リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 かつて日本には、「コピーライター」という職業名そのものが、妙に格好よく響いた時代があった。広告会社に勤めているというだけではない。会社員でありながら作家のようでもあり、商売の世界にいながら芸術家にも近く、短い言葉によって時代の気分を言い当てる人。1980年代から平成初期にかけて、コピーライターはそんな少し不思議な職業として一般社会から眺められていた。

 糸井重里や仲畑貴志といった名前は、広告業界の内側だけにとどまらなかった。広告の作者そのものに関心が集まり、コピーを書く人が雑誌に登場し、本を書き、テレビに出演し、やがて文化人として語られるようになっていく。後年、仲畑自身が「あのころにはコピーライターブームのようなものがあった」と振り返っていることからも、この現象が単なる後世の思い込みではなかったことが分かる。

 けれども、ここで一つ奇妙なことに気づく。コピーライターという仕事そのものは、1980年代に突然生まれたわけではないのである。

コピーライターは、ブームになるずっと前からいた

 東京コピーライターズクラブの前身である「コピー十日会」が結成されたのは1958年で、1962年には東京コピーライターズクラブへ名称を変更し、翌1963年には『コピー年鑑』が創刊されている。当時すでに広告業界では「文案家」という古い呼称に代わって「コピーライター」という名称が定着し始めており、専門職としての地位を確立しようとする動きも進んでいた。つまり、1980年代に起きたのはコピーライターという仕事の誕生ではなく、すでに存在していた専門職が、広告業界の壁を越えて一般社会から見えるようになったことだった。

 なぜ、それまで広告の裏側にいた人々が突然、時代の表舞台へ姿を現したのだろうか。その理由を「バブルだったから」の一言で説明してしまうと、時系列を取り違えることになる。コピーライターへの注目は1980年代前半にはすでに始まっており、日本のバブル経済が本格化するより早い。むしろ、その背景には戦後の消費社会そのものが成熟し、企業が商品を売る方法を変えざるを得なくなっていたという、もっと長い変化があった。

商品が豊かになるほど、商品の説明だけでは売れなくなった

 高度経済成長期の商品には、それ自体に強い物語があった。冷蔵庫のない家に冷蔵庫が来れば生活は明らかに便利になり、白黒テレビしか知らない家庭にカラーテレビが入れば、目の前の世界が変わった。自動車を所有すれば移動できる範囲が広がる。新しい商品には新しい機能があり、その便利さを説明すること自体が広告になった。

 しかし、豊かさが広がるにつれて状況は変わる。すでに冷蔵庫を持っている人に次の冷蔵庫を買ってもらい、テレビを持っている家庭に新しいテレビを選んでもらわなければならない。自動車も衣服も飲料も化粧品も、一定以上の品質を備えた商品が市場に増えれば、企業は「なぜ必要なのか」を説明するだけでは足りなくなり、「似たような商品の中から、なぜこれを選ぶのか」という、はるかに難しい問いに答えなければならなくなる。

 仲畑貴志は後年、自分たちがコピーライターとして仕事を始めたころには商品の機能が豊富になり、モノ同士の差が小さくなっていたため、単純な「機能の翻訳」だけではコピーとして十分ではなくなっていたという趣旨のことを語っている。それ以前なら、商品の特徴を的確な言葉に置き換えるだけでも仕事になったが、商品そのものだけでは差がつきにくくなると、広告はその商品がもたらす気分や生活、価値観まで語らなければならなくなったのである。

 ここに、コピーライターが表舞台へ出てくる重要な条件が生まれた。

 商品の機能を説明する人ではなく、商品に「意味」を与える人が必要になったのである。

「おいしい生活。」は、何を売っていたのか

 この変化を象徴する言葉の一つが、西武百貨店の「おいしい生活。」だった。糸井重里によって考えられたこのコピーは1982年の広告に使われたが、よく考えてみれば、百貨店の広告としてはかなり奇妙である。洋服が安いとも、食器が丈夫だとも、品揃えが豊富だとも言っていない。具体的な商品をほとんど説明していないのに、なぜか百貨店という場所の魅力を語っているように感じられる。

 それは、この広告が一つの商品ではなく、「どんな暮らしをしたいのか」という問いを売っていたからだろう。

 生活必需品が不足している社会では、広告は「何を持つべきか」を教える。しかし、多くの人が必要な物をすでに持っている社会では、「どう暮らすのが楽しいのか」「何を選ぶ自分でありたいのか」が新しい消費の理由になる。そのとき、広告は商品説明から生活編集へ近づき、コピーライターは商品の特徴をまとめる技術者というより、まだ言葉になっていない時代の気分に名前を付ける人物として見えるようになる。

 「おいしい生活。」という言葉が興味深いのは、それが1980年代を単純に礼賛しているわけではないところにもある。糸井自身が後年語った制作の経緯は、豪華な消費を称えるというより、自分が心地よく暮らすことへの素朴な感覚から生まれたものだった。それでも社会の側は、その一言に豊かになった日本の気分を読み込み、時代を象徴するコピーとして記憶していった。広告の言葉は作者の意図だけで完成するのではなく、それを読む時代によって意味を与えられる。この点でも、コピーは文学とどこか似ている。

一つの広告を、多くの人が知っていた時代

 ただし、優れた言葉が生まれただけでは、コピーライターが社会的なスターになることは難しい。1980年代には、その言葉を巨大な規模で社会へ届ける装置があった。

 テレビ、新聞、雑誌、ラジオというマスメディアが情報の中心にあり、現在のように一人ひとりがまったく別の動画やウェブサイト、ソーシャルメディアを見る環境ではなかった。そのため、大規模な広告キャンペーンは非常に多くの人の目に触れ、テレビコマーシャルで聞いた言葉を翌日には学校や職場で誰かが知っているということが起こりやすかった。

 もちろん、「日本人全員が同じ広告を見ていた」とまで言うのは正確ではない。それでも、現在よりはるかに少数の巨大メディアへ人々の視線が集まっていたため、一つの広告表現が社会の共通知識になりやすかったことは重要である。コピーライターが書いた一行は広告主のためだけに存在するのではなく、繰り返し放送され、新聞や雑誌に掲載され、人々の会話へ入り込み、ときには流行語のように広告の外側まで歩き始めた。

 そうなると、人々は次第に「この言葉を書いたのは誰なのだろう」と作者に興味を持つようになる。小説なら作家の名前を見るのが当然なのに、広告については長い間、作者の存在を意識すること自体が少なかった。ところが広告が単なる商品説明ではなく、一つの表現作品として見られ始めると、その背後にいるコピーライターもまた、一人の表現者として見えるようになったのである。

バブル経済はブームを生んだのではなく、すでにあった舞台を大きくした

 ここでようやく、バブル経済が登場する。

 コピーライターへの注目そのものは1980年代前半から始まっていたので、バブル景気だけをその原因とすることはできない。しかし、80年代後半の景気拡大と広告市場の膨張が、すでに起きていた変化をさらに大きくしたことは確かである。

 電通の長期統計によると、日本の総広告費は1985年の3兆5049億円から、1988年には4兆4175億円、1989年には5兆715億円へ増加し、1991年には5兆7261億円に達した。なお、広告費の推定範囲は途中で改定されているため長期比較には注意が必要だが、少なくとも1980年代後半に広告市場が急速に拡大していたことは数字から確認できる。

 広告市場が大きくなるということは、単に広告の本数が増えるということだけではない。企業が商品名や価格を知らせる広告だけではなく、企業イメージやブランドの世界観を伝える広告にも資金を投入できる余地が広がる。映像、写真、音楽、デザイン、文章が組み合わさった大規模なキャンペーンが増えれば、その中心に置かれた短いコピーも目立つ。

 ただし、ここで「一人のコピーライターが広告を作った」と考えてしまうのも正確ではない。広告はアートディレクター、クリエイティブディレクター、写真家、映像制作者、広告主など、多くの人間によって作られる共同制作物であり、東京コピーライターズクラブも創設期から、コピーだけを完成した広告表現から切り離して評価することには慎重だった。それでも、見る側にとっては、複雑な制作過程の最後に置かれた短い一行が広告全体の記憶を代表することがある。そのため、共同制作の世界にいるはずのコピーライターが、あたかも広告そのものの作者であるかのように見える現象が起きた。

会社員でも作家でもないという、不思議な魅力

 しかし、広告業界の景気がよかっただけなら、コピーライターが若者の憧れの職業になる理由としてはまだ足りない。そこには、この仕事が持っていた独特の曖昧さもあったのではないだろうか。

 小説家になるには小説を書かなければならず、画家になるなら絵を描き、音楽家なら演奏や作曲という専門性が求められる。コピーライターにも当然高度な技術が必要なのだが、外から見ると、その仕事は「言葉を考える人」であり、紙と鉛筆さえあれば始められそうに見える。一方で純粋な芸術家とは違い、広告会社や企業という現実の経済活動の中に仕事が存在している。

 つまりコピーライターは、普通の会社員と自由な表現者との中間にいるように見えた。

 収入を得ながら、自分の感性を使って言葉を生み、それが自分の名前と結びつく。こうした姿が、仕事の中に自己表現を求める人々に魅力的に映った可能性は十分にある。ただし、「当時の若者が皆そう考えていた」と証明できるわけではないため、ここは社会心理を断定するより、コピーライターという職業がそうしたイメージをまといやすかったと考える方が妥当だろう。

 そして、そのイメージを現実に見せる人物たちもいた。糸井重里はコピーの世界を越えて出版やテレビなどへ活動を広げ、林真理子もコピーライターとして活動した後、1982年に『ルンルンを買っておうちに帰ろう』で作家としてデビューした。広告を書く技術が広告会社の中だけに閉じ込められるものではなく、出版や放送、文学へ通じる入口にも見えたことは、コピーライターという職業の文化的な魅力を強めただろう。

商品を有名にする人が、自分まで有名になった

 こうして1980年代には少し倒錯した現象が生まれた。本来、コピーライターは商品や企業を目立たせるために働く人であるはずなのに、その仕事が評価されるにつれて、広告の向こう側から作者本人が姿を現し始めたのである。

 広告を見る。その言葉を覚える。誰が書いたのかを知る。その人の文章を読む。その人がテレビで話す姿を見る。そして、その人物が「コピーライター」と呼ばれていることを知る。

 この循環によって、コピーライターという職業名そのものがブランド化していった。

 それは、小説を読んで小説家に憧れるのとは少し違っていた。コピーライターの場合、人々が毎日のように接していたテレビや新聞、百貨店や自動車、飲料や衣服の広告が、そのまま職業の展示場になっていたからである。優れたコピーを書くことと有名になることの距離が、少なくとも外からは非常に近く見えた。

 コピーライターが広告界の裏方から「時代を読む人」へと見え方を変えた1980年代は、広告を書く人自身が一つの文化的商品になった時代でもあった。

昭和の終わりは「物」より「意味」が高く売れ始めた時代だった

 ここまで考えると、コピーライターブームは単なる広告業界の流行ではなく、戦後日本の豊かさが一つの段階を越えたことを示す現象にも見えてくる。

 物が足りない社会では、価値は物そのものに宿る。冷える冷蔵庫、速い自動車、よく映るテレビには、説明しやすい価値がある。しかし、十分に性能のよい商品が市場に並ぶ社会では、価値の一部が商品そのものから、その商品を選ぶ理由へ移っていく。

 そこで企業が売るものは、少しずつ「物」だけではなくなる。

 この車に乗る人はどんな人なのか。この服を着る生活はどんな生活なのか。この百貨店で買い物をすることは、どんな価値観を選ぶことなのか。広告は商品の外側に意味を作り始め、その意味を短い言葉に圧縮する仕事が目立つようになった。

 言ってみれば、コピーライターは商品の説明書を書く人から、商品の周囲に小さな物語を作る人へ変わったのである。

 その転換期にコピーライターがスターになったのは、偶然ではなかったのかもしれない。

平成になって、すぐにコピーの時代が終わったわけではない

 では、昭和が終わって平成に入ると、コピーライターの魔法は消えてしまったのだろうか。

 実際には、それほど単純ではない。

 電通の統計によれば、日本の広告費は1991年に5兆7261億円となったあと、1992年には5兆4611億円、1993年には5兆1273億円へ減少した。ただし1991年が日本広告史上の最高額だったわけではなく、広告費はその後いったん回復し、1997年には5兆9961億円、2000年には6兆1102億円となっている。したがって、「1991年を境に広告産業そのものが衰退した」と考えるのは正しくない。

 より正確には、変化は二段階で考えた方がよい。

 最初に起きたのは、1990年代初頭のバブル崩壊と景気後退によって、企業が広告投資を以前ほど無条件には拡大できなくなったことである。それでも平成初期には、強いコピーを中心とした広告表現はまだ十分に存在していたし、コピーライターという職業そのものが消えたわけでもない。

 その後、1990年代後半から2000年代へ入ると、今度はインターネットの普及という別の変化が起きる。テレビ、新聞、雑誌、ラジオに集中していた人々の注意は次第に分散し、誰もが同じ広告を見る社会から、一人ひとりが違う情報を見る社会へ移っていった。電通の現在の広告統計でも、インターネット広告が独立して推計されるようになるのは1990年代後半以降であり、今日では広告市場の中心そのものが大きく変わっている。

 つまり、昭和末期のコピーライターを支えた舞台は、一夜にして消えたわけではない。景気の変化によってまず照明が少し暗くなり、その後、インターネットによって観客そのものが一つの劇場から無数の小さな画面へ散っていったと考える方が近い。

コピーライターが消えたのではなく、「スターになれる構造」が変わった

 現在もコピーライターは存在し、優れた広告コピーも作られている。それどころか、商品の名前、ウェブサイトの文章、企業理念、ブランドの物語など、言葉を設計する仕事の領域はむしろ広がっているという見方もできる。コピーライターの仕事がテレビコマーシャルや新聞広告だけに限定されなくなったことは、広告業界側からも指摘されている。

 それでも、1980年代のようにコピーライターという職業そのものが社会的スターになる現象は起こりにくくなった。

 理由は、言葉の価値が下がったからではない。

 一つの広告へ社会全体の視線が集中し、その一行を書いた人物の名前まで多くの人が知るという仕組みが弱くなったからである。

 現在なら、一つの広告が100万人に届くより、100種類の広告がそれぞれ異なる1万人へ届くことの方が合理的な場合もある。広告の効果はクリック数や購入率などによって細かく測定され、文章も一つの大きなコピーに集約されるとは限らない。言葉を作る人は必要であっても、その人物一人が時代の言葉を代表する構造ではなくなったのである。

私たちが憧れていたのは、「コピーライター」という名刺ではなかった

 では結局、なぜ昭和の終わりから平成初期にかけて、コピーライターという職業はあれほど魅力的に見えたのだろう。

 商品の品質が成熟し、企業が機能以外の意味を売らなければならなくなったこと。テレビや新聞など少数の巨大なメディアへ人々の視線が集まっていたこと。広告市場が拡大し、企業がイメージや文化まで広告で表現できたこと。そしてコピーライター本人が広告の裏側から姿を現し、出版やテレビへ活動領域を広げていったこと。これらの条件が同じ時代に重なった結果として、コピーライターという専門職は一時期、広告業界の職種を越えた文化的な存在になったと考えるのが最も自然だろう。

 それは、バブルという一つの原因から生まれたブームではなかった。経済、商品、メディア、若者文化、企業文化がそれぞれ少しずつ変わり、その交点にコピーライターが立ったのである。

 そして何より、あの時代には、自分が机の上で考えたわずか数文字の日本語がテレビに映り、新聞いっぱいに印刷され、電車の中に貼られ、やがて見知らぬ誰かの口から語られるという光景が実際にあった。

 言葉が社会へ出ていく姿が、目に見えた時代だった。

 おそらく人々が憧れたのは、「コピーライター」という肩書そのものではない。会社に勤めながら言葉を書くという働き方だけでもなかった。

 たった一行の言葉によって、それまで誰も名前を付けていなかった気分を言い当て、その言葉が商品を離れて時代の記憶になっていく。そんなことが本当にできるのではないか、という物語に人々は惹かれたのだろう。

 昭和の終わりから平成の初め、日本にはほんのしばらく、言葉を書く人そのものがスターになれる季節があった。

 そして、その季節が過ぎてしまったからこそ、「おいしい生活。」のような古い広告コピーをいま読み返すと、私たちはそこに商品の宣伝だけではなく、もう存在しないメディアの風景と、言葉に社会を動かす力があると多くの人が信じていた時代の気配まで感じるのである。

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