リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

本当に日本人は「読まなくなった」のか

「最近の人は長い文章を読まない」

「若者は本を読まなくなった」

「SNSの短文ばかり読んでいるから読解力が落ちた」

こうした言葉を耳にすることがある。

確かに、書籍を読む習慣について見ると、変化は大きい。

文化庁が2024年に公表した令和5年度「国語に関する世論調査」では、1か月に本を何冊読むかという質問に対し、

「読まない」62.6%

という結果になった。

1冊以上読む人は合計36.9%だった。

さらに、

「以前と比べて読書量は減っている」

と答えた人は69.1%に達している。

この数字だけを見れば、

「日本人は本を読まなくなった」

という説明は間違っていないように見える。

しかし、同じ調査には興味深い結果がある。

本を1冊も読まないと答えた人のうち、

SNS、

インターネット上の記事、

その他の文字情報、

を「ほぼ毎日読む」と答えた人は75.3%だった。

つまり、

本を読まない人の多くも、文字そのものを読んでいないわけではない。

むしろ私たちは毎日、

ニュース。

SNS。

メール。

メッセージ。

検索結果。

商品説明。

口コミ。

仕事上の資料。

など大量の文字を読んでいる。

ここから問題を少し変えてみる必要がある。

「日本人はなぜ文章を読まなくなったのか」

ではない。

「なぜ一つの文章を長時間読み続けることが少なくなったのか」

と問うのである。

この違いは大きい。

本稿では、

総合誌。

新聞。

テレビ。

インターネット。

検索エンジン。

スマートフォン。

SNS。

というメディア環境の変化から、

日本人の「読む能力」ではなく、

読むために使う時間の構造

がどう変化したのかを考えてみたい。


1 かつて「読むこと」にはまとまった時間が必要だった

昭和の情報環境を考えてみよう。

政治について知りたい。

国際問題について知りたい。

文学について考えたい。

社会問題について詳しく知りたい。

そう思った場合、

新聞を読む。

本を読む。

新書を読む。

総合誌を読む。

という方法が大きな位置を占めていた。

もちろんラジオやテレビもあった。

しかし詳しい議論になると、

文章

が重要だった。

総合誌には、

数千字。

時には数万字。

という論考が掲載される。

一冊の新書なら200ページ前後ある。

小説ならさらに長い。

つまり情報を得ることと、

ある程度まとまった時間を一つの文章へ投入すること

が結び付いていた。


2 総合誌は読者に「長く読むこと」を要求した

『世界』

『中央公論』

『文藝春秋』

などの総合誌には、

政治。

経済。

外交。

歴史。

思想。

文学。

科学。

社会問題。

などが同じ一冊に掲載されてきた。

現在でも総合誌は存在するが、かつては知識人や専門家の長い論考に触れる重要な入口だった。

総合誌の文章には、

前提。

歴史的背景。

論点。

反論。

結論。

がある。

そのため、

途中だけ読んでも理解しにくい。

つまり総合誌という媒体そのものが、

読者に一定時間の集中を要求する構造

を持っていた。


3 「長文を読む能力」が高かったというより、他の選択肢が少なかった

ここで昭和を美化してはいけない。

昔の人が現代人より忍耐強かった、

とは限らない。

当時にも、

長い本を読まない人。

雑誌を読まない人。

娯楽だけを楽しむ人。

は当然いた。

重要なのは、

情報を得たい場合の選択肢が現在より少なかったことである。

ある事件について詳しく知りたい。

すると、

新聞を読む。

雑誌を読む。

本を読む。

という方法が中心になる。

だから長文読解は、

特別な精神力というより、

情報を得るために必要だった行動

でもあった。


4 新聞には「途中を飛ばせない情報」があった

紙の新聞にも特徴がある。

新聞を開く。

すると、

自分が関心を持つ記事だけではなく、

政治。

経済。

国際。

社会。

文化。

書評。

が同じ紙面に並ぶ。

目的の記事へ行く途中で、

別の記事の見出しが目に入る。

これは現在の検索とはかなり違う。

検索では、

知りたいものへ直接行く。

新聞では、

知りたいもの以外も視界に入る。

この構造は、

一つ一つの記事を長く読むことだけでなく、

社会の複数の問題を同じ時間の中で読む習慣にもつながっていた。


5 テレビは「読む時間」の最初の大きな競争相手だった

戦後、テレビが普及すると、

情報を得るために文章を読む必要は少しずつ低下する。

ニュースを見る。

討論番組を見る。

ドキュメンタリーを見る。

歴史番組を見る。

文章を読まなくても、

政治や社会について一定の情報を得られる。

これは教養の衰退とは限らない。

むしろ映像によって、

本を読まない人にも知識へ接触する機会が広がった。

しかし、

読書時間とテレビ視聴時間は同じ一日の中で競争する。

一日は24時間しかない。

新しいメディアが増えれば、

既存のメディアへ使える時間は減る。

この単純な原理は、後のインターネット時代にさらに強くなる。


6 読書量が減った最大理由は「読めなくなったから」ではない

文化庁の調査は、この点について興味深い。

読書量が以前より減った人へ理由を尋ねたところ、

最も多かったのは、

「情報機器で時間が取られる」43.6%

だった。

次が、

「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」38.9%。

さらに、

「視力など健康上の理由」31.2%、

「テレビの方が魅力的」19.8%

と続く。

つまり少なくともこの調査からは、

「長文を理解できないから読まない」

が中心原因だとは言えない。

むしろ、

時間の奪い合い

が中心にある。


7 若い世代ほど「情報機器に時間を取られる」

この傾向は年齢別に見るとさらに明確になる。

文化庁調査では、

読書量が減った理由として「情報機器で時間が取られる」を挙げた割合は、

16~19歳で70.9%、

20~30代でも6割台だった。

ここで重要なのは、

若者は文章が嫌いだ、

と考えることではない。

若い世代ほど、

スマートフォン。

動画。

ゲーム。

SNS。

メッセージ。

検索。

など、

読書以外の情報活動の選択肢が圧倒的に多い

ということである。


8 スマートフォンは「一つの媒体」ではない

テレビはテレビを見るための機械だった。

新聞は新聞を読むものだった。

本は本を読むものだった。

しかしスマートフォンは違う。

一台の中に、

新聞。

雑誌。

本。

テレビ。

ラジオ。

音楽。

ゲーム。

SNS。

電話。

カメラ。

地図。

買い物。

銀行。

仕事。

が入っている。

つまりスマートフォンは、

新しい一つのメディアではない。

過去のほぼすべてのメディアを一台に集めた競争空間

である。

そこで長文は、

動画。

メッセージ。

ゲーム。

ニュース速報。

通知。

音楽。

と同じ画面上で時間を奪い合う。


9 本を読む時、ライバルは本だけだった

書店で本を買う。

自宅で開く。

すると、その瞬間の選択肢は比較的少ない。

読む。

読むのをやめる。

テレビを見る。

くらいだった時代もある。

スマートフォンで長文を読む場合は違う。

文章を読んでいる途中に、

通知が来る。

メッセージが来る。

別の記事へのリンクがある。

動画のおすすめが出る。

検索できる。

つまり、

一つの文章に留まり続けること自体に競争が発生する。

文章の質とは別の問題である。


10 「長文を読む時間」は細切れ時間へ変わった

現代人は文字を読んでいないわけではない。

むしろ非常に多く読んでいる可能性がある。

朝、

ニュース通知を見る。

電車でSNSを見る。

仕事でメールを読む。

昼休みに検索する。

帰宅途中にニュースを見る。

夜にメッセージを読む。

しかし一つ一つは短い。

つまり、

文字を読む総時間と、長文を連続して読む時間は別

なのである。

ここを区別しなければならない。

一日に一時間文字を読んでいても、

それが、

2分+3分+30秒+5分……

と分割されていれば、

一冊の本を一時間読むのとは違う認知活動になる。


11 検索は「全文を読む必要」を減らした

インターネット以前、

ある問題を知るには本の一章を読む必要があった。

現在は検索できる。

「○○とは」

と入力する。

必要な答えがすぐ出る。

これは巨大な進歩である。

しかし同時に、

答えへ到達するまでの文章を読まなくてもよくなった。

本では、

問題設定。

歴史。

議論。

例。

を読んでから結論へ進む。

検索では、

結論だけ取り出せる。

この違いが読む習慣を変える。


12 検索は「問い」に強く、本は「問いの背景」に強い

検索には大きな利点がある。

質問が明確なら非常に効率がよい。

「日本国憲法施行日はいつか」

と知りたいなら、

一冊の本を読む必要はない。

しかし、

「なぜ戦後日本でこの憲法が成立したのか」

を理解するには、

歴史的背景が必要になる。

つまり、

検索は、

すでに持っている問いへの答え

に強い。

長文は、

自分がまだ知らなかった問いを作ること

に強い。

この違いは、長文を読む意味を考える上で重要である。


13 SNSは文章を短くしたというより「単位」を小さくした

SNSでは、

一つの投稿。

一つのコメント。

一つの画像。

一つの動画。

が情報単位になる。

長い論考も投稿できる場合はある。

しかし基本的な利用体験は、

次へ、

次へ、

次へ、

と進む構造になりやすい。

つまりSNSが変えたのは、

文章の文字数だけではない。

情報を一つずつ完結した小さな単位として受け取る習慣

である。


14 総合誌は「一人の論者に付き合う」メディアだった

総合誌の長文論考を読む場合、

読者は一人の筆者へ付き合う。

この人は、

なぜこう考えるのか。

どんな前提を置いているのか。

どこで論理が変わるのか。

を追う。

時には、

「この部分は納得できない」

と思いながら先を読む。

つまり長文には、

相手の思考を一定時間、自分の頭の中に置いておく

という作業がある。

SNSでは、

合わなければ次へ行くことが容易である。

ここに大きな違いがある。


15 長文とは「情報量の多い文章」ではない

ここで長文の価値を誤解しないようにしたい。

長ければ良いわけではない。

冗長な文章もある。

同じことを繰り返す文章もある。

短い文章で十分な問題もある。

長文が必要になるのは、

問題そのものが複雑な場合

である。

複数の原因がある。

歴史がある。

例外がある。

反対意見がある。

こうした問題は、

短い結論へすると何かを削らなければならない。


16 短文は悪いメディアではない

SNSの短文を否定する必要もない。

速報。

連絡。

要点。

簡潔な意見。

には短文が適している。

短い文章で正確に説明する能力も重要である。

問題は、

すべての問題を短文だけで理解できると思うこと

である。

人口減少。

戦争。

社会保障。

経済政策。

文学。

歴史。

こうした問題には、

一つの原因だけでは説明できないものが多い。

短文は入口にはなれる。

しかし入口だけで建物全体を理解したことにはならない。


17 「結論を先に」が当たり前になった

現代の文章では、

「最初に結論を書いてください」

と言われることが多い。

ビジネスでは合理的である。

時間を節約できる。

しかし文学や思想、社会分析では、

結論までの過程そのものに意味がある。

なぜその結論になるのか。

反対の可能性はないのか。

途中で何が検討されたのか。

これを読むことで、

結論ではなく考え方を学ぶ。

長文読解の価値の一つはここにある。


18 動画は長くても見ることができるのに、文章は長いと嫌われるのか

興味深い現象がある。

30分の動画を見る人が、

10分で読める文章を「長い」と感じることがある。

これは必ずしも矛盾ではない。

動画は基本的に、

流れてくる。

文章は、

自分で進めなければならない。

理解できなければ戻る。

集中する。

つまり文章の方が、

読者側へ能動的な処理を要求する。

時間の長さだけでは、負担を比較できない。


19 長文読解には「何もしない時間」が必要になる

本を読む場合、

数十分間、

画面を切り替えない。

通知を見ない。

別の記事へ行かない。

一人の文章を追う。

この状態は、

現在では意外に特殊である。

つまり長文読解は、

読む技術だけではなく、

他の情報を一時的に遮断する技術

を必要とするようになった。

昭和には、この遮断が環境によってある程度自動的に成立した。

令和では、自分で作らなければならない。


20 「読む能力」が落ちたのか、「集中の環境」が変わったのか

ここで重要な区別がある。

人間の読解能力そのもの。

長文へ集中する環境。

この二つは別である。

スマートフォンを置いて、

静かな場所で、

関心のある本を読む。

すると普通に長時間読める人も多い。

つまり、

長文を読まなくなったことから、直ちに長文を読めなくなったとは言えない。

行動と能力を混同してはいけない。


21 読書時間は「余った時間」では作りにくい

現代では、

時間があったら本を読もう、

と思う人も多い。

しかし時間が余ると、

スマートフォンを開ける。

数分の空き時間でも使えるからである。

本の場合、

ある程度まとまった時間が欲しい。

すると、

スマートフォンは、

5分。

10分。

15分。

という細かな空き時間を吸収する。

結果として、

まとまった読書時間へ成長するはずだった小さな時間が先に使われる。

これは読書にとって非常に大きな変化である。


22 「暇」が消えたことは大きい

昔の電車の中では、

外を見る。

新聞を読む。

本を読む。

眠る。

という選択肢だった。

現在は、

何もすることがない、

という時間がほとんどなくなった。

スマートフォンを開けば必ず何かある。

つまり現代社会では、

退屈そのものが減った。

しかし読書は、しばしば退屈から始まる。

何となく本を開く。

そのまま読み続ける。

この入口が失われやすくなった。


23 書店で「偶然本に出会う」機会も変わった

文化庁調査では、本を読む人の選書方法として、

「書店で実際に手に取って選ぶ」が57.9%で最も多い一方、

「インターネットの情報を利用して選ぶ」が33.4%だった。

また、過去の参考値では、書店で選ぶ割合は減少傾向、インターネット利用は増加傾向にあった。

インターネットで本を選ぶと、

検索した本。

似た本。

売れている本。

が表示される。

非常に便利である。

しかし書店では、

目的外の本が目に入る。

この違いも、

読む内容の広がりに影響する可能性がある。


24 電子書籍が長文を破壊したわけではない

紙か電子かという問題も単純ではない。

文化庁調査では、

電子書籍を「よく利用する」「たまに利用する」を合わせると40.3%だった。

電子書籍でも小説や専門書は読める。

つまり、

電子化=短文化

ではない。

問題は、

同じ端末の中に別の誘惑が存在するかどうか

である。

専用の電子書籍端末と、

通知が次々届くスマートフォンでは、

同じ電子文章でも読書環境が異なる。


25 長文を読む人が「少数派」になると何が起こるのか

社会全体で長文を読む人が減った場合、

個人の趣味だけでは済まない可能性がある。

政治家の説明。

企業の説明。

政策議論。

研究結果。

社会問題。

これらについて、

「長いから読まない」

となれば、

短いキャッチコピーの力が強くなる。

賛成。

反対。

成功。

失敗。

善。

悪。

という単純な分類が有利になる。

つまり長文を読む文化は、

複雑な問題を複雑なまま議論できる社会の基盤

でもある。


26 総合誌が衰退すると「長い議論の共通場所」も弱くなる

かつて総合誌は、

意見が異なる論者の長文を、

同じ読者が読む場所だった。

全員が同じ結論へ行く必要はない。

しかし、

同じ問題について数千字の議論を読む。

それによって、

「なぜ相手はそう考えるのか」

がある程度分かる。

現在は、

自分に近い意見だけを選ぶことが容易である。

すると問題は、

文章の長さだけではなく、

異なる論理へ付き合う時間が減ること

になる。


27 SNSの問題は「短いこと」より「次があること」

SNSには短文だけでなく長文もある。

それでも長く読み続けにくい場合がある。

理由の一つは、

必ず次の情報が待っているからである。

この文章を最後まで読むより、

次にもっと面白いものがあるかもしれない。

この状態では、

一つの文章へ留まることに機会費用が生まれる。

つまり、

「長文が長すぎる」のではなく、「次へ行く誘惑が強すぎる」

のである。


28 現代人は情報を「読む」より「選別」している

毎日、大量の情報が届く。

すべて読むことは不可能である。

そこで現代人は、

見出しを見る。

冒頭を見る。

必要か判断する。

不要なら閉じる。

という行動を繰り返す。

これは合理的である。

つまり現代の読者には、

読解能力だけでなく、

高速な情報選別能力

が求められている。

これは昭和型読者とは別の能力である。


29 だから現代人を「読書能力が低い」と決めつけるべきではない

昭和と令和では、

必要とされる情報処理が違う。

昭和~

少ない情報を比較的長く読む。

令和~

大量の情報から必要なものを素早く選ぶ。

という違いがある。

どちらかが上位とは限らない。

問題は、

後者だけになった場合、

複雑な問題へ長時間集中する能力を使う機会が減る

ことである。

使わない能力は、使いにくくなる可能性がある。

だから両方必要になる。


30 長文を読む意味は「情報収集」から変わりつつある

インターネット以前、

本には情報を得るという大きな役割があった。

現在、単純な情報なら検索の方が速い。

すると長文の役割は変わる。

長文を読む目的は、

事実を一つ知ること

だけではない。

一人の思考を追う。

因果関係を見る。

矛盾を見る。

歴史を知る。

複数の論点を同時に持つ。

つまり、

情報を得るためではなく、思考の構造を学ぶために読む

という価値が相対的に大きくなる。


31 AI時代にはさらに「読む必要がない」と感じやすくなる

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が普及すると、

長い文章を要約できる。

論文を要約する。

本の内容を説明する。

議事録をまとめる。

これによって時間は大幅に節約できる。

しかし、

要約を読むこと

と、

原文を読むこと

は同じではない。

要約では、

何が削られたかが見えない。

論理の微妙な変化。

筆者の迷い。

反論。

具体例。

文体。

は消えやすい。

AI時代には、

何を要約で済ませ、何を原文まで読むか

を判断する能力が重要になる。


32 すべての長文を読む必要はない

ここで昔の読書習慣へ戻ろうとする必要はない。

すべての記事を最後まで読む必要はない。

すべての本を読破する必要もない。

現代の情報量では不可能である。

重要なのは、

何に長い時間を使う価値があるかを選ぶこと

である。

速報は短文。

事実確認は検索。

概要は要約。

しかし、

自分にとって重要な問題。

専門分野。

価値観に関わる問題。

については長文まで読む。

媒体ごとに役割を分ければよい。


33 長文を読む習慣を取り戻すには精神論より環境設計が必要

「もっと集中しよう」

「スマホに負けるな」

だけでは続きにくい。

問題が環境にあるなら、

環境を変える方が合理的である。

例えば、

通知を切る。

スマートフォンを別の場所へ置く。

電子書籍専用端末を使う。

一日20分だけ読む。

通勤時間の一部を本へ固定する。

読む時間を予定表へ入れる。

つまり、

読書を余暇ではなく予定として確保する。

これが現代的な方法になる。


34 「一冊読む」より「30分同じ文章に留まる」

読書目標として、

月10冊読む。

年間100冊読む。

という方法もある。

しかし冊数を競うと、

短い本を急いで読む

方向にもなり得る。

長文読解を維持するという目的なら、

冊数より、

一つの文章へ連続して滞在した時間

を見る方がよい。

30分間、

別の情報へ移らず読む。

これは現代ではかなり高度な情報行動になっている。


35 長文を読むことは「遅く考えること」でもある

短文は判断を速くする。

賛成か。

反対か。

面白いか。

面白くないか。

長文では、判断を保留する時間が長くなる。

最初は反対だった。

しかし途中で納得する。

最後まで読んでも反対だが、理由は理解できる。

こうした変化が起こる。

つまり長文には、

結論を急がずに考える訓練

という側面がある。


36 民主社会では「最後まで読む人」が一定数必要になる

政治や社会問題では、

短い言葉ほど広がりやすい。

しかし制度は複雑である。

税。

年金。

医療。

外交。

安全保障。

教育。

人口問題。

どれも数十文字では説明できない。

社会全体が長文を嫌うようになれば、

政策を詳しく説明する側にも、

「どうせ読まれない」

という誘因が生まれる。

だから長文読解は、

個人的教養だけではなく、

民主社会の情報基盤

でもある。


37 それでも昔へ戻る必要はない

総合誌の時代へ戻ることはできない。

戻る必要もない。

現在には大きな利点がある。

専門家の文章を直接読める。

公的資料を検索できる。

海外の情報へ届く。

電子書籍を持ち歩ける。

多様な人が発信できる。

問題は、

昔と今のどちらが優れているか

ではない。

速く読む環境の中に、遅く読む時間をどう残すか

なのである。


38 日本人は「読まなくなった」のではなく「読み方を変えた」

文化庁の数字をもう一度見る。

本を1か月に一冊も読まない人は62.6%。

しかしその人の75.3%は、本以外の文字・活字情報をほぼ毎日読んでいる。

これは非常に象徴的である。

日本人が文字文化から離れた、

というより、

文章との接触単位が、本から記事や投稿へ移った

と考えることができる。

そして、

長時間・連続・一方向だった読書が、

短時間・断続・多方向の読書へ変わった。

これが現在の大きな変化なのではないだろうか。


結論~失われたのは「読む能力」より「一つの文章に使う時間」なのかもしれない

なぜ日本人は長文を読まなくなったのか。

一つの原因だけで説明することはできない。

忙しくなった。

テレビが登場した。

インターネットが登場した。

検索が便利になった。

スマートフォンが普及した。

SNSが登場した。

動画が増えた。

こうした変化が積み重なっている。

しかし、それらを一つの観点から整理することはできる。

それは、

一日の中で「読む時間」を奪い合う相手が劇的に増えた

ということである。

昭和の読者が一冊の総合誌を開いた時、

最大の競争相手は、

別の本、

新聞、

テレビ、

くらいだった。

現代の読者がスマートフォンで長文を開くと、

その同じ画面の中に、

SNS。

動画。

ゲーム。

メッセージ。

ニュース。

買い物。

音楽。

仕事。

が存在する。

だから長文は、

昔より魅力がなくなった、

というより、

昔とは比較にならない数の情報と競争するようになった。

文化庁調査で、読書量が減った理由の第一位が「情報機器で時間が取られる」だったことは、この構造と整合する。

そして重要なのは、

本を読まない人の多くも、

毎日文字を読んでいる

という事実である。

だから、

「現代人は文字を読めなくなった」

という結論は単純すぎる。

むしろ、

読む行為そのものが変わった。

一冊を読む。

一つの論考を読む。

一人の思想へ付き合う。

という読書から、

大量の情報を高速で選別する読書へ変わった。

これは能力の低下だけではない。

新しい情報社会に適応した結果でもある。

しかし適応には代償がある。

短い文章だけでは、

複雑な問題を複雑なまま理解しにくい。

歴史的背景。

例外。

反対意見。

因果関係。

こうしたものを保持するには、

ある程度長い文章が必要になる。

だから現代社会で必要なのは、

昭和のように長文だけを読む生活へ戻ることではない。

速報は短く読む。

検索で答えを得る。

要約を利用する。

動画で理解する。

その便利さを使いながら、

重要な問題だけは、意識的に長い文章まで読む。

これが現代的な読み方になる。

長文読解とは、

懐古的な文化ではない。

情報が多すぎる現代だからこそ、

一つの問題へ長く留まり、

簡単に次へ移らず、

結論を急がず、

相手の論理を最後まで追う能力には価値がある。

つまり、

失われつつあるのは、

「日本人の読む能力」

ではないのかもしれない。

失われつつあるのは、

一つの文章へ時間を渡す習慣

なのである。

もしそうなら、

長文文化を守るために必要なのは、

「最近の人は本を読まない」と嘆くことではない。

一日の中に、

通知も検索も次の記事もない、

30分間を作ること。

現代における長文読解とは、

本を読む技術以上に、

自分の時間を一つの思考へ預ける技術

になっているのではないだろうか。

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