リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

変わりゆく世界をどう生きるか

現代社会では、「多様性」という言葉を耳にする機会が増えた。

年齢、性別、国籍、文化、言語、価値観、家族のあり方、働き方、障害の有無、生活歴――人間にはさまざまな違いがある。それらを一つの標準だけで評価するのではなく、異なる人々が共存できる社会をつくることが、現代における重要な課題の一つになっている。

国際連合は文化的多様性を、単に文化の種類が多いという問題としてではなく、人間の知的・感情的・道徳的・精神的生活を豊かにし、持続可能な発展にも関係する価値として位置づけている。

日本の文化庁の日本語教育に関する資料でも、人の移動とダイバーシティ、言語的・文化的背景の多様性、多文化・多言語主義、社会的包摂などが、現代社会を理解する重要な項目として扱われている。

一方、日本では千年以上前から、人間や社会が変化し続けることを表現する思想が知られてきた。

それが仏教における「諸行無常」である。

諸行無常とは、極めて簡潔に言えば、あらゆる形成されたものは固定された状態を永遠に保つことがなく、変化していくという考え方である。国立国会図書館デジタルコレクションに収録された仏教研究でも、諸行無常は「すべての事物が常に変化することが常態である」という意味として整理されている。

では、

多様性と諸行無常には、何か共通するものがあるのだろうか。

ここで注意しなければならない。

多様性は現代社会における社会的・倫理的概念であり、諸行無常は仏教思想である。

両者は同じものではない。

しかし、

人間や社会を固定された存在として考えない

という一点では、興味深い接点が存在する。

この視点から考えると、「多様性」と「諸行無常」は、変化の激しい令和時代を生きるための二つの異なる視座として読むことができる。


1 多様性とは「何でも認めること」ではない

まず、多様性という言葉を整理する必要がある。

英語の Diversity は一般に、「異なる要素から構成されている状態」「さまざまな種類が存在すること」を意味する。

人間社会に当てはめれば、

文化が違う。

言語が違う。

年齢が違う。

能力が違う。

経験が違う。

価値観が違う。

生き方が違う。

という現実を意味する。

したがって、多様性は本来、

「違いを作り出す思想」

ではない。

すでに存在している違いを認識すること

から始まる。

ここは非常に重要である。

現実の社会には、最初から完全に同じ人間など存在しない。

同じ日本人でも、

生まれた地域、

世代、

家庭環境、

教育、

仕事、

所得、

身体条件、

人生経験、

政治観、

宗教観、

趣味、

家族構成、

などは異なる。

多様性とは、その違いを消すのではなく、

「違いが存在することを前提に社会をどう設計するか」

という問題なのである。


2 多様性は「すべての価値観が正しい」という意味ではない

ここには、よくある誤解がある。

多様性を尊重することは、

「どのような考え方も無条件に認めなければならない」

という意味ではない。

たとえば、

他人を暴力によって支配する自由。

他人を差別する自由。

他人の権利を奪う自由。

これらまで「多様な価値観だから尊重すべきだ」とすれば、多様性そのものが成立しなくなる。

国際連合も、多様な人々の権利を考える際、人間の尊厳や差別・暴力から自由である権利を基礎に置いている。

つまり、多様性とは、

無制限な相対主義ではない。

社会には一定の共通ルールが必要である。

法の下の平等。

基本的人権。

他者の尊厳。

暴力を用いないこと。

こうした共通基盤の上で、それ以外の違いを可能な限り認める。

これが現実的な多様性社会である。


3 「諸行無常」とは、世界はすべて消えるという話ではない

次に諸行無常を考える。

日本では『平家物語』冒頭の、

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

という表現によって広く知られている。

そのため、諸行無常には、

「栄えているものもいずれ滅びる」

「人生ははかない」

という印象が強い。

確かに『平家物語』では、盛者必衰の思想と結びついている。

しかし、仏教思想としての無常は、それだけではない。

無常とは、

存在するものが固定的ではなく、条件によって変化すること

を示している。

花が散る。

人が老いる。

建物が古くなる。

組織が変わる。

社会制度が変わる。

価値観が変わる。

人間関係が変わる。

重要なのは、

「最後には全部なくなる」

という結論ではなく、

現在の状態を永久不変だと思わない

という認識である。


4 多様性は「横の違い」、無常は「時間の変化」と考える

多様性と諸行無常の関係を整理するために、一つのモデルを考えてみたい。

多様性とは、

同じ時点に存在する違い

と考えることができる。

AさんとBさんは違う。

日本とフランスでは文化が違う。

二十歳と七十歳では経験が違う。

都市部と農村部では生活環境が違う。

これは、いわば空間的な違いである。

一方、諸行無常は、

同じものが時間によって変化すること

に注目する。

二十歳の自分と六十歳の自分は違う。

昨日の社会と今日の社会は違う。

成長期の企業と衰退期の企業は違う。

人口増加期の町と人口減少期の町は違う。

こちらは時間的な変化である。

したがって、簡略化すれば、

多様性=横方向の差異

諸行無常=縦方向の変化

と考えることができる。

そして現実の人間は、この二つを同時に生きている。


5 実は「自分自身」も多様である

多様性というと、しばしば、

「自分と違う人を理解すること」

として説明される。

しかし諸行無常の視点を加えると、もう一段深く考えることができる。

それは、

過去の自分と現在の自分も違う

ということである。

十代の自分。

二十代の自分。

四十代の自分。

六十代の自分。

それぞれ、

考え方、

体力、

所得、

知識、

人間関係、

将来への期待、

恐怖、

関心、

は変わっている。

つまり人間は、他者と違うだけではない。

一人の人間の内部にも、時間的な多様性がある。

これは非常に重要である。

「昔の私はこうだった」

という自己像に過度に縛られると、現在の自分との矛盾が苦しくなる。

無常の立場から考えれば、

変わったこと自体は異常ではない。

むしろ、

変化することが普通なのである。


6 令和社会で対立が起きる理由の一つは、「固定された人間像」にある

社会的対立では、しばしば人間がカテゴリー化される。

若者はこうだ。

高齢者はこうだ。

都会の人はこうだ。

地方の人はこうだ。

男性はこうだ。

女性はこうだ。

外国人はこうだ。

富裕層はこうだ。

低所得者はこうだ。

こうした分類は、統計分析では一定の意味を持つ。

集団ごとの平均値や傾向を調べることによって、社会政策を考えることもできる。

しかし問題は、

集団の平均を、個人そのものだと考えてしまうこと

である。

統計的傾向と個人の性質は同じではない。

さらに諸行無常の視点から見れば、その個人自身も変化する。

現在二十五歳の人は、四十年後には六十五歳になる。

現在健康な人も、将来医療を必要とする可能性がある。

現在働く側にいる人も、介護される側になる可能性がある。

現在多数派にいる人も、別の条件では少数派になることがある。

つまり、

社会的カテゴリーは固定された身分ではない。

この認識は、多様性を考えるうえで非常に有用である。


7 「多数派」と「少数派」も固定しているとは限らない

現代の多様性政策では、多数派と少数派という区分が使われる。

これは社会的不平等を分析するために必要な場合がある。

しかし、人は一つの属性だけを持っているわけではない。

ある場面では多数派であり、

別の場面では少数派になる。

たとえば、

母語では多数派。

年齢では少数派。

職業では多数派。

身体条件では少数派。

地域では多数派。

価値観では少数派。

ということが普通に起こる。

したがって、

「多数派の人」と「少数派の人」

という二種類の人間が存在するわけではない。

人間は複数の属性が重なった存在である。

そして、その属性自体も時間によって変化する。

ここでも、多様性と無常は接続する。


8 違いを「異常」と考えないこと

人間には、未知のものを警戒する傾向がある。

自分と違う言語。

服装。

文化。

生活習慣。

価値観。

こうしたものに違和感を覚えること自体は、必ずしも悪意とは限らない。

問題は、

違う=間違っている

違う=危険である

と即座に結論づけることである。

多様性の考え方は、

「違いそのものは存在して当然である」

と考える。

諸行無常の考え方も、

「変化することは異常ではない」

と考える。

両者の共通点は、

今の自分が知っている状態だけを、世界の標準と考えないこと

にある。


9 しかし「変化はすべて良い」という意味でもない

ここでも注意が必要である。

諸行無常を、

「変化することは良いことだ」

と解釈するのは正確ではない。

無常は、変化に価値判断を付けていない。

良い方向にも変わる。

悪い方向にも変わる。

健康になることも変化。

病気になることも変化。

平和になることも変化。

戦争になることも変化。

所得が増えることも変化。

減ることも変化。

したがって、

変化そのものを肯定する思想ではない。

同様に、多様性も、

「違っていれば何でもよい」

という思想ではない。

ここは両者に共通する重要な注意点である。

多様性も無常も、

まず現実を認識するための視点であり、

その現実をどう評価し、どの方向へ動かすかは別の問題なのである。


10 多様性社会に必要なのは「寛容」だけではない

「違う人を認めよう」

という言葉は重要である。

しかし、現実社会ではそれだけでは足りない。

異なる価値観が同じ空間に存在すれば、利害対立も起きる。

たとえば、

静かに暮らしたい人と、

夜間活動をしたい人。

公共施設へ予算を使ってほしい人と、

税負担を減らしてほしい人。

自動車を必要とする人と、

自動車中心の都市設計を変えたい人。

こうした対立は、

「お互いを尊重しましょう」

だけでは解決しない。

必要なのは、

ルール、

交渉、

優先順位、

費用負担、

妥協、

である。

つまり多様性社会では、

違いを認める力と、違いを調整する力の両方

が必要になる。


11 無常を理解すると「自分の正しさ」から少し距離を置ける

人間は、自分の考えを正しいと思うから行動する。

これは当然である。

しかし問題は、

「現在正しいと思っていることが、永遠に正しい」

と考えてしまうことである。

歴史を振り返れば、

社会の常識は大きく変わっている。

家族観。

働き方。

教育。

職業。

男女の役割。

障害への考え方。

外国文化への態度。

これらの多くは時代によって変化した。

したがって、

「現在の常識」

も未来から見れば変化している可能性が高い。

これは、

「正解は存在しない」

という意味ではない。

むしろ、

現在得られる情報のなかで最善を考えながら、修正可能性を残す

という態度につながる。

科学的方法にも、これに近い性格がある。

科学理論は、証拠によって支持されるが、新しい証拠が現れれば修正される。

「絶対に変えないこと」ではなく、

よりよい説明があれば更新すること

によって知識は進歩する。

無常を現代的に読むなら、この「修正可能性」と非常に相性がよい。


12 多様性は社会の「選択肢」を増やす

多様性には倫理的側面だけでなく、機能的側面もある。

同じ考え方しか存在しない組織では、一つの環境には強くても、環境変化に弱くなる可能性がある。

異なる経験を持つ人がいれば、

同じ問題を違う角度から見ることができる。

国際連合も文化的多様性について、人間の選択肢を広げ、能力や価値を育てるものとして位置づけている。

この構造は、生物多様性にも部分的に似ている。

WHO(World Health Organization・世界保健機関)は、生物多様性を、種の内部、種の間、生態系にわたる生命の多様性として説明している。

ただし、人間社会の多様性と生物多様性を同一視することはできない。

ここで参考になるのは、

一種類だけで構成されるシステムより、複数の特性が存在するシステムの方が、異なる環境へ対応する可能性を持つ

という一般的な考え方である。


13 令和時代は「一つの正解」で生きにくい時代になった

かつての日本社会には、比較的標準化された人生モデルが存在した。

学校を卒業する。

会社へ入る。

結婚する。

住宅を購入する。

定年まで勤める。

退職後は年金生活をする。

もちろん、実際には昔から多様な人生があった。

しかし社会の標準モデルとしては、比較的強い影響を持っていた。

現在では、

働き方、

家族構成、

居住地、

教育、

退職時期、

老後、

などの選択肢が増えている。

これは自由が増えたともいえる。

一方で、

「どの道を選べば正解なのか」

が分かりにくくなったともいえる。

多様性社会とは、自由な社会であると同時に、

自分で判断する責任が増える社会

でもある。


14 人生設計も「一度決めたら終わり」ではない

諸行無常を人生設計へ応用すると、一つの重要な考え方が出てくる。

それは、

計画を変更することを失敗と考えない

ことである。

二十歳で作った人生計画が、

五十歳でも最適である保証はない。

収入が変わる。

健康が変わる。

家族が変わる。

社会制度が変わる。

技術が変わる。

本人の価値観も変わる。

にもかかわらず、

「一度決めたのだから最後まで続ける」

ことだけを正解とすると、環境変化に対応できなくなる。

重要なのは、

計画を持たないことではない。

計画を更新できること

である。


15 仕事でも「一つの自分」に固定しない

職業も同じである。

会社員。

医療職。

経営者。

教師。

技術者。

こうした職業は社会的役割である。

しかし、それが人間全体ではない。

仕事を失ったときに、

「自分には何も残っていない」

と感じるとすれば、職業と自己を強く結び付けすぎている可能性がある。

諸行無常の視点では、

職業も変化する。

役職も変わる。

能力も変わる。

だからこそ、

仕事以外の関心、

学習、

人間関係、

地域活動、

趣味、

を持つことは、単なる余暇ではない。

人生の多様性を増やすこと

でもある。


16 「多様な自分」を持つことはリスク分散にもなる

これは経済的な考え方にも似ている。

投資では、一つの資産だけに集中すると、その資産が大きく下落した場合の影響も大きくなる。

人生も完全に同じではないが、似た構造を持つ。

自分の価値を、

勤務先だけ、

所得だけ、

家族だけ、

社会的地位だけ、

に集中させると、その一つが失われたときの心理的損失が大きくなる。

一方、

仕事もある。

趣味もある。

友人もいる。

学習もある。

地域との関係もある。

という状態なら、一つが変化しても人生全体が失われにくい。

これを、

人生のポートフォリオ化

と考えることもできる。

もちろん人生を金融商品と同じように扱うべきではない。

しかし、

「依存先を一つに集中させない」

という構造的発想は有用である。


17 年を取ることも「多様性」と「無常」の問題である

高齢化社会では、年齢による違いをどう考えるかが重要になる。

若者と高齢者では、

身体能力、

経験、

情報環境、

将来時間、

所得構造、

が異なる。

これは多様性の問題である。

同時に、

若者はいずれ高齢者になる。

これは無常の問題である。

この二つを同時に考えると、

世代対立の見方も変わる。

「高齢者対若者」

という固定的な二項対立ではなく、

同じ人間が時間によって異なる立場を経験する

と理解できる。

現在若い人も、

将来医療、

介護、

年金、

公共交通、

を必要とする可能性がある。

逆に現在の高齢者も、かつては若い労働者だった。

時間軸を入れることで、社会問題の見え方は変わる。


18 地域社会にも多様性と無常がある

地方の町も変化する。

人口が減る。

商店がなくなる。

学校が統合される。

外国人住民が増える。

移住者が来る。

高齢化する。

産業が変わる。

この変化に対して、

「昔の町をそのまま取り戻そう」

という発想だけでは、現実に対応できないことがある。

一方、

「古いものは全部捨てればよい」

という考えも極端である。

重要なのは、

何を残し、何を変えるかを選択すること

である。

無常とは、伝統を捨てる思想ではない。

変化を前提として、

残すべきものを考える思想としても読むことができる。


19 変わることを恐れず、変えなくてよいものまで壊さない

多様性と無常を合わせて考えると、一つの危険にも気づく。

変化を肯定しすぎることである。

新しいもの。

新しい価値観。

新しい制度。

それらが古いものより必ず優れているとは限らない。

逆も同じである。

昔から続いているから正しいとも限らない。

したがって必要なのは、

新しいか古いか、

多数派か少数派か、

ではなく、

その仕組みが人間の生活にどのような結果をもたらしているか

を検討することである。

ここに論理的判断が必要になる。


20 寛容とは「賛成すること」ではない

多様性社会では、

自分が理解できない価値観に出会うことがある。

そのとき重要なのは、

必ずしも相手に賛成することではない。

理解することと賛成することは違う。

共存することと同意することも違う。

相手の意見を批判する自由も、多様な社会には必要である。

ただし、

人間そのものを否定することと、

意見を批判することは区別しなければならない。

成熟した多様性社会とは、

「誰も反対しない社会」

ではない。

異なる意見を持ったまま共存できる社会

である。


21 無常を知ることは、他者への想像力にもなる

現在健康な人が、

病気の人を完全に理解することは難しい。

若い人が、

老化した身体を完全に理解することも難しい。

しかし、

「自分も同じ状態になる可能性がある」

と考えることはできる。

現在安定した仕事を持つ人も、失業する可能性がある。

現在介護をする側の人も、介護される側になる可能性がある。

現在多数派に属する人も、環境が変われば少数派になる可能性がある。

無常という時間軸を加えると、

他者の問題が、

「自分とは関係のない人の問題」

ではなくなる。

これは多様性社会を支える重要な想像力になる。


22 令和時代に必要なのは「柔らかい自己」である

ここまでをまとめると、

多様性から学べるのは、

世界には自分とは違う存在がいる

ということ。

諸行無常から学べるのは、

自分自身も同じままではない

ということである。

この二つを受け入れると、

「私はこういう人間だ」

という自己定義にも、少し余白を持たせることができる。

自分の核となる価値観を持つことは大切である。

しかし、

過去の肩書、

成功体験、

失敗、

年齢、

職業、

などだけで自分を固定する必要はない。

人間は変化する。

そして変化した自分も、自分なのである。


23 「諸行無常」は多様性を正当化するための言葉ではない

ここは、本稿でもっとも注意しておきたい点である。

仏教の諸行無常は、

現代のダイバーシティ政策を説明するために作られた思想ではない。

また、

「仏教は昔から多様性を説いていた」

と単純に結論づけることもできない。

歴史的文脈も、思想的目的も違う。

両者を直接同一視するのは、論理的な飛躍である。

本稿で両者を結び付けているのは、

固定された世界観を疑うための二つの異なる視点

としてである。

多様性は、

「世界には複数の人間や価値観がある」

ことを教える。

諸行無常は、

「その世界も人間も変化し続ける」

ことを教える。

この二つを重ねることによって、

現代社会を見るための立体的な視点が得られる。


24 変わりゆく世界をどう生きるか

では、令和時代を生きる私たちは、具体的にどのような姿勢を持てばよいのだろう。

第一に、

違いをすぐに異常と判断しない。

第二に、

現在の常識を永久の常識だと思わない。

第三に、

自分自身も変化することを認める。

第四に、

他者の価値観を理解することと、賛成することを区別する。

第五に、

必要なら自分の考えを更新する。

第六に、

一つの肩書や価値観だけに自己を集中させない。

第七に、

変化のなかでも守るべき人間の尊厳や権利を見失わない。

この最後の点が重要である。

変化する世界だからこそ、

何を変え、

何を守るのか

を考えなければならない。


25 結論――多様であり、無常である世界を受け入れる

人間社会は多様である。

そしてその多様な人間たちも、時間とともに変化する。

現在の自分は、

過去の自分とは違う。

未来の自分とも違う。

社会も同じである。

今の常識が、

百年前の常識と違うように、

百年後の常識も現在とは違っているだろう。

多様性は、

「世界には自分とは違うものが存在する」

という現実を教える。

諸行無常は、

「今あるものも、やがて同じ姿ではなくなる」

という現実を教える。

この二つを合わせて考えると、

変化しない世界を求めることでも、

すべての変化を無条件に歓迎することでもない、

第三の生き方が見えてくる。

それは、

違いを認めながら、変化を観察し、必要に応じて自分自身を更新していく生き方である。

自分の考えを持つ。

しかし絶対視しない。

伝統を大切にする。

しかし変化を拒絶しない。

他人の違いを認める。

しかし何でも無条件に肯定するわけではない。

社会のルールを守る。

しかしそのルールが永遠に正しいとも考えない。

これは曖昧な生き方ではない。

むしろ、

変化する現実のなかで判断を続けるという、かなり厳しい生き方である。

『平家物語』が「諸行無常」を語ってから長い時間が流れた。

社会制度も、技術も、暮らしも大きく変わった。

それでも、人間が変化する世界に生きていることだけは変わらない。

令和時代の多様性を考えるとき、諸行無常は、

「すべては滅びる」という悲観論としてではなく、

人も社会も固定されていないという事実を受け入れる知恵

として読み直すことができる。

変わらない自分を守り続けることだけが、人生ではない。

違う人と出会い、

知らなかった考えを知り、

自分自身も少しずつ変わる。

その変化のなかで、

何を大切にし、

何を手放し、

何を次の時代へ残すのか。

多様性と諸行無常をともに考える意味は、その問いにある。

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