リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

~高校時代に読んだ太宰治を、六十代になった今から考える~

 高校生のころ、私は本格的に文学を読むようになった。小学生のころは学校から与えられた課題図書を読む程度だったが、中学生になると朝日新聞の「天声人語」を読むようになり、文章を通して社会や時代について考える機会が増えていった。そして高校生になると、書店の文庫本の棚から自分で本を選び、太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成といった作家を読むようになった。文学史を体系的に学ぼうとしていたわけではなく、興味を持った本を手に取り、読み終えるとまた次の本を探すという、ごく自然な読書だった。

 そのなかに太宰治がいた。いま振り返ってみると、太宰という作家には、高校生という年代の読者を引き寄せる何かがあるように思う。それは単に文章が読みやすいからでも、暗い物語を描いているからでもない。高校生という、自分が何者なのかを模索しながら周囲との関係を築いていく時期に抱きやすい感情と、太宰の文章が描く人間の矛盾や不安定さが、どこかで重なるからではないだろうか。

 もちろん、すべての高校生が太宰に共感するわけではなく、ほかの作家より太宰が特別に好まれることを示す十分な比較データがあるわけでもない。それでも、自分自身の高校時代を振り返り、青年期の心理について現在分かっていることも考え合わせると、太宰文学が若い読者に近く感じられる理由を、ある程度説明できるように思う。

 太宰治は1909年に青森県に生まれ、本名を津島修治という。戦後には『斜陽』や『人間失格』などを発表し、1948年6月13日、39歳の誕生日を6日後に控えて亡くなった。文学史上では坂口安吾らとともに「無頼派」などと呼ばれることがあるが、その作品を理解するには、こうした分類や波乱に満ちた生涯だけでは足りない。高校生だった私が向き合っていたのも、作家の伝記ではなく、まず目の前にある文章だったからである。

高校生は、大人でも子どもでもない

 高校生という時期は、子どもとして扱われることに抵抗を覚えながらも、大人として社会のなかに確かな位置を持っているわけではない、独特の年代である。進学するのか、何を学ぶのか、どのような仕事をするのか、自分には何ができるのかと、将来について考える機会が増えていく。しかし、その問いに答えられるほど自分自身を理解しているわけではなく、周囲から求められる将来像と、自分の内側にある漠然とした希望や不安との間で揺れることもある。

 友人との関係も変化し、人からどう見られているのかが気になり始める。勉強や運動の成績、友人の多さ、異性との関係、将来の目標など、他人と比較する材料はいくらでもある。周囲から見れば些細な出来事であっても、本人にとっては自分の存在そのものに関わるほど重大に感じられることがある。もちろん、こうした葛藤の程度には個人差があり、高校生だから誰もが強い不安や自己嫌悪を抱くわけではない。それでも、自分と他人との関係を考えながら、少しずつ自分自身の輪郭を形成していく時期であることは確かだろう。

 発達心理学でも、青年期には自分の価値観や将来の方向性、社会のなかでの役割を探索することが重要だと考えられている。この過程は一般にアイデンティティの形成と呼ばれ、青年期に限らず成人後も続いていく。自分が何者なのかという問いに、一度答えを出せばそれで終わるわけではなく、進学、就職、人間関係、社会的な経験などを通じて、自己理解は何度も組み替えられるのである。

 こうした時期に太宰の文章を読むと、大人になってから読む場合とは違った形で言葉が入ってくるのかもしれない。太宰の作品には、自信を持って世界を説明する人物だけでなく、他人とうまく付き合えず、自分の弱さを自覚しながらも、その弱さから簡単には抜け出せない人物が現れる。人からどう見られているかを過剰に意識し、自分を肯定できず、それでも他人から理解されたいと望む人間の姿は、自分自身について考え始めた高校生の感覚と重なる部分がある。

「弱い人間」が文学の主人公になる

 高校生になるまでに接してきた物語を振り返ると、努力する人、勇気のある人、困難を克服する人が肯定的に描かれる作品が、私の記憶には多く残っている。もちろん、児童文学や古典文学にも弱さや矛盾を抱えた人物は数多く登場するし、困難を乗り越える人間を描くことにも大きな意味がある。ただ、高校時代に太宰を読んだときには、それまでとは違う角度から人間を描く文学に出会ったような感覚があった。

 実際の人間は、それほど単純ではない。努力しなければならないと分かっていても努力できず、向き合うべき問題から逃げてしまうことがある。嫉妬したり、見栄を張ったり、人に好かれたいと思いながら人付き合いに疲れたりすることもある。自分を理解してほしいと願う一方で、本当の自分を知られることには恐怖を覚える。太宰文学には、そうした人間の矛盾が、きれいに整理されないまま描かれている。

 文学のなかでは、立派ではない人間も主人公になれる。自信のない人間にも言葉が与えられ、迷っている人間にも物語がある。これは十代の読者にとって、一つの発見になり得る。文学は理想的な人物や優れた行動だけを書くものではなく、人に見せたくない感情や、自分でも認めたくない弱さまで描くことができる。太宰を読むことによって、そんな文学の一面を知る読者もいるのではないだろうか。

 ただし、太宰文学のすべてが自己嫌悪や孤独を描いているわけではない。『走れメロス』には友情や信頼をめぐる人間の行動があり、『女生徒』には少女の日常の感覚や揺れ動く意識が描かれている。『富嶽百景』のように、生活のなかでの心情の変化をユーモアや繊細な観察を交えて描いた作品もある。太宰文学の魅力は一つの主題に集約できないが、私が高校時代にとりわけ引き寄せられたのは、人間が自分自身とうまく折り合えない姿を描く部分だったように思う。

自己嫌悪をここまで文章にしてよいのか

 太宰の作品を考えるとき、「自己嫌悪」という言葉は避けて通れない。しかし、太宰文学を単に自分を嫌っている人間の文学として整理してしまえば、あまりにも一面的である。重要なのは、自己嫌悪という感情そのものよりも、普通なら隠したくなる感情を、他人が読むことのできる文章に変えているところにある。

 格好の悪さ、臆病さ、虚栄心、他人への依存、自分自身に対する疑いといった感情は、程度の差こそあれ、多くの人間に生じ得るものである。それでも、そうした感情を人前で認めることは容易ではない。特に他人との比較を通じて自分の位置を確かめようとする時期には、自分の弱点が必要以上に大きく感じられることもある。太宰の文章には、人間はそれほど立派な存在ではなく、矛盾や不完全さを抱えたまま生きているのだという感覚が流れているように見える。

 それは積極的な励ましでもなければ、人生の解決策でもない。しかし、自分だけが不完全なのではなく、自分のなかにある説明しにくい感情も文学の対象になり得ると知ることには、一定の意味があるだろう。文学によって問題そのものが消えるわけではないが、これまで自分のなかで漠然としていた感情に、言葉を通して向き合うきっかけが生まれることはある。

 読者と登場人物の関係については、心理学的な研究も行われている。2024年に学術誌に掲載された、39研究、延べ11,077人を対象とするメタ分析では、読者と登場人物との類似性が、登場人物への同一化に与える影響は小さいながらも統計的に認められ、特に心理的な類似性が重要であることが示された。ただし、これは太宰文学や日本の高校生だけを対象にした研究ではなく、読者が登場人物に似ていると感じれば必ず共感するという意味でもない。

 この知見を太宰文学に当てはめるなら、読者が登場人物と同じ境遇にいなくても、恥や不安、他人の目を気にする感覚などに共通するものを見いだしたとき、作品との心理的な距離が縮まる可能性はある。太宰の描く人間が高校生にとって身近に感じられるとすれば、その理由の一つは、年齢や社会的な立場の一致ではなく、感情のあり方に似たものを発見することなのかもしれない。

「道化」という感覚

 太宰文学を考えるうえで、もう一つ重要なのが、人前で演じる自分と、自分自身が感じている内面との距離である。代表作『人間失格』は1948年に雑誌『展望』の6月号から8月号にかけて連載され、同年に筑摩書房から単行本として刊行された。作品は「はしがき」、主人公・大庭葉蔵の三つの手記、「あとがき」という構成を持ち、葉蔵が他人との関係を築くために道化を演じる姿が重要な要素となっている。

 学校生活では、誰もがある程度の役割を持っている。明るい生徒、真面目な生徒、面白い生徒、優秀な生徒、おとなしい生徒といった評価は、本人が意識していなくても周囲との関係のなかで形成される。教師から見た自分と友人から見た自分は異なり、家庭での自分とも違う。それらは必ずしも偽りの姿ではないが、ときには周囲が期待する人物像に合わせて振る舞い、自分の本当の感情を表に出さないこともある。

 人間は社会のなかで、状況に応じて異なる役割を担いながら生活している。それ自体は社会生活に必要な能力であり、人前で振る舞いを変えることが、ただちに不自然さや不誠実さを意味するわけではない。しかし、自分の内面と周囲に見せている姿との距離が大きく感じられるとき、人は自分が何者なのか分からなくなることがある。

 高校生くらいの年代では、周囲に見せている自分と、自分自身が感じている自分との関係について、強い関心を持つことがある。明るく振る舞っていても内心では不安を抱え、周囲に合わせて笑っていても、本当はその場になじめていないと感じることがある。そうした経験を持つ読者にとって、太宰の描く「道化」は、単なる小説上の奇妙な行動ではなく、自分にも理解できる人間の振る舞いとして映るのではないだろうか。

 もっとも、『人間失格』の葉蔵が抱える恐怖や疎外感を、一般的な高校生の日常心理と同一視することはできない。作品に描かれる苦悩は深刻であり、道化という行動も複数の意味を持っている。それでも、他人の前で演じる自分と内面とのずれという問題は、作品の極端な状況から離れても考えることのできる、人間関係の基本的な問いである。

太宰の文章には、読者との距離が近いところがある

 文学作品には、読者が少し離れた位置から風景や人物を眺めるように読む作品がある。客観的な描写を積み重ね、人物の行動や社会の構造を通して物語の世界を築いていく小説である。一方、太宰の作品には、語り手が読者のすぐ近くから自分の内面を打ち明けているように感じられるものがある。

 大きな思想や社会の仕組みを最初から説明するのではなく、語り手の恥ずかしさや戸惑い、他人には言いにくい感情から物語が始まることがある。そのため読者は、登場人物の行動を外側から観察するだけでなく、自分にも似たところがあるのではないかと考えながら読むことになる。もちろん、これは太宰だけに見られる技法ではなく、一人称の語りが常に読者との距離を縮めるわけでもない。しかし、太宰には、語り手の弱さや自己弁護、ときには矛盾そのものを読者に意識させる巧みさがあるように思う。

 ここで忘れてはならないのは、小説の語り手と作者本人は同じではないということである。太宰の作品には作者の経験を思わせる部分もあるが、それらは作品として構成され、言葉を選び、読者にどのように伝わるかを考えて書かれている。自分の弱さを率直に告白しているように見える文章にも、語る順序や表現の選択、ユーモアや皮肉などの文学的な技術が働いている。

 太宰の文章が身近に感じられるとすれば、それは単に内面をさらけ出しているからではなく、その内面を読者が理解できる形に変える表現の力があるからだろう。高校生だった私には、そうした技術を分析する知識はなかったが、それでも文章を読むなかで、人間の内側に近づいていくような感覚があったことは記憶に残っている。

三島由紀夫とは違う入り口

 高校時代に読んだ作家のなかで、三島由紀夫と太宰治を並べて考えると、その違いは興味深い。三島の文章には、言葉の選び方や構成の緻密さ、美しさを強く意識させられるところがあった。美、身体、思想、死といった主題には、高校生だった私には十分に理解できない部分も多かったが、それでも文章そのものの力を感じることができた。

 一方、太宰の場合は、まず人間の側から入ってくるように感じられた。弱さや恥、孤独、自己嫌悪、他人との距離といったものが、文学の主題として直接迫ってくる。三島を読んで「こんな文章があるのか」と驚いたとすれば、太宰を読んだときには「人間はこんなことまで書いてよいのか」と感じたのではないかと思う。

 もちろん、この比較は二人の文学全体を分類するものではない。三島にも自己意識や孤独、人間の弱さを描いた作品があり、太宰にも文章の美しさや構成の巧みさ、豊かなユーモアがある。どちらが優れているという話でもなく、高校生だった私が、それぞれの作品にどのような入り口から接していたかという違いである。

 当時は、こうした区別を意識していたわけではなかった。太宰や三島、芥川や川端だけでなく、片岡義男や三田誠広のような、当時の空気を感じさせる作家も同じ本棚のなかにあった。古典的な文学と同時代の文学を、現在のように明確に分類して読んでいたわけではなく、書店の棚に並んだ文庫本から興味を持った一冊を取り、その一冊が次の一冊へつながっていった。

 文学とは本来、そのようにして読者のなかに入ってくるものなのかもしれない。文学史や作家論を先に学ばなくても、文章から何かを感じ取り、自分なりの理解を持つことはできる。後になって知識が増えれば、そのときには分からなかった別の意味が見えてくることもある。読書の価値は、最初から作品を正確に分析できるかどうかだけで決まるものではない。

高校生だった私は、太宰をどこまで理解していたのか

 六十代になった現在から高校時代の読書を振り返ると、一つ注意しなければならないことがある。それは、当時読んだ本を、現在の知識によって十分に理解していたことにしてしまわないことである。人間の記憶は、過去の出来事をそのまま保存しているわけではなく、その後に得た知識や経験、現在の感情によって、思い出し方が変わることがある。何十年も前の読書体験を語る場合には、この点を意識する必要がある。

 高校生だった私は、太宰が生きた昭和前期の社会を十分に理解していたわけではない。戦前と戦後の価値観の変化、地主階級をめぐる社会背景、当時の文学状況、太宰自身の複雑な人生などについて、体系的に勉強してから読んだわけではなかった。作品のなかで理解できたところまで読み、感じられたところまで感じていただけである。

 しかし、それによって読書の価値が失われるわけではない。文学との最初の出会いは、必ずしも十分な知識に支えられている必要はなく、分からない部分を残したまま読むことにも意味がある。高校生のころには人物の感情に強く反応した作品が、年齢を重ねてから読むと、社会背景や作者の表現技術という別の角度から見えてくることもある。

 同じ作品であっても、読む人間が変化すれば、そこから受け取るものも変わっていく。高校生の私が太宰から何を感じ取ったのかと、現在の私がその読書体験をどう解釈しているのかは、厳密には別の問題である。現在の理解をそのまま過去に投影するのではなく、その違いを認めながら振り返ることが、何十年も前の読書を考え直すうえで大切なのだと思う。

太宰の人生と作品を同一視しない

 太宰治について語ると、どうしてもその生涯が話題になる。複雑な人間関係、心中未遂、酒や薬物をめぐる問題、そして1948年の死など、太宰の人生には文学作品の理解と関係する出来事が数多くある。実際、作者が生きた時代や個人的な経験を知ることによって、作品に描かれた人物や社会のあり方を、より深く理解できる場合もある。

 しかし、作者の人生を知れば作品のすべてが説明できるわけではない。さらに注意しなければならないのは、太宰が苦悩に満ちた人生を送ったから作品が優れているのだと考えてしまうことである。苦しんだから文学者になれるわけではなく、破滅的な生き方そのものに文学的な価値があるわけでもない。

 太宰の作品が読み継がれてきた理由を考えるなら、個人的な経験をそのまま記録したことよりも、それを物語として構成し、人間の感情や矛盾を言葉によって表現する技術に目を向ける必要がある。作品に描かれた苦悩が読者に届くのは、作者が実際に苦しんだからという理由だけではなく、読者がその感情をたどることのできる文章が存在するからである。

 高校生が太宰を読むときにも、作者の人生と作品の価値は分けて考えた方がよい。太宰の生き方をまねる必要はなく、作品に描かれた人物の行動を肯定する必要もない。それでも、人間がなぜ自分自身を否定してしまうのか、なぜ他人との関係に苦しむのかを考えることはできる。文学作品を読むとは、作者や登場人物の生き方をそのまま受け入れることではなく、そこに描かれた人間について自分自身で考えることなのである。

なぜ太宰文学は現在も読まれているのか

 太宰治の『人間失格』や『走れメロス』などは、現在も青空文庫を通じて読むことができる。青空文庫が公開している2022年の年間アクセスランキングでは、ウェブ閲覧版で『走れメロス』が2位、『人間失格』が10位、『斜陽』が34位に入り、複数の太宰作品が多くのアクセスを集めていた。紙の文庫本だけでなく、インターネット上でも太宰作品に接する機会が存在してきたことを示す数字である。

 ただし、このアクセス数を、そのまま読者数や読了者数と考えることはできない。同じ人が異なる時期に作品へアクセスすることもあり、学校の授業や課題のために閲覧する場合もある。さらに、アクセス記録から読者の年齢を特定することはできないため、この数字だけを根拠に、太宰が現在の高校生に特別な人気を持っていると結論づけることはできない。

 太宰文学が若い読者に接する機会を持ち続けている背景には、学校教育の影響も考えられる。『走れメロス』は中学校の国語教材として広く知られており、授業を通じて太宰という作家を知る生徒もいる。一方で、高校の国語教育における文学作品の扱いは、科目や学校の教育課程によって異なる。学校で読むことと、自分の関心から作品を選んで読むことは、読書の動機として区別する必要があるだろう。

 私自身の高校時代を考えると、書店の棚から自分で文庫本を選んでいたことは、読書体験の重要な部分だった。誰かから読むように指示されたのではなく、題名や作家の名前、あるいは何となく気になった一冊を手に取る。そのようにして出会った作品だからこそ、当時の自分の関心や心理状態と結びついて記憶に残った可能性もある。

 太宰が生きた昭和と、現在の高校生が生きる令和では、社会環境は大きく違う。私が高校生だったころには、スマートフォンもインターネットもなく、本を探す場所は主に書店や図書館だった。現在は作品名を検索すれば、本文だけでなく、解説や感想、作者の経歴など、多様な情報に容易に接することができる。その変化は読書への入り口を広げる一方で、作品を読む前に他人の解釈を知る機会も増やしている。

 しかし、情報環境が変わったからといって、人間が他人の目を意識することや、自分自身について考えることがなくなったわけではない。自分は何者なのか、人間関係のなかでどこまで自分を出してよいのか、他人に合わせている自分と内面で感じている自分はどのような関係にあるのか。こうした問いは、昭和の高校生にも令和の高校生にも生じ得るものであり、そこに太宰文学を現在の読者が理解するための接点があるように思う。

SNS時代の高校生と「他人に見せる自分」

 現代の高校生を考えるとき、SNS(Social Networking Service・インターネット上で人と交流し情報を発信するサービス)の存在を無視することはできない。プロフィールや写真、短い文章、他人からの反応などを通じて、自分が周囲にどう見られているかを意識する機会がある。学校や家庭とは異なる場で自分を表現できる一方、他人の生活や評価が目に入りやすく、比較の対象が身近な友人関係の外側にまで広がることもある。

 2025年に刊行された、32研究、延べ19,658人を対象とする青年期のSNS利用と自己形成に関する体系的な研究レビューでは、SNS上での他人との比較が、自己探索やアイデンティティに関する苦悩と関連していることが報告されている。一方、自分をありのままに表現することは、自己理解の明確さと関連しており、SNSの利用時間の長さだけでなく、そこで何をするかが重要であることも示されている。

 ただし、これらの研究結果は、SNSが必ず心理的な不安を強めることを意味しない。利用する人の性格や生活環境、交友関係によって影響は異なり、心理的な特徴がSNSの利用行動を左右している可能性もある。また、昭和の高校生と令和の高校生のどちらが、他人の目をより強く意識しているのかを、この研究だけで判断することもできない。

 それでも、太宰文学に描かれた、人前で演じる自分と内面との距離という問題は、現代の情報環境のなかでも考える価値がある。他人からどう見られているかを気にし、周囲に合わせて自分を表現しながら、ときには本当の自分が分からなくなるという経験は、時代が変わっても起こり得る。『人間失格』に描かれた道化のあり方を、そのまま現代のSNS利用に当てはめることはできないが、他者との関係のなかで自己を形成するという問題には、共通する部分があるのではないだろうか。

 太宰文学が古くならない理由を考えるなら、社会の仕組みが変わっても、人間が自分と他人との関係に悩むことはなくならないという点に注目したい。もちろん、それだけで太宰が若い読者に支持される理由をすべて説明できるわけではない。作品の知名度、教育環境、入手しやすさ、読者の趣味など、さまざまな条件が重なって読書は成立する。それでも、作品に描かれた感情を自分自身の経験と結びつけられることは、時代を超えて文学が読まれる理由の一つになり得ると思う。

太宰を読むことは、自分の弱さを肯定することではない

 太宰を若いころに読むことについては、一つ注意しておきたいことがある。それは、弱さを描いた文学を読むことと、弱さそのものを美化することは違うという点である。孤独を描いた作品を読むことは、孤独であることを価値ある生き方として選ぶことではなく、自己嫌悪を描いた作品に共感することも、自分を否定し続けることを肯定するものではない。

 文学は人生の処方箋ではない。太宰を読めば悩みが解決するわけでもなく、作品に強く共感したからといって、その人の心理状態が改善するとは限らない。反対に、暗い作品を読むことがすべての読者に悪い影響を与えると考えるのも、根拠の乏しい単純化である。文学との関わり方は読者によって異なり、同じ作品でも、そのときの心情や経験によって受け取り方が変わる。

 大切なのは、作品に描かれた感情を、自分自身や他人について考える材料にできることである。人は、自分の感情をいつでも正確に説明できるわけではない。漠然とした不安や違和感、人には言えなかった恥ずかしさなどが、文学のなかで言葉になっているのを見つけたとき、これまで説明できなかった自分の感覚を考え直すきっかけが生まれることがある。

 しかし、その感覚を得られるかどうかは、作品と読者の関係による。太宰の文章に救われたように感じる人もいれば、理解できない人や、むしろ距離を置きたくなる人もいるだろう。いずれも読書の反応として不自然ではなく、太宰を理解できることが人間への理解の深さを示すわけでもない。

 文学の価値は、読者全員に同じ感情を与えることではない。作品を通じて、これまで自分が気づかなかった考え方や感情に触れ、人間についての理解を広げる可能性があることに意味がある。太宰文学もまた、人間の弱さを肯定するためではなく、弱さや矛盾を含めた人間の姿を考えるために読むことができるのである。

六十代になった今、太宰を考える

 高校生だったころと現在とでは、私自身が生きてきた時間がまったく違う。仕事をし、社会の仕組みを知り、科学や医学、経済、政治、技術など、文学以外のさまざまな分野の本も読むようになった。成人後の読書は、特定の分野にとどまることなく広がっていったが、それでも高校時代に文学を読んだ経験は、いまも自分のなかに残っている。

 その意味を現在から考えると、文学は正しい人間像を教えるものではなかったのだと思う。太宰治の文学も、人間はこう生きるべきだという明確な答えを示しているわけではない。むしろ、人間は弱い部分もあれば強い部分もあり、善良なこともあれば、ずるいこともあるという、簡単には整理できない現実を描いている。人を求めながら人から離れたいと思い、自分を理解してほしいと願いながら、自分を知られることを恐れる。そうした矛盾を抱えていることが、人間の一つの姿なのだろう。

 十代のころは、その矛盾を自分自身の問題として感じることがある。自分だけが周囲とうまくかみ合わないのではないか、自分だけが不完全なのではないかと考えることもある。しかし、年齢を重ね、さまざまな人間と接し、社会のなかで経験を積むと、そうした矛盾は自分だけに特有のものではなく、人間一般に生じ得るものだと理解できるようになる。もちろん、年齢を重ねれば誰もが人間を深く理解できるというわけではないが、経験によって物事の見え方が変わることは確かである。

 現在の私が太宰を考えるとき、高校生だった自分が作品のどこに引き寄せられたのかを、当時よりも少し整理して説明できるようになった気がする。ただし、それは当時の自分が太宰を十分に理解していたという意味ではない。むしろ、理解できない部分を残しながら読んでいたからこそ、何十年も経った現在になって、別の意味を見いだす余地があるのだと思う。

 太宰治の文学が高校生の心に入り込む理由も、そこにあるのかもしれない。高校生に人生の答えを教えるからではなく、自分でもまだ説明できない問いや感情が、すでに文学のなかに描かれているからである。登場人物に共感することもあれば、理解できないこともある。それでも、その作品を読んだ経験が記憶に残り、後になって自分自身を振り返る手がかりになることがある。

 太宰がすべての高校生に特別な作家であるとは思わないし、どの作家の作品が心に残るかは人によって違う。ただ、少なくとも私にとって、高校時代に太宰を読んだことは、人間の弱さや矛盾を文学として考える入り口の一つになった。それが当時の自分にどのような影響を与えたのかを正確に測ることはできないが、六十代になった現在も、その意味について考えていること自体が、あのころの読書が残したものなのだろう。

 本を読むということは、作品を読むだけではない。何十年も経ってから同じ作品を思い返すとき、そこには現在の自分の理解だけでなく、かつてその作品を手に取った自分の姿も重なっている。高校生のころには分からなかったことが、年齢を重ねてから見えてくる一方で、当時にしか感じられなかったものもある。その両方を含めて、読書は人生のなかに残っていく。

 本を読むということは、かつてその本を読んだ、自分自身を読み返すことでもあるのだと思う。

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