リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 私たちは小説を読むとき、表紙に記された作家の名前を見て、その人がこの作品を作ったのだと自然に考える。夏目漱石の小説は夏目漱石が、ヘミングウェイの小説はヘミングウェイが書いたのであり、それ自体は間違っていない。物語を発想し、人物を生み出し、言葉を選び、何百枚もの原稿を書いた中心人物は作家であり、著作権や文学史の上でも作品の作者は基本的に明確である。

 しかし、本が実際に出来上がるまでの過程を少し覗いてみると、「作家が書いたものが、そのまま本になる」という素朴なイメージは崩れ始める。原稿は編集者に読まれ、長すぎる部分を削るよう勧められ、説明不足を指摘され、章の順序を変えるよう提案され、ときには題名や結末にまで意見が及ぶ。作家がその提案を拒むこともあれば、受け入れることもあり、さらに互いの意見をぶつけながら第三の形へ原稿が変わっていくこともある。

 そう考えると、一冊の本とは、一人の人間が頭の中に思い描いた完成形をそのまま紙に移したものとは限らない。むしろ、最初に書かれた文章が他人の視線を通過し、書き直され、削られ、選び直された末に読者の前へ現れたものだと考えた方が、実際の出版という営みに近い。

 では、名作を作ったのは本当に作家一人なのだろうか。ここで姿を現すのが、完成した本からはほとんど痕跡を消してしまう編集者という存在である。

原稿を書いた人と、作品を完成へ近づけた人

 編集者は、通常は作家に代わって物語を書く人ではない。何も書かれていない白紙に登場人物を生み出し、物語を始めるのは作家である。しかし文学作品の印象は、素材だけで決まるものでもない。同じ出来事が書かれていても、どこまで説明するか、どこで文章を切るか、どの場面を先に置くかによって読者が受け取るものは変わる。

 映画を考えてみれば分かりやすい。撮影された映像が同じでも、どの場面を残し、何秒で切り替え、どの順序につなぐかによって作品の速度も緊張も変わる。文学における編集も、それに似た働きをすることがある。文章を一から生み出すのではなく、すでに存在する文章の中から何を残し、何を取り除き、どこを際立たせるかによって作品の姿を変えるのである。

 しかも作家には、自分の原稿だからこそ見えにくいものがある。作者の頭の中には人物の過去や情景や感情が存在するため、原稿に十分書かれていなくても無意識に補って読むことができる。逆に、思い入れが強すぎるため、読者には必要のない説明を残してしまうこともある。

 そこで編集者は、作者ではない目で原稿を読む。まだ世に出ていない作品を読む最初の職業的な読者の一人として、「ここでは読者が迷うのではないか」「この説明はなくても伝わるのではないか」「この場面はもっと後に置いた方が効くのではないか」と問いかける。編集とは、正しい文章に直す仕事というより、作品とまだ存在していない読者との間に橋を架ける仕事なのかもしれない。

『荒地』には、エズラ・パウンドの鉛筆の跡がある

 20世紀を代表する詩の一つであるT・S・エリオットの『荒地』は、作品が一人だけで現在の姿に到達するとは限らないことを示す有名な例である。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、エズラ・パウンドを現代の出版社にいる担当編集者と同じ意味で「編集者」と呼ぶのは正確ではないということである。パウンドは詩人であり、エリオットの友人であり、作品に対する強力な助言者、あるいは編集協力者として『荒地』の形成に関与した人物だった。

 残されている草稿を見ると、その関与が単なる感想の域を越えていたことが分かる。パウンドは長い箇所を削り、表現や構成に手を入れ、作品を現在知られている姿へ近づける重要な役割を果たした。エリオット自身も、その貢献を高く評価していた。

 もちろん、このことによって『荒地』がエリオットとパウンドの共同著作になるわけではない。詩の世界を構想し、その言葉を生み出した中心人物はあくまでエリオットである。しかし、もしパウンドによる助言と編集がなかったなら、現在私たちが読む『荒地』とはかなり異なる形で世に出ていた可能性がある。

 この「可能性」という言葉は重要である。歴史に存在しなかった作品を実験的に比較することはできないため、パウンドがいなければ『荒地』がどうなったかを証明することはできない。それでも草稿と完成稿を比較すれば、完成した作品の形にパウンドの判断が深く関わっていたことだけは確認できる。

 表紙にはエリオットの名前がある。しかし、その作品の内部には、名前のない別の判断が残っているのである。

カーヴァーの「余白」は誰が作ったのか

 作家と編集者の関係を考えるうえで、さらに刺激的なのがアメリカの短編作家レイモンド・カーヴァーと編集者ゴードン・リッシュの関係である。

 カーヴァーは、説明を極端に抑えた簡潔な文章と、日常生活の中に突然現れる不穏な空白によって知られるようになった。ところが後に原稿や書簡が詳しく検討されるようになると、初期作品の切り詰められた印象にはリッシュによる非常に大きな編集が加わっていたことが明らかになった。

 特に短編集『愛について語るときに我々の語ること』では、リッシュは単に誤字を直したわけではない。文章を削り、題名を変え、心理描写を減らし、場面の構成や結末にまで大きく手を入れている。研究によれば、二度にわたる編集を経て、作品集全体では原稿の語数のおよそ55%が削られたとされる。

 半分以上である。

 もっとも、そこから「カーヴァーの文体はリッシュが作った」と結論づけるのは行き過ぎだろう。カーヴァー自身にも簡潔な表現を好む傾向があり、リッシュと出会う以前からその萌芽は存在していた。したがって、より慎重に言えば、リッシュの編集はカーヴァーの初期作品に見られる簡潔で切り詰められた印象を大きく強化した、と考えるのが妥当である。

 それでも問題は残る。私たちが長い間「これこそカーヴァーだ」と感じてきた文章の一部が、編集者による削除の結果でもあったとすれば、作家の文体とは一体どこまでを指すのだろうか。

 さらに興味深いことに、カーヴァーとリッシュの関係は「作家が編集者に作品を壊された」という単純な物語でもない。カーヴァーはリッシュの編集能力を高く評価し、その洞察に感謝していた時期がある一方、編集があまりにも大きくなったことに強い不安を感じ、出版を止めてほしいと訴えた書簡も残している。

 つまり、同じ作家が編集者の才能に感謝しながら、その力を恐れていたのである。

 ここに文学編集の最も難しい境界が現れる。編集者が文章を削れば、作品は鋭くなるかもしれない。しかし削りすぎれば、作者が書こうとしたものまで消えてしまう。説明を減らせば余韻が生まれることがあるが、その余韻が作者自身の美学なのか、編集者によって作られた美学なのかは簡単には切り分けられない。

編集とは、作品を良くすることなのか

 編集について語るとき、私たちはつい「悪い原稿を編集者が良くする」という単純な図を想像してしまう。しかし現実はそれほど分かりやすくない。

 そもそも文学作品の「良さ」を客観的な一つの尺度で測ることは難しい。短くすれば必ず良くなるわけでもなく、分かりやすくすれば文学的価値が高まるわけでもない。ある読者にとって冗長に見える説明が、別の読者には人物の厚みとして感じられるかもしれず、編集前と編集後のどちらを優れていると判断するかは、文学観によって変わりうる。

 だから編集者の仕事は、正解を知っている人が間違いを直す作業ではない。それよりも、作品が何を目指しているのかを読み取り、その方向を邪魔しているものを見つける仕事と考えた方が近い。

 ここで編集者に必要になるのは、自分ならどう書くかという能力だけではない。むしろ、自分ならこう書くという誘惑を抑えながら、この作家ならどう書くべきなのかを考える能力である。

 作家の文章を編集者自身の好みに染めてしまえば、編集者の存在は強くなるかもしれないが、作家の声は弱くなる。反対に、作家自身にも見えていなかった作品の可能性を発見し、それを邪魔するものだけを取り除くことができれば、編集者は自分の姿を消しながら作品を強くすることができる。

 この違いは小さいようで決定的である。

マクスウェル・パーキンズが残したもの

 アメリカ出版史で名編集者として知られるマクスウェル・パーキンズは、この問題を考えるうえで象徴的な人物である。彼はF・スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ、トマス・ウルフなど、20世紀アメリカ文学を代表する作家たちに関わった。

 パーキンズについて語られる逸話には後世の英雄化が混じっている可能性もあるため、編集者一人が作家を「作った」と考えるべきではない。しかし作家との往復書簡や草稿が残っていることから、作品の構成や出版の方向について継続的に意見を交わしていたことは確認できる。

 その姿から見えてくるのは、名編集者とは必ずしも文章を大量に書き換える人物ではないということである。作家ごとに異なる才能を見つけ、その作品がどこへ向かおうとしているのかを読み取り、必要なときには削ることを勧め、別のときには書き続けるよう励ます。

 もし編集という仕事に理想形があるとすれば、それは自分の文章を作品に残すことではなく、作家自身の文章が以前よりはっきり見える状態を作ることなのかもしれない。

編集者が成功すると、編集者は消える

 完成した本には、制作途中で交わされた膨大なやり取りのほとんどが残らない。原稿の余白に書かれた疑問、削除された数十ページ、何度も変更された題名、章の順序をめぐる議論、作家が怒って拒絶した助言、翌日になって受け入れた修正案などは、多くの場合、読者の目には触れない。

 最後に残るのは、整然と印刷された一冊の本である。

 そのため私たちは、完成した作品を見ると、最初からこの形で存在したように感じてしまう。しかし草稿や書簡を読めば、文学作品がそれほど整然と生まれてくるわけではないことが分かる。そこには迷いがあり、書きすぎた文章があり、説明不足の場面があり、作者自身にも作品の向かう先が見えていない時間がある。

 編集者は、その不安定な段階に立ち会う。

 作家ほど作品の内側にはおらず、一般の読者ほど遠くにもいない。その中間に立っているからこそ、「ここで読者は止まるだろう」「この説明はなくても分かる」「この場面を残せば作品の中心がぼやける」といった判断ができる。

 そして皮肉なことに、その判断が成功するほど、完成した本から編集者の存在は見えなくなる。

 削られた文章を読者は読むことができない。しかし削られたことで生まれた速度は感じることができる。変更前の章立てを見ることはなくても、変更された構成が生んだ緊張は味わうことができる。編集者の文章そのものは印刷されていなくても、その判断が作った沈黙を、読者は作品として読んでいるのである。

編集者は共同作者なのか

 ここまで考えると、編集者を「共同作者」と呼びたくなる。しかし、この言葉にも注意が必要である。

 どれほど優秀な編集者でも、何も書かれていない白紙を編集することはできない。人物を生み、世界を構想し、文章を書き、失敗を重ねながら作品を前へ進める中心的な創作行為は作家が担っている。したがって、編集者の影響力が大きいという理由だけで、作家と編集者を完全に同等の作者とみなすのは適切ではない。

 しかし逆に、完成した作品を作者一人の完全に孤立した創造物と考えることも、出版の実態とは一致しない。

 現代の本文研究や書誌学には、文学作品を作者だけではなく、編集者、出版社、印刷者、装丁家など複数の人間と制度を通して成立する「社会的なテクスト」として捉える考え方がある。これは、作者の重要性を否定する理論ではない。むしろ、一つの作品が社会へ出て読者に届くまでには、作者以外の判断も重なっていることを明らかにする考え方である。

 その意味で「共同制作者」という言葉は、編集者を第二の作者に格上げするためのものではない。それは、私たちが完成した本だけを見て忘れてしまいがちな、創作の途中に存在した他者の知性を思い出すための言葉なのである。

名作は、一人の天才が作るという物語

 文学史は作家の名前で整理される。漱石、鴎外、太宰、川端、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドという具合に、人の名前によって時代や作品を覚える。その方法は便利であり、間違っているわけでもない。

 しかし、その整理の仕方には一つの副作用がある。文学作品が一人の人間から完全な形で生まれたように感じさせることである。

 私たちは天才の物語を好む。孤独な作家が部屋にこもり、苦悩し、ある瞬間に何かをつかみ、名作を書き上げる。その物語は美しく、理解しやすい。しかし実際の創作はもっと雑然としている。原稿を誰かに読ませ、批判され、反論し、書き直し、ときには助言を捨て、ときには自分では思いつかなかった方向へ進んでいく。

 文学は孤独な営みであると同時に、他人の目によって変化する営みでもある。

 もちろん、編集によって作品が必ず良くなると科学的に証明できるわけではない。文章の長さや構成、情報量の違いが読者の理解や印象に影響することは実証的に研究できるとしても、どちらの版が文学的に優れているのかを実験だけで決めることはできない。カーヴァーの編集前と編集後の作品について、どちらを好むかが読者によって異なるのは当然である。

 だからこそ、編集者について考えることは面白い。

 編集とは作品を「正解」にする仕事ではない。まだ完成していない作品に対し、別の人間が一つの可能性を示す仕事である。その可能性を受け入れるかどうかを最後に決めるのは本来作家であり、そこに作家と編集者の緊張関係が生まれる。

 名作を作ったのは誰なのかと尋ねられれば、最も正確な第一の答えは、やはり作家である。

 しかし、そこで話を終えてしまえば、文学が本になるまでの重要な部分が見えなくなる。名作とは、一人の人間が書いた作品であると同時に、その文章を誰かが読み、疑い、問い返し、削ることを提案し、ときには削りすぎ、またあるときには作者自身にも見えていなかった作品の姿を発見した結果でもある。

 私たちが一冊の本を開いたとき、目に見えるのは作家の言葉である。しかし、その言葉と言葉の間には、ときどき別の人間の判断が潜んでいる。

 その人の名前は表紙にはない。

 けれども、消された文章が作った余白の中に、編集者は確かにいる。

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