リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

かつて電話番号は、頭の中に住んでいた

 少し前まで、人の頭の中にはいくつもの電話番号が住んでおり、自宅の番号、会社の番号、親しい友人の番号、実家の番号、よく利用する店の番号まで、意識して暗記した覚えがなくても、何度もダイヤルしているうちに指と記憶の両方へ染み込み、数字の並びを見れば相手の顔が浮かび、受話器を取る前から、これから始まる会話まで何となく想像できたものである。

 ところが現在、家族の携帯電話番号さえ正確には言えないという人は珍しくなく、スマートフォンの連絡先に名前を登録しておけば、数文字入力するだけで目的の相手を呼び出せるため、番号そのものを覚えておく必要がほとんどなくなり、誰かに電話をかけるという行為から「数字を思い出す」という過程が消え、代わりに私たちは相手の名前を検索し、画面に表示された名前や写真を選ぶようになった。

 この変化だけを見れば、人間の記憶力が低下したようにも見え、以前なら何十もの電話番号を覚えていた人が、現在では家族の番号すら思い出せないことがあるのだから、そう感じるのも不思議ではないが、記憶研究の立場から考えると、ここで「昔の人より現代人の記憶力が悪くなった」と結論づけるのは早く、私たちは記憶することそのものをやめたのではなく、覚えておく必要のある情報と、外部へ預けても困らない情報とを以前とは違う形で分けるようになった可能性がある。

人間は昔から、頭の外にも記憶を置いてきた

 人間は、もともとすべての情報を頭の中だけで管理してきたわけではなく、紙の住所録、手帳、辞書、百科事典、地図、図書館といった道具は、いずれも人間の記憶を外部から支える装置であり、電話帳が紙だった時代にも、すべての電話番号を暗記していたわけではなく、頻繁に使う番号だけを覚え、それ以外は必要になった時に調べていたのである。

 認知科学では、このように本来なら頭の中で処理する仕事の一部を、道具や環境へ委ねることを「認知的オフローディング」と呼び、買い物を忘れないようにメモを書くことも、予定をカレンダーへ登録することも、計算を電卓へ任せることも、その広い意味では同じ仕組みであり、スマートフォンは人間が昔から行ってきたこの仕組みを、非常に高速で大規模なものへ変えた道具と考えることができる。

 決定的に変わったのは、外部に保存された情報へ戻るまでの時間であり、紙の電話帳ならページをめくる必要があり、辞書なら目的の項目を探さなければならなかったが、スマートフォンでは数秒で必要な情報へ到達できるため、情報そのものを完全に覚えておく価値は相対的に低くなり、「必要になった時にどこを探せばよいか」「どのような検索語を使えばよいか」という別の知識が、以前より重要になってきた。

答えそのものより、答えへ戻る道筋を覚える

 インターネットと記憶を研究した実験では、後から情報へ再びアクセスできると分かっている場合、その情報自体よりも「どこに保存されているか」という情報を覚える傾向が示されたことがあるが、この分野のすべての実験結果が同じ強さで再現されているわけではないため、「インターネットを使えば必ず記憶力が低下する」と考えることはできないものの、外部へ保存できる環境が、人間の覚え方に影響を与えるという方向性については研究が続けられている。

 この変化は日常生活を振り返ると分かりやすく、ある歴史上の人物が生まれた年を正確に覚えていなくても、その人物の名前さえ分かれば数秒で確認できるため、年号そのものを記憶しておく必要性は以前より低くなった一方で、人物名をどのように入力すれば必要な資料へたどり着けるのか、どの情報源を信頼すべきなのか、複数の情報が食い違った時にどう確認するのかという能力は、以前より重要になっている。

 つまり、現代社会では「答えをそのまま覚えておく能力」だけでなく、「答えへもう一度たどり着く能力」が大きな意味を持つようになったが、検索できるから何も覚えなくてよいわけではなく、人間が何かを考える時には、比較したり関連づけたりする材料がある程度は頭の中に存在していなければならないため、知識を完全に外部へ預けてしまえば、その場で深く考えることは難しくなる。

道を覚えなくなったのか、道の探し方を覚えたのか

 電話番号と似た変化は道順にも起きており、以前なら、初めて訪れる場所へ行く前に地図を広げ、駅から何本目の道を曲がるのか、交差点にどの店があるのかを確認しながら、頭の中に大まかな地図を作ってから出かけ、実際に歩きながら何度か道を間違えるうちに、その土地の位置関係が少しずつ身体感覚と結びつき、やがて案内がなくても歩けるようになった。

 現在では、GPS(Global Positioning System・全地球測位システム)を利用した地図アプリが、その都度どちらへ進めばよいかを教えてくれるため、街全体の構造を理解していなくても目的地へ到着でき、GPSによる案内を多く利用する人ほど、一部の空間記憶課題で成績が低い傾向を示した研究もあることから、自分で経路を考えず逐次案内に従う場合には、その道について形成される記憶が弱くなる可能性が指摘されている。

 ただし、ここでも因果関係を単純化することはできず、GPSを使うから空間認知能力が低くなるのか、もともと道を覚えるのが得意でない人ほどGPSを多く使うのかを完全に切り分けるのは容易ではないうえ、すべての利用者に同じ変化が生じるわけでもないが、それでも、現代の移動が「経路そのものを覚える」ことから「必要な時に経路を呼び出す」ことへ変わってきたという点は、日常感覚としても理解しやすい。

思い出すという行為が、記憶を作っていた

 それでは、なぜ昔の電話番号だけが何十年たっても記憶に残っていることがあるのだろうか。その理由を考えるうえで重要なのが「検索練習」と呼ばれる考え方であり、これは情報を何度も眺めるだけでなく、一度見えない状態にして自分の力で思い出そうとする行為そのものが、その後の記憶を強くするという現象である。

 学生が教科書を何度も読み返すだけの場合より、内容を閉じて自分で答えを思い出す練習を行った方が長期的な記憶が残りやすいことも、この仕組みと関係しており、昔の電話では、番号を押すたびに相手の数字を自分の記憶から取り出さなければならず、最初は紙を見ながらかけていたとしても、何度も使ううちに紙を見ずに思い出すようになり、そのたびに記憶が強化されていったと考えられる。

 現在は名前を画面上で選べば電話をかけられるため、この「数字を思い出す」という過程そのものがほとんど存在せず、そのため、昔の番号が残り、現在の番号が残らないという現象には、単なる年齢や懐かしさだけでなく、情報を何度も自分の記憶から取り出したかどうかという違いも関係している可能性がある。

忘れることは、必ずしも損失ではない

 外部へ記憶を預けることには別の側面もあり、実験研究では、情報を外部へ保存することで、その情報を内部に保持する負担が軽くなり、その後に学習する別の情報を覚えやすくなることがあり、この現象は「保存による記憶促進効果」と呼ばれている。

 人間の注意や作業記憶には限界があるため、すべてを同時に頭の中へ置いておくことはできず、明日の予定を忘れないよう頭の中で繰り返し続けるより、カレンダーへ登録してしまえば、その間は別の問題について考えることができるため、同じように、電話番号をすべて記憶しなくてもよい環境は、その分だけ認知的な負担を減らす可能性がある。

 この意味では、「覚えなくなった」という現象を直ちに能力の低下と考える必要はなく、機械に任せられる仕事を機械へ渡し、人間は別の仕事に注意を向けるという行動は、限られた認知資源を配分するひとつの戦略と考えることができる。

私たちは人を、数字ではなく文脈で思い出している

 現在、誰かを思い出す時に、その人の電話番号が最初に浮かぶことはほとんどなく、以前の職場で一緒だった人、学校で知り合った人、ある仕事を通じて付き合いが始まった人というように、私たちは相手との関係や出来事を手掛かりとして、その人物を思い出すことが多い。

 ただし、「電話番号を覚えなくなった代わりに、人間関係をより多く覚えるようになった」とまで断定できる科学的証拠があるわけではなく、電話番号を記憶しなくなったことと、人間関係の記憶が増えたことが直接的な交換関係にあると証明されているわけでもないため、SNS(Social Networking Service・人と人との交流を支援するインターネットサービス)の普及によって関わる人数が増えたことや、連絡手段そのものが変わったことなど、複数の要因が絡んでいると考えるべきである。

 それでも、私たちが相手を識別するために使う手掛かりが変化していることは実感しやすく、電話番号という数字の列ではなく、名前、顔写真、勤務先、学校、過去の会話、メッセージ履歴といった複数の文脈を通じて相手へたどり着く仕組みが、日常の中へ深く入り込んでいる。

検索できる社会ほど、頭の中の知識も必要になる

 すぐに検索できる社会では、暗記の価値が低下したように見えることがあるが、本当に何も覚えなくてよい社会になったわけではなく、むしろ膨大な情報の中から正しいものを選ぶためには、ある程度の基礎知識を自分の中に持っていなければならない。

 たとえば、検索結果に2つの異なる説明が表示された時、その違いを判断するためには、その分野について最低限の知識が必要になり、年代や人物、制度、科学用語の基本的な関係が頭に入っていれば、「この説明は時代が合わない」「この数字は桁がおかしい」「この情報源は別の問題を扱っている」と気づくことができるが、何も知らなければ、検索結果を比較することさえ難しい。

 その意味では、インターネットは記憶を不要にしたのではなく、記憶の役割を変えたと考える方が適切であり、細部をすべて暗記する必要性は下がった一方で、情報を評価するための基礎知識や、異なる事実を結びつける理解は、むしろ重要になっている。

電話番号の向こうに残っているもの

 数十年前の自宅の電話番号を今でも覚えている人がいるなら、その数字を一度、頭の中でゆっくり読み上げてみるとよく、そこから蘇ってくるのは数字だけではなく、電話機が置かれていた場所、受話器の重さ、家の中に響いた呼び出し音、家族が電話に出る声、誰かからの連絡を待っていた時間まで、一緒に思い出されることがある。

 電話番号は単なる数字だったはずなのに、何度も使い、何度も思い出し、その番号を通じて誰かと話した経験が重なることで、いつの間にか生活の記憶と結びつき、だからこそ昔の番号は、何十年たっても不意に口から出てくるのである。

 現在の私たちは、電話番号そのものを覚える必要をほとんど失ったが、そのことが人間の記憶力全体の低下を意味するとは限らず、むしろ情報を自分の力で何度も思い出し、その情報と長い時間をともにする機会が減ったという変化が起きているのかもしれない。

 電話番号を覚えなくなった私たちが何を記憶するようになったのかという問いには、まだひとつの確定した答えはないものの、科学的に比較的確かに言えるのは、私たちが記憶を失ったのではなく、何を自分の中に残し、何を外部へ預け、必要になった時にどう取り戻すかという、記憶の使い方そのものを変えつつあるということである。

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 部屋の壁一面に本棚がある人を見ると、それだけで少し賢そうに見えることがある。哲学書や歴史書が並んでいればなおさらで、まだ話をしていないのに、「この人は物事を深く考える人なのだろう」と想像してしまう。一方で、家にほとんど本がなく、「本はあまり読みません」と言う人に対して、私たちは同じ種類の知性を期待するだろうか。もちろん、本を読まなくても鋭い判断力を持つ人はいるし、大量に読書をしていても思い込みの激しい人はいる。それでも「読書家」という言葉には、単に本をよく読む人という以上に、教養があり、語彙が豊富で、思考が深いという人物像がまとわりついている。

 しかし、ここには一つの飛躍がある。本をたくさん読むという行動と、その人が賢いという評価は、本来なら別のものだからだ。年間百冊読む人が年間一冊しか読まない人より優れた判断をするとは限らないし、文学全集を読破した人が金銭管理や機械修理にも強いとは限らない。それにもかかわらず、読書と知性は長いあいだ、ほとんど当然のように結びつけられてきた。

 では、「読書家は知的」というイメージは単なる文化的な思い込みなのだろうか。心理学や教育心理学の研究を見ていくと、答えは意外に複雑である。読書経験と語彙や一般知識との間には、確かに統計的な関連が認められている。しかし、そのことは「本をたくさん読めば、それだけ頭がよくなる」という意味ではない。読書をする人がもともと持っていた能力、育った環境、学校教育、読書を通じて得た経験などを区別して考える必要があるのである。

本を読む人は、なぜ「知的」に見えるのか

 そもそも「知的」という言葉そのものがかなり曖昧である。数学の難問を素早く解ける人、豊かな語彙を持つ人、歴史や科学について多くを知っている人、複雑な問題を筋道立てて考えられる人、他人とは違う視点から物事を眺められる人を、私たちはまとめて「頭がいい」と表現することがある。しかし心理学的には、これらは必ずしも同じ能力ではない。

 知的能力を考える際には、未知の問題に対処し、規則性を発見したり推論したりする能力と、長年の学習や経験を通じて蓄積された語彙や知識とを区別する考え方がある。前者は流動性知能、後者は結晶性知能と呼ばれる。両者は相互に関係しているが、同一のものではない。読書経験と特に強く関連するのは、語彙、言語知識、一般知識など、結晶性知能に近い能力であると考えられている。ただし、結晶性知能は書物から得た知識だけを意味するわけではなく、教育、仕事、生活経験などを通じて身につけた知識や技能も、その重要な構成要素になり得る。

 これは日常感覚とも一致する。読書量の多い人は、会話の途中で少し珍しい言葉を自然に使ったり、ある事件について歴史上の似た出来事を思い出したり、小説の一場面を例に出したりする。その瞬間、私たちはその人の頭の中に、自分には見えない巨大な倉庫があるように感じる。知識そのものだけでなく、知識を適切な言葉として取り出し、他人に説明できることが、「知的に見える」という印象を強くするのかもしれない。

 実際、心理学者キース・スタノヴィッチとアン・カニンガムらによる研究では、印刷物への接触経験が豊富な人ほど、語彙、一般知識、言語に関する課題などで高い成績を示す傾向が確認されている。一般的な認知能力や読解能力などを統計的に考慮しても、印刷物への接触経験との関連が残る研究があり、読書経験が言語的な知識の蓄積と関係しているという見方には実証的な根拠がある。

 さらに、2011年に発表されたモルとバスによるメタ分析では、99件の研究、延べ7,669人のデータを統合し、印刷物への接触経験と言語能力などの関連が検討された。メタ分析とは、複数の研究結果を一定の統計的方法によって統合し、個々の研究だけでは把握しにくい傾向を調べる手法である。この分析では、印刷物への接触経験と口頭言語能力の関連について、研究結果から求めた説明分散の割合が、就学前では約12%、小学生では約13%、中学生では約19%、高校生では約30%、大学生では約34%と報告されている。

 ただし、この数値を「読書によって大学生の言語能力が34%向上した」と理解してはならない。ここで示されているのは統計的な関連の大きさであり、読書の因果効果を表すものではない。また、各発達段階の結果は、同じ人々を長年追跡して得られた数値ではないため、年齢が上がるほど読書の効果が必ず強くなることを証明したものでもない。それでも、読書経験と言語能力との関連が、一部の小規模研究だけで偶然に見つかった現象ではないことを考えるうえで、重要な研究成果といえる。

 ここでもう一つ注意したいのは、研究で測定される「読書経験」が、必ずしも年間の読書冊数と同じではないということである。研究によっては、著者名をどれほど知っているかを尋ねるテストなどを使い、印刷物への接触量を間接的に推定する。本人が申告する読書時間、年間読書冊数、著者名の認知度は互いに関連する可能性があるものの、まったく同じものを測定しているわけではない。年間百冊という数字だけを取り出し、そこから知的能力を直接推定することには限界がある。

 つまり、読書家が「知的に見える」のは、完全な錯覚ではない。読書経験と強く結びつく語彙や一般知識は、私たちが日常生活で知性として認識しやすい能力だからである。ただし、実際に語彙が豊富であることと、読書家だという情報を聞いただけで知的だと判断されることは、心理学的には別の問題である。前者は認知能力に関する研究であり、後者は社会的な印象形成に関する研究として区別しなければならない。

本を読むから賢くなるのか、読むのが得意だから本を読むのか

 ただし、ここで話は一段難しくなる。読書家の語彙が豊かだったとしても、それだけでは「読書によって語彙が豊かになった」とは言えない。本をよく読む人は、そもそも文字を読むことが得意だった可能性があるからである。

 背の高い人ほどバスケットボールをしているからといって、「バスケットボールをすれば背が高くなる」とは言えないのと少し似ている。活動の結果として能力が伸びることはあっても、その活動を選ぶ人の側にも、もともとの特徴がある。読書でも、文字を速く処理でき、文章を比較的容易に理解できる子どもほど、本を読むことを楽しみやすいかもしれない。そして、読むことが楽しいからさらに読むという循環が生まれる可能性がある。

 スタノヴィッチは、こうした現象を「マタイ効果」という考え方で説明した。読むことが得意な子どもは読む機会を増やし、その経験を通じて語彙や知識をさらに増やす一方、読むことに苦労する子どもは本を避けやすくなり、結果として経験の差まで広がっていくという考え方である。最初は小さかった読書能力の違いが、長期間の経験の違いを通じて大きくなる可能性を示している。

 しかし、マタイ効果が理論的に考えられることと、実際にすべての子どもの能力差が拡大することは同じではない。読解力の格差が必ずしも拡大しないことを示した研究もあり、どの能力を、どの年齢で、どのような方法によって測定するかによって結果は変わり得る。重要なのは、初期の能力とその後の経験が相互に関係する可能性があるという点であって、幼少期の読書能力によって将来の知的能力が決定されるという意味ではない。

 2018年に発表された大規模な双生児研究では、双生児11,559人ときょうだい262人のデータが用いられ、読書能力と自主的な読書経験の関係が検討された。研究では両者の相関係数として約0.41という値が報告されている。相関係数は、二つの変数がどの程度連動するかを示す統計量であり、正の値が大きいほど、一方が高い人はもう一方も高い傾向が強いことを意味する。

 相関係数0.41を二乗すると約0.17となる。これは単純な二変数の線形関係で考えた場合、両者が共有する変動の割合がおよそ17%であることに対応する。ただし、これは読書能力が読書経験を17%増加させたという意味ではなく、読書能力だけで個人の読書経験を十分に説明できるという意味でもない。統計的な相関と因果効果は、ここでも慎重に区別する必要がある。

 この双生児研究では、遺伝的要因などを考慮したモデルによって因果関係の方向が検討され、少なくとも研究対象となった幼少期には、「多く読むから読書能力が高くなる」という方向よりも、「読書能力が高いから自主的に多く読む」という方向を支持する結果が得られた。ただし、双生児研究でも因果関係を推定するためには一定の統計的仮定が必要であり、実験によって因果効果を直接確かめたわけではない。

 一方、フィンランドの子どもたち2,525人を対象に、7歳から16歳までの変化を分析した2020年の長期研究では、読書能力と自主的な読書経験の関係が、発達段階によって異なることが示された。小学校低学年では、読解力や読む流暢さがその後の余暇読書を予測する傾向が見られたが、学年が上がると、書籍を読む経験がその後の読解力の伸びと関連する傾向も確認された。

 この結果は、読書能力と読書経験を、一方向の関係として理解することの限界を示している。読むことが得意だから読む。読むことで語彙や知識が増える。知識が増えることで、さらに複雑な文章を理解しやすくなり、読書への関心が高まる。このような循環が長期間続く可能性はあるが、その強さや方向は年齢、本人の興味、教育環境などによって変化するのである。

読書能力は、その後の知的発達とも関係する

 では、読書は単に「もともと読むのが得意な人の趣味」にすぎないのだろうか。そう言い切ることもできない。長期的な研究では、子どものころの読書経験が、その後の学習成果や認知能力と関連することが報告されている。

 英国の1970年出生コホートを利用した研究では、約6,000人について、子どものころの読書習慣と、その後の語彙や数学の成績との関係が調べられた。その結果、楽しみのために読書をしていた子どもほど、10歳から16歳にかけて語彙や数学の成績が伸びる傾向が確認された。家庭の社会的背景や過去の学習成績などを考慮しても、その関連が残ったことが注目された。

 語彙の伸びと読書経験が関係することは比較的理解しやすいが、数学の成績にも関連が見られた点は興味深い。数学の学習では、計算だけでなく、問題文を理解し、条件を整理し、抽象的な関係を読み取る力も必要になる。文章を読む経験が、そうした学習活動と何らかの関係を持つ可能性は考えられる。ただし、それは説明の仮説であって、この研究によって読書が数学能力を直接向上させる仕組みまで確かめられたわけではない。

 そもそも、このような長期追跡研究は観察研究である。研究者が子どもたちの読書量を無作為に割り当てたわけではないため、読書習慣以外の要因が結果に影響している可能性を完全には排除できない。読書を好む家庭では、親子の会話が多かったり、教育への関心が高かったり、学校外でも多様な知的刺激を受けていたりするかもしれない。統計的に家庭の社会的背景などを調整しても、測定されていない環境要因が残ることはあり得る。

 さらに、一卵性双生児を追跡した研究でも、読書能力と知的発達の関連が検討されている。2015年に発表されたリッチーらの研究では、1,890組の一卵性双生児について、7歳から16歳までの読書能力と知能検査の結果が分析された。一卵性双生児は遺伝的特徴がほぼ共通しているため、その違いを比較することで、一般的な観察研究では分離しにくい遺伝的要因の影響を抑えながら関係を調べることができる。

 この研究では、早い時期に読書能力が高かった側が、その後の知能検査でも高い成績を示す傾向が報告された。研究結果は、読書能力がその後の認知発達に影響する可能性を示すものとして注目されたが、ここでも因果関係が確定したわけではない。2017年には、ベイリーとリトルフィールドが同じデータを別の統計モデルで再分析し、読書能力と知能の双方に長期間影響する安定した環境要因によって、両者の関連が説明される可能性を指摘した。

 同じデータを使っていても、統計モデルにどのような仮定を置くかによって、因果関係の解釈が変わり得るのである。これは科学研究の弱点というより、因果関係を慎重に検証するうえで重要な過程といえる。ある時点の読書能力が後の知能検査の成績を予測したとしても、それだけで「早く読めるようになれば知能そのものが高くなる」と断定することはできない。

 ここまでの研究から分かるのは、読書経験、読書能力、知的発達の間に関連が存在する一方、その因果関係を一本の矢印で説明することは難しいということである。遺伝的な特徴、家庭環境、学校教育、本人の興味、過去の学習成果、読書経験そのものが複雑に関係している。しかも、その関係は成長とともに変わり得るため、幼少期の研究結果を成人の読書家にそのまま当てはめることにも注意が必要である。

それでも本を読む行為は、頭の中ではかなり忙しい

 因果関係を慎重に考えることと、読書という行為そのものの認知的な複雑さを過小評価することは別問題である。文章を理解するためには、直前まで読んだ内容を保持し、新しい情報と結びつけ、曖昧な部分を推測し、自分が持っている知識と照合しながら意味を構成し続けなければならない。

 小説であれば、登場人物の感情や動機を想像し、過去の出来事を記憶しながら現在の行動を理解する必要がある。歴史書であれば、複数の出来事の前後関係や因果関係を整理しなければならない。評論であれば、筆者の主張と根拠を区別し、示された証拠が結論を支えているかどうかを検討する必要がある。このように、読書には語彙処理、文章理解、記憶、予測、推論など、さまざまな認知活動が関係している。

 椅子に座ってページをめくるという外見だけを見ると、読書は非常に静かな行為に見える。しかし、その内部では多くの情報処理が進められている。知らなかった言葉を文脈から推測したり、初めて接する概念を既存の知識と結びつけたりすることは、知識形成の重要な過程である。読書経験が語彙や一般知識と関連しやすいことには、こうした学習過程が関係していると考えられる。

 ただし、読書中に多くの認知機能が使われることと、それらの能力が読書によって長期的に向上することは、明確に区別しなければならない。例えば、小説を読む際に作業記憶を使うからといって、小説を大量に読めば作業記憶の容量そのものが大きくなるとは限らない。歴史書を読んで歴史的知識が増えたとしても、その人のあらゆる推論能力が同じように向上するとは限らないのである。

 心理学では、ある活動によって獲得した能力が、別の課題や領域にも応用できるかという問題が研究されている。学んだ内容に近い課題で成績が向上することと、関係の薄い課題や一般的な知能にまで効果が広がることは、同じではない。読書についても、語彙や文章理解に関する能力の発達と、記憶力や推論力全般の向上を同一視しないことが重要である。

 したがって、「読書は頭を使う活動である」という説明には十分な合理性があるが、「頭を使う活動だから、読書を続ければ知能全体が高くなる」という結論には飛躍がある。読書によって何がどの程度変化するのかは、読んだ内容、理解の程度、継続期間、読者の既存の能力などを区別して検証する必要がある。

本を百冊読んでも「賢明な人」になるとは限らない

 ここで、もう一度「知的」という言葉を疑う必要がある。語彙が豊かであることと、正しい判断ができることは同じではない。歴史に詳しいことと、自分に都合の悪い事実を公平に検討できることも違う。高度な専門知識を持つ人であっても、自分の専門領域の外では判断を誤ることがあるし、専門知識そのものが特定の問題に対する過信につながる可能性もある。

 心理学研究では、人は自分がもともと持っている立場に有利な情報を高く評価し、反対する情報を低く評価しやすいことが知られている。こうした偏りの一つはマイサイド・バイアスと呼ばれる。スタノヴィッチとウェストらの研究では、一般的な認知能力が高ければ、こうした偏りが必ず小さくなるわけではないことが示されている。ただし、すべての認知的な偏りが知能と無関係という意味ではなく、確率判断など、認知能力との関連が認められる課題も存在する。

 つまり、頭の回転が速い人だから、自分の思い込みから自由になれるとは限らないのである。知識が豊富な人でも、自分の立場を支持する材料ばかり集めることはあるし、優れた論理的能力を持つ人でも、その能力を自説の正当化に使う可能性がある。知識の量、問題を解く能力、証拠を公平に評価する姿勢は、それぞれ区別して考える必要がある。

 この点は読書について考えるときにも重要である。本を読むことによって知識を増やすことはできても、自分と同じ考えの本ばかり選び続ければ、反対意見に触れる機会は限られてしまう。百冊読んだ人が一冊しか読まなかった人より偏見が少ないとは限らないし、難解な哲学書を読み通した人が、必ずしも異なる価値観に寛容であるとも限らない。

 もっとも、これらの研究が直接示しているのは、認知能力と判断の偏りが必ずしも単純に対応しないということであり、読書家の偏見が特に強い、あるいは弱いということではない。読書習慣と合理的判断力との関係を確かめるには、読書経験と判断上の偏りをそれぞれ測定し、認知能力や教育歴などの影響も考慮した研究が必要になる。

 結局、問題は「何冊読んだか」だけではなく、「読んだものをどのように理解し、自分の考えに取り入れるか」という点にもある。反対意見を正確に理解できるか、提示された根拠を検討できるか、十分な証拠があれば自分の判断を修正できるか。そうした姿勢は、読書によって得られる知識の量とは別に考える必要がある。本は知識や意見を与えてくれるが、その知識をどのように扱うかまでは決めてくれない。

「読書家」という肩書きが作る、もう一つの錯覚

 それでも私たちが読書家を知的だと感じやすいのには、もう一つ理由があるのではないだろうか。読書によって得られる知識は、他人から見えやすいのである。

 例えば、数学的な直感に優れた職人が、仕事の中で複雑な角度や寸法を瞬時に判断しても、その能力は本棚には並ばない。長年商売をしてきた人が客の表情から微妙な心理を読み取っても、それを難しい言葉で説明するとは限らない。機械の音を聞いただけで故障箇所を推測できる技術者にも、高度な知識と経験に基づく判断能力があるが、それが一般的な会話の中で「教養」として認識されるとは限らない。

 一方、読書によって得た知識は、言葉として表れやすい。会話の中で引用でき、文章として説明でき、本棚という物理的な形で他人に示すこともできる。だから読書によって形成された知識は、ほかの種類の知識より「知性」として発見されやすい可能性がある。

 文化的な趣味や嗜好が、人物の能力や社会的な地位についての評価に影響することを示した研究も存在する。こうした結果は、人が相手の能力を直接測定するのではなく、服装、言葉遣い、趣味などの手掛かりから人物像を推測する場合があることを示唆している。ただし、読書家に対する知的イメージが、誰に対しても、どのような社会環境でも同じように生じるとまでは言えない。評価する側の教育経験や文化的な価値観、評価される人との関係によっても、その印象は変わり得る。

 そもそも、実務経験や身体技能を通じて得られた知識も、知的能力の重要な一部分である。医療現場でわずかな生体情報の変化から異常を予測する能力、熟練した技術者が複数の故障原因を短時間で絞り込む能力、経営者が不確実な条件のもとで判断する能力などは、単に書物を読んだ量では評価できない。こうした能力は経験や訓練によって形成されるものであり、学習を通じて蓄積された知識や技能という点では、読書から得られる知識と共通する部分もある。

 もちろん、書物による知識と実務による知識のどちらが優れているかを、一律に決めることもできない。両者にはそれぞれ異なる特徴があり、状況によって必要とされる能力も違う。理論を深く理解していることが有利な場面もあれば、現場で繰り返し経験したことによってしか身につきにくい判断が重要な場面もある。私たちは「知性」という言葉を使うとき、何を評価し、何を見落としているのかを意識する必要がある。

 読書家が知的に見えるという印象には、実際に備わっている語彙や知識だけでなく、社会がどのような能力を知的だと評価するかという問題も関係している。知性の存在と、それが他人から知性として認識されることは、必ずしも一致しないのである。

読書の効果は、誰にでも同じように現れるのか

 ここまで紹介した研究の多くは、欧米の子どもや成人を対象としている。そこで得られた知見は重要だが、そのまま日本の読書文化や教育環境に当てはめられるとは限らない。

 例えば、日本語では漢字、平仮名、片仮名を組み合わせて文章を読む一方、英語などのアルファベットを使用する言語では、文字と音の対応関係や語の認識過程が異なる。読字能力の発達には共通する部分があるものの、文字体系や言語構造の違いが学習過程に影響する可能性もある。そのため、英語圏で得られた読書能力と認知発達の関係を、日本語を使う人々に無条件で一般化することは避けるべきである。

 また、読書習慣は個人の意欲や能力だけで決まるものではない。家庭に本があるか、学校で十分な読書指導を受けられるか、図書館を利用しやすいか、読み書きに困難がある場合に適切な支援を受けられるかといった条件も関係する。教育や情報へのアクセスに差がある社会では、読書経験の違いが、本人の関心や能力だけでなく、利用できる資源の違いを反映している可能性がある。

 したがって、読書家の語彙や知識が豊富であるという統計的な傾向が確認されたとしても、それを個人の知的な優劣に直結させることは適切ではない。ある人が本をあまり読まない理由には、仕事や家庭の事情、読むことへの困難、別の学習方法への適性など、さまざまな事情がある。読書をする機会そのものが平等に与えられているわけではないことも、忘れてはならないだろう。

「本を読む人ほど賢い」ではなく

 結局、「読書家は知的」というイメージを完全に否定する必要はない。読書経験が語彙や一般知識と関連し、その蓄積が長期的な学習成果や知的発達と結びつく可能性を示す研究は複数存在する。研究結果を統合した分析でも、その関連は確認されている。その意味で、本を読むことと知的能力の間には、確かに実証的な関係がある。

 しかし、「読書家だから賢い」と言った瞬間、その関係は粗雑になる。もともとの読書能力が高いから本を好む人もいる。家庭環境や教育によって本に触れる機会が多かった人もいる。読書と強く関連するのは、とりわけ語彙や言語知識などの能力であって、人間のあらゆる知的能力が一様に高くなるわけではない。まして、合理性や判断力、人格まで本の冊数から推測することはできない。

 より正確に言うなら、「本を読む人ほど賢い」のではなく、「長期間にわたって読書を続けてきた人は、語彙や一般知識など、社会から知的だと認識されやすい能力を豊富に持っている傾向がある」ということである。ただし、その関係には本人がもともと持っていた能力や、教育・家庭環境なども関係しており、読書だけが原因であるとは言えない。

 さらに、知性の評価を言語的な能力だけに限定しなければ、別の姿も見えてくる。高度な判断力は、書物からだけでなく、実務経験、人との関わり、失敗からの学習、専門的な訓練などからも形成される。読書経験が豊富なことは、ある種の知的能力を推測する手掛かりにはなっても、人間の知性全体を測る尺度にはならないのである。

 それでも読書には、統計的な指標だけでは捉えきれない魅力がある。本を開けば、自分より知識の豊富な人だけでなく、自分とはまったく違う時代を生きた人、間違った人、愚かな人、嫌いな人の頭の中にまで入ることができる。自分が経験していない人生や社会に触れ、異なる立場から書かれた考え方を知ることもできる。ただし、そこで何を受け取り、何を疑い、何を捨てるかは、読者自身に委ねられている。

 知性とは、本棚の長さだけで決まるものではないのだろう。何冊読んだかという数字だけでもない。未知の事実に出会ったとき、自分が知らなかったことを認められるか。自分に都合の悪い証拠を前にしたとき、それまでの考えを修正できるか。複雑な問題を安易に単純化せず、分からないことを分からないまま検討し続けられるか。こうした姿勢は、心理学で測定される知能そのものの定義ではないが、私たちが日常的に「知的な人」と呼ぶ人物像を考えるうえで、大切な要素ではないだろうか。

 本は人を自動的に賢くしてくれる機械ではない。しかし、多様な知識や考え方に触れる機会を与え、語彙や文章理解を発達させる可能性のある道具である。その効果は、読む内容や理解の程度、読者の経験、読書を続ける環境によって変わるとしても、人類が長い時間をかけて蓄積してきた知識や思考を、個人が比較的容易に利用できるという点で、読書には大きな価値がある。

 だから、読書家が必ず知的なのではなく、読書は知的能力の一部を育てる有力な手段の一つである、と考える方が正確なのだろう。そして、その人が本当に知的かどうかを考えるなら、読んだ冊数よりも、何を理解し、何を考え、必要なときに自分の判断をどう改められるかを見た方がよい。

 おそらく、本当に知的な読書家とは、自分が何冊読んだかを誇る人ではない。一冊読むたびに、自分の知らない世界がまだ広がっていることに気づき、その世界を理解するために、もう一度考え直せる人なのである。

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