リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 「これは実話をもとにした物語です」という一言が付いただけで、作品の見え方が変わることがある。同じ悲劇でも、本当に起きた出来事だと思えば登場人物の苦しみが急に身近に感じられる読者もいるだろうし、逆に完全な創作だと知っているからこそ、安心して物語へ入り込める人もいる。実際、心理学の研究では、「実話に基づく」という情報が物語のもっともらしさや評価を高める場合がある一方、その効果は作品の内容や読者の受け止め方によって異なることが報告されている。特に、通常では起こりそうにない出来事を描いた物語では、実話であるという情報が作品の信憑性を補強することがある。しかし、それが必ず感動の強さや物語への没入を高めるとは限らない。人間は単純に「事実だから感動する」のではなく、事実と虚構の関係を意識しながら、物語の世界を理解しようとしているのである。

 この複雑な感覚を考えていくと、三百年以上前の大坂で人形浄瑠璃を書いていた近松門左衛門の芸術論へ行き着く。近松の思想として有名な「虚実皮膜論」である。しかし、この言葉を「文学は現実と嘘を半分ずつ混ぜればよい」という意味に取ってしまうと、近松が考えていた問題の面白さはほとんど失われてしまう。彼が重視していたのは、現実をどの程度忠実に写すかということだけではなく、現実をそのまま再現することと、芸術を通して人間の感情を伝えることとの違いだったと考えられる。現実に起きた出来事と、人間が「現実らしい」と感じる表現とは、必ずしも一致しないのである。

「虚実皮膜論」という本を近松が書いたわけではない

 まず押さえておきたいのは、近松自身が『虚実皮膜論』という著書を書いたわけではないということである。近松は、今日の文学理論書に相当するような体系的な芸術論を著書として残していない。現在「虚実皮膜論」と呼ばれている考え方は、近松の死後に刊行された『難波土産』に収められた記述を中心として、後世の研究者たちによって整理されてきたものである。『難波土産』は一般に三木貞成の著作とされ、その中に穂積以貫が近松から聞いた話を伝える文章が収められている。近松が亡くなったのは1724年であり、『難波土産』が刊行されたのは1738年であるから、そこに残された言葉は近松本人の自筆による理論書ではなく、聞き書きを通して伝えられた芸論として扱う必要がある。

 その中に「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」という有名な言葉が見られる。一般には、芸術は現実そのものでも完全な作り事でもなく、その微妙な接触面に成立するという考え方として理解されている。ただし、この「間」という言葉を数学的な中間地点のように捉えてはいけない。現実が五割、虚構が五割という話ではなく、現実に忠実でありすぎても芸として成立するとは限らず、現実から離れすぎれば観客に伝わらない場合もあるという、表現のあり方に関する問題だからである。

 さらに、近松の芸論では、人物の内面にある「情」をいかに表現し、観客に芸能としての感興をもたらすかということも重視されている。ここで重要なのは、単に実際の人間の姿や言動を正確に写すことではなく、人物の感情や置かれた状況が観客に伝わるよう、言葉や演技を工夫することである。したがって、虚実皮膜論を現代の認知心理学におけるリアリティの理論と完全に同一視することはできないものの、現実への忠実さと芸術的な表現の効果を区別するという点では、現代にも通じる重要な問題を含んでいる。

 近松がこの問題を考えた背景には、人形浄瑠璃という芸能そのものが抱えていた独特の表現構造がある。舞台上の人形は木や布などで作られており、それ自体が人間のような人生経験を持っているわけではない。それにもかかわらず、観客は人形の恋に胸を痛め、人形の死に涙を流す。そこには近松の書いた詞章だけでなく、太夫の語り、三味線の演奏、人形遣いの動きが重なっている。人間そのものではない人形が、複数の表現技術を通じて、観客に生きた人間のように感じられるのである。この現象は、現実を物理的に忠実に複製することだけでは説明できない。

本物そっくりなら、本当にリアルなのか

 『難波土産』に伝えられた近松の話には、この問題を象徴する興味深い例がある。家老を演じる役者について、本物の家老そのままに振る舞えば、それで優れた芝居になるのかという問題である。現実の家老は、舞台上の役者のような化粧や演出的な身振りをしているわけではない。したがって、実際の姿をそのまま再現しようとすれば、舞台上では人物の性格や立場がかえって伝わりにくくなるかもしれない。そこで役者は、現実の振る舞いを一定程度変形し、観客が「家老らしい」と感じる身振りや表情を作り出す。そのとき舞台上に現れるのは現実の家老の完全な複製ではないが、観客にはかえって家老らしく見える場合がある。

 さらに『難波土産』には、恋する女性のために、愛する男性の姿を毛穴や歯の数までそっくりに再現した木像を作ったところ、あまりにも生身の人間そのままであったため、女性が気味悪がってしまったという趣旨の逸話も伝えられている。この話を実際に起きた出来事として受け取る必要はないが、近松の芸論を説明する比喩としては分かりやすい。私たちが「本物らしい」と感じるものと、本物を寸分違わず複製したものとは、必ずしも同じではないのである。

 例えば、写真より肖像画の方が、その人物らしく感じられることがある。実際の会話より、巧みに作られた映画の台詞の方が、人間の本音を言い当てているように感じられることもある。これは、人間が感じるリアリティが、現実との物理的な一致だけによって決まるわけではないことを示唆している。見る側が持っている経験、期待、感情、作品の文脈などが組み合わさることで、同じ表現でも受け止め方が変わるのである。

 ただし、ここで注意したいのは、現実から離れれば離れるほどリアリティが高まるという意味ではないことである。現実を大胆に省略した表現が強い実在感を生む場合もあれば、過剰な誇張によって不自然さが増し、観客が作品世界から遠ざかる場合もある。現実との一致度と、受け手が感じる現実らしさとの間には、単純な比例関係が成立するとは限らない。近松の芸論が示しているのは、まさにその複雑さなのである。

小説は、現実を削ることで現実に近づく

 この考えを小説に置き換えると、虚実皮膜論は現代の文学にも通じる問題として見えてくる。例えば実際の夫婦喧嘩を三十分録音し、一言一句そのまま文字に起こしたとする。そこには沈黙、言い直し、同じ話の繰り返し、話題の脱線、本人たちにしか分からない言葉などが大量に含まれているだろう。それは出来事の記録としては忠実だが、読者がその夫婦の関係や感情を理解する文章として優れているとは限らない。

 小説家はそこから不要な部分を削り、何度も繰り返された言葉を一つの台詞へまとめ、実際には数日離れて起きた出来事を一晩の出来事として組み直すかもしれない。現実には降っていなかった雨を降らせることさえあるだろう。そうして事実から離れていくにもかかわらず、作品の中では、二人の間にあった怒りや寂しさや未練が、実際の会話記録よりも明瞭に伝わることがある。

 ここに文学の興味深い性質がある。虚構を加えることによって個々の事実から離れているはずなのに、人間の感情や関係性については、かえって理解が深まる場合があるのである。ただし、これは文学的な表現によって事実そのものの正確性が高まるという意味ではない。記録としての正確性と、人間の感情を理解させる力とは、異なる基準で評価されるべきものだからである。

 近松が女形について語った話も、この問題とつながっている。現実の女性なら実際には口にしないような言葉を舞台上の女性に言わせることで、現実の女性が胸の内に秘めている「情」を表現できることがある。これは、実際の言動をそのまま写すのではなく、現実には存在しなかった言葉を作ることによって、観客が人物の心情を理解できるようにするという発想である。さらに近松は、悲しいことを単に悲しいと言葉で説明するだけでなく、物語の展開や表現そのものによって観客に悲しさを感じさせることを重視していたと考えられる。

 したがって、虚実皮膜論を単なる「嘘を上手に混ぜる技術」と考えるのは適切ではない。そこにはむしろ、「事実を正確に写すことと、人間についての真実を表現することは同じなのか」という、現在の文学にも残っている問いがある。事実としての真偽と、作品を通じて人間の感情や社会のあり方を理解することとは、区別して考える必要があるのである。

「虚構だから感情移入できない」は本当なのか

 心理学的に考えても、虚構であると分かっている物語が人間の感情を動かすこと自体は不思議なことではない。私たちは映画を見ながら、スクリーンに映っている人物が俳優であり、出来事が演出されていることを知っている。それでも登場人物が死ねば悲しくなり、危険な場面では緊張する。小説についても同様で、そこに書かれている人物が実在しないと理解していても、その人物の人生を頭の中で想像し、感情を追体験することができる。虚構であるという認識と、作品に対する感情的な反応は、必ずしも互いを打ち消すものではないのである。

 認知心理学や物語研究では、フィクションを人間関係や感情を疑似的に経験する一種のシミュレーションとして捉える考え方がある。例えば現実の社会生活では、他人の内面を直接知ることはできないが、小説では登場人物の思考や感情が言葉によって描かれるため、読者は自分とは異なる立場の人物について、その行動の理由や心情を想像することができる。このような経験は、他者の考えや感情を推測する能力と関係する可能性がある。

 もっとも、文学を読めば必ず共感性が高まるという単純な因果関係が確立しているわけではない。2024年に公表された複数の研究を統合するメタ分析では、フィクション読書が認知能力に及ぼす実験上の平均的な効果について、標準化した効果量がおよそ0.14と報告されている。また、読書経験と認知能力との関連を調べた研究を統合すると、相関係数はおよそ0.16であった。いずれも平均的には小さい効果や関連を示す数値であり、読書によって共感性が14%向上する、あるいは16%向上するという意味ではない。さらに、これらは複数の認知能力を対象とした分析であり、共感性だけについての効果を表すものでもない。

 実験研究と相関研究を区別することも重要である。読書量の多い人ほど他者理解の能力が高いという関連が認められたとしても、それだけで読書が原因だと証明されたことにはならない。もともと他者の心理に関心が強い人が、文学作品を好んで読む可能性もあるからである。また、短い文学作品を読んだ直後に社会的認知能力が向上するかどうかについては、研究によって異なる結果が報告されている。そのため、文学が人間の感情や他者理解に何らかの影響を与える可能性は支持されているものの、その大きさや成立条件には慎重な評価が必要である。

 「実話に基づく」という情報の効果についても同じことがいえる。読者が物語を事実だと認識しているかどうか、主観的にどれほど感動したと感じるか、身体にどのような生理的反応が生じるかは、互いに関連していても同じ指標ではない。実験研究では、同じ映像を実話として提示するか虚構として提示するかによって主観的な感情の強さが変わる一方、生理的な反応には明確な差が認められない場合も報告されている。したがって、実話だから感動が強くなるとも、虚構だから感情が弱くなるとも、一律に決めることはできない。

 それでも、虚構だと理解しながら人間が泣いたり笑ったりできるという現象そのものは確かに存在する。近松が人形浄瑠璃の舞台で向き合っていた問題と、現代の心理学が研究している問題との間には、この点で興味深い共通性がある。観客は人形が作り物であることを知っている。それでも、語りや演奏、人形の動きによって、その中に人間の苦しみや喜びを感じ取る。その瞬間、虚構は単なる現実の代用品ではなく、現実の人間を理解するための別の経路になり得るのである。

令和の文学では「皮膜」をどのように考えられるか

 虚実皮膜論が令和になって突然復活したわけではない。文学は昔から、現実から距離を取るためだけではなく、現実を別の角度から見せるためにも虚構を用いてきた。したがって、「昔の虚構は現実から逃げるためのものだったが、現代になって現実と近づいた」と単純に整理することはできない。日本文学に限っても、近代以降の私小説や自伝的な作品など、作者の実体験と創作との関係を読者に意識させる文学は長く存在している。

 その一方で、現代文学においても、事実と虚構の境界そのものを作品の仕掛けとして意識させる表現が見られる。その代表的な概念の一つが、オートフィクションである。オートフィクションという言葉は令和になって生まれたものではなく、一般にはフランスの作家セルジュ・ドゥブロフスキーが1977年に用いたことに由来するとされる。作者自身の人生と物語の人物を近づけながら、事実と創作の関係を問い直す作品を考える際に用いられる概念である。ただし、その定義は研究者間で完全に一致しているわけではなく、自伝的な事実を含むこと、作者と語り手との関係、創作による自己の再構成など、複数の観点から論じられている。

 このような作品では、読者は「これは作者本人の経験なのだろうか」と考えながら読み進めることがある。そのため、事実と虚構の境界が単純に消えてしまうというよりも、むしろ境界そのものが意識されるようになる。作者自身に似た人物が登場すれば、読者は作品世界の外側に存在する作者の人生まで意識するようになり、その結果、作品の中の一文が単なる創作ではなく、作者自身の告白のように感じられる場合もある。

 日本文学には、それ以前から私小説という大きな伝統がある。もちろん私小説とオートフィクションは同じものではなく、成立した時代も文学制度も異なる。しかし、作者、語り手、主人公の距離が読者の読み方に影響するという点では、両者を比較する意味がある。私小説においても、作品が作者の実人生にどの程度基づいているのかという問題は、長く批評の対象となってきた。したがって、事実と虚構の境界を意識する文学が現代になって初めて現れたと考えるのは適切ではない。

 また、現代文学でこうした作品が過去より増加したと主張するには、年代ごとの作品数や出版点数、文学批評での扱われ方などを比較する必要がある。オートフィクションが現在も論じられているという事実だけで、その作品数や影響力が過去より拡大したと断定することはできない。ここで重要なのは増減の数量的な判断ではなく、近松が問題にした現実と芸術表現との関係が、現代の文学を理解するうえでも有効な視点となり得ることである。

 虚構を加えれば事実から遠ざかるはずなのに、読者にはかえって「これは作者の本音なのではないか」と感じられることがある。逆に、実際の体験を忠実に記したように見える作品でも、記憶の選択、出来事の順序、言葉の使い方などを通して、作者による構成が加えられている場合がある。虚構によって本当らしさが生まれることもあれば、本当らしく書かれているからこそ、どこまでが事実なのか分からなくなることもある。その不安定な境界を考えるうえで、虚実皮膜論は現代の読者にも一つの手掛かりを与えてくれるのである。

文学の虚構と「嘘」は同じではない

 もっとも、虚実皮膜論を令和へ持ち込む際には、慎重に区別しておかなければならないことがある。現在では、事実と虚構の境界が問題になる場面は文学だけでなく、ニュース、広告、動画、インターネット上の交流サービスなどにも広がっている。そのため、「真実と嘘の境界など曖昧なのだ」と言ってしまえば、文学の虚構と誤情報や偽情報を同じものとして扱うことになりかねない。しかし、両者は情報が提示される目的や、受け手との間に成立している約束が異なっている。

 小説を読むとき、読者は基本的に、そこに書かれている出来事が創作であり得ることを承知している。芝居を見る観客も、舞台上で起きた殺人を現実の事件だとは考えない。その暗黙の了解があるからこそ、作者は実際には起きなかった出来事を作り、現実には存在しない人物を生きさせることができる。虚構として提示されている作品について、現実に存在しない人物が登場すること自体を虚偽情報の流布と同一視することは適切ではない。

 一方、ニュースとして提示される情報には、「これは現実に起きた出来事について述べている」という別の前提がある。その場で意図的に虚偽を事実として提示すれば、文学作品の内部で虚構を作り出すこととは異なる問題が生じる。また、誤情報には意図的な欺瞞だけでなく、確認不足や誤認によって広まるものもあるため、虚偽情報の問題を単に作者の意図だけで説明することもできない。

 ただし、文学作品であるという理由だけで、どのような表現も無条件に認められるわけではない。実在の人物をモデルにした小説で、その人物を識別できる場合には、名誉やプライバシーなどの問題が生じることがある。実際、日本では、実在人物をモデルとした小説をめぐって、人格的利益の保護を理由に出版差止めが認められた裁判例もある。文学上の虚構であることと、法律上の責任が生じないことは、同じ意味ではないのである。

 したがって近松の「虚と実の皮膜」は、真実と嘘を区別しなくてもよいという思想として読むべきではない。むしろ虚構であると分かったうえで、その虚構から人間についての理解や感情を得るという、芸術に特有の表現の仕組みを考えたものとして読む方が自然である。文学の中で成立する現実らしさと、社会で求められる事実の正確性とは、互いに関係しながらも異なる基準に従って評価される必要がある。

生成型人工知能は、現代の「人形」なのか

 そして令和には、近松の時代には存在しなかった新しい問題が加わった。生成AI(Generative Artificial Intelligence・生成型人工知能)である。

 生成型人工知能は、大量の文章などを用いた学習によって獲得した言語の規則性や関係性をもとに、小説らしい文章、恋愛小説の台詞、悲しい回想のような文章まで生成することができる。その登場によって、「作者とは誰なのか」「創造性とは何なのか」「人間と道具の境界をどこに置くのか」といった問いが、文学や芸術の世界でも改めて議論されるようになった。

 ここで人形浄瑠璃を思い出すと、興味深い類似が見えてくる。木偶そのものには人間の人生経験はない。それにもかかわらず、近松の文章、太夫の語り、三味線の演奏、人形遣いの動きが重なれば、観客はその人形が表現する悲しみに涙する。生成型人工知能についても、人間と同じ意味で幼少期を過ごしたり、失恋を経験したりしたわけではないにもかかわらず、その生成した文章を読んだ人間が、そこに悲しみや孤独を感じることはあり得る。

 もっとも、この比較は科学的な同一性を主張するものではない。人形は人間の操作によって舞台上で動く表現媒体であるのに対し、生成型人工知能は学習済みの計算モデルを通じて文章を生成する技術であり、内部の仕組みも制作過程も異なる。また、人工知能一般に主観的な意識や経験が成立し得るかという問題には、科学的にも哲学的にも未解決の論点がある。そのため、両者を単純に「感情を持たないもの」として同一視することにも慎重であるべきだろう。

 それでも、表現を生み出す媒体そのものの性質と、受け手がそこから感じ取る感情とは、必ずしも一致しないという点で、両者を比較する意味はある。木偶が人間そのものでなくても人間の悲しみを表現できるように、生成された文章も、それを受け取る読者の経験や解釈を通じて、感情を動かす場合がある。ただし、そのことだけで、生成型人工知能が人間の作家と同じ意味で感情を理解しているとか、同じ創造性を持っていると証明されるわけではない。

 むしろ近松の芸論から考えるべきなのは、木偶だけを見ても人形浄瑠璃を理解できないということである。そこには作者がおり、太夫がおり、三味線があり、人形遣いがいる。同じように、生成型人工知能を用いた作品についても、機械が文章を生成したという一部分だけを見るのではなく、誰が指示を与え、誰が文章を選び、どこを削り、どのような作品として提示したのかという制作過程全体を見る必要があるだろう。

 この問題は、文学上の作者性だけでなく、著作権制度とも関係している。日本の文化庁が2024年に取りまとめた「AIと著作権に関する考え方について」でも、生成型人工知能を利用した成果物の著作物性を判断する際には、人間の創作意図や創作的な寄与などを具体的に検討する考え方が示されている。単に人間が指示を入力したというだけで、すべての生成物について当然に著作物性が認められるわけではなく、人間がどのように創作に関与したかが重要になる。ただし、文学批評で問題になる「作者とは誰か」という問いと、法律上の著作者や著作物性の判断は、同じ概念ではない。

 そう考えると、令和に現れた新しい問題は、事実と虚構の境界だけではない。人間と機械、経験と言葉、作者と道具、創作と編集の境界についても、改めて考える必要が生じている。ただし、これらをすべて近松の虚実皮膜論によって説明できるわけではない。近松の芸論はあくまで人形浄瑠璃を中心とした芸術表現の問題から生まれたものであり、現代の人工知能の技術的・法的問題を直接解決する理論ではない。それでも、表現を作り出す仕組みと、人間がその表現から受け取る意味とを分けて考える視点は、現代の創作活動を理解するうえでも示唆を与えてくれる。

文学は「本当のことをそのまま写すだけの技術」ではない

 では、近松門左衛門の虚実皮膜論は、令和の文学にも通じるのだろうか。結論を言えば、その基本的な問題意識は、現代の文学を考えるうえでも十分に意味を持っている。ただし、それは近松が三百年以上前にオートフィクションや生成型人工知能を予言していたという意味ではないし、人形浄瑠璃のために語られた芸論を、そのまま現代の文学理論として使えるという意味でもない。近松が実際に語った芸論と、後世の研究者による解釈、そして現代の文学や技術との比較は、それぞれ区別して考える必要がある。

 それでも、近松が向き合った問いそのものは古びていない。現実そのものよりも作られた物語の方が、人間に現実を強く感じさせることがあるのはなぜなのか。実際には誰も口にしなかった台詞が、なぜ人間の本心を言い当てているように聞こえるのか。作者が体験した出来事をそのまま記録した文章より、存在しない人物について書かれた小説の方が、なぜ自分自身の人生について考えさせてくれることがあるのか。これらは、文学を理解するうえで現在も重要な問いである。

 文学は現実をそのまま映すだけの鏡ではない。もちろん、現実の出来事を記録し、その正確さによって価値を持つ文学も存在する。しかし小説をはじめとする多くの文学作品では、作者は現実を削り、並べ替え、誇張し、時には存在しなかった出来事を加える。その加工された像を通して、日常の中では見落としていた人間の感情や社会の姿が見えてくることがある。ここで重要なのは、虚構を加えれば必ず優れた作品になるということではなく、どのような表現が読者の理解や感情に働きかけるのかという問題である。

 心理学の研究からも、現実との一致度だけで感動の強さや作品への没入が決まるわけではないことが示唆されている。ただし、文学作品の評価や読者の感情を、単一の数値や普遍的な法則によって説明することは難しい。読者が持つ経験や価値観、作品の文脈、文章表現の特徴などが複雑に関わるからである。その意味で、虚実皮膜論を「現実と虚構を一定の割合で混ぜれば感動が生まれる」という技術的な公式として理解することはできない。

 だから優れた小説を読み終えた読者は、ときに「こんなことは現実には起こらないだろう。それでも、なぜか分かる」と感じる。考えてみれば不思議な感想である。事実ではないと理解しながら、その物語を通じて、現実の人間にも通じる感情や関係性を受け取っているからである。ここで読者が感じ取っている「真実」とは、作品に描かれた出来事が実際に起きたという意味ではない。人間の感情や人生について、自分の経験と結び付けて理解できる何かが、そこに表現されているということである。

 三百年以上前、近松門左衛門が「実」と「虚」の間に見ていたものも、こうした芸術表現の働きと無関係ではなかったのだろう。ただし、近松自身が現代の心理学や文学理論と同じ問題設定をしていたと断定することはできない。彼が向き合っていたのは、あくまで当時の人形浄瑠璃や演劇において、人間の情をどのように表し、観客に芸としての感興をもたらすかという問題だった。その歴史的な文脈を踏まえたうえで現代との共通性を探ることに、虚実皮膜論を読み直す意味がある。

 令和になっても、文学が現実の人間や社会を何らかの形で表現し続ける限り、事実と虚構の関係をめぐる問いが消えることはないだろう。むしろ実話と創作、人間と生成型人工知能、記録と物語の関係が複雑になった現在だからこそ、近松の古い言葉を新しい視点から読み直す意義がある。三百年以上前の人形浄瑠璃の舞台と、令和の小説や生成型人工知能との間には大きな歴史的隔たりがある。それでも、作り物であると知りながら人間がそこに感情を見いだし、自分自身の現実と結び付けるという現象には、時代を超えた共通性がある。

 文学の価値は、現実の出来事をどれほど正確に複製したかという一点だけで決まるものではない。現実をそのまま写すことでは届かなかった感情や、人間についての理解を、虚構という表現を通して伝えられる場合がある。近松門左衛門の虚実皮膜論が令和の文学にも通じるとすれば、それは現実と虚構の境界を曖昧にすること自体に価値があるからではなく、その境界において、作られた表現がどのように人間の心へ届くのかという問いを、今なお私たちに投げかけているからなのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ