リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 山手線の田端駅を降りても、そこに「文学の町」らしい華やかさがあるわけではない。駅前にはごく普通の東京の日常があり、電車が行き交い、人々は足早にそれぞれの目的地へ向かっていく。この場所にかつて芥川龍之介や室生犀星が暮らし、萩原朔太郎や菊池寛、堀辰雄らが行き交ったことを知らなければ、そのまま通り過ぎても不思議ではない。

 けれども、むしろその何でもなさこそが、田端文士村を考える入口なのかもしれない。彼らは「日本文学の拠点をここにつくろう」と相談して田端へ集まったわけではなかった。行政が文学者のための文化地区を整備したわけでも、出版社が作家村を造成したわけでもない。人が人を呼び、その人を訪ねて別の人がやって来るうちに、後世の私たちが「文士村」と名前を付けるほど濃密な人間関係が、一つの町に形づくられていったのである。

 では、そのような文士村は、もう二度と生まれないのだろうか。

 インターネットがあれば、北海道に住んでいても東京の編集者と原稿をやり取りでき、海外の読者ともその日のうちに交流できる。作品を発表するために出版社の近くへ住む必要もなくなった。そう考えれば、文士村とは通信や交通が不便だった時代だからこそ成立した、過去の文化現象に見える。

 ところが田端の歴史をたどると、文士村を成立させていたものは単なる情報伝達の不便さではなかったことが見えてくる。そこにあったのは、もっと人間的で、ときには煩わしく、それでも創作に何らかの刺激を与える「近さ」だった。

文士村になる前の田端

 田端は最初から文学者の町だったわけではない。明治中頃まで、この地域には田畑や雑木林が残っていた。その後、1887年に上野で東京美術学校が開校すると、東京美術学校をはじめとする美術教育の場に学び、あるいは芸術活動に携わる人々が、周辺地域に暮らすようになった。1900年には画家の小杉放庵が田端に下宿し、1903年には陶芸家の板谷波山が窯を築いた。やがて画家や彫刻家、工芸家たちが集まり、その交流の場として「ポプラ倶楽部」も生まれていく。

 つまり田端は、文学者が集まる以前に、すでに芸術家たちが互いに行き来する土地になっていた。その場所へ1914年に芥川龍之介が移り住み、1916年には室生犀星がやって来る。さらに1925年には萩原朔太郎や堀辰雄、1926年には佐多稲子が田端へ移り住むなど、時期を異にして文学者たちの活動が重なった。菊池寛のように田端の文学者たちと交流した人物も含め、芸術家村だった田端には、やがて文士村というもう一つの顔が加わったのである。

 室生犀星は後年、この時期の田端を「詩のみやこ」と呼んだ。ただし、この言葉から洗練された文学サロンだけを想像すると、実態を美化しすぎるかもしれない。そこにいたのは、後世から見れば文学史上の巨人であっても、当時はまだ二十代、三十代の若者たちだった。互いの作品を読み、批評し、刺激を受け、ときには反発しながら、自分が何者になるのかも分からない時期を過ごしていた。

 田端における交流が、単に後世の人々によって想像されたものではないことも重要である。例えば、1925年に萩原朔太郎が田端へ移り住んだ際には、芥川龍之介がその転居を歓迎し、作品を通じて互いに刺激を受けようとする関係があったことが伝えられている。こうした具体的な交流の記録は、田端が単なる著名作家の居住地の集合ではなく、文学者たちの関係が実際に交差する場所だったことを示している。

 もっとも、田端に文学を生み出す特別な磁場が最初から存在していたわけではない。むしろ、人が人を呼び、その人間関係そのものが土地に意味を与えていったと考える方が自然だろう。会いたい人の家が歩いて行ける場所にあり、そこを訪ねれば別の誰かが来ている。そのような偶然や交流の積み重ねによって、普通の住宅地の一角が文化的な場所へ変わっていった。

作家には孤独と他者の両方が必要なのか

 小説を書くことも詩を書くことも、最後は一人でする仕事である。一篇の詩の最後の一語を決めるとき、作者に代わって誰かが決断することはできない。それなら、創作者は孤独であればあるほど優れた作品を書けるのかというと、文学史を見るかぎり、それほど単純でもない。

 田端で興味深いのは、一人で仕事をする空間と、他人に会う空間が近接していたことである。自宅へ戻れば孤独になれるが、少し歩けば別の書き手や芸術家がいる。昨日書いたものを見せれば、褒められることもあれば、首をかしげられることもある。腹を立てて帰ったとしても、翌朝原稿を読み返せば、昨夜聞いた一言が頭から離れないこともあっただろう。

 もちろん、これは当時のすべての会話が創作に有益だったという意味ではない。人間が集まれば友情だけでなく嫉妬も生まれ、競争も起こり、作品観の違いから不和になることもある。しかし創作にとって重要なのは、必ずしも気持ちよく褒めてもらうことではない。自分とは違う価値観や感覚を持つ人間が、簡単には消えてくれないことそのものが、思考を揺さぶる場合がある。

 この点では、現代の創造性研究にも興味深い示唆がある。2022年に科学誌『ネイチャー』に掲載された研究では、対面で共同作業する場合と映像通話を利用する場合を比較し、新しいアイデアを生み出す課題において、対面の方が多くの創造的なアイデアを生み出す傾向が報告された。この研究では実験室だけでなく企業での実験も行われており、映像通話では画面へ注意が集中することによって、発想の広がりが制約される可能性が指摘されている。

 ただし、研究が示したのは対面交流があらゆる創造的活動で優れているという結論ではない。アイデアを選択する段階では、映像通話が一貫して不利になるわけではなく、測定対象も主として比較的短時間の共同発想課題だった。長期間にわたって構想を練り、執筆と推敲を繰り返す文学作品の質を直接測定したものではないため、「対面で会えば優れた小説が生まれる」と結論づけることはできない。

 また、2022年に発表された別の研究では、米国マイクロソフト社の約6万1千人の従業員を対象として、遠隔勤務への移行が組織内の交流関係に与えた影響が調べられている。その結果、従業員間の交流ネットワークが固定化・分断され、異なる集団を結ぶ関係が弱まる傾向が確認された。ただし、これは大規模企業における勤務形態の変化を分析した研究であり、独立して活動する作家や芸術家の創作共同体にも同じ結果が当てはまるとは限らない。

 こうした研究から、田端の文学者たちが近所に住んだから名作を書けたと断定することはできない。それでも、個人で考える時間と他者から刺激を受ける時間を往復する環境が、創造的な発想に関係する可能性は考えられる。田端で行われていた生活の形と、現代の研究が示す知見には、少なくとも比較して考える価値のある共通点が存在する。

 もっとも、対面交流が多ければ多いほど創造性が高まるわけでもない。人間関係が固定化すれば、互いの考え方を理解しやすくなる反面、集団の内側で評価基準が似通い、外部の異質な発想を取り込みにくくなることもある。創作共同体にとって重要なのは、単に交流の量を増やすことではなく、互いに信頼しながらも、新しい人や異なる価値観に開かれていることなのだろう。

 文士村が提供していたものは、全員が常に一緒にいる共同生活ではなかった。それぞれが一人になれるにもかかわらず、他者から完全には切断されない環境だったのである。

インターネットは巨大な文士村なのか

 作品の発表や情報交換という点だけを見れば、現代の創作者は百年前よりも多様な手段を持っている。作家志望者が東京へ引っ越さなくても作品を発表でき、同じ作品を好む人を探し、感想を交換し、編集者と連絡することができる。かつてなら一生出会わなかったかもしれない相手と、数分後には会話できる。

 これは創作者にとって非常に大きな自由である。かつて文化的な情報や出版の機会が都市へ集中していた時代に比べれば、少なくとも作品を発表し、他者と連絡を取るという面で、地方に住むことによる制約は小さくなった。作品公開の入口を出版社や文芸誌だけが独占する時代でもなくなり、個人が直接読者へ届く道も増えている。

 ただし、作品を発表する機会が広がったことと、作家として職業的に成功する機会が平等になったことは同じではない。編集者との継続的な関係、出版市場への接近、創作に必要な所得や時間の確保など、通信技術だけでは解消できない条件も残っている。作品を公開することが容易になった一方で、膨大な作品の中から読者に発見され、継続的に読まれることの難しさもある。インターネットが縮めたのは、まず情報を届ける際の地理的な距離であり、創作を職業として成立させるための格差がすべて消えたわけではない。

 また、便利になったからといって、昔の人間関係をそのまま上位互換したわけでもない。オンラインでは、関心のある人物を検索し、好きな作品を発表する人をフォローし、自分と似た趣味を持つ人と効率よく結びつくことができる。その一方で、物理的な場所では、自分が会おうと思っていなかった人と出会うことがある。友人を訪ねたところ、知らない人が座っていたという種類の偶然である。

 とはいえ、「インターネットには偶然の出会いがない」と考えるのも正しくない。推薦の仕組みが思いがけない作家や作品を提示することもあり、オンラインで偶然の発見を促す仕組みも研究されている。逆に、現実の地域共同体でも、似た価値観を持つ人だけが集まり、新しい出会いが乏しくなることはある。したがって、田端と現代の違いは「偶然があるか、ないか」ではなく、偶然の生まれ方と、その偶然を継続的な関係へ変える仕組みが異なると考えた方がよい。

 田端では、同じ町に住んでいるというだけで、関心の異なる人間が同じ道を歩き、ときには同じ家に集まった。現代では地理的な距離を超えて、自分と強い関心を共有する相手に出会うことができる。前者は比較的狭い範囲で日常生活を共有しやすく、後者は広い範囲から交流相手を選びやすい。もちろん両者に明確な境界があるわけではないが、人間関係を形成する条件が大きく変わったことは確かだろう。

 さらに重要なのは、オンラインの関係が現実の関係と対立するものとは限らないことである。インターネットで知り合った創作者が実際に会い、共同制作を始めることもあれば、対面のイベントで出会った人々が、その後はオンラインで交流を続けることもある。現代の創作共同体は、地理的な関係と通信技術による関係を組み合わせながら形成されているのである。

創作に必要なのは「会議」ではない

 現代では、会おうと思えばオンラインでも対面でも会うことができる。しかし、田端の人間関係について考えていると、「会うこと」と「会議をすること」は別のものだという当たり前の事実に気づく。

 午後三時から四時まで創作について意見交換する、と予定表に登録すれば、それは効率的である。必要な情報を交換し、具体的な課題を解決するには、目的の決まった会議が適している場合も多い。しかし、効率的に設計された交流では、話す目的も終了時刻も最初から決まっている。昔の文士たちの家で交わされた雑談のすべてが重要だったはずはなく、むしろ大半は後世から見れば何の意味もない時間だっただろう。それでも、その無駄に思える時間の中で聞いた一言が、数日後の作品に残る可能性はある。

 効率化された社会では、目的のない時間は削られやすい。ところが創作は、何が役に立つかを事前に判断できない仕事でもある。資料を探しに行った書店で関係のない本を手に取り、友人との雑談で思いがけない言葉を聞き、散歩の途中で見た風景が数年後の文章に戻ってくる。そうした出来事の価値は、必ずしもその場で測定できるものではない。

 もちろん、目的のない雑談が多ければ優れた作品が生まれると証明されているわけではない。創作者には集中した作業時間も必要であり、交流が過剰になれば、かえって執筆の妨げになることもある。重要なのは、会議と雑談のどちらが優れているかではなく、目的を持って問題を解決する時間と、目的を限定せずに考えを広げる時間を、どのように共存させるかということだろう。

 創作にとって本当にぜいたくなのは、高価な設備だけではなく、まだ意味のないものを意味のないまま置いておける時間なのかもしれない。

文士村は消えたのではなく、住所を失った

 それでも、現代の文学者が必ずしも孤立しているわけではない。創作に関する交流の機会は、かつてとは異なる形で存在している。ただし、そのような機会があることと、すべての創作者が十分な人間関係を持っていることは別であり、地域や個人によって交流環境には大きな違いがある。

 文学を介して人々が集まる現代の場所として、文学フリマは興味深い例である。2026年5月に東京ビッグサイトで開催された文学フリマ東京42には3509の出店があり、出店者を含む総来場者は1万8689人に達した。前回の文学フリマ東京41と比較すると、出店数は約9.2%、総来場者数は約1.9%増加している。純文学、詩歌、評論、エッセイなど、商業出版だけでは捉えきれない多数の書き手と読み手が一つの会場へ集まったことを考えれば、少なくとも文学フリマという現象を見る限り、文学を媒介に人が集まる力が失われたとは言いにくい。

 もっとも、二回の開催実績だけで文学市場全体の長期的な成長を判断することはできないし、来場者数の多さだけで継続的な創作共同体が形成されていると判断することもできない。イベントで出会った人々がその後も作品を読み合い、創作上の関係を続けているのかという点は、別に確かめる必要がある。それでも、一つの会場にこれだけの書き手と読み手が集まるという事実は、文学を媒介にした交流の場が現代にも存在していることを具体的に示している。

 ただし、イベントが終われば人々はそれぞれの町へ帰っていく。そこが田端との大きな違いである。かつての文士村では、交流の後にも翌朝同じ町が残った。現代の文学イベントでは、交流の後には連絡先やオンライン上の関係が残る。もちろん、現代にも地域を拠点とした文学活動は存在するから、すべての創作共同体が地理的な基盤を失ったわけではない。それでも、文学者が同じ町に住むことを前提としない共同体が成立しやすくなった点は、現代の特徴といえる。

 文士村は消えたというより、住所を失ったのかもしれない。

 この言葉は、創作共同体から地理的な場所が完全に消えたという意味ではない。かつて「どこに住んでいるか」に強く影響されていた人間関係が、現在では「誰とつながっているか」「どのイベントへ参加するか」「どの媒体で作品を発表するか」という複数の条件によって形成されるようになったということである。一人の書き手が、小説では一つの集団と交流し、短歌では別の人々とつながり、オンラインでは海外の読者とも関係を持つことができる。それは昔の村とは異なる、広く、自由で、境界の曖昧な共同体である。

 その代わり、一つの場所を長期間共有することによって生まれる関係の継続性や、偶然の出会いが繰り返される機会は、意識してつくらなければ得られにくくなった面もある。交流相手を自由に選べることは大きな利点だが、選択できるからこそ、自分の考えと異なる相手を避けることも容易になる。現代の創作共同体が新しい可能性を持つ一方で、失いやすくなった条件にも目を向ける必要がある。

本当に田端が作家を育てたのか

 ここで一度、文士村という物語そのものを疑ってみる必要もある。

 後世の私たちは、芥川龍之介、室生犀星、萩原朔太郎、菊池寛、堀辰雄という名前を知っている。彼らが文学史へ名を残したことを知っているから、その人々が一つの地域で暮らしたり交流したりしていた事実を見ると、どうしても「田端には創作を生む特別な力があった」と考えたくなる。しかし、これは結果を知った後から過去を見る視線でもある。

 田端に暮らしたすべての文学青年が後世に名前を残したわけではないし、成功した文学者ばかりを抜き出して田端を眺めれば、場所の効果を実際以上に大きく見積もる危険がある。いわゆる生存者バイアスである。後世に名を残した人物については資料が豊富に残りやすい一方、文学活動を続けられなかった人や、作品が広く評価されなかった人の記録は残りにくい。そのため、文学史に登場する人物の名前だけを数えても、田端という場所が創作者全体に与えた影響を正確に評価することはできない。

 また、才能や人脈を持つ若者たちが、すでに文化的な交流の存在した田端を選んで移り住んだ可能性もある。その場合、「田端が才能を生んだ」という一方向の関係だけではなく、「才能を持った人々が田端へ集まった」という逆向きの関係も考えなければならない。さらに、田端へ移り住む人々には、住宅費、交通の利便性、知人の存在、仕事との関係など、文学的才能以外の条件も影響していたと考えられる。

 統計的に田端の効果を検証しようとすれば、田端で活動した文学者の総数と、そのうち後に成功した人物の割合を調べ、同時代の他地域の文学者と比較する必要がある。しかし、何をもって文学的な成功とするのかという問題が残る。作品の発表数なのか、文学賞の受賞なのか、売上なのか、それとも後世の文学史で評価されることなのか。基準を変えれば、同じ作家に対する評価も変わり得る。

 さらに厳密に言えば、芥川龍之介が田端に住んだ場合と、同じ時期に田端以外へ住んだ場合を、他の条件を完全に一致させて比較することはできない。歴史研究でも自然実験や準実験的な統計手法を用いて因果関係を検討することは可能だが、当時の文学者の居住地を無作為に割り当てることはできず、残された史料だけから、田端の居住環境が個々の作品に与えた因果効果を厳密に識別することは難しい。

 したがって、田端文士村が名作を生み出したと科学的に証明することはできない。しかし、だから田端の環境に意味がなかったということにもならない。文学者たちが実際に交流していたという歴史的事実と、現代の創造性研究が示す知見を重ねれば、田端のような環境が創作を刺激する条件の一つだったという仮説には、検討する価値がある。重要なのは、史料から確認できる事実と、そこから推測される効果、さらに文学的な解釈を混同しないことである。

 田端が偉大な作家を生み出したから文士村として重要なのではなく、文学者たちがどのような環境で暮らし、どのような関係を築いていたのかを考えるための、具体的な歴史的事例であることに価値があるのだろう。

有名作家を集めれば文士村になるのか

 こうして考えると、現代に文士村を再現しようとして、著名な作家を一つの施設へ集めればよいという発想にも疑問が生じる。

 経済地理学や創造産業の研究では、人や企業が地理的に集まることによって、知識交換が活発になり、生産性や新しい発想につながる可能性が指摘されている。こうした現象は集積の利益として研究されてきた。しかし同時に、単に距離が近いだけでは十分ではなく、人間同士の信頼や継続的な関係、共通する知識や活動の仕組みも重要であることが論じられている。

 例えば、経済地理学では、人々の近さを地理的な距離だけでなく、社会的な信頼関係、知識や考え方の共通性、組織上の関係、制度や慣行の共有といった複数の側面から捉える考え方がある。地理的に離れていても、知識や目的を共有し、互いに信頼していれば共同作業は可能である。反対に、同じ建物にいても、交流する理由や関係がなければ知識交換は起こらない。

 考えてみれば当然である。同じマンションに小説家が十人住んでいても、誰も互いに話さなければ文士村にはならない。逆に、少し離れて暮らしていても、頻繁に会い、作品を読み合い、別の人を紹介し合う関係があれば、そこには創作共同体が生まれる可能性がある。重要なのは住所の一致ではなく、継続的な交流を可能にする条件である。

 ただし、共同体の結びつきが強ければ強いほどよいというわけでもない。人間関係が密接になりすぎると、内部の評価基準が固定化し、新しい参加者が入りにくくなることがある。信頼は創作活動を支える一方、同じ顔ぶれだけで交流する状態が続けば、外部の異質な発想に触れる機会を減らす可能性もある。創作共同体には、関係を深める仕組みと、その関係を外へ開く仕組みの両方が求められる。

 田端を文士村にしたのも、住所だけではなかった。芥川がいて、犀星がいて、そこへ朔太郎や堀辰雄らが加わり、さまざまな文学者や芸術家の関係が動いていたからこそ、一つの文化的な場所になったのである。ただし、その関係のすべてが理想的だったというわけではなく、互いの影響には刺激だけでなく葛藤や競争も含まれていたはずである。

 文化政策によって創作施設を建てることはできるし、作家を招聘することもできる。交流会を企画し、作品発表の場所を提供し、創作活動に必要な設備を整えることも可能である。こうした政策が無意味なのではなく、むしろ創作者が出会う機会や、継続的に活動するための条件を改善することには意義がある。

 しかし、施設を建てたことと、創作共同体が成立したことは同じではない。文化政策の成果を評価するなら、施設の利用者数だけでなく、新しい参加者が継続的に加わっているか、異なる分野の人々が交流しているか、作品を読み合う関係が形成されているかといった点も確認する必要がある。作品の発表や共同制作なども重要な指標になり得るが、創作活動の成果が現れるまでには長い時間がかかる場合があり、短期的な数値だけで評価すれば、かえって自由な創作を妨げる可能性もある。

 行政が整えられるのは、あくまで人々が出会い、活動を継続しやすくなる条件である。そこで誰かが長話をし、その人が別の誰かを連れてきて、昨日まで知らなかった二人が話し始め、その会話が数年後に思いがけない作品へ姿を変えるところまで、確実に計画することはできない。

 本当の文士村には、少しばかり計画不能な部分が必要なのである。

それでも、新しい文士村は生まれる

 田端とまったく同じ歴史的条件を現代に再現することは難しい。作家や芸術家が一つの町へ移り住み、生活そのものを長期間共有しながら創作するという形には、当時の住宅事情、交通、出版、通信、都市構造が深く関わっていたからである。歴史的条件が異なる以上、同じ文化だけを切り取って再現することはできない。ただし、類似した創作共同体が将来どの程度の確率で成立するかを、現在の知識だけで数値として予測することもできない。

 しかし文士村を、文学者が住む町ではなく「創作を支える人間関係の構造」と考えれば、話は変わってくる。

 一人で集中できる場所がありながら、必要なときには誰かに会える。同じ分野の人だけではなく、文学、絵、音楽、映像、研究など違う仕事をしている人が混じる。すでに成功した人だけでなく、まだ何者でもない人もいる。そして何より、交流するたびに目に見える成果を求められるのではなく、何も起こらない午後を許す時間がある。

 そこでは、文学者同士の親密さだけでなく、外部の人々との接点も重要になるだろう。地域の書店や図書館、喫茶店、共同の仕事場などが交流の入口となり、そこへ普段はオンラインで活動している人々が訪れる。創作者だけでなく、読者や編集者、研究者、あるいは文学とは直接関係のない仕事をしている人が関わることで、共同体の内側だけでは生まれにくい発想が持ち込まれるかもしれない。

 もっとも、そうした場所を設けたからといって、必ず文学的な成果が生まれるわけではない。創作活動を支えるためには、交流の場だけでなく、生活を維持する所得、執筆に集中できる時間、住居の安定、出版や発表の機会といった条件も欠かせない。田端の文士村を現代に引き継ぐというなら、作家を一か所に集めることだけでなく、創作者が無理なく活動を続けられる社会的な環境にも目を向ける必要がある。

 現代の文士村は、一つの町である必要さえないのかもしれない。普段はオンラインでつながり、ときどき同じ場所へ集まり、しばらく濃密な時間を共有して、再び各地へ帰っていく。あるいは、一つの地域に小さな拠点を持ちながら、遠方の創作者とも日常的に交流する共同体かもしれない。住所だけではなく、人間関係と時間によって維持され、ときに一つの場所へ姿を現す村である。

 そう考えれば、インターネットは文士村を消滅させたのではなく、創作共同体を形成するための選択肢を広げたともいえる。地理的な近さが重要でなくなったのではなく、地理的な近さだけに依存しなくても、関係を築けるようになったのである。

田端に残ったもの

 現在の田端を歩いても、芥川龍之介が暮らした当時の町そのものが残っているわけではない。東京は変わり続け、家は建て替わり、人は去り、戦争によって失われた風景もある。それでも田端文士村記念館には、文学者や芸術家たちの活動を伝える資料が残り、町には旧居跡を伝える痕跡があり、芥川をめぐる文化活動も続いている。

 さらに、芥川龍之介の旧居跡地では、新たな北区立芥川龍之介記念館の整備が進められている。既存の田端文士村記念館とは別の施設として、2027年7月の開館を目指しているという。文学者の暮らした場所を後世に伝え、その活動を知る機会を提供するという意味では、こうした文化施設の整備にも重要な役割がある。

 しかし、田端から本当に受け継ぐべきものは、昔の町並みや著名作家の記念品だけではないように思える。

 芥川龍之介や室生犀星にゆかりのある町と説明すれば、田端は偉人の記念碑になる。けれども田端が興味深いのは、すでに偉人だった人々を集めた場所だからではない。まだ将来が決まっていなかった若い芸術家や文学者が近くに暮らし、互いの存在によって少しずつ変わっていった場所だからである。

 文学史を振り返るとき、私たちは完成した作品から作者を眺める。『羅生門』を書いた芥川龍之介、詩人として名を残した室生犀星、近代詩を代表する萩原朔太郎というように、結果から逆向きに人物を見る。しかし当時の田端を歩いていた彼らには、自分が文学史に残る保証などなかった。すでに一定の評価を得ていた者も、これから作品を世に問おうとする者も、それぞれの不安や期待を抱えながら日々を過ごしていたはずである。

 それでも書き、誰かを訪ね、話し、また一人になって書いた。そして翌日になれば、再び誰かと出会った。

 もちろん、そのような日常が必ず名作を生むわけではない。田端で過ごした時間が各人の文学にどれだけ影響したのかを、正確な数値で示すことも難しい。しかし、文学史に名を残した作品の背後に、完成した作品だけからは見えにくい人間関係や生活環境が存在していたことは、忘れてはならないだろう。

 文士村とは、有名人が住んでいる町の名前ではなく、まだ何者になるか分からない人間同士が、互いの未来へ少しずつ介入してしまう場所だったのではないだろうか。

 そう考えるなら、文士村がもう生まれないと決めつけるのは早い。

 ただし次の文士村を探すとき、地図だけを眺めていても、おそらく見つからない。それは小さな書店かもしれず、共同の仕事場かもしれず、文学イベントとオンラインの交流を往復する、まだ名前すら付いていない共同体かもしれない。そこに必要なのは、著名な作家の名前を並べることではなく、未知の誰かと出会い、互いの作品や考え方に触れ、時間をかけて関係を築いていける条件なのだろう。

 そして、もし本当に新しい文士村がどこかで生まれつつあるとしても、現在の私たちはまだ、それを文士村とは呼ばないだろう。

 田端もまた、最初から「田端文士村」という看板を掲げて始まったわけではなかったのだから。

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