動した。

人口集計画面が開く。

総人口、〇人。

男性、〇人。

女性、〇人。

世帯数、〇世帯。

地区別人口もすべて〇。

高齢化率、算出不能。

出生数、〇。

死亡数、〇。

転入数、〇。

転出数、〇。

町の人口はゼロになった。

「元データは」

県職員が住民個票を検索した。

七千六百二十一人の記録は残っている。

氏名も住所も生年月日もある。

しかし、すべての記録に同じ注記が付いていた。

「所在自治体未確定」

住所欄には、潮見町南浜三丁目、潮見町中央一丁目など、従来の住所が表示されている。

自治体コード欄だけが空白だった。

「住所はあるのに、自治体がない」

県職員が言った。

第1編では、一人だけが年齢にも地区にも世帯にも属さなかった。

この日は、七千六百二十一人全員が、どの自治体にも属さなくなった。

午後七時、潮見町の自治体コードが国の行政情報システムから消えた。

最初に影響が出たのは、郵便だった。

町外の集配局で、潮見町宛ての郵便物がすべてエラーになった。

郵便番号は存在する。

番地も存在する。

しかし宛先自治体が見つからない。

荷物は配達不能として保留された。

次に、金融機関の住所確認システムで潮見町が選択できなくなった。

オンライン手続きで、都道府県の次に潮見町を指定しようとしても、一覧に表示されない。

住民票の写しを申請しようとしても、

「該当する地方公共団体がありません」

と出た。

午後八時、気象情報から潮見町が消えた。

天気予報は、隣市と海上予報に分割された。

潮見町の降水確率も、注意報も、日の出時刻も表示されない。

防災情報システムでは、町域が未指定区域として灰色に塗られた。

午後八時三十分、選挙管理システムから潮見町選挙区が消えた。

町民は選挙人名簿に登録されている。

しかし、投票すべき選挙区がない。

国政選挙。

県議会議員選挙。

町長選挙。

町議会議員選挙。

すべての欄が空白になった。

午後九時、地方交付税の算定画面で潮見町が表示されなくなった。

人口ゼロ。

世帯ゼロ。

道路延長、不明。

学校数、〇。

福祉施設数、〇。

基準財政需要額、算定対象外。

役場の画面上で、翌年度の歳入見込額が次々に消えた。

地方交付税。

国庫支出金。

県支出金。

地方消費税交付金。

人口や自治体コードを基準に配分される金額が、すべて〇円になった。

町の預金口座は残っている。

庁舎も車両も施設もある。

職員も住民も存在する。

それでも、制度の上では予算を受け取る主体がなくなった。

「人口がゼロだから、町が消えるのか」

県職員が言った。

国の調査官は首を横に振った。

「逆かもしれません」

「逆」

「町が消えたから、人口がゼロになった」

「何が違うんです」

「人は残っている。住所も残っている。消えたのは、人ではなく所属先です」

役場の外は暗かった。

海の方角から、町営バスのエンジン音が聞こえた。

運行しているはずはない。

その日は運転手が全員町外にいた。

四人は玄関へ出た。

道路の向こうから、小型バスが近づいてくる。

第2編で廃止された第一便だった。

行先表示には、

「所在自治体未確定」

と出ている。

バスは役場前へ止まった。

扉が開いた。

運転席には、江藤正明が座っていた。

すでに会社を退職しているはずの男だった。

「乗りますか」

江藤は尋ねた。

国の調査官が答えた。

「どこへ行くんです」

「町の外です」

県職員が言った。

「外へ出られないんです」

「今なら出られます」

「どこへ着きますか」

江藤は少し考えた。

「どこにも属していない人が集まる場所です」

車内には大勢の人影があった。

第1編で人口に入れなかった者。

第2編で廃止停留所から降りた者。

第3編で町の死亡者数から外れた者。

第4編で空き家に残された記憶。

見える人も、見えない人もいた。

「町民ですか」

調査官が尋ねた。

江藤は答えた。

「町民だった人です」

「今は」

「町がないので、町民ではありません」

役場庁舎の壁に、「潮見町役場」と書かれている。

看板は残っている。

文字も読める。

それでも、その場所が潮見町だという制度上の証拠は消えていた。

調査官はバスへ乗らなかった。

「町を戻す方法はありますか」

江藤はバックミラーを見た。

「町民を戻せばいい」

「戻れないんです」

「戻りたいと思っていません」

「全員がですか」

「全員ではありません」

「では、誰が」

江藤は役場の二階を指した。

「一人、残っています」

四人は庁舎へ戻った。

全室を確認したはずだった。

会議室。

町長室。

議場。

資料室。

機械室。

書庫。

誰もいなかった。

しかし二階の住民課窓口に、一人の男が座っていた。

六十代か、七十代。

黒い布製の鞄を持っている。

第1編で七千八百三十六人目と名乗った男だった。

男は整理券を持っていた。

番号は「一」。

「いつから、ここに」

調査官が尋ねた。

「最初からです」

「今日は町民全員が町外にいるはずです」

「私は町民ではありません」

「では、なぜ役場に」

「町民になりに来ました」

窓口に職員はいない。

男の前には、住民異動届が置かれていた。

氏名欄、空白。

生年月日、空白。

前住所、空白。

新住所、潮見町。

番地は書かれていない。

「住所がありません」

県職員が言った。

「町があれば、住所は後から決められます」

「町が消えているんです」

「だから、一人必要です」

男は言った。

「人口ゼロの町は、誰の町でもない。誰の町でもない場所には、最初の一人が必要です」

調査官は住民異動届を見た。

「あなたが一人目になる」

「前にも、一人増えたことがあります」

「あなたでしたか」

「私だけではありません」

男は黒い鞄を開けた。

中から、紙が何枚も出てきた。

死亡者の記録。

廃止停留所の時刻表。

空き家台帳。

住民異動届。

選挙人名簿。

学校名簿。

町内会名簿。

診療記録。

税台帳。

すべて、名前の一部が薄く消えている。

「町は、人を一人ずつ記録します」

男は言った。

「しかし、人は一つの記録だけでは町民になりません」

「住民票があれば町民です」

県職員が答えた。

「住民票だけなら、町外に暮らしていても町民です。住民票がなくても、ここで暮らしている人がいます。生まれた町、働いた町、家族を看取った町、墓のある町。どれがその人の町ですか」

調査官は言った。

「制度上は、生活の本拠です」

「今日、誰の生活の本拠もありません」

男は窓の外を見た。

「だから町が消えた」

午後十時。

町外では、住民たちが異変に気づき始めていた。

帰ろうとしなかった人々が、急に不安を覚えた。

自宅の住所を地図で検索できない。

固定電話へかけても、

「現在使われておりません」

という音声が流れる。

自宅の防犯カメラへ接続できない。

電力会社の契約画面から住所が消えている。

子どもの学校名が、学籍情報から消えている。

運転免許証の住所をオンラインで確認すると、町名の部分が空白になっている。

墓地の所在地も検索できない。

町外の施設にいる高齢者は、職員へ尋ねた。

「私はどこの人ですか」

職員は答えられなかった。

若い住民は、家族へ連絡した。

「町へ戻ろう」

最初は道路に迷った。

地図も使えない。

標識から潮見町の文字が消えている。

それでも住民たちは、記憶を頼りに動き始めた。

海のにおい。

山の形。

鉄道のカーブ。

古い煙突。

閉校した小学校の屋根。

町外からは見えないはずのものを目印にした。

東京にいた者は終電へ乗った。

隣市にいた者は歩き出した。

介護施設の入所者は、

「今夜だけ帰りたい」

と家族へ頼んだ。

病院にいた者も、外泊の許可を求めた。

しかし町へ戻るには、町の入口が必要だった。

すべての道路は別の場所へつながっている。

鉄道は潮見駅へ止まらない。

海から船で近づいても、海岸線が霧に覆われる。

午後十時二十分。

役場の防災無線が自動的に起動した。

放送室には誰もいない。

町内に聞く者もほとんどいない。

それでも、音声は町外へも流れた。

スマートフォン。

自動車のラジオ。

駅の放送設備。

病院のテレビ。

商業施設の館内放送。

あらゆる音声機器から、潮見町の防災無線が聞こえた。

「潮見町民の皆さまへお知らせします」

女声の自動音声だった。

「本日の人口は、〇人です」

住民たちは足を止めた。

「町へ戻る方は、ご自身が町民であることを証明してください」

証明。

住民票か。

免許証か。

保険証か。

それらの住所から町名は消えている。

放送は続いた。

「証明に、書類は必要ありません」

「潮見町で覚えていることを、一つ持って帰ってください」

住民たちは考えた。

住所ではない。

番号でもない。

書類でもない。

覚えていること。

閉校した小学校の校歌。

魚市場のにおい。

夏祭りの太鼓。

台風の夜に聞いた防災無線。

町営バスの降車ボタン。

役場前の桜。

診療所の待合室。

海岸の砂。

家の柱に刻んだ身長。

父が毎朝開けた雨戸。

母が使った台所。

亡くなった家族の名前。

誰かが、声に出した。

「潮見小学校の校庭には、大きな銀杏の木があった」

その瞬間、町の境界に一本の道が現れた。

別の者が言った。

「市場の食堂では、朝六時から味噌汁のにおいがした」

もう一本、道が現れた。

「駅前の時計は、いつも三分遅れていた」

線路の先に、潮見駅が現れた。

「南浜の坂から、冬の朝だけ島が見えた」

霧の中に海岸線が現れた。

「第一便の運転手は、誰もいない停留所でも必ず速度を落とした」

町営バスが、町外の道路へ一台ずつ現れた。

「父の家の柱時計は、十時二十三分で止まっていた」

空き家の玄関に灯りがついた。

住民たちは、自分の記憶を口にしながら町へ戻った。

一人。

十人。

百人。

道路、鉄道、バス、徒歩。

午後十時四十五分、最初の住民が町の境界を越えた。

役場の人口集計画面が変わった。

総人口、一人。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、未定。

第1編の七千八百三十六人目ではない。

実際の潮見町民だった。

南浜三丁目に住む八十二歳の女性。

町外の娘宅から戻ってきた。

女性は町の入口で、海へ向かって頭を下げた。

「ただいま」

その言葉が記録されたわけではない。

しかし人口画面に、地区と年齢と住所が表示された。

総人口、一人。

女性、八十二歳。

南浜地区。

次の住民が戻った。

総人口、二人。

三人。

十人。

百人。

町は、帰ってきた人の数だけ形を取り戻した。

郵便番号が復活した。

地図に町名が表示された。

気象情報に潮見町が戻った。

選挙区が再設定された。

自治体コードが再び割り当てられた。

午後十一時三十分、人口は六千人を超えた。

まだ町外にいる者もいた。

遠方にいる者。

病院から動けない者。

町外施設で暮らしている者。

帰る意思のない者。

すべての住民が物理的に戻ることはできなかった。

それでも、町は消えなかった。

帰れない者は、電話で記憶を語った。

「潮見町の墓地に夫がいる」

「私はあの町で四十年働いた」

「家は売ったが、町の海を忘れていない」

「住民票は施設へ移したが、自分は潮見町の人間だと思っている」

「もう戻るつもりはない。それでも、町がなくなるのは嫌だ」

その言葉が届くたび、人口集計画面とは別の欄が増えた。

「居住人口」

「登録人口」

「帰属人口」

最後の項目は、制度には存在しなかった。

帰属人口。

その町を自分の町だと考える人の数。

登録人口、七千六百二十一人。

居住人口、六千九百八十二人。

帰属人口、八千四百三十七人。

町外へ転出した元住民。

町内に別荘を持つ人。

町で働くが住んでいない人。

町に墓がある人。

かつて町の学校へ通った人。

帰属人口には、さまざまな人が含まれていた。

統計的には定義できない。

重複もある。

本人の申告だけで増える。

行政指標としては使えない。

それでも、その数字が表示されると、町の輪郭は安定した。

午後十一時五十五分。

役場の住民課にいた黒い鞄の男は、住民異動届を手に取った。

「もう、私が一人目になる必要はありません」

国の調査官が尋ねた。

「あなたは、どこへ行くんです」

「人口の合わない町へ」

「ほかにもあるんですか」

「すべての町にあります」

男は言った。

「数えられる人と、数えられない人。住んでいる人と、帰りたい人。忘れた人と、忘れられた人。その差が一人分になったとき、私は現れます」

黒い鞄を閉じた。

「潮見町は戻ったのですか」

調査官は尋ねた。

「戻ったのではありません」

男は窓口の整理券を置いた。

番号は「一」。

「今日、初めて町になったのです」

男は役場を出た。

庁舎前には町営バスが止まっていた。

運転席には江藤がいる。

男が乗る。

扉が閉まった。

バスの行先表示は空白だった。

車両は海岸方向へ走り、暗闇の中へ消えた。

午後十一時五十九分。

潮見町の人口は七千六百二十一人に戻った。

すべての住民が町内にいたわけではない。

それでも登録人口は元の数字になった。

自治体コード。

郵便番号。

選挙区。

予算。

地図。

気象情報。

公共交通。

すべてが復旧した。

午前零時。

十月二日になった。

町内の時計が一斉に一分進んだ。

翌朝、住民たちは昨日の出来事について話した。

町へ戻れなかったこと。

住所が消えたこと。

地図に町がなかったこと。

防災無線から記憶を持ち帰れと言われたこと。

しかし、ニュースでは大きく扱われなかった。

国も県も、広域情報システムの一時的な障害と説明した。

地図サービス会社は、データ配信上の不具合と発表した。

鉄道会社は、表示機器の誤作動。

郵便事業者は、住所データ照合の障害。

金融機関は、自治体コード更新処理の不備。

それぞれの説明は、技術的には成立していた。

潮見町の住民が全員町外にいたという事実も、公式には確認されなかった。

調査時点で不在だっただけ。

国勢調査上の人口は、通常の居住実態に基づき七千六百二十一人とされた。

町長は記者会見で言った。

「潮見町が一日だけ消えたという事実はありません」

記者から尋ねられた。

「では、昨日、町内には何人いたのですか」

町長は答えた。

「把握していません」

「ゼロだった可能性は」

「人口は七千六百二十一人です」

「登録人口ではなく、実際に町内にいた人数です」

町長は資料を見た。

「一時的な外出状況について、行政が全住民を把握することはできません」

それ以上の質問には答えなかった。

国の調査官は、最終報告書を作成した。

「潮見町特別人口実態確認結果」

報告書には、住民基本台帳人口と実際の居住実態に差があること。

町外施設入所者や長期不在者がいること。

空き家の増加。

人口集計システムに一時的な不整合が生じたこと。

自治体コード連携に障害が発生したこと。

そうした内容が記された。

町内人口が一時ゼロになったとは書かなかった。

根拠を示せないからだった。

しかし、報告書の最後に一文だけ加えた。

「自治体の存在は、行政区域、住民登録、居住実態、住民の帰属意識のいずれか一つだけでは定義できない可能性がある」

上司から削除を求められた。

「統計報告として曖昧だ」

調査官は削除しなかった。

「一日だけ人口ゼロとなった事実を裏付けられない以上、せめて残すべき考察です」

最終的に、その一文は本文から外され、参考意見として別紙に付けられた。

別紙を読む者はほとんどいなかった。

潮見町では、十月一日を休日にしようという話が出た。

「町民帰還の日」

「潮見町再出発の日」

「人口の日」

名称案はいくつも出た。

しかし、公式の記念日にはならなかった。

町が一度消えたことを、行政が認めることになるからだった。

代わりに、住民たちは毎年十月一日の夜、家の外へ小さな灯りを置くようになった。

灯籠でも、ろうそくでも、電灯でもよい。

自分がその家に住んでいることを示す灯り。

町外に暮らす元住民も、同じ日に窓辺へ灯りを置いた。

潮見町へ向けて。

理由を尋ねられると、

「帰る場所を忘れないため」

と答えた。

数年後、潮見町の人口は七千人を下回った。

出生より死亡が多い。

転入より転出が多い。

人口減少は続いた。

町は以前より小さくなった。

学校は統合された。

商店も減った。

町営バスの便数も少なくなった。

それでも、十月一日の夜には、町の内外に多くの灯りがついた。

統計人口より多い数だった。

誰も正確に数えなかった。

数えれば、また一人合わなくなるかもしれない。

ある年、役場の若い職員が、人口統計の画面に見慣れない項目を見つけた。

登録人口。

居住推計人口。

世帯数。

その下に、小さな文字で、

「帰属人口」

とある。

数字は表示されていない。

職員がクリックすると、注意書きが出た。

「この値は集計できません」

「本人が帰る場所と考える町を、行政が一意に定めることはできないためです」

職員は上司に報告した。

システム業者へ問い合わせたが、そのような項目は実装していないという。

削除を試みても消えなかった。

ただし、十月一日にだけ、数字が表示された。

九千二百一人。

登録人口より二千人以上多い。

翌日には、再び空欄へ戻った。

町長は公表しないよう指示した。

根拠がない。

定義がない。

誰を含むか分からない。

統計として使えない。

判断は正しかった。

それでも、若い職員は数字を紙へ書き写し、机の引き出しへしまった。

引き出しの奥には、以前の職員が残した紙があった。

地区、未定。

年齢、未定。

住所、空欄。

人数、一。

死亡者数、百三十八。

その下に、新しい欄が増えている。

「一日だけ住民がゼロになった町」

人口、〇人。

帰属人口、算出不能。

さらに小さな文字で、こう書かれていた。

「町は、人がいなくなった日に消えるのではない」

「誰も帰ろうと思わなくなった日に消える」

若い職員は、その紙を処分しなかった。

窓の外では、町営バスが役場前へ止まった。

乗る人が二人。

降りる人が一人。

運転手は人数を正確に入力した。

バスが発車した後、誰もいない停留所に、黒い布製の鞄が一つ残されていた。

鞄の札には、住所ではなく一文だけ書かれていた。

「帰るところがある人は、まだゼロではない」

海から風が吹いた。

札が揺れた。

役場の人口表示板には、七千人に満たない数字が出ていた。

その下に、一瞬だけ別の数字が浮かんだ。

〇。

次に、一。

そして、数えきれないほどの数字が重なり、白い光になった。

職員が目をこすると、表示は元へ戻っていた。

潮見町人口、六千九百八十七人。

前月比、十一人減。

計算は正確に一致していた。

町は、まだ存在していた。

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