リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 部屋の壁一面に本棚がある人を見ると、それだけで少し賢そうに見えることがある。哲学書や歴史書が並んでいればなおさらで、まだ話をしていないのに、「この人は物事を深く考える人なのだろう」と想像してしまう。一方で、家にほとんど本がなく、「本はあまり読みません」と言う人に対して、私たちは同じ種類の知性を期待するだろうか。もちろん、本を読まなくても鋭い判断力を持つ人はいるし、大量に読書をしていても思い込みの激しい人はいる。それでも「読書家」という言葉には、単に本をよく読む人という以上に、教養があり、語彙が豊富で、思考が深いという人物像がまとわりついている。

 しかし、ここには一つの飛躍がある。本をたくさん読むという行動と、その人が賢いという評価は本来なら別のものだからだ。年間百冊読む人が年間一冊しか読まない人より優れた判断をするとは限らないし、文学全集を読破した人が金銭管理や機械修理にも強いとは限らない。それにもかかわらず、読書と知性は長いあいだ、ほとんど当然のように結びつけられてきた。

 では、「読書家は知的」というイメージは単なる文化的な思い込みなのだろうか。心理学や読書研究を見ていくと、答えは意外に複雑である。このイメージには一定の実証的な根拠がある。しかし、それは「本をたくさん読めば、その分だけ頭がよくなる」という単純な話ではない。

本を読む人は、なぜ「知的」に見えるのか

 そもそも「知的」という言葉そのものがかなり曖昧である。数学の難問を素早く解ける人、豊かな語彙を持つ人、歴史や科学について多くを知っている人、複雑な問題を筋道立てて考えられる人、他人とは違う視点から物事を眺められる人を、私たちはまとめて「頭がいい」と表現することがある。しかし心理学的には、これらは必ずしも同じ能力ではない。

 知的能力を考える際には、未知の問題に対処し、規則性を見つけたり推論したりする能力と、長年の学習や経験を通じて蓄積された語彙や一般知識とを区別する考え方がある。前者は流動性知能、後者は結晶性知能と呼ばれる。読書経験と特に強く関連するのは、語彙、言語知識、一般知識など、後者に近い能力であると考えられている。

 これは日常感覚とも一致する。読書量の多い人は、会話の途中で少し珍しい言葉を自然に使ったり、ある事件について歴史上の似た出来事を思い出したり、小説の一場面を例に出したりする。その瞬間、私たちはその人の頭の中に、自分には見えない巨大な倉庫があるように感じる。知識そのものだけでなく、知識を言葉として取り出し、説明できることが、「知的に見える」という印象を強くするのである。

 実際、心理学者キース・スタノヴィッチらによる一連の研究では、印刷物への接触量が多い人ほど、語彙や一般知識などで高い成績を示す傾向が確認されている。一般的な認知能力や教育歴などを統計的に考慮しても、読書経験と語彙や知識との関連が残る研究もある。その一方で、推論力や作業記憶のような能力については、語彙や一般知識ほど一貫して強い関連が示されるわけではない。

 つまり、読書家が「知的に見える」のは、完全な錯覚ではない。読書経験と強く結びつく能力そのものが、私たちが日常生活の中で「知性」と認識しやすい形をしているのである。

本を読むから賢くなるのか、読むのが得意だから本を読むのか

 ただし、ここで話は一段難しくなる。読書家の語彙が豊かだったとしても、それだけでは「読書によって語彙が豊かになった」とは言えない。本をよく読む人は、そもそも文字を読むことが得意だった可能性があるからである。

 背の高い人ほどバスケットボールをしているからといって、「バスケットボールをすれば背が高くなる」とは言えないのと少し似ている。活動の結果として能力が伸びることはあっても、その活動を選ぶ人の側にも、もともとの特徴がある。読書でも、文字を速く処理でき、文章を比較的容易に理解できる子どもほど本を読むことを楽しみやすく、読むことが楽しいからさらに読むという循環が生まれる可能性がある。

 スタノヴィッチはこうした現象を「マタイ効果」という考え方で説明した。読むことが得意な子どもは読む機会を増やし、その経験を通じて語彙や知識をさらに増やす一方、読むことに苦労する子どもは本を避けやすくなり、結果として経験の差まで広がっていくという考え方である。ただし、この差がすべての子どもで必ず同じように拡大するわけではない。重要なのは、能力と経験が互いに関係しながら長期間にわたって差を形づくる可能性があるという点である。

 大規模な双生児研究でも、読書量と読書能力の因果方向が検討されている。そこでは、少なくとも研究対象となった年齢では、「多く読むから読書能力が高くなる」という方向だけでなく、「読書能力が高いから自主的に多く読む」という方向が強く示された。つまり、読書量そのものだけを見て「この人は読んだから能力が高くなった」と考えるのは単純すぎるのである。

 他方で、別の長期的な研究では、読書能力と自主的な読書経験が相互に影響し合う可能性も示されている。読むことが得意だから読む。読むから語彙や知識が増える。語彙や知識が増えることで、さらに難しい文章が読めるようになり、読むことそのものが楽しくなる。この循環が何年も続いた結果を、私たちは大人になった一人の「読書家」として見ているのかもしれない。

読書能力は、その後の知的発達とも関係する

 では、読書は単に「もともと読むのが得意な人の趣味」にすぎないのだろうか。そう言い切ることもできない。

 英国の長期追跡調査を用いた研究では、子どものころに楽しみとして本を読んでいた人ほど、その後の語彙の伸びと関連するだけでなく、数学の成績の伸びとも一定の関連が見られた。家庭の社会的背景や親の教育歴などを考慮しても、その関係が残ったとされている。

 ただし、ここは慎重に読む必要がある。このような研究は観察研究であり、「読書だけが数学や認知能力を向上させた」と断定することはできない。読書を好む家庭には、親子の会話が多い、教育への関心が高い、知的刺激を受けやすいといった別の特徴があるかもしれず、それらを完全に切り離すことは難しいからである。

 さらに、一卵性双生児を長期的に追跡した研究では、遺伝的にはほぼ同じ双生児の間でも、早い時期に読書能力が高かった側が、その後の知能検査で高い成績を示す傾向が報告された。この結果は、読書能力がその後の認知発達と関係している可能性を示すものとして注目された。

 しかし、その後に同じデータを別の統計モデルで再分析した研究では、この関係が読書そのものの因果効果だけで説明できるとは限らず、読書能力と知能の双方に長期的に影響する安定した環境要因が存在する可能性も指摘された。つまり、「早く読めるようになれば知能そのものが高くなる」とまで言い切るのは、現在の研究から見れば慎重さを欠く。

 ここで分かるのは、科学が私たちの期待するほど単純な答えを与えてくれないということである。読書能力と知的発達には確かに関係がある。しかし、その関係の中には、遺伝、家庭環境、学校教育、本人の興味、読書経験そのものが複雑に入り込んでいる。一本の矢印で説明するより、相互作用する循環として考えた方が現実に近い。

それでも本を読む行為は、頭の中ではかなり忙しい

 因果関係を慎重に考えることと、読書という行為そのものの認知的な複雑さを過小評価することは別問題である。文章を理解するためには、直前まで読んだ内容を保持し、新しい情報と結びつけ、曖昧な部分を推測し、自分が持っている知識と照合しながら意味を構成し続けなければならない。

 小説であれば、登場人物の感情や動機を想像し、過去の出来事を記憶しながら現在の行動を理解する必要がある。歴史書であれば、複数の出来事の因果関係を整理しなければならない。評論であれば、筆者の主張と根拠を区別しながら、自分が同意できる部分と疑うべき部分を見極める必要がある。

 椅子に座ってページをめくるという外見だけを見ると、読書は非常に静かな行為に見える。しかし、その内部では記憶、予測、推論、語彙処理、意味理解が絶えず動いている。読書が長期的な知識形成と関係しやすい理由は、このような認知活動が何度も繰り返されることとも無関係ではないだろう。

本を百冊読んでも「賢明な人」になるとは限らない

 ここで、もう一度「知的」という言葉を疑う必要がある。語彙が豊かであることと、正しい判断ができることは同じではない。歴史に詳しいことと、自分に都合の悪い事実を公平に検討できることも違う。

 心理学研究では、人は自分がもともと持っている立場に有利な情報を高く評価し、反対する情報を低く評価しやすいことが知られている。これはマイサイド・バイアスと呼ばれるが、興味深いことに、この偏りは一般的な認知能力が高ければ自動的に小さくなるとは限らないことが示されている。

 つまり、頭の回転が速い人だから、自分の思い込みから自由になれるとは限らないのである。知識や認知能力が高くても、それだけで自分の立場を公平に疑えるようになるわけではない。

 この点は読書について考えるときにも重要である。本を読むことによって知識を増やすことはできても、自分と同じ考えの本ばかり選び続ければ、世界観そのものは狭いままかもしれない。百冊読んだ人が一冊しか読まなかった人より偏見が少ないとは限らないし、難解な哲学書を読み通した人が、反対意見に寛容であるとも限らない。

 結局、問題は「何冊読んだか」だけではなく、「読んだものによって自分の考えを修正できるか」に移っていく。本は知識を与えてくれるが、その知識をどのように扱うかまでは決めてくれない。

「読書家」という肩書きが作る、もう一つの錯覚

 それでも私たちが読書家を知的だと感じやすいのには、もう一つ理由があるのではないだろうか。読書によって得られる知識は、他人から見えやすいのである。

 たとえば、数学的な直感に優れた職人が、仕事の中で複雑な角度や寸法を瞬時に判断しても、その能力は本棚には並ばない。長年商売をしてきた人が客の表情から微妙な心理を読み取っても、それを難しい言葉で説明するとは限らない。機械の音を聞いただけで故障箇所を推測できる技術者にも高度な知識体系があるが、それはしばしば「教養」とは別のものとして扱われる。

 一方、読書によって得た知識は言葉として表れやすい。会話の中で引用でき、文章として説明でき、本棚という物理的な形で他人に見せることもできる。だから読書によって形成された知識は、ほかの種類の知識より「知性」として発見されやすい可能性がある。

 これは、読書家だけが知的だという意味ではない。むしろ、私たちが知性として見つけやすいものに偏りがある、という話である。社会は、言葉で説明できる知識を評価しやすい。そのため、本を読む人が持つ能力は「知的」として認識されやすく、経験や身体技能の中に埋め込まれた知性は見落とされやすいのかもしれない。

「本を読む人ほど賢い」ではなく

 結局、「読書家は知的」というイメージを完全に否定する必要はない。読書経験の多さが語彙や一般知識と関係し、その蓄積が長期的な知的発達と結びつく可能性を示す研究は多く存在する。その意味では、本を読むことと知的能力の間には確かに関係がある。

 しかし、「読書家だから賢い」と言った瞬間、その関係は粗雑になる。もともとの読書能力が高いから本を好む人もいる。家庭環境や教育によって本に触れる機会が多かった人もいる。読書と強く関連するのは、とりわけ語彙や知識のような能力であって、人間のあらゆる知的能力が一様に高くなるわけでもない。まして、合理性や判断力、人格まで本の冊数から推測することはできない。

 より正確に言うなら、「本を読む人ほど賢い」のではなく、「長期間にわたって読書を続けてきた人は、語彙や一般知識など、社会から知的だと認識されやすい能力を豊富に持っていることが多い」ということである。

 それでも読書には、数字では測りにくい奇妙な力が残る。本を開けば、自分より賢い人だけでなく、自分とはまったく違う時代を生きた人、間違った人、愚かな人、嫌いな人の頭の中にまで入ることができる。そこで何を受け取り、何を疑い、何を捨てるかは読者自身に委ねられている。

 知性とは、本棚の長さではないのだろう。何冊読んだかでもない。むしろ、自分が知らなかったことに気づき、自分が正しいと思っていた考えを疑い、それまでより少し複雑な世界を複雑なまま受け止められるようになることの方が、知性という言葉には近い。

 本は人を自動的に賢くしてくれる機械ではない。しかし、考える材料をこれほど大量に、しかも他人の人生や経験ごと運んでくる道具は珍しい。だから読書家が知的なのではなく、読書には知性が育つための条件を何度も作り直す力がある、と考えた方が正確なのかもしれない。

 そしておそらく、本当に知的な読書家とは、自分が何冊読んだかを誇る人ではない。一冊読むたびに、「自分はまだ知らないことの方が多い」と気づける人なのである。

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