三島由紀夫について論じるとき、その政治的な言動や晩年の行動が大きく取り上げられることは少なくない。しかし、それらが強い印象を残しているために、小説家として三島が何を描き、どのような言葉によって文学世界を構築したのかが、十分に検討されないままになることもある。
本稿では、三島の政治的主張や行動、その最期については扱わない。それらを軽視するためではなく、考察の対象を意識的に小説作品の内部へ限定するためである。三島の小説では、美しいものはどのように描かれているのか。美は登場人物を幸福にするのか、それとも現実との距離を広げるのか。また、人物の容貌や肉体、自然、建築物、季節、恋愛といったものが、三島の言葉によってどのような「美」へと組み替えられているのかを考えてみたい。
三島を「美の作家」と呼ぶことは難しくない。しかし、その一言だけでは三島文学の特徴を明らかにしたことにはならない。三島の小説に現れる美は、必ずしも人を慰めたり、幸福へ導いたりするものではない。ときには見る者を圧倒し、自分の不完全さを意識させ、現実との間に越えがたい隔たりを作る。一方で、『潮騒』のように、肉体、自然、労働、恋愛が比較的調和した作品も存在する。
したがって、三島文学における美を単純な一つの原理だけで説明することは難しい。本稿では、『金閣寺』『仮面の告白』『潮騒』『春の雪』という性格の異なる四作品を中心に、美と人間との関係を比較する。ただし、この四作品だけから三島文学全体について普遍的な法則を導くことはできない。ここで示すのは、あくまで四作品を比較することによって浮かび上がる一つの読み方である。
三島由紀夫は本当に「美の作家」なのか
三島由紀夫は、しばしば「美の作家」と評される。その評価には、少なくとも三つの意味を区別する必要がある。第一に、美しい人物、美しい肉体、美しい建築物、美しい自然が数多く描かれていること。第二に、その文章自体が視覚的で、比喩や語彙を精密に組み合わせて構築されていること。そして第三に、美とは何か、美しいものに接した人間がどのように変化するのかという問題そのものが、小説の重要な主題になっていることである。
したがって、三島を「美しいものを描いた作家」と理解するだけでは不十分である。重要なのは、美そのものだけではなく、それを見た人物が何を感じ、何を欲望し、どのように行動し、現実との関係をどのように変化させていくのかという点にある。
美は快や喜びと結びつけられることが多い。しかし、人間が美しいものを経験したときに生じる感情は、単純な幸福だけではない。感動、畏れ、悲しみ、懐かしさ、不安、劣等感などが同時に生じることもある。美的経験は、対象そのものだけによって決定されるのではなく、それを見る人の経験、記憶、欲望、価値観や置かれた状況にも左右される。
三島の作品には、こうした美の複雑さが繰り返し現れる。『金閣寺』では建築物としての美が主人公を圧迫し、『仮面の告白』では美しい肉体が欲望と自己認識を引き起こす。『春の雪』では、美は若さや時間、距離、喪失と強く結びつき、『潮騒』では肉体や自然の美が労働や共同体の中に置かれている。
本稿で扱う四作品を比較する限り、美は対象だけに固定された性質としてではなく、対象とそれを見る人間との関係の中で変化するものとして描かれているように見える。美しいものそのものだけでなく、美しいものを前にした人間こそが、三島文学を読むうえで重要なのである。
『金閣寺』~完全な美は人間を幸福にするのか
『金閣寺』は、三島文学における美を考えるうえで最も重要な作品の一つである。主人公の溝口は吃音を抱え、自らの容貌や他者との関係について強い劣等感を持っている。彼にとって金閣は単なる歴史的建築物ではない。父から「この世で最も美しいもの」として語り聞かされ、実物を見る以前から、すでに想像の中で特別な存在となっている。
この点は重要である。溝口は、実物の金閣を見てから美の観念を形成したのではない。言葉と想像によって作られた「完全な金閣」が先に存在し、その後に現実の金閣を見る。したがって、現実の建築物としての金閣と、溝口の内面に存在する金閣とは完全には一致しない。
現実の建築物には古さも傷みもあり、天候や光、見る位置によって姿が変わる。しかし、観念の中の金閣は変化しない。そこには人間の日常生活を超えた、完全な美が与えられている。この完全性と、溝口自身が感じている不完全さとの間に、強い緊張が生まれる。
美しいものを見ることは、自分もまた美しくなれるという希望を与えるとは限らない。むしろ、自分がそこからどれほど遠い存在であるかを意識させる場合がある。溝口にとって金閣は憧れの対象であると同時に、自分自身の不完全さを繰り返し確認させる存在にもなっていく。
さらに、金閣の像は溝口の現実生活へ侵入してくる。女性との関係を築こうとする場面でも金閣が意識に現れ、目の前の現実と向き合うことを妨げる。ここでは、美が現実を豊かにするというよりも、観念として完成された美が現実の人間や出来事を価値の低いものに見せるように働いている。
ただし、ここから「美は人を不幸にする」という一般的な結論を出すことはできない。『金閣寺』で問題となっているのは、美そのものよりも、溝口が美とどのような関係を結んだかである。彼は金閣を変化する現実の一部として受け入れることができず、絶対的な美として自らの内面に固定していく。
したがって、『金閣寺』は「美しいものは人間を善い方向へ導く」という単純な考えを揺さぶる作品として読むことができる。美は人を高めることもあれば、自分の不完全さを意識させ、現実との距離を広げることもある。三島が描いたのは建築物の美しさだけではなく、その美に圧倒され、ついには耐えられなくなっていく人間の内面なのである。
『仮面の告白』~美しい肉体と、見る者との距離
『仮面の告白』では、美の中心が建築物から人間の身体へ移る。この作品の語り手である「私」は、自らの欲望や内面を他者から隠しながら、社会の中で求められる姿を演じようとする。題名にある「仮面」は、単純な嘘というより、自分の内面と社会に見せる自己との間に生じる距離を象徴していると読むことができる。
作品に登場する美しい男性の肉体は、「私」が自然に近づき、触れ、日常を共有できる対象として描かれるとは限らない。むしろ、多くの場合、それは見る対象である。ここには『金閣寺』との共通点がある。金閣が溝口にとって自由に所有することのできない美であったように、美しい肉体もまた、「私」にとって距離を伴う存在として立ち現れる。
しかし、『仮面の告白』の距離は物理的な距離だけではない。社会的な距離であり、心理的な距離であり、自分の内面と他者に示す自己との距離でもある。しかも、「私」が美しいと感じる肉体は、単なる健康な身体や均整の取れた身体として描かれるのではない。絵画や宗教的図像、物語、死のイメージなどと結びつき、現実の身体以上の意味を帯びていく。
ここから、美が対象だけによって成立しているのではないことが分かる。同じ人物や同じ身体を見ても、すべての人間が同じ美を感じるわけではない。「私」の記憶、欲望、孤独、想像力が、その肉体に与えられる意味を変化させる。
また、美しい肉体を見ることは、自分自身を意識することでもある。自分が持っていないもの、自分とは異なるもの、自分が簡単には近づけないものほど、強い美として感じられる場合がある。『仮面の告白』では、距離や禁忌が美を増幅していると読むことができるが、それを人間一般に成立する法則と考えるべきではない。
この作品で重要なのは、美を見つめることによって、語り手が自分自身について考えざるを得なくなることである。美しい対象は単なる鑑賞物ではなく、欲望、社会規範、孤独、自己認識を浮かび上がらせる装置として働いている。その意味で、『仮面の告白』における美は、人間を外の世界へ解放するというより、自分自身の内面へ深く向かわせる美だと言える。
『潮騒』~生活の中に置かれた美
『金閣寺』と『仮面の告白』では、美は人物と現実との間に距離を生み出す方向へ働く。しかし、三島の作品に登場する美が、常に人間を孤独にし、現実から遠ざけるわけではない。その対照として重要なのが『潮騒』である。
『潮騒』の舞台は伊勢湾の小島であり、若い漁師の新治と島へ戻ってきた初江との恋愛を中心に物語が進む。周囲には海、太陽、風、星、漁船、漁業、家族、島の共同体が存在し、人物の身体や恋愛はそれらから切り離されていない。
新治の肉体は、単なる鑑賞の対象ではない。船を動かし、海で働き、危険に対応する身体である。初江の美しさも、現実から切り離された人工的な美として存在するのではなく、島の日常生活や共同体の中に置かれている。ここでは、身体の美しさと、その身体が現実の生活の中で果たす働きとが分離していない。
海についても同じことが言える。海は美しい風景であると同時に、人間の生活を支える場所であり、危険をもたらす場所でもある。自然は単なる背景ではなく、人間の身体、労働、勇気、成長に直接関わる現実の環境なのである。
新治と初江の恋愛も、二人だけの観念的な世界で完結しない。島の噂、家族、経済的立場、嫉妬、結婚など、現実的な条件にさらされる。それでも二人は現実を拒否して逃げるのではなく、行動することによって関係を成立させようとする。
ここには『金閣寺』との興味深い対照がある。溝口は美を見つめ、その意味を内面で増幅していく。『仮面の告白』の「私」も、美しい対象を見ながら自己の内側へ向かう。それに対して新治は、見るだけではなく、働き、判断し、危険に立ち向かい、他者との関係の中で責任を引き受ける。
本稿で扱う四作品を比較する限り、『潮騒』では美と幸福との距離が比較的近い。しかし、それを単純に「労働と結びついた美は幸福を生む」という因果関係として一般化することはできない。むしろ、『潮騒』では、美が自然、身体、労働、人間関係など現実の生活の複数の要素と分離せずに存在しているため、美と人間との間に『金閣寺』ほど深刻な断絶が生じていない、と考える方が適切だろう。
『潮騒』は、三島が美を苦悩や孤独だけでなく、人間と世界との調和としても描くことのできた作家であることを示している。
『春の雪』~美はなぜ失われると強く感じられるのか
『春の雪』は『豊饒の海』四部作の第一巻であり、華族の家に生まれた松枝清顕と綾倉聡子の関係を中心に物語が展開する。二人は互いに惹かれながらも、清顕の自尊心やためらいによって関係を素直に進めることができない。清顕が聡子を遠ざけた後、聡子は皇族との婚約を受け入れ、それによって二人の関係は社会的、制度的にも許されないものになっていく。
『春の雪』では、美は若さ、季節、身分、恋愛、距離、時間と密接に結びついている。題名の「春の雪」は、この作品の性質を象徴するものとして読むことができる。春の雪は美しいが、長くとどまることはできない。季節の暖かさによって消えていく存在であり、その美しさには最初から消滅の予感が含まれている。
清顕と聡子の関係にも同じような構造を見ることができる。自由に結ばれる可能性が残されているとき、清顕は自分の感情を十分に受け入れることができない。ところが聡子が皇族との婚約によって遠い存在となると、その感情は激しさを増す。
ここには、対象との距離と感情の強さとの関係が描かれている。身近で失う可能性の少ないものより、失われようとしているものの方が強く意識されることはある。しかし、『春の雪』から直ちに「人は失うものほど美しく感じる」という普遍的な心理法則を導くことはできない。あくまで、この作品の物語構造の中で、距離と禁忌、喪失の可能性が、美と恋愛の強度を高めていると読むべきである。
さらに、『春の雪』を単なる「はかない恋愛の物語」に限定することも適切ではない。聡子の皇族との婚約には、個人の恋愛を超えた身分制度や皇室との関係が存在する。清顕と聡子の恋愛は、二人の感情だけではなく、華族社会の秩序、家同士の関係、制度的な禁忌によって形を変えていく。
また、この作品では若さそのものも美の一部として描かれている。清顕の繊細さ、傲慢さ、ためらい、気まぐれは、若さの魅力であると同時に未熟さでもある。三島は清顕を道徳的に完全な人物として描いてはいない。彼は判断を誤り、相手を傷つけ、自分の感情を扱いきれない。それでも、二度と戻らない時間の中に存在する若者として、その人物全体が美しく造形されている。
この作品では、美と善は一致しない。善良であるから美しいわけでも、正しい判断をするから美しいわけでもない。矛盾や欠点を含みながら、失われていく時間の中に存在することそのものが、美を作り出している。
自然、庭園、衣服、建物、儀礼などの描写も、失われていく時間を意識させる。登場人物が属する旧い貴族社会の形式も永続するものではなく、時代の変化の中にある。美しく整えられた世界であるからこそ、それが長く続かないことへの予感が強くなる。
その意味では、「雪は溶けるから美しい」「春は過ぎるから美しい」「若さは失われるから美しい」という表現は、『春の雪』の一つの読みを簡潔に示している。ただし、作品全体をこの原理だけに還元するべきではない。『春の雪』には、美と喪失だけでなく、禁忌、身分、制度、時代の変化、そして後の『豊饒の海』全体へつながる生と死や輪廻の問題も存在しているからである。
三島由紀夫の文体はどのように美を作るのか
三島文学について考えるとき、美しい人物や建築物、自然、恋愛といった「何が描かれているか」だけを見るのでは不十分である。同じ海や庭園、人物を扱っても、文章の選び方によって読者が受け取る印象は大きく変わるからだ。三島文学の美を理解するためには、「何を描くか」と同時に「どのように描くか」を見る必要がある。
三島の文章には、色、光、影、輪郭、表面の質感など、視覚的な要素が多く現れる。ただし、それは写真のように現実をそのまま複写する描写ではない。現実の風景から特定の部分を選び、強調し、配置し直すことによって、一つの構図を作り出している。海や庭園、建築、身体は、単なる現実の対象ではなく、文章によって造形された対象として読者の前に現れる。
比喩も重要な役割を果たす。比喩とは単に説明を分かりやすくするための道具ではない。ある対象を別のものに重ねることによって、その対象に新しい意味を与えることができる。身体が彫刻のように見え、自然物が人工物のように描かれ、人工物が生き物のように感じられるとき、現実そのものが別の形へ組み替えられる。
三島の文章では、具体的な感覚と抽象的な観念も密接に結びついている。光、色、音、触覚といった具体的な感覚の描写が、美、時間、孤独、欲望、幸福、死といった抽象的な問題へ結びついていく。『金閣寺』の金閣は建築物でありながら、溝口にとって美の観念となる。『仮面の告白』の肉体は身体であると同時に、欲望や自己認識を引き出す存在となる。『潮騒』の海は自然環境であると同時に、新治の能力や勇気を試す現実の場となる。『春の雪』の雪は自然現象でありながら、時間や若さ、恋愛のはかなさと結びついている。
人物についても、心理だけで作られているわけではない。容貌、身体、衣服、姿勢、視線、動作、周囲の風景が組み合わされることによって、人物そのものが一つの造形物のように作られていく。清顕や聡子は個人であると同時に、失われていく若さや時代を象徴する像でもあり、新治と初江もまた、一人の若者と少女であると同時に、海と太陽の下に置かれた若い男女の姿として構成されている。
この方法には、人物を現実の人間以上に整った存在として見せる作用もある。文学上の人物が造形的に完成されればされるほど、日常生活を送る普通の人間から遠ざかる可能性もある。しかし、その人工性は欠点というより、三島文学の重要な特徴の一つだろう。三島は現実の人物をそのまま文章へ移すのではなく、言葉によって人物を作り直している。
ただし、三島の文体についてより厳密に論じるのであれば、本来は作品本文の具体的な文章を比較する必要がある。「視覚的である」「比喩が多い」「人工的に構築されている」という評価だけでは、それ自体が批評者の印象にとどまる可能性があるからだ。したがって、ここで述べた特徴は三島の文体を理解するための仮説的な整理であり、厳密な文体研究では個々の語彙、比喩、文の構造を具体的に検討する必要がある。
美と幸福を単純な因果関係で結べるのか
ここまで四作品を見てくると、美と幸福の関係には一定の違いが見えてくる。『金閣寺』では、美は溝口を現実から遠ざける方向へ働く。『仮面の告白』では、美しい肉体が欲望と孤独、自己認識を強める。『潮騒』では、美は身体、自然、労働、人間関係の中に置かれ、幸福との距離が比較的近い。『春の雪』では、美は距離、時間、禁忌、喪失によって強められている。
しかし、この四作品から「美と現実が結びつけば幸福になり、現実から切り離されれば不幸になる」という法則を作ることはできない。対象となる作品は四つにすぎず、しかも無作為に選ばれたものではない。文学作品について統計的な因果関係を推定しているわけでもないため、ここで示せるのは四作品に見られる構造上の傾向である。
より慎重に言えば、本稿で扱った作品では、美が人間の日常生活から切り離され、絶対化された観念になるほど、人物と現実との緊張が大きく描かれる傾向がある。一方、『潮騒』のように、美が身体、労働、自然、共同体の中に置かれる作品では、その緊張が比較的小さい。
ただし、美的経験そのものも、対象だけから生まれるわけではない。美しいと感じられる対象の特徴、それを見る人の性格や経験、記憶、欲望、社会的背景、その場の状況などが相互に作用する。したがって、「美が人間を幸福にするか」という問いには、単純な「する」「しない」という答えを与えることは難しい。
おわりに~美は人を救うのか
『金閣寺』では、美は溝口を現実から遠ざけ、自分の不完全さを意識させる。『仮面の告白』では、美しい肉体が欲望の対象となると同時に、語り手自身の孤独や自己認識を浮かび上がらせる。『潮騒』では、美は現実の生活、労働、自然、共同体の中に存在し、人間の行動と結びついている。そして『春の雪』では、美は若さ、距離、禁忌、時間、喪失とともに強められていく。
この四作品を比較すると、三島文学における美を、対象に固定された一つの性質として捉えることは難しいことが分かる。美は、見る者との距離、生活との関係、所有できるかどうか、失われようとしているかどうか、そして美を前にした人物がどのように行動するかによって、その意味を変えていく。
だからといって、「美とは完全に主観的なものである」と結論することも適切ではない。人間が美を感じるためには、対象そのものの形、色、身体、自然、建築、言語表現なども重要である。美的経験は、対象だけでも、見る者だけでも成立するものではなく、対象と人間との関係の中で生じると考えた方がよい。
三島由紀夫は、美しいものを数多く描いた。しかし、三島文学の重要性は、美しい人物や景色を並べたことだけにあるのではない。美しいものを前にした人間が、どのように自分を知り、どのように現実との距離を測り、どのように欲望し、ためらい、行動するのかを描いたところにある。
そして、その美は作品の外部からそのまま持ち込まれるわけではない。光、色彩、身体、自然、建築、季節、比喩を選び、文章の中へ配置することによって、美は作られる。三島は、美について説明しただけの作家というより、言葉によって美が成立する瞬間そのものを小説の中に構築した作家だったと考えることができる。
美は人を幸福にするのか。この問いに、三島の小説は一つの答えを与えない。美は人を幸福にすることもあれば、自分の不完全さを意識させることもある。現実を豊かにすることもあれば、現実を色あせて見せることもある。美しいものが人間に何をもたらすかは、美そのものだけによって決まるのではなく、人間がその美とどのような関係を結ぶかにも大きく左右される。
三島文学の美が現在まで読者を引きつけている理由の一つは、美を単なる慰めや装飾として扱わなかったところにあるのだろう。三島が描いた美は、見る者を静かに満足させるだけのものではない。それは欲望、劣等感、孤独、若さ、幸福、時間、喪失といった、人間が生きるうえで避けることのできない問題を浮かび上がらせる。
だからこそ、三島由紀夫の小説における美は、「美しい」という言葉だけでは終わらない。美を描きながら、その美を見ている人間そのものを問い返すところに、三島文学の大きな力があるのである。

